トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”赤玉神教丸”と”合羽”で知られた宿場町、中山道鳥居本宿

2014年11月29日 | 日記

近江鉄道鳥居本駅です。近江商人が中心になって開業させた鉄道で、駅舎は昭和6(1931)年に建設されました。当時の典型的な駅舎建築様式を伝えており、現在も、当時の姿のまま使用されています。

このところ、近江の国の中山道を歩いています。すでに、柏原宿(「もぐさ売る お店が残る 宿場町 旧中山道柏原宿」2014年7月25日の日記)、醒ヶ井宿(「清水湧く宿場町 旧中山道醒ヶ井宿」2014年10月21日の日記)を訪ねました。この日は、江戸から63番目の宿場、鳥居本宿を歩くことにしていました。写真は、駅前に設置されていた案内板です。地元の鳥居本中学校のボランティア部の生徒が作製したものでした。

それには、「古今和歌集」や「百人一首」の編集で知られる藤原定家を、経済的に支えたのが鳥居本の人たちでした」と書かれていました。鳥居本のあたりは、当時、藤原定家の荘園だったようですね。

これは、広重が描いた「中山道六十九次」の「鳥居本」です。描かれているのは鳥居本宿への東の入り口にある摺針峠(すりはりとうげ)です。すばらしい琵琶湖が見られる名所として知られていました。左に描かれている建物は、「するはり餅」を供していた、峠の大きな茶屋「望湖堂」。目の下に琵琶湖が見えます。広重の時代には、琵琶湖はずいぶん近くにあったようです。

写真は現在の摺針峠にある神明社の境内から琵琶湖を撮影したものです。今では琵琶湖も遠くになっています。茶屋でしたが、望湖堂は「御小休御本陣」と自称したように、参勤交代の大名や朝鮮通信使、幕末には降嫁の際の和宮、巡幸の時には明治天皇も、そうそうたる方々がここで休憩しています。「望湖堂」は左の建物が建っているところにありましたが、残念ながら平成3(1991)年に、たくさんの歴史資料とともに、焼失してしまったそうです。

神明社です。昔、修行に疲れた青年が峠にさしかかったとき出会った老人は、「針になるまで磨く」といって斧を磨いていました。その姿に触れた青年は、心を立て直しさらに修行に励んだといいます。後年、この地を再度訪れた青年は、ここ「神明宮」に栃餅を供えたそうです。老人は弘法大師だったとのことです。

望湖堂跡からは、舗装された中山道の新道が続いています。坂を下り、鳥居本宿をめざします。

下る途中、新道がゆるやかにカーブするところに、「中山道」の案内板がありました。

彦根駅の観光案内所でいただいた地図ですが、その右側に摺針峠が描かれています。新道から点線で示された道が中山道です。

中山道の旧街道です。急な下り坂で、少し荒れているところもありましたが、この道を下っていきます。この先で、再度、新道と交差しますが、そのまま下っていきます。

山の中の道からの出口付近からは工場の塀と並行して進みますが、摺針峠から20分ぐらいで下りきりました。この先の右前で国道8号に合流します。

合流する手前にあった「磨針峠望湖堂」の碑です。「磨」の字が使われていますが「摺針峠」です。

これは、その先を流れる矢倉川に沿う道につくられていた新しい道標です。「右 中山道」「左 北国街道 米原 きの本」と書かれています。鳥居本でいただいた資料には「かつて 北国街道 中山道の道標があった」と書かれていました。これを復元したのでしょう。北国街道は、この先、国道8号を米原に向かっていました。

国道8号の向こうに見えた「世界のフジテック」の実験棟です。高さ170mだそうです。

国道8号で矢倉川を渡ります。鳥居本宿は渡って、国道8号から分かれて左に進みます。

鳥居本宿は、彦根市内にあります。彦根市が設置した「おいでやす」の像。鳥居本宿を旅する旅人の姿です。

その先にあった「旅しぐれ 中山道松並木」の案内。この先が宿場の入り口でした。

かつての松並木はすでになく、新しい松を育てているようです。

鳥居本宿は、天保14(1843)年の「宿駅大概帳」によれば、人口1448人、家数293軒(うち、本陣1 脇本陣2 問屋場1 旅籠35)だったようです。かつての街道筋の雰囲気を残す家並みが続いています。まぶしいぐらいのお天気でした。

上矢倉村を歩きます。道はゆるやかな右カーブ。道の正面、遠くに商家風の建物が見えます。枡形になっているようです。鳥居本宿は「さんあか(三赤)」で知られています。湖東地域で食べられていた「すいか」と、旅の常備薬だった「赤玉神教丸」、特に、雨の多い中山道(木曽路)の旅に不可欠だった「合羽」でした。

白い漆喰で塗られ、うだつをつけた、虫籠窓の名残が残る格子造りの商家。どっしりとした印象です。

通りの左側にあった茅葺きの民家です。最近では、街道筋でも見ることは少なくなりました。

茅葺き民家の先、右側にあった広い敷地に建つ大邸宅。ここが「さんあか」の一つ「赤玉神教丸」の製造販売元、有川家です。隣の宿場である高宮宿の多賀大社の神教によって製造されています。万治元(1658)年の創業。腹痛、食あたり、下痢止めに効能がある、5ミリぐらいの赤い粒の薬で、20粒入りを一服として販売されていたそうです。創業から350年を経た現在も、昔ながらの製法で製造販売されています。

手前の門の前に「明治天皇の御巡幸」のとき(明治11=1878年)休憩所になったと記されています。建物の手前の部分はそのとき増築されました。

これが有川家の本屋です。建物は宝暦(1751~1763)年間の建築です。有川家はもと郷士(ごうし)で、鵜川を名乗っていたようです。その後、この地に居を構え有栖川宮家に出入りを許されるようになったのが縁で、有川を名乗るようになったそうです。

旧街道は、有川家の先で左に折れます。枡形になっています。赤いポストは今も現役で「年賀状の取り扱いは12月15日から」と書かれた紙が貼ってありました。前でスケッチをされていた方は「たくさんの方が薬を買って帰られましたよ」とおっしゃっていました。

旧街道からそれて、有川家の並びのお宅の前を進みます。10mぐらいで国道8号に出ます。

国道の向こう側にあった上品寺(じょうぼんじ)です。天台宗の寺でしたが、明暦2(1656)年から浄土真宗になりました。ここの7代住職了海(法海坊)が江戸で托鉢し、吉原の遊女たちの寄進などもあってつくられた釣鐘が残っています。

これがその釣鐘です。鐘の下部には遊女たちの法名や俗名が刻まれています。この了海(法海坊)はまじめな僧だったのですが、歌舞伎の「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」で、「法界坊」なる僧が吉原で浄財を使い果たすという破戒僧として描かれたため、ずいぶん迷惑したのではないかといわれています。

旧街道を進みます。有川家方面を振り返って撮影しました。正面に有川家が見えました。

右側に「旧鳥集会所」の看板がある建物です。江戸時代には「米屋」の屋号をもつ旅籠でした。この家の治平(後に、岩根治右衛門)は中島安康(井伊直弼の絵の師匠)から学び、湖東焼きの絵付師として活躍し、直弼から「自然斎(じねんさい)」の号を授けられました。建物の内部は旅籠時代の面影を残しているそうです。

デイサービスセンターになっている建物。これもかつての雰囲気をよく残しています。

旧街道の右側にあった看板がつり下がっている商家です。「合羽」の製造・販売をしていた「木綿屋」です。鳥居本の名産の合羽は享保5(1720)年、馬場弥五郎の創業といわれています。楮(こうぞ)からつくった和紙に柿渋を塗って、保湿性と防水性を高めた良質の合羽をつくり、名声を高めたといわれています。柿渋を塗る時に弁柄(紅殻)を加えたために、赤い色の合羽になったようです。木綿屋は、天保3(1832)年創業で、鳥居本宿で最も北にあった合羽屋でした。ちなみに、合羽は、ポルトガル語の”CAPA”(カパ)が語源のようです。

木綿屋の看板です。「本家合羽所 嘉右衛門」と書かれています。木綿屋は江戸、伊勢方面に販路をもっており、大名、寺院、商家が得意先で、大八車にかぶせるシート状の合羽を主に製造していたそうです。鳥居本宿には、寛政(1782~1800)年間には10軒、文化文政(1804~1830)年間には15軒の合羽屋があったといわれています。

木綿屋の前にあった本陣跡、寺村家です。寺村家は鳥居本の先(南)にある小野宿の本陣をつとめていましたが、江戸幕府が開かれた後、彦根の地割をするためにやって来た嶋角左衛門の命で鳥居本宿に本陣を移すよう指示され、この地に移ってきました。明治になって、かつての大名が宿泊した部分は売却され、寺村家の居住部分(左)は、昭和12(1937)年ヴォーリズによって和風の趣のある洋風建築に建て直されました。

右の倉庫には、本陣の門の一部が使われています。

本陣跡から見た近江鉄道鳥居本駅です。旧街道から右に折れると駅への道になります。

脇本陣跡。高橋家の建物です。人馬の継ぎ立てを行う問屋場も兼ねていました。中山道は人足50人、馬50疋が常備されていました。天保14(1843)年にもう1軒あった脇本陣は、やがて消滅していったといわれています。

その後も、宿場町らしい家並みが続いています。

左側の屋根の上に、看板が立っています。合羽屋の松屋、松本宇之輔店です。鳥居本町の合羽の製造は昭和55(1970)年に終わりました。松屋は、戦後、梱包用の縄づくりに転換しました。現在の邸宅は、平成13(2001)年に改修されたそうです。ここの看板は屋根に立っていましたが、看板はこの置き方が正しいようです。

その先に、信号のある交差点があります。左側には小学校の校舎が見えます。右側には・・・。

「佐和山城下町へ」と書かれた道標がありました。善政を敷き、領民から慕われた石田三成の城下町へつながる道でした。

交差点を過ぎてから気がついたのですが。街道沿いの民家の玄関に「屋号」が吊されていました。こちらは「越後屋」さんでした。

「大村屋」跡。合羽を扱うお店だったようです。

その先の左側にあった、文化庁の「登録有形文化財」に登録されているお宅でした。白漆喰塗り、虫籠窓、うだつ、格子づくり。柱には弁柄が塗られています。鳥居本宿の典型的な商家建築です。

専宗寺です。聖徳太子の開祖と伝えられる浄土真宗本願寺派の古刹です。もとは佐和山城下町にありましたが、寛永17(1640)年に現在地の鳥居本宿の西法寺村に移ってきました。

山門の東にある二階建ての太鼓門です。この門の天井には、佐和山城の用材が使われているそうです。

これがその用材だと思います。

鳥居本宿の家並みです。宿場町のどこでも美しい家並みを見ることができるすてきな宿場町です。

郵便局を過ぎると三叉路がありました。右側の民家の手前に道標が建っていました。「右 彦根道」「左 中山道 京いせ道」。「文政十亥秋建立」と刻まれているそうです。文政10(1827)年に建立された道標です。ここは、彦根に向かう「彦根道」との分岐点でした。

慶長5(1600)年、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した後、この道を通って京都に向かったことで知られる、「上洛の道」でした。この道は、その後も将軍専用の道とされ、参勤交代での大名の使用は認められていませんでした。

彦根道です。将軍以外に唯一使用が認めれたのは、朝鮮通信使でした。そのため、彦根道は「朝鮮人街道」とも呼ばれています。朝鮮通信使は、慶長12(1607)年から文化8(1825)年まで12回、将軍の代替わりごとに来日しました。前日守山宿に泊まった一行400人は、翌日、近江八幡の本願寺八幡別院で昼食を摂りました。そして、彦根道を通って鳥居本宿に入り、中山道で江戸方面へと向かっていました。写真の向こうに彦根の城下町がありました。

道標の先の旧街道です。宿場の出口付近です。

宿場の先は人家が途絶えます。鳥居本宿を出た旅人は、鳥居本以前の宿場である小野村を経て、次の高宮宿に向かっていました。


中山道の63番目の宿場町、鳥居本宿は「さんあか(三赤)」で知られていました。三赤の中で、すいかは皮の固さが災いして早くにつくられなくなり、合羽も昭和55(1970)年に製造が終わりました。唯一、赤玉神教丸だけが今も従来の製法により製造され、たくさんの人が買い求めているようです。

この写真は、上品寺の近くにあった看板です。「お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀さんには月詣り」と歌われた多賀大社の神教によって調整されたそうですから、大社のご威光かもしれません。
今回、鳥居本宿を歩いていて、もっとも感動したのは家並みの美しさでした。改修されたお宅も多くありましたが、宿場町の雰囲気をいつまでも残っていてほしいと思ったものでした。



19年間で廃止された鉄道、玉野市電線路跡を歩く

2014年11月20日 | 日記

「宇高連絡船」や「宇高フェリー」など四国との玄関口で知られた岡山県玉野市は、また、”造船業(三井造船)の町”としても知られていました。写真は玉野市の奥玉地区にあるすこやかセンター(玉野市総合保健福祉センター)の建物です。

すこやかセンターの南側にある駐車場の一画に、1両の電車が静態保存されています。この車両は、宇高連絡線の玄関口宇野駅と三井造船の事業所がある玉地区を結んでいた、玉野市電気鉄道(以下「玉野市電」と書きます。)のモハ103号機です。その後、高松琴平電鉄に委譲され760号機となり、平成18(2006)年に里帰りしてきました。

玉野市電の宇野駅は、国鉄の宇野線の終点、宇野駅に置かれていました。写真はJR宇野駅です。この駅舎は以前の国鉄宇野駅より、少し北(陸)側に移動したところに設置されています。写真のほぼ中央に赤いポストが見えますが、当時の玉野市電のホームはポストの左にある電話ボックスのあたりに置かれていました。そこから、JRの線路と平行して写真の向こう側に向かい、その後、緩やかに左に向かってカーブして進んでいました。

現在、宇野駅付近の線路跡は駐車場になっていて線路跡をたどることはできません。写真は、宇野駅の西を北に向かう県道22号(旧国道30号)を渡る横断陸橋です。陸橋の左側に、宇野駅の次の広潟(ひろかた)駅跡がありました。この日は、玉野市電の線路跡を、終点の玉遊園地前駅跡まで歩くことにしていました。

JR宇野駅から西に向かって郵便ポストの前を通り、その次のオレンジ色の屋根をした交番の先を右折(北行)します。

駐車場に沿って進みます。前方にあるJR宇野線の跨線橋をくぐり、両備バスの車庫の間をさらに北に向かいます。

その後、緩やかな左カーブになり、県道22号の横断陸橋の手前に出ます。駐車場になっているところが、かつての玉野市電の線路跡でした。玉野市電は軌間1067ミリ、全長4.67kmでした。その間に起終点と信号所を入れて、廃止時には14の駅がありました。駅間は最短0.11kmから最長0.73km。地方鉄道法に拠る鉄道路線でありながら、路面電車のようにこまめに停車しながら走り、終点までを14分で結んでいました。

横断陸橋を渡って西側に降りました。この陸橋の降り口付近に、最初の駅、広潟(ひろかた)駅がありました。開業から7年後の昭和35(1960)年に設置されました。宇野駅から広潟駅間は、路線中で2番目に長い区間で、0.71kmありました。この広潟駅跡から先の線路跡は歩行者自転車専用道路になっています。

赤く舗装された歩行者自転車専用道路を、左側の玉野市立宇野中学校に沿って歩きます。。さて、資材や社員の輸送を目的に、昭和19(1944)年に国鉄宇野駅と三井造船まで敷かれた引き込み線の路盤を使って、鉄道を走らせようという計画を立て、昭和25(1950)年に備南電気鉄道が設立されました。資金難で何回も中断されましたが、昭和28(1953)年に宇野駅と玉駅(後の三井造船前駅)間が開業しました。すこやかセンターに保存されていたモハ103など3両(他にモハ101、モハ102)が運行にあたっていました。

宇野中学校を過ぎると小さな川を渡ります。その先にいかにも駅のホームという地形の道路が残っていました。通りかかった地元の方にお聞きすると「玉野高校前駅の跡。一段高いところがホームの跡だよ」とのこと。また、ホームから写真の手前に向かって降りていたと教えてくださいました。玉野高校は写真の右側奥にあります。広潟駅から0.21kmでした。

線路跡は玉野市築港の静かな住宅地の中を左カーブしながら続いています。その後も、備南電気鉄道は赤字経営に苦しみ、旅客の取り込みをねらって、昭和30(1955)年に当時の繁華街だった玉橋駅(たまはしえき、その後、玉駅)まで0.17kmを延伸させました。しかし、経営は好転せず、翌昭和31(1956)年には玉野市に事業が移管され、玉野市電となりました。

線路跡はこの先で、天狗山トンネルをくぐります。トンネルの長さは179m。玉野市電に3つあったトンネルの中で最長でした。内部には蛍光灯が点っていて、歩くのに不便はありませんでした。

トンネルを抜けたところが、昭和34(1959)年に設置された西小浦駅の跡です。藤棚がつくられベンチが置いてありました。玉野高校前駅からトンネルを含めて0.44kmのところにありました。

その先、線路跡は銀杏並木になります。その外側は道路、そのまた両側に住宅が続いています。広々とした通りです。

北に向かってスタートした玉野市電が、南に向かって進むようになりました。正面右前に玉野市民病院の船形をした建物が見えます。市民病院の前を左右に走る道路の手前に市役所前駅跡がありました。写真の左側、永野菓子店のビルがあるあたりでした。当時の市役所は市民病院のあたりにあったようです。西小浦駅から0.39kmのところでした。

この写真は市民病院の前の交差点から左方向を撮影したものです。この道路の先に宇野駅があります。線路跡はここまで半円を描いて進んで来ました。この先さらに南に向かって進んでいきます。

市民病院の建物の並びに、線路跡に対して斜めに建てられたお宅が見えてきました。ここは古塩浜信号所跡です。信号所は列車の行き違いのために、昭和31(1956)年に設置されました。このお宅はその敷地に沿って建てられたとのこと。玉方面行きの列車が対向車とすれ違うため左側の線路に入っていたのでしょう。ここでタブレットの交換が行われていたそうです。市役所前駅から0.11km離れていました。

市民病院を出ると、線路跡は正面の山に向かって緩やかに登っていきます。右側に宇野保育園と宇野小学校を見ながら中山トンネルに入ります。出口まで157m、二番目の長さです。

中山トンネルを抜けて、藤井海岸駅跡をめざします。名前から海の近くにある駅と思っていました。近くにおられた方にお聞きすると「あそこの畑のところで乗り降りされていましたよ」のご返事。

お話しにあった畑は左側の樹木が生えているところにあったそうです。藤井海岸駅跡。海岸からは少し離れていました。古塩浜信号所から0.73kmだそうです。

藤井海岸駅跡からしばらく行くと正面に三井造船玉野事業所の巨大なクレーンが見えてきました。海に近くなったことを感じました。

その先には伝統的な民家が残っていました。住宅地の落ち着いた雰囲気の中を歩いていきます。

前方に線路跡を斜めに横断する道路が見えました。その手前、右側の白い壁のアパートの下に、かつて玉野保健所前駅がありました。藤井海岸駅から0.46kmでした。

これはアパートに残っていた階段の一部です。かつては、この階段はホームまであり、それを使ってホームに降りていました。残っていたことに感動しました。現在では必要とは思えない階段ですから・・・。

斜めに横断していた道路の向こうに大仙山トンネルが見えました。3つのトンネルで一番短く全長60mでした。

大仙山トンネルの中は、老朽化による不具合の点検や補修のため通行止めになっています。手前を迂回します。

大仙山トンネルの出口です。すでに補修が終わっていて、出口の形が方形に変わっていました。

線路跡の前方に要塞のような大聖寺が見えました。この先で道路を横断します。

線路跡は三井造船の敷地に向かって延びています。

大聖寺駅跡です。大聖寺に登っていく参道の入り口にあった石標です。ホームは石柱のすぐ左にあり、こちら側から石段を登ってホームに上がっていました。玉野保健所前駅から大仙山トンネルを含めて0.26kmありました。

大聖寺駅を出た列車は白砂川橋梁で白砂川を渡ります。

橋脚は列車が走っていた当時のまま残っていました。

玉野市電の線路は三井造船の敷地内を三井造船前駅に向かっていました。

写真は三井造船玉野事業所の正面入り口です。近くのカフェのご主人から「あそこに3つ看板が並んでいる建物があるだろ?その前に駅と車庫があったんだ。」と教えていただきました。三井造船前駅跡です。昭和30(1955)年に玉の繁華街まで延伸する前の終点、玉駅の跡でした。

ここで、大聖寺前駅へ行くとき渡った道を再度渡ります。繁華街まで延伸した時の列車は、正面の三井不動産ビルの左側と、バスの前部との間を繁華街に向けて進んでいました。

玉の繁華街にあるイベント広場です。ここにかつての終点、玉橋駅(後に玉駅)がありました。三井造船前駅から0.17kmでした。昭和31(1956)年事業が玉野市に委譲され、昭和35(1960)年さらに玉遊園地前駅まで延伸します。また、昭和39(1964)年には会社名はそのままで、ディーゼルカーによる運行に変わりました。

玉遊園地前駅まで延伸されてからは、イベント広場の脇を流れる白砂川の中に橋脚を設けてその上を列車が走ることになりました。

現在、駐車場になっているところが、かつての線路跡です。

玉比咩(たまひめ)神社です。この前に玉比咩神社前駅が設置されていました。玉駅から0.43kmありました。

犬の散歩中だった女性にお聞きすると、玉比咩神社前駅は神社前に架かる横断陸橋の手前にあったそうです。

横断陸橋を渡ってさらに進みます。線路跡には駐車場が続いています。

次の玉小学校前駅跡です。玉比神咩社前駅から0.30km。玉小学校前駅から先は、歩行者自転車専用道路に変わっています。前方にある変電所を見ながら進みます。

変電所前のカーブで線路を支えた橋脚が見えました。こんなに小さい橋脚で大丈夫かと思いましたが・・。終点が近づいてきました。

変電所を過ぎると前方に公園が見えました。玉遊園地です。いよいよ終点です。

玉遊園地前駅は、すれ違った男性のお話では「『すこやかセンター』の看板の手前だった」とのこと。このあたりが駅跡になります。右側の柵のあたりからホームになっていました。玉小学校前駅から0.24kmのところでした。

玉遊園地前駅跡からさらに10分ほど行ったところにあるすこやかセンターにあった、余生を送る玉野市電のキハ103(車体は高松琴平電鉄760)です。玉野市電を愛する「玉野市電保存会」の人々のご尽力で里帰りした、玉野市電の生き証人です。


昭和28(1953)年、宇野・玉間で開業した備南電気鉄道は、さらに、海水浴場で知られる渋川を経て児島(倉敷市)につなげるという壮大な計画をもっていました。しかし、開業以来赤字が続き、事業の継続は玉野市に委ねられました。玉野市は路線の延長を行い、ディーゼルカーによる運行に転換もしましたが、結局黒字になることは一度もなかったそうです。時代は鉄道から車へ、モータリゼーションの発達により、鉄道事業の継続は不可能となりました。こうして、玉野市電は、昭和46(1971)年3月末日をもって運行を停止しました。「事業の開始が戦時中だったら・・」という地元の声もありましたが、玉野市電はたった19年間の短い生涯を閉じたのでした。”悲劇の鉄道”という言葉が頭をよぎります。

この日、歩行者自転車専用道路になった線路跡には、ご夫婦で散歩をされているたくさんの高齢者の姿がありました。


重要文化財の駅、 旧JR大社駅

2014年11月16日 | 日記

これは、旧JR大社線の終着駅、大社駅の写真です。14,671㎡という広々とした敷地に建てられた、出雲大社を模した宮殿風の駅舎で、左右対称の優美な姿で広く知られています。平成16(2004)年、国の重要文化財に指定されました。重要文化財の駅舎は、私が知る限りでは、JR東京駅とJR門司港駅と計3ヶ所しかないと思います。そして、平成21(2009)年には、経済産業省の近代化産業遺産にも認定されています。

JR大社線は、明治45(1912)年の開業以来、78年に渡って出雲大社への参詣客を輸送していました。最盛期の昭和47(1972)年には一日平均4000人の乗車人員がいたという人気路線でした。しかし、平成2(1990)年3月末をもって78年間にわたる輸送業務に終止符を打ちました。国鉄からJR西日本に変わって2年目のことでした。

大社線の線路跡に沿って歩いた日(2014年11月8日の日記)、現在のJR大社駅を訪ねてきました。写真の風景は、大社線でやって来た乗客が最初に見る大社駅の姿です。列車はここから真っ直ぐ正面のホームに入っていました。

ここから左に進み、大社駅の正面に向かいます。大社駅舎は大正13(1924)年に建設された2代目の駅舎です。初代の駅舎の倍の規模でつくられました。設計は曽田甚蔵。中央本線高尾駅北口駅舎の設計でも知られた方だそうですが、私は、駅前にあった説明板で初めて知りました。正面の屋根が一段高くなっています。木造平屋瓦葺きで、441㎡あるそうです。白壁は漆喰仕上げ、腰から下は縦板張りになっています。「大社駅」と書かれた正面から中に入ります。

これは、駅前の説明板にあった駅舎内部の構造の説明です。入るとすぐ目の前は「三等待合室」で、正面に出札口が置かれていました。一、二等車の乗客の待合室は右手奥にありました。私が物心ついてからは一.二.三等車の区別はなくなっていましたので、こちらは長くは使われていなかったはずです。駅舎の左側が駅長事務室。駅員さんの事務所でした。

駅長事務室の方向を撮影しました。三等待合室の一段高く造られた天井付近には高窓もつくられていて、白い漆喰の壁とあいまって内部が明かるく照らされていました。また、柱や天井から吊された照明器具のデザインもなかなか趣深いものでした。ここからは見えませんが、事務室の左側奥には応接室(貴賓室として使われたそうです)がありました。また、柱には台湾檜(ひのき)が用材として使われているそうです。

ホーム寄りにあった出札口(切符売り場)です。木製のどっしりとした造りです。窓口も多くかつての賑わいを伝えています。

出札口にあった観光案内所。ここも、多くの乗客で賑わっていたことでしょう。

これは、一、二等待合室の方向を撮影したものです。左側にあるのが出札口。右側の青い椅子が見えているところが一、二等待合室です。新しい椅子が設置されていて、全体の雰囲気とはやや異なった感じです。左の部屋が小手荷物扱室。隣の待合室との間には小荷物や手荷物の管理室が置かれていました。

三等待合室にあった掲示物です。15本の列車の発車時刻表です。廃止されたときに使用されていたものです。上り出雲市駅行きの列車だけでした。かつては、東京行きの急行「出雲」、名古屋行きの急行「大社」、大阪・京都行きの急行「だいせん」などの優等列車の名もあったはずです。

これは出雲高松駅近くの高松駅前(えきぜん)橋に展示されていたキハ47のディーゼルカーの写真です。車体の「JR」のマークから廃止直前の大社線の列車だったことがわかります。時刻表に記された列車はこんな雰囲気で走っていたのでしょう。

これも同じ待合室にあった廃止時の運賃表です。出雲市駅までは200円でした。出雲市駅までは7.5kmですから、現在のJR西日本の幹線では200円、地方交通線では210円の区間にあたります。大社線が廃止されてから24年経過していますが、ほぼ同じ額ということになります。とすれば、この運賃表はそのままあてはめることはできませんが、現在でもある程度参考になるのではないでしょうか。

大社線廃止時の大社町内の旅館案内も残っていました。14旅館の名前が見えます。

改札口からホームに出ます。左側の駅長事務室の前です。手動のポイント切り替えと信号機が置いてありました。

ホームにあった木製の改札口です。かつての姿をそのまま残しています。

線路跡からホームを撮影しました。大社駅は2面3線の駅でした。この3線はこの先で一本になり最後には車止めがあったとウィキペディアには書かれていました。最盛期には年間280本もの団体臨時列車も出たという大社駅ですので、引きあげ線もさぞかし長かったことでしょう。

これは駅舎の向かいのホームから撮影した大社駅舎です。駅舎の手前の建物にはトイレが入っています。トイレと駅舎の間の屋根の下には石製の団体改札口が設置されていました。

駅舎から3本目の線路に静態保存されているSL、D51774号機です。プレートには「昭17 汽車」と書かれています。昭和17年汽車製造製のSLです。

このSLは大社線の廃止時にJR西日本から大社町に無償で譲渡されて、出雲大社の神苑に展示されていたもので、平成13(2001)年に大社町の合併50周年記念として、ここに移したもののようです。運転席が観光客に開放されていました。

SLが展示されていたホームにあった「名所案内」です。当然のことながら、「出雲大社」がトップに書かれています。

これは、駅舎前にあった案内板に載っていた往時の写真です。詳しい年号がありませんでしたので正確な時代がわかりませんが、かつてはこういう光景が見られたのでしょうね。大勢の人であふれた出発風景です。

大社駅が廃止されてからすでに24年、四半世紀になります。しかし、地元の大社町の皆さんのお力で営業していた時期と変わらぬ姿で保存されています。私が訪ねたのは平日でしたが、たくさんの観光客が「きれいねー」といいながら帰って行かれました。東京駅や門司港駅と並ぶ、国指定重要文化財に指定された価値ある駅舎が、いつまでも観光客に愛され続けてほしいと願いながら駅を後にしました。



旧大社駅まで大社線の跡地をたどる

2014年11月08日 | 日記

千家国麿さんと高円宮典子さんのご結婚をお祝いするメッセージです。JR出雲市駅のホームから下る階段に掲示されていました。平成26(2014)年10月5日、出雲大社で行われた結婚式を思い出しました。

これも、階段にあった「神在月(かみありづき)」のポスターです。旧暦の10月には、全国各地の神々が神議を行うために出雲の地に集まって来られます。そのために10月は「神無月(かんなづき)」といわれていますが、出雲では「神在月」ということになります。今年の旧暦10月1日は11月22日(土)にあたります。神々は稲佐の浜から上陸されるようですが、このポスターは全国からやって来る観光客をお迎えするために掲示されているのでしょう。神在月だけでなく、今年はお二人のご結婚もありましたので、多くの人が訪ねて来られることでしょう。

これは、旧大社駅舎です。平成16(2004)年に国の重要文化財に指定され、さらに、平成21(2009)年には近代化産業遺産に認定されています。この日はJR出雲市駅から旧大社駅まで、旧大社線の跡地をたどることにしていました。

出雲市駅の北側の出口から出ます。神社を連想させるJR出雲市駅の正面です。出雲市駅は改築されたとき少し後ろ(南)に引いて立てられました。現在の駅前広場があるところに以前の駅舎があったそうです。

こちらはお二人の披露宴が行われた「一畑ツインリーブズホテル」です。駅舎の北西にあります。

旧大社線は、出雲市駅から山陰本線と並行して西に向かっていました。現在ではかつての線路跡をたどることはできませんが、とりあえず、一畑ツインリーブズホテルを背にして、高架になった山陰本線に沿って進みます。山陰本線は明治43(1910)年松江から出雲市駅(当時は出雲今市駅。昭和32=1957年に改称)までが開通しました。そして、大社線は2年後の明治45(1912)年6月1日、山陰本線の延長のような形で、出雲市駅と大社駅間が開通しています。

「JR乗務員宿泊所」の先で行き止まりになりますが、迂回して、さらに高架の山陰本線沿いに進みます。15分ぐらい歩いた後、突然、歩道が現れました。

前方に山陰本線をまたぐ跨線橋が見えてきます。跨線橋を越えて、さらに道路の歩道部分を進みます。

高架だった山陰本線が歩道と併走するようになると「農林高校踏切」に着きます。踏切のすぐ脇に「自転車歩行者専用道路」と書かれた舗装道路があります。ここがサイクリングロードになっている大社線の跡地です。

桜の並木の間を進みます。明治45(1912)年に開通した大社線は、大正2(1913)年に出雲大社神苑から大社駅につながる道路(神門通り)が開通し、さらに山陰本線も京都・益田間が開通したため、出雲大社への参詣者の利用が増加していきました。

このとき、収穫の終わった田んぼの向こうを、大田市駅行きの山陰線の単行列車が南西に向かって走って行きました。

早朝からの農作業の帰りらしい、自転車に乗った高齢者とすれ違いながら、自転車歩行者専用道路に入って10分ぐらい歩くと「踏切制御子外箱」と書かれた白い箱が何個か残っていました。写真は「願楽寺踏切」と書かれた白い「外箱」でした。

左右(南北)に通る道路の向こう側に踏切にかかわる設備が残っていました。「通行止」の表示がありましたが、進めるところまでいくことにしてそのまま先に進みました。

芒の間の道の向こうに国道9号線とのアンダークロスがありました。このあたりが工事中でした。歩いて進むには支障がなかったのでそのまま高架の下をくぐります。

工事中のため草が刈られていましたが、その中にあった「踏切制御子用」と書かれた外箱が草に覆われて残っていました。

さらに3分ぐらい。草むらの中に「地下」「信号ケーブル」と刻まれた石柱を発見。また、田んぼとの境にあった境界標もいくつか目につきました。

その先には国道9号線バイパス。横断歩道がありませんので、左側のバイパスの下をくぐる迂回路を進みます。

バイパスを渡ってから、10分ぐらいで左側に先端がとがった石柱を見つけました。「3キロポスト」だといわれているもののようです。もちろん、私には読むことはできませんでした。

さらに2,3分歩くと橋が見えました。赤川に架かる「第一赤川橋梁」の跡です。本格的な鉄道遺産に出会いました。写真からもわかるように鉄板の下に枕木が見えました。

橋梁の横から見ると、橋台も橋桁も当時のまま残っています。橋桁にプレートが残されていました。撮影してきた写真からたどると、「明治四拾貳年」、そして、現在の川崎車両兵庫工場製のように書かれていました。

赤川第一橋梁から2~3分。右側の民家の上に高松小学校の校舎が見えました。途中で出会った地元の方が「小学校の近くに出雲高松駅の跡が残っているよ」と言われたことを思い出しました。

そのとき急に大きなサイレンが鳴り出しました。右前にある高松コミュニティハウスからでした。時刻は正午でした。ここで、トイレをお借りして、少し情報もいただき線路跡に戻りました。右側の建物がコミュニティハウス。この先に出雲高松駅跡があるはずです。

忠魂碑の先に出雲高松駅のホームの跡が見えました。石垣をコンクリートでおおった造りでした。出雲高松駅は明治45(1912)年の11月15日に、朝山駅として開業しました。大社線の開業は6月1日でしたので、半年程度遅れて開業したことになります。ちなみに、「出雲高松駅」と改称されたのは、昭和7(1932)年のことでした。

線路跡の右側にあったホームの後ろ(右)側に回ります。こちら側も同じようなホームの造りでした。出雲高松駅は列車の行き違いができる1面2線の駅だったようです。

これがかつての出雲高松駅です。この先の高松駅前橋に残されていた写真です。地元の方の作でしょうか、大社線を懐かしむ詞も添えてありました。出雲地方に多い赤瓦葺き、入母屋造りの平屋の駅舎でした。出雲高松駅は出雲市駅から3.5kmのところにありました。

出雲高松駅のすぐ先にあった高松駅前橋。「駅前」は「えきぜん」と読むようです。新しい橋を架けたとき、かつての写真を貼り付けたのでしょう。

駅前橋はかつては「明川橋」と呼ばれていたようですね。これも駅前橋に残されていました。

これも、駅前橋に貼り付けられていた写真です。キハ47の赤い車体。JRと書かれていますので廃線直前に撮影された写真のようです。ちなみに、国鉄が民営化されJRになったのは昭和62(1998)年。大社線の廃業は平成2(1990)年のことでした。

これも懐かしい写真です。SLのC571号機が「大社路」のヘッドマークをつけて走っています。このC571号機は京都梅小路運転区所属で、「貴婦人」の愛称をもっており、R山口線を走る”SLやまぐち号”の牽引で知られています。

高松駅前橋の先で、大社線はとぎれます。その先は、工事現場の重機の左側の舗装された道になります。

出雲高松駅で30分程度過ごした後、次の荒茅駅をめざして出発しました。左の田んぼとの間に境界石が並ぶ中を10分程度歩くと、出雲市立浜山中学校が見えました。

浜山中学校の左隣を進みます。舗装道路は途切れ線路跡の盛り土の道が続いています。その中に勾配標を見つけました。かつての雰囲気を伝えてくれています。

きれいに草が刈られた道にバラストが見えました。まぎれもなく線路の跡です。

浜山中学校は広々としています。グランドを右に見ながら進みますが、突如草ぼうぼうの道になります。「どうしよう?通れないのか?」と思っていたら・・・。

左の田んぼとの境目に道がありました。この迂回路を進みます。

浜山中学校と並んで歩くこと10分。川で道は行き止まりになりました。歩いてきた道を振り返りました。線路跡はここまで続いていました。

この川は高瀬川。かつて高瀬舟が行き交ったのでこの名前がつきました。この先、旧大社駅に入る手前に大梶七兵衛氏の功績をたたえる碑が建っています。私財を投げ打って、「あらき浜」の開拓を成し遂げ、また、灌漑用水の確保のために斐伊川の水を引いて高瀬川をつくった方です。目の前の川がその高瀬川です。高瀬川の対岸に大社線の線路跡が残っています。

目の前に見えても橋がなくて渡れません。もう一度浜山中学校の正門をめざして迂回します。20分ぐらいかかりましたが、対岸の線路跡に着きました。道路脇に残る遺産を見ようとしたら蜂の大群が襲って来たので退散しました。

再び舗装された道が現れます。さらに進みます。

対岸から歩いて7~8分。荒茅(あらかや)駅跡に着きました。ここにもホーム跡が残っていました。この駅は比較的新しく、昭和33(1958)年に開業しました。コンクリートでつくられています。一面一線の駅だったようです。

荒茅駅の大社方面に、ホームの手すりが残っていました。こちらから見ると、ホームの中央部が外に4角形にはみ出しています。

近づいてみると、草の中に古いレールを2本組み合わせて柱として使っていた名残が残っていました。やはり待合室があったところのようです。

荒茅駅の大社駅寄りには、自衛隊前踏切がありました。外箱には「5k005m」と書かれていました。荒茅駅は出雲市駅から5km、出雲高松駅から1.5kmのところにありました。

この先しばらく舗装道路が続きますが、やがて広い道路に吸収され線路跡が消滅してしまいます。ここは荒茅駅から15分ぐらい歩いたところですが、線路との境界標が民家のすぐ脇に接して残っていました。

大社線の線路跡はやがて「ご縁通り」になり、まっすぐ旧大社駅に向かっていました。

歩き始めてから3時間30分、旧大社駅の入り口に着きました。目の前には大梶七兵衛氏の功績を讃える碑が建っている小公園がありました。大社駅は出雲市駅から、7.5km。

大社線は、明治45(1912)年に開業しました。大正2(1913)年出雲大社の神苑から神門通りが開通し、大社駅から出雲大社に直結するルートができました。また、大正12(1923)年には山陰本線が京都駅から益田駅まで開業し、多くの参詣客が利用するようになりました。最盛期には、年間280本の団体臨時列車を運行し、1日平均乗車人員4,000人(昭和47=1972年)という賑わいを見せました。定期の優等列車として、名古屋・大社間の急行「大社」、京都・大社間の急行「だいせん」、東京・大社間の急行「いずも」が運行されていました。 しかし、モータリゼーションの発達により、輸送旅客数が減少し、JRになってすぐの平成2(1990)年に廃止となりました。廃止から24年。今はサイクリングロードとして整備が進んでいます。 大社線の跡地を歩く旅は、秋の日差しの中、気持ちのいいハイキングになりました。