トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

神になった「朝敵」の家臣、熊田 恰

2012年05月27日 | 日記
倉敷市の西部に位置する玉島地区。ここは、備中松山藩の干拓によって発展し、松山藩の外港として栄えたところです。
その中心に羽黒神社があります。

備中松山藩が開いた高瀬舟の通路”高瀬通し”の船溜まり(港)の近くに残る、”みなと湯”の脇から羽黒神社に登ります。

羽黒神社は、江戸時代の前期、玉島の干拓を推進し国力を高め備中松山藩の基礎をつくった備中松山藩主水谷勝隆が、
ふるさとの出羽国、羽黒神社を勧請して建立したところです。

登り切ったところにある拝殿の脇を右に向かうと桧皮葺きの本殿が見えます。通路を隔てた向かい側に、小さめの鳥居と祠があります。”熊田神社”です。

備中松山藩の家臣、熊田恰(くまだあたか)を祀った神社です。明治3(1870)年に建立され、彼の遺刃が埋葬されています。神ではない、「人」を祀る神社は珍しくありません。山口県萩市にある、吉田松陰を祀った松陰神社のように、明治維新を成し遂げた功労者を祀っている例はよく知られています。

熊田神社の祭神、熊田恰は、鳥羽伏見の戦いで「朝敵」とされた備中松山藩の家臣でした。名は矩芳(のりよし)、恰は通称でした。藩校の有終館で学び、新陰流を修行した後、父親の後を継いで、備中松山藩の剣術師範をつとめました。そして、幕末の慶応2(1866)年、42歳で年寄役になり藩の重役となっていました。

有終館は、備中松山城の外堀の働きをしていた紺屋川(こうやかわ)の右岸、現在の高梁幼稚園のところにありました。

標高430m、日本で一番高いところにある天守閣をもつ備中松山城。

藩主は、麓の御根小屋におられました。

御根小屋の跡には、現在、岡山県立高梁高等学校が建てられています。

熊田の屋敷は、写真の駐車場のところにありました。そこから50mほど先に駐車している車の手前を右に坂(御殿坂)を登っていくと、5分ぐらいで御根小屋の玄関口に着きます。熊田は、御根小屋から近いところに屋敷を拝領していました。
熊田が仕えていた頃の備中松山藩主は、板倉勝静(かつきよ)。江戸幕府の最後の将軍である15代将軍徳川慶喜に仕え、
老中首座の地位にありました。彼は伊勢の桑名藩主松平家から、養子として備中松山藩にやってきました。彼の祖父は寛政の改革で知られる松平定信でした。

備中松山藩で藩政改革を主導していた山田方谷は、幕府の先を見越して、幕府と距離を置くように、勝静に進言していました。しかし、将軍を支える家柄の出身であり、しかも老中首座。幕府の中枢にいた彼には、沈み行く船から逃れるという道は、選択肢にありませんでした。そして、家臣であった熊田もまた、藩主に殉じる以外の道はありませんでした。

慶応3(1867)年9月、大政奉還の意思を示していた徳川慶喜は、翌4(1868)年1月3日の鳥羽伏見の戦いで大敗を喫し、7日には、軍艦“開陽”で江戸に向かいました。藩主の板倉勝静ら数人が随行しました。藩主の警備隊長として同行していた熊田らは、板倉勝静から備中の国松山へ戻るよう指示を受け、16日の夜には玉島に着き、西爽亭(さいそうてい)に入りました。西爽亭は、玉島の庄屋で、廻船問屋を営んでいた、柚木家の邸宅だったところです。現在、国の有形文化財に指定されています。

西爽亭は、伝統的な民家が続く、矢出町(やいでまち)にあります。矢出町は、現在、岡山県の町並み保存地区に指定されています。

西爽亭の式台を越えて入った右奥に、「お成りの間」がありました。備中松山藩主が玉島を訪れた際に、宿泊していた部屋です。

さて、1月17日には家臣団159名が玉島に揃い、柚木亭や清滝寺に分宿しました。そこへ、備中松山藩からの密命が届きます。「小御所会議で備中松山藩は朝敵とされた。備中松山城への帰城は許されず、玉島で謹慎せよ」というものだったそうです。1月20日には、すでに18日に備中松山城を接収し武器も管理下に入れた倒幕軍の岡山藩の兵が玉島に到着しました。

熊田は、藩兵の命を守る嘆願書を岡山藩筆頭家老伊木若狭守に託した後、西爽亭の「次の間」で切腹しました。慶応4(1868)年1月22日のことでした。

「お成りの間」の手前にある「次の間」の天井には、そのときの血しぶきが飛び散った跡と伝えられるシミが天井に残っています。次の間を見学したとき、案内してくださったガイドの方は、「見学に来られたお医者さんに、『ほんとに、あんな所まで飛んだのですか』と問われて、返事ができませんでした。どうなんでしょうね?私は、『そのように伝えられています』とお話ししています」とのことでした。

熊田が切腹したことにより、玉島での戦いは回避されました。備中松山藩の兵も命を助けられました。藩を救い、藩兵を救い、玉島の町を戦禍から救った熊田恰の遺骸は、玉島で火葬され、羽黒神社の中腹にある清滝寺で法要が行われたといわれます。

その後、ふるさとの備中松山藩(高梁市)の法栄山道源寺に葬られました。

また、備中松山藩主も彼の功績を認め、備中松山藩主の祈願所である八重籬(やえがき)神社の境内に、「熊田神社」を祀っています。


今も、本殿の右の奥に鎮座しています。

熊田恰の生涯を見ていると、歴史の巡り合わせによって、人の一生が左右されると感じざるを得ません。私が、もし20年早く生まれていたら、戦争にかり出され、不本意ながら戦場で命を落としていたことでしょう。20年遅く生まれてきたから、ここまで、平和な社会で生きることができました。まさに巡り合わせです。

熊田は、理不尽としか思えないような状況を甘んじて受け入れ、命を差し出したのです。
理不尽な出来事を嘆くことなく死を受け入れた潔さと、そういう覚悟を持っていたことに、人々は感嘆したのだと思います。だからこそ、玉島の人々は「朝敵」の家臣でありながら、かれを「神」として祀ったのでしょうね。







讃岐富士に登ってきました!

2012年05月14日 | 日記
岡山から瀬戸大橋をわたると、正面に、おにぎり形をした山が目に入ってきます。平成17(2005)年3月22日、「新日本百名山」に選定された、讃岐富士こと、飯野山です。この年は、平成の大合併によって、丸亀市、綾歌町、飯山町が合併し、現在の丸亀市が成立した年にあたるそうです。

この日は、JR瀬戸大橋線で四国に入りました。快速マリンライナーが瀬戸大橋から坂出に入るところで、住宅の間から、美しい円錐形の飯野山が見えてきました。

この日は、JR丸亀駅から、飯野山に登ることにしていました。

大昔、”おじょも”といわれる大男が、「おむすびのように『けっこい』三角の山をつくるぞ」と、
そうっと土地を落としてつくったのが飯野山だと、言われています。

午前9時。出発です。

浜町から富屋町を歩き、丸亀城の大手門をくぐります。丸亀城公園を抜け番丁の旧武家屋敷町を通って、さらに南に進みます。

山北(やまのきた)神社を通過します。ここは、慶長2(1597)年に、生駒親正が丸亀城を築くにあたり、この地に移したと言われている、藩の祈願所でした。もともとは、神社名のとおり、丸亀城のある亀山の北麓にあった船山明神だったようです。

山北神社を過ぎる頃から、左側に飯野山が見え始めます。

南中学校の北側を東進し校舎に沿って右折します。近くを歩いていた女性の「ここは、"UDON"という映画ののロケ地になったところなのよ!」という声が・・・。9時55分。ここで、休憩。  ここまで、丸亀駅から4,3kmでした。

10時5分、出発。

しばらく進んだところに、「うどん富永」の看板がありました。ここも、映画に関係あるのかな?
映画を見ていないから、わからない・・・、質問するまでもないでしょう。

右側に高速道路が近づいてきます。

やがて、土器川を渡ります。海に近い下流域なのに、水の量はずいぶん少ないです。

”おじょも”は、飯野山をつくってそのできばえに満足したらしく、象頭山(金刀比羅さんのある山)と飯野山に足をかけて、大雨のようなおしっこをしたそうです。その「大雨のような」おしっこが流れて土器川になったということです。

土器川にかかる橋の上から下流を見ると、飯野山とよく似た山がふたつ見えました。お聞きすると、左が青の山、右が角山とのことです。

丸亀市と宇多津町の間にある青の山は、標高220m。飯野山とよく似た印象です。それもそのはず、二つの山は兄弟なのです。おじょもが飯野山をつくったとき、一緒につくったのが青の山でした。
飯野山が兄で、青の山が弟です。

飯野山や土器川ができてから、2つの山は距離も近いため、何かにつけて張り合っていました。兄の飯野山は背の高さを自慢し、青の山は背も高く樹木も青いと言って、大げんかになり、飯野山は青の山の頭を切ってしまったといいます。そのため、青の山の頂上が平らになったといわれています。

それを見ていた象頭山が、今度は飯野山をぶったため、飯野山は東の側にたんこぶをつくってしまいました。

飯野山に登ります。野外活動センターで、再度休憩です。 10時50分。ここまで、丸亀駅から、7.8km。

「4月22日は讃岐富士の日」平成22(2010)年に丸亀市が制定しました。

11時出発。頂上までは、後2,2km。ここからは一挙に頂上をめざしました。近くを歩いている方のおしゃべりも止まり、ひたすら登ります。下ってくる人のあいさつに答える声がするだけです。

丸太で階段状に整備された登山道は登りやすく、案内も豊富にあり、迷う心配もなく安心して登ることができました。

六合目の案内です。

飯野山への登山道は、今登っている道以外に2本あります。一つは、旧飯山町からまっすぐ直登する登山道。もう一つは、坂出側からの西又道。こちらは、途中から現在の飯野山登山道に合流するそうです。ここは、旧飯山町からの登山道との合流点です。

登山道の右側にはところどころ、樹木が刈ってあり、豊かな眺望が見られます。ちょっと立ち止まって、景色も楽しむことができます。ありがたいご配慮に感謝です。

11時45分、頂上に到着。丸亀駅から、ちょうど10km。海抜421.9m。登山道になってから、約45分かかりました。

一番見たかったのは、”おじょも”の足。象頭山とこの頂上に足をかけて、おしっこして土器川ができた時の、足跡が残っていると聞いていました。案内板を見て、さっそく展望台に向かいました。
約30メートル下ると展望台でした。

晴れわたった頂上からの眺望は本当にすばらしい。

めざす”おじょも”の足跡は、展望台の後ろにある、巨石の中にありました。えっ! こんなに小さいの!多くの方が、余りの小ささに驚いておられました。

「巨石」という説明も、そぐわない感じの石の中に彫り込まれた足跡は「巨足」とはとてもいえませんでした。

展望台からは、”おじょも”が足をかけた象頭山が見えました。左の方の稜線が下がったあたりには、金刀比羅宮が鎮座しています。目の下には、讃岐平野の名物であるたくさんの「ため池」や、
手前には、広い川床をもつ土器川が見えました。

”おじょも”は、あの小さい足で立って、土器川をつくったのですから、おそらく、川の上流に向かって、おしっこを飛ばしたのだと思います。あれだけの川床をつくったんだから、きっと遠くまで飛んでいるはずだし、おしっこの量も「大雨」のように多かったようだし、足は小さくても、やっぱり大男だったんだね!

12時20分、下山開始。明るい日差しの中、来た道を引き返しました。

丸亀市の郊外、黄色い収穫前の麦が実る道をひたすら歩きます。ときどき、右手後ろの飯野山を見上げながら・・・。どこからでも、飯野山が見えました。

14時45分。丸亀駅。ついに、到着しました。

歩いたぞ!  往復20km!出発から休憩時間を含めて、5時間45分のウオーキングでした。

鯉のぼりが泳ぐ商店街

2012年05月10日 | 日記
”屋根より 高い鯉のぼり”と、
歌われていますが・・・。

屋根より低い商店街のアーケードの下に、
多くの鯉のぼりが泳いでいます。
「つり下げられている」という方が、
正しいとは思いますが・・。

岡山市街地の表町商店街の中心部にある旧栄町商店街です。

旧栄町商店街を含む一続きの商店街は、
昭和45(1970)年の住居表示の実施に伴い、
表町商店街と名を変えましたが、
その起源は、400年以上さかのぼる伝統ある商店街です。
以前は、「表八ヶ町」、すなわち上之町、中之町、下之町、栄町、
紙屋町、西大寺町、新西大寺町と天瀬と呼ばれる商店街でした。

戦国武将の宇喜多直家が、岡山に出て城下町づくりに
着手したのは、天正元(1573)年のことでした。

城下町づくりにあたり、宇喜多直家は、
幼少の時に身を寄せていた、
備前福岡(瀬戸内市長船町福岡)の商人である阿部善定の手代、
源六を呼び寄せ、現在の天満屋デパートがあるあたりに、
土地を与え住まわせました。
源六は、そこで、    
魚屋九郎衛門と名乗り、呉服商を営みました。

ちなみに、「備前福岡」は、歴史の教科書に載っていた
「一遍上人絵伝」にあった「福岡の市」の福岡です。
この当時、福岡から移ってきた商人が住む「福岡町」は、
「上之町」「中之町」「下之町」の三ヶ町に分かれていました。

その後、
山陽道が現在の表町商店街を通り抜けるようになってからは、
旧栄町は、町内は町会所や本陣がおかれるなど、
商人町の中心として栄えました。

下から見上げると、泳いでいる鯉のぼりの裏には、
名前が書かれていることに気がつきました。

これまで、表町商店街は天満屋デパートと一体となって、
多くのお客さんを集めてきた、岡山市街地最大の商店街でした。

しかし、表町商店街は、これまでも
岡山駅前エリヤの商店街など新らしい商店街との競争を、
続けてきました。

最近、
倉敷駅北側の旧チボリ公園跡地に出店したアウトレットモールは、
岡山市からも多くの買い物客を集めるようになっています。
また、岡山駅に隣接している旧林原駐車場には、今後、
イオンモールが開業することになっているようです。

老舗の表町商店街は、これまで以上の強力なライバルとの競争に
さらされることになります。
それを見越して、核になっている天満屋デパートは
増床工事を始めることを決めているようです。

表町を愛する人たちのためにも、
この鯉のぼりのように、創意工夫を重ねて、
賑わいにある商店街を維持していってほしいと願っています。



倉敷市玉島の仲買町通りを歩きました!

2012年05月05日 | 日記
美観地区で名高い倉敷市の西部に位置する玉島地区。
江戸時代に、備中松山藩によって干拓され、松山藩の外港として栄えたところです。

今も高梁市に残る備中松山城天守閣は、日本一高いところにあり、国の重要文化財に指定されています。ゴールデンウイークの1日、岡山県の町並み保存地区に指定されている、玉島の阿賀崎地区、仲買町通りを歩いてきました。

上の絵図は、新町の玉島信用金庫の西支店に掲示してあったものですが、地図中の横の堤防の上にある町が新町、左の縦の通りが仲買町です。仲買町には、問屋と小売商・農民との仲介業者が多く住んでいたので、この名がついたと言われています。

里見川を渡って、良寛で知られる円通寺へ向かう道に入ります。

洋館の前に円通寺を示す道標が立っています。補陀山圓通寺。 文化11(1814)年、「行者泉府三雲芳兵衛」が寄進したと刻まれていました。

洋館はひときわ目立つ二階建てで、大正13(1924)年に建てられました。
もとは、富士銀行。その後、玉島信用組合を経て、現在は、モタエグループになっているようです。この洋館の右手の通りが仲買町通りです。

白壁にナマコ壁の商家と土蔵が並ぶ町並みです。

すぐ左に、玉島味噌醤油合資会社。

鴨方屋呉服店。この建物は、「看板建築」と言うようです。関東大震災から昭和初期に流行していた、軒のない平らな正面部をモルタルや銅板で飾っていて、商店に多い様式だったそうです。

その隣が清酒 ”燦然”の醸造元、菊池酒造。見学もできるということですが、この日は休みでした。その先に大きな醸造蔵が続いています。

向かいが、仲買町で最も古い「吉田畳店」、白漆喰のナマコ壁の建物です。

その隣が白神紙商店です。
説明によれば、万治2(1659)年に越前屋として開業、後に室屋となりました。明治になってからは紙問屋として、当時の建物を守って来たそうです。

ここは、井出屋。案内板によれば、宝暦3(1763)年、井上藤介恒本がこの地で、
肥料や穀物、綿を扱う井出屋を開業したようです。

当時は肥料といえば、北海道のニシン粕でした。化学肥料になってからも、肥料の看板をあげ続け、昭和16(1941)年に廃業するまで事業を続けたということです。隣の井上商事には、肥料会社の看板が残っていました。

ここには、種田山頭火も訪れたようで、「来訪の地」の石碑が立っていました。

左側に柳湯。お風呂屋さんの頃そのままの外観で残っていました。この地は、風呂屋の前には芝居小屋があったそうです。

さらに進むと、小さな溝に架かった小さな橋がありました。橋を架けるまでもないようなところでした。「夢のう幾橋」(夢の浮橋)と彫られていました。

この先には、二階に手すりのついた民家が残っています。

しばらく進むと、また、小さい橋がありました。普通に歩いていると見逃してしまうような小さい橋。この橋は「地獄橋」なのだそうです。この2つの橋の間には、かつて、遊郭があったそうです。「夢の浮き橋」と「地獄橋」とは・・・、 何となく納得できます。

「末広餅」のお店です。この先は、ほとんどが建て替えられていて、往事の面影をたどるのは難しいようです。引き返すことにしました。

ゆっくりと、仲買町のランドマークである、旧富士銀行の建物に向けて歩いて帰りました。
伝統的な屋並みがたくさん残る、訪ねて楽しい町でした。