「あの地平線、輝くのは・・・」
各地の学校の合唱コンクールでよく歌われている「君をのせて」。映画「天空の城ラピュタ」の主題歌です。私は、もう一つの「天空の城」が気になっていました。雲海の中に浮かぶ石垣の姿です。
それは、竹田城跡。兵庫県朝来市和田山町竹田にあります。但馬の守護大名、山名持豊(後、宗全)が、嘉吉年間(1441~1444)に標高353.7mの山頂に築いた山城に始まります。権力基盤の弱かった室町幕府は、ますます弱体化して、6代将軍足利義教は、赤松満祐によって暗殺されました。その満祐も、山名持豊に敗れます。
但馬の守護山名持豊は、応仁の乱に際して、この竹田城を10年余の歳月をかけて築城しました。家臣の太田垣光景らが守っていましたが、豊臣秀吉によって落城してしまいます。その後、赤松氏ゆかりの赤松政英(龍野城主になっていた)がこの城を再興しましたが、その子、広英は、関ヶ原の戦いでの鳥取城攻めの不手際を責められて自害して果ててしまいます。このとき、西軍の側についていた広英は最後に寝返ったのですが、その功は認められなかったようです。関ヶ原の戦い以後、竹田城は廃城となりましたが、山上の石垣は、今も当時のまましっかりと残っています。
姫路から播但線の電車で北に向かいます。途中のJR寺前駅までは電化区間です。40分余で寺前駅に着きました。
寺前駅からは、向かいのホームで待つ和田山行きのディーゼルカーに乗り継いで、1分後に出発です。50分足らずで、終点和田山駅の一つ前、JR竹田駅に着きました。
JR竹田駅です。白壁と黒板の民家風の駅舎です。
駅の改札口を出ると、駅舎の中に「観光案内所」がありました。そこで、竹田城についての基礎知識と登城路の指導を受けて、竹田城に向けて出発しました。駅から播但線に沿って少し和田山方面に歩きます。左折して、播但線の線路の下をくぐる道がありました。
頭がぶつかるぐらいの高さで、線路の下をくぐり、駅の裏側に出るとすぐ登城路に入ります。登城路は駅の北側の急な坂をほぼ真上に登っていくコースです。
登城路の入り口にあった道しるべに従って登っていきます。
登る人も一人もいない寂しい登城路を歩いていきます。
この道は、山麓にあった御屋敷から天守閣に登った道で、城があったときから多くの侍が往復した道でした。急な登山道を歩きこと30分、汗があふれ出した頃に大手門跡に着きました。登城路からは想像もできないぐらいの多くの観光客がおられました。ガイドさんの話を聞いているグループ旅行の団体もおられました。
まず目に入るのが、立派な石垣です。野面積み、近江の安土城を築いた穴生衆(あのうしゅう)の築垣技術の粋が集まっています。下の石を覆うように上の石をかぶせた鎧(よろい)積み、角には、長い大きな石を交互に長短を組み合わせた算木(さんぎ)積み・・・。
最高地点の天守台を中心に、北側と南側、西側に城郭が広がっています。案内表示に書かれている地形図からもよくわかるように、山頂の城とは思えないような、南北100m、東西400mの大きな縄張りです。天守閣は2層だったようです。
観光案内所にあった、「当時の文献と一部推測を交えてつくった」という竹田城の復元模型が参考になりました。
この写真は、南側から天守台を見たものです。写真の中央右の最高地点が天守台。
現在、その天守台の上に行くには、備え付けの梯子をあがるしかありません。
天守台から見た竹田の町、向かいの山裾を流れる円山川から手前に、古い町並みが広がっています。かつての城下町です。30分程度で登れる城でしたが、さすがに上から見るとかなりの高さです。
天守台から見た南千畳方面です。山の頂上とは思えないほど広々とした印象です。櫓や土塀残っていれば、さらに大きく見えることでしょう。
山頂の城跡に1時間ほど滞在して、もと来た道を下りました。麓の城下町を歩くことにしました。江戸時代になってからは、ここ竹田の町は幕府の天領となり、銀山で知られる生野代官所の支配を受けました。
登城路を下りきると、寺町通りにぶつかります。白い土塀の外の水が流れる堀に囲まれて立派な4つの寺が並んでいます。北から法樹寺、そして勝賢寺、常光寺、善證寺です。堀にかかる橋はいずれも江戸時代のもので、味わい深いものです。下の写真は、最後の城主、赤松広英の墓がある法樹寺の山門です。
寺町通りを過ぎると、堀の中のどらえもんが、観光客を迎えています。
JR竹田駅前のJR播但線に沿った通りが、旧「但馬道」です。姫路を起点に、粟賀、生野、竹田、和田山を通り、さらに八鹿、納屋、豊岡を経て城崎温泉にまでの95km、和田山までは播但線にほぼ沿って続いていました。城崎温泉に向かう湯治の道、生野銀山で産出した「銀の道」でもありました。
竹田の町は、江戸時代をとおして、宿場町、商業の町として栄えました。
表通りだけでなく、路地の美しさにも目を引かれます。
通りに面した木村酒造は創業400年で、現在も清酒「虎臥城」(こがじょう)を少量ですが、造り続けているそうです。
白い漆喰に塗られた酒蔵も残っていました。
竹田城は国の史跡に指定されていて、「日本100名城」にも選ばれている名城です。地元の方が、「日本一の山城」と呼んでいるのもうなずけます。
しかし、私は、竹田城を見ている間中、ずっと、岡山県高梁市の備中松山城のことを考えていました。こちらは国の重要文化財に指定された天守閣をもつ城です。標高も400mを超えていて、日本で一番高い所にある山城といわれています。日本城郭協会から「は、日本三大山城」に指定されています。
どちらが日本一かの議論はさておき、私のふるさと岡山県にもなかなか魅力的な山城があるよと、PRしたくなりました。
各地の学校の合唱コンクールでよく歌われている「君をのせて」。映画「天空の城ラピュタ」の主題歌です。私は、もう一つの「天空の城」が気になっていました。雲海の中に浮かぶ石垣の姿です。
それは、竹田城跡。兵庫県朝来市和田山町竹田にあります。但馬の守護大名、山名持豊(後、宗全)が、嘉吉年間(1441~1444)に標高353.7mの山頂に築いた山城に始まります。権力基盤の弱かった室町幕府は、ますます弱体化して、6代将軍足利義教は、赤松満祐によって暗殺されました。その満祐も、山名持豊に敗れます。
但馬の守護山名持豊は、応仁の乱に際して、この竹田城を10年余の歳月をかけて築城しました。家臣の太田垣光景らが守っていましたが、豊臣秀吉によって落城してしまいます。その後、赤松氏ゆかりの赤松政英(龍野城主になっていた)がこの城を再興しましたが、その子、広英は、関ヶ原の戦いでの鳥取城攻めの不手際を責められて自害して果ててしまいます。このとき、西軍の側についていた広英は最後に寝返ったのですが、その功は認められなかったようです。関ヶ原の戦い以後、竹田城は廃城となりましたが、山上の石垣は、今も当時のまましっかりと残っています。
姫路から播但線の電車で北に向かいます。途中のJR寺前駅までは電化区間です。40分余で寺前駅に着きました。
寺前駅からは、向かいのホームで待つ和田山行きのディーゼルカーに乗り継いで、1分後に出発です。50分足らずで、終点和田山駅の一つ前、JR竹田駅に着きました。
JR竹田駅です。白壁と黒板の民家風の駅舎です。
駅の改札口を出ると、駅舎の中に「観光案内所」がありました。そこで、竹田城についての基礎知識と登城路の指導を受けて、竹田城に向けて出発しました。駅から播但線に沿って少し和田山方面に歩きます。左折して、播但線の線路の下をくぐる道がありました。
頭がぶつかるぐらいの高さで、線路の下をくぐり、駅の裏側に出るとすぐ登城路に入ります。登城路は駅の北側の急な坂をほぼ真上に登っていくコースです。
登城路の入り口にあった道しるべに従って登っていきます。
登る人も一人もいない寂しい登城路を歩いていきます。
この道は、山麓にあった御屋敷から天守閣に登った道で、城があったときから多くの侍が往復した道でした。急な登山道を歩きこと30分、汗があふれ出した頃に大手門跡に着きました。登城路からは想像もできないぐらいの多くの観光客がおられました。ガイドさんの話を聞いているグループ旅行の団体もおられました。
まず目に入るのが、立派な石垣です。野面積み、近江の安土城を築いた穴生衆(あのうしゅう)の築垣技術の粋が集まっています。下の石を覆うように上の石をかぶせた鎧(よろい)積み、角には、長い大きな石を交互に長短を組み合わせた算木(さんぎ)積み・・・。
最高地点の天守台を中心に、北側と南側、西側に城郭が広がっています。案内表示に書かれている地形図からもよくわかるように、山頂の城とは思えないような、南北100m、東西400mの大きな縄張りです。天守閣は2層だったようです。
観光案内所にあった、「当時の文献と一部推測を交えてつくった」という竹田城の復元模型が参考になりました。
この写真は、南側から天守台を見たものです。写真の中央右の最高地点が天守台。
現在、その天守台の上に行くには、備え付けの梯子をあがるしかありません。
天守台から見た竹田の町、向かいの山裾を流れる円山川から手前に、古い町並みが広がっています。かつての城下町です。30分程度で登れる城でしたが、さすがに上から見るとかなりの高さです。
天守台から見た南千畳方面です。山の頂上とは思えないほど広々とした印象です。櫓や土塀残っていれば、さらに大きく見えることでしょう。
山頂の城跡に1時間ほど滞在して、もと来た道を下りました。麓の城下町を歩くことにしました。江戸時代になってからは、ここ竹田の町は幕府の天領となり、銀山で知られる生野代官所の支配を受けました。
登城路を下りきると、寺町通りにぶつかります。白い土塀の外の水が流れる堀に囲まれて立派な4つの寺が並んでいます。北から法樹寺、そして勝賢寺、常光寺、善證寺です。堀にかかる橋はいずれも江戸時代のもので、味わい深いものです。下の写真は、最後の城主、赤松広英の墓がある法樹寺の山門です。
寺町通りを過ぎると、堀の中のどらえもんが、観光客を迎えています。
JR竹田駅前のJR播但線に沿った通りが、旧「但馬道」です。姫路を起点に、粟賀、生野、竹田、和田山を通り、さらに八鹿、納屋、豊岡を経て城崎温泉にまでの95km、和田山までは播但線にほぼ沿って続いていました。城崎温泉に向かう湯治の道、生野銀山で産出した「銀の道」でもありました。
竹田の町は、江戸時代をとおして、宿場町、商業の町として栄えました。
表通りだけでなく、路地の美しさにも目を引かれます。
通りに面した木村酒造は創業400年で、現在も清酒「虎臥城」(こがじょう)を少量ですが、造り続けているそうです。
白い漆喰に塗られた酒蔵も残っていました。
竹田城は国の史跡に指定されていて、「日本100名城」にも選ばれている名城です。地元の方が、「日本一の山城」と呼んでいるのもうなずけます。
しかし、私は、竹田城を見ている間中、ずっと、岡山県高梁市の備中松山城のことを考えていました。こちらは国の重要文化財に指定された天守閣をもつ城です。標高も400mを超えていて、日本で一番高い所にある山城といわれています。日本城郭協会から「は、日本三大山城」に指定されています。
どちらが日本一かの議論はさておき、私のふるさと岡山県にもなかなか魅力的な山城があるよと、PRしたくなりました。