トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR芸備線の駅らしくないJR東城駅

2017年05月26日 | 日記
岡山市西北部の山間の駅JR備中神代(びっちゅうこうじろ)駅から広島県のJR備後落合駅を経由してJR三次駅にいたるJR芸備線。実際の運行は、JR新見駅からJR備後落合駅、備後落合駅からJR三次駅、三次駅からJR広島駅までの間で、区間運転が行われています。新見駅から備後落合駅まで行く列車は1日3本という超過疎路線であり、広島県に入ってからは、利用者のきわめて少ない、”秘境駅”の雰囲気を感じる駅が続きます。

私にとって、芸備線は乗って見たくなる鉄道です。これまで、備後八幡駅(「帝国製鉄のトロッコ線があった駅、JR備後八幡駅」2017年5月13日の日記)、小奴可駅(「1日平均乗車人員1名!JR小奴可駅」2017年2月24日の日記)、備後落合駅(「滞在時間12分、”秘境駅”JR備後落合駅」2016年2月24日の日記)、道後山駅(「JR芸備線の”秘境駅”道後山駅」2016年8月27日の日記)、内名駅(「1日3往復の”秘境駅”JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)を訪ねてきました。この日は東城駅を訪ねることにして、起点の新見駅に向かいました。今回も、13時01分に出発する列車に乗車しました。備後落合駅行きのワンマン運転の単行気動車、キハ120328号車です。

JR伯備線を北に向かいます。二つ目の備中神代駅から芸備線に入りました。写真の左側は伯備線です。車内には鉄道ファンと思われる方が多数乗車されており、座席も7割程度が埋まっていました。

周辺には、中国山地の集落や田植えを終えたばかりの田んぼが広がっています。

新見駅から約30分、岡山県側の県境の駅、野馳(のち)駅に着きました。改札口の設備がそのまま残っていました。

大竹山トンネルを越えて、広島県に入りました。広島県に入って最初の駅が東城駅です。中国山地の村は、昔からたたら製鉄がさかんなところでした。鉄穴(かんな)流しによって集められた砂鉄を原料に、豊富な木材を燃料にしてつくられた銑鉄(せんてつ)は、馬の背や舟によって運ばれ東城に向かいました。そこからさらに、主に高瀬舟によって成羽に。そこから倉敷まで運ばれていました。東城は鉄の集散地として、江戸時代の最盛期には、たくさんの鉄問屋が軒を連ねていたといわれています。このように、東城は、中国山地の商業・交通の中心地として繁栄していたところです。

野馳駅から6分ほどで、めざすJR東城駅に着きました。下車したのは、地元の方と思われる女性と私の2人だけでした。東城駅の1日当たりの平均乗車人員は9人とのこと。ちなみに、備後落合駅までの広島県内の芸備線の各駅の平均乗車人員は、備後八幡駅0人(1人未満)、内名駅1人 小奴可駅1人、道後山駅0人(1人未満)、備後落合駅15人になっているそうです(データはいずれも2014年)。乗車してきた列車は、すぐに、次の備後八幡駅に向かって出発していきました。

駅名標です。東城駅は野馳駅から5.2km、次の備後八幡駅まで6.5kmのところ、広島県庄原市東城町にあります。東城の町は、関ヶ原の戦いの後、広島藩主となった福島正則の家老、長尾隼人正一勝によって、陣屋町として整備されました。その後、福島氏は改易となり、浅野氏が広島藩主に替わりますが、東城には、家老の浅野孫左衛門高英が配置されることになりました。こうして、明治維新まで浅野氏がこの地を治めました。戦国時代、五品嶽城(ごほんがたけじょう)の城下町として栄えたこともあって、東城は城下町の面影を残した町として知られています。

備後八幡駅方面です。写真からは見えませんが、線路の左側には工場があり、広々とした印象でした。2面2線のホームが広がっています。実際には、向こう側のホームには行くことができません。山の斜面には造成された墓地もあり、都市の雰囲気を感じる駅です。これまで訪ねてきた「芸備線の駅」とは違った空気を感じていました。

こちらは、岡山県側の風景です。跨線橋で、向こうのホームに渡る構造になっています。遠くの山々が見えました。東城駅は、芸備線の前身の三神線が東城駅まで開通した、昭和5(1930)年に開業しました。そして、5年後の昭和10(1935)年に小奴可駅まで延伸するまで、終着駅になっていました。

ホームを跨線橋に向かって歩きます。跨線橋の入口は塞がれていました。「老朽化のため、上らないでください」と書かれていました。ということは、2面2線のホームで、線路はつながっていて信号も作動していますが、実際に使用されているのは、駅舎に近い方の線路(2番線)だけ、1面1線のホームということになります。

跨線橋の登り口のところからホームを撮影しました。駅舎の白い壁が印象的です。清潔でモダンな雰囲気を演出しています。しかし、これまで
訪ねた駅より、数段新しい駅舎です。ホームの柱に貼られていた「塗装管理標」には「平成9年1月」と記載されていましたので、このとき、リニューアルのため塗り直されたのでしょう。

改札口です。これもリニューアルされていました。駅スタッフによる改札のときに使用されるようですね。無人駅になっていましたが、平成16(2004)年から簡易委託駅としてキップの販売だけが復活しています。これからも、スタッフがここに立つことはないのでしょう。

正面から見た東城駅舎です。入口から入って右側は待合いのスペース。左側は駅事務所になっています。

外から見た駅舎の東側です。トイレが設置されています。トイレもリニューアルされていました。

駅舎への入口から駅舎内を撮影しました。赤い自動販売機の奥の柱に貼ってある方形の白い部分は、「建物財産標」です。

「昭和5年11月」と記載されています。三神線が東城駅まで延伸したときに建設されたことを表しています。

駅舎内の左側にあった駅の窓口です。この時間、受託者側のスタッフはおられませんでした。

改札口に隣接した待合室です。

待合室にあった時刻表です。この先、備後落合駅に向かう列車が3本、新見駅方面には6本の列車の発車時間が書かれています。東城駅で折り返す列車が3本あるからです。新見方面行きの始発列車は5時22分、備後落合駅行きの始発列車が5時46分。最終列車の備後落合駅行き19時03分発、新見駅行きが21時00分発になっています。始発の新見駅行きは折り返し運行ではなく、前日の22時21分に到着する列車が夜間滞泊して、翌朝の5時22分に出発するダイヤになっています。

運賃表です。岡山駅まで1,940円。この日は、1,950円で購入したJR岡山支社管内の乗り放題キップである「吉備之国 くまなく おでかけパス」でここまでやって来ました。ほぼ片道の運賃で往復できる「お得なキップ」になっています。

駅舎内にあった備北交通の時刻表です。これによると、広島市まで2時間半ぐらいで行くことができます。ここから、13時37分発の列車で行くと、備後落合駅に14時25分に着きます。そこから、三次駅行きの14時38分発の列車で三次駅着16時00分。16時03分発の広島駅行き快速”みよしライナー”に乗り継いで、広島駅着は、17時29分です。ざっと3時間程度かかります。

東城駅前にある備北交通の車庫です。中型バスが1台休憩していました。

16時50分、新見駅からきた列車が到着しました。この列車は、東城駅で折り返して新見駅に帰る列車になります。駅舎寄りのホームに入線しています。この列車は、この後17時09分に出発し、17時44分に新見駅に到着することになっています。

新見駅から備後落合駅に向かう芸備線は、1日3本しかない超過疎路線です。かつて、備後落合駅を訪ねたときには、次の列車までは5時間35分のインターバルがありましたので、滞在時間12分で、折り返し列車で引き返したことがありました。秘境駅の雰囲気を強く残す、備後落合までの駅の中で、唯一訪ねていなかった東城駅を、この日訪ねてきました。駅舎はモダンで整備が行き届いており新しい駅といってもいいぐらいでした。東城の町は、江戸時代に陣屋町として栄えた、この地域の中心都市です。そういった歴史が駅舎にも影響したのでしょうか。超過疎路線には不釣り合いなぐらい洗練されたモダンな駅でした。












帝国製鉄所へのトロッコ線があった駅、JR備後八幡駅

2017年05月13日 | 日記
私には、ときどき乗ってみたくなる鉄道があります。JR芸備線です。岡山県側のJR備中神代(びっちゅうこうじろ)駅からJR三次駅を経て、JR広島駅にいたる全長159.1kmの鉄道です。実際の運用は、JR新見駅・備後落合駅間、備後落合駅・三次駅間、三次駅・広島駅間で、区間運転が行われています。前回、芸備線の小奴可駅を訪ねたとき(「1日平均の乗車人員1名!JR小奴可駅」2017年2月24日の日記)、次はJR備後八幡(びんごやわた)駅を訪ねてみようと思っていました。この日は、久しぶりに芸備線に乗ってみることにしました。

JR西日本岡山支社管内の鉄道の1日乗り放題キップである「吉備之国 くまなく おでかけパス」をもって、JR新見駅で芸備線の列車に乗り継ぎ、備後八幡駅に向かいました。

芸備線で備後八幡駅に行く列車は1日3本しかありません。新見駅を13時01分に出発するワンマン運転の単行ディーゼルカーのキハ120336号車で、45分余。備後落合駅に着きました。”乗り鉄”と呼ばれている人たちで混み合っていましたが、下車したのは私一人。乗車した人はおられませんでした。ちなみに、備後八幡駅の1日平均乗車人員は、なんと0人(2014年)でした! 正確には1人未満ということになるのでしょう。

備後八幡駅は、広島県庄原市東城町菅(すげ)にあります。一つ前の東城駅から6.5km、次の内名駅まで3.7kmのところです。次のJR内名駅は、牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の28位にランクしている「秘境駅」として知られています。内名駅はすでに訪ねています(「1日3往復の秘境駅、JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)。

これは、備後八幡駅のホームから見た内名駅方面です。2面2線のホームが見えました。しかし、運行される列車が1日3本になった今では、向こう側の線路は分断されており、使用されているのは、手前のホームと線路のみという、1面1線のホームになっています。ホームが途切れるあたりに踏切がありました。また、山の麓にはまとまった集落がありました。

向こう側のホームにあった駅名標の名残です。駅名の部分が剥ぎ取られて本体だけが残っている、痛々しい姿です。

こちらは、東城駅方面。向こう側の線路も途中で途切れています。線路の先に集落が見えています。また、向かいのホームの後方に、工場らしい白い建物が見えました。

東城寄りの線路が途切れているところです。白い工場の建物の中心にブッシュが見えました。この後、この工場を訪ねるつもりでした。

ホームから駅舎に向かいます。駅舎の向こうで、ホームにせり出しているのはトイレ。ホームから駅舎への入口には、改札口の設備の一部が残っていました。

駅舎内に入ります。左側の壁面に掲示されていた時刻表と運賃表です。1日3往復の列車の時刻が記されています。備後落合行きが5時57分発、乗ってきた13時47分発、19時14分。新見行きが7時19分発、15時14分発、20時49分発です。私は15時14分発の列車で新見駅に戻るつもりでした。もし、乗り遅れたら、次は20時49分までありません。芸備線に乗る旅は、いつもひやひやしています。

かつての駅によく見られた、壁に作り付けのベンチが残っていました。改修されているのでしょう、表面はきれいになっています。備後八幡駅は、備中神代駅から西に向かって延伸していった三神線(後、芸備線)が、昭和10(1935)年に東城駅から小奴可駅まで延伸したときに開業しました。木製の柱に開業当時の面影を感じることができます。

駅舎から駅前広場に出ます。駅舎への入口です。ドアの上部の梁の部分に、白い方形をした掲示物が見えます。

掲示されていたのは、「建物財産標」でした。「昭和9年9月」と書かれています。備後八幡駅が開業したのは、昭和10(1935)年6月でした。建設時に貼り付けたのでしょうか? 

駅舎の外観です。備後八幡駅は、かつての駅事務所があった部分を取り壊し、待合いのスペースだけを残したようです。建物の右側にはトイレが設置されています。かつての駅事務所は駅舎の左側、樹木の向こう側にあったようです。

駅舎の左側です。地面にコンクリートが打ってあるところが、かつて駅舎があったところです。

駅舎から左側に上っていくと、民家が並ぶ通りに出ます。

これは振り返って駅方面を撮影した写真です。途中にある白い看板がある赤い屋根の建物は菅簡易郵便局です。現在は、新見駅管理の無人駅になっていますが、備後八幡駅は、平成24(2012)年4月27日まで、200円区間のキップ(東城駅行きと小奴可駅行きのキップ)だけを販売する簡易委託駅になっていました。そのとき、受託していたのがこの郵便局だったそうです。

駅舎の前から、内名駅方面に向かって進みます。ホームから見えた踏切の近くに倉庫がありました。右側に金属の柵が見えています。

壁に書かれていたマークです。おなじみの農協(現JA)のマークです。かつて、貨物輸送が盛んだった頃には、全国の鉄道駅の近くに設置されていた農協の倉庫です。鉄道で輸送する米などの農産物の保管のためにつくられたものでした。かつて、備後八幡駅は貨物の取扱いが多い駅として知られていました。

農協倉庫の右側の柵があるところから下って踏切に向かいます。踏切の中央から見た備後八幡駅です。現在は、使用されていないホームの外側に広いスペースが残っています。

使われていないホームの先に残っていた線路跡です。かつての貨物側線跡です。

現在は、線路もホームも草に覆われてしまっています。左側の道路を進んで行きます。

道路は、備後八幡駅を過ぎたあたりで左に曲がって下っていきます。そして、その先の菅竹(すげたけ)橋で成羽川を渡ります。成羽川の右側に、鉄道の橋梁跡が残っています。ホームから見えた白い工場のところにあった橋梁です。工場の近くで草刈りをしておられた方のお話をお聞きすることができました。

白い工場は、広島和田金属東城工場です。お話では「自動販売機やATMの機器をつくっている会社」だそうで、昭和46、7(1971、2)年頃に操業を始めた」そうです。しかし、ここには、かつて、砂鉄を原料にした製鉄工場がありました。帝国製鉄株式会社の竹森工場でした。

製鉄工場に、備後八幡駅からまっすぐ延びていたナローゲージのトロッコ線がありました。製鉄のために使われた木材や薪、できあがった製品の輸送が行われていたそうです。橋桁の上には枕木が放置されていました。

成羽川を渡る橋梁跡です。お話では、菅竹橋を渡って左に山沿いに進んでいったところに、製鉄工場の従業員の住宅があったそうです。

成羽川を渡った対岸です。トロッコ線の線路跡に上りました。写真の中央から左下に向かう築堤が見えました。角度が悪くて見ることができませんが、中央のブッシュの向こうに備後八幡駅があるはずです。

トロッコ線の延長線上にあったコンクリート製の構造物です。トロッコ線のホームのようにも見えますが・・。

お近くにお住まいの方のお話によると、「大正時代から東京オリンピックの頃まで、砂鉄や木炭を使った製鉄工場があり、この近くの人たちも働いていました」とのこと。「菅竹小学校は、平成15(2003)年に廃校になったけど、子どもたちのために、製鉄工場の資料をつくったこともあった」そうです。自宅に帰って確認したところ、帝国製鉄竹森工場は、昭和37(1962)年に閉鎖されていました。写真は、工場の近くにあったお宅の手前に残っていた水路跡です。「上部も残っているけど上っていくのは難しい」そうです。

お宅の中から許可を得て、水路跡を撮影しました。大きなコンクリート製の水路でした。製鉄所で使用する工業用水が流れていたはずです。

これもお宅の中にあった、「従業員の方が仕事が終わった後、水をかけたり体を拭いたりしていたところだ」そうです。

現在は、1日平均乗車人員は0人(1人未満)といわれるJR備後八幡駅でしたが、かつては製鉄所があり、鉄道輸送も盛んな駅だったようです。お忙しいときにお話をしてくださった地元の方に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。

登録有形文化財のトレッスル橋、信貴山の開運橋

2017年05月04日 | 日記

冬にJR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅を訪ねました(「JR山陰本線の”秘境駅”餘部駅」2017年1月14日の日記)。写真は、その餘部駅に接するようにあった2代目の余部(あまるべ)橋梁です。平成22(2010)年8月12日に供用が始まりました。その一部に赤い塗装の部分があります。これは、日本最長のトレッスル橋として知られた初代の余部橋梁(長さ309m)の一部を復元したものです。余部橋梁と聞いて思い出すのが、昭和61(1986)年12月28日の13時15分頃に起きた、回送中の団体臨時列車”みやび”の転落事故のことです。その事故から24年後の平成22(2010)年7月16日、初代餘部橋梁は供用を終了しました。

「ウイキペディア」によれば、平成23(2011)年現在、かつての余部橋梁に代わって南阿蘇鉄道の立野橋梁(長さ136.8m)が、道路橋では旧国道4号の青岩橋(長さ189m)が、トレッスル橋として最長の橋梁だといわれています。写真は、開運橋(かいうんきょう)です。奈良県の信貴山門駅と朝護孫子寺の間にある大門池に架かっている橋です。この橋も、トレッスル橋として知られています。この日は、トレッスル橋で登録有形文化財に登録されている開運橋を訪ねることにしました。

近鉄の鶴橋駅から”大阪・山田線”で河内山本駅へ。そこから近鉄信貴線に乗り換えて信貴山口。そして、ケーブルカーに乗り継いで高安山駅。さらに、近鉄バスで、信貴山門バス停まで行くルートです。鶴橋駅で580円のキップを購入しました。河内山本駅です。

向かいのホームから、近鉄信貴線の電車に乗車します。信貴山口駅まで2.8km。昭和5(1930)年12月25日に、大阪電気軌道(後に近鉄となる)によって開業しました。信貴山朝護孫子寺の西側のルートとして、信貴山電気鉄道の鋼索線(現・西信貴ケーブル)と山上鉄道線(現・近鉄バスの信貴山門バス停まで)とともに開業しました。2両編成で、近鉄信貴線内の折り返し運転をしています。

2両編成(1432号車・1532号車)の電車で5分、頭端式の信貴山口駅に着きました。大きな上屋に覆われている駅です。

西信貴ケーブルの案内にしたがって、下車して進み左に進むと、西信貴ケーブルの乗り場があります。高安山駅まで、7分で上がるようです。西信貴ケーブルは朝夕は30分ごと、日中は40分ごとに運行されています。待ち時間がたっぷりありました。ケーブルカーを楽しむことにしました。

ケーブルカーの乗り場に向かってスロープ状の通りを上っていきます。黄色いケーブルカー”ずいうん”です。ケーブルでつながっているもう一つの車両は”しょううん”です。先ほど書きましたが、昭和5(1930)年に信貴山電気鉄道(その後、昭和6=1931年に信貴山急行電鉄と改称、昭和19=1944年に近鉄に合併)によって開業しましたが、太平洋戦争の戦況の悪化により、昭和19(1944)年4月1日に営業停止となり、施設も撤去されました。

復活したのは、昭和32(1957)年のことでした。近鉄信貴鋼索線として復活し、山上線はバス路線として営業を再開しました。待機していた”ずいうん”号です。イエローの車体に”しぎとらくん”が描かれています。信貴山朝護孫子寺は、この後書きますが、「寅」に深い縁のあるところなのです。

これは、ケーブルの側面にあったプレートです。昭和32年に復活してから、今年で60年になりますが、車両も復活したときにデビューしたもののようですね。還暦を迎えた車両が現役で頑張っています。車両はコ7形。最大乗車人員171人、自重12.0トンです。終点の高安山(たかやすやま)駅の標高は420mですから、高低差354m、距離にして1,263mを、時速11.7kmで7分かけて登って行きます。
  
スロープの脇にあった勾配標です。この地点の勾配は169.5‰(パーミル)です。右側は、構内にあった説明板です。登るにしたがって勾配がきつくなり、最後は480‰。最大(急?)勾配は480‰(1000m進んで480m登る勾配)になっています。

ここで、ケーブルカーに描かれている「寅」と信貴山朝護孫子寺の関わりをまとめておきます。写真は朝護孫子寺の本堂です。毘沙門天王が祀られています。また、真っ暗な闇をたどる戒壇(かいだん)めぐりの戒壇が本堂の地下につくられています。

信貴山朝護孫子寺は聖徳太子が開祖であるという伝説があります。それによれば、聖徳太子が物部守屋を討つための移動中、この山で戦勝祈願をしたとき、毘沙門天王が突如出現し必勝の秘法を授かったそうです。そのときが、奇しくも寅の年、寅の日、寅の刻だったそうです。その後、太子は見事に物部守屋を討ち果たし、伽藍を創建し「信貴山」(信ずべし・貴ぶべき山)と名づけたそうです。この伝説により、信貴山の毘沙門天王は、寅に縁のある神として信仰を集めているそうです。そのため、阪神タイガースの選手が必勝祈願に訪れるところともなっています。これは、朝護孫子寺の赤門の前にある”大寅”です。そして、赤門には「毘沙門天王日本最初出現霊場 聖徳太子御遺跡第二十番霊場」と書かれています。寅と朝護孫子寺とのかかわりが、強く感じられます。

”ずいうん”の内部です。171人乗りのケーブルカーです。天井には扇風機が設置されていました。

出発です。中間地点ですれ違った”しょううん”です。西信貴ケーブルには、前方に貨車を連結する設備がついているそうです。

高安山駅に着きました。正面の建物の中でケーブルの操作をされる方の姿が見えました。階段を上って出口に向かいます。

外から見た、ケーブルの高安山駅舎です。

駅前のバス停から、信貴山門バス停に行く近鉄バスに乗り継ぎます。このルートはかつての信貴山電鉄の山上鉄道線(2.1km)の跡地にあたります。太平洋戦争中に営業停止となり、施設も撤去されました。そして、昭和32(1952)年、ケーブルカーの復活に合わせて、バスの運行が始まりました。

信貴山門バス停から、信貴山朝護孫子寺に向かって歩きます。桜の季節から青葉の季節になった信貴山です。アーケードの先を左折して進むと、信貴山観光ホテルに突き当たります。

信貴山観光ホテルの前を右折して進むと、すぐに”お食事処 松月”です。左折すると、めざす開運橋に着きます。

開運橋です。入口の車止めにも寅のデザインが使われています。開運橋は、手前の奈良県生駒郡三郷町と向こう側の奈良県生駒郡平群町の間にある大門池に架かっています。信貴山にお詣りするためには、池の周りを迂回しなければならない不便を解消するために、昭和6(1931)年12月に、旧橋梁株式会社の社長さんが、開運橋を建設し信貴山朝護孫子寺に寄進したということです。

開運橋から見た開運大橋。車でやってきた人は、この橋を利用して朝護孫子寺に向かいます。開運橋は、すでに、主役の座を開運大橋に譲っているようです。

これは、開運大橋から撮影した、トレッスル橋の開運橋です。「トレッスル」とは「架台」とか「うま」という意味で、橋桁を支える橋脚が鉄骨を組み合わせてつくられていることに特色があります。橋梁を陸上に築く場合には、使用する部材が少なくてすむというメリットがあるそうです。正面にある白い建物は、開運橋に来るときに通った信貴山温泉・信貴山観光ホテルです。

これは、開運橋を渡った先にあった案内板です。開運橋は、平成19(2007)年に、文化庁の登録有形文化財に登録されました。我が国に現存する最古の”カンチレバー橋”であることとトレッスル橋であることが、登録に大きく影響したと説明されていました。

案内板の説明です。それによれば、開運橋は、長さ106m、幅4.2m。トレッスル構造の橋脚が2基、コンクリート造りの橋台が両端にあるという構造になっています。また、橋桁の構造は三角形を組み合わせたトラス式。橋桁の上面を通る上路式の構造です。ちなみに、2つの橋脚の間は105.75mあるそうです。説明の中に黒い三角形で示されたところには「支点」と書かれています。

橋は橋脚と両端の橋台によって支えられていますが、その支えられている点を「支点」と呼んでいるそうです。写真では、橋脚から湾曲してきた橋桁の下部が水平になる、右側の橋桁の下の部分が「支点」にあたるところのようです。

これは、生駒郡三郷町の側の橋脚です。細長い鋼製の部材をトラス状(三角形が基本の構造)に組み立てた骨組みでできた橋脚になっています。これが、トレッスル橋と呼ばれる構造です。

登録有形文化財に登録される大きな要因になった「上路カンチレバー橋で、現存する最古のもの」についてですが、橋桁の構造が、ちょうどプールの飛び込み台のようになっている「片持ち梁(かたもちはり)」のことです。梁(はり)の両端の一方が固定され、他の一方は固定されていない構造体のことをいうそうです。連続した橋桁の途中に鉛直方向に回転が自由なピンを用いて、隣の橋桁を支える構造になっている橋梁のことです。この構造は経済的にできるため、以前は多く建造されたそうです。開運橋は、現存する「上路カンチレバー橋」の中で最古のものであることが評価されたそうです。

トレッスル橋とカンチレバー橋で登録有形文化財に登録されている開運橋は、橋梁会社の社長さんが寄進された橋でした。現在では、橋の中央に、「バンジージャンプ」の体験ができる設備がつくられていました。勇気ある若い人たちが、橋の上から池に向かってジャンプしていました。

距離的には、長くはなかったのですが、近鉄の電車、ケーブルカー、近鉄バスを乗り継いだため、ずいぶん遠くに来たような印象でした。私自身が、構造物より乗り物が好きだからでしょうか、開運橋よりも西信貴ケーブルの方が、印象に残った旅でした。