トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

うだつの家並み、三次市の栄町・上市を歩く

2017年08月25日 | 日記
広島県の北東部の中心都市である三次市の三次町地区の石畳が敷かれた本通りには、袖壁(そでかべ)や卯建(うだつ)のある商家の家並が続いています。袖壁や卯建はもともとは火災の時の延焼防止のためにつくられたものでしたが、商人の格式のために競ってつくられるようになっていったといわれています。西城(さいじょう)川、馬洗(ばせん)川と江(ごう)の川に囲まれた三次市三次町地区は、明治時代以降、舟運による物資の集散地として栄えてきたところです。前回、三次地区の本通りの本町地区を、ゑびす神社の枡形(ますがた)まで歩いてきました。

本通りの突きあたりにあったゑびす神社です。ゑびす神社の並びには、プロ野球広島カープのスター選手である梵英心選手のご実家、専法寺があります。さらに、右に進むと旭橋で西城川を渡って、三次市十日市地区に向かっていきます。十日市地区には、JR三次駅や市役所を中心とした新しい市街地が広がっています。

この日は、ここから三次町の本通りを栄町、上市、太歳町に向かって歩きました。ゑびす神社の前を左折して、50メートルほど進み、荒瀬外科の看板があるところを右折します。

栄町地区に入ります。石畳の両側には袖壁のついた伝統的な町並みが、夏の日射しの下に広がっていました。

多くの商家は改修されていて、新築のような雰囲気が漂っています。袖壁には鏝絵(こてえ)が描かれています。左官職人が使用する道具である「鏝(こて)で、漆喰(しっくい)の塗装材料を塗ってレリーフを描いた作品のこと」で、家内安全などの願いを込めて飾られました。

右側にあったお宅に描かれていた鏝絵です。漆喰は「消石灰を主な原料として、それに糊(のり)としてのツノマタ(海草の一種)と、繊維材料としてのすさ(麻の繊維を短く切ったもの)を加えたもの」だといわれています。

歩行者専用道路ではないので、往来する車がかなりあります。枡形付近にはお店がありましたが、このあたりには静かな住宅地という雰囲気の漂う通りになっています。

右側にあった「和久長醤油醸造場」の看板のあるお宅です。かつての商家の雰囲気を感じることができました。

その先にあった建物は、3階建てのような大きな構造でした。看板には「木綿兎(もめんと)」と書かれています。本町の「三次市歴史民俗資料館」の建物にあった辻村寿三郎人形館でいただいた町並みの観光パンフには、「辻村寿三郎工房」と書かれていました。

工房に隣接した右側の部分には「三次地域交流館」という看板が掛かっていました。

本町と同じように本通りから左右に小路が分岐しています。美しいこの路地は正庵(せいあん)小路です。横の壁板が印象的です。道路の幅から往事の小路の面影を感じることができました。

その先に、また、枡形がありました。石畳の通りはここで鍵型に曲がっています。正面にあるのが、三勝寺(浄土宗)です。開山は、戦国時代の天文5(1536)年。当時、現在の三次市三若(みわか)町にあった旗返(はたかえし)城主の菩提寺として創建されました。寛永9(1632)年、三次藩主として、浅野長治が入封したとき、この地に移されたと伝えられています。浅野長治は、広島藩主浅野家の2代目藩主、浅野光晟(みつあきら)の異母兄にあたる方でした。

三勝寺の本堂です。三勝寺は、県指定文化財の「銅鐘」(高さ87cm)で知られています。「広島県の歴史散歩(広島県の歴史散歩編集委員会編 山川出版社)」には、「永和2(1376)年、播磨国永良(ながら)荘(現在の兵庫県市川町)の護聖寺(ごしょうじ)のために鋳造されたもの」だと書かれています。しかし、「長享元(1487)年に、守護大名、大内政弘によって、周防大島三浦庄志駄岸(しだぎし)八幡宮に奉納された」そうです。八幡宮は現在の山口県周防大島町にあるそうです。その後、「どのような経緯で三勝寺に納められたのかは不明」だそうです。

左側に、三次藩主浅野家の菩提寺である鳳源寺(ほうげんじ)へ向かう道路があります。その先に杉田薬局の白壁の建物が見えました。赤い「処方箋」と書かれた看板の右側に石の道標が建っていました。

道標です。正面には「右ハたかの山道 左ハいづも大社道」右側の側面には「左ハひろしま道 右ハいづも大社道」と書かれています。杉田薬局の手前を左折して進むと、出雲街道(石見銀山街道)へ向かう道になります。そして、歩いてきた通りは、広島に向かう道でした。

袖壁のついたお宅が並んでいます。袖壁に書かれていた屋号(「カ」「イ」)も見えました。

少し進むと、赤い壁の建物が見えました。正面から見るとほぼ黒一色でした。建物の入口の看板には「卑弥呼蔵 たべもの屋」と書かれています。観光パンフを見ると、「たべもの屋 赤猫」「寝床と学び舎 青猫」と書かれていました。ここは、酒蔵の卑弥呼蔵でした。現在は、レストランと宿泊施設になっているようです。

「卑弥呼蔵」の前には広い敷地が残り、奥には”万寿の井”の看板のついた醸造場が残っていました。この長い建物は、文化庁の登録有形文化財に登録されています。

その先で、商家の家並みが途切れます。町の出口でした。太歳神社がありました。

通りの右側には、馬洗川に合流する前の西城川が流れています。下流方向を撮影しました。

通りの出口から左折して進みます。この先に、三次藩主浅野家の菩提寺、鳳源寺(ほうげんじ)があります。そこをめざして進みます。

前方にあった交通標識です。右側から来た国道375号はこの道に合流し南に向かうことを示しています。国道375号は出雲街道(石見銀山街道)で、鳳源寺へは右折して国道375号を進むことになります。また、歩いてきた石畳の通りにあった杉田薬局の脇の道標から西に向かえば、まっすぐ鳳源寺に行くことができます。

以前、JR三江線の尾関山駅を訪ねたときに歩いた出雲街道(石見銀山街道)は、三次市立三次小学校の脇を通って南に向かっていました。

右折して国道375号を進むと、右側にすぐお寺がありました。鳳源寺ではないようだと思って確認すると、寿正山妙栄寺でした。慶安元(1648)年、三次藩初代藩主の浅野長治が建立した日蓮宗の寺院でした。案内板の説明によれば、山号の寿正院は、この寺の施主であった浅野長治の母(寿正院)の名前をとってつけられたようです。

国道375号を進むと、石垣の上に寺院が見えました。三次藩主浅野家の菩提寺の鳳源寺(臨済宗)です。寛永10(1633)年、三次藩主浅野長治(鳳源院)が比熊山の南山麓に、浅野家の先祖の菩提を弔うために建立したそうです。

鳳源寺の手前側から石段を上ります。寺内にあった「説明」によれば、浅野長治は水害対策のための河川の堤防の造成、たたら製鉄や麻、製紙などの産業振興、牛馬市の開設など民政の振興に功績を挙げた藩主で、62歳で亡くなるまで、藩政の基礎づくりに力を尽くした名君だそうです。

鳳源寺の本堂です。境内には藩主の墓や約300基の藩士の墓も残っています。初代藩主の浅野長治も、参勤交代による江戸在任中に死去しましたが、遺言によりこの寺に葬られています。

本堂の脇にあった、初代藩主、浅野長治の像です。

こちらは、浅野長治像の近くにあった阿久里(あぐり)姫像です。阿久里は浅野長治の側室お石の方の息女で、7歳まで三次で生活しました。後に、播州赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の正室になりました。長矩が江戸城内で刃傷治事件を起こして切腹してからは、落飾して瑶泉院と称し、切腹した藩主を弔いながら45歳で亡くなりました。

境内にあった大石良雄お手植えの桜です。大石は、播州赤穂藩の家老で、阿久里が浅野長矩に輿入れしたときに三次を訪れました。その時に手植えをしたといわれている桜です。大石は、後に、播州赤穂藩士47人と共に吉良上野介義央を討って、主君の仇をとったことで広く知られています。


三次市の三次町地区を歩いてきました。石畳が敷かれた本通りを歩き、三次藩主浅野家にかかわる歴史を訪ねてきました。
猛暑の中を歩きましたが、見どころがたくさんあったすばらしい街でした。


うだつの家並み、三次市の本通りを歩く

2017年08月11日 | 日記

三次市三次町地区の「本通り」に残る商家です。三次町地区には袖壁(そでかべ)も含めた卯建(うだつ)のある商家の家並みが残っています。三次市の中の西城(さいじょう)川、馬洗(ばせん)川、江(ごう)の川に囲まれた三次市三次町地区は、古くから、舟運による物資の集散地として発展してきたところです。

これは、JR三次町地区にあった観光案内です。図の中央の南に張り出したように見えるところが三次町地区です。三次町地区の東側を北から南に流れているのが西城川。地図の東側から南西に向かって流れているのが馬洗川。西城川と合流した馬洗川は、三次町の南西部で南から北に向かって流れる可愛(えの)川に合流し、江の川と名前を変えて、北西に向かって流れていきます。JR三次駅から三次町地区に行くには、西城川に架かる旭橋を渡る、南部の馬洗川に架かる巴(ともえ)橋を渡る、そして、JR三江線の尾関山駅から歩くという3つのルートが考えられました。

この日は、JR三次駅前の観光協会でいただいたマップを手に、緑で引かれたルートに沿って、三次駅から巴橋を渡って三次町地区に入ることにしました。

平成27(2015)年2月28日から利用が開始された、三次市の十日市町地区にあるJR三次駅です。三次駅からまっすぐ駅前通りを進みました。三次駅は、芸備線の駅として、昭和5(1930)年に「十日市駅」として開業しました。その後、昭和29(1954)年に三次市に移行したことにより、その玄関口として、同年12月に「三次駅」と改称されました。それまでの芸備線の「三次駅」は、「西三次駅」と改称されることになりました。

三次日出郵便局を過ぎると、右前に「出会いのひろば」という公園がありました。その手前を左折して進みます。

JR三次駅から20分ぐらいで、巴橋の東詰にやってきました。

巴橋の上から見えた「三次のうかい(鵜飼)」のぼんぼりです。西城川(左側)と馬洗川(右側)の合流点が背景に見えます。合流してからは馬洗川となりますが、そこでうかいは行われています。江戸時代の寛永9(1632)年、当時の広島藩の2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の異母兄であった浅野因幡守長治(ながはる)が5万石で三次藩を立藩しました。「広島県の歴史散歩」(広島県の歴史散歩編集委員会編 山川出版社)によれば、馬洗川でのうかいは戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)の尼子氏の落武者(おちむしゃ)が始めたといわれます。藩主長治が鵜匠制度を確立し、手厚い保護を与えたことによって」発展することになりました。

巴橋を渡って、三次町地区に入りました。馬洗川の右岸の堤防上にあった国土交通省の「一級河川 江の川」の案内です。下に、うかいの絵が描かれています。

堤防の下の道です。三次町本通の商家は、西城川の自然堤防上に発展した細長い家並みだったそうです。住吉神社の手前に「本通り」の案内がありました。三次町の起源は、室町時代の末期頃だといわれています。寛永9(1632)年に、浅野長治に始まった三次藩は、5代目藩主が急逝し跡継ぎもいなかったため、享保5(1720)年に広島藩に還付されることになりました。それ以降、宿場町、在郷の商業町として発展することになりました。

町に掲示されていた「卯建の似合う町」です。三次町の本通り商店街では、「卯建の似合う町」をスローガンに、街づくりを進めています。本通りは「歴みち石畳通り」と名づけられ、道路上には石畳が整備されています。住吉神社の脇から本通りに入りました。

住吉神社のすぐ先にあった、浄土真宗本願寺派の寺院、照林坊です。鎌倉期に広島県の鞆の浦に建立された寺院で、安芸高田市を経て、関ヶ原の戦いから2年後の慶長7(1602)年にこの地に建立されました。正面にある山門は、寛文5(1665)年につくられ、昭和中期に改修されたもの、また、奥に見える本堂は、嘉永5(1852)に建てられ、昭和33年(1958)年に改修されたものです。こうした建築物によって、平成23(2011)年に登録有形文化財に登録されました。

その先の袖壁がついた薬店には、歴史を感じる看板が掲げられたいました。そこには「池田六神丸 長崎古代名薬 清国蘇州雷氏直製 本舗池田愛命堂 代理店 浅田薬店」と書かれていました。

浅田薬店のすぐ先に、卯建のあるお宅がありました。うだつは、もともとは火事の時に類焼を防ぐ目的でつくられたものでしたが、後には、商人の格式を示すため、競ってつくられるようになったといわれています。この地の商人の財力がしのばれます。

三次市の本通りが紹介されるとき、必ずと言っていいほど出てくるお宅です。袖壁には屋号が書かれています。商いはもうなさっておられないようで、表には「みよし国際平和美術館」と書かれていて、たくさんの美術品が展示されていました。

みよし国際平和美術館の展示が行われていた二つの建物の間に、法音寺の参道が設けられていました。先ほどの照林坊もそうでしたが、境内にかなりのスペースが必要なため、表通りを避けてつくられたのでしょう。

その先の右側にあった、人形作家の辻村寿三郎人形館の建物です。入口には「三次市歴史民俗資料館」とあります。この建物は、鉄筋コンクリート造り洋風の石積みの建物で、もとは、昭和2(1927)年に建造された三次銀行の本店でした。三次銀行は、昭和20(1945)年に芸備銀行と合併し、昭和25(1950)年までその中町支店として使われていました。その後、昭和26(1951)年からは三次郵便局として使用されたそうです。昭和56(1981)年からは歴史民俗資料館として使われていました。国の登録有形文化財に登録されています。

「れとリーと みよし 本通り」ののれんです。「レトロ」な「ストリート」なんですね。本通りの人たちは「歴史的まちなみ協定地区 三次町歴みち協議会」を結成し、卯建の町並みを守る活動と町の活性化に取り組んでおられます。

通りの右側にあったお宅の屋根の上で、改修工事をしておられた職人さんです。こうして、美しい町並みは守られているのですね。

通りの左側にあった「銘菓 泡雪」のお店、「創菓庵 わたなべ精進堂」です。「上品な甘さととろけるような食感が人気の銘菓」として広く知られています。

その先は交差点になります。手間の左側は食品スーパー、手前の右側には商店街の駐車場がありました。右方向に進むと西城川の堤防に行くことができます。

交差点の一角にあった「御蔵小路」の標識。三次藩時代、陣屋とそこにあった藩の米蔵に続く通りです。三次町では、本通りから左右に延びる通りを小路と呼んでいます。

交差点を左折して、御蔵小路だった通りを1ブロック進みます。交差点の向こうの右側の白い建物は、三次ふれあい会館(コミュニティセンター)です。左側は三次商工会議所。その先に三次小学校の4階建ての校舎があります。商工会議所の手間に小公園がつくられていました。

小公園にあったモニュメントです。左側の岩石は、藩主の居宅と藩政を執った陣屋だった「御館(おやかた)」の堀の石垣に使われていたものだそうです。真ん中は御館の絵図。右側は御館の説明板です。それによると、三次ふれあい会館を中心に、南北159m余、東西159m余の敷地内に御館があったそうです。

これが、真ん中の御館の図面です。図の上が北を示しています。下側が南側で商工会議所や小学校の前の通りに面していたようです。図の一番東側にあった「外御米蔵」(図の最も右側にある長方形の建物)は「表御門」の北側の方にありました。

外御米蔵は、先程の交差点の北東にある「白蘭酒造株式会社」の工場の付近にあったようです。

案内板にあった御館の想像図です。絵図が残っていないので、上の図面から復元したそうです。東(右側)に「表御門」がありますので、東に向いていたようです。説明では、書院の南前にある黄色の建物が米蔵でした。図面を見ると、米蔵は敷地内にこの3棟と外御米蔵の合わせて4棟あったようです

これは、三次ふれあい会館の東側につくられていた「三次藩館跡」の石碑です。

広い御館の敷地であったところには、他にも、当時の歴史を伝えてくれるものが残っています。一つは、小学校の向かいにあった社倉です。社倉とは飢饉に備えて麦を蓄えていた倉庫のことです。広島藩では、安永8(1779)年藩内全体に命じられました。説明板書かれていたものによれば、「三次藩では、安永年間(1772~1780年)から天明年間(1781~1788年)の初期に設けられ、明治初期まで続いたと伝えられていますが、天明6(1786)年には、救麦(すくいむぎ)永代麦(えいたいむぎ)として約113石(20.4キロリットル)の麦を貯蔵していた」ということです。なお、写真の建物は創建当時のものといわれています。

もう一つは、三次ふれあい会館の西側にあった、頼杏坪(らいきょうへい)の役宅(やくたく)である運甓居(うんぺききょ)です。樹木のために撮影が難しかったので、建物の裏側からの撮影になりました。杏坪は、郡代官や郡回りとして、備北4郡(三次郡、恵蘇郡、三上郡、奴可郡)の民政に尽くし、文政11(1828)年から2年間、三次町奉行をつとめ、郡民から厚い信望を得た人でした。茅葺きに葺き直されたばかりのような運甓居でした。運甓居は、中国の東晋時代、荊州の役人だった陶侃(とうかん)が、毎朝夕100枚の敷瓦を運んで他日の労に備えたという故事に因んで名づけられたといわれています。

御蔵小路を引き返して、食品スーパーのある交差点に戻って来ました。再度、本通りを北に向かって進みます。改修されているためか、白漆喰がまぶしいぐらいの明るい通りになっていました。

交差点から、4、5軒目、左側にあった白蘭酒造株式会社です。今度は正面からの写真です。広い敷地に煙突も残っていました。

右側にあった畠中(はたなか)小路です。写真の左下に、郵便ポストの頭が入ってしまいましたが、かつての小路はこのくらいの広さだったのかと思えるような通りです。雰囲気のある通りになっていました。

左側にあった中野歯科医院の看板があるお宅です。今は医院はなさっていないようでした。袖壁の美しいお宅でした。

石畳が敷かれた万光(まんこう)小路。名前の通り、光あふれる洗練された通りです。奥に寺院のような屋根をもったお宅が見えました。

三次人形が並んだお店です。三次人形も、三次藩の初代藩主、浅野長治の支援で発展したものだといわれています。

ゑびす神社の前で行き止まりになりました。街道筋によく見られる枡形になっています。いただいたマップには「ゑびす神社」と書かれていますが、つり下げられていた提灯には「胡子」と書かれていました。商業町に多い商売繁盛の神様です。

右折すると、西城川に架かる旭橋を渡ることになります。

ゑびす神社の右側にあった浄土真宗本願寺派の梵行山専法寺。広島カープの梵(そよぎ)英心選手のご実家の寺院です。

「2006 セントラルリーグ新人王  2010 セントラルリーグ盗塁王 GG賞  2014 チームリーダー  2015 選手会長」と梵選手の華々しい活躍の跡が紹介されていました。

「歴まち石畳通り」はここで左折し、その先の「荒瀬外科」の看板のあるところで右折して進んで行きます。三次町本通りはここで終わりになりました。

西城川と馬洗川、江の川とその源流の可愛(えの)川の舟運によって、様々な物資の集散地として栄えた三次町本通りには、繁栄を物語る卯建のある商家が並んでいました。そして、今はそんな町並みを活かした町づくりを進めています。まぶしいぐらい美しい漆喰の町並みが印象に残りました。

次回は、枡形から先、栄町の通りを歩いてみようと思っています。

JR三江線・尾関山駅を訪ねました!

2017年08月06日 | 日記

JR三江線を走っているキハ120形気動車です。広島県の東北部のJR三次駅と島根県のJR江津(ごうづ)駅を結ぶ、全長108.1kmの路線ですが、残念ながら、来年(2018年)の4月1日に廃止されることがすでに決まっています。「廃止されるまでに、一度は・・」と、この日は、三次駅の次の駅であるJR尾関山(おぜきやま)駅を訪ねてきました。

JR広島駅で、JR芸備線の快速”みよしライナー”に乗り継ぎ、1時間20分、三次駅1番ホームに到着しました。広島県北部のターミナル駅である三次駅には、三江線と芸備線のほか、JR福塩線も乗り入れています。1番ホームには、芸備線の上り(JR備後庄原駅方面行き)と下り(広島駅方面行き)の列車と、福塩線(JR府中駅方面行き)の列車が発着しています。三江線は、平成22(2010)年3月13日までは、1番ホームの広島駅方面につくられた切り欠きの0番ホームに発着していましたが、三次駅前の整備事業のため廃止され、現在は3番ホームが使用されています。

三次駅では”ICOCA”の使用ができないので、改札口には、運賃の精算をされる人の長い列ができていました。三次駅の駅前一帯は、平成18(2006)年から始まった整備事業によって、バスセンター、観光案内所、駅の南北をつなぐ自由通路などが整備され、利便性がずいぶん向上しています。写真は、観光案内所等が入居する三次市交通観光センターです。ここで、三次市にかかわる情報とマップをいただきました。

三次駅舎です。白と黒のツートンカラーのすっきりとした建物になっています。手前の黒く塗装されたところには、セブンイレブンが入居していました。三次駅は、昭和5(1930)年、芸備鉄道、十日市駅(昭和8=1933年に備後十日市駅に改称)として開業しました。

観光案内所でいただいた観光マップです。窓口でお願いするとパソコンでコピーを打ち出してくださいました。マップの右下の十日市町地区にある三次駅から、グリーンの線に沿って進み、巴(ともえ)橋で馬洗(ばせん)川を渡って、古くから舟運によって財をなした商人の人々が居住していた三次町に入りました。

全長172mの巴橋です。馬洗川の上に架かっています。

これは、巴橋から見えた三江線の鉄橋です。巴橋の左(馬洗川の下流)側にありました。ここから、いただいたマップに載っている中央部の上下(南北)の通りを歩いて、三次中学校(上の「文」のマーク)と三次小学校(下の「文」のマーク)の間の通りに着きました。そこから、左(西)に向かって進みます。

正面が、三江線の尾関山駅です。この日は、14時15分に、尾関山駅を出発する列車を駅で迎えることにしていました。暑さに挫けそうになりましたが、なんとか14時前に着くことができました。

駅前広場に着きました。小さな駅舎です。三江線は、昭和5(1930)年4月20日に石見江津(当時・現在は江津)駅と川戸(かわど)駅間が開業したことに始まります。その後、北と南の両側から工事が進みましたが、工事の中断などもあって、全通したのは、昭和50(1975)年8月30日のことでした。工事が始まってから45年経って、全通した鉄道です。そして、昭和53(1978)年3月31日、全線の直通運転が始まりました。

駅舎の右側には、トイレが設置されています。白い外壁には積年の傷みも見えました。尾関山駅の開業は、昭和30(1955)年3月31日、三次駅・式敷(しきじき)駅間が、三江南線として開業した時でした。

駅舎の内部に入りました。尾関山駅は三江南線の時代には、三次駅とともに有人駅でした。正面にはホームへの通路。左側は、当時の出札口があったところで、今は「駅ノート」の置き場になっていました。現在、JR西日本米子支社浜田鉄道部が所管する無人駅になっています。自動券売機も自動改札機も設置されていませんでした。

その隣にあった掲示物です。夏場の気温の上昇時には、列車の運行を見合わせるということのようです。この日も大変な暑さでした。

駅舎の右側の部分は、待合いのスペースになっていました。椅子が12脚設置されていました。かつての賑わいがしのばれます。手前に自転車が写っていますが、青年とお呼びするより少年とお呼びする方がふさわしいぐらいの若い方が乗ってきたもので、この後、彼は自転車の折りたたみを始めました。列車に乗車されるようです。

駅舎内にあった時刻表です。14時15分発の列車はJR口羽(くちば)駅行きでした。三江線の列車は、尾関山駅から北に向かう列車が、1日5本だけ。そのうち、江津駅まで行くのは、早朝に出発する1本のみ。約3時間をかけて江津駅とを結び、さらに、1時間余りかけて山陰本線の浜田駅とを結んでいます。他は、石見川本(いわみかわもと)駅、口羽駅、浜原(はまはら)駅までの区間運転の列車になっています。

駅舎からホームに向かう通路です。ホームまでが長く感じるのは、現在は撤去されていますが、ホームの手前に線路が設置されていたからです。昭和30年開業という比較的新しい建設でしたので、洗練されたつくりになっています。石段を登ってホームに上がりました。

三次駅方面の光景です。1面1線のホームで、右側にホームが設置されています。先ほどふれましたが、かつては、島式ホーム、1面2線の行き違いが可能な駅でしたが、駅舎側の線路を撤去してから、現在の形になったそうです。三次市の市街地にある駅なので、周辺には人家がかなり見られました。

こちらは、粟屋(あわや)駅方面です。列車は、この先で、桜や紅葉の名所で知られる尾関山公園のある下をくぐって進んで行くようです。ホームでは、先ほどの若い方が自転車を袋に詰め始めました。お聞きすると「三江線の全線を訪ねようと思っています。とりあえず、所木(ところぎ)駅に行きます」とのことでした。

駅名標です。尾関山駅は、三次から2.0km、粟屋駅へ3.0kmのところにあります。

三江線活性化協議会は沿線の活性化と利用促進を図るため、三江線の各駅に愛称をつけています。尾関山駅は「紅葉狩(もみじがり)」駅。近くの尾関山が、紅葉の名所であることから名づけられたそうです。

その隣にあった「名所案内」です。長年、ここに立っているようですね。尾関山公園と馬洗川の鵜飼の案内がされています。江戸時代前期の寛政9(1632)年に、広島藩2代藩主浅野光晟(みつあきら)の異母兄、浅野因幡守長治(ながはる)が、三次に支藩を立藩(5万石)しました。三次藩主浅野長治が、尼子氏の落ち武者が始めたこの地にうかいを、鵜匠制度を確立するなど、手厚い保護を与えたことで盛んになったといわれています。なお、藩主の屋敷は、三次小学校の北側、現在、三次コミュニティセンターが設置されているところにありました。

14時15分発の口羽行き普通列車が到着しました。キハ120331号車。ワンマン運転の単行気動車でした。出発間際に高齢のご夫婦が来られて、若い方とともに3名で乗車されました。1日平均乗車人員はどのくらいになるのでしょうか?

列車は、座席の半分ぐらいの乗客を乗せて、定刻に出発していきました。ゆるやかに左にカーブしながら、尾関山公園の下にあるトンネルの中に消えて行きました。

しばらくして、尾関山の左側にある鉄橋上に、再び、姿を現しました。馬洗川が合流した江の川を渡って、粟屋駅に向かって行きました。

ホームから駅舎に帰ります。ホームから見た駅舎です。ホームと駅舎の間には多くの樹木が植えられていて、小さな駅舎を守っているかのようです。絵になりそうな光景です。

ホームと駅舎の間に残っていた花壇の跡です。かつては、ここにきれいな花が咲いていたはずです。

駅舎の脇から見た駅前広場です。広い道路がまっすぐ延びていました。昭和60(1985)年2月1日、尾関山駅は無人化され、乗車券の販売だけを委託する簡易委託駅になりました。それも、平成22(2010)年に廃止され、無人駅になってしまいました。

周囲を歩いて見ることにしました。駅前から右(三次駅)方向に線路と民家に沿って進みます。

駅を利用する人が通ることで道路になったような道で、人が一人やっと歩けるという状態のところもありました。

駅前からまっすぐ延びる通りから、1本南の通りです。三江線の高架が道路を横切っています。

高架橋です。がっしりとしたつくりです。

尾関山駅前にある亀屋商店(写真右のお宅)の脇の道を尾関山公園に向かって歩きます。正面のお宅の前で左折して、線路に沿って進んで行きます。この亀屋商店は、簡易委託駅になったとき乗車券の委託販売をしておられたお店です。

振り返って尾関山駅の駅舎を撮影しました。

その先に尾関山公園の下をくぐるトンネルが見えてきました。

少し登って撮影しました。

その先が、桜と紅葉の名所、尾関山公園です。歩いてきた道は、広々とした駐車場につながっていました。

初めて、JR三江線の駅を訪ねました。
尾関山駅は、過疎路線である三江線のイメージを覆すような市街地の駅でした。訪ねるのも比較的楽でした。
三江線の駅は35駅(JR江津駅・JR三次駅を含む)あります。列車本数が少ない反面、駅数が多いので、廃止になるまでいくつ訪ねることができるのか見当もつきませんが、機会をみて、少しづつ訪ねてみようと思いました。