トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

白壁の町、柳井市に行ってきました

2011年10月31日 | 日記

白壁の町並みで知られる山口県柳井市に、
公民館で共に学ぶ人たちと一緒に行ってきました。
柳井といって、私がまず思い出すのは柳井高校です。
全国高等学校野球選手権大会で、
豪腕投手、板東英二を擁する徳島商業高校を、
大差で破って優勝しました。
昭和33(1958)年のことでした。
私より年長の参加者は、みんな覚えていました。

1400年前、般若姫(豊後国の満野長者の娘)が、
用明天皇(聖徳太子の父)に召されて海路で上京中に、この地に上陸しました。
求めて飲んだ水が大変おいしかったので、大事に持っていた、
不老長寿の楊枝を井戸のそばにさしたそうです。
すると、その楊枝は、一夜にして大きな柳になったということです。
これが、柳井という地名の起こりだそうです。

江戸時代には、柳井は、
「岩国藩のお納戸」と呼ばれた、旧山陽道屈指の商業都市でした。

今回は、バスで行きましたので、
駐車場の隣のこの道から、ボランティアガイドの案内で、
歩き始めました。

200メートルにわたって、白壁の町並みが続きます。
あざやかな、漆喰の白さが印象的です。
昭和59(1984)年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されたところです。
ガイドさんのお話では、
今の町並みができあがったのは、江戸時代中期の、
明和5(1768)年頃だったそうです。
 
その中でも、18世紀後半に建てられた国森家は、
江戸時代中期の豪商の邸宅の姿をよく残しています。
国の重要文化財に指定されている商家です。
店に、「梅香艶出し油」と書かれているように、
灯し油やびんつけ油を商う大商人でした。

店の裏を流れる柳井川の雁木(船着き場)から荷揚げされていました。
 
こちらは、最盛期には帆船50隻を持ち、西日本有数の油商といわれた、
室屋(むろや)小田家の邸宅です。
主家は享保年間(1730年ごろ)の建築で、山口県で最も古い民家です。
屋敷面積は800坪。
国内に現存する町家の最大級といわれています。
現在、「商家博物館むろやの園」として、一般に開放されています。
 
岩国藩の殿様をして「甘露甘露」と言わしめた柳井の醤油。
これは、佐川醤油店の醤油蔵(甘露醤油資料館)です。
おいしい水があったことが、醤油をつくるのに役立ったということです。

白壁の醤油蔵にはたくさんの観光客が訪れ、甘露醤油を買い求めていました。
もちろん、私たちの仲間も重いぐらい買っていました。

ここは掛屋小路。
柳井川に荷揚げされた品を運ぶ道でしたが、
近くに金融業を営む店があったので、この名がついています。
歩くと癒される美しい路地です。

町並みの軒下につるされている金魚ちょうちん。
幕末に、この地の熊谷林三郎が、青森のねぶたをヒントに、
柳井の伝統織物の柳井織を使って始めたといわれます。
白壁の町によく似合っています。

金魚ちょうちんとともに、軒下には、
笹の枝に赤い色紙で折った金魚がつるしてありました。
こちらは、今年の山口国体の応援用につくったものだそうです。

明治40(1907)年に建てられた旧周防銀行の本店。
今は、柳井高等女学校(現柳井高校)出身の歌手、
松島詩子さんの記念館になっています。

私は、何年か前に一度柳井に来たことがあります。

そのときは、多分日曜日か祭日で、町にジャグラーが立っていました。
話し掛けられて相手をしていたら、
「もう少しここにいてください」といわれました。
やがて、芸が始まり、
最後に帽子の中に「500円を入れてください」といわれたことがあります。
「ええ、500円?」と思いながら、500円を投げ込んだことを思い出しました。
 
そのときはJRで来ましたので、
「むろやの園」から本橋を渡って、柳井駅に向かいました。
麗都路(レトロ)通りの両側はギャラリーになっていて、
多くの作品が展示されていました。

また、旧周防銀行本店(松島詩子記念館)を模したポストが、
立っていて、現役のポストとして使われていました。
この通りも、白壁の町並みに劣らず見事なものでした。

江戸時代から明治時代にかけて商業都市として栄えた柳井でしたが、
国道2号線や山陽新幹線、山陽自動車道などから遠く離れているため、
今も、伝統的な町並みの雰囲気がよく残っています。

白壁の町をていねいに整備して、大切に保存している柳井に、
これからもたくさんの人々が訪ねてくださることを、
願わずにはおられませんでした。

歩いたぞ! 5時間・18キロ、井笠鉄道本線跡地を行く

2011年10月25日 | 日記

岡山県の西部、広島県に近い笠岡市と井原市を結んでいた軽便鉄道がありました。
井笠鉄道(本線)です。
この鉄道が廃止されたのは、昭和46(1971)年のことでした。
今年はちょうど40周年にあたります。

私は、当時、学生でした。
国鉄笠岡駅の構内から、出発していた客車の姿をかすかに覚えています。
先日、「追憶の井笠軽便鉄道跡(本線)ウオーク」というイベントに参加して、
廃線跡を歩いてきました。
笠岡駅前を朝9時に出発して、井原鉄道井原駅に着いたのは午後2時5分でした。
昼食休憩をはさんで5時間、てくてく歩きました。

井笠鉄道を運行していた井原笠岡軽便鉄道が設立されたのは、
明治44(1911)年でした。100周年です。
今年は、井笠鉄道にとって、記念の年になっています。

井笠鉄道の方の先導で歩きました。

笠岡駅前から左の細い道を進んで行くと、左に駐車場があります。
ここが、かつての井笠鉄道笠岡駅でした。
されに進むと、旧線路跡の幅3メートルぐらいの道路に入り、
左側にある威徳寺の石段の前に出ます。

江戸時代の中期、石見銀山のある大森代官所とここ笠岡代官所の代官を
兼ねていた、井戸平左衛門正明の墓地があることろです。
代官をつとめていた頃に起きた享保の大飢饉。
飢えに苦しむ人のために、代官所の蔵米を開放したり、租税の減免をしたり
飢饉に備えてさつまいもの栽培を奨励したり、私財を提供したり・・・
当時の人々が、「芋代官」と呼んで慕った名代官でした。

笠岡中央病院の前が、かつて、最初の駅、旧くじ場駅があったところです。
旧新山駅舎である鉄道博物館に駅標が保存されています。
旧井笠鉄道笠岡駅(旧国鉄笠岡駅)から1.1kmのところにありました。
駅には機関区があって機関車や客車の整備をしていました。
 

旧くじ場駅跡を過ぎると20パーミル(1000mで20m登る)の急坂です。
列車は、線路に砂をまきながら、時には乗客が押しながら登って行ったそうです。
左側に蒸気機関車時代の給水塔が残っていました。



旧大井村駅跡。旧くじ場駅から2.4kmだったそうです。
ここで20パーミルが終了です。
駅跡を過ぎると山陽自動車道の下をくぐります。







やがて、旧小平井(おびらい)停留所跡。
委託駅だったからでしょうか、「駅」ではなく「停留所」でした。
旧大井野駅跡から1.5kmでした。ここには、旧駅舎が残っていました。
委託していたMさんのお宅と言った方がいいのでしょうか?
かつてのホームの石垣らしきものや、当時のトイレもそのまま残っていました。

ここを過ぎると、かつての線路は、道路と別れ畑の中に残っています。
写真の道がかつての線路跡で、道路はトラックの後ろを通っています。
残念ながら、写真にある木の下で線路跡が途切れてしまいます。

かつての線路跡は、やがて、県道笠岡・美星線の中に取り込まれていきます。

県道をしばらく進むと旧吉田村駅跡。
旧小平井停留所跡から1.1kmでした。
広場に駅舎があり、中心にある道は、駅への取り付け道路でした。

さらに、県道を進みます。
旧吉田村駅跡から2.4kmで旧新山駅跡に着きます。
現在、鉄道博物館になっています。



ここには、井笠鉄道のたくさんの遺産が保存されています。
ここの管理人のTさんです。元新山駅の駅長さんだそうです。
参加者はみんな紅白のお餅をいただきました。



たくさんの表彰状に囲まれたTさんの事務所です。

そこに、かつての時刻表が展示されていました。
上側が上り笠岡行きで1日19本。下側は下り井原行きで20本。
旅客列車を示す「旅」とともに
貨物と旅客の混合列車を示す「混合」の文字が見えます。
(ちなみに、開業時は、1日6往復で2~3時間間隔の運転で、所要時間は、
1時間22分だったそうです)
通常は、気動車1両と客車1~2両で、
通学時間帯には客車4両の前後に、気動車1両ずつを連結した6両編成で、
運行していました。
混合列車は、旅客列車(気動車1両と客車1両)に貨車1~2両でした。




 
駅舎の並びに、SLコッペル1号機・客車ホハ1・貨車ワフ1が展示されています。
コッペル1号機は大正2(1913)年のドイツ製。購入金額、6,205円だったそうです。
客車ホハ1の車内です。大正2(1913)年日本車輌製造製。
ここで昼食をとった方は、一様に「狭かったねー」と言っておられました。
有蓋貨車ワフ1は、大正3(1914)年日本車輌製造製です。

ここで、45分間の昼食休憩。  困ったのがトイレ。 ないのです。

12時45分出発。
15分ぐらい進んだところにコンビニ F がありました。
集団から遅れることを覚悟して、トイレを借りるため立ち寄りました。
10人ぐらいの人が先におられました。

この後は、もう、線路跡が残っているところはありません。
はるか先の集団を追って、県道をひたすら歩きます。

小北中学校。 この近くに、矢掛線を分岐していた旧北川駅跡があったはずです。
資料では、旧新山駅から3.1kmだそうです。
私がここに着いたとき、
駅舎跡に立ってくださっていた運営スタッフは、すでに次の駅に移動していました。
駅舎の跡を特定することはできませんでした。



旧薬師駅跡。  旧北川駅から1.2km。
ここで、すぐ前の10人ほどの集団に追いつきました。
広場に駅舎があり、道は駅への取り付け道路でした。
写真の手前側にお薬師さまがあり、多くの参拝客がお参りしていたそうです。
「最盛期の昭和30年代、この駅の乗降客は30人ぐらい」の説明に、
近くにいた人から、「今の井原線より多いじゃないの!」。

また、県道を歩きます。



旧木之子駅跡。旧薬師駅から2.5km。
広場に駅舎。写真の左には、お店が並んでいたそうです。
ホームの後ろにあった塀の木の一部が、移設されて残っていました。
取り付け道路に沿って酒造会社、その先に木之子小学校。

ここは、井原市が誇る「ビール王、馬越恭平氏」の出身地です。
木之子村の医家に生まれ、三井物産に入社。日本麦酒に派遣され役員となる。
明治39(1906)年、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒が合併して
大日本麦酒を設立したときに、社長に就任。
後に、シェアを79%まで高めて、「ビール王」と言われた人です。
一方で、井笠鉄道の社長としても活躍し、民鉄協会の会長も務めています。

この方の名前、「馬越」は何と読むのでしょうか?
木之子村では「うまこし」、 サッポロビールでは「まごし」、
馬越氏の先祖の地(今治市馬越)では「うまごえ」、 氏の子孫の家では「まこし」、
氏が寄贈した橋の名前は「うまごしばし」、様々あるようです。
(「2007年10月5日付け山陽新聞」・孫引きです。)



ひたすら歩いて、高架になっている井原鉄道の下をくぐります。
やがて、道は井原線と平行になって旧七日市駅跡へ。旧木之子駅から2.9km。
運営スタッフがおられるところの向かいに駅舎がありました。
他の駅と同じように取り付け道路がついています。
その先には、江戸時代の山陽道七日市宿。

これは、スタッフが持っていた駅の説明板に載っていた、
旧七日市駅の写真です。
近くにおられた参加者から
「この先に旧七日市駅を案内する石碑がある」とのお話。

旧七日市駅から1.2kmで旧井原駅。現在の井原バスセンターでした。
今回のウオークは、旧七日市駅跡から近い、写真の井原鉄道井原駅が終点でした。
最初にも書いたように、午後2時5分に到着しました。

18kmを、5時間で歩き抜きました!  
旧新山駅までは、井笠鉄道をたどる楽しみ、後半はウオーキングの楽しみ、
私には、やはり前半が数段楽しかったです。
運営や説明をしてくださった、井笠鉄道の皆さんに感謝です。

明日、いや明後日かな?
足が痛くなることでしょう!






















竹内街道、太子町の町並みを歩く

2011年10月16日 | 日記
竹内街道という響きに誘われて、バスツアーに参加しました。

竹内街道は、
堺市の大小路から羽曳野市の古市を抜け、太子町を通り、
二上山の南の竹内峠を越えて葛城市当麻の長尾神社にいたる約26kmの道です。
この道は、さらに奈良盆地を横断する横大路を経て明日香村に通じています。

竹内街道は、「日本書紀」の推古天皇12(613)年の、
「難波より京に至る大道を置く」という記述の、
「大道(おおどう)」が起源だといわれています。

スタートは、道の駅「近つ飛鳥の里 太子」です。
政治の中心だった大和の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼ぶのに対し、
太子町周辺を「河内飛鳥」とか「近つ飛鳥」とかと呼んでいるようです。
それにちなんで、名づけられたのでしょう。
地元の産品である枝豆、みかん、柿などの地元の産物が並んでいて、
多くの人を集めていました。

「観光ボランティア 太子街人(ガイド)の会」の方の案内で、
太子町を歩きました。

最初に訪ねたのが、「竹内街道歴史資料館」。
竹内街道の起源が示されていました。
もともとは、石器の材料であった二上山のサヌカイトを採取する道が、
整備されて官道になったそうです。

二上山の山麓は、石棺の石材だった凝灰岩や、
金属の磨き砂、「金剛砂(こんごうしゃ)」の産地でもありました。

歴史資料館の庭には、サヌカイトが展示されていました。

竹内街道に入りました。
別れ道の案内役は聖徳太子様。ここ太子町では、いたるところで活躍しています。

歴史ある街道の雰囲気が伝わってきます。

しばらく行くと、茅葺きの屋根のある民家が見えました。
山本家住宅。 江戸時代後期の民家です。

切妻の屋根の部分に近いところについた煙出し、瓦葺きに続く茅葺き屋根。
太子町にある伝統的な民家です。

町に寄付され、茅葺きに復元したと言われていました。

街道筋につきものの常夜灯。
この日は、街道を灯りで照らすイベントがあるということで、
灯りが点されることになっていて、電線が引き込まれていました。

「餅屋橋」の道標。
飛鳥川に架かっている橋のたもとに、かつて餅屋があったそうです。
江戸時代の後期、伊勢参りがブームになったときには、
ここで、人々に餅を施していました。

当時、たくさんの人々が十分な装備もなく伊勢に向かったため、
行き倒れになる人も多かったのです。
その人たちの始末は村人にゆだねられていたため、
無事にこの村を通り過ぎてもらうためであったと、
ガイドさんは説明されていました。

竹内の集落には、茅葺き部分をトタン板でおおった民家がかなり残っていました。

路地も趣がありました。

太子町には、多くの天皇や皇族、ゆかりの人の墓地があります。
最初に訪ねたのは「小野妹子の墓」でした。

経50m、高さ10mの楕円形の墳墓。
江戸時代の「河内名所図絵」に、「妹子の墓」と書かれているそうです。
小野妹子は華道の池坊の道祖とされており、
大正期に、池坊の関係者が墳墓の修復をしたそうです。

「妹子は、滋賀県の小野村(湖西線和邇駅近付近)出身」という説が有力で、
地元にと思う太子の人たちにとっては、修復はうれしいことなのでした。
妹子も遣隋使として、隋に向かって竹内街道を通ったことでしょう。

推古天皇陵。
第33代天皇、即位は593年。
日本で最初の女帝です。在位36年、73歳で死亡。
竹田皇子の墳墓に追葬され、後にこの地に移されたということです。
聖徳太子は、この天皇の摂政として政治を行いました。

推古天皇の墳墓のすぐ近くに二子塚古墳があります。
二つの墳丘が連接された古墳です。
「推古さん」「妹子さん」と親しみを込めて呼ぶ地元の人たちには、
「追葬された」ということから、
この古墳の方が推古天皇陵だと、信じている人が多いそうです。

用明天皇陵。
第31代天皇。685年に即位し在位2年で亡くなった方です。
聖徳太子のお父様です。
東西 65m 南北60m 高さ10m。日本で初めての方墳だそうです。

これは、地元で「馬子塚」と呼ばれている石塔です。
この石川の地は、蘇我氏の本貫地だそうです。
蘇我馬子の墓といえば、石舞台古墳。  広く知られています。
京都大学の発掘で、そちらが馬子の墓と推定されていますが・・・。
もちろん、地元の人はこここそが馬子の墓と信じておられることでしょう。

今回は、行けませんでしたが、敏達天皇陵、孝徳天皇陵も、
この地にあります。
古代の政治を彩った人たちも、竹内街道を往来していたのでした。

最後に、案内されたのが、太子町のどこからでも見える、
大伽藍の磯長山叡福寺(しながさんえいふくじ)。
ここは、聖徳太子の御廟があるところです。


山門を入ると、左側に多宝塔(国指定重要文化財)と金堂、
聖霊殿(国指定重要文化財・太子堂とも呼ばれる)が一列に並んでいて、
山門の正面の先には、御廟が鎮座しています。

聖徳太子は、27歳の秋、
秦河勝からもらった黒毛の馬で、諸国を回ったといわれています。
国の境を知るとともに、自らの墓をつくる場所を見つけるためだったそうです。

「富士山から南を見たとき、五色の光が空に輝いていた」から、
五字ヶ峰に墓を築いたといわれます。
今の御廟のあるところがその地だと言い伝えられています。

ご廟には、聖徳太子(622年2月22日逝去)だけでなく、
母の穴穂部間人皇后(621年12月21日逝去)と
后の膳郎女(622年2月21日逝去)がともに葬られています。

聖徳太子ゆかりの地への「太子信仰の道」としても、
竹内街道は多くの人に使われてきたのです。

降り出した雨の中、最後に行ったのが、「和みの広場」。

ここは、古代から「金剛砂」の産地だったところです。
ところどころに、採掘した跡を示す穴があいていたそうです。
そこが広場に整備され、広場を丸く囲むように、
17個の石碑が建てられています。

そこには、聖徳太子が制定した「十七条憲法」が、
1つの碑に1条ずつ書かれていました。

歴史を誇る竹内街道。
この地でくりひろげられた数々の歴史の遺産を、
今、この地に生きる人々は、しっかりと守り続けておられました。


乗り放題切符で海津に行ってきました

2011年10月12日 | 日記

「JR西日本乗り放題きっぷ」、1日乗り放題、3,000円です。
「乗り放題」というと、しっかり乗ってモトを取ろうという、
意地汚い考えで、私は、いつも遠くに行きたくなります。
今回は、旧マキノ町の海津(かいづ)を訪ねることにしました。

早朝に自宅を出てJR岡山駅へ。
7時7分発の姫路行の列車と新快速を乗り継いで、京都の山科へ。

めざす海津は、福井県との県境に近い湖北にあります。
湖西線の電車に乗り継いで、11時50分に、最寄りのマキノ駅に着きました。
車窓右手に琵琶湖の風景を見ながらの旅でした。
JR岡山駅を出てから4時間43分、自宅を出てから5時間50分経っていました。

旧滋賀県高島郡マキノ町。現在の高島市マキノ町。

昭和10(35)年、海津村など4ヶ村が合併したとき、
全国に知られていたスキー場の名を、町の名につけたそうです。

人間の顔のようにみえるオブジェには、
「カタカナの町名は、ニセコ町との二つしかない」と書かれていました。
でも、高島市になった今、「マキノ町」は正確には町名とは言えないでしょうね。
カタカナがついた市町村名で、私が思いつくのはコザ市と南アルプス市ぐらい。
貴重な名前が消えてしましました。

駅前通りは、新しく開発が進んでいるところです。
そのケヤキの道を、琵琶湖に向かって進みます。
20分ぐらいで、旧街道に出ました。

琵琶湖の西岸を北に向かう西近江路。ここは古代・中世の北陸道。
敦賀に寄港する北前船からの物資は、
近江との県境の「7里越え」をとおって海津に運ばれました。
そこから船で琵琶湖を縦断して大津港へ、
さらに、京都や大阪に運ばれて行きました。
海津は、江戸時代を通して、
西近江路の港町、宿場町、商業の町として栄えたところです。
街道沿いの宿場町の面影を残す町並みが、
今も、当時の雰囲気を伝えてくれています。


平成20(2008)年、海津は「重要文化的景観」の指定を受けました。
「自然と人の暮らしがつくりあげて来た文化的な景観」のことだそうです。
この辺りで営まれてきた、伝統的な地引き網漁や
魚類加工のための作業場、湖岸の石積みや生活習慣など、
多様な水にかかわる文化が評価されてのことと言われています。
倉庫や江戸時代の建築物も指定の中に含まれているようです。

漆喰で固められたどっしりとした漁業協同組合の倉庫。

裏は海津港でした。
外来魚に苦しめられているようです。

木製の看板には、「天明4(1784)年創業」と書かれています。
ここは、「狐狸庵」こと、遠藤周作さんがなじみにしていたお店だそうです。

最近は、「鮒寿司は1万円札を切っているようだ」と言われます。
それほどの貴重品。
琵琶湖からの鮒だけではまかなえず、宍道湖からも運ばれているとか。



江戸時代創業の吉田酒造と醤油の中村屋さん

歴史を伝える土蔵。
指定の要素ではありませんが、その右隣に豪華な建物がありました。
「海津町迎賓館」と書かれていました。
これは、公的施設ではなく、個人のお宅だそうです。

寛文12(1672)年、河村瑞賢によって西回り航路が開発されてからは、
海津を経由する物資は激減し、海津は衰退への道を歩んでいきました。
明治3(1867)年、磯野源兵衛と井花伊兵衛らが蒸気船を購入し、
大津・海津間に航路を開きました。
後の太湖汽船や琵琶湖汽船の母体となったそうです。
しかし、「起死回生」とはならず、衰退に歯止めをかけることはできませんでした。
いまは、砂浜近くの湖上に、その桟橋跡の杭だけが残っています。



海津といえば、砂浜に沿ってつくられた石垣が有名です。
「重要文化的景観」の指定の要素ともなった石積みです。

元禄16(1703)年、高島郡の代官として赴任していた、
西与一左衛門が、幕府に働きかけてつくったものです。
それまで、海津の人々は風波のたびに被害を受けていました。
東浜部分の367間半(668m)と西浜部分の272間(495m)が、
砂浜と宅地の間に今も残っています。
石垣のむこうに美しい琵琶湖の姿が見えます。
この視線の先に竹生島が見えるはずですが・・・。



ていねいな説明が書かれた案内板です。
テレビの時代劇では、悪代官がたくさん出て来ますが、
実際には、多くの代官は領民のために頑張っていたのだと思います。
この西代官は、「荒れ地の田租を免じたり、川役(漁税)を免じる」など、
「善政を進めた」方だったようです。
後世、村人は、街道沿いにある蓮光寺の中に碑を建立して、
毎年3月15日には、彼をしのぶ法会を行って来ました。

東浜の先は、海津大崎。
600mにわたって、ソメイヨシノの並木が続いています。
「日本さくらの会」の「日本のさくら名所百選」に選ばれている桜並木です。
整備のきっかけをつくったのは、この地の道路補修にたずさわっていた、
当時37歳だった宗戸清七という方です。
作業の合間に、自費で購入した若木を植え始めたのです。

昭和11(1936)年、近くの大崎トンネルの完成に合わせて、
海津村民が植樹してできあがったものだそうです。
春には、毎年多くの人を集める桜の名所。
きっかけをつくった宗戸清七氏をたたえる碑が立っていました。

海津に残るすべての歴史遺産が、生活習慣も含めて評価された、
「重要文化的景観」に指定されたことが、
海津の人たちにとって、何よりの誇りではないかと、
町を歩きながら、思ったものでした。

けやきの通りのお店で、遅い昼食を食べました。
なかなか豪華な日替わりランチでした。
お店のマスターのお話もおもしろく、少し元気をいただきました。

帰りもまた、岡山駅に着くまで、長い、長い普通列車の旅が続きます。









おもかる石は重かった!  伏見稲荷

2011年10月02日 | 日記


JR稲荷駅を降りると、目の前に立派な鳥居があります。
伏見稲荷大社の一の鳥居です。

この参道は敷石の工事が行われていました。

伏見稲荷大社は、全国の稲荷神社の総本宮です。
和銅4(711)年に伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が、天皇の命を受けて、
伊奈利山の3つの峰にそれぞれ神を祀ったことに始まると言われています。
五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、所願成就にご利益があるそうです。
平成23年10月7日からの御鎮座1300年の奉祝大祭を前に、
改修工事も佳境を迎えていました。
お聞きすると、そのためのは予算は40億円とか。

ビフォアー。これは、改修前の楼門です。

アフター。
お色直しが終わった楼門です。

訪ねた日の本殿の様子です。

五間社流造りの本殿も、シートに覆われていました。
こちらは、ビフォアー。


現在は、お隣につくられた仮本殿で礼拝します。


次は、現在、改修中の拝殿の2,3年前の姿です。
やがて、色直しをされて美しい姿になることでしょう。


ここは、狛犬ではなく、お狐さまがつとめています。

絵馬の替わりに、鳥居に願いを書いてつり下げます。


伏見稲荷といえば、やはり千本鳥居です。

奥宮の先の奥の院に続いています。
「千本」と言われますが、実際はもっともっと多いはずです。
近くを歩いていた若者が「数えてみよう」と話していましたが、
数えることができたのでしょうか?

千本鳥居の道も改修中で、左の道は通行禁止でした。

歩いて10分ほどで奥の院に着きました。

奥の院の絵馬掛けにかけてあったのは、鳥居ではなくお狐さまでした。

伏見稲荷を訪ねたのは、実はこの場所に来てみたかったからです。

「おもかる石」。

長い列ができていました。

正面の灯籠風の石像物の上の宝珠(空輪)を持ち上げます。
思ったより軽く感じれば願いが叶うと言われています。
列の後ろに並んで、私も持ち上げてみました。

「重たかった!!」

願いが叶わないと悟った瞬間でした。
今年も、また、願いがかなわない、
努力と辛抱の1年になったようです。

帰りは、総門の脇を通って、神幸通りに出ました。

鎮座1300年を記念して、鳥居を奉納する案内が掲示されていました。

神幸通りに並んでいる神具店の前に、
できあがった赤鳥居に文字を書いている職人さんの姿がありました。

伏見大社の鳥居は杉が使われているので、
20年ぐらいで改修する必要があるそうです。
そのための作業かもしれませんね。