トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

アサムラサキの挑戦

2010年10月29日 | 日記
かき醤油で、全国に知られているアサムラサキ。
先日、会社見学に行ってきました。

岡山県笠岡市にある本社工場の部屋で、
品質管理部長の説明を聞きました。

アサムラサキは、今年で創業100年を迎える醤油会社です。
全国に1500軒もある醤油会社の中には、
300~400年の歴史をもっているものもあり、
比較的新しい醤油会社といっていいでしょう。

大正12年には、宮内省(当時)御用達となり、
「朝紫」の名を賜ったといいます。

それでも、醤油業界大手は1リットル数百円程度で供給し、
品質も安定しています。
朝紫ぐらいの規模では、全国に打って出るのは困難だったといいます。

そこで、目を向けたのが、醤油関連の付加価値商品の開発でした。


昭和46年、めんつゆ「麺どろぼう」を、
昭和47年、焼き肉のたれ「肉どろぼう」を発売しました。
そして、昭和51年、現在の「アサムラサキ」に改名し、
平成14年、私が訪問した岡山工場を笠岡市に建設しました。

平成4年に発売した「かき醤油」は、
今では、売り上げの7割を占める基幹商品になっています。

現在では、かき醤油やめんつゆのほか、
ドレッシング、関連会社で生産するラーメンまで、
300種類に及ぶ商品を生産しています。

今年度は、モンドセレクションで、「かき醤油」が2年連続最高金賞を受賞。
「ごまだれ」「クルミドレッシング」が3年連続金賞を受賞しました。
説明を聞いた部屋に、たくさんの表彰状が掲示されていました。
品質管理部長さんも誇らしげに語っておられました。

続いて、工場見学。
企業秘密か、見せてもらったのは、主に製品の梱包部分でした。
醤油会社といえば、湿気が多くじっとりとしていて、
こけが生えているような雰囲気のところが多いのですが、
ここは機械化が進んでいて清潔で明るい雰囲気でした。
梱包部門では、ロボットが大活躍していました。

新工場をつくった年、大手乳製品メーカーの
大腸菌混入事件が起きています。
「安全、安心」が損なわれると、
企業の存立自体が危うくなると感じたと言っておられました。

その後は、もう一度説明を受けたところに帰り、
ドレッシングの試食をしました。


そして、お試しセット。

これだけで、1000円でした。
「3000円 → 1000円」と書いてありました。
通常3000円なのでしょうか。

説明では、全国に出荷し、ヨーロッパ15ヶ国、アメリカ、アジアにも
輸出しているそうです。
年間売上、21億円の優良企業でした。

円高の進行で景気がよくないこともあって、
なかなか浮揚しない日本経済ですが、
地場の企業ががんばっている様子を見せていただいて、
少し元気が出ました。

最後に、ドレッシングをおみやげにいただいて、
工場を後にしました。



ふるさとの光景 ・・・ 早島町

2010年10月25日 | 日記
岡山市に隣接する都窪郡早島町、
平成の大合併の時にも、自主独立を貫いた誇り高い町。

四国街道沿いに白壁の商家が並ぶ、「陣屋町」でした。
最近、JR早島駅前に、早島の古民家を再建した、
「白壁つくり」の「早島町観光センター」がつくられています。

また、役場の向かいには、生涯教育施設「ゆるびの舎」があります。

早島近辺は、いわるゆる古代の「吉備の穴海」にあたり、
室町時代までは、早島という名前のとおり、島だったところです。
干拓によって陸続きになって行きました。


庭瀬藩主の戸川達安の子、
戸川安尤(やすとも)が3400石を与えられたことに始まる、
陣屋町でした。

2安明の子、安通が、
元禄15(1702)年、備中の国中島村(現倉敷市)に400石を分けられて、
3000石となり、13代安宅のとき明治維新を迎えました。

陣屋は、安明のときに建築が始まり、
17年の歳月をかけて、宝永6(1709)年に完成しました。

明治になって取り壊され、
現在は、陣屋の入り口にあった石橋がそのまま残されています
  
旗本の戸川氏は普段は江戸におりましたが、
その陣屋跡が、早島小学校に隣接したところにありました。
今は、陣屋跡の書物蔵を改修した「戸川氏記念館」がつくられています。


江戸時代に中期以降、町の中心を金比羅往来がとおり、
その街道沿いに、たくさんの商家が建てられました。

明治になって、国家老2名も東京に移り、
陣屋町の為政者は、大地主や豪商のもとに移りました。

駅前に立つ「畳表の早島」の大きな看板のとおり、
水島のコンビナートができるまでは、
近隣の産地からのい草を使った畳表の産地として有名でした。

畳表、経糸(たていと)などの問屋であった、
豪商寺山家は、早島町の文化活動の拠点に改装され、
「いかしの舎」と名づけられました。
「いかしの舎」は「盛りに足りて厳か」という意味だそうです。


私にとっての早島は、桜の名所の早島公園でした。
幼い頃からよく花見に行ったものでした。
また、習字の会で小学校にも毎年行っていました。
今は、昔と全然異なるすばらしい校舎です。

山陽自動車道のインターチェンジができて、
ずいぶん様相が変わりましたが、
今も昔のとおりの、「都窪郡早島町」です。

「いかしの舎」や「ゆるびの舎」、「早島町観光センター」などの、
施設を活用して、
伝統的なよさを生かしながら、
新しい発展を図っていってほしいと思っています。

「一日乗り放題キップ」で、京都島原へ行ってきました

2010年10月18日 | 日記
JR西日本が、鉄道の日を記念して、10月2日から17日まで使用できる、「一日キップ」を販売しました。早い時期に買っていたのですが、最終日の17日になって、追われるように、京都に行ってきました。



烏丸通りから東本願寺の北側を左折(西行)して、花屋町通りに入ります。堀に沿って進みます。堀川通りを渡ると西本願寺。その北側をさらに西に進み、西本願寺を過ぎると、大宮通り。ここに、「島原口」のバス停があります。いよいよ、島原に入ります。



右側に、島原饅頭の店があり「島原」を売りにしているんだと思ったら、すぐ左側に、手焼きおかきで有名な菱屋が見えて来ました。餅をついてからできあがるまで20日かかるといわれる、上品な「うすばね」で広く知られています。開店前だったので、店の内外に自転車が置いてあったりして、すこぶる庶民的な印象でした。

花屋町通りを鍵型に回ると、すぐ、島原大門(しまばらおおもん)が見えます。



島原遊郭は、京の原三郎左右衛門と林又一郎が、豊臣秀吉の許可を得て、天正17(1589)年、二条柳馬場に遊郭をつくったことに始まります。50年後の寛永18(1641)年に、朱雀野(しゅしゃかの)の地に移転して、京都唯一の幕府公認の島原遊郭となりました。この移転の慌ただしさが、九州の「島原の乱」のようだというので、名付けられたようです。

吉野太夫が広く知られており、江戸時代を通して、高尾太夫で知られる江戸の吉原、夕霧太夫の大阪新町、長崎の丸山などと並ぶ遊郭でした。正確には「西新屋敷」というそうで、地名の表示板にも、「西新屋敷上之町」のように書かれています。

かつての面影を残しているのは、大門と輪違屋、角屋だけになりました。島原の入り口は、当初、東の大門だけだったそうです。



門を入ると、道は西門の近くまでまっすぐ走っています。写真は、遊郭の内側からの大門です。

入ってすぐ右折すると、「置屋(太夫や芸妓を派遣する)」の輪違屋(わちがいや)があります。
現在の建物は、安政4(1871)年に再建されたもので、その後増改築されて、明治4(1871)年に今の形になったといわれます。たくさんの格子が目につきます。歴女たちも案内板に見入っていました。         


 
もとに戻って、大門の道を進むと「お茶屋さん」の建物がありました。祇園の新町通りや上七軒のそれと同じような雰囲気でした。その先に石碑がありました。「長州志士久坂玄瑞密議の角屋」と書かれていて、ここが角屋(すみや)だとわかりました。


 
角屋は「揚屋(あげや)」で、料亭、宴会場でした。宴会をする人の求めに応じて、置屋から「太夫や芸妓を呼んで遊宴をするところ」なのだそうです。

「揚屋」は、江戸にはなく、京都と大阪だけだったようで、島原の揚屋は、「和歌や俳諧の文芸の席もあり、文化サロンとしての役割を果たしていた」と案内に書かれていました。ここは、京の富裕層の社交場のような存在だったようです。

大きな建物ですが、外見は京都の町屋風で、遊郭特有の「牢屋」的な印象ではありません。幕末には、新撰組の局長クラスの宴会場となり、文久3(1863)年9月18日、局長、芹沢鴨はここでの宴会に参加したその日の夜に、屯所で暗殺されています。角屋は昭和60年まで営業を続けていました。

島原は有名な遊郭ですが、江戸時代の初期から、京には、北野、先斗町、祇園、八坂、清水などで、
「色茶屋(いろじゃや)」「煮売茶屋(にうりじゃや)」、「旅籠茶屋(はたごじゃや)」などの茶屋が営業を始めて、中心部の洛中から近いため、庶民の人気を集めたようです。困った幕府は、苦肉の策として、各地の茶屋の「惣年寄りを島原として株料を島原に払う」ようにして、幕府公認の遊郭、島原の対面を保ったと言われています。洛中から遠い島原は、経営的には苦戦していたのかもしれません。



角屋の脇を右折すると、島原住吉神社の門前に着きます。その近くに、島原西門がありました。ここに、西門ができたのは天保18(1842)年でした。享保17(1732)年につくられた門柱だけの簡素なつくりから、「冠木門に切り妻屋根、控柱に小屋根をつける高麗門型」になったと書かれていました。
昭和52(1977)年に交通事故で倒壊、再建されたが、再び、平成10(1998)年に交通事故で倒壊してしまいました。

目の前が、「卸売り市場」、その中にJR丹波口駅があります。

食事を終えて、14時01分に丹波口駅から、山陰線経由で帰ることにしました。普通電車で、二条駅、園部駅、福知山駅を通って和田山駅へ。さらに、播但線で寺前駅から姫路駅。山陽線で岡山駅へ着きました。20時33分でした。6時間半かかりましたが、時間以上に疲れを感じた列車の旅でした。









茅葺き民家の里 八塔寺に行ってきました

2010年10月10日 | 日記
白川郷、大内宿、京都府の美山が、旅行業界では「日本三大茅葺きの里」といわれていますが、
岡山県の備前市吉永町にも、茅葺きの里で知られる「ふるさと村」があります

備前の国の最高峰といってもいい八塔寺山(標高538m)のふもとにある
「八塔寺ふるさと村」がそれです

家人が、たびたび「行きたい」といっておりましたので、一緒に行ってきました
 
私の方は、かつて、仏教の大伽藍があった頃をしのび、今も残る寺院を訪ねることと
「国際交流ヴィラ」(右の写真)の建物を見るのが、とりあえずの目標でした


村の入り口に車を置いて、つづらおりの道を、家人とともに歩いて登りました
一部、すでに稲刈りが終わっていましたが、太陽の光を受けた農村風景は大変美しく、
家人は、民家や植物、人の姿の撮影に没頭していました
 

次の写真の、茅葺きの民家の一番右にある背の高い建物は、
かつて、たばこの葉を乾燥させていたところです
吉備高原の村では、今でもよく見られる建物です 

道路の脇に、梅の木につるを巻き付けた、かんぴょうの実がぶら下がっていました
少年の頃、夏になると、この皮を取って、身の部分をリンゴをむくようにむいて、
乾燥させていたのを思い出しました

この地の唯一の金融機関である、赤い屋根の郵便局を過ぎると、
3つの建物が並んだ、おなじみの景色が見えてきました

右の、一番高いところにあるのが、この地区の名前のもとになった照鏡山八塔寺、
屋根が青く見えるのが銅板葺きの恵日山高顕寺、
そして、赤い屋根の民宿高顕寺の3寺院が並んで見えます
高顕寺と民宿は回廊でつながっていました

これは、地元のローカル紙が八塔寺地区を取り上げた時に、
必ずといっていいぐらい出てきていた、八塔寺を代表する光景です
 
あぜ道に赤く見える部分は、彼岸花が咲いているところです 
まだまだ、たくさんの花をつけていました

「八塔寺ふるさと村」のシンボル、八塔寺、この寺は無住の寺でした
岡山藩主、池田光政が寄進した銅鐘をもつ由緒ある寺院ですが、
いちょうの木は伸び放題、庫裏のカーテンは破れが目立つ状態、ほんとに寂しいことでした
境内には、かえでの木もあって、紅葉が美しくなるだろうなと思いました

この地区は、神亀5(728)年、聖武天皇の勅願で創建されたといわれます
さらに、源頼朝が梶原景時に命じて復興させ、「8院、64坊、72寺」といわれる
大伽藍が完成し、最盛期を迎えます

また、戦国時代の度重なる戦乱、動乱で衰退したときには、
豊臣秀吉や岡山藩主、池田光政が復興させました
それぞれの時代の権力者の庇護を受けていましたが、
江戸時代から明治時代にかけて、寺の火災が相次ぎ衰えていったということです

高いところにあるため、いちょうの木の下からの眺めは最高で、
すぐ下の茅葺き民家や民俗資料館が、実った稲穂に調和して実にきれいでした


いつの間にか、家人がいなくなりました
トイレを探したり、稲やそばの花の写真を撮りにいったのでしょう

もう一つの高顕寺は、檀家の方と住職とが話しておられたり、
掃除も建物の手入れも行き届き、感じのいいお寺という印象でした 
花崗岩でつくられた参道は白く輝いていましたし、
また、参道の入り口に置かれていたかえるの像も愛嬌たっぷりでした

民俗資料館は、からすおどしのついた形でつくられていました
また、資料館の中には羅漢像が残っていました
表情豊かで見入ってしまいましたが、気に入ったのがこのニ体の羅漢さんでした

資料館で、特に興味深かったのはトイレ
ドアを開けて入る個室にあった、木材でつくられたきんかくしと、
外につくられた男性用の小用便器が復元されていました
用を足したあとの液体は、個室の下の便槽の中に入るようにつくられていました

いつの間にか、合流した家人も笑っていました


八塔寺で食事ができるところは二カ所、鴨肉の料理がメインの「レストラン望ヶ丘」
もう一つは、少し戻ったところにある八塔寺ふるさと館です こちらは、そばとピザが食べられます

家人の意見に従い、ふるさと館の方に向かいました
 
ふるさと館の隣には、「ふるさと直売所」があり、
地元の人がつくった野菜や、竹を材料にした工芸品などが安く売られていました


茅葺きの民家が残っていましたが、崩れるまま放置されたところや、
人の住んでいないところもあり、
この先、八塔寺はどうなっていくのだろうかと考えさせられました

しかし、この農村型のふるさと村では、幼い頃の生活を思い出させてもらったり、
美しい景色にいやされたり・・・気持ちよく過ごすことができました

ふるさと館や直売所には、たくさんの人が訪れていて、なかなかの盛況でした

秋の一日、気持ちのいい汗をかくことができたことに感謝しながら、
山を下り自宅に向かいました



球磨川と人吉城

2010年10月08日 | 日記
日本三急流の一つ、球磨川の中流にある人吉市、
球磨川の左岸に人吉城という美しい城があります
晩秋と言っていい季節の午後、熊本駅からJRの特急くまがわに乗りました
 
人吉に向かう肥薩線は、八代から南に出水、川内を経由するルートができるまでは、鹿児島に向かうメインルートでした
熊本から1時間30分、人吉駅に着きました 駅前に、大きなからくり時計が立っていました
 
人吉から、肥薩線は、吉松から隼人に向かっていきます
一方で、人吉は、多良木を経由して湯前に向かうくまがわ鉄道の起点でもあります
     
さっそく、駅前から人吉城に向かいました
ここで見た球磨川は、急流のイメージよりも、豊かな水量をもってゆったりと流れる大河のイメージでした
橋を渡ると支流の胸田川との間につくられた人吉城がありました

別名「繊月城」(せんげつじょう)ともいわれる人吉城は、この地の地頭だった相良氏によって、
鎌倉時代に築かれたといわれます
天正17(1589)年、相良長毎(さがらながつね)が城の整備に取りかかります
やがて、関ヶ原の戦いとなり、長毎は西軍について戦ったにもかかわらず、所領2万2千石を安堵されます
重臣が東軍と内応していたからでした

城の整備は続き、寛永元(1624)年に完成しました
長毎が招いた豊後の石工の功労が大きかったといわれていますが、天守閣はつくられませんでした

青い空に映える多聞櫓と、石垣の上に石材が外に飛び出している「武者返し」のついた特色ある石垣
特に、この武者返しは、幕末、文久2(1862)年の火災の後、防火のために石垣をかさ上げしてつくったものです
ヨーロッパ式で、函館の五稜郭や江戸のお台場でもつくられているそうです

 
火災や西南戦争で荒廃した人吉城は明治になって取り壊されるとき、堀合門が
相良氏の一族新宮氏の自宅の門に移されました
この建物だけが、現存する唯一の人吉城の遺産になっています、


もう一つ、人吉が全国に誇れるもの、青井阿蘇神社、国宝です
創建は大同元(806)年 
茅葺き社殿としては全国で初めて、平成20年、国宝に指定されました
 
写真の左は、「故郷の廃家」や「旅愁」の作詞家として知られる犬童球渓の生家跡です
音楽家で作詞、作曲した曲は250曲になるといわれます
有名な2曲は、新潟高等女学校在任中につくったものだそうです

そして 球磨川といえば球磨焼酎 
城の近くに、米焼酎の繊月酒造がありました

この日は、夕方人吉を出て、肥薩線を乗り継いで隼人に着き、日豊本線のを特急で宮崎に向かいました

売られたお城  中津城

2010年10月06日 | 日記
小倉駅から日豊本線の特急ソニックで30分余り走ったところにある、大分県中津市

中津駅に着くと、駅前広場に建てられている、
和服姿の福沢諭吉の大きな像が迎えてくれます
慶応義塾の創立者として知られる福沢諭吉は、この町の出身です

私がこの町を訪ねたのは、水をたたえた堀に美しい姿を映している、
中津城を見たかったからです
昭和34(1954)年に、本丸跡に建てられた、
五重の天守閣と二重櫓が残っています


実は、この城は売りに出されていたのです
これまで、この城は、享保2(1717)年中津藩主として入城した、
奥平昌成の子孫の方の団体が所有していました
ニュースでは、中津市からの補助金が年間40万円であるのに対し、
年間の城の維持管理費が1000万円も必要で、
入場料収入だけでは立ちゆかなくなってしまったからだといわれていました

幸い、買い手が見つかり、これからも今の姿で残ることになって、
胸をなでおろしているところです

中津城は、天正16(1588)年、豊臣秀吉の家臣、
黒田孝高(如水)が中津城の修復を始め、
筑前に移封された後は、細川忠興(三斎)が引き継ぎ、
慶長12(1607)年に完成させたものです
上の右の写真の石垣がそれを物語っており、右側が黒田氏のつくった石垣、
左側が細川氏のつくった石垣で、
それぞれが功を競っているようです 
草がおおっていて、ちょっと見にくいのですが・・・

実は、細川氏は慶長2(1602)年に小倉城に移っていて、
家督を子の忠利にゆずった後に、中津城が完成したのです
すでに一国一城令が出ていたのですが、認められたようです

明治維新まで治めた奥平氏は、長篠の戦いのとき、
長篠城にたてこもって武田勝頼と戦った奥平信昌の子孫でした

中津の城下町は元和元(1620)年に完成しました

中津市は、現在まで、
城下町の姿をよくとどめていることで知られています

写真は、駅から近いところにある寺町です 
掃除がきれいに行き届いていて清潔感にあふれています
赤く見えるのは合元寺で、赤壁寺ともいわれています 
見とれてしまいそうな美しい姿です

武家屋敷跡も残っていますし、町屋も、
城下町の面影を残しています
右の写真は、むろや醤油の館です

白壁の立派な土蔵が残されています

また、福沢諭吉の旧宅も、往事の姿で保存されています

旧宅前の駐車場に面したレストラン、
諭吉先生らしいお姿です
駅前の商店街、まだまだ元気いっぱい、
市民のエネルギーを感じました

中津市は、駅の反対側は開発が進んでいますが、
城のある側は、城下町の雰囲気を残した町づくりが進められています
町を歩いていると、
「あなたは町づくりの関係の方ですか」と声をかけられたり、
市民の町づくりにかける熱意を強く感じました

そういう意味でも、
中津城がこれからも維持されていくことができて、
ほんとうによかったと思っています

私の通勤路

2010年10月04日 | 日記
電車通勤を始めて1年半、岡山駅から勤務先まで歩いて通っています

岡山駅前の市役所通りを横断し、OPAとみずほ銀行の間の道から本町に入ります
駐車場が並ぶ中を歩いて、飲食店の多いエリアに入ります
涼しくなったこの頃は、スーツ姿の男性が多くなりました

ほとんどの店がまだ眠っているなか
早くから開店している薬局、フジワラ長生堂
毎朝、この方が拭き掃除や商品のチェックに精を出しておられます
健康志向の薬局が、たばこの自動販売機を置いているのは、絶妙の取り合わせだと思います

西川に架かる野殿橋、橋を渡れば平和町になります
平和町は、江戸時代、野殿町といわれていました
江戸時代の初期、寛永・慶安の頃には、
山陽道は、この橋を越えて郊外の野殿村を経て備中国に向かっていました
野殿村にいたる城下町の出口だったので、この名がついたようです

西川沿いの高橋商店、たくさんのキャラクターが並ぶこじんまりとしたお菓子屋さん
近くには、暴力団追放の垂れ幕がかかっています
それには、「平和町」ではなく、伝統的な「野殿町内会」が使われています

平和町の通りに緑の看板が引き立つ有隣堂茶舗
ときどき、お茶の葉を煎るいい香りが、周囲に漂っています
そして、地元のメディアにも取り上げられた、
岡山市でも1、2といわれる歴史をもつ、レトロな喫茶店、鉢の木

道は、磨屋町(とぎやちょう)を越えて、岡山城下町の外堀だった
柳川筋にぶつかります
ここもまっすぐ横切って、中山下一丁目に入ります
この一角は、江戸時代の武家屋敷町、
200~300石取りの武士の屋敷が並んでいたところです

なか卯と四国銀行の間の道を進みます
すぐ、右手側に、駐車場に描かれた広告の看板が見えます
鮪に、下津井の魚、そして黒豚と長州どりのコマーシャル

続いて、大阪の雰囲気を感じるスポット
ビリケン屋に第二自由軒
第二自由軒は、学生時代に、よくカツ丼を食べに行ったところです

そして、毎朝多くの人が忙しく立ち働いている豆腐屋さん、とうふ処おかべ
表の白い板には、豆腐についての詳しい説明がしてありました
「白壁(おかべ)」、「准南佳品(えんなんかひん)」、「六弥太」、
「しろもの」、「軟王」、「素君」は、
豆腐のニックネームだと書かれています

目の前が表町(旧上之町)商店街、その左角にある「キムラヤのパン」
岡山生まれの人なら誰でも知っている、名門のパン屋さん
かつては、たくさんの店舗がありましたが、今は個性的なパン屋さんがたくさんあって
やや押され気味なのでしょうか!?
今でも売っているのですが、「梶谷のシガーフライ」、
なつかしいお菓子を思い出します
この店の中では、買ったパンで、入れ立てのコーヒーを飲んでいる人の姿が見られます
そういえば、キムラヤが経営している岡山シティホテルの宿泊者は、
すぐ前のキムラヤのパンの店で、焼きたてのパンを食べているとか・・・

その先は、かつて岡山城の内堀があったところです。
現在のオランダ通りから次の通りまでの間です。
その先は、すぐ東山行きの路面電車の走る城下通り(しろじたどおり)
通りです。
城下通りをわたった右に、日本銀行岡山支店。

私は、ここからさらに歩いて職場に向かいます



夕方、月に2、3度ぐらいかな? 同じ道を帰ります
最近は日が短くなり、ほの暗い中を歩いています

岡山市には、表町と駅東口に賑やかな商業の中心地がありますが、この道は
その二つの町をつなぐ通りの一つです
そして、規模はやや小さいけれど、個性的な飲食店が並んでいます
夜にここを通る人は、朝の通勤時間帯の10倍近くになります

おでん料理で知られる一膳、ドラム缶をイメージした看板のチャイズ、
創作和食の炬焔(こほのお)、にぎやかな看板の焼き肉のひとはら
食彩呑酒よろずやと、それぞれに独特の雰囲気を醸し出しています


「私くし(ママ)生まれも育ちも天然飼料の元気鶏
鮮度と甘みは誰にも負けません」 とり鉄もすこぶる元気です

風風ラーメンの手前の一角では、チャリに囲まれて、
遅くまでカードゲームに興ずる若者が・・・ 彼らもよく頑張ります
そして、
飲食店外の並ぶ中に、なぜか、学習塾も
子供たちもがんばっています
飲み歩きのお父さんは肩身が狭いかな!?

そしてそして、

火災で焼けて再建中の建物の先のラブホテルも、
12,000円を売りにしているソープランドも、ひっそりと存在を主張しています

眠っている朝とは違う、ぎらぎらした姿を、夕方から強烈にアピールする
磨屋町、平和町、本町界隈です