トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

明治29年の建物財産票のある駅、JR木幡駅

2017年03月31日 | 日記
このところ、JRの古い駅舎を訪ねています。最近、JR播但線にある鶴居駅(「明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(1)JR鶴居駅 2017年3月17日の日記)とJR香呂駅(「明治27年開業の播但線の2つの駅舎(2)JR香呂駅」2017年3月24日の日記)を訪ねました。この日は、鶴居駅や香呂駅とほぼ同じ時期に開業したJR木幡(こはた)駅を訪ねました。
これは、JR奈良線にある木幡駅の駅舎です。明治29(1896)年に開業しました。開業から、すでに120年を超える歴史を持っていますが、今も、現役の駅舎として、多くの乗降客に使用されています。
これは、JR木幡駅の入口付近の柱に貼られていた「建物財産票」です。「明治29年1月 本屋」と書かれています。「建物財産票」は「建物財産標」とも表記されますが、国鉄(現JR)が建設した様々な建物を、用途(本屋・倉庫・・・)ごとに分類し、使用開始時期を示したものだといわれています。
木幡駅に設置されていた路線案内図です。JR京都駅とJR奈良駅を結ぶJR奈良線(途中の木津駅・奈良駅間は関西本線)にあります。
京都駅から、奈良線の城陽駅行き4両編成(キハ103系)の普通列車に乗車しました。複線区間を走り、伏見稲荷大社の最寄り駅JR稲荷駅で多くの乗客が下車した後は、立ち客もいなくなりゆったりとした車内の雰囲気になりました。駅間距離が短いため電車もゆったりと走ってきました。稲荷駅の次のJR藤森(ふじのもり)駅からは単線区間となり、京都駅から16分ぐらいかかって、木幡駅の2番ホームに到着しました。写真は、乗車してきた電車の先頭車両(クハ103216号車)です
ホームにあった駅名表示です。木幡駅は京都府宇治市木幡大瀬戸にあるそうです。「木幡」の地名の読み方は様々あり、JR木幡駅は「こはた」駅、京阪宇治線の木幡駅は「こわた」駅、駅周辺には「こばた」と読む地域もあるそうです。京都駅寄りの六地蔵駅から1.0km、次の黄檗(おうばく)駅まで1.4kmのところにあります。
ホームにあった時刻表です。1時間に4本程度の列車が運行されています。「待たずに乗れる」という雰囲気で利用できそうです。
木幡駅は相対式の2面2線のホームになっています。しばらく停車した後、京都駅行きの列車が1番ホームに入線してきました。
木幡駅から見た、奈良駅方面です。2番ホームから伸びた線路は駅の出口で、1番ホームから奈良方面に向かう線路に合流しています。その先に御陵道踏切が見えました。奈良線は、この先のJR宇治駅・JR新田(しんでん)駅間が複線区間になっています。
2番ホームから見た駅舎と1番ホームの姿です。駅舎内の右側に改札口。左に駅事務所がありました。
2番ホームの中央部分です。上屋の下にベンチが置かれています。2番ホームの片面には柵が設置されていました。
2番ホームから見た京都駅方面です。屋根のない跨線橋の向こうでホームが途切れますが、その先が木幡踏切になっています。
木幡踏切より先の京都駅方面の線路です。2番ホームからの線路は1番ホームから来た線路に合流しています。京都方面からは2番ホームに入線する線路が、1番ホームに行く線路から分岐しているという構造になっています。木幡駅を通過する快速列車はまっすぐ進んで行くことができます。
2番ホームから跨線橋に上りました。2番ホームの左側にあるバラスで覆われたところは、線路があったところのようです。
これは、木幡踏切から見た2番ホームの左側のようすです。線路の跡がよく分かります。かつて、木幡駅は2面3線のホームだったのです。平成13(2001)年のダイヤ改正から”1線スルー”の配置になったそうですが、そのとき、真ん中にあった旧2番線が撤去され旧3番線の線路が新たに2番線になりました。しかし、木幡踏切の安全性を高め交通渋滞を緩和するため、写真のホームの左側にあった新2番線(旧3番線)を撤去し、ホームの右側の撤去されていた旧2番線を復活することにして、現在の相対式2面2線のホームができあがったそうです。
こちらは、木幡踏切から見た京都駅方面の撤去された旧2番線の線路跡です。かつての姿がよく分かります。この先で1番ホームから来た線路と合流していたようです。
屋根のない跨線橋を渡って1番ホームに下ります。正面の屋根のあるスぺースの右側、黒く見える屋根がトイレ。向こうの切り妻屋根の建物が駅舎になっています。
1番ホームの奈良駅寄りからみた1番ホームです。ベンチも新しくなっており、かつての面影をしのぶことができるものを見つけることは難しい状況でした。
もう少し、奈良駅寄りから見た1番ホームと駅舎です。1番ホームを覆う屋根と切妻屋根、横板を並べた白い駅舎が見えました。
青春18きっぷを示して、改札から駅舎内に入りました。待合いのスペースから見た自動改札機と、2番ホームに停車しているクハ103系車両の列車です。駅舎内の待合いスペースは広くはありません。5,6人の人がいると動きが取りにくいと感じるのではないでしょうか。
駅舎内です。左に自動改札機、正面に駅事務所。女性の駅スタッフの方は、下車した方が改札を通るたびに、深々と一礼をされていました。清潔な駅舎内に咲いた一輪の花のような方でした。ちなみに、木幡駅はJR西日本交通サービスが受託している業務委託駅になっています。
駅舎への出入口から見た待合いスペース。正面に自動券売機。出入口の柱に貼られた長い「禁煙」のカードの上に、四角の白いカード状のものが見えました。それが建物財産票です。駅舎へ入る右側の柱に貼ってありました。
明治29(1896)年に開業したJR木幡駅は、開業以来120年を超える歴史を持つ駅です。でも、現在の木幡駅は明治の面影をまったく感じることができないモダンな駅になっていました。1日平均2,762人が乗車する(2014年)駅でした。駅舎内から出て、周辺のようすを見ることにしました。駅前にある整備された舗道を、御陵道踏切に向かって歩きます。静かで落ち着いた、そして、モダンで上品な雰囲気を感じる通りでした。線路に接して建てられていた宇治市営JR木幡駅前自転車等駐車場です。
親子で来られた方が建物を撮影されていた、”京都アニメーション”の本社の建物です。この日は休業日だったようですが、壁の垂れ幕には「2017年1月より放送開始! 小林さんちのメイドラゴン」と書かれていました。子どもと一緒だった方は、この垂れ幕を撮影されていたようです。
自転車駐車場の前から木幡駅舎を撮影しました。整備された美しい風景です。時計塔の下の駅舎も風景に溶け込んでいます。
さらに、御陵道踏切に向かって進むと、木幡変電所にぶつかります。その脇をさらに進み、線路沿いに歩くと、御陵道踏切に出ます。
御陵道踏切に向かう道路の先にあった茶畑です。宇治市にいることを痛感しました。山の斜面につくられた茶畑になじんでいる私には、道路脇で育てられているお茶の葉には驚かされました。
御陵道踏切を渡ります。23K823M。奈良線の起点、木津駅からの距離のようです。木幡駅の周辺は、静かな住宅地帯になっています。御陵道踏切を渡ると道は緩やかに上っていきます。
その先にあった「御陵」の「宇治陵」です。案内には「宇多天皇中宮温子宇治陵」「醍醐天皇皇后穏子宇治陵」など20人の御柱の名が書かれていました。
引き帰して、木幡駅の京都駅寄りにある木幡踏切に来ました。こちらには、24K220Mと書かれています。御陵道踏切との間は約400mあるようです。こちらは、長い踏切を短縮する工事をしたところらしく、交通量がかなりありました。これなら、信号で停車する時間が長いのはまずいでしょうね。
木幡踏切から、奈良線を右側に見て撮影しました。緑地公園の「木幡緑道」がつくられています。
50mぐらい歩くと、自転車・歩行者専用道路になります。木幡緑道は、旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場鉄道の引込線の跡地を整備したものです。引込線の跡地を歩いてみることにしました。さて、旧陸軍宇治火薬製造所が建設されたのは、日清戦争後の下関講和条約を締結した翌年の明治29(1896)年のことでした。JR奈良線の黄檗駅付近に建設されました。
これは、綠道にあった説明です。引込線は、緑道が終わると大きく左カーブして、木幡分工場に向かっていたようです。分工場は、木幡池の先の広大な土地にあったようです。旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場がこの地に建設されたのは、明治38(1905)年8月のことでした。日露戦争後の講和会議が行われていた頃でした。
引込線の跡地を歩き始めました。左側に、宇治市立木幡保育所がありました。明治38(1905)年につくられた分工場は、昭和3(1928)年に拡張工事を行い、これ以後、戦時体制に突き進んでいくことになりました。
さらに進みます。やがて、左側の民家の裏に許波多(こはた)神社があるところを過ぎます。木幡分工場は昭和20(1945)年の終戦とともに事業を終了します。そして、昭和58(1983)年、分工場への引込線の跡地が、自転車・歩行者専用道路、「木幡緑道」として整備され、市民の憩いの場として親しまれるようになりました。
駅名標のような案内板がありました。許波多神社の説明です。通ってきた木幡保育所と、この先にある堂ノ川が案内されています。綠道を愛する地域の人がつくられたのではないでしょうか?
線路跡らしくなってきました。線路のあった築堤が続いています。
堂ノ川の手前付近です。ここで、木幡綠道が終わります。しかし、分工場への引込線跡は、この先も残っています。
堂ノ川を渡って、線路跡をたどります。築堤の脇に車道が並んで整備されています。大きな左カーブが始まりました。
   
築堤の両脇の低地には、境界を示す「陸軍用地」と刻まれた石柱が、今も残っていました。
左カーブが終わり直線コースになったあたりに、鉄橋の橋台跡が残っていました。橋桁はありませんでしたが、かつての鉄道のようすをしのぶことができました。
住宅地から100m。2つめの橋梁跡。ここには橋桁が架かっていました。
築堤の上は、危険を避けるため、橋台の手前に柵に設置され通れなくなっていましたので、並行する道路を歩いていきます。京阪宇治線の線路の高架が目の前にありました。
桁下1.2mと書かれた高架下をくぐります。京阪宇治線の上に引込線の橋台跡がありました。
築堤の上に上ってみました。引込線の先の左側にパナソニック株式会社オートモーティブ&インダストリアルシステムズ社です。その先に木幡池がありました。引込線は木幡池の脇をまっすぐ分工場に向かっていました。
パナソニック株式会社の先の木幡池です。旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場は前方にある住宅地のあたりにあったようです。

JR木幡駅は「明治29年1月」と書かれた「建物財産票」がある駅舎を持つ駅です。長い歴史を経た古い駅舎、人通りのほとんど無いところに残っているという思い込みをもってやってきました。しかし、実際はまったく違っていました。整備された近代的な環境のもと、たくさんの人が乗車する駅のままでした。開業から120年を超えても、なお市民の方々に愛されている幸せな駅でした。


明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(2)JR香呂駅

2017年03月24日 | 日記
日本で一番古い駅舎は、明治19(1881)年開業のJR武豊線の亀崎駅舎だといわれています。しかし、この駅舎は建て替えられているとする説もあり、その場合には、明治22(1889)年に開業したJR土讃線の善通寺駅舎になるそうです。

これは、JR播但線の香呂(こうろ)駅の駅舎にあった「建物財産標」です。それには、「明治27(1894)年8月駅本屋」と書かれています。現在、明治20年代の建物財産標(「票」と書かれて」いるものもあるそうです)を持つ駅としては、他には、JR奥羽本線川部(かわべ)駅と津軽新城(つがるしんじょう)駅(いずれも、明治27年)、JR奈良線の木幡(こはた)駅(明治29年)があるそうです。

これは、前回訪ねたJR播但線の鶴居(つるい)駅です(「明治27年開業のJR播但線の駅舎(1)JR鶴居駅」2017年3月17日の日記)。この駅も、明治27(1894)年に開業しました。当時の駅舎が残っていましたが、改修が行われていて、開業当時の面影を残していたのは、わずかに見える柱だけだったような印象です。建物財産標のある駅には入っていませんでしたので、現地で探してみたのですが、はやり見つけることはできませんでした。

写真はJR香呂駅です。現在のJR播但線が、播但鉄道によって、姫路駅・寺前駅間が開業したときに誕生した駅です。鶴居駅と同じ明治27(1894)年7月26日に開業しました。JR鶴居駅を訪ねた日、鶴居駅からJR香呂駅に向かいました。

鶴居駅から15分ぐらいで、香呂駅の1番ホームに到着しました。香呂駅は姫路市香寺町にあり、一つ手前の溝口駅から2.0km、姫路駅寄りの次の駅、仁豊野(にぶの)駅まで3.0kmのところにあります。

播但線の姫路駅行きの列車です。播但線は開業から110年を超えています。明治27(1894)年に姫路駅・寺前駅間を開業させた播但鉄道は、明治36(1903)年に山陽鉄道に譲渡され、明治39(1906)年に国有化、そして、明治42(1909)年に名称変更により、国鉄播但線になりました。列車の前面には「播但線全線開通110周年 (1906~2016)」と書かれています。

下車してすぐ感じたのが、鶴居駅とそっくりのホームの構造だということでした。対面式の2面2線のホーム、寺前駅方面にあった、2つのホームをつなぐ跨線橋、2番ホームにあった待合いのスペース。すべてが、まったく同じ設計のように感じました。

跨線橋で2番ホームに降り立つと右側(西側)に自動改札機が設置されています。これは、最近になって増設されたところのようでした。播但線では、平成28(2016)年3月26日からICOCAの利用ができるようになっています。

西改札口です。自動改札機の脇のスペースには自動券売機も設置されています。西側の改札口への通路はバリアフリーになっていました。

バリアフリーの先の風景です。かつて、側線があったところのようです。レールが一部残っていました。この先(寺前方面)に第1佐田踏切がありました。

2番ホームから見た寺前駅方面です。2番ホームの待合いスペースです。鶴居駅の2番ホームは2つのスペースに分かれていましたが、香呂駅は出入口にドアのついた1つのスペースになっていました。こちらの2番ホームは、行き違いがあるときだけ、寺前駅方面行きの列車が停車することになっています。一方、1番ホームには、行き違いのない場合、すべての上下線の列車が停車します。これも、鶴居駅と同じ運用になっています。

2番ホームから見た1番ホームと駅舎です。鶴居駅は屋根が瓦葺きになっていましたが・・。でも、駅舎の光景は鶴居駅と同じです。

1番ホームに戻り、駅の東改札口から駅舎に入ります。改札口があったところに、自動改札機が設置されていました。右側に、駅の事務所がありました。この風景も鶴居駅と同じです。

駅舎内から見た自動改札機と1番ホーム方面です。左側に駅事務所。香呂駅は1日平均乗車する人が、1,657人(2,012年)いらっしゃいます。業務委託駅になっており、職員の方が勤務しておられました。右側には時刻表が置かれています。

鶴居駅と同じように、事務室は手前に向かって斜めに広がっていました。事務所の手前の左側には自動券売機が設置されていました。駅舎内は白色を基調にした明るい雰囲気の駅に改修されていました。開業当時のものを見ることができるのは柱だけのようでした。これも、鶴居駅と同じでした。

駅舎の右側に屋根のついた待合室がつくられていました。3方にベンチが置かれています。待合室へは、飲み物の自動販売機の間から入ることができます。鶴居駅では、このスペースは設置されていませんでした。

香呂駅の入口の車寄せです。冒頭の「建物財産標」は、駅舎右側に接した柱から斜めに天井に伸びた木材の上に貼ってありました。車寄せには天井が張ってあり、電灯がついています。駅前のスペースは、平成27(2015)年の工事によって、バリアフリーの構造になっています。

外部から見た駅舎です。手前から待合室、駅舎の入口と並んでいます、駅舎の南のスペースには、昭和55(1980)年に廃止されるまで、有蓋車用の貨物ホームが設置されていたそうです。

駅前から見た駅舎の全景です。跨線橋が存在感を示しています。

これは、1番ホームからみた姫路駅方面です。香呂駅1番ホームから出た列車は、第2西川踏切を越えて、まっすぐに進んで行きます。第2西川踏切は「11K095M」と書かれていました。姫路駅からの距離のようです。

こちらは、香呂駅を寺前方面に出たところにある第1佐田踏切。「11K428M」と書かれていました。香呂駅の「停車場中心」はは「11K190M」となっていました。

第1佐田踏切から見た香呂駅方面です。線路は1番ホームにまっすぐ進んでいます。途中から分岐しているのは、2番ホームに向かうレールです。行き違いがない限り、1番ホームにすべての列車が停車するのに都合のいいレールの配置になっているのも、鶴居駅と同じでした。


JR播但線の誕生時の明治27(1894)年に開業した2つの駅、JR香呂駅とJR鶴居駅を訪ねて来ました。同じ時期にできたからでしょうか、構造や駅舎の形もそっくりのつくりの駅でした。そして、現在の列車の運用についても同じような駅でした。しかし、駅の雰囲気は少し違っていました。姫路市内にある香呂駅には都会的な雰囲気が漂っており、田園地帯をバックにした鶴居駅は、素朴で少しひなびた感じを受ける駅でした。駅周辺の雰囲気こそ少し異なりましたが、どちらの駅からも、1世紀を超える年月を働き続けて来た誇りを感じることができました。

明治27年開業のJR播但線の2つの駅舎(1)JR鶴居駅舎

2017年03月17日 | 日記
日本で一番古い駅舎は、明治19(1886)年開業のJR武豊線の亀崎駅舎だとされています。しかし、この駅舎は建て替えられているという説もあり、その場合には、明治22(1889)年3月30日に開業したJR土讃線の善通寺駅舎が最古の駅舎だといわれています。

JR姫路駅と和田山駅を結ぶJR播但線の車両です。播但線の車両は2両の固定編成になっています。車両の正面に書かれている「3509」は、姫路駅に向かって、クモハ1023509とクモハ1033509の編成になっています。JR播但線は、明治27(1894)年、当時の播但鉄道が姫路駅と寺前駅間で開業したのが始まりです。このときに建設された駅舎の中で、2つの駅舎が今も現役で働いています。

播但鉄道は、その後も線路の延伸と駅舎の新設を続けました。明治36(1903)年に事業を引き継いだ山陽鉄道も、延伸工事を続けました。そして、明治39(1906)年、新井(にい)駅と和田山駅間延伸工事が終わり、現在の播但線の全線が開通することになりました。写真は、JR播但線の「3508」の編成で、姫路駅寄りのクモハ1023508の正面です。「110th 播但線全線開通110周年 播但線 1906-2016」と書かれています。播但線は、昨年(平成28=2016年)、全線開通から110周年を迎えました。1世紀を超えて、今も現役として頑張る2つの駅舎の一つ、JR鶴居(つるい)駅を訪ねました。

鶴居駅です。兵庫県神崎郡市川町鶴居にあります。姫路駅から、播但線の列車で、35分余りかかりました。

鶴居駅の姫路駅寄りのホームから見た駅の遠景です。右側の1番ホームに隣接した駅舎、正面(寺前駅方面)には跨線橋、左側の2番ホームには待合室が見えます。行き違いの無い場合には、寺前行き、姫路行きを問わずすべての列車が、1番ホームに停車します。2番ホームは行き違いのある場合に、寺前駅行きの列車が停車しすることになっています。2番ホームの赤い屋根は待合室。内部は2つに分かれていて、手前の半分が待合室、向こう側の半分は、ベンチが置いてあるだけのスペースになっています。

1番ホームに姫路行きの列車が進入しています。右側に駅名表示が見えます。

こちらは、姫路駅方面のようすです。駅のすぐ先にある「堀の北踏切」です。「24k520M」と書かれていました。姫路駅からの距離のようです。姫路駅方面からの線路がまっすぐ1番ホームに入るようになっています。駅の手前で2番ホームへ向かう線路が分岐しています。

2番ホーム中央部の擁壁にあった「停車場中心 24k520M」のプレート。

2番ホームの待合いスペースから見たホームです。跨線橋の向こうには、駅舎に隣接している鶴居小学校の建物が見えました。

2番ホームから見た駅舎の本屋です。全体に改修が進んでいます。屋根も葺き替えられています。

1番ホームに戻り、かつて改札口があったところから駅舎に入ります。播但線は、平成28(2016)年から、姫路駅から寺前駅までの各駅にICOCAが導入されています。右側が駅の事務所があったところです。現在は無人駅になっています。

駅舎への外部からの入口付近から見た駅舎内です。右側に自動券売機と運賃表、時刻表が設置されています。右側の手前のスペースにはベンチが置かれています。入口にあった手書きの木製の駅名標は、重厚で存在感を感じさせます。

左側の事務所だったところです。白を基調にした壁面が駅の明るい雰囲気を演出しています。窓枠はサッシに変わっています。壁面も天井も改修されています。かつての雰囲気を伝えてくれていうのは、唯一つ柱だけでした。

右側の手前にあったベンチも新しいものが置かれています。

これは、駅舎の車寄せの屋根の部分です。天井はなく、木組みがむき出しになっています。垂木の装飾などにかつての雰囲気を少しだけ感じることができました。

外へ出ました。駅舎です。木造入母屋造りの駅舎です。外壁も改修がなされています。

駅前広場にあった小さな庭です。庭師のお名前と寄贈された方のお名前が石碑に刻まれていました。

周辺を歩いて、鶴居駅の寺前方面にある第2石橋踏切に来ました。「24K718M」とありました。鶴居駅から直線距離で200mぐらいのところにありました。

第2石原踏切から見た鶴居駅方面です。左側が駅舎に隣接していた鶴居小学校です。線路はまっすぐ1番ホームに向かっています。途中から分岐している右に向かう線路は2番ホームに向かっています。1番ホームを多くの列車が通過していることを考えると、理にかなった線路の配置になっているようです。

JR鶴居駅は、明治27(1894)年7月26日に、播但鉄道が寺前駅まで開業したときにつくられた駅でした。これまで、110年を超える期間、現役の駅として使用され続けています。JR播但線は利用される人が多い路線で、特に通学時間帯には高校生の利用が多いそうです。JR鶴居駅の1日平均乗車人員は254人(2012年)。駅舎もそういう状況に対応したために、開設当時の姿を守り続けることは難しかったのでしょう。JR鶴居駅は、「古い駅」というイメージの駅ではなく、「元気で仕事をしている駅」という雰囲気を感じる駅でした。1世紀以上の歴史を感じさせてくれる「古い駅」を期待してきたのは、常識外れだったかもしれません。



大阪市営渡船、落合上渡船に乗りました!

2017年03月10日 | 日記

写真は、大阪市営渡船の落合上渡船の渡船「北斗」です。大正区千島1丁目と西成区北津守三丁目との間を行き来しています。江戸時代、「天下の台所」といわれ、物資の集散地になっていた「水の都」大坂には、その輸送のための水路が縦横に走っており、住民の往来のため、民営の渡船場が各所に設けられていました。明治24(1891)年に、大阪府が「渡船営業規則」を定め、渡船の監督や取り締りを始めました。また、明治40(1907)年には、安治川、尻無川、淀川筋の29ヶ所の渡船場を大阪市が管理することになりました。そして、大正9(1920)年には旧道路法が施行され渡船は無料になり、現在の運行方法が確立しました。現在でも、大阪市には8つの渡船が残り、市民の足として活躍しています。平成27(2015)年には、187万人の方が利用されたそうです。

これまで、5つの渡船に乗ってきました。天保山渡船(「大阪市営天保山渡船に乗りました」2016年11月11日の日記)、甚兵衛渡船と千歳渡船(「甚兵衛の渡しから千歳の渡しへ」2016年11月25日の日記)、船町渡船と木津川渡船(「船町渡船から木津川渡船へ、大阪渡船に乗る」2016年12月11日の日記)の5つです。この日は木津川を渡る落合上(おちあいかみ)渡船に乗ることにしていました。写真は、落合上渡船の千島一丁目側の桟橋に停船していた渡船の「福崎丸」です。

JR大阪環状線の芦原橋駅に着きました。乗車してきた323系の列車が出発して行きました。大阪環状線の最新車両です。

JR芦原橋駅から、落合上渡船の北津守側の乗り場をめざしました。「新なにわ筋」を南に向かって歩きます。

20分ぐらいで、左側に「くら寿司」の看板が見えました。「北津守4」の交差点を右折します。右折した後、突きあたりまでまっすぐ進むと乗り場に着くはずです。

右側にある北津守保育園、その先の「北津守3」の信号を過ぎると、次は南海電鉄汐見橋線の「木津川2号踏切」を渡ります。以前、南海電鉄汐見橋線の岸里・玉出駅から、終点の汐見橋駅まで歩いたことがありました。(「レトロな駅舎が続く 南海電鉄汐見橋線2015年12月17日の日記」)

突きあたりにあった「落合上ノ渡」の信号を渡ると、道は狭い路地のような感じの通りになりました。突きあたりを左折して、木津川の堤防を上っていきます。

大阪市営渡船の桟橋に向かう道にはこのような構造のところが多いのですが、堤防の上で180度カーブして待合室に向かって下ります。目の前に、落合上渡船の北津守側の桟橋と木津川の上流側が見えました。木津川は1級河川。西区の中北部で土佐堀川から分かれ、大阪ドームに近い大正橋付近で西道頓堀川が東から合流し、その後、造船所や倉庫が並ぶ地域に沿って、ここまで流れてきました。

少しカメラを引きます。2つの水門が見えました。このあたりの木津川は大阪湾に近い下流部分にあたるため、防潮水門を設けて、高潮の被害を防いでいます。待合室の上部に見えるのが、アーチ型水門の十津川水門、左側の高いネット状の構造物の下の緑色に見えるところが、三軒家川(この上流は埋め立てられています)にある、防潮樋(ぼうちょうひ)水門の三軒家水門です。形は異なりますが、いずれも水門で高潮を堰き止める働きをもっています。

これは、千島1丁目側の桟橋から見た三軒家水門です。三軒家川は人工的につくられた川でした。大阪市営渡船が運航されている木津川、尻無川、安治川は船につくカキを駆除するのに効果があるといわれ、冬になると、たくさんの和船がここに係留されていました。中でも、木津川が最も多く大混雑していたそうです。明治12(1879)年、西長堀に住む長尾新兵衛が、船溜まりとして使用することをめざして、工事にとりかかりました。その後、大阪府がこの事業を引き継ぎ、明治14(1881)年に完成させました。長く船溜まりとして使用されましたが、港湾の整備が進んでからは、貯木場として使用されるようになったそうです。

これは、千島1丁目側の待合室に掲示されていた付近の地図です。地図の上部から真南に向かって流れ、木津川(地図で太く表示されている川)に合流するのが三軒家川です。もともとは、家数がとても少ないことから名付けられたといわれています。

落合上の渡しは、日中は1時間4往復、15分毎に運行されています。他の渡船と同じように、両岸ともに同じ時間が書かれています。

桟橋付近から見た南側の風景です。木津川は大きく右にカーブして流れています。カーブする手前に橋が架かっていますが、その下に千本松渡船場が、曲がりきって西に向かって流れるあたりに木津川渡船場があります。

渡船の「北斗」が対岸から到着しました。木津川の上流に向かって着岸しました。「次の便にしますから」とお断りしてから、もう一度、堤防の上に戻りました。そこで、渡船の出発を見送るつもりでした。乗務されている職員は2名。1名は運転席に待機、1名はこうして乗船される人の安全確保に携わっておられました。

出発です。対岸まで100m、所用1分ほどの短い旅の始まりです。対岸の桟橋はほぼ正面で正対しています。渡船は少しバックする動きを見せた後、出発して行きました。

大きく左にカーブして、すぐに、向かいの桟橋にまっすぐ進んでいくようになりました。

対岸の桟橋の手前で、右にカーブして、上流側に向かって着岸しました。「北斗」は、大阪府堺市の造船所で建造され渡船です。「平成2年10月竣工」と「最大搭載人員48人 旅客46人」の2つのプレートが船内にありました。

しばらくすると、次の便が出発しました。こちらに向かって来ます。少しバックする動きを見せた後、大きく右カーブしてこちらに向かってきます。大阪市営渡船の運航は、「原則Sの字を描くように進む」といわれていますが、落合上渡船も、そのような運行でした。

渡船は、正面から左方向に進むようになりました。

そこから、左カーブして上流側に向かって進むようになります。

着岸しました。この日は日曜日の昼過ぎでしたが、3人の方が自転車とともに乗っておられました。桟橋には「単車はご遠慮ください」と書かれた看板がありました。大阪市営渡船は、歩行者と自転車を利用される人のために運行されているようです。平成27(2015)年には、1日平均534人の方が乗船されたそうです。

急いで桟橋に降りて乗船しました。あっという間でした。対岸(千島側)の桟橋に着きました。写真は、乗船してきた対岸(北津守側)の桟橋です。大正区千島1丁目です。待合室にあった掲示には「旧地名は、大正区新炭屋町で、江戸時代の宝暦13(1763)年、大坂瓦町居住の炭屋三郎兵衛によって開発された炭屋新田があった」と書かれていました。

待合室から見た上流側です。正面が木津川水門、左側が三軒家水門です。先に、三軒家水門のある三軒家川は、船溜まりとして開削され、後に貯木場として使用されたと書きましたが、「関西随一の木材市場を支えた」大正運河が埋め立てられて、その後は千島公園(渡船場の裏側一帯にあります)になっているそうです。その大正運河への入口が、渡しの南側(下流側)にあったそうです。

千島1丁目側の桟橋から出ました。振り返って撮影しました。落合上渡船の事務所です。

渡船場を出てすぐ左折します。100mぐらい歩いて、道路の突き当たりを右折します。

正面の樹木があるところが千島公園です。関西随一の木材市場があったという大正運河の上につくられた公園です。

公園の手前に、「落合上渡船場200m」の案内看板がありました。

千島公園に沿った市道を南に進みます。目的地は次の落合下渡船場です。

木津川、尻無川、安治川の下流域に、8ヶ所残っている大阪市営渡船。その6番目として、そして、木津川を渡る4つの渡船の2番目として、落合上渡船に乗ってきました。落合上渡船は、他の市営渡船と同じように、住民の生活のための足として、大活躍していました。

JR可部線、廃線からの復活一週間前

2017年03月03日 | 日記

JR可部駅です。現在は、JR可部線の終点の駅になっています。可部線は、明治44(1911)年、広島軌道株式会社によって横川駅から可部駅間が開業しました。その当時は、軌間762ミリの軽便鉄道で蒸気機関車(SL)が運行されていたそうです。その後、昭和5(1930)年には軌間1067ミリへの改軌と電化が完了、昭和11(1936)年には国有化され、昭和44(1969)年には三段峡駅まで延伸しました。

平成15(2003)年12月、非電化区間の可部駅から三段峡駅間が廃線となり、可部駅は再び可部線の終着駅になりました。駅名表示にも、写真のように可部駅の次の駅は書かれていません。

駅構内にあった「電化延伸開業まで、あと 6日」のカウントダウンの表示です。平成29(2017)年3月4日(土)に、地元の熱心な要望がかなって、可部駅から1.6km延伸し電化されて開業することになっています。一度、廃線になった区間が復活するのは、初めてのことだと思います。

可部駅の2番ホームに到着したJR広島駅からの電車です。前方に、駅の東西をつなぐ跨線橋が見えました。下車した乗客はホームの先を下り西出口の改札口へ向かっています。可部線の延伸開業が近いせいか、列車の写真を撮影している人の姿が目につきました。

西出口です。下車した乗客は改札口から出て行きました。駅舎のある東口に向かう人たちは、正面の階段から跨線橋を渡るようになっています。

この写真は、平成25(2013)年に可部の町を歩いたとき(「廃線になった鉄道を復活させた町、可部の町並みを歩く」2013年9月13日の日記)に撮影したものです。廃線部分に向かって撮影したものです。これを見ると、当時は跨線橋はなく構内踏切で駅舎(東口)に向かっていたようです。可部駅から先のホームは、そのまま敷設されていた時と同じ状態で残されていました。

ホームのようすを撮影しました。手前が2番ホームで、乗車してきた列車が停車しています。左側が1番ホームで、黄色塗装の広島行きの列車が停車しています。以前は、左側のホームの左側(当時の2番ホーム)と右側(当時の3番ホーム)に停車していましたが、現在は左側(当時の2番ホーム)は使用されていませんでした。すべての列車が、2つのホームの間(現在の1番ホームと2番ホーム)に停車しています。延伸区間の開業を控えて、現在は広島方面から可部駅に着いたすべての列車が、新しく終点となる「あき亀山駅」まで行く「試運転」が行われています。

この写真も、以前訪れた時に撮影したものですが、終点の可部駅に到着した列車は当時の2番ホームに停車しています。

この写真も、以前訪れた時に撮影したものですが、その当時は線路とその先にあるバスセンターの間にホームは設置されていませんでした。今回の延伸に伴い設置されたもののようです。

跨線橋を通って東口に出ました。改札口と駅事務所です。可部駅は直営駅ですので、職員も勤務に就いておられました。

券売機の上に掲示されていた運賃表です。一番上に書かれた可部線のところに、新駅の「河戸帆待川駅」と「あき亀山駅」の運賃も書き加えられていました。可部駅から「あき亀山駅」までは、140円(1.6km)に設定されています。

以前訪れたときに撮影した、かつての1番ホーム(右側)と2番ホーム(左側)です。頭端式ホームの2番ホームには、車止めとして、オンレール走行型の緩衝装置が設置されていましたが・・・。

1番ホームの車止めはそのまま残っていましたが、2番ホームのオンレール走行型緩衝装置はすでに撤去されていました。

これは、かつての1番・2番ホームの広島方面寄りの部分です。東中野第2踏切のところで進入できないように仕切りがつくられていました。もう、こちらのホームは使用することがないのでしょうね。こうして、従来2面3線だったホームは、相対式2面2線のホームに変わっていました。

これは、現在の1番ホームから「あき亀山駅」方面を撮影したものです。この日は、この後、延伸された線路に沿って歩くことにしていました。

可部駅西口から歩いて5分ぐらいで踏み切りを渡ります。西中野踏切です。「14k144M」と書かれています。距離から考えると、広島からの距離のようです。この踏切は可部線の延伸によって設置されたものではなく、従来から設置されていたものでした。

西中野踏切から見た「あき亀山駅」方面です。国道54号の高架橋の手前に青い塗装の横断陸橋が見えました。

これは、延伸工事が始まる前の線路跡です。このように、線路は途切れていました。

横断陸橋の手前には、かつて、レールの上に踏切がつくられていました。歩行者と自転車専用の踏切で「自転車は降りて押して通行してください」「この踏切は、可部駅~河戸(こうど)駅間の電化延伸時には撤去します」と、掲示板には書かれていました。

現在の踏切跡です。掲示されていたように、踏切は撤去されています。ここから、国道54号の高架橋に沿って進みます、広島信用金庫の先で左折した後は、広島県道267号(宇津・可部線)を線路に沿って歩いていきます。

延伸・電化開業した可部線には、3ヶ所の踏切が、新たに設置されています。国土交通省は、踏切道改良促進法に基づいて「鉄道の新線建設にあたっては原則として道路の立体交差化を進める」という方針をもっており、JR西日本も「踏切を全廃する」と説明しましたが、住民の方々は「生活道路が遮断され不便になる」と反対し、事業主体の中心にいた広島市も「立体交差化は経費面からも困難」ということで、結局踏切が設置されるようになったそうです。目の前にある「デイサービスセンター菜の花」の先を左折します。

細い路地の先に「国安踏切」がありました。計画には「歩行者専用」踏切になっていたようです。「14K544M」書かれています。西中野踏切から400mぐらいのところにあるようです。

「あき亀山駅」方面です。国道54号のバイパスの高架橋が見えました。

県道に引き返して歩きます。広島市安佐北区役所の看板を見ながら進み、「国安踏切」から見えた国道バイパスの高架をくぐり、「安佐北警察署」の案内看板を過ぎると、右側にホームセンター”DAIKI”の広い駐車場が見えてきます。

DAIKIの向かい、県道の左側にあった駐車場から、「河戸帆待川(こうどほまちがわ)駅」のホームが見えました。「あき亀山駅」に向かって右側にホームがある1面1線の駅です。可部駅から0.8kmのところにあります。無人駅でホームの長さ85m。4両編成の列車に対応しています。

その先にあった「河戸帆待川駅」の駅舎です。「開業まであと6日」の日でしたが、駅前広場には、多くのレンガが積み上げられており、作業も進行中でした。駅舎内には自動改札機らしい物が見えました。公的機関の案内看板が続いてきた県道を、さらに進みます。「広島北税務署南」の信号を左に入ると、「高宮踏切」がありました。

「高宮踏切」から見えた「可部駅」方面の光景です。線路の左に「河戸帆待川駅」の1面1線のホームが見えました。

こちらは、「高宮踏切」からの「あき亀山駅」方面のようすです。どっしりとした横断陸橋が見えました。「高宮踏切」には「14K912M」と書かれています。「国安踏切」から400mぐらいのところにあたります。

県道に戻ります。前方の左側にあった「可部四日市郵便局」の手前を左に入ります。

「高宮踏切」から見えた可部線の線路を渡る跨線橋です。写真からは見えにくいのですが、跨線橋の両側にはエレベーターが設置されていました。バリア・フリーになっており高齢者にも車椅子を利用される人にもやさしい道になっていました。

延伸した可部線には3ヶ所の踏切が設置されました。ここまで、「国安踏切」と「高宮踏切」を見てきました。残る一つは、「四日市踏切」です。県道267号の右側に「誓立寺」の広い駐車場が見えました。「誓立寺」の前を左に進むと「四日市踏切」に出ます。

「四日市踏切」です。「15K301M あき亀山駅構内 亀山二丁目30・31の間」と記されていました。「高宮踏切」から400mぐらいのところにありました。このあたりはもう「あき亀山駅」の構内になっているようです。

「四日市踏切」に着いたとき、「あき亀山駅」に停車していた列車が、「可部駅」に向かってやってきました。

列車が通過した跡の「あき亀山駅」のようすです。終着駅は目の前です。

県道に戻って進むと、大毛寺川にかかる20mぐらいの橋梁がありました。名前は分かりませんが、可部線の延伸区間で唯一の橋梁でした。

大毛寺川を越えると、すぐ左側に白い格納庫のような建物がありました。その先が工事中でした。「駐車場をつくっています」と書かれた看板がありました。「あき亀山駅」の駐車場の整備工事のようです。「河戸帆待川駅」と同じように最後の追い込みに入っているようでした。

工事現場の反対の右側にあったカウントダウンの掲示です。「あと6日」、開業を待ちかねている地元の人たちの気持ちが表れています。

その先の交差点を左折して突きあたりまで歩くと、「あき亀山駅」の駅前広場に着きます。路面には、駅舎前から大きく右カーブしながら出て行くルートが書かれていました。「あき亀山駅」は安佐北区亀山南二丁目にあります。「可部駅」から、1.6km、「河戸帆待川駅」から、0.8kmのところに設置されているそうです。

「あき亀山駅」の駅舎の正面です。自動券売機と自動改札機が設置されているのが見えます。駅舎の右にある建物はトイレです。「あき亀山駅」のあるところには、かつて荒下県営住宅がありました。県営住宅の跡地には、広島市立市民病院も移転してくることになっていました。しかし、移転に反対する人たちとの調整のため、駅の設置の方が先になってしまったようです。現在の計画では、平成34(2022)年度に開院する予定だそうです。

「あき亀山駅」と駅舎の入口に表示されています。「安芸」の表示でなく「あき」とひらがな表示にしたのはなぜか、 実は、廃線となった可部線(可部駅~三段峡駅間)に「安芸亀山駅」という駅がありました。その駅は、ここから西に3.4kmほど離れたところにあったそうです。その駅と区別するために「あき」とひらがな表記にしたのだそうです。

「あき亀山駅」のホームです。1面2線のホームになっています。手前側の2線は列車の待機線のようです。4両編成に対応した駅の長さになっています。この日は、開業前のため、駅の内部には入ることができませんでした。

こちらは、「あき亀山駅」の「可部駅」寄りの写真です。広々とした印象です。

こちらは、駅舎の裏側から見たのホームのようすです。写真では見えませんが、実際には金網で仕切られていますので、こちらからは入ることはできません。写真の向こう側から駅舎の壁にそって歩き、ホームに入るようになっています。駅舎の前には車止めがつくられていて頭端式のホームになっています。

車止めの延長線上の写真です。駅舎前にむかう道路のガードレールの向こうに廃線になった可部線の築堤跡が続いています。

可部駅から1.6kmの延伸電化を成し遂げたJR可部線。廃線になった路線が復活するのは、初めてのことだと思います。平成15(2003)年に廃止されてから、延伸電化の要望活動を繰り返してきた地元の方々の長年の努力の賜物だと思います。このブログを書き終える頃には、定期運行が行われているはずです。歴史的な日に少しだけかかわることができたことをうれしく思っています。