近江鉄道鳥居本駅です。近江商人が中心になって開業させた鉄道で、駅舎は昭和6(1931)年に建設されました。当時の典型的な駅舎建築様式を伝えており、現在も、当時の姿のまま使用されています。
このところ、近江の国の中山道を歩いています。すでに、柏原宿(「もぐさ売る お店が残る 宿場町 旧中山道柏原宿」2014年7月25日の日記)、醒ヶ井宿(「清水湧く宿場町 旧中山道醒ヶ井宿」2014年10月21日の日記)を訪ねました。この日は、江戸から63番目の宿場、鳥居本宿を歩くことにしていました。写真は、駅前に設置されていた案内板です。地元の鳥居本中学校のボランティア部の生徒が作製したものでした。
それには、「古今和歌集」や「百人一首」の編集で知られる藤原定家を、経済的に支えたのが鳥居本の人たちでした」と書かれていました。鳥居本のあたりは、当時、藤原定家の荘園だったようですね。
これは、広重が描いた「中山道六十九次」の「鳥居本」です。描かれているのは鳥居本宿への東の入り口にある摺針峠(すりはりとうげ)です。すばらしい琵琶湖が見られる名所として知られていました。左に描かれている建物は、「するはり餅」を供していた、峠の大きな茶屋「望湖堂」。目の下に琵琶湖が見えます。広重の時代には、琵琶湖はずいぶん近くにあったようです。
写真は現在の摺針峠にある神明社の境内から琵琶湖を撮影したものです。今では琵琶湖も遠くになっています。茶屋でしたが、望湖堂は「御小休御本陣」と自称したように、参勤交代の大名や朝鮮通信使、幕末には降嫁の際の和宮、巡幸の時には明治天皇も、そうそうたる方々がここで休憩しています。「望湖堂」は左の建物が建っているところにありましたが、残念ながら平成3(1991)年に、たくさんの歴史資料とともに、焼失してしまったそうです。
神明社です。昔、修行に疲れた青年が峠にさしかかったとき出会った老人は、「針になるまで磨く」といって斧を磨いていました。その姿に触れた青年は、心を立て直しさらに修行に励んだといいます。後年、この地を再度訪れた青年は、ここ「神明宮」に栃餅を供えたそうです。老人は弘法大師だったとのことです。
望湖堂跡からは、舗装された中山道の新道が続いています。坂を下り、鳥居本宿をめざします。
下る途中、新道がゆるやかにカーブするところに、「中山道」の案内板がありました。
彦根駅の観光案内所でいただいた地図ですが、その右側に摺針峠が描かれています。新道から点線で示された道が中山道です。
中山道の旧街道です。急な下り坂で、少し荒れているところもありましたが、この道を下っていきます。この先で、再度、新道と交差しますが、そのまま下っていきます。
山の中の道からの出口付近からは工場の塀と並行して進みますが、摺針峠から20分ぐらいで下りきりました。この先の右前で国道8号に合流します。
合流する手前にあった「磨針峠望湖堂」の碑です。「磨」の字が使われていますが「摺針峠」です。
これは、その先を流れる矢倉川に沿う道につくられていた新しい道標です。「右 中山道」「左 北国街道 米原 きの本」と書かれています。鳥居本でいただいた資料には「かつて 北国街道 中山道の道標があった」と書かれていました。これを復元したのでしょう。北国街道は、この先、国道8号を米原に向かっていました。
国道8号の向こうに見えた「世界のフジテック」の実験棟です。高さ170mだそうです。
国道8号で矢倉川を渡ります。鳥居本宿は渡って、国道8号から分かれて左に進みます。
鳥居本宿は、彦根市内にあります。彦根市が設置した「おいでやす」の像。鳥居本宿を旅する旅人の姿です。
その先にあった「旅しぐれ 中山道松並木」の案内。この先が宿場の入り口でした。
かつての松並木はすでになく、新しい松を育てているようです。
鳥居本宿は、天保14(1843)年の「宿駅大概帳」によれば、人口1448人、家数293軒(うち、本陣1 脇本陣2 問屋場1 旅籠35)だったようです。かつての街道筋の雰囲気を残す家並みが続いています。まぶしいぐらいのお天気でした。
上矢倉村を歩きます。道はゆるやかな右カーブ。道の正面、遠くに商家風の建物が見えます。枡形になっているようです。鳥居本宿は「さんあか(三赤)」で知られています。湖東地域で食べられていた「すいか」と、旅の常備薬だった「赤玉神教丸」、特に、雨の多い中山道(木曽路)の旅に不可欠だった「合羽」でした。
白い漆喰で塗られ、うだつをつけた、虫籠窓の名残が残る格子造りの商家。どっしりとした印象です。
通りの左側にあった茅葺きの民家です。最近では、街道筋でも見ることは少なくなりました。
茅葺き民家の先、右側にあった広い敷地に建つ大邸宅。ここが「さんあか」の一つ「赤玉神教丸」の製造販売元、有川家です。隣の宿場である高宮宿の多賀大社の神教によって製造されています。万治元(1658)年の創業。腹痛、食あたり、下痢止めに効能がある、5ミリぐらいの赤い粒の薬で、20粒入りを一服として販売されていたそうです。創業から350年を経た現在も、昔ながらの製法で製造販売されています。
手前の門の前に「明治天皇の御巡幸」のとき(明治11=1878年)休憩所になったと記されています。建物の手前の部分はそのとき増築されました。
これが有川家の本屋です。建物は宝暦(1751~1763)年間の建築です。有川家はもと郷士(ごうし)で、鵜川を名乗っていたようです。その後、この地に居を構え有栖川宮家に出入りを許されるようになったのが縁で、有川を名乗るようになったそうです。
旧街道は、有川家の先で左に折れます。枡形になっています。赤いポストは今も現役で「年賀状の取り扱いは12月15日から」と書かれた紙が貼ってありました。前でスケッチをされていた方は「たくさんの方が薬を買って帰られましたよ」とおっしゃっていました。
旧街道からそれて、有川家の並びのお宅の前を進みます。10mぐらいで国道8号に出ます。
国道の向こう側にあった上品寺(じょうぼんじ)です。天台宗の寺でしたが、明暦2(1656)年から浄土真宗になりました。ここの7代住職了海(法海坊)が江戸で托鉢し、吉原の遊女たちの寄進などもあってつくられた釣鐘が残っています。
これがその釣鐘です。鐘の下部には遊女たちの法名や俗名が刻まれています。この了海(法海坊)はまじめな僧だったのですが、歌舞伎の「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」で、「法界坊」なる僧が吉原で浄財を使い果たすという破戒僧として描かれたため、ずいぶん迷惑したのではないかといわれています。
旧街道を進みます。有川家方面を振り返って撮影しました。正面に有川家が見えました。
右側に「旧鳥集会所」の看板がある建物です。江戸時代には「米屋」の屋号をもつ旅籠でした。この家の治平(後に、岩根治右衛門)は中島安康(井伊直弼の絵の師匠)から学び、湖東焼きの絵付師として活躍し、直弼から「自然斎(じねんさい)」の号を授けられました。建物の内部は旅籠時代の面影を残しているそうです。
デイサービスセンターになっている建物。これもかつての雰囲気をよく残しています。
旧街道の右側にあった看板がつり下がっている商家です。「合羽」の製造・販売をしていた「木綿屋」です。鳥居本の名産の合羽は享保5(1720)年、馬場弥五郎の創業といわれています。楮(こうぞ)からつくった和紙に柿渋を塗って、保湿性と防水性を高めた良質の合羽をつくり、名声を高めたといわれています。柿渋を塗る時に弁柄(紅殻)を加えたために、赤い色の合羽になったようです。木綿屋は、天保3(1832)年創業で、鳥居本宿で最も北にあった合羽屋でした。ちなみに、合羽は、ポルトガル語の”CAPA”(カパ)が語源のようです。
木綿屋の看板です。「本家合羽所 嘉右衛門」と書かれています。木綿屋は江戸、伊勢方面に販路をもっており、大名、寺院、商家が得意先で、大八車にかぶせるシート状の合羽を主に製造していたそうです。鳥居本宿には、寛政(1782~1800)年間には10軒、文化文政(1804~1830)年間には15軒の合羽屋があったといわれています。
木綿屋の前にあった本陣跡、寺村家です。寺村家は鳥居本の先(南)にある小野宿の本陣をつとめていましたが、江戸幕府が開かれた後、彦根の地割をするためにやって来た嶋角左衛門の命で鳥居本宿に本陣を移すよう指示され、この地に移ってきました。明治になって、かつての大名が宿泊した部分は売却され、寺村家の居住部分(左)は、昭和12(1937)年ヴォーリズによって和風の趣のある洋風建築に建て直されました。
右の倉庫には、本陣の門の一部が使われています。
本陣跡から見た近江鉄道鳥居本駅です。旧街道から右に折れると駅への道になります。
脇本陣跡。高橋家の建物です。人馬の継ぎ立てを行う問屋場も兼ねていました。中山道は人足50人、馬50疋が常備されていました。天保14(1843)年にもう1軒あった脇本陣は、やがて消滅していったといわれています。
その後も、宿場町らしい家並みが続いています。
左側の屋根の上に、看板が立っています。合羽屋の松屋、松本宇之輔店です。鳥居本町の合羽の製造は昭和55(1970)年に終わりました。松屋は、戦後、梱包用の縄づくりに転換しました。現在の邸宅は、平成13(2001)年に改修されたそうです。ここの看板は屋根に立っていましたが、看板はこの置き方が正しいようです。
その先に、信号のある交差点があります。左側には小学校の校舎が見えます。右側には・・・。
「佐和山城下町へ」と書かれた道標がありました。善政を敷き、領民から慕われた石田三成の城下町へつながる道でした。
交差点を過ぎてから気がついたのですが。街道沿いの民家の玄関に「屋号」が吊されていました。こちらは「越後屋」さんでした。
「大村屋」跡。合羽を扱うお店だったようです。
その先の左側にあった、文化庁の「登録有形文化財」に登録されているお宅でした。白漆喰塗り、虫籠窓、うだつ、格子づくり。柱には弁柄が塗られています。鳥居本宿の典型的な商家建築です。
専宗寺です。聖徳太子の開祖と伝えられる浄土真宗本願寺派の古刹です。もとは佐和山城下町にありましたが、寛永17(1640)年に現在地の鳥居本宿の西法寺村に移ってきました。
山門の東にある二階建ての太鼓門です。この門の天井には、佐和山城の用材が使われているそうです。
これがその用材だと思います。
鳥居本宿の家並みです。宿場町のどこでも美しい家並みを見ることができるすてきな宿場町です。
郵便局を過ぎると三叉路がありました。右側の民家の手前に道標が建っていました。「右 彦根道」「左 中山道 京いせ道」。「文政十亥秋建立」と刻まれているそうです。文政10(1827)年に建立された道標です。ここは、彦根に向かう「彦根道」との分岐点でした。
慶長5(1600)年、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した後、この道を通って京都に向かったことで知られる、「上洛の道」でした。この道は、その後も将軍専用の道とされ、参勤交代での大名の使用は認められていませんでした。
彦根道です。将軍以外に唯一使用が認めれたのは、朝鮮通信使でした。そのため、彦根道は「朝鮮人街道」とも呼ばれています。朝鮮通信使は、慶長12(1607)年から文化8(1825)年まで12回、将軍の代替わりごとに来日しました。前日守山宿に泊まった一行400人は、翌日、近江八幡の本願寺八幡別院で昼食を摂りました。そして、彦根道を通って鳥居本宿に入り、中山道で江戸方面へと向かっていました。写真の向こうに彦根の城下町がありました。
道標の先の旧街道です。宿場の出口付近です。
宿場の先は人家が途絶えます。鳥居本宿を出た旅人は、鳥居本以前の宿場である小野村を経て、次の高宮宿に向かっていました。
中山道の63番目の宿場町、鳥居本宿は「さんあか(三赤)」で知られていました。三赤の中で、すいかは皮の固さが災いして早くにつくられなくなり、合羽も昭和55(1970)年に製造が終わりました。唯一、赤玉神教丸だけが今も従来の製法により製造され、たくさんの人が買い求めているようです。
この写真は、上品寺の近くにあった看板です。「お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀さんには月詣り」と歌われた多賀大社の神教によって調整されたそうですから、大社のご威光かもしれません。
今回、鳥居本宿を歩いていて、もっとも感動したのは家並みの美しさでした。改修されたお宅も多くありましたが、宿場町の雰囲気をいつまでも残っていてほしいと思ったものでした。