トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

「伯備線にあって伯備線の駅でない」秘境駅、JR布原駅

2014年03月31日 | 日記

JR新見駅。岡山県西北部の交通の要衝新見市の玄関口です。岡山からは伯備線の”特急やくも”で1時間。この日は特急ではなく、青春18きっぷを使って1時間半かけてやってきました。伯備線で新見の駅の一つ先にある”秘境駅”、JR布原駅を訪ねることにしていました。

岡山からの伯備線の下り列車は、新見駅の4番ホームに到着しました。

何気なく見上げた駅標。左の次の駅が「びっちゅうこうじろ(備中神代)」と書かれていました。めざす布原駅は新見駅の次の駅だと思っていましたので、新見の次に備中神代と書かれていたことに、少し違和感を覚えました。

私は、この日、13時00分に新見駅を出発する芸備線の列車で、布原駅に行くつもりでした。芸備線、姫新線のホームである1番ホームに向かいました。

1番ホームです。列車はすでに入線していましたが、駅標が気になりました・

芸備線のホームの駅標には、新見駅の次の駅として「ぬのはら(布原)」と書かれていました。路線によって次の駅が異なることは当然です。しかし、今回のケースのように、同じ伯備線にありながら、伯備線の案内に名前がないのはどういう意味か、私には理解できませんでした。

時刻表をみると、布原駅は新見駅と備中神代駅の間にある伯備線の駅です。しかし、伯備線の普通列車はすべて布原駅を通過しています(しかし、実際には行き違いのために運転停車をする列車が一部ありますが)。布原駅に停車するのは、すべて芸備線の列車でした。そういう運行上の理由で、伯備線の案内には書かれていなかったのでしょう。「伯備線の駅でありながら、伯備線の駅ではない」布原駅になってしまったのです。

ホームにあった時刻表です。芸備線の布原・東城・備後落合方面行きは1日6本。土・日曜日と祭日の休日には5本しかありません。しかも、休日は、始発の5時18分の列車の次は13時00分発の備後落合駅行き。この間1本の列車もありません。かなりの過疎路線です。

さて、1番ホームには、13時00分発の列車がすでに入線していました。キハ120342号車、布原駅は電化区間ですが、芸備線の列車のため、ディーゼルカー(DC)の運行です。

DCの単行列車、ワンマン運転でした。安全確認をして出発し、運転しながら案内放送を流し、駅に到着したらドアを開き料金を受け取り、ドアを閉めて再び「出発進行」。この間、常に安全確認を続けます。ワンマン運転の運転士さんは、かなりの集中力が必要ですね。

定刻どおり13時ジャストに出発しました。右側に新見の町を見ながら進みます。やがて、布原駅の手前にある苦ヶ坂トンネルに入ります。

苦が坂トンネルを抜けるとすぐ鉄橋を渡ります。第23西川橋梁です。かつて、伯備線がSL撮影のメッカだった頃、多くのSLマニアが、苦が坂トンネルに入って行く3重連のSLが牽引する貨物列車を撮影したところです。

鉄橋を越えると緩やかな右カーブ、続いて、左カーブになります。その先に布原駅がありました。さて、布原駅のある伯備線の備中川面駅と足立駅間は、昭和3(1928)年に開業しましたが、布原駅が開業したのは、半世紀以上経った昭和62(1987)年のことでした。国鉄の分割・民営化と同時期のことでした。前身である布原信号場は、昭和11(1936)年に設置されたようです。ちなみに、芸備線の備中神代駅から西の矢神駅までが開業したのは、昭和5(1930)年のことでした。

13時06分布原駅に到着しました。下車したのはもちろん私一人です。列車は、すぐに次の備中神代駅に向けて出発して行きました。この備後落合行きの列車は備中神代駅から芸備線に入り、14時24分備後落合駅に着きます。そして、14時34分、折り返しの新見行きとなって出発します。布原駅に帰ってくるのは15時52分です。ということは、それまでの約3時間、この駅で過ごすことになります。午後から雨になるとのことでしたので、天候が心配でした。

布原駅の全景です。駅舎や待合室はもちろんありません。屋根のないホームが、上り下りに1つずつつくられていました。ホームは列車1両分があるだけです。山の尾根が川に向かって張り出したせまい地形のところにつくられた駅だけに、ホームの幅もかなり狭くなっていました。

構内にあったのは、ただ一つ、布原公会堂の建物だけ。入り口には「老人いこいの家」という表札が架かっていました。

ホームの土台を支えていたレールです。

土台のレールの脇にあった時刻表と運賃表。これが、唯一、駅らしい掲示物です。

時刻表の下部に書かれていた停車駅の案内です。この先、終点の備後落合を含めて11駅あります。折り返して帰ってくるまで約3時間かかるのも、当たり前のことですね。

さて、布原駅を出発した、私が乗車してきたキハ120342号車は、その後大きく右カーブをして鉄橋を渡っていきました。

駅の周辺を歩いてみることにしました。まずは、乗車してきた列車が渡った鉄橋をめざして、駅の脇の道を進みました。

10分ぐらい歩くと、道の左側にあった民家の敷地内に踏切の遮断機と警報機が見えました。詳しいお話をお聞きしようと思って声を掛けましたが、ご返事がありませんでした。写真だけとらせていただきました。

第22西川橋梁です。線路に上がる階段で近くまで上がって撮影しました。ここも、SL三重連の撮影ポイントでした。

引き返します。稲の取り入れを終えた後のわらが掛けてありました。穏やかな田園風景の中を苦ヶ坂トンネルの方に向かって歩きます。

14時32分、上り(新見)方面行きの”特急やくも18号”が苦ヶ坂トンネルに入って行きました。

私が布原駅に滞在した約3時間の間に、やくも18号を含めて、上り5本、下り4本の列車がこの駅を通過して行きました。このJR西日本岡山支社管内の車両の塗装である黄色い車体の電車は、米子行き普通列車でした。13時29分頃に行き違いのために停車していましたが、対向する”やくも16号の通過を待って出発していきました。

滞在中に通過していった唯一の貨物列車です。14時59分に通過していきました。

15時32分頃、通過していった上り”やくも20号”です。

15時48分、キハ120系のDCがやってきました。「お帰り」と言いたかったのですが、芸備線のDCではなく伯備線のDCでした。もちろん通過していきました。そして、15時52分、備後落合から帰ってきたキハ120342号車がやってきました。「お帰り、よく帰ってきてくれたね」と言いたい気分でした。布原駅に到着してから、実に、2時間48分後のことでした。

布原駅は、周囲を山に囲まれた田園風景の中にあります。牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の40位にランクされている駅です。それによると、秘境度9ポイント、雰囲気7ポイント、列車到達難易度14ポイント、外部到達難易度11ポイント、鉄道遺産8ポイントの総合評価49ポイントでした。周囲の民家は5~6軒。私が滞在した3時間弱の間、誰にも、犬や猫にも会うことはありませんでした。この駅の一日の平均乗車人員はなんと0人(2011年)です。1人乗車することさえない日が相当あるようですね。そういえば、新見駅からの運転士さんも、私が「降ります」というと驚いたような反応をされていました。そんなこともあって、「伯備線にあって伯備線にない駅」になったのでしょう! 岡山県で最高ランクの40位にふさわしい”秘境駅”でした。心配していた雨にも降られなくてよかったです、ほんとに。






鳥取県境の秘境駅、JR新郷駅を訪ねる

2014年03月25日 | 日記
牛山隆信氏が主宰されている「秘境駅ランキング」。岡山県からは4駅が上位200位以内にランクインしています。JR因美線の知和駅(134位)を除くと、他の3駅はすべてJR伯備線の駅になっています。

鉄道地図(「JTB時刻表」)のJR伯備線です。JR山陽本線の倉敷駅から新見駅を経由してJR山陰線の伯耆大山駅をつなぐいわゆる「陰陽連絡路線」の一つです。電化されており、岡山駅とJR山陰線の出雲市駅を結ぶ”特急やくも”が、ほぼ1時間ごとに1日15往復が運行されています。急坂と急カーブの多い路線のため381系の”振り子電車”で運用されています。伯備線は、倉敷駅・備中高梁駅間と、井倉駅・石蟹(いしが)駅間が複線区間になっています。この沿線に、秘境駅である方谷駅(197位)、布原駅(40位)と、この日訪ねた新郷(にいざと)駅があります。新郷駅は、牛山氏のつくられた基準で、秘境度3、雰囲気3、列車到達難易度8、外部到達難易度2、鉄道遺産指数2ポイントの総合評価18ポイントを獲得し、139位の”秘境駅”にランクインしています。

新郷駅は、新見駅から4駅目になります。次の上石見駅からは鳥取県にあるため、新郷駅は県境の駅ということになります。新見駅を13時23分に出発する伯備線の電車で新郷駅に向かいました。
途中の布原駅は、伯備線の列車は通過する駅でしたが、この列車は行き違いのため運転停車しました。備中神代(びっちゅうこうじろ)駅と足立(あしだち)駅に停車した後、13時50分に新郷駅に到着しました。下車したのは私一人、乗車される方もおられませんでした。ちなみに、この駅の1日の乗車人員は16名(2011年度)だったそうです。
米子行きの電車が出発していった後のホームです。ホームは緩やかに左カーブしています。反対側の上りホームの待合室とその裏にある民家が見えました。
新郷駅は、中国山地の真っただ中、標高353mの岡山県新見市神郷釜村にあります。
山際の狭いホームを歩きます。
下り線(米子方面行き)のホームの端に踏切がつくられていました。そこを横断して上り線(新見方面行き)のホームに入り待合室に入ります。
ホームには屋根がありません。雨をしのぐことができるのは待合室だけのようです。
時刻表や運賃表などのJRが用意した掲示物とともに、地元の児童が描いたポスターや、地元の方がつくられた座布団がありました。地元の方が駅舎の掃除をしてくださっているそうで、ゴミ一つない清潔な待合室になっています。地元の方の駅に寄せる思いを感じます。ポスターを描いたのは、神郷北小学校の児童でした。「神郷」は「しんごう」と読みます。
待合室に掲示されていた時刻表です。一日に、上り(岡山方面行きが)列車が9本、下り(米子方面行き)列車が8本、発着しています。朝6時51分発の電車(休日は運休です)は、なんと! 新郷駅が始発駅になっています。
駅前に出ます。駅前広場の向こうに和忠(わただ)川が流れているため、さほど広くはありません。盛り土の中に石碑が立っていました。「昭和五十七年秋 新郷駅開設三十周年記念碑」と書かれていました。
陰陽連絡路線である伯備線は、北と南の両側から工事が始まり、昭和3(1928)年に、最後まで残っていた備中川面(びっちゅうかわも)駅から足立駅間が開通して全線が開業しました。新郷駅は、かなり遅れて、戦後の昭和28(1953)年にやっと開業にこぎつけました。当時の長谷部与一新郷村長らの請願が実り駅が設置されたそうですが、開設に伴う経費(約380万円)は地元の負担になりました。そのときの駅舎は、現在より100mほど北に設置されていたそうです。現在の場所に移転したのは、昭和47(1972)年のことでした。石碑に揮毫されている木村睦男氏は、元運輸大臣を経験した参議院議員でした。木村氏の政治力が大きかったのでしょう、このときは国鉄の予算でつくられたそうです。
三十周年記念碑の隣には、「新郷駅の歌」の碑が建てられています。「昭和輝く 新郷の 燃える希望の駅なりて 歓呼はあがる 旗の波  歓呼はあがる 旗の波」(漆島静雄 作詞)、開設当時の村民の熱気と喜びが伝わってくるようです。
秘境駅といわれていますが、和忠川を挟んで駅のすぐ東には県道が走っています。そのため、付近の住民の生活も、車に依存しています。列車の方は、一日8~9本しかなく、インターバルも日中は2時間ぐらいあって、便利とは言い難い感じです。
こういうことがよくあるのでしょうか? 「大雨」のときは道路は通行禁止になるようです。
道路を北に上っていくと、左側に、石碑が立っていました。「戸田寅太殉職碑」とありました。地元の請願を受けて、昭和25(1950)年実態調査をしていたとき、上り列車を避けようとして鉄橋から転落し亡くなった「開設の礎」、戸田氏をしのぶ石碑でした。

私、到着度最初にやってくる上り(新見方面行き)列車、15時29分発の新見行きで引き返すことにしていました。その間に通過した列車をチェックしてみました。
上り岡山行きの”特急やくも16号”。
下り出雲市行きの”特急やくも13号”。
上りの貨物列車です。EF641019号機に牽引された列車です。山陽と山陰をつなぐというニーズは多いのですが、その途中に居住する人のニーズは多くない、そんな印象でした。
そして、15時29分発の新見行きの普通列車です。キハ120348です。単行列車でした。青春18きっぷの季節のせいか23人ぐらいの乗客で少し混雑していました。

岡山県最北の県境にある新郷駅。「秘境駅」というイメージ通り、列車本数が少なく乗客もさほど多くはありませんでした。駅周辺に5-6軒の民家がありましたが、道路が近くにあり日常生活には支障がないようでした。かつて訪ねたJR土讃線の土佐北川駅(2013年12月2日の日記)と同じように、「鉄道到達難易度」だけが高い「秘境駅」でした。しかし、地元の人々の駅にかけた思いが伝わってくる駅でした。

黒田官兵衛に沸く、旧北国街道木之本宿

2014年03月13日 | 日記
中山道鳥居本宿で中山道と別れ、琵琶湖の東岸を長浜・木之本を通り、栃ノ木峠(標高537m)を越えて、越前・加賀に向かった北国(ほっこく)街道。浅井・朝倉を滅亡させた織田信長から越前国を与えられた柴田勝家が、織田信長の居城である安土城へ向かう最短距離の道を整備したことに始まります。青春18きっぷが使える時期になりましたので、早速、旧北国街道木之本宿の街並みを訪ねました。

JR木之本駅です。木之本宿の商家の雰囲気を生かしたデザインです。滋賀県伊香郡木之本町は、現在では長浜市木之本町になっています。

隣の観光案内所で、観光地図をいただき、木之本宿についての情報をいただきました。

これは観光案内所でいただいた「きのもとまちあるきMAP」です。これを手に歩き始めました。

観光案内所の前には、次々に観光バスが到着しており、赤い制服のスタッフは対応に追われていました。

駅前に掲示されていた案内図です。この地図の「日吉神社」の西付近から図の左(北)に向かって歩くことにしました。

スタートは、木之本町廣にある田部西交差点。ここから北に向かいました。かつて、北国街道を北に向かう旅人は、現在の国道8号線の千田交差点の南側付近から、ここに至る斜めの道を進み、このあたりまで来ていました。現在では、その斜めの道は消滅してしまっていますが・・。

赤川にかかる法光寺橋を渡って進むと右側に日吉(ひよし)神社がありました。安産の神様として尊崇されていて、境内の井戸の水を本社前の小さな溝に流して、社殿へ向かう小さな橋の下を通過すると安産になると信じられていました。この神社は、大正5(1916)年に木之本町の全戸が焼失する大火が起きたときに、奇跡的に難を逃れたそうです。案内板に書かれていました。

宿場の入り口です。枡形になっていたのでしょう。鍵形に宿場に入っていく構造になっていました。右手の白壁のお宅の前に石碑が立っていました。

商家の前にあった石碑です。「みぎ 京いせミち」北国街道の道標です。「ひだり 江戸なごや道」。こちらは、北国脇往還を示しています。江戸時代、参勤交代に越前国の大名が利用した道でした。木之本宿から中山道の関ヶ原宿へ続く、北陸と東海を結ぶ最短距離の道として整備されました。

写真の道は、現在の北国脇往還。関ヶ原宿に向かう道になります。

北国街道と北国脇往還の分岐点を振り返って撮影しました。正面にある商家の右の脇を先に進むのが北国街道、左折して進むのが北国脇往還です。

旧木之本宿に入りました。街頭の柱や案内の道標に残る「北国街道木之本宿」です。江戸時代には彦根藩領となり、元禄(1688~1703)年間には戸数は193軒あり、1345人が居住していたそうです。

山からの水や気候に恵まれていた木之本は、醸造業が盛んでした。すぐ左にあった大幸醤油店です。現在も「大」と「幸」の字を組み合わせた屋号が看板に残っています。

岩根醤油店です。大幸醤油店の斜め向かいぐらいの位置にありました。

その隣のお宅の前に「元庄屋 竹本助六家」と書かれた案内板がありました。竹本助六は、江戸時代の末期に南木之本村の庄屋をつとめていたそうです。

その先の左側に「伝馬町」と書かれた看板がありました。宿場の中心です。

左にあった鉄筋コンクリートの建物に、たくさんの赤い旗が掛けられています。現在、「黒田官兵衛博覧会」が開催されていました。NHK大河ドラマで放映中の黒田官兵衛のドラマに関する展示とDVDの放映が行われていました。黒田官兵衛は近江国伊香郡黒田村の出身とされていますので、ずいぶん盛り上がっています。観光案内所で見た観光バスの人々も、たくさん見学されていました。

ここは、江戸時代に木之本宿の問屋場があったところです。問屋場は、宿場で人馬の引き継ぎを行う役所でした。明治になってからは警察署が、昭和10(1935)年からは、湖北銀行木之本支店があったところです。平成17(2005)年からは、「きのもと交遊館」として催し物に使われているそうです。

その先の右(東)側にある白木屋です。江戸末期に創業した歴史を重ねた醤油店です。

白木やから3軒ほど先に、「蓮如上人ゆかりのお寺」明楽寺がありました。観光案内所で求めたガイドブック「みな」の中に「蓮如上人御影(ごえい)道中」のことが掲載されていました。それによると、宝暦2(1752)年越前国吉崎での法要に、東本願寺に預けられていた蓮如上人の御影(ごえい)を、吉崎まで「下向(げこう)」させることになったそうです。本願寺が江戸時代初期の内紛で東西に分かれたとき、「御影」は東本願寺に預けられていたそうですが、これが、上人の歩いた道をたどって京と吉崎を徒歩で往復する「蓮如上人御影道中」の始まりとされています。

境内にあった蓮如上人腰掛説法石です。「蓮如上人ゆかり」というのは、この石のことを表しているのでしょう。 さて、宝暦2(1752)年の法要の時、御影はリヤカーに載せられて、それを守る「教導(法話を行う)」と随行する8人の供奉人(ぐぶにん)の手で吉崎まで運ばれました。法要が終わった後、今度は「上洛」の旅を続けます。5月2日に吉崎を出て上洛が始まりました。木之本には5月5日に到着し、一行は明楽寺に宿泊したそうです。「連如上人ゆかりのお寺」には、このことも含まれているのではないかと思います。

明楽寺の向かいにあった、「銘酒七本槍」で知られる冨田酒造有限会社です。先祖は北近江源氏の佐々木京極。浅井(あざい)氏が台頭したため、天文2(1523)年にこの地に移り住みました。造り酒屋を営む傍ら庄屋として、この地の商業や福祉の発展に尽くしてきました。母屋は、延享元(1744)年の建築です。

軒下の柱に馬つなぎの金具が残っていました。

明楽寺の並びにあった本陣薬局です。かつて、木之本宿の竹内五左衛門本陣があったところです。将軍の息女、溶姫一行がここに宿泊したとき、3000人分の寝具などを助郷(すけごう)の村から集めたと、案内には書かれていました。

屋敷の玄関脇に、たくさんの薬の看板が掛けてあります。「御湯薬」「健胃国腸丸」「ばい毒根治新剤」「中将湯」「浅田飴」「萬応丸」などなど・・。それもそのはず、日本薬剤師の第1号の免状は、この家の方が取得しておられたのです。

本陣跡の並びに石垣が見えました。

時宗の木之本地蔵院(浄信寺)です。木之本は、この地蔵院の門前町としても発展してきました。彦根藩が木之本を領有していたとき、地蔵院は寺領50石を有していました。

本堂の傍らに立つ6尺(約1.8m)の「木之本のお地蔵さん」と呼ばれる大きなお地蔵さんが、参拝客を迎えてくれます。北国街道を旅するほとんどの人が参詣していたといわれています。

地蔵院の門前にあった「「札ノ辻」の石柱です。彦根藩が公示事項を周知するために、ここに「制札」を立てていたので、札ノ辻と呼ばれたといわれています。

これはこの先の馬宿平四郎家に展示されていた制札です。このような制札が立てられていたのでしょうね。

これは、地蔵院の門前の通り、地蔵坂です。地蔵院に向かって撮影しました。地蔵坂は落ち着いた雰囲気の通りですが、今は黒田官兵衛一色です。地蔵院の門前で、北国街道と地蔵坂が合流していました。

地蔵院から先(北)は北木之本村になります。元禄年間、北木之本村には74軒、602人が居住していました。ちなみに、地蔵院から南の南木之本宿には119軒、743人が居住していたといわれています。

地蔵院の並びに、北木之本村の庄屋だった上阪五郎右衛門家がありました。この建物は、弘化4(1847)年の築造だそうですが、「2階部分が低くなっている役人家屋で、駕籠が常置されていた」と説明に書かれていました。

その先に、「中之町 屋号 善左衛門」と書かれた商家風のお宅がありました。町づくりの関係者の事務所なのでしょうか。

屋敷前に掲示されていた、かつての木之本宿の写真です。街道の中央に水路が設けられており、柳の木が植えられていたようです。

その先、旧街道の右(東)側「名代 鯖棒寿司」で知られている ”すし慶”のお店です。明治時代になってから、ここに伊香郡役所が置かれていていました。

その先は山路酒造有限会社。冨田酒造とともに、天文(1531~1542)年間創業の老舗です。江戸時代に、木之本宿の脇本陣をつとめていた山路清平家です。江戸末期には伝馬所取締役をつとめ、木之本宿の北にあった柳ヶ瀬関所を通過した人馬の検認をしていました。ここには、明治時代になってから、郵便局の前身である駅逓(えきてい)が置かれていました。

その先で鍵形に交差する左右の道を越えます。その先がかつて木之本馬市が開かれていたところです。室町時代から昭和初期まで、年2回この地区の20軒ほどの民家を宿にして、伝統の馬市が開かれていました。近江、但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭の国々から数百頭の牛馬が集まり活況を呈していたということです。

左(西)側に馬宿平四郎の屋敷がありました。戦国時代、山内一豊の妻、千代が、夫のためにこの馬宿から出た名馬、摺墨を買い求めました。この馬で手柄をたてた山内一豊は、伊香郡の黒田村、大音村西山村を拝領し知行地としたそうです。商いは買い手が売り手の袖の中に手を入れて双方が指を握りあって交渉したよう、商談が成立すると両者が手を打って周囲にいた人もそれに合わせたといわれています。

馬宿平四郎の屋敷を越えると、旧街道は右カーブして緩やかな登り坂になります。

登り坂の途中に、一里塚跡がありました。案内板の裏に、上部を切られて丸太のようになった松の木がありました。一里塚は1里ごとに土を盛り上げ木を植えて、旅人の目印にしたものです。「みな」に載っていた写真には、枝もついていましたので、切られたのは最近のことなのかもしれません。

一里塚の手前の現在藤居邸があるところに、かつては茶店があって、旅人はそこで一服していたということです。

北国街道を進む旅人は、この先で木之本宿を抜けて、柳ヶ瀬関所から栃ノ木峠方面に向かって進んで行きました。

これは、JR木ノ本駅の前にあった江北図書館の建物です。滋賀県で最も古く、明治39(1906)年に設立されました。100歳を越えて現役を続けています。

琵琶湖の東に位置する北国街道木之本宿。静かで落ち着いた宿場町でした。しかし、町は活気づいていました。観光バスが着くたびに多くの観光客が降り立ち、黒田官兵衛ゆかりの展示品に見入っています。町には、官兵衛と書かれた幟(のぼり)がはためいていました。この機会に多くの観光客に、宿場町木之本の雰囲気を味わってほしいと思ったものでした。








宇品に残る宇品線時代のゆかりの地を訪ねる

2014年03月02日 | 日記
旧宇品線に沿って、JR広島駅から旧宇品駅まで歩いた日(「着工から17日で開業 旧宇品線の面影を求めて」2014年2月15日の日記)、宇品線が走っていた時代の名残を求めて、宇品の街を歩きました。

この写真は、かつての国鉄宇品線の旧下丹那駅から旧宇品駅に向かって歩いていたときに撮影したものです。宇品線はこの先にある広島高速3号線に沿って右(西方)にカーブしながら宇品駅に入っていました。

宇品駅は、現在の広島高速3号線、宇品インターチェンジがある付近に563m(貨物列車60両分に相当)にわたってホームが続いていたそうです。

これは、広島市郷土資料館で行われた企画展「陸軍の三廠」のパンフレットに掲載されていた地図にあった宇品駅ですが、その先、現在、広島電鉄が走っているあたりまで続いていたようです。

高速道路の北側に競輪場がありますが、反対側の南側に、宇品陸軍糧秣(りょうまつ)支廠のレンガ倉庫の一部が保存されていました。明治30(1897)年に設置された、陸軍中央糧秣廠宇品支廠です。宇品支廠は、明治35(1902)年陸軍糧秣廠宇品支廠と改称されました。「糧(りょう)」は軍人の食糧、「秣(まつ)」は軍馬の食糧(かいば)のことで、人馬の食料の調達や製造、貯蔵、補給を担当するところでした。

モニュメントのそばに、当時の写真が展示してありました。

これが、宇品陸軍糧秣支廠の倉庫でした。手前に引き込み線が見えます。

保存されていたモニュメントは、倉庫の「妻」の部分だったようです。糧秣支廠の建物は、戦後の昭和25(1950)年から、日本通運株式会社が倉庫として使用していましたが、平成9(1997)年に解体されました。

この写真は解体される直前の姿だそうです。広島郷土資料館でいただいたパンフレットの中にあった写真です。

糧秣支廠の倉庫のモニュメントから1ブロック南に、宇品波止場公園の案内板がありました。

案内板のとおりに、塀に沿ってもう少し南に向かうと宇品波止場公園に入ります。

公園に残っていた宇品線のモニュメントです。

波止場公園に残っていたかつての六管桟橋の跡です。宇品港は明治22(1889)年に築港されました。明治27(1894)年の日清戦争の開戦前の6月に山陽鉄道が、8月20日には宇品線が開通します。宇品港の軍事的価値は高まり、日露戦争から昭和20(1945)年の終戦まで、陸軍の軍用港として使われることになりました。六管桟橋は明治35(1902)年に建設され、「多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎え」(案内板の説明)ました。宇品港の軍用桟橋として建設されたのが六管桟橋で、築港当時の唯一の遺構だそうです。ちなみに、「六管」とは第六管区海上保安本部のこと。戦後、六管の桟橋として使われていたため、この名前がつけられたそうです。

現在の宇品港です。六管桟橋の遺構の前にあった海上保安庁の桟橋です。現在も「六管」との関わりが続いています。

これは、波止場公園の東につくられた1万トンバースの遠景です。宇品港から改称され発展する広島港を象徴する施設です。

六管桟橋から右側に目を移すと、たくさんの倉庫や事務所などが並んでいます。

波止場公園から、高速道路の一つ南の倉庫が並ぶ道、海岸通りに戻ります。そこから西に向かって歩きます。

宇品3丁目13番の信号を越えて、しばらくすると、左(南)側に木造2階建ての洋風建築が見えました。広島県広島港湾振興事務所と書かれた建物です。

この建物は、明治42(1909)年、広島水上警察署として建設されました。昭和40(1965)年から広島港湾事務所の事務室として、昭和56(1981)年からは港湾事務所の倉庫として使用されました。広島市内に現存する唯一の「明治の洋風木造建築」だそうです。

右側からやってくる広島電鉄の路面電車が右カーブして平行して走る手前に、日本通運広島海運支店の建物がありました。宇品陸軍糧秣支廠を、戦後倉庫として借りていた会社です。

広島電鉄の路面電車と平行して歩くようになりました。小さな交差点の先に、「安芸ノ海」の看板が見えました。「広島県唯一の横綱」と書かれていました。この関取は、昭和14(1939)年、69連勝中だった横綱双葉山を破ったことで広く知られています。

昭和17(1942)年、27歳で第37代横綱になりました。

横綱安芸ノ海は、本名永田節男(たかお)。この付近で、永田船舶食料品店の長男として、大正3(1914)年に生まれました。家業の荷物運びに励んでいた17歳の時に、大相撲にスカウトされたそうです。写真に矢印で示された手前から2軒目の建物が横綱のご実家なのだそうです。

案内に掲示されていた、実家の現在位置です。高速道路の下の交差点あたりになるのだそうです。

実家のあった場所と思われるところです。

もう一つ、訪ねてみたいところがありました。広島電鉄の路面電車に乗車して、広島駅方面に向かいました。10分ほどで宇品二丁目の電停に着きました。宇品2丁目の駅は上り下りで、電停の位置がずれています。二つの電停の中間地点を左(西)側に向かって進みます。5ブロック目に案内が掲示されていました。

めざすはこの広島市郷土資料館です。細い道をさらに西へ向かいます。

赤いレンガの郷土資料館に着きました。企画展の「陸軍の三廠 ~宇品線沿線の軍需施設~」が開かれていました。ここは、レンガの壁が残されていた、宇品糧秣支廠の缶詰工場があったところです。

この配置図は資料館でいただいたパンフレットに書かれていた、昭和5(1930)年頃の糧秣支廠の建物のようすです。缶詰工場は、明治44(1911)年に建設され、牛肉の大和煮の缶詰を製造していました。また、材料の牛肉の食肉処理を行う処理場が、この資料館の北、現在グランドになっているところにつくられていました。

糧秣支廠の缶詰工場は、戦後の昭和21(1946)年から広島糧工(りょうこう)株式会社が借り受け、昭和52(1977)年まで缶詰を製造していました。その後、建物の3分の1程度を保存することになり、昭和60(1985)年広島市郷土資料館として開館しました。レンガの外壁の内側に鉄筋コンクリートの建物を建設してつくられたといわれています。

企画展は、広島市に設置されていた陸軍三廠、広島陸軍兵器支廠、広島陸軍被服支廠、宇品陸軍糧秣支廠の姿と戦後の状況を
市民の証言や写真で振り返るというものでした。ちなみに広島陸軍兵器支廠は、現在、広島大学医学部・付属病院のある場所に、また、広島陸軍被服支廠は、現在、県立皆実(みなみ)高等学校や県立広島工業高等学校がある場所に設置されていました。

これは郷土資料館になっている糧秣支廠の西側を撮影したものです。食肉処理場は、戦後の昭和24(1949)年に松尾糧食工業株式会社が入居し(昭和30=1955年カルビー製菓株式会社と改称)、かっぱえびせんやポテトチップスなどのヒット商品を生み出しました、平成18(2006)年に移転して行くと、翌平成19(2007)年、建物は解体されて姿を消しました。今では跡地がグランドとして整備されています。

旧国鉄宇品線の線路跡を歩き、その後、宇品線が走っていた頃のゆかりの地を宇品に訪ねた一日でした。広島市郷土資料館の展示は、宇品線が走っていた時代を考えるのにとても役立ちました。