丹後地方は、国内の三分の一の絹を生産する国内最大の絹織物の産地として知られています。名産の”丹後ちりめん”は、織り上げた白い生地のまま京都・室町に送られ、染色され縫製されて製品になっていきます。特に、京都府与謝郡内の旧加悦(かや)町や旧野田川町(現・与謝野町)は、丹後ちりめんの生産地として有名です。
これは、旧加悦町にある「ちりめん街道」に建てられている石標です。「縮緬(ちりめん)発祥之地」「始祖 手米屋小右衛門」と彫られています。奈良時代から絹の産地として知られているこの地にちりめんの技術を伝えたのは、石標に名前を残している手米屋小右衛門をはじめ、山本屋佐兵衛、木綿屋六右衛門らの人々で、享保7(1722)年のことでした。この地域が丹後ちりめんの生産地となるきっかけになりました。
丹後ちりめんの輸送を担ったのが加悦鉄道でした。大正15(1926)年、すでに開通していた国鉄線への連絡駅である丹後山田(現・与謝野)駅と加悦駅間5.7kmが開通(軌間1067ミリ)しました。開通に向けて大きな力になったのが、丹後地方の町民823名が出資した30万円の資金でした。加悦鉄道はこの地域の町民が建設した鉄道といってもいいでしょう。さて、写真は、加悦鉄道の加悦駅舎です。加悦鉄道は、その後、昭和14(1939)年、大江山ニッケル鉱業に経営が移り、精錬所のある岩滝工場まで輸送する鉄道を延伸させました。こうして、加悦鉄道によって、大江山鉱山のニッケル鉱石を岩滝工場まで輸送し精錬もする一貫生産がなされるようになりました。
モータリゼーションの進展により貨物のトラック輸送が盛んになったため、昭和59(1984)年に加悦鉄道は丹後ちりめんなどの貨物輸送を廃止し、また、昭和60(1985)年には、国鉄宮津線も貨物輸送を廃止することになりました。この国鉄の貨物輸送の廃止は、加悦鉄道に大きな衝撃を与えました。加悦鉄道の収入の6割を占めていたニッケル鉱の輸送ができなくなり、経営のメドが立たなくなってしまったのです。こうして、国鉄宮津線の貨物輸送が廃止された一ヶ月後の昭和60年5月1日、加悦鉄道も全線が廃止されてしまいました。この日、私は、この加悦鉄道の線路跡をたどることにしていました。JR豊岡駅から、京都丹後鉄道で与謝野駅(旧丹後山田駅)に向かいます。JR豊岡駅の脇から京都丹後鉄道の豊岡駅に入っていきます。
現在の京都丹後鉄道の豊岡駅です。旧宮津線が廃止された後の鉄道は、京都府と沿線の自治体で構成する第3セクター、”北近畿タンゴ鉄道”に、平成2(1990)年に引き継がれることになりました。しかし、経営は一度も黒字になることなく、平成27(2015)年4月1日から、施設所有と鉄道運行を分離する、いわゆる上下分離方式により、”WILLER TRAINS”(WILLER ALLIANCEの子会社)が鉄道運行を引き継ぐことになり、北近畿タンゴ鉄道は施設を所有するだけの第三種鉄道事業者になりました。写真の「丹鉄」は、”WILLER TRAINS”が運行する「京都丹後鉄道」のことです。
京都丹後鉄道の豊岡駅です。
12時14分発の西舞鶴行きの電車で与謝野駅をめざしました。乗車した801号車、平成2(1990)年富士重工製です。お聞きすると、北近畿丹後鉄道の車両はすべて富士重工製の気動車(ディーゼルカー)だそうです。しかし、出発してから約1時間後、丹後大宮駅(与謝野駅の一つ手前の駅)に停車中に、信号トラブルにより、全列車が運行を停止してしまいました。
2時間半遅れで、やっと与謝野駅に着きました。国鉄時代は丹後山田駅、北近畿タンゴ鉄道時代は野田川駅、そして、この4月に京都丹後鉄道(以下、「丹鉄」)になってからは、与謝野駅と改称されました。ここから、昭和60(1985)年に廃止された加悦鉄道の加悦駅跡まで歩くつもりでした。しかし、ずいぶん遅れて到着しましたので、レンタサイクルで移動することにしました。与謝野駅で、200円を支払って、自転車をお借りしました。
自転車では駅構内を横断することができませんので、駅前の県道を豊岡方面に300mぐらい引き返して、丹鉄の踏切を渡ります。そして、与謝野駅の駅裏まで引き返します。加悦鉄道の跡地は、平成10(1998)年から、サイクリングロード「加悦・岩滝自転車道路」(京都府道803号)になっています。
丹後山田駅跡を示す標識(以下、「駅跡標」)が設置されていました。
少し見にくいのですが、駅跡標に載っていた昭和45(1970)年の丹後山田駅のようすです。プラットホームが3面、6番線まであります。加悦鉄道線が向かって右側の3線です。一番右のディーゼル機関車が停車しているところが岩滝専用線。その左側のディーゼルカーが停車しているところが加悦鉄道の2番線、ホームを挟んで左側が加悦鉄道の1番線です。SLが停車しているのが国鉄3番線ということになります。
これは、現在の与謝野駅の2面3線のホームです。旧国鉄の3線分だけの線路が残っており、加悦鉄道の線路は撤去されていました。
丹後山田駅の駅跡表に載っていた、日本冶金の岩滝工場へ向かう線路跡です。時間の関係で、丹後山田駅跡・岩滝駅跡間、2.9kmを走るのはあきらめました。
加悦駅方面に向かって出発です。加悦鉄道時代の名残を求めて走ることにしました。
100mぐらい行くと、左側にトタン屋根の簡素な建物がありました。
建物の中です。無人販売所のようですが、売っていたものは、正面にあったひょうたんなど、多くはなかったようです。
無人販売所の先に放置してあった枕木。これが唯一の加悦鉄道時代の名残でした。
道路と交差します。与謝野駅からレンタサイクルで右側から来ると、ここで加悦鉄道跡地と合流することになります。鉄道跡はまっすぐに加悦方面に向かっています。案内の道標には「KTR野田川駅」と書かれています。4月から「丹鉄 与謝野駅」と変更されていますが、間に合っていないようです。
線路跡の右側にあった山田小学校です。
桜並木が見えるようになります。並木の向こうに建物が見えます。
水戸谷(みとだに)駅跡の「駅跡表」がありました。丹後山田駅から1.4km離れていました。加悦駅跡にある「加悦鉄道資料館」の職員の方にお聞きすると、駅跡標は「概ね、かつての駅跡に設置しています」とのことでした。ここには、トイレを兼ねた休憩所がつくられていました。
これは「駅跡標」に載せられていた昭和36(1961)年の水戸谷駅の写真です。1面1線のホームです。ディーゼルカーに乗車しようとしている方が写っています。車掌さんでしょうか?
これも、駅跡標にあった「加悦鉄道の営業線 5.7km」の概念図です。この後も駅跡をたどっていきます。
次の丹後四辻(たんごよつつじ)駅へ向けて進みます。最初の橋を渡ります。橋台も橋桁も改修されており、かつての面影はまったく残っていませんでした。
自転車道路に設置されていた勾配標です。ほぼ平坦な道ですが・・・。
距離標です。加悦駅跡までが、4.3kmということを表しています。
線路跡が広くなりました。ここから、左右にカーブしながら進みます。
道路との境に駅跡標が見えました。
丹後四辻駅跡です。水戸谷駅から1.2kmのところ、加悦駅までのほぼ中間点にありました。かつての駅舎は、加悦駅に向かって右側にありました。2面のホームを有し、加悦鉄道で唯一列車交換ができる駅でした。また、SL用の給水塔も備えていました。昭和2(1927)年の北丹後地震で駅舎が焼失しましたが、翌年、以前と同じ形で再建されました。貨物の取扱いも行っていました。
駅跡標に載せられていた丹後四辻駅舎の写真(昭和36年撮影)です。軒が高い平屋建てだったようです。昭和46(1971)年からは無人駅になりましたが、昭和60年の廃止まで使用されました。
その先で野田川を斜めに横断します。
以前の鉄橋は撤去されており、直角に渡る新しい橋が架けられていました。これは、以前、鉄橋が架かっていたところを撮影しました。
旧野田川町役場の脇を通って進みます。その先に白い建物が見えました。
加悦谷高校前駅跡です。丹後四辻駅から0.9kmのところにありました。路面には、線路と枕木をイメージした塗装がなされていました。
昭和23(1948)年に開校した加悦谷高校は、昭和38(1963)年に本館と教室等が竣工しました。駅が新設されたのは昭和45(1970)年、その後、昭和60年の加悦鉄道の廃止まで使用されました。
駅跡標に載せられていた写真です。田んぼの中に建つホームと待合室が見えます。
駅舎跡にあった白い建物の後ろには、府立加悦谷高校の校舎とグランドがありました。
その先の右側にスーパーがありました。加悦鉄道の沿線にあった唯一の店舗です。
川を渡った先に、次の三河内口(みごうちぐち)駅跡がありました。加悦谷高校前駅から0.6km。この駅は地元の強い要望を受けて、昭和6(1931)年に設置されました。ホームは線路の右側にあって、待合室が建っていました。昭和9(1934)年には、ホームが12m延長されたそうです。昭和11(1936)年には切符販売を委託していた地元の方がやめられたので、廃車した車両(ハ4999)で切符販売を行ったこともあったとのことでした。
駅跡標にあった写真です。SL2号機が引く列車が入っています。バック運転をしているようですね。
三河内口駅跡から0.5km、丹後三河内(たんごみごうち)駅跡につきました。大正15(1926)年、加悦鉄道の開業と同時に開設されました。この駅も昭和2(1927)年の北丹後地震で倒壊し、再建されました。荷物の取扱いも行っていました。かつての駅舎は右側に設置されていました。
丹後三河内駅跡標です。昭和37(1962)年には無人駅となり、昭和50(1975)には駅舎が解体されたそうです。
これは、駅跡標にあった写真です。軒の高い白壁の平屋建てです。民家のように見えますが、改札口の形で駅舎だとわかります。写真のように、駅前には紅葉の木が植えられていました。「昭和36年」と読めます。有人駅時代の末期の駅舎の姿です。
目的地の加悦駅をめざして、大江山の山並みを見ながら進みます。前方に橋がありました。加悦奥川に架かる宮野下橋です。ここも、かつての鉄橋の面影は残っていませんでした。正面に見えるビルは道標にあった与謝野町加悦庁舎(加悦駅跡)です。
宮野下橋のそばに「ロマン街道」の碑がありました。かなり年季が入った碑です。古墳公園の案内のようでした。
加悦駅跡の駅跡標が設置されていたところです。トイレを兼ねた休憩所が建てられていました。水戸谷駅跡に次ぐ二つ目の休憩所です。加悦駅は加悦鉄道の開業に合わせて、大正15(1926)年に建設されました。設計者は特定できませんが、施工者は福井県小浜市の田辺藤七氏でした。駅舎は軒の高い洋風の2階建てで、外観の白い板壁と緑の瓦が印象的な、近代的な駅になっていました。
駅跡標にあった昭和59(1984)年の加悦駅の写真です。廃止される1年前の駅の姿です。ホームに最も近い線路は、さらに先の大江山鉱山まで延びています。また、丹後ちりめんなどの貨物の取扱いも行っていた駅でした。丹後三河内駅から1.1kmのところにありました。
これも駅跡標に載っていた駅の構造図です。
加悦駅跡の駅標があるところの後方に、加悦駅舎が建っています。写真の駅舎とは180度向きが違っています。前後を回転させて、ここまで曳き移転されて来ました。
現在は、加悦鉄道記念館として使われています。職員の方からたくさんの情報をいただきました。
駅舎は曳き移転されたと書きましたが、加悦鉄道記念館の職員の方のお話では、駅舎があったところは与謝野町加悦庁舎の前のバス停付近だったそうです。写真の右側の「与謝野町舎加悦庁舎」の看板があるあたりです。
これは駅跡から見た、かつての駅前通り、駅への取り付け道路です。
これは、与謝野町加悦庁舎の建物の中にある、かつて、転車台があったところです。今もそのままの形で残されています。
これは、先ほどの駅跡標があったところから、真っ直ぐ前に進んだところ、庁舎の脇にあった転車台の説明板です。後ろに、庁舎内に残る転車台の跡が見えています。
説明板に載せられていたSL2号機の写真です。明治6(1873)年イギリスのロバートスティーブンソン社が製作したSL、その年日本に輸入された、日本で2番目に古いSLです。日本に来てからは大阪・神戸間で使用され、鉄道院時代に123号機となりました。その後、島根県の簸上(ひのかみ)鉄道(JR木次=きすき線の前身)を経て、開業に伴い加悦鉄道に移ってきました。加悦鉄道ではSL2号機となり、引退した昭和31(1956)年までの30年間に、297,800kmを走ったといわれています。
これは、旧加悦鉄道大江山鉱山駅跡にできた「加悦SL広場」に展示されている、現在のSL2号機です。平成17(2005)年に国の重要文化財に指定されました。
加悦鉄道の跡地に整備された「加悦・岩滝自転車道路」は、ここで与謝野町加悦庁舎にぶつかります。この後、加悦庁舎の左を迂回して、大江山鉱山駅跡に向かってさらに続いていました。
昭和60(1985)年に廃止された加悦鉄道の跡地は、「加悦・岩滝自転車道路」に整備されていました。加悦鉄道が走っていた時代につながるものは、旧丹後山田駅跡に近いところに残っていた枕木だけでした。しかし、緑濃い水田に続く線路跡は、当時の雰囲気を今に伝えてくれていました。次は、加悦鉄道時代の車両の見学に「加悦SL広場」を訪ねてみようと思いました。
これは、旧加悦町にある「ちりめん街道」に建てられている石標です。「縮緬(ちりめん)発祥之地」「始祖 手米屋小右衛門」と彫られています。奈良時代から絹の産地として知られているこの地にちりめんの技術を伝えたのは、石標に名前を残している手米屋小右衛門をはじめ、山本屋佐兵衛、木綿屋六右衛門らの人々で、享保7(1722)年のことでした。この地域が丹後ちりめんの生産地となるきっかけになりました。
丹後ちりめんの輸送を担ったのが加悦鉄道でした。大正15(1926)年、すでに開通していた国鉄線への連絡駅である丹後山田(現・与謝野)駅と加悦駅間5.7kmが開通(軌間1067ミリ)しました。開通に向けて大きな力になったのが、丹後地方の町民823名が出資した30万円の資金でした。加悦鉄道はこの地域の町民が建設した鉄道といってもいいでしょう。さて、写真は、加悦鉄道の加悦駅舎です。加悦鉄道は、その後、昭和14(1939)年、大江山ニッケル鉱業に経営が移り、精錬所のある岩滝工場まで輸送する鉄道を延伸させました。こうして、加悦鉄道によって、大江山鉱山のニッケル鉱石を岩滝工場まで輸送し精錬もする一貫生産がなされるようになりました。
モータリゼーションの進展により貨物のトラック輸送が盛んになったため、昭和59(1984)年に加悦鉄道は丹後ちりめんなどの貨物輸送を廃止し、また、昭和60(1985)年には、国鉄宮津線も貨物輸送を廃止することになりました。この国鉄の貨物輸送の廃止は、加悦鉄道に大きな衝撃を与えました。加悦鉄道の収入の6割を占めていたニッケル鉱の輸送ができなくなり、経営のメドが立たなくなってしまったのです。こうして、国鉄宮津線の貨物輸送が廃止された一ヶ月後の昭和60年5月1日、加悦鉄道も全線が廃止されてしまいました。この日、私は、この加悦鉄道の線路跡をたどることにしていました。JR豊岡駅から、京都丹後鉄道で与謝野駅(旧丹後山田駅)に向かいます。JR豊岡駅の脇から京都丹後鉄道の豊岡駅に入っていきます。
現在の京都丹後鉄道の豊岡駅です。旧宮津線が廃止された後の鉄道は、京都府と沿線の自治体で構成する第3セクター、”北近畿タンゴ鉄道”に、平成2(1990)年に引き継がれることになりました。しかし、経営は一度も黒字になることなく、平成27(2015)年4月1日から、施設所有と鉄道運行を分離する、いわゆる上下分離方式により、”WILLER TRAINS”(WILLER ALLIANCEの子会社)が鉄道運行を引き継ぐことになり、北近畿タンゴ鉄道は施設を所有するだけの第三種鉄道事業者になりました。写真の「丹鉄」は、”WILLER TRAINS”が運行する「京都丹後鉄道」のことです。
京都丹後鉄道の豊岡駅です。
12時14分発の西舞鶴行きの電車で与謝野駅をめざしました。乗車した801号車、平成2(1990)年富士重工製です。お聞きすると、北近畿丹後鉄道の車両はすべて富士重工製の気動車(ディーゼルカー)だそうです。しかし、出発してから約1時間後、丹後大宮駅(与謝野駅の一つ手前の駅)に停車中に、信号トラブルにより、全列車が運行を停止してしまいました。
2時間半遅れで、やっと与謝野駅に着きました。国鉄時代は丹後山田駅、北近畿タンゴ鉄道時代は野田川駅、そして、この4月に京都丹後鉄道(以下、「丹鉄」)になってからは、与謝野駅と改称されました。ここから、昭和60(1985)年に廃止された加悦鉄道の加悦駅跡まで歩くつもりでした。しかし、ずいぶん遅れて到着しましたので、レンタサイクルで移動することにしました。与謝野駅で、200円を支払って、自転車をお借りしました。
自転車では駅構内を横断することができませんので、駅前の県道を豊岡方面に300mぐらい引き返して、丹鉄の踏切を渡ります。そして、与謝野駅の駅裏まで引き返します。加悦鉄道の跡地は、平成10(1998)年から、サイクリングロード「加悦・岩滝自転車道路」(京都府道803号)になっています。
丹後山田駅跡を示す標識(以下、「駅跡標」)が設置されていました。
少し見にくいのですが、駅跡標に載っていた昭和45(1970)年の丹後山田駅のようすです。プラットホームが3面、6番線まであります。加悦鉄道線が向かって右側の3線です。一番右のディーゼル機関車が停車しているところが岩滝専用線。その左側のディーゼルカーが停車しているところが加悦鉄道の2番線、ホームを挟んで左側が加悦鉄道の1番線です。SLが停車しているのが国鉄3番線ということになります。
これは、現在の与謝野駅の2面3線のホームです。旧国鉄の3線分だけの線路が残っており、加悦鉄道の線路は撤去されていました。
丹後山田駅の駅跡表に載っていた、日本冶金の岩滝工場へ向かう線路跡です。時間の関係で、丹後山田駅跡・岩滝駅跡間、2.9kmを走るのはあきらめました。
加悦駅方面に向かって出発です。加悦鉄道時代の名残を求めて走ることにしました。
100mぐらい行くと、左側にトタン屋根の簡素な建物がありました。
建物の中です。無人販売所のようですが、売っていたものは、正面にあったひょうたんなど、多くはなかったようです。
無人販売所の先に放置してあった枕木。これが唯一の加悦鉄道時代の名残でした。
道路と交差します。与謝野駅からレンタサイクルで右側から来ると、ここで加悦鉄道跡地と合流することになります。鉄道跡はまっすぐに加悦方面に向かっています。案内の道標には「KTR野田川駅」と書かれています。4月から「丹鉄 与謝野駅」と変更されていますが、間に合っていないようです。
線路跡の右側にあった山田小学校です。
桜並木が見えるようになります。並木の向こうに建物が見えます。
水戸谷(みとだに)駅跡の「駅跡表」がありました。丹後山田駅から1.4km離れていました。加悦駅跡にある「加悦鉄道資料館」の職員の方にお聞きすると、駅跡標は「概ね、かつての駅跡に設置しています」とのことでした。ここには、トイレを兼ねた休憩所がつくられていました。
これは「駅跡標」に載せられていた昭和36(1961)年の水戸谷駅の写真です。1面1線のホームです。ディーゼルカーに乗車しようとしている方が写っています。車掌さんでしょうか?
これも、駅跡標にあった「加悦鉄道の営業線 5.7km」の概念図です。この後も駅跡をたどっていきます。
次の丹後四辻(たんごよつつじ)駅へ向けて進みます。最初の橋を渡ります。橋台も橋桁も改修されており、かつての面影はまったく残っていませんでした。
自転車道路に設置されていた勾配標です。ほぼ平坦な道ですが・・・。
距離標です。加悦駅跡までが、4.3kmということを表しています。
線路跡が広くなりました。ここから、左右にカーブしながら進みます。
道路との境に駅跡標が見えました。
丹後四辻駅跡です。水戸谷駅から1.2kmのところ、加悦駅までのほぼ中間点にありました。かつての駅舎は、加悦駅に向かって右側にありました。2面のホームを有し、加悦鉄道で唯一列車交換ができる駅でした。また、SL用の給水塔も備えていました。昭和2(1927)年の北丹後地震で駅舎が焼失しましたが、翌年、以前と同じ形で再建されました。貨物の取扱いも行っていました。
駅跡標に載せられていた丹後四辻駅舎の写真(昭和36年撮影)です。軒が高い平屋建てだったようです。昭和46(1971)年からは無人駅になりましたが、昭和60年の廃止まで使用されました。
その先で野田川を斜めに横断します。
以前の鉄橋は撤去されており、直角に渡る新しい橋が架けられていました。これは、以前、鉄橋が架かっていたところを撮影しました。
旧野田川町役場の脇を通って進みます。その先に白い建物が見えました。
加悦谷高校前駅跡です。丹後四辻駅から0.9kmのところにありました。路面には、線路と枕木をイメージした塗装がなされていました。
昭和23(1948)年に開校した加悦谷高校は、昭和38(1963)年に本館と教室等が竣工しました。駅が新設されたのは昭和45(1970)年、その後、昭和60年の加悦鉄道の廃止まで使用されました。
駅跡標に載せられていた写真です。田んぼの中に建つホームと待合室が見えます。
駅舎跡にあった白い建物の後ろには、府立加悦谷高校の校舎とグランドがありました。
その先の右側にスーパーがありました。加悦鉄道の沿線にあった唯一の店舗です。
川を渡った先に、次の三河内口(みごうちぐち)駅跡がありました。加悦谷高校前駅から0.6km。この駅は地元の強い要望を受けて、昭和6(1931)年に設置されました。ホームは線路の右側にあって、待合室が建っていました。昭和9(1934)年には、ホームが12m延長されたそうです。昭和11(1936)年には切符販売を委託していた地元の方がやめられたので、廃車した車両(ハ4999)で切符販売を行ったこともあったとのことでした。
駅跡標にあった写真です。SL2号機が引く列車が入っています。バック運転をしているようですね。
三河内口駅跡から0.5km、丹後三河内(たんごみごうち)駅跡につきました。大正15(1926)年、加悦鉄道の開業と同時に開設されました。この駅も昭和2(1927)年の北丹後地震で倒壊し、再建されました。荷物の取扱いも行っていました。かつての駅舎は右側に設置されていました。
丹後三河内駅跡標です。昭和37(1962)年には無人駅となり、昭和50(1975)には駅舎が解体されたそうです。
これは、駅跡標にあった写真です。軒の高い白壁の平屋建てです。民家のように見えますが、改札口の形で駅舎だとわかります。写真のように、駅前には紅葉の木が植えられていました。「昭和36年」と読めます。有人駅時代の末期の駅舎の姿です。
目的地の加悦駅をめざして、大江山の山並みを見ながら進みます。前方に橋がありました。加悦奥川に架かる宮野下橋です。ここも、かつての鉄橋の面影は残っていませんでした。正面に見えるビルは道標にあった与謝野町加悦庁舎(加悦駅跡)です。
宮野下橋のそばに「ロマン街道」の碑がありました。かなり年季が入った碑です。古墳公園の案内のようでした。
加悦駅跡の駅跡標が設置されていたところです。トイレを兼ねた休憩所が建てられていました。水戸谷駅跡に次ぐ二つ目の休憩所です。加悦駅は加悦鉄道の開業に合わせて、大正15(1926)年に建設されました。設計者は特定できませんが、施工者は福井県小浜市の田辺藤七氏でした。駅舎は軒の高い洋風の2階建てで、外観の白い板壁と緑の瓦が印象的な、近代的な駅になっていました。
駅跡標にあった昭和59(1984)年の加悦駅の写真です。廃止される1年前の駅の姿です。ホームに最も近い線路は、さらに先の大江山鉱山まで延びています。また、丹後ちりめんなどの貨物の取扱いも行っていた駅でした。丹後三河内駅から1.1kmのところにありました。
これも駅跡標に載っていた駅の構造図です。
加悦駅跡の駅標があるところの後方に、加悦駅舎が建っています。写真の駅舎とは180度向きが違っています。前後を回転させて、ここまで曳き移転されて来ました。
現在は、加悦鉄道記念館として使われています。職員の方からたくさんの情報をいただきました。
駅舎は曳き移転されたと書きましたが、加悦鉄道記念館の職員の方のお話では、駅舎があったところは与謝野町加悦庁舎の前のバス停付近だったそうです。写真の右側の「与謝野町舎加悦庁舎」の看板があるあたりです。
これは駅跡から見た、かつての駅前通り、駅への取り付け道路です。
これは、与謝野町加悦庁舎の建物の中にある、かつて、転車台があったところです。今もそのままの形で残されています。
これは、先ほどの駅跡標があったところから、真っ直ぐ前に進んだところ、庁舎の脇にあった転車台の説明板です。後ろに、庁舎内に残る転車台の跡が見えています。
説明板に載せられていたSL2号機の写真です。明治6(1873)年イギリスのロバートスティーブンソン社が製作したSL、その年日本に輸入された、日本で2番目に古いSLです。日本に来てからは大阪・神戸間で使用され、鉄道院時代に123号機となりました。その後、島根県の簸上(ひのかみ)鉄道(JR木次=きすき線の前身)を経て、開業に伴い加悦鉄道に移ってきました。加悦鉄道ではSL2号機となり、引退した昭和31(1956)年までの30年間に、297,800kmを走ったといわれています。
これは、旧加悦鉄道大江山鉱山駅跡にできた「加悦SL広場」に展示されている、現在のSL2号機です。平成17(2005)年に国の重要文化財に指定されました。
加悦鉄道の跡地に整備された「加悦・岩滝自転車道路」は、ここで与謝野町加悦庁舎にぶつかります。この後、加悦庁舎の左を迂回して、大江山鉱山駅跡に向かってさらに続いていました。
昭和60(1985)年に廃止された加悦鉄道の跡地は、「加悦・岩滝自転車道路」に整備されていました。加悦鉄道が走っていた時代につながるものは、旧丹後山田駅跡に近いところに残っていた枕木だけでした。しかし、緑濃い水田に続く線路跡は、当時の雰囲気を今に伝えてくれていました。次は、加悦鉄道時代の車両の見学に「加悦SL広場」を訪ねてみようと思いました。