トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”めぐりん”が走る! 

2012年07月31日 | 日記
7月20日の金曜日。岡山市街地に新しい定期バスが走り出しました。「サンタクシー」を営業している八晃運輸が、初めてのバス事業として運行に乗り出しました。一番のウリは、100円均一運賃です。

これが、その”めぐりん”です。行き先表示には「医大めぐりん」とあり、その短縮形が愛称になっているようです。

通常の定期バスより一回り小さい、緑を基調にしたバスが走っています。乗降に優しいノンステップバスです。

岡山駅を起点に、岡山市街地中心部の、柳川、清輝橋、岡山大学病院、岡山市水道局前、岡山市役所を通って、岡山駅前に帰ってくる循環線です。1周、4.5kmだそうです。右回りと左回りがあります。上の写真は、右回り(Aコース)のバス停の表示です。

こちらは左回り(Bコース)のバス停。淡いブルーです。バス停は、右回りに12カ所と左回りに13カ所。朝の8時から夜の8時まで、1時間に2~5本程度、一日、それぞれ55便の運行です。

これが、シンボルマークの”つる丸”(男性?)。

運行開始から10日が過ぎた日、職場近くの清輝橋バス停から初めて乗車しました。

バス停は、どこも既存のバス停に並んで設置されています。

この日は、16時25分頃にバス停に着きました。停留所の時刻表には、「5-15分ごと」と書かれていました。せっかちな私は、「次は何時に来るの?」とやや不安になりました。かなり待ったなと感じ始めた頃、近くにおられた女性の「来た!」の声。

前のドアから乗車。100円を投入しました。車内に、女性が1名乗っておられました。16時35分出発。
先ほどの女性も乗車されました。

車内の椅子席は窓を背にして15席。前ドアと後ろドアの間には左右に3席ずつ。乗車定員、32名だそうです。

次の「岡山大学病院」のバス停で、車内にいた女性が下車されました。車内の乗客は私たち2人だけ。
岡山市水道局前で2人乗車して、乗客が4名になりました。

乗客がいてもいなくてもバス停には停車しましたが、”めぐりん”はすいすい走りそのまま、「岡山駅前ドレミの町前」バス停に。車内のバス停案内は美しく、よくわかります。16時45分到着。

「ここは下車駅です」というドライバーのアナウンス。ということは、何周も乗り続けることはできないのだ!4人の乗客全員が下車しました。「ありがとうございました!」一人一人に、ドライバーの声が響いていました。そして、16時46分に、乗ってきたバスは、次の乗客1名を乗せて出発して行きました。桃太郎大通りの向かいに、左回り(Bコース)の終点、岡山駅前バス停が見えました。

私は、バスを乗り継いで、乗車したバス停まで帰るつもりでした。次のバスは、時刻表では17時00分発。16時52分。次のバスが到着し、6人の乗客が下車しました。中には、降りる時に、100円を投入する人もおられました。乗車時に払わなくてもいいのかな?どうやら、17時まで待つわけではなさそうです。たくさんのバスがやってくる岡山駅前、ずっと停車しているわけにはいかないですよね。やはり、私が乗車したらすぐ出発しました。16時52分出発。

NTT岡山バス停で小学生らしい女の子が乗車。そして、17時07分、乗車した清輝橋バス停に着きました。私は下車。小学生は、そのまま乗車して行きました。

16時半過ぎに、清輝橋から岡山駅ドレミの町まで10分程度、岡山駅前から清輝橋バス停間が15分程度かかりました。

私が乗車したのは、多くの乗客で混み合う時間ではありませんでしたから、はっきりとはわかりませんが、”めぐりん”に乗るために待っていたという方はまだまだ多くはないという印象でした。
職場を訪ねて来られる方の中には、「どの時間帯も余り乗っていないよ」という方もおられますが・・・。

八晃運輸では、「1便15人乗車すれば採算がとれる」と考えているそうです。

”めぐりん”は、これからどうなるのでしょうか?
「医大めぐりん」というように、また、8時から運行が始まるというように、岡山大学病院へ通院の高齢者や、買い物客を主なターゲットにしているとすると、最大のライバルは、

一つは、岡山電気軌道(オカデン)の清輝橋線と

もう一つは、オカデンバスの路線バスでしょうか?

すでに、オカデンバスは、今年の3月から、岡山大学病院の玄関前まで乗り入れていて、また、7月からは市の中心部と病院までを、140円(30円値下げ・清輝橋線の運賃と同じ)にして、迎撃態勢を整えているようです。そして、「顧客に支持されるかどうかは企業努力しだい。互いにサービスを競」おう(山陽新聞)とエールを送っているようです。

小型のバスのため、ドライバーと乗客は、他の定期バスより身近な存在になります。一人ひとりの乗客に細かく声をかけてくれる、美しく、居心地のいいバスなので、他のバス会社とサービスを競い合いながら、運行を続けてほしいと願っています。

府中市の石州街道、出口通りを歩く

2012年07月21日 | 日記
広島県東部の町、府中市。昔から「府中タンス」で知られていて、高級婚礼家具の町というイメージでした。

石州街道の町並みが整備されていると聞いて、訪ねてみることにしました。

広島県JR福山駅から、黄色い車輌のJR福塩線で府中駅に着きました。

JR福塩線の府中駅です。

家具の店がありました。「府中の家具」は健在です。

石州街道は、江戸時代、天領であった石見(大森)銀山で採掘された、銀の輸送路でした。慶長6(1601)年に初代銀山奉行として着任した大久保長安が、中国山地を超えて瀬戸内海の尾道から、
幕府に送る輸送路を整備しました。輸送には、馬300頭と400人の隊列が組まれ、尾道までの130kmを3泊4日で歩いたそうです。その後、途中から、現在の岡山県西部の笠岡市に向かう輸送路も整備されました。日本海岸からの海路の輸送路が、冬には季節風のため航行に支障があったためでした。

ここ府中は、笠岡に向かう石州街道が通っていました。

スタートは、三室橋。下を流れる出口川は、この先、府中駅の南で芦田川に合流します。写真の左上に向かう道が、上下町を通って石見銀山に向かった石州街道です。
江戸時代には、出口川には橋がなく、飛び石伝いに渡っていたといわれています。

石見銀山を行き来する役人が、多くの人夫を要して出費がかさんでいるのを見かねて出口村の庄屋大戸直純が自費で架橋したと言われています。

出口川を超えた旅人は、そこからすぐ右に曲がりました。

ここを曲がらないでまっすぐ20分ぐらい進むと、首無地蔵。地中から掘り出されたお地蔵様だそうです。

石州街道は、出口川に沿って南に進みます。この通りは出口通りと呼ばれています。入ってすぐ左側に、「お茶屋跡の案内板」がありました。

石州街道を、北から急峻な坂根峠を越えて来た人々は、ここで、ほっと一息ついて休息したのです。「出口」という名は、山地からの出口という意味でつけられたようです。

さらに、進むと番所跡です。

左側に番所跡がありました。関所の小さいものです。正確には、福山藩の口留番所(くちどめばんしょ)の跡。府中を治めていた福山藩では、他領とつながる水陸の要所に、この番所が置かれていました。旅人の通行のチェックとともに、物資の出入りを監視することが主なしごとでした。

番所跡の右隣に役宅があったと案内板には書かれていました。

私は、番所跡の石垣に続く細い路地に、時の雰囲気を感じました。

通りの右側の民家の裏を流れる出口川にかかるせせらぎ橋。

今では、出口川には、たくさんの橋が架けられています。

石州街道まちづくり協議会を中心に、町並みの整備が進められています。

修復指定事業の第1号として、建物の修復をしたお宅です。

黒漆喰に虫籠窓、連子格子の豪壮な感じの商家。

白漆喰の商家です。きれいにお化粧をし直していました。

出口通りを北に向いて撮影しました。

通りに二つあった、恵比寿堂。また、通りには、荒神社も祀られていました。

一瞬、大手の醤油メーカーかと思った、金光味噌の醸造場。よく見ると「キッコーキン」でした。

通りにあった有名人の生家跡です。福山藩の刀鍛冶の名工はここで生まれました。

慶照寺の山門。出口通りのシンボル。文化2(1805)年に建てられました。

慶照寺本堂。天文3(1738)年の再建です。

出口通りが東西の通りに交わるところ。江戸時代には、ここに木戸があり、夕方には閉じられていました。また、当時は、まっすぐ進む道がなく、ここで両側に折れるT字路でした。そのため、この場所を「かんのき」と呼んでいました。

「かんのき」の民家の前に道標が立っています。
正面に、「北  上下 小畑 石州道」
左面に 「東  福山 上方道」
右面に 「西  市邑 甲(?)山道」
これも、南方向の案内がありません。やはりT字路だったようです。福山方面に進む石州街道はここを左折して進みます。

ここを右方向に(道標の「西 市邑 甲(?)」方面)にいくと、すぐ、出口川にかかる大黒橋です。

両側の欄干に左右16個の大黒様が飾られています。

「かんのき」まで、引き返して、道標の「東 福山方面」に向けて、石州街道を進みます。現在の上本町通りです。

先ほど見た、府中味噌のお店。創業明治5(1873)年という老舗です。ここにも、伝統的な民家が点在しています。

立派な和風のお宅です。

アーケードがついた商店街、一番街。

さらに進み、交差点の向こうに銀座通りの商店街が続く手前、左側に、大きな石の灯籠が見えて来ます。

高さ8,4m   笠石の1辺 2.6m(笠石面積4畳半)。文化7(1810)年、三浦勘右衛門が発起し、この地の庄屋クラスの有力者が協力し、2万余人の寄進による銀5貫匁を費やして、天保12(1841)年に完成したといわれています。日本一の石灯籠の碑がある金刀比羅宮です。

写真で見るとあまり大きく見えないのですが、鳥居を超えた大きな灯籠です。

金刀比羅宮の隣の通りをはさんだ向かい側に、広大な敷地を誇る和風の建築があります。この写真は建物の東南方向から撮影したものです。

こちらは、北東側から撮影しました。「旅館 恋しき」の建物です。幕末の創業で、建物は明治初期の建造。切妻造、平入の1部3階建てで、大正期には旅館、遊郭だったそうです。いまは、改装して展示館と喫茶室になっています。裏にある庭園も公開されていました。再び、石州街道に戻ります。

通りは、銀座通り商店街。石州街道は、この道をまっすぐ福山方面に向かって続いていきます。
 



転車台が出てきた岡山県境の駅、JR美作河井駅

2012年07月13日 | 日記

中国山地の山間にある無人駅の構内にぽつりと残っている転車台です。眠っていた土の中から掘り出された転車台です。

この駅は、JR因美線の美作河井駅です。美作河合駅が開業したのは、昭和6(1931)年。昭和3(1928)年から津山駅を起点に鳥取方面に路線を延ばしていた因美南線が、美作加茂駅から美作河井駅まで延伸した時でした。その翌年の昭和7(1937)年、鳥取駅から南に路線を伸ばしていた因美北線が、智頭駅と美作河井駅間を開業させ、因美南線とつながりました。そして、この年に因美北線は因美南線を吸収し因美線と改称しました。この日は、この転車台を見るために、JR岡山駅からスタートしました。

津山線の快速“ことぶき”です。津山市で開催される、「ごんごまつり」(「ごんご」は河童のことです)のヘッドマークがついていました。津山駅から、JR因美線に乗り継ぎ、県境のJR美作河井駅に向かいました。

現在の因美線は、JR津山駅とJR智頭駅を結ぶ区間運転が中心で、1日7往復の、典型的なローカル線になっています。朝6時30分発の列車の次の列車、JR津山駅11時35分発の智頭行に乗車しました。平成14(2003)年に投入された、DCのキハ120系のワンマン単行列車でした。

かつて、津山線・因美線は、山陽(岡山駅)と山陰(鳥取・倉吉駅)を結ぶメインルートでした。その津山線・因美線の花形列車が急行”砂丘“でした。しかし、急行”砂丘”は、平成8(1997)年、智頭急行の開業と同時に廃止されました。この急行”砂丘”の写真は、JR美作河井駅内に展示されています。

岡山と鳥取間の現在の主役は、特急「スーパーいなば」です。岡山駅から、山陽本線の上郡駅に向かい、智頭急行線を経由して智頭駅へ、さらに、因美線で鳥取に向かう列車です。岡山・鳥取間を、1時間50分で結んでいます。左は、関西と鳥取を智頭急行線経由で結ぶ、「特急スーパーはくと」です。

智頭急行は、鳥取県や岡山県などが出資する第三セクターの鉄道会社です。本社は、智頭町にあるJR智頭駅の隣にあります。大部分が赤字会社という第三セクター鉄道の中で、黒字を確保していて、「第三セクターの優等生」として知られています。

因美線の駅の中で、最も知られているのは、途中で停車した美作滝尾駅です。駅舎は、文部科学省(文化庁)の登録有形文化財に指定されています。「寅さん」映画の最終作のロケ地としても知られています。

津山駅から40分でJR美作河井駅に着きました。鳥取県境の中国山地の中にあるJR美作河井駅は、標高338m。因美線の中で、最も高いところにある駅です。かつては、2面3線のホームでしたが、平成9(1997)年に無人化され、行き違い施設が撤去されました。現在は、1面1線のホームになっています。

ホームから駅舎に向かいます。改札口と待合いの椅子は、改造されていました。

事務室に入るドアの上に名札が並んでいました。おそらく、歴代の駅長さんのものでしょう。

旧出札口は、この規模の駅舎に共通するつくりです。

駅から出てすぐ右に、「鉄道開通70周年記念」の石碑。平成17(2005)年に建てられています。

駅は高所にあって10mも歩けば切り立った崖、はるか下に、加茂川が流れ、その先に釉薬瓦で葺かれた民家が見えます。     

右前に古い石碑がありました。「矢筈城址」の碑。

列車が駅に入る手前に、「矢筈(やはず)城址」の大きな看板がありました。看板の背後にあるのが矢筈山(標高756m)です。この山頂にあった山城が矢筈城。戦国期、美作・因幡両国に勢力を持っていた草刈衡継が築いた、東西1600m、南北500mの壮大な山城です。

3代目の城主、草刈重継は毛利氏に属したため、宇喜多氏や羽柴秀吉などから何度も攻撃されましたが、その都度撃退したということです。本能寺の変後の天正12(1584)年に、毛利輝元らの要請で、重継が退城するまで、築城以来、一度も落城することがなかったという難攻不落の堅城でした。

めざす転車台は、矢筈城の向かい、因美線の線路やホームの反対側にありました。平成19(2007)年に土中から掘り出されました。鳥取方面から峠を越えてこの駅までやってきたラッセル車が、折り返しのために向きを変えたのが、この転車台でした。手動で回転させるために使用した、取っ手も残っていました。深さ1.5m、円の直径12.4m(40フィート)、列車が乗る枕木の幅が2.1mの転車台です。

いつしか使われなくなり、すっかり土に覆われて樹木も生えて所在不明になっていました。平成18(2006)年に付近の樹木が伐採されたとき、その存在が確認され、翌年に掘り出されたといわれています。

<追記>(2019年2月11日)「40フィートの転車台は、国内でも愛知県犬山市の「博物館明治村」と青森県中泊町の津軽鉄道津軽中里駅とここにしか残っていないとされ、しかも、完全な形で残っているものはこの美作河井駅のものが唯一ともいわれている(「よみがえる鉄道文化財」笹田昌宏著 交通新聞社 2015年刊)」そうです。

平成21(2009)年(平成20年度)に、近代化産業遺産(経済産業省)に指定されました。地元の人々の喜んでおられることでしょう。

駅構内には、かつての側線も残っています。しかし、残念ながら、それは途中で寸断されていました。この季節は草も元気がよくて、線路を覆うほど生えています。

切妻の赤いトタン葺きの屋根と下見板張りの壁面をもつ歴史を感じる木造駅舎は、周囲の山々に溶け込んでいます。美作滝尾駅など他の因美線の駅とも共通する雰囲気を醸し出していました。

私が一番なつかしいと感じたのが、ホームにあった水道です。蒸気機関車が牽引していた頃は、列車が着くと、乗客は急いでホームに出て、手や顔を洗っていたものでした。今も、水はしっかり出ていました。

緑濃い木々の中にある美作河井駅。近代化産業遺産に指定された転車台を訪ねて多くの人が来てほしい。そう感じた美作河井駅の旅でした。




七夕飾りが並ぶ、岡山表町商店街

2012年07月10日 | 日記

岡山駅地下街(岡山一番街)にひまわりの花が飾られる頃、
ライバルの表町商店街には、七夕飾りが並びます。

今年も、たくさんの笹の葉に短冊が飾られています。
岡山市街地で、最も古い歴史をもつ表町商店街。
江戸時代に、岡山城下町がつくられたとき、
中世、「備前福岡の市」で知られた、
福岡(現瀬戸内市長船町)から移ってきた商人が、
住み着いた商店街です。

その名残を示す福岡屋さんの看板のそばにも、
七夕飾りがありました。

江戸時代、山陽道(西国往来)が、
岡山城下町の内堀と中堀で区切られた三の曲輪(くるわ)を、
通っておりましたが、
岡山城のすぐそばにある、
山陽道に沿った商店街が、表町商店街です。

仕事からの帰り、その南側から、
北の上之町に向けて歩きました。

南の西大寺町に掲げられた「絆」の飾り。
折り鶴でつくられていました。
東日本大震災の後、みんなが大切だと感じた「絆」、
いつまでも、大事にしないといけませんね。

今年も学校や保育園の子どもたちの願いが、
短冊には書かれています。

今年は、夢がかなうことを願う、
ほほえましいものが多かったようです。

家族の雰囲気が伝わってきます。

子どもさんから、こんな夢を書かれるお父さんは
どんな方でしょうか?

核店舗である、天満屋前にあった短冊、
これが一番気に入りました。

中之町につくられた「おもてちょう願い事アーチ」。

前から来たカップルの女性が、突然隣の男性の手をとって、
このシートをくぐって行きました。
男性の浮かない顔と、女性の笑顔のコントラストが
実によかったです。思わず笑ってしまいました!

表町の関係者が一番願うのは、この短冊かな?
「商売繁盛」です。

近くに「先客万来」もありました。
地盤沈下がささやかれる表町商店街です。

私自身は、表町が大好きです。
ここを歩くと知ってる人に出会えるからです。
その多くがお孫さんと一緒です。

「表町を歩くと願いがかなう」。
多くの人と出会える表町のままで、
いつまでも続いてほしいものです。

「スマイル」の飾りが見えたら出口の上之町。
商店街を抜けて、桃太郎大通りに出ました。