トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

因美線の栄光の時代を伝える、JR美作加茂駅

2019年02月27日 | 日記

JR因美線の美作加茂駅です。因美線は、津山駅から智頭駅をつなぐ単行気動車が走るローカル路線になっていますが、かつては、津山線とともに、山陽(岡山駅)と山陰(鳥取駅)を結ぶ陰陽連のメインルートとして”急行 砂丘”も走る鉄道でした。平成6(1994)年に、山陽本線の上郡駅と智頭駅をむすぶ第三セクターの智頭急行が開業し、平成9(1997)年に、岡山駅から鳥取駅に向かう”特急スーパーいなば”が智頭急行線を走るようになって、ローカル鉄道に変わってしまいました。
JR土師駅を訪ねた日、かつて、”急行砂丘”の停車駅だった美作加茂駅を訪ねてきました。

土師駅を出発した列車は30分程度で、2面2線の美作加茂駅のホームに入りました。因美線は、大正8(1919)年、因美軽便線として鳥取駅・用瀬(もちがせ)駅間が開業したのに始まります。その後、鳥取駅から南に、津山駅から北に延伸し、全線が開業したのは、昭和7(1932)年に、智頭駅と美作河井駅間が開業したときでした。この年、因美線と改称しています。

進行方向左側、津山駅行きの列車が停車する1番ホームに到着しました。ここで、私を含めて2名の乗客が下車しました。美作加茂駅は、昭和3(1928)年3月15日、因美線が、津山駅からここまで延伸してきたときに、東津山駅、高野駅、美作滝尾駅とともに開業しました。3年後に、美作河井駅まで延伸開業するまで、終着駅となっていました。

下車した1番ホームから津山方面を見ます。ホームの左側に側線の車止めが見えます。ホームの先の側線には、作業車に雪を除ける設備をつけたようなラッセル車が停車していました。美作加茂駅を訪ねた前日は、降雪のため、列車ダイヤが乱れた一日でした。ラッセル車の出番もあったのかもしれません。

側線の車止めの辺りから見たラッセル車のいる側線です。側線の左側にホームが見えます。かつて、貨物の積み下ろしに使われていたところです。

下車したホームの向かい側、2番ホームの待合室のガラスには、「祝因美線開業90周年おめでとう!」という掲示物と、公郷(くごう)保育所の園児の塗った電車の塗り絵が展示されていました。大正8(1919)年12月に鳥取駅・用瀬駅間が開業した因美線は、平成30(2018)年に、開業90周年を迎えています。

美作加茂駅は、三浦駅から3.5km、知和まで3.8kmのところ、津山市加茂町桑原にあります。平成の大合併で津山市になるまでは、岡山県苫田郡加茂町にあった駅でした。美作加茂駅が開業してからは、この地で産出する木材、木炭、米や柿などが鉄道輸送に転換し、駅周辺に町並みが形づくられていったといわれています。

一番ホームから智頭駅側に向かって見た駅舎です。こちら側から見ると、昔なつかしい駅舎といった印象です。現在のモダンな駅のイメージが一変します。

ホームの先の風景です。中国山地の中央に位置しており、四方を山に囲まれた自然豊かな地域です。中国山地に数多くある、古くから”たたら製鉄”で栄えてきたところの一つです。

1番ホームを鳥取駅方面に向かって歩きます。智頭駅方面に向かう列車が停車する2番ホームに向かう人のための構内踏切が、設置されていました。踏切に降りる石段に並んでスロープもつくられていました。

ホームの鳥取方面の端から見た構内踏切と2番ホームの光景です。

2番ホームの木造の待合室です。線路寄りの窓には、先ほど見えた「祝 因美線開通90周年おめでとう!」の掲示があります。

待合室の内部です。造り付けのベンチがあるだけのシンプルなつくりです。きれいに掃除がなされていました。

構内踏切から見た1番ホームです。駅名表の向こうに駅舎が見えます。中央のドームが美しい駅舎です。現在の駅舎に改築されたのは、平成15(2003)年6月のことでした。

構内踏切から1番ホームに戻ります。石段とスロープが並んでいます。

1番ホームの待合いのスペースです。駅舎は改築されましたが、ホーム側はかつての姿をよく残しているといわれています。造り付けのベンチと下見板張りの壁面に写真や掲示物が並んでいます。いずれも、因美線関係の資料です。

改札から駅舎に入ります。美作加茂駅は、津山駅・智頭駅間では、唯一の簡易委託駅になっています。

改札から駅舎内に入ります。木の香りのするような駅舎です。壁面から天井にかけて、掲示物がぎっしり並んでいます。ベンチの後ろにはトイレがあります。

こちらは、改札から見た右側の駅事務所です。美作加茂駅は、窓口業務だけを委託する簡易委託駅です。駅舎内に職員の勤務時間が掲示されていました。「平日、土曜、祝日の午前6:30~午前9:30 午後3:00~午後6:00」だそうです。残念ながら、この時間は、勤務時間外、窓口は閉まったままで職員の方は勤務されていませんでした。

駅舎内にあった時刻表。智頭駅方面行きの列車の出発時間を見に来られた地元の方が、「ひゃー」といって出て行かれました。智頭方面行きの列車は1日7本運行されています。次の智頭行きの列車は15時08分発。1時間20分ほど先になります。最もインターバルが長いのは、7時14分発とその次の12時04分発の間で、約5時間ありました。

駅舎内に展示されていた新聞記事です。平成30(2018)年3月15日は、因美線開業90周年にあたっていました。この日、「因美線を元気にする会」の人たちを中心に行われた、記念行事の模様が報道されていました。「駅舎やホームには、因美線開業90周年を祝う掲示がなされ、美作加茂駅発13時34分の列車の運転士さんに花束が贈られた」と記事には書かれていました。

駅舎内に掲示されていた、”急行砂丘”の写真です。このほか、因美線の開業までの経緯や、蒸気機関車(SL)の写真などたくさんの展示物が因美線を愛する人々によってつくられていました。

その中に、かつての美作加茂駅の駅舎の写真もありました。

駅から外へ出ました。現在の駅舎です。美作加茂駅の周辺は、中国山地の木材の山地で、製材工場も多いところです。思わず引き込まれてしまう美しい木造駅舎の姿です。駅舎の雰囲気にあわせて、丸いポストが設置されたそうです。

駅舎前にあった「鐵道70周年記念 發起者 美作加茂駅長 中安梅蔵」と刻まれた、「鉄道70周年の石碑」がありました。「昭和17(1942)年10月14日建立」と刻まれています。昭和17年が70周年といえば、明治5(1972)年。明治5(1872)年9月12日、新橋・横浜間(29km)に、日本で初めて鉄道が敷設されたことを記念する石碑のようです。

駅舎の入口付近にあった駅周辺の地図です。駅舎のある加茂町桑原地区の隣に、「90周年記念」の塗り絵を描いた保育所がある公郷(くごう)地区があります。公郷地区の人々の氏神様、加茂神社が書かれていました。地図に「秋草双雀鏡」とも書かれています。加茂町指定の文化財、第1号に指定された文化財で、平安時代の青銅鏡です。加茂神社を訪ねてみることにしました。

加茂神社への道がわかりません。通りがかった人にお尋ねすると、「駅前の通りを右に100メートルぐらい進むと案内標識がありますから左に入ったら行けますよ」とのこと。すぐに製材工場がありました。さすがに、昔からの木材の町だと思いました。

先に進みます。続いて、右側にもう一つの製材工場。左側の「藤の木公会堂」を過ぎると、カーブミラーに案内標識「加茂神社 → 」がありました。美作加茂駅方面に向かってつくられています。この小さい交差点を右に折れると20メートルぐらいのところに、藤の木第3踏切にがあります。

反対側の左に折れて進みます。ここから、道なりに20分ぐらい進んでいくと、川沿いの道になりその先で右折して川を渡ると、正面の山に向かって上ることになります。右側の「圃場整備完成碑」を過ぎると正面に鳥居が見えました。

加茂神社の鳥居です。加茂神社はもとは杉大明神といわれていたそうです。加茂神社に改称されたのは、明治6(1873)年。そして、明治15(1882)年に文化財第1号の「秋草双雀鏡」が裏山から発掘されたそうです。石段を上がり鳥居の下をくぐりさらに上ります。

山の中腹にあった加茂神社の拝殿と本殿です。神社の下に公郷保育所、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきました。


平成15(2013)年6月に改築が終わり、JR美作加茂駅は、木造のモダンな駅舎に生まれ変わりました。
駅舎内は、地元の人々の記憶の中にある因美線の展示館になっていました。陰陽連絡路線のメインルートとして輝いていた栄光の時代の因美線に触れることができたJR美作加茂駅の旅でした。

JR因美線土師駅に行ってきました

2019年02月16日 | 日記

これは、JR因美線の美作加茂駅の駅舎に飾ってあった急行”砂丘”の写真です。山陽本線の岡山駅と山陰本線の鳥取駅間を結んでいる津山線・因美線を走っていた花形列車でした。平成6(1994)年に智頭急行が開業するまで、津山線・因美線は山陽と山陰を結ぶメインルートでした。

津山線から因美線への乗り継ぎ駅である津山駅にあった運賃表の一部です。この日使用したきっぷは、JR西日本岡山支社管内の一日乗り放題きっぷである「吉備之国 くまなくおでかけパス」でした。乗り放題ができるのは岡山支社管内だけであり、津山線・因美線では、土師(はじ)駅まで使用できます。そんな理由で、土師駅を訪ねてみることにしました。因美線から感じる山間のローカル線の雰囲気に惹かれ、美作滝尾駅(「JR因美線の登録有形文化財の駅、JR美作滝尾駅」2011年5月14日の日記)、知和駅(「JR因美線の秘境駅、知和駅」2014年4月24日の日記)、美作河井駅(「転車台が出てきた岡山県境の駅、JR美作河井駅」2012年7月13日の日記)、那岐駅(「改札口から続く急な階段のある駅、JR那岐駅」2017年10月27日の日記)は、すでに訪ねて来ました。

津山駅発の因美線の時刻表です。鳥取駅まで直通する列車はなく、智頭駅行きの列車が7本、美作加茂駅行きの列車が3本設定されています。この日は、11時35分発の列車に乗車しました。早朝の6時42分発の列車から約5時間後に発車する、次の列車でした。

因美線の列車が発着する1番ホームに、智頭駅行きの列車が入線してきました。キハ120330号車、単行のワンマン運転のデーィゼルカーです。因美線は、大正8(1919)年に鳥取駅と用瀬駅間が、因美軽便線として開通したことに始まります。その後、因美線と改称され、大正12(1923)年には智頭駅まで延伸しました。そして、昭和3(1928)年には因美北線に改称されました。一方、津山駅側からは、昭和3(1928)年に因美南線として美作加茂駅までが開業し、昭和6(1931)年には美作河井駅まで延伸しました。 津山駅で6人の方が乗車されて、智頭駅行きのワンマン列車が出発しました。

因美線で最長の物見トンネル(3077m)が近づいて来ました。岡山県と鳥取県の県境にあるトンネルで、抜けると鳥取県。鳥取県の最初の駅、那岐駅に向かって進みます。 智頭駅まで開業していた因美北線は、昭和7(1932)年、智頭駅からさらに美作河井駅まで延伸し、因美線は全通することになりました。このとき、那岐駅とめざす土師駅とが開業しました。因美北線は、全通すると因美南線を吸収し、全線を因美線に再度改称しました。

乗客は10人ぐらいになっていました。やがて、右側に1面1線の土師駅が見えてきました。津山駅から約1時間ぐらいで土師駅に到着しました。

土師駅は、鳥取県八頭郡智頭町三吉にあります。那岐駅から2.9km、次の智頭駅まで3.7kmのところにありました。

「吉備之国 くまなくおでかけパス」を運転士さんに見せて下車しました。下車したのは1人だけで、列車はすぐに、次の終着駅智頭駅に向かって出発していきました。

智頭駅方面に向かってホームを歩きます。駅名標の脇には、近くの民家が接しています。土師駅は、昭和7(1932)年に、智頭駅から美作河井駅間が開業したときに開業しました。土師駅は、当時の鳥取県八頭郡土師村の最寄駅として設置された駅で、開業当初から1面1線の駅だったようです。

民家とホームの境には清水が流れる小さな川があります。その先は民家の下に入って行くようです。

ホームの智頭駅側から見た那岐駅方面です。越えてきた中国山地が遠くに見えます。

ホームへの入口付近にあった枕木の柵です。かつての駅にはおなじみの光景ですが、最近は都市の駅からは消えてしまいました。土師駅に残っていた懐かしい光景です。

ホームの真ん中あたりに、老朽化した駅舎が解体された後につくられた、待合室がありました。ホームへの入口と、駅前広場が見えます。

待合室の内部です。両側に4脚のベンチが置かれ、時刻表と運賃表が掲示してあるだけの簡素なつくりでした。地元の方のご尽力でしょう、プランターに植えられていたお花が、潤いを与えてくれていました。

ホームの那岐駅寄りの先端です。切り欠きのホームの先に、レール跡の名残りが残っていました。八頭郡土師村は、明治36(1903)年に旧八頭郡中田村が「土師村」と改称されて生まれました。伝統的に林業が盛んな地域だったようです。

特産の木材の積み出し駅だった頃には、ここで貨車への積み下ろしが行われていたそうです。ホームに上がる石段も残っていました。

待合室の脇から駅前広場に出ます。八頭郡土師村は、その後、昭和10(1935)年に同じ八頭郡の山形村、那岐村とともに智頭町に編入され、八頭郡智頭町の一部になりました。

駅前の那岐寄りにつくられていた自転車の駐輪場です。広い敷地がかつての繁栄の様子を伝えてくれています。

駅前の通りです。岡山県津山市に向かう備前街道の津山方面です。土師駅の東には「埴師」という地名が残っています。「土師」という地名は「はにし」が変化したもので、古代に、土器や埴輪の製作をしていた人々が居住していたところに多く分布しています。古くから開けた、長い歴史のある地域だったと思われます。

駅の外側から駅舎跡を撮影しました。待合室が小さく見えています。

因美線の智頭駅方面の集落です。その脇を因美線の線路が北に向かって延びていました。

中国山地を越えた鳥取県にある土師駅を訪ねて来ました。この日は、帰りに美作加茂駅も訪ねることにしていましたので、土師駅での滞在は、乗車してきた列車が、智頭駅から折り返してくるまでの30分余りの短い時間でした。もっと見どころがあったのに見落としてしまったかもわかりませんが、中国山地の山間の農山村の雰囲気を味わうことができました。



地球儀を模した交流館がある駅、JR社町駅

2019年02月07日 | 日記

地球儀を模したといわれる丸い屋根の建物が、駅舎に接して建っています。この駅は、JR加古川線の社町駅(やしろちょうえき)。ドーム状の建物は「交流ふれあい館」と呼ばれており、待合室としても使われています。

この日は社町駅を訪ねるため、JR加古川駅の5番ホームに向かいました。ホームでは、西脇市駅行きのワンマン運転の単行列車(クモハ125ー9)が出発を待っていました。JR西日本で初めての単行運転ができる新造車として、平成15(2003)年小浜線が電化された時に、デビューした、125系電車でした。

乗車した125系電車の内部です。座席の配置が2列と1列で、広い通路が確保されています。加古川線が電化されたのは、平成16(2004)年12月のことでした。平成7(1995)年に起きた阪神・淡路大震災で大きなダメージを受けたJR神戸線(山陽本線)の迂回路線として、その重要性が再認識されたことによる電化でした。電化のための事業費は65億円。45億円をJR西日本と兵庫県、周辺の自治体が負担し、残る15億円は周辺地域の人々の募金など民間で負担したといわれています。

神戸高速と北条鉄道が分岐する粟生(あお)駅から西河合駅、青野ヶ原駅と停車してきた列車は、加古川駅から40分ぐらいで、社町駅に到着し、駅舎の向かい側の下りホームに停車しました。前の駅である青野ヶ原駅から2.9km、次の滝野駅まで3.1kmのところにありました。

列車は次の滝野駅に向かって出発していきました。列車が通過すると、下車した乗客は西脇駅方面にある構内踏切を渡り、駅舎に向かって移動して行きました。社町駅は、兵庫県加東市滝野町河高にあります。加東市は、平成28(1016)年に、旧加東郡の社町、滝野町、東条町が合併して成立しました。駅名は、合併で消滅した加東郡社町からつけられていますが、駅舎は、旧加東郡滝野町の中に設置されています。

下りホームの加古川駅寄りから見たホームの全景です。2面2線のホームが見えました。下車した下りホームには西脇市駅方面行きの列車が、駅舎寄りの上りホームには加古川駅方面行きの列車が停車することになっています。駅舎側の線路はまっすぐホームを抜けていますが、いわゆる”1線スルー”の構造にはなっていないようです。右側の上りホームの上屋の向こうにドーム状の屋根が見えました。

西脇市駅方面に向かって下りホームを歩きます。駅名標の先に2ヶ所に分かれた待合いスペースがありました。それぞれ3脚のベンチが設置されています。社町駅は、大正2(1913)年播州鉄道によって国包駅(くにかねえき・現在の厄神駅)と西脇駅間が開業した時に、「社口駅」として開業しました。そして、大正5(1916)年11月に「幡鉄社駅」と改称されました。

大正12(1923)年には路線が播丹鉄道に譲渡され、播丹鉄道の駅になりました。下車した乗客が渡った構内踏切です。その10メートルぐらい先には社踏切がありました。

現在の「社町駅」に改称されたのは、昭和18(1943)年、幡丹鉄道が国有化され国有鉄道加古川線の駅になったときでした。構内踏切の途中から見た上りホームです。ホームのすぐ後ろに交流ふれあい館が見えます。

上りホームを駅舎に向かって歩きます。下りほームと同じように3脚のベンチが置かれていました。社町駅が無人駅になったのは、国鉄分割民営化後の平成2(1990)年10月1日のことでした。

改札口前には、高齢者や障害のある人のためにバリアフリーの通路も整備されていました。社町駅舎が現在の建物になったのは、平成16(2004)年の電化に伴って、開業時から使われてきた旧駅舎が改築されたときでした。

駅舎を抜けた後、ホームに向かって撮影しました。自動改札機の左側にはトイレ、右側の壁には時刻表が、手前には運賃表と自動券売機がありました。

自動券売機の右側です。交流ふれあい館の入口です。「国立大学法人 兵庫教育大学 地域交流コーナー 交流ふれあい館」と書かれていました。近くの方に「大学の施設なのですか」とお尋ねしたのですが、地元の方ではなく出張中ということで、はっきりとはわかりませんでした。電化の際に、駅舎が改築されたといわれており、兵庫教育大学も協力されたのでしょう。

交流ふれあい館の内部です。エアコン付きで様々な展示物がありました。駅の待合室も兼ねていますが、多くの駅舎の待合室とは異なった雰囲気が漂っていました。

ドーム状の屋根を支える工法は「KT木トラス」といわれています。写真はトラスの接合部です。接合部にあるスプリングのボルトを引き込ませた状態で穴の中に入れ、外側から回してネジを穴の中に入れていく接合により、強く美しい空間構造を創り出しているといわれています。

駅舎前に出ました。小さな駅舎に比べ、地球儀を模した交流ふれあい館は迫力十分でした。


「社町駅」の名前は、合併によって消滅した旧加東郡社町に由来していました。「社町」は、佐保神社の門前町として繁栄してきた、文字通り「社のある町」でした。佐保神社は、社駅から3kmぐらい離れた社町の中心地に鎮座しています。佐保神社をめざして歩くことにしました。

社町駅前からまっすぐ社町の中心地に向かって歩きます。福田橋で加古川を渡りました。JR加古川線では、社町駅だけでなく、どの駅も町の中心地から遠く離れた、加古川に近いところに設けられています。鉄道の開通以前は、加古川を上下する舟運によって物資の輸送が行われており、加古川線を開業させた播州鉄道は、加古川を利用した船による輸送を引き継ぐことを目的に、鉄道の路線を開設し、水運の拠点があったところに駅を設置したからでした。

福田橋から見た加古川の上流側です。右側に見えるのは、”JAみのり カントリーエレベーター”の建物です。

こちらは下流側です。かつては、荷物を満載した多くの船が行き交っていたはずです。福田橋からさらに進みます。

福田橋から続く道路の向こうから神姫バスの定期バスがやっていました。左に分岐する道がありました。バスが走る道路の旧道だと思いました。佐保神社の縁のものがあるのではないか思い、旧道を進むことにしました。

左側に鳥居がありました。扁額には「佐保社」と書かれていました。佐保神社に縁のある鳥居でした。通りの左側にありましたので、保存するために移設されたのでしょう。佐保神社は延喜式神明帳にある「坂合神社」とされている式内社で、第11代垂仁天皇の時代の創建とされています。この地に移ってきたのは養老6(722)年。戦国期に荒廃していましたが、江戸時代に入り姫路藩主池田輝政の祈願所となり復興したといわれています。「坂合神社」から「佐加穂神社」に、そして現在の「佐保神社」に、神社名が変わってきたそうです。

佐保神社は、鎌倉時代に朝廷や幕府の崇敬を集め、八丁四方に「内の鳥居」、一里四方に「外の鳥居」を造営したといわれています。その中の「酉の内の鳥居」は、今もこのあたりの集落の地名(「鳥居」)として残っているそうです。しかし、この鳥居には「文化六年」と刻まれていました。江戸時代に再建されたもののようです。

傍らにあった石標には、「本社江八丁」と刻まれていました。さらに、先に進みます。

国道175号の交差点に着きましたが、横断歩道がありません。左に迂回して、「社総合庁舎前」の交差点で、定期バスが走っていた新道に合流しました。

交差点を左折して進みます。左側の動物病院の先で、旧道と合流します。

県道567号と交差する社交差点です。「佐保神社」の案内標識が見えました。

標識の先を左折して、佐保神社の参道に入ります。瑞神(ずいしん)門です。入母屋造りの銅板葺き、桁行5.8m、梁間8.5m、高さ10.5mあるそうです。江戸時代後期の建築で、加東市指定の文化財になっています。

瑞神(ずいしん)門から境内に入ります。能舞台の先にあった入母屋造りの拝殿と、神社建築に多い流造り、銅板葺きの本殿です。本殿の向かって右の東殿には天照大神、中央の中殿には、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、左の西殿には大己貴命(おおなむちのみこと)がそれぞれ祀られているそうです。

待合室としても使われている、地球儀を模したドーム形の交流ふれあい館のあるJR社町駅を訪ねてきました。駅舎は滝野町にありますが、加古川の舟運の基点として、また、佐保神社の門前町として栄えてきた社町の玄関口としての役割を果たしている駅でもありました。