トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

天空の城、竹田城に登って来ました!

2011年03月27日 | 日記
「あの地平線、輝くのは・・・」
各地の学校の合唱コンクールでよく歌われている「君をのせて」。映画「天空の城ラピュタ」の主題歌です。私は、もう一つの「天空の城」が気になっていました。雲海の中に浮かぶ石垣の姿です。

それは、竹田城跡。兵庫県朝来市和田山町竹田にあります。但馬の守護大名、山名持豊(後、宗全)が、嘉吉年間(1441~1444)に標高353.7mの山頂に築いた山城に始まります。権力基盤の弱かった室町幕府は、ますます弱体化して、6代将軍足利義教は、赤松満祐によって暗殺されました。その満祐も、山名持豊に敗れます。

但馬の守護山名持豊は、応仁の乱に際して、この竹田城を10年余の歳月をかけて築城しました。家臣の太田垣光景らが守っていましたが、豊臣秀吉によって落城してしまいます。その後、赤松氏ゆかりの赤松政英(龍野城主になっていた)がこの城を再興しましたが、その子、広英は、関ヶ原の戦いでの鳥取城攻めの不手際を責められて自害して果ててしまいます。このとき、西軍の側についていた広英は最後に寝返ったのですが、その功は認められなかったようです。関ヶ原の戦い以後、竹田城は廃城となりましたが、山上の石垣は、今も当時のまましっかりと残っています。

姫路から播但線の電車で北に向かいます。途中のJR寺前駅までは電化区間です。40分余で寺前駅に着きました。
 
寺前駅からは、向かいのホームで待つ和田山行きのディーゼルカーに乗り継いで、1分後に出発です。50分足らずで、終点和田山駅の一つ前、JR竹田駅に着きました。
 
JR竹田駅です。白壁と黒板の民家風の駅舎です。
 
駅の改札口を出ると、駅舎の中に「観光案内所」がありました。そこで、竹田城についての基礎知識と登城路の指導を受けて、竹田城に向けて出発しました。駅から播但線に沿って少し和田山方面に歩きます。左折して、播但線の線路の下をくぐる道がありました。
 
頭がぶつかるぐらいの高さで、線路の下をくぐり、駅の裏側に出るとすぐ登城路に入ります。登城路は駅の北側の急な坂をほぼ真上に登っていくコースです。 

登城路の入り口にあった道しるべに従って登っていきます。

登る人も一人もいない寂しい登城路を歩いていきます。
 
この道は、山麓にあった御屋敷から天守閣に登った道で、城があったときから多くの侍が往復した道でした。急な登山道を歩きこと30分、汗があふれ出した頃に大手門跡に着きました。登城路からは想像もできないぐらいの多くの観光客がおられました。ガイドさんの話を聞いているグループ旅行の団体もおられました。

まず目に入るのが、立派な石垣です。野面積み、近江の安土城を築いた穴生衆(あのうしゅう)の築垣技術の粋が集まっています。下の石を覆うように上の石をかぶせた鎧(よろい)積み、角には、長い大きな石を交互に長短を組み合わせた算木(さんぎ)積み・・・。
 
最高地点の天守台を中心に、北側と南側、西側に城郭が広がっています。案内表示に書かれている地形図からもよくわかるように、山頂の城とは思えないような、南北100m、東西400mの大きな縄張りです。天守閣は2層だったようです。
 
観光案内所にあった、「当時の文献と一部推測を交えてつくった」という竹田城の復元模型が参考になりました。
 
この写真は、南側から天守台を見たものです。写真の中央右の最高地点が天守台。
 
現在、その天守台の上に行くには、備え付けの梯子をあがるしかありません。

天守台から見た竹田の町、向かいの山裾を流れる円山川から手前に、古い町並みが広がっています。かつての城下町です。30分程度で登れる城でしたが、さすがに上から見るとかなりの高さです。

天守台から見た南千畳方面です。山の頂上とは思えないほど広々とした印象です。櫓や土塀残っていれば、さらに大きく見えることでしょう。
 
山頂の城跡に1時間ほど滞在して、もと来た道を下りました。麓の城下町を歩くことにしました。江戸時代になってからは、ここ竹田の町は幕府の天領となり、銀山で知られる生野代官所の支配を受けました。

登城路を下りきると、寺町通りにぶつかります。白い土塀の外の水が流れる堀に囲まれて立派な4つの寺が並んでいます。北から法樹寺、そして勝賢寺、常光寺、善證寺です。堀にかかる橋はいずれも江戸時代のもので、味わい深いものです。下の写真は、最後の城主、赤松広英の墓がある法樹寺の山門です。

寺町通りを過ぎると、堀の中のどらえもんが、観光客を迎えています。

JR竹田駅前のJR播但線に沿った通りが、旧「但馬道」です。姫路を起点に、粟賀、生野、竹田、和田山を通り、さらに八鹿、納屋、豊岡を経て城崎温泉にまでの95km、和田山までは播但線にほぼ沿って続いていました。城崎温泉に向かう湯治の道、生野銀山で産出した「銀の道」でもありました。
竹田の町は、江戸時代をとおして、宿場町、商業の町として栄えました。
 
表通りだけでなく、路地の美しさにも目を引かれます。
 
通りに面した木村酒造は創業400年で、現在も清酒「虎臥城」(こがじょう)を少量ですが、造り続けているそうです。
 
白い漆喰に塗られた酒蔵も残っていました。
 
竹田城は国の史跡に指定されていて、「日本100名城」にも選ばれている名城です。地元の方が、「日本一の山城」と呼んでいるのもうなずけます。

しかし、私は、竹田城を見ている間中、ずっと、岡山県高梁市の備中松山城のことを考えていました。こちらは国の重要文化財に指定された天守閣をもつ城です。標高も400mを超えていて、日本で一番高い所にある山城といわれています。日本城郭協会から「は、日本三大山城」に指定されています。

どちらが日本一かの議論はさておき、私のふるさと岡山県にもなかなか魅力的な山城があるよと、PRしたくなりました。


普通列車で琴平から坂出へ

2011年03月21日 | 日記
「秘境の駅」JR坪尻駅から、JR土讃線で岡山へと向かいました。
20分で琴平駅に着きました。
   
久しぶりに金比羅さんにお詣りしました。
天気がよかったので、参道では、
うどんのお店に入るたくさんの人に出会いました。
久しぶりの階段は、少ししんどかったです。
  
金比羅さんにお詣りしました。
途中の美術館では、ミッフィー展が開かれていました。

本殿の前からの讃岐平野の眺めは、いつもすばらしい。
春らしく、讃岐富士がかすんでいました。 

迷いましたが、奥の院にもお詣りしてきました。

JR琴平駅から高松行き電車で5分、善通寺駅に着きました。
 
四国88カ所霊場の75番札所、
真言宗善通寺派総本山、善通寺のおひざもとです。
進行方向の右手に、かつて甲子園をわかせた尽誠学園高校の校舎が見えました。
最近は、甲子園に出て来てないようですが・・・・。

2分余りで、次のJR金蔵寺(こんぞうじ)駅に。
 
狭い駅舎に自転車が並んでいました。
ここも、88カ所霊場の地。76番札所金倉寺(こんぞうじ)があります。
善通寺と違って、こちらは駅名と寺号は音は同じですが、字は違っていました。

さらに4分で、多度津駅。
JR予讃線との乗り換え駅。

駅の構内に、SL全盛期の給水塔が残っています。
そして、ホームの向こうにはSL8600形が保存されていました。
駅前には、「少林寺拳法発祥の地」の碑。
そういえば、駅に入る手前でカラフルな本部の建物が見えました。
 
駅から歩いて20分ぐらいのところに、四国霊場77番札所の道隆寺があります。
どっしりとした山門を入ると、正面に本堂と大師堂。
毎日、たくさんのお遍路さんを迎えています。
この寺は、多宝塔を背景にしたマーガレットの花の写真でよく知られています。

多度津を過ぎると、JR讃岐塩屋駅からは丸亀市になります。
JR丸亀駅まで、琴平駅から25分程度。
この間、仲多度郡琴平町、善通寺市、仲多度郡多度津町、そして丸亀市と
4つ目の自治体です。
丸亀市といえば、駅の南にそびえる丸亀城です。
   
堀を渡った所にある大手門、重量感あふれる建物です。
立派な石垣を見ながら登った頂上に、天守閣が立っています。
大手門に比べて、少し貧弱な印象ですが、
他に建造物がないためにそう感じてしまうのでしょうか。
でも、この天守閣は建築当初からのもので、
国の重要文化財に指定されている価値あるものなのです。
我が国には12の現存天守閣があり、国宝が4天守閣、
8天守閣が重要文化財に指定されています。
四国では丸亀城のほかに、松山城、宇和島城、高知城に、
重要文化財指定の天守閣が残っています。

8分で、JR坂出駅です。
ホームから見た讃岐富士は、相変わらず優美な姿でした。
金比羅さんの上から見るより、しっかりと見えていました。
階下の改札口を出ると4月2・3日にある「讃岐うどんつるつるツーデーウォーク」の案内が、
つるされていました。
    
坂出駅の中のうどん店、「亀城庵」。
毎日夕方になると、「麺がなくなりましたので閉店します」という、
札がかかっています。私も昼に入ったことがありますが、
いつもいっぱいのお客さんであふれていました。

高松から徳島、徳島から阿波池田、秘境の駅、坪尻を通って多度津、
そして岡山県への玄関の坂出駅。
四国の半周の普通列車の旅が、やっと終わりました。




「秘境の駅」、JR坪尻駅に行ってきました!

2011年03月19日 | 日記
先日、普通列車で四国を半周したときに通ったのですが、そのとき十分見ることができなかったJR土讃線坪尻駅に行ってきました。

さて、坪尻駅の駅標と駅舎です。
  
駅名標には「徳島県三好郡池田町」と書かれていますが、平成の大合併により、現在は三好市池田町西山になっています。

JR土讃線の電化区間は高松駅から琴平駅までになっています。琴平駅で、電車からディーゼルカーに乗り継いで、さらに南下しました。単行のワンマンカーでした。

讃岐財田駅を過ぎるとどんどん標高が上がっていき、四国山地を越えるためのトンネルが続いています。坪尻駅のあたりも、25パーミル(1,000mで25m登る)の傾斜になっていました。

3つめの坪尻トンネルを出るとすぐ右に坪尻駅が見えました。
  
ディーゼルカーは、駅の前でスピードを落として本線をそのまま進み、やがて、本線の左の待避線に入って停車しました。次に、前方にいた運転士さんは、車両の後ろに移動して、待避線の前の信号が青になるのを待って、後ろ向きに列車を動かし始めました。列車は一度本線に戻り、次に写真の手前右の線に入っていきました。そして、坪尻駅のホーム前で停車しました。坪尻駅には、スイッチバックで入っていくのです。
この駅に停車しない列車は、本線を時速100kmで通過していきます。
 
坪尻駅は周囲を山で囲まれていて、しかも、車が入っていくことができる道もありません。坪尻駅に行くには、歩いていくしか方法がないのです。舗装などの整備がなされていない道は、下手をすると崖から滑り落ちてしまうような危険なところです。谷は深く、水が滝になって落ちている音が聞こえています。おまけに、「まむし」に出会うこともあるそうです。
  
日本で7番目の「秘境の駅」なのだそうです。駅から、山あいの高所を走る国道(右の写真参照)に出て行くためには、本線の踏切を渡って、上の左の写真のような道を歩いていかなければなりません。

坪尻駅着9時51分。下車したのは、私も含めて4人でした。4人ともこの駅を訪ねてきた旅行者で、地元の人はおられませんでした。
   
駅のホームでは、「おつかれさまでした」と、手書きの垂れ幕が迎えてくれました。視線を下げると、野の花が生けられていることに気がつきました。その下の引き戸を開けて待合室に入ると、無人駅とは思えないような美しい光景が広がっています。ゴミ一つない清潔で明るい雰囲気に驚きました。
    
整然と貼られたポスター、手作りの駅スタンプに旅のノート、そして、「鉄子の旅」などの図書も並んでいました。そのうち、「霧の土讃線」のポスターは、「土讃線還暦記念曲」のもので、JR土讃線の各駅に掲示されていたものでした。
    
広くはない待合室ですが、隅には掃除用具が置いてあって、掃除や整理整頓をして、駅を守る人たちがおられることを教えてくれていました。3メートルほど進むと、裏口の引き戸にぶつかってしまうような狭い待合室を出ると、また驚く光景にぶつかります。「坪尻駅還暦記念の植樹」と「アメリカオレゴン州からの訪問団の植樹」。 先ほど、「まむし」に出会うこともあると書きましたが、駅の前に、手作りの「マムシ注意」の標識がありました。

これらは、すべて、地元西山地区の町づくり団体「おおぞら会」の人々のご尽力のたまものです。
  
去年(2010年)、「おおぞら会」の方が置かれていたスタンプが、行方不明になったことがありました。2ヶ月後、1,300km離れた青森県のJR津軽線の中沢駅で発見されて帰ってきました。しかし、その時一緒になくなっていた駅ノートは、結局帰ってこなかったようです。

荒れ果てていくことが多い無人駅ですが、この「秘境の駅」は、思い入れのある人々によって、しっかりと守られていました。
 
私がこの駅の近くをぶらぶらしている間に、上りと下りの2本の特急列車が通過していきました。

ところで、この駅をいったい何人の人が利用しているのでしょうか。「探偵、ナイトスクープ」では、かつて1日の乗降客4名としていました。「なにこれ珍百景」では「1人しか利用しない駅」と紹介されていたそうです。駅にあった「おおぞら会」の方が書かれた説明によると、現在、この駅を利用している地元の方は、開(ひらき)清さんとおっしゃる方、お一人なのだそうです。この駅は、開さんのためにあるといっていいかもしれませんね。

10時53分、来るときに乗った列車が、折り返し琴平行きになって帰ってきました。今回は、本線から直接駅に入ってきました。
1人が降りて、4人の旅行者がみんな乗り込みました。
 
入ってきた時と同じように、スイッチバックで、右下の線路から中央の本線を通って、左の待避線に入っていきました。そして、そこから再び手前の本線に入り、その先の坪尻トンネルに向かって進んでいきました。

還暦を過ぎた坪尻駅、これから何年現役であり続けるのでしょうか。地元の人の利用は増えていくのでしょうか。おおぞら会の人たちは・・・・。いつまでも、大事に守ってくれる人がおられる駅として、使われ続けてほしいと願ったものでした。

うだつのある町 徳島県脇町と貞光町

2011年03月14日 | 日記
徳島県を流れる四国三郎、吉野川をはさんで、うだつの町並みで知られる2つの町があります。脇町(現、美馬市)と貞光町(現つるぎ町)です。どちらも、徳島県の西北部にあり、いずれも徳島名産の藍や葉たばこの生産で、巨万の富を築いた商人の町です。

うだつは、屋根にくっついており、もともとは防火のためにつくられたものでした。やがて、それは「うだつがあがる」という言葉のように、富を蓄えた人たちの象徴として、競ってつくられていきました。
  
脇町は、JR穴吹駅から北に吉野川をこえて、歩いて30分ぐらいのところにあります。整備された商家群が、400メートルにわたって整然と並ぶ様子は壮観でした。
  
白漆喰の壁にうだつ、虫籠窓、格子戸のついた商家が並んでいました。私が訪ねた日は小雨の中でしたが、天気のいい日には、
青い空とのコントラストがすばらしいだろうなと思ったものでした。お話をお聞きすると、たそがれ時には、うだつの町並みを照明で浮き上がらせていて幻想的な光景が見られるそうです。
   
脇町は、藍の取引で栄えた商人の町でした。藍をそめた甕も残っています。安政3年創業といわれる野崎呉服店。様々な藍製品が並んでいます。 今もおみやげは、やはり藍製品です。

うだつの町並みを抜けて、町の東を流れる大谷川をわたると、色あざやかなステンドグラスで飾られた、洋風の建物が目に入ってきます。脇町劇場と書かれたこの建物は、昭和9年の建築。それから今日まで、ずっとこの町を見守ってきました。築75年を超えて今も現役です。中央に「オデオン座」と書かれているのは、平成9年の山田洋次監督の映画「虹をつかむ男」の、「オデオン座」として、脚光を浴びたからとか、それがきっかけで、取り壊しが計画されていたのが、改修保存されることになったとか。
いまでも、不定期ではありすが、イベント等に使われているようです。

一方、貞光町は、JR貞光駅の南側を中心とした地域にあります。貞光駅から歩いて10分ぐらいの一宇街道沿いに、うだつの民家が残っています。ここは、葉たばこの生産で財を為した商人が住んだ町です。
    
貞光のうだつは、「二層うだつ」といわれ、うだつが二重になっているのが特色です。祖谷方面への道を示す道しるべがある辺りまでが、二重うだつの民家が並んでいるところです。調べた方の話では、うだつのある民家49軒のうち17軒が、二重うだつだということです。
  
うだつの正面部分には、絵(こて絵)が施されているものも、いくつかありました。なかなか見事なものでした。
 
また、街道につながる路地には「祇園小路」などの名前がついていて、これもなかなか趣がありました。
  
うだつの町並みの真ん中あたりに、元庄屋屋敷の永井家住宅が、整備されて残っていました。茅葺きで間口の広い、堂々とした建物で、明治以降の当主は、医師として活躍されていたそうです。屋敷内部は公開されていました。この屋敷に入っていく入り口には「町並み交流館」として、各種イベントに使われる白壁づくりの建物が建てられています。
 
貞光小学校という案内に沿って登っていくと、周囲の2方をお墓に囲まれるようにして、小学校がありました。夜間のイベントで、肝だめしをやるのに便利なのかなあ!? でも3階建ての立派な校舎でした。表にまわると、なぜか校内にポストが置いてありましたが、塗装もはげて気の毒なぐらいでした。記録用に写真を撮っていたら、地元の方が笑いながら見ておられました。
  
道しるべを少し上がると、どっしりとした長屋風の建物がありました。近くのお宅の方が「これ、十軒あるんですよ。だから地元の人は十軒長屋と呼んでるんですよね。」と教えてくださいました。長屋というには惜しいような立派な本瓦葺きの屋根が、
途中で何カ所か波打っていて、歴史の重みも感じさせられました。

訪ねて来られた地元の方が、「このお宅には誰もおられないのですか?何回来てもお留守なので」と、私に尋ねられたのも、また楽しいことでした。

駅に向かう途中の洋風の民家の屋根の上では、鬼が私を見張っていました。

二つの町は、どちらも商店街が美しく整備されていて、うだつのある町にふさわしい豊かな印象を受けました。
四国山地のふもと、どちらかといえば徳島県の周辺部ですが、先人の文化遺産を大切に守っている、きらりと光る素敵な町でした。


徳島から阿波池田に普通列車で行きました

2011年03月11日 | 日記
昼食をすませてから徳島駅に戻り、
13時17分発の阿波池田行きの普通列車に乗り込みました。
2両編成のディーゼルカー、車掌さんも乗務しています。
高徳線より徳島線の方が格上なのかなあ?
 
JR四国の普通車両は、
前方部の右側のドアの近くに、前向きになった一人掛けの座席が2つあり、
その後ろは横シートになっています。
私は、その最前列の席をとりました。

雨がやや激しくなっていました。
徳島線(愛称:よしの川ブルーライン)は、
吉野川の南岸を、並走するようにさかのぼって行きます。
そして、阿波池田の一つ前の佃駅で、土讃線に接続しています。

この列車は、阿波池田まで25駅を、
2時間かけて走ることになっていました。
ちなみに特急「剣山」は、同じ距離を、1時間14分で走ります。
特急料金は、1,660円でした。
46分が1,660円なら、高徳線とほぼ同じぐらいです。
徳島線が、格上じゃあないんだね。

さて、この普通列車は、駅間を2~3分ぐらいで結びながら、
順調に進んでいきました。

13時56分、学駅に到着。
かつて、この駅の入場券が、「入学」がかなうということで、
人気がありました。
私の知り合いの中学校の先生は、3年生を担任した年には、
入場券を買いに来て、入試に向かうクラスの生徒に配って、
元気づけていました。
30年も前のことになってしまいました。
今も入場券を買いに来る人がいるのでしょうか。

かつての賑わいをしのばせる立派な駅舎でしたが、
この線の多くの駅がそうであるように、無人駅でした。
 
14時10分に川田駅に着いたとき、
反対側の線路に、穴吹駅が始発の徳島行き普通列車が待っていました。
「6分停車」という放送がありました。
考えてみると、これが、この列車の最初の行き違い停車でした。
お相手は、徳島行きの特急列車でした。
   
14時22分、穴吹駅着。
吉野川の向かい側にある脇町は、
藍で財をなした商人がつくった、
うだつの町並みで、全国に知られています。
うだつはもともとは、防火の役割をもっていましたが、
富の象徴として、競ってつくられていったということです。
「うだつがあがった」人たちが住んでいる町なんですね。
   
貞光駅には、14時41分に着きました。
ここで下車して町に出ました。
祖谷に向かう一宇街道の両側に、うだつのある民家が並んでいます。
ここでは、二層のうだつの家が見られました。
葉たばこの取引で富を蓄えた人がつくったものだといわれています。

16時12分に、貞光駅を出る普通列車で、
阿波池田に向かいました。
雨は小やみになっていました。

阿波池田の一つ手前の佃駅でも6分停車しました。
待っていると、琴平行きの普通列車が来ました。
乗り換えたくなったのですが、ぐっとがまん。
終点の阿波池田に向かいました。
  
阿波池田に着いたのは、16時49分でした。
山小屋を思わせる駅舎。
向かいは、アーケードの中にある結構大きな商店街でしたが、
地方の町に共通するさみしい雰囲気がただよっていました。

阿波池田といえば、やっぱり池田高校です。
「山間(やまあい)の子を甲子園につれていってあげたかったんだ」
いまは亡き、蔦文也監督に率いられたやまびこ打線。
あの長い校歌とともに、今も、元気のいい試合が思い出されます。
商店街を越えた山の中腹に、白い校舎が建っていました。

徳島駅から、ここまで3時間30分。

私は、ここから土讃線と予讃線を通って、
坂出に向かい、瀬戸大橋線で児島に帰ることにしていました。

この先も、普通列車の旅が続きます。







高松から徳島に普通列車に乗って行ってきました  

2011年03月09日 | 日記
高松から高徳線で徳島へ、普通列車で行ってきました。
  
出発は、快晴のJR児島駅。
倉敷市児島地区は、ジーンズで知られる町です。
地元の下津井電鉄では、ゆかりの地を回るジーンズバスを、
週3回運行しています。
バスにも、ジーンズの広告が描かれていました。
9時09分、マリンライナーで出発しました。
  
JR高松駅まで、瀬戸大橋を渡って30分です。
徳島行きの普通列車(1両)が待つ、高徳線ホームには、
アンパンマン列車が停車していました。

JR九州は、水戸岡鋭治さん設計の車両が有名ですが、
JR四国は車体に描かれた、
やなせかたしさんのアンパンマン列車で知られています。
JRからの各種案内のキャラクターとしても活躍しています。

この日は、特急うずしお5号に、1両だけが、
三両編成の2号車、指定席として運用されていました。

10時ジャストに、徳島行き普通列車(4329D)が、出発進行!
運転士さん一人乗務のワンマン運転でした。

徳島まで、所要1時間57分の設定でした。
ちなみに特急「うずしお」は、1時間12分。
そして、高松と徳島間の特急料金は1、660円でした。
45分間を1,660円で買うことになるのでしょうね。

出発してから15分後、JR屋島駅に着きました。
「10分停車します」という放送にがっくり。
この間に、先ほどの徳島行き特急うずしお5号に追い抜かれ、
上り高松行き普通列車(4328D)が到着し、
上りの特急うずしお8号とすれ違いました。
単線の単行列車、立派なローカル線でした。
  
屋島は瀬戸内海の展望台ですが、四国八十八カ所霊場の屋島寺、
近年は、動物の芸が売りの屋島水族館も人気です。
ただ、屋島に登るには、
コトデン(琴電)屋島駅からの方が、近くて便利なようです。

向かいの座席には、
若いお兄さんと頭を丸めた僧侶風の男性が座っています。
僧侶風の方は、この日は洋服を着ていましたが。
お二人とも、10分の停車を迷惑がることもなく、
淡々と出発を待っておられました。
  
45分で、引田(ひけた)駅到着。
僧侶風の男性はここで下車、ワンマン運転の乗務員さんも交代です。
引田は、古い町並みが残る町。
播磨灘に面しており、江戸時代は風待ちの港で栄えました。
創業宝暦3(1753)年という、紅い壁のかめびし醤油や、
虫籠窓に白壁つくりの民家が残っています。

次の讃岐相生駅を過ぎると、讃岐山脈越えに入ります。
列車はあえぐように、うなりながら登っていきます。
ひっきりなしに続くトンネル、
その中で最も長いトンネルを抜けると阿波大宮駅。
もう徳島県に入っていました。

続いてJR板野駅。
ここは、四国霊場巡りのお遍路さんにはなじみの駅です。
3番札所金泉寺(こんせんじ)、4番大日寺、5番地蔵寺、
6番安楽寺への起点の駅になっています。


11時34分、JR坂東駅に着きました。
四国霊場の1番、霊山寺(りょうぜんじ)の最寄り駅です。
八十八カ所巡りのお遍路さんは、お寺に隣接したお店で、
菅笠、金剛杖、頭陀袋(ずだぶくろ)、白装束などの衣装をそろえ、
巡礼への心の準備をするのです。
 
高松駅を出てから1時間57分、28番目の駅、
終点の徳島駅に着きました。
引田から一人で運行してきた運転士さんも勤務終了です。
いつの間にか、雨になっていました。

徳島駅は、ホテルクレメントの入る高層ビルの1階にあります。
阿波池田に向かう徳島線と、
小松島から阿南を経て海部に向かう牟岐線が分岐しています。

向かいの席の若いお兄さんは、結局、終点まで乗って来ました。
私は、特急ではなく普通列車でやってきたことで、
少し高揚していたのですが、
彼は、ここでも淡々としていました。
  
徳島市は阿波踊りで、全国に知られています。
市街地にかかる両国橋の欄干には、
阿波踊りの像がつくられていました。
また、橋の歩道部分にも、阿波踊りの姿が埋め込まれていました。 


私は、この日、
徳島線で阿波池田へ、
さらに土讃線、予讃線を経由して、
児島に帰ることにしていました。

何はともあれ昼食です。




北丹波に残る織田氏の陣屋町、柏原町

2011年03月03日 | 日記
青春18きっぷの季節がやって来ました。いつも、できるだけ効率的に使いたいといつも思っています。しかし、仕事の関係で日帰り旅行しかできない私には、北近畿は、18きっぷに最も適した地域だと感じています。

今回は、織田信長の子孫が治めた陣屋町として知られる、柏原(かいばら)の町を訪ねてきました。現在は、丹波市柏原町になっています。

早朝に、岡山駅を出発して、JR神戸線(東海道本線)尼崎で福知山線に乗り継ぎました。その後、篠山口駅を経て、昼前にJR柏原駅に着きました。JR柏原駅は、平成2(2000)年の「国際花と緑の博覧会(大阪花博)」で使われた木造駅舎の「山の駅」を移築したメルヘンチックな駅舎で知られています。博覧会では、明治時代に北海道の開拓で活躍した「SL弁慶号」(7100形SL)が、会場内の二つの駅「風車の駅」と「山の駅」の間を走っていました。博覧会が終わった後、「山の駅」を移築したのが、柏原駅舎です。
民家の庭にある梅の花がきれいに咲いていました。柏原は、通常使われる「かしはら」でも「かしわばら」でもなく、なぜ、「かいばら」なのでしょうか。「かいばら」は、万寿元(1024)年に、京都の石清水八幡宮を勧請して創建された八幡神社の周辺にあった、「栢原荘(かいばらのしょう)」という荘園の名に由来するといわれています。明治初年の「名字佳字化令」(太政官布告)によって、「柏」の字に改められたのだそうです。
  
大けやきが残る木の根橋から、石段をひたすら登ったところに、八幡神社は残っています。本殿の裏にそびえる三重の塔は、神仏習合の名残です。

柏原は、国指定の史跡である「陣屋」によって知られています。
  
正徳4(1714)年、織田信休によってつくられました。
ところが、文政元(1818)年に焼失し、現在の陣屋は、2年後に再建されたものです。檜皮葺きの玄関屋根は、重厚で高貴な印象です。陣屋の入り口にある長屋門は、火災の時も被害を受けず、創建当時のままで残っています。

柏原は、「織田氏の陣屋町」といわれますが、実は、信長の弟の系統と子の系統が、途中の断絶をはさんで治めているのです。豊臣秀頼に仕えた、織田信長の弟、信包(のぶかね)が、慶長3(1598)年に3万6000石で入り、織田氏の支配が始まりました。西軍に属した関ヶ原の戦い以後もこの地を安堵され支配が続きました。しかし、慶安3(1650)年、3代信勝が死去したとき、嗣子がなくお家断絶となってしまいました。
それ以後は、旗本領に分領されることになりました。

次に、この地を支配することになったのが、信長の二男信勝の孫、織田信休でした。元禄元(1695)年に藩主となり、2万石を領しました。信休は、奈良県の宇陀の大和松山藩(3万2000石)で生まれましたが、先代藩主が、家臣2人を斬って自殺するという、お家騒動を起こしたため、領地を半減されて転封されて来たのでした。

それ以後、信保の子孫が、10代にわたり明治までこの地を治めました。山裾にある織田家廟所には、信休以後の藩主を祀っています。
   
この日、陣屋付近や、嗣子がなく断絶した織田信勝を祀る織田神社では、改修工事が行われており、ブルーシートで覆われていました。
写真右の太鼓櫓では、太鼓で家臣の登城を知らせていたそうです。
  
柏原は、「織田氏の城下町」をテーマに、町づくりを進めています。落ち着いた雰囲気の、江戸時代の町割りを残す町並みもいいものです。
掃除が行き届いた清潔な通りもすばらしかったです。

太鼓櫓を連想する、やぐら公園のからくり時計。残念ながら、今回は、時間が合わず、パーフォーマンスは見られませんでしたが・・・。

江戸時代、「3郡57か村の高2万石」とはいっても、山深い奥丹後を領地とする柏原藩は、実際には、その半分の1万石にも満たなかった」といわれています。陣屋をつくるのにも、藩の経営にも、かなり厳しい状況だったはずです。実際に一揆も起きています。

織田氏は、当時の領民にとって、必ずしもいい藩主ではなかったのではないかとも思いますが、現代の町づくりには、「織田氏」は効果的なのでしょうね。町づくりは成功していると思いました。
  
観光客のための案内も親切で、大けやきをモチーフにしたマンホールもよかったです。

でも、それ以上に印象に残ったものが二つあります。一つは崇広小学校です。藩校、崇広館の名を継ぐ名門小学校です。
   
陣屋に隣接して建てられていますが、陣屋をしのぐ豪華さです。正面から陣屋をみると、その左後ろに小学校の鉄筋校舎が威容を誇っていました。

もう一つは、田ステ女(でんすてじょ)さんです。
 
   雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡

これは、彼女が6歳の時に詠んだ句だそうです。織田家の家臣、田家に生まれ、江戸時代の、宝永から元禄時代にかけて、柏原で生活しながら、優れた句を残した女性です。

柏原歴史民俗資料館の前に、彼女の子ども時代の像が建てられています。また、資料館には、彼女の足跡を展示したコーナーもあります。
当時、次のように詠われて、その才能を絶賛されていたようです。
  
   柏原に 惜しや捨ておく 露の玉

町の中には、彼女が読んだ句を色紙に書いて、窓に貼り付けている民家もありました。

田ステ女さんも、小学校の建物も、現代の柏原を代表する大切な要素になっています。