トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

加悦鉄道の跡地を走る

2015年08月21日 | 日記
丹後地方は、国内の三分の一の絹を生産する国内最大の絹織物の産地として知られています。名産の”丹後ちりめん”は、織り上げた白い生地のまま京都・室町に送られ、染色され縫製されて製品になっていきます。特に、京都府与謝郡内の旧加悦(かや)町や旧野田川町(現・与謝野町)は、丹後ちりめんの生産地として有名です。

これは、旧加悦町にある「ちりめん街道」に建てられている石標です。「縮緬(ちりめん)発祥之地」「始祖 手米屋小右衛門」と彫られています。奈良時代から絹の産地として知られているこの地にちりめんの技術を伝えたのは、石標に名前を残している手米屋小右衛門をはじめ、山本屋佐兵衛、木綿屋六右衛門らの人々で、享保7(1722)年のことでした。この地域が丹後ちりめんの生産地となるきっかけになりました。

丹後ちりめんの輸送を担ったのが加悦鉄道でした。大正15(1926)年、すでに開通していた国鉄線への連絡駅である丹後山田(現・与謝野)駅と加悦駅間5.7kmが開通(軌間1067ミリ)しました。開通に向けて大きな力になったのが、丹後地方の町民823名が出資した30万円の資金でした。加悦鉄道はこの地域の町民が建設した鉄道といってもいいでしょう。さて、写真は、加悦鉄道の加悦駅舎です。加悦鉄道は、その後、昭和14(1939)年、大江山ニッケル鉱業に経営が移り、精錬所のある岩滝工場まで輸送する鉄道を延伸させました。こうして、加悦鉄道によって、大江山鉱山のニッケル鉱石を岩滝工場まで輸送し精錬もする一貫生産がなされるようになりました。

モータリゼーションの進展により貨物のトラック輸送が盛んになったため、昭和59(1984)年に加悦鉄道は丹後ちりめんなどの貨物輸送を廃止し、また、昭和60(1985)年には、国鉄宮津線も貨物輸送を廃止することになりました。この国鉄の貨物輸送の廃止は、加悦鉄道に大きな衝撃を与えました。加悦鉄道の収入の6割を占めていたニッケル鉱の輸送ができなくなり、経営のメドが立たなくなってしまったのです。こうして、国鉄宮津線の貨物輸送が廃止された一ヶ月後の昭和60年5月1日、加悦鉄道も全線が廃止されてしまいました。この日、私は、この加悦鉄道の線路跡をたどることにしていました。JR豊岡駅から、京都丹後鉄道で与謝野駅(旧丹後山田駅)に向かいます。JR豊岡駅の脇から京都丹後鉄道の豊岡駅に入っていきます。

現在の京都丹後鉄道の豊岡駅です。旧宮津線が廃止された後の鉄道は、京都府と沿線の自治体で構成する第3セクター、”北近畿タンゴ鉄道”に、平成2(1990)年に引き継がれることになりました。しかし、経営は一度も黒字になることなく、平成27(2015)年4月1日から、施設所有と鉄道運行を分離する、いわゆる上下分離方式により、”WILLER TRAINS”(WILLER ALLIANCEの子会社)が鉄道運行を引き継ぐことになり、北近畿タンゴ鉄道は施設を所有するだけの第三種鉄道事業者になりました。写真の「丹鉄」は、”WILLER TRAINS”が運行する「京都丹後鉄道」のことです。

京都丹後鉄道の豊岡駅です。

12時14分発の西舞鶴行きの電車で与謝野駅をめざしました。乗車した801号車、平成2(1990)年富士重工製です。お聞きすると、北近畿丹後鉄道の車両はすべて富士重工製の気動車(ディーゼルカー)だそうです。しかし、出発してから約1時間後、丹後大宮駅(与謝野駅の一つ手前の駅)に停車中に、信号トラブルにより、全列車が運行を停止してしまいました。

2時間半遅れで、やっと与謝野駅に着きました。国鉄時代は丹後山田駅、北近畿タンゴ鉄道時代は野田川駅、そして、この4月に京都丹後鉄道(以下、「丹鉄」)になってからは、与謝野駅と改称されました。ここから、昭和60(1985)年に廃止された加悦鉄道の加悦駅跡まで歩くつもりでした。しかし、ずいぶん遅れて到着しましたので、レンタサイクルで移動することにしました。与謝野駅で、200円を支払って、自転車をお借りしました。

自転車では駅構内を横断することができませんので、駅前の県道を豊岡方面に300mぐらい引き返して、丹鉄の踏切を渡ります。そして、与謝野駅の駅裏まで引き返します。加悦鉄道の跡地は、平成10(1998)年から、サイクリングロード「加悦・岩滝自転車道路」(京都府道803号)になっています。

丹後山田駅跡を示す標識(以下、「駅跡標」)が設置されていました。

少し見にくいのですが、駅跡標に載っていた昭和45(1970)年の丹後山田駅のようすです。プラットホームが3面、6番線まであります。加悦鉄道線が向かって右側の3線です。一番右のディーゼル機関車が停車しているところが岩滝専用線。その左側のディーゼルカーが停車しているところが加悦鉄道の2番線、ホームを挟んで左側が加悦鉄道の1番線です。SLが停車しているのが国鉄3番線ということになります。

これは、現在の与謝野駅の2面3線のホームです。旧国鉄の3線分だけの線路が残っており、加悦鉄道の線路は撤去されていました。

丹後山田駅の駅跡表に載っていた、日本冶金の岩滝工場へ向かう線路跡です。時間の関係で、丹後山田駅跡・岩滝駅跡間、2.9kmを走るのはあきらめました。

加悦駅方面に向かって出発です。加悦鉄道時代の名残を求めて走ることにしました。

100mぐらい行くと、左側にトタン屋根の簡素な建物がありました。

建物の中です。無人販売所のようですが、売っていたものは、正面にあったひょうたんなど、多くはなかったようです。

無人販売所の先に放置してあった枕木。これが唯一の加悦鉄道時代の名残でした。

道路と交差します。与謝野駅からレンタサイクルで右側から来ると、ここで加悦鉄道跡地と合流することになります。鉄道跡はまっすぐに加悦方面に向かっています。案内の道標には「KTR野田川駅」と書かれています。4月から「丹鉄 与謝野駅」と変更されていますが、間に合っていないようです。

線路跡の右側にあった山田小学校です。

桜並木が見えるようになります。並木の向こうに建物が見えます。

水戸谷(みとだに)駅跡の「駅跡表」がありました。丹後山田駅から1.4km離れていました。加悦駅跡にある「加悦鉄道資料館」の職員の方にお聞きすると、駅跡標は「概ね、かつての駅跡に設置しています」とのことでした。ここには、トイレを兼ねた休憩所がつくられていました。

これは「駅跡標」に載せられていた昭和36(1961)年の水戸谷駅の写真です。1面1線のホームです。ディーゼルカーに乗車しようとしている方が写っています。車掌さんでしょうか?

これも、駅跡標にあった「加悦鉄道の営業線 5.7km」の概念図です。この後も駅跡をたどっていきます。

次の丹後四辻(たんごよつつじ)駅へ向けて進みます。最初の橋を渡ります。橋台も橋桁も改修されており、かつての面影はまったく残っていませんでした。

自転車道路に設置されていた勾配標です。ほぼ平坦な道ですが・・・。

距離標です。加悦駅跡までが、4.3kmということを表しています。

線路跡が広くなりました。ここから、左右にカーブしながら進みます。

道路との境に駅跡標が見えました。

丹後四辻駅跡です。水戸谷駅から1.2kmのところ、加悦駅までのほぼ中間点にありました。かつての駅舎は、加悦駅に向かって右側にありました。2面のホームを有し、加悦鉄道で唯一列車交換ができる駅でした。また、SL用の給水塔も備えていました。昭和2(1927)年の北丹後地震で駅舎が焼失しましたが、翌年、以前と同じ形で再建されました。貨物の取扱いも行っていました。

駅跡標に載せられていた丹後四辻駅舎の写真(昭和36年撮影)です。軒が高い平屋建てだったようです。昭和46(1971)年からは無人駅になりましたが、昭和60年の廃止まで使用されました。

その先で野田川を斜めに横断します。

以前の鉄橋は撤去されており、直角に渡る新しい橋が架けられていました。これは、以前、鉄橋が架かっていたところを撮影しました。

旧野田川町役場の脇を通って進みます。その先に白い建物が見えました。

加悦谷高校前駅跡です。丹後四辻駅から0.9kmのところにありました。路面には、線路と枕木をイメージした塗装がなされていました。

昭和23(1948)年に開校した加悦谷高校は、昭和38(1963)年に本館と教室等が竣工しました。駅が新設されたのは昭和45(1970)年、その後、昭和60年の加悦鉄道の廃止まで使用されました。

駅跡標に載せられていた写真です。田んぼの中に建つホームと待合室が見えます。

駅舎跡にあった白い建物の後ろには、府立加悦谷高校の校舎とグランドがありました。

その先の右側にスーパーがありました。加悦鉄道の沿線にあった唯一の店舗です。

川を渡った先に、次の三河内口(みごうちぐち)駅跡がありました。加悦谷高校前駅から0.6km。この駅は地元の強い要望を受けて、昭和6(1931)年に設置されました。ホームは線路の右側にあって、待合室が建っていました。昭和9(1934)年には、ホームが12m延長されたそうです。昭和11(1936)年には切符販売を委託していた地元の方がやめられたので、廃車した車両(ハ4999)で切符販売を行ったこともあったとのことでした。

駅跡標にあった写真です。SL2号機が引く列車が入っています。バック運転をしているようですね。

三河内口駅跡から0.5km、丹後三河内(たんごみごうち)駅跡につきました。大正15(1926)年、加悦鉄道の開業と同時に開設されました。この駅も昭和2(1927)年の北丹後地震で倒壊し、再建されました。荷物の取扱いも行っていました。かつての駅舎は右側に設置されていました。

丹後三河内駅跡標です。昭和37(1962)年には無人駅となり、昭和50(1975)には駅舎が解体されたそうです。

これは、駅跡標にあった写真です。軒の高い白壁の平屋建てです。民家のように見えますが、改札口の形で駅舎だとわかります。写真のように、駅前には紅葉の木が植えられていました。「昭和36年」と読めます。有人駅時代の末期の駅舎の姿です。

目的地の加悦駅をめざして、大江山の山並みを見ながら進みます。前方に橋がありました。加悦奥川に架かる宮野下橋です。ここも、かつての鉄橋の面影は残っていませんでした。正面に見えるビルは道標にあった与謝野町加悦庁舎(加悦駅跡)です。

宮野下橋のそばに「ロマン街道」の碑がありました。かなり年季が入った碑です。古墳公園の案内のようでした。

加悦駅跡の駅跡標が設置されていたところです。トイレを兼ねた休憩所が建てられていました。水戸谷駅跡に次ぐ二つ目の休憩所です。加悦駅は加悦鉄道の開業に合わせて、大正15(1926)年に建設されました。設計者は特定できませんが、施工者は福井県小浜市の田辺藤七氏でした。駅舎は軒の高い洋風の2階建てで、外観の白い板壁と緑の瓦が印象的な、近代的な駅になっていました。

駅跡標にあった昭和59(1984)年の加悦駅の写真です。廃止される1年前の駅の姿です。ホームに最も近い線路は、さらに先の大江山鉱山まで延びています。また、丹後ちりめんなどの貨物の取扱いも行っていた駅でした。丹後三河内駅から1.1kmのところにありました。

これも駅跡標に載っていた駅の構造図です。

加悦駅跡の駅標があるところの後方に、加悦駅舎が建っています。写真の駅舎とは180度向きが違っています。前後を回転させて、ここまで曳き移転されて来ました。

現在は、加悦鉄道記念館として使われています。職員の方からたくさんの情報をいただきました。

駅舎は曳き移転されたと書きましたが、加悦鉄道記念館の職員の方のお話では、駅舎があったところは与謝野町加悦庁舎の前のバス停付近だったそうです。写真の右側の「与謝野町舎加悦庁舎」の看板があるあたりです。

これは駅跡から見た、かつての駅前通り、駅への取り付け道路です。

これは、与謝野町加悦庁舎の建物の中にある、かつて、転車台があったところです。今もそのままの形で残されています。

これは、先ほどの駅跡標があったところから、真っ直ぐ前に進んだところ、庁舎の脇にあった転車台の説明板です。後ろに、庁舎内に残る転車台の跡が見えています。

説明板に載せられていたSL2号機の写真です。明治6(1873)年イギリスのロバートスティーブンソン社が製作したSL、その年日本に輸入された、日本で2番目に古いSLです。日本に来てからは大阪・神戸間で使用され、鉄道院時代に123号機となりました。その後、島根県の簸上(ひのかみ)鉄道(JR木次=きすき線の前身)を経て、開業に伴い加悦鉄道に移ってきました。加悦鉄道ではSL2号機となり、引退した昭和31(1956)年までの30年間に、297,800kmを走ったといわれています。

これは、旧加悦鉄道大江山鉱山駅跡にできた「加悦SL広場」に展示されている、現在のSL2号機です。平成17(2005)年に国の重要文化財に指定されました。

加悦鉄道の跡地に整備された「加悦・岩滝自転車道路」は、ここで与謝野町加悦庁舎にぶつかります。この後、加悦庁舎の左を迂回して、大江山鉱山駅跡に向かってさらに続いていました。

昭和60(1985)年に廃止された加悦鉄道の跡地は、「加悦・岩滝自転車道路」に整備されていました。加悦鉄道が走っていた時代につながるものは、旧丹後山田駅跡に近いところに残っていた枕木だけでした。しかし、緑濃い水田に続く線路跡は、当時の雰囲気を今に伝えてくれていました。次は、加悦鉄道時代の車両の見学に「加悦SL広場」を訪ねてみようと思いました。







豊郷小学校と伊藤忠兵衛屋敷跡を訪ねる

2015年08月14日 | 日記
しばらく休んでいた、滋賀県に残る中山道(近江路)の跡を、久しぶりにたどることにしました。これまで、柏原宿(「もぐさ売る お店が残る 宿場町 旧中山道柏原宿」2014年7月15日の日記)、醒ヶ井宿(「清水湧く宿場町 旧中山道醒ヶ井宿」2014年10月21日の日記)、鳥居本宿(「”赤玉神教丸”と”合羽”で知られた宿場町 中山道鳥居本宿」2014年11月29日の日記)、高宮宿(「中山道、二番目に大きい宿場町 高宮宿」2015年1月16日の日記)と歩いてきました。この日は、高宮宿とその先の愛知川(えちがわ)宿の間にある間宿(あいのしゅく)、石畑宿を歩いてきました。

JR彦根駅から近江鉄道の電車に乗り越えて、豊郷(とよさと)駅で下車しました。ここは天秤棒一本かついで行商し、千両を稼いだ近江商人のふるさとです。価格の安いところで買って、需要の多いところで売る、地域ごとの需要と価格差に目をつけた商いで、「産物諸国回し」とか「持ち下り商い」と、この地域では呼ばれていました。「売り手よし、買い手よし、世間よし」の”三方よし”の精神で信用を築き、日本の各地に出店をつくっていました。

豊郷駅から真っ直ぐ延びる道を進みます。突き当たりを左右に走る道路が、旧中山道です。右折して、江戸方面の高宮宿の方に向かって歩きます。

右折して15分程度歩きます。旧街道の雰囲気が残るような町並みになりました。

かつての茅葺き屋根にトタンでカバーをした民家が並んでいます。このあたりで、来た道を引き返して、京側の愛知川宿方面に向かって歩きます。

愛知川宿に向かって左側に、広い敷地に立つ2階建ての白い建物が見えました。滋賀県犬上郡豊郷町立豊郷小学校の2代目の校舎です。敷地の広さにびっくりしました。この校舎は、昭和12(1937)年に建設されました。

この豊郷小学校の2代目校舎は鉄筋コンクリート造りで、建設当時には「東洋一の小学校」といわれていたそうです。確かにすごい校舎です。それ以前の校舎は、明治20(1887)年に、この地出身の豪商、薩摩治兵衛などの有力者の寄付によってつくられたものでした。それが手狭になり、建て替えられたということでした。

校舎に向かって右側にある建物です。講堂跡でした。この2代目の校舎は、昭和12(1937)年当時、貿易商社「丸紅」の専務取締役であった古川鉄治郎が建築費用を寄付して建設されました。総工費は36万5千円。この額は、当時、豊郷町の年間予算の10倍にあたっていたということです。

講堂の正面の入口から内部に入りました。大学の講義室のような講堂内部です。正面にあるステージの左前にピアノが見えます。2代目校舎の設計は、滋賀県の明治・大正の建物をたくさん建築した、ウイリアム・メレル・ヴォーリズの手になるものでした。

この写真は、講堂の前に掲示されていた、竣工当時の講堂内部です。今も当時のままの状態で残っていされていました。

講堂から左に進み、突き当たりを左折したところから、前方を撮影しました。内部は木の香りがするような雰囲気でした。この2代目校舎は、平成16(2004)年に3代目校舎が使われるようになって、その役目を終えました。

今は、豊郷町教育委員会、図書館、豊郷町シルバー人材センターなどが入居しています。校舎の改築時の計画は、この校舎を取り壊して新しい校舎を建築するというものでした。しかし、歴史的な価値があるとして2代目校舎の保存運動が起きたことで、全国にこの校舎が知られるようになりました。2代目校舎はこの地で保存されることになりましたが、3代目校舎は別の場所に建設されています。

2階への階段です。小学校らしく傾斜は緩やかでした。

階段の上り口の手すりにつくられていた”「うさぎと亀」の像です。イソップの寓話をモチーフにしているようです。

豊郷小学校から出て、中山道をさらに愛知川宿に向かって進みます。前方左側に八幡神社がありました。

八幡神社の道路に沿ったところに石碑が建っています。「愛知川宿 高宮宿 石畑(間の宿)」と書かれています。江戸時代、豊郷の地は石畑と呼ばれる間の宿で、中山道を行く旅人が休憩する茶店が並んでいたところ(立場・たてば)でした。

八幡神社の拝殿です。ここには、もう一つ「一里塚の里 石畑」の碑もありました。中山道121番目の一里塚で、3間4面に盛り土をして塚をつくり、中心に木を植え、里程標として車馬賃の目安としたものです。「豊郷村史」には、「高さ丈余の塚で、松が植えられており、塚の上から湖水が見えた」と書かれているそうです。しかし、実際には、ここに一里塚があったわけではないようです。

さらに進むと左側に、豊郷町役場の建物があります。

役場と道路をはさんだ先に、駐在所がありますが、「一里塚」はこのあたりにありました。

その先の民家の壁にあった「犬上君の屋敷跡」の案内標識です。

豊郷の地は、現在の滋賀県犬上郡豊郷町にあたります。その地名のもとになった犬上(いぬがみ)氏一族の屋敷があったところが公園になり石碑が立っていました。犬上氏は初代遣唐使であった犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)で知られる一族です。天武天皇13(684)年に「朝臣」の称号を賜り犬上朝臣と称しました。平安時代の初期には平安京に本拠を置いていましたが、一方で犬上郡に住み犬上郡司もつとめていました。

再び、旧中山道に戻ります。その先で、豊郷駅に向かう通りが分岐しています。写真の右側の公園が「くれなゐ園」です。広い公園になっていました。

くれなゐ園の中央に、伊藤忠兵衛翁の記念碑が建てられています。伊藤忠兵衛は豊郷に本家のある近江商人で、後の総合商社、伊藤忠商事の創業者として知られています。

旧中山道の現在の町並みです。

その先に豪邸がありました。ここが伊藤忠兵衛の旧宅で、現在は伊藤忠兵衛記念館になっています。初代伊藤忠兵衛は、天保13(1842)年に、繊維製品の小売業を営む「紅長」の家に生まれました。15歳で近江麻布の下り商い(行商)を始めました。安政6(1859)年には、長崎まで足を伸ばし、活発な外国貿易の状況を自分の目で見ていました。

旧宅に入ると、今も使われている提灯(ちょうちん)が迎えてくれました。忠兵衛は、明治5(1872)年、大阪本町に繊維問屋「紅忠」開設しました。そして、店員の販売権限と義務を明確化して、社内会議制を導入しました。また、運送保険の利用を始めるなど、当時の同業者が目をむくような、近代的な経営を行いました。また、利益三分主義(本家・店・社員への配分)や学卒者の採用でも知られ、外国との貿易にも進出しました。明治36(1903)年、61歳で永眠するまで、伊藤忠本店、伊藤京店、伊藤西店、伊藤糸店、伊藤染工場の5店の事業を残し、近江銀行、川崎造船所、大阪製紙、金巾製織、その他建設、貿易、保険等十数社の事業にもかかわりました。

これは、記念館内に展示してあった「日本全国富豪鑑」です。当時の富豪の一覧表です。明治36(1903)年、初代伊藤忠兵衛の二男精一が17歳で2代目伊藤忠兵衛を襲名して後継者となりました。かれは、イギリス留学の経験からか、得意先回りの効率化のため、当時まだ珍しかった自転車を使うようにしたり、外国商館を介した交易から直接貿易に切り替えたり、機械や鉄鋼など繊維以外の扱いを始めたり、総合商社としての基盤を確立するのに貢献しました。

伊藤忠兵衛の旧宅の内部です。2代目忠兵衛は、伊藤忠商店と本家の「紅長」を合併させ「丸紅商店」を誕生させました。後に、「伊藤忠商事」や「丸紅」の総合商社に発展していきました。ちなみに、先に見てきた東洋一といわれた豊郷小学校を建設した、古川鉄治郎は丸紅の専務取締役をつとめた人でした。

さらに進みます。旧街道の右側にあった復元された「金田池」です。かつて、ここから50mほどのところに、かんがい用水として、また旅人が喉を潤す飲料水として使われた名水の湧水池がありました。地形の変化によって水が出なくなりましたが、「永年にわたり名水として親しまれてきたことを伝えるために再現した」と説明には書かれていました。

その先に「又十屋敷と書かれた看板が見えました。江戸時代末期から、蝦夷地と内地とを北前船を用いた交易で財を成した、近江商人の藤野家本家の屋敷跡です。案内によると「明治初期に日本で初めて鮭の缶詰の製造を始め、それが、今日の”あけぼの缶詰”に引き継がれている」ということでした。又十屋敷は、昭和43(1968)年に「明治百年記念資料館」として開館したそうです。

左の白壁の上に案内板が見えます。ここに、逢坂山(旧東海道、大津宿から京に入るところ)につくられていた「車石(くるまいし)」が展示されていました。江戸時代には物資の運搬のための馬車や牛車の使用は禁止されていましたが、例外として、大津宿と京の間は使用が認められていました。文化2(1805)年には年間1万5千の牛車が通っていました。

これが”くるまいし”です。逢坂山の急坂を牛車が通るのを助けるため、轍(わだち)のところだけ花崗岩を彫った石を敷き詰めていました。(2014年12月12日の日記)

間の宿、石畑の出口付近です。旅人は、ここから、次の、中山道65番目の宿場、愛知川宿に向かって出発していきました。この先で宇曽川を渡ることになります。

旧中山道を歩く旅でしたが、実際には、明治時代以降の歴史をたどることになりました。次は、愛知川宿を歩くことにしています。

ホームに巨大くすの木がそびえる京阪電鉄萱島駅

2015年08月05日 | 日記

複々線の線路の先に、駅のホームが見えます。向かって左側のホームの屋根の上に大木がありますが、この大木は屋根を突き抜けているようです。

この駅は京阪電鉄の萱島(かやしま)駅。大木はくすの木で、ホームとその上の屋根を突き抜けてそびえています。

この日、寝屋川市にある京阪電鉄萱島駅を訪ねるため、堂島川に沿った大江橋駅に向かいました。

ホームに降りると、すぐに萱島駅行きの上り普通列車がやってきました。

天満橋の先で地上に出て複々線となり京橋駅に着きます。

大江橋駅から20分ぐらいで、めざす萱島駅に着きました。複々線区間の東端の駅(萱島駅の先にある寝屋川信号所までが複々線だそうです)になっています。淀屋橋駅・中之島駅行きの下り電車が発着するホームに、大きなくすの木が見えました。

これは、ホームから見えた寝屋川です。市の名前にもなっています。萱島駅の下を流れています。萱島駅は、明治43(1910)年4月15日、京阪本線の天満橋駅と五条(現在の清水五条)駅間が開通した時に開業しました。しかし、駅名に「萱島」と「島」がついていることに、少し違和感を感じていました。

これは、周辺を歩いていたときに見た掲示板にあった写真です。樹木が手前にあって見にくいのですが、以前このあたりを流れていた寝屋川の写真です。寝屋川の中に島が見えました。どうやら、萱や葦が生えていた中州(島)を開拓して耕地をつくったことから「萱島」と名付けられたようですね。

やがて、次の出町柳行きの上り普通電車(「各駅停車」と放送されていました)が到着しました。7両編成の先頭の9001号車です。9000系車両は平成9(1997)年にデビューした特急用車両でした。現在は急行用に使用されているそうですが、このときは普通電車での運用でした。

京都方面に向かう1番2番ホームから見えたくすの木です。ホームの階段の向こうにくすの木の幹が見えます。萱島駅は2面4線の駅でした。

1番2番ホームの中央部から撮影しました。屋根の上にくすの木がありました。高さ、約20m、周囲、約7m、樹齢、約700年という大きなくすの木です。京阪電車は、もともと地平を走っていました。この地域は昭和40(1965)年頃から住宅が増加して、人口増加に伴う輸送力の増強のため、京阪電鉄では、天満橋駅・萱島駅間の高架複々線化を、昭和46(1971)年から10年間を掛けて進めることになりました。そのとき、ホームの予定地にあったこのくすの木は、地元の強い要望を受けた京阪電鉄の英断により、伐採されることなく、萱島駅と共存することになったのです。

階段をおりて、3番4番ホームに向かいます。エスカレーターの脇にくすの木はありました。くすの木を囲うコンクリートの手すりがつくられていますが、そこに飾られていたのが、「昭和58(1983)年 第3回 大阪都市景観建築賞」の「奨励賞」のプレートでした。停車中の車両は2400系の7両編成の2554号車です。2400系は、通勤電車で最初に冷房を設置した車両として知られています。昭和44(1969)年から運行が始まりました。

これが、掲示されていた「都市建築賞」の「奨励賞」のプレートです。「京阪電車萱島駅 設計 京阪電気鉄道(株)建設部」へ向けて、「周辺環境の向上に資し、かつ景観上優れたものと認められたのでこれを賞します」と書かれていました。巨大くすの木が与えてくれる緑と安らぎが、評価されたのでしょう。

3番4番ホームです。ホームが広々としています。くすの木と共存しているからでしょうか。

くすの木がそびえているところにはもちろん屋根はありません。近くに行くと、実際に吹いているのかどうかわかりませんが、風を感じます。

駅周辺を一回りすることにしました。大阪方面の1階にある改札口(西出口)から外へ出ました。そして、駅の北側を東(京都方面)に向かって歩きます。

駅の下を流れる寝屋川に架かる橋を渡ります。この橋は歩道の「流作(りゅうさく)小橋」です。この駅付近は、江戸時代中頃までは、萱や葦が生い茂る中州でしたが、その後この中州は開発され「萱島流作新田」と呼ばれるようになります。そんな歴史に因んで、萱島駅の北側の橋は「流作橋」、南側の橋は「萱島橋」と名付けられています。

京阪電鉄の高架下の東(京都方面)側にも改札口がつくられています。

駅の南側から見た萱島駅です。手前にあるのは、「太陽電池時計」です。高雄市国際獅子会と寝屋川中央ライオンズクラブの連名の碑が建てられていました。日本と台湾のライオンズクラブの寄付によって設置されたものなのでしょうね。

ホームのくすの木が見えてきました。高架下に鳥居が見えます。神社があるようです。

その先にあった「大阪みどりの百選 萱島駅の大樹」と彫られている石碑です。大きなくすの木と近代建築の組み合わせが評価されて、大阪花博の時につくられました。このほか、萱島駅は「近畿の駅 百選」にも選定されています。

「大阪みどりの百選」の石碑のすぐ隣に立っていた「萱島神社」の社標です。

参道の左側にあった「鉢かつぎ姫」(お伽草子)をモチーフにした「くすの木」の説明です。この巨大くすの木は、萱や葦が生い茂っていた頃から、この地域の方々の生活を見守って来ました。

高架下までの短い参道ですが、白い狛犬が守っています。

拝殿です。「2拝2拍手1拝」の作法でお詣りしました。祭神は「萱島開拓の祖神」である神田氏の祖先と書かれていました。神田氏に因むのでしょうか、「下神田(しもかみた)町」という地名が駅の近くにありました。

拝殿の隣に並んでいた「大楠大明神」。こちらは巨大くすの木が祭神です。注連縄が飾ってあります。

その前に置かれていた「繁栄の砂」です。このくすの木は、神の依代(よりしろ)として崇められ、豊かな繁栄と安らぎをこの地の人々に与えてきました。それにあやかって「この砂で住まいの周囲を浄めなさい」というものでした。毎月1日に置かれているそうです。300円を賽銭箱に入れて、一ついただいて帰りました。

大楠大明神の脇に回って、大クスの根元を見せてもらいました。ここから、高さ約20m。2階のホームの屋根を抜けています。

こうして、萱島駅は、昭和52(1977)年7月24日からくすの木がそびえる駅になりました。

ホームの屋根を貫く樹木のある駅を見るのは、生まれて初めてのことでした。萱島駅のほかにもこんな駅があるのでしょうか?
萱島の歴史を見届けてきた巨大くすの木は、今もこの地の人々や京阪電鉄を利用される人々を、温かく見守っています。