トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

里見倉敷藤花敗れる!倉敷藤花戦公開対局

2013年11月24日 | 日記

倉敷川の両岸に並ぶ白壁の土蔵と柳並木で知られる倉敷美観地区。その一角に倉敷芸文館があります。

骨董市で賑わっていました。

芸文館の入り口にあった看板です。この日、11月23日は、倉敷市と倉敷市文化振興財団、地元の山陽新聞と日本将棋連盟の主催で、日本将棋連盟の女流公式タイトル戦である「倉敷籐花戦」の公開対局が行われることになっていました。

倉敷藤花戦の棋譜を掲載している山陽新聞の社旗とポスターです。

倉敷藤花は、日本将棋連盟会長もつとめた、倉敷出身の大山康晴十五世名人を記念して生まれた棋戦です。ロビーには大山十五世名人の揮毫や現役時代の写真、生前の功績を示す展示物が飾られていました。

現在のタイトル保持者は里見香奈倉敷藤花。昨年度防衛に成功して五年連続の倉敷藤花となり、”クイーン”の称号を、最短の5年で獲得しています(2012年11月24日の日記)。今回は甲斐智美女流王位が挑戦者です。女流王位のタイトルは、今年度、里見倉敷藤花を倒して獲得しました。「最強の挑戦者」だという声がささやかれていました。ロビーにあった「勝者当てクイズ」の投票箱に、私は「里見藤花」にマークをつけて入れました。平成20(2008)年、この会場で当時の清水市代倉敷藤花からタイトルを奪った、高校の制服姿の里見さんの姿を思い出しながら・・・。

会場に入りました。公開対局の準備は着々と進んでいました。

正面の向かって左のステージには「倉敷藤花」杯が飾ってありました。三番勝負の第一局は里見倉敷藤花が勝っています。この公開対局で勝てば、表彰式で里見倉敷藤花に手渡されることになっていました。

すでにたくさんの観戦者が開会を待っておられました。めざしていた前方の正面の席はすでに埋まっていました。前方の左側の席を取りました。

12時45分、開会式が始まりました。主催者側を代表してあいさつした伊東香織倉敷市長。倉敷市は、日本将棋連盟の公式タイトルを主催する、全国で唯一の自治体です。

甲斐女流王位です。中原誠十六世名人門下の30歳。マイナビ女子オープンの女王(2010年度)、女流王位(2010~2011年度)に続き、今年度の女流王位で4期目のタイトル獲得です。ロビーでささやかれていた「最強の挑戦者」という話は本当のことのようです。

受けて立つ里見倉敷藤花です。森けい二九段門下の21歳。タイトル獲得は通算14期で、歴代4位だそうです。日本将棋連盟の棋士養成機関である奨励会で男性に混じって修行を続けて、今年の7月、奨励会二段に昇段しています。女性で初の二段昇段ということで賞金を贈られたそうです。女流棋士のナンバーワンといっていい存在です。好勝負になりそうです。

日本将棋連盟の関係者の皆さんです。青野照市九段(専務理事)と解説者の有吉道夫九段(大山康晴十五世名人のお弟子さんで大山名人記念館名誉館長)、矢内理絵子女流棋士会長(立会人)、井道(いどう)千尋女流初段(聞き手)、富田誠也奨励会三段(記録係)です。

私は将棋は指しません。棋力も、他の観客とは比較になりません。スポーツの試合を観戦する雰囲気で、将棋を楽しんでいます。青野九段の理詰めで堅実な棋風にずっと関心を寄せていました。

対局は、すでに午前10時から始まっていました。観戦の人たちの前で棋譜が読み上げられ、駒が日本将棋連盟倉敷市役所支部の方の手で動かされていきます。現在の局面が現れました。

対局席に着いた両対局者も、棋譜読み上げの声にしたがって、現在の局面まで駒を動かします。周囲には報道写真のフラッシュが輝いています。あいさつをされた青野九段は「最強の挑戦者と倉敷籐花が棋風と違う激しい戦いを繰り広げています」とおっしゃっていましたが、激しい攻防がすでに始まっていました。

対局が再開されました。お互いに持ち時間を残していましたが、挑戦者が倉敷藤花の陣営に攻め込んでいました。対局終了後の感想戦の時の有吉九段のお話では、「先に動いたのは里見倉敷藤花でしたが、それに挑戦者が機敏に反応し、8五桂で金をつり上げて有利な局面を築いていました」ということでした。それが、再開されてから指されたこの局面でした。

対局が再開されてから、しばらく盤側に座っておられた立会人の矢内女流棋士会長は、対局の妨げにならないようにその後退席し「投了」まで出て来られませんでした。彼女は「NHK杯将棋トーナメント」で、司会をつとめています。

大盤の近くで読みに没頭する里見倉敷藤花。前屈みの姿勢が変わることはありませんでした。しかし、対局は挑戦者の甲斐女流王位が細い攻めを繋ぎ、それを里見倉敷藤花が受けるという戦いに終始し、「出雲のイナズマ」といわれる倉敷藤花の攻めを見ることはできませんでした。しかし、自分がその立場だったら、嫌気がさして差し続けられないだろうなと思われる局面の中、秒読みの声に追われながらも粘り強く最善手を探し続けていました。

倉敷藤花の懸命の防戦にもかかわらず、挑戦者の甲斐女流王位はじりじりと追い詰めました。122手目の6六銀をみて里見倉敷藤花が投了。勝負がつきました。里見倉敷藤花は敗れました! 倉敷藤花の逆転の鋭い寄せを見ようと期待していましたが、作戦負けを挽回することはできませんでした。

別室のアイシアターで解説をしていた有吉九段と、聞き手をつとめた井道女流初段がステージに入り、感想戦が始まりました。

有吉九段の「どこかポイントになる局面がありましたか」という問いかけに、里見倉敷藤花が答えたのは、やはり8五桂の局面でした。対局者も気になっていたのですね。

対局者の二人は、「明日に備えてお休みください」という声に促され、拍手の中を退席しました。対局者の生の声を聞く時間はあっけなく終わってしまいました。その後は抽選会でした。里見倉敷藤花に投票していたので、今年の抽選会はほとんど縁のない時間になってしまいました。

右が井道女流初段です。左の司会者とともに抽選を進めていました。ちなみに、甲斐女流王位に投票した方は109名、里見倉敷藤花に投票した方は367名だったそうです。「ここにおられる方だけを当選者とします」というルールでしたが、当選しても、すでに退場していて無効になった方も結構おられました。

抽選会の途中で、竜王戦が行われていた香川県から、谷川浩司日本将棋連盟会長が駆けつけて来られました。「途中で一瞬里見倉敷籐花の逆転のチャンスがありました」と言われていましたが、もちろん、私にはどの局面かさっぱりわかりませんでした。会長は、将棋盤と駒が当たる抽選を自ら行い、当選者に景品を渡しておられました。

今年の公開対局が終わりました。1年に1度の機会ですが、こうしてプロの真剣勝負が見られるのはうれしいことです。「自治体が棋戦を持っているのは、全国で倉敷だけ」といわれた青野専務理事のお話を思い出しながら、暗くなった道を自宅に向けて帰りました。








もう一つの金比羅街道、宇多津道を歩く

2013年11月18日 | 日記
JRの「駅から歩こう」の案内の中に「宇多津発こんぴら参詣道を歩く」という企画を見つけました。「金毘羅さん」には何回も行きましたが、金毘羅街道を歩いたことは一度もなかったので、一度歩いてみようと思いました。 

江戸時代の中期以降、海上交通の守り神である金毘羅大権現への金毘羅参りが盛んになりました。それに伴い、金毘羅大権現へ向かう街道も高松藩などによって整備されていきました。 特に、「五街道」といわれる、高松街道、丸亀街道、多度津街道、阿波街道、伊予・土佐街道は多くの参詣の人々で賑わいました。

参加者は意外に少なく、スタッフを含めて15名ぐらいでした。「宇多津発」と書かれていましたが、私は宇多津から丸亀に向かい、そこから金毘羅をめざすものと思い込んでいました。なぜなら、丸亀街道を通って金比羅に向かう参詣者が最も多く、メインルートという印象があったからでした。

受付でいただいた地図を見てびっくりしました。宇多津から金比羅に向かう道が書かれていたからです。お恥ずかしい話ですが、私はこんなルートがあったことをまったく知りませんでした。  現在の宇多津の町には、かつて広がっていた塩田跡にできた新しい町も加わっています。JRの路線も海寄りに変わり、宇多津駅も西の丸亀駅に比較的近いところに移っています。この日は、琴平までの16kmを歩くことになっていました。

9時10分、宇多津駅前にあるホテルサンルートの前を通って、駅前通りを南に進み、県道33号に出て、次は東に向かいました。 先ほど宇多津駅は西に移ったと書きましたが、県道33号とぶつかるすぐ右(西)はもう丸亀市です。県道33号に沿って東に進みます。

15分ぐらい進むと、道路の左側に道標がありました。「右 へんろ道 西 丸亀道」と刻まれた、文久3(1863)年の銘がありました。その脇を海側に入ります。

言い伝えでは、金刀比羅の大神が海上から大亀に乗ってやってきてこの地に上陸し、さらに内陸に向かい象頭山に鎮座しました。このとき、乗ってきた大亀は石になったそうです。それがこの神社にある石なのだそうです。この亀石から神石神社になったそうです。

さらに東に向かって進みます。県道33号に出る手前に蛭子(えべす)神社があります。境内に金毘羅常夜灯がありました。享和3(1803)年の銘が刻まれていました。

もとは、県道33号沿いのたばこ店付近にあったそうです。このあたりも、参詣の人々の上陸点だったそうです。

県道33号に戻り、さらに東に進みます。右側に宇多津町役場が見えてきました。宇多津は、江戸時代、高松藩の藩領でした。町役場があったところには、高松藩の米蔵が設けられていました。高松藩の3分の1の米が蓄えられていたそうです。当時は周囲に壕もつくられていたそうで、米以外にも、砂糖や綿、塩(「讃岐三白」といわれる)なども保管されていました。これらは、ここから直接大坂に送られていたそうです。また、金毘羅街道は米を運ぶ道でもありました。

見せていただいた写真には、町役場のとなりに明治8(1875)年に建立された鳥居が写っていました。次のブロックに並んである消防庁舎のあたりだと思います。また、鳥居の西側には道標(天保9=1838年建立)がありました。案内してくださった方のお話によれば、「先ほど訪ねた神石神社や蛭子神社付近に船で上陸した参詣の人たちは、南に向かう道を進み金比羅に向かっていた」そうです。このあたりが金毘羅街道の出発点でした。なお、鳥居は昭和44(1969)年、宇夫階(うぶすな)神社に、道標は中央児童公園に移されているそうです。

南に進み2ブロックほど進んだところで、案内の方から「この右(西)のあたりが、琴平参宮鉄道の「宇多津駅前」という停車場があったところです」と教えていただきました。

東の方を振り返りました。この通りが線路跡のようです。琴平参宮電鉄は、昭和3(1928)年、坂出駅前まで延伸しています。橋も当時の幅のように見えました。参宮電鉄は、戦後、程なくしてバス路線に転換しやがて廃止されました。

その先に、古い町並みが残っています。最近、このような伝統的な商家が次々になくなっているそうです。

さらに南に進みます。道路にぶつかって左折(東行)。その先の理髪店で右折(南行)してさらに進みます。

役場を出てから15分ぐらいで、民家が途絶えます。道は、その先で、二つに分岐します。かつて、道の両側に常夜灯がありました。このあたりは農村部との境にあたり、かつては木戸が設置されていたところです。常夜灯は、宇夫階神社の御旅所に移されています。分岐した左の道を進み、御旅所に入ります。

入り口に常夜灯がありました。向かって左側の灯籠には寛政6(1794)年、右の灯籠には寛政8(1796)年と刻まれていました。

少し、引き返して、道の分岐点を、今度は右に向かって、山際の道を進んで行きます。

左側に、坂出と宇多津の分水嶺である角山(つのやま)が見えます。右側の青ノ山は宇多津と丸亀の分水嶺。二つの山の間にある宇多津の町を南に進みます。やがて正面に「讃岐富士」の飯ノ山が見えてきます。海抜421.9m。日本百名山の一つ。以前、登ったことがあります(2012年5月14日の日記)。すぐに、丸亀市飯野町になります。

途中の鍋谷コミュニティ分館で休憩した後、さらに進むと、右側に「鍋谷の金毘羅灯籠」がありした。正面に「金毘羅大権現と刻まれており、文政2(1819)年の銘がありました。

その先で、右の金毘羅街道を進みます。

道路の右側の田んぼの中に、煉瓦作りの工場跡がありました。煉瓦づくりの煙突が少し壊れています。瓦の製造工場跡です。懐かしい光景です。

道路の右脇にあった常夜灯。漢方医宮本立本らが建てたそうです。かれは、寛政(1789~1801)年間、鍋谷に野田塾(偕学舎)が開設されたとき、野田塾の教育を「手伝っていた」そうです。

その先から、田んぼの中の畦道に入ります。

国道11号にぶつかり左の横断歩道を迂回して、その先のあぜ道に再度入ります。

さらに進むと飯野小学校の手前の池に周囲の道に出ました。この先に、かつて道標がありました。

この先の民家の左の道が金毘羅街道でした。案内の方のお話では、道標がこの先の飯野小学校の脇にあるので、「ここだけ旧金毘羅街道をショートカットして進みます」とのことでした。

光線の関係で見にくい写真になってしまいましたが、この道標が先ほどの池の土手にあったものです。読みづらいのですが、金毘羅街道の道を示しているそうです。

ここから、高松自動車道の高架下をくぐる道に向かって歩きます。

高松自動車道に沿って歩きます。後ろは飯ノ山。宇多津を出てからずっと見守ってくれています。

高速道路の高架の手前にあった、旧琴平急行電鉄「登山口駅」跡です。この鉄道は、昭和5(1930)年から昭和19(1944)年まで、坂出駅と琴平駅を結んでいました。戦争の激化に伴い営業停止になりました。昭和23(1948)年に琴平参宮電鉄に吸収合併され廃止されました。案内の標識以外は何も残っていませんでした。

道路の右側に、目の不自由な母と子がここまでやってきて息絶えたということにちなんでつくられたお地蔵様、「母子地蔵」がありました。

右側にあった板谷の常夜灯。「金毘羅大権現」と刻まれた、文政8(1825)年の建立の常夜灯でした。

その先の左側にあった、琴平急行電鉄「飯野駅」跡。「電車はこの駅で90度近くカーブしていた」と案内の方は言われていました。ここも鉄道の名残りは、案内板以外は何も残っていませんでした。

道路の先を右に土器川に向かって行く道が、かつての線路跡だったようです。記録によれば、次の駅は「川西駅」。土器川を渡った西側にあったようです。ここから約900m先にあったそうです。

右側にあった西光寺を過ぎた左側に、道標が残っていました。明治6(1873)年製。「左 たきのみや 右 こんぴら街道」と刻まれていました。この先で旧街道は土器川の土手からやってきた道に合流します。

この先からは、土器川の土手に出ました。そして。12時5分、土器川河川敷公園、水辺の楽校に着きました。ここで昼食です。 土器川は讃岐山脈の竜王山(標高1059.5m)に源流をもつ長さ 32.4kmの河川です。香川県唯一の一級河川ですが、全国で2番目に短い川だそうです。河床勾配の急なことで知られています。 下流域で良質な粘土が産出されるため、古くから土器がつくられていたことから、「土器川」と名づけられました。短い川ですが、何度も洪水で災害を起こした暴れ川です。

水辺の楽校を出てすぐ右側に、樋之口常夜灯と地神社が鎮座しています。大川神社(いっしょに歩いた方は「だいせん」と呼んでおられました)は、まんのう町の大川山の山頂(1042m)に鎮座する雨乞いの神様とのことです。ここは、その大川神社の遙拝所だそうです。

土器川沿いの道を進みます。中方橋を過ぎたあたりで左の土器川に向かって入ります。土器川の伏流水を集めたような川に沿って旧街道に入ります。案内の方のお話では、「その前の橋がつくられたため、道が遮られたようです」とのこと。この先、土器川の土手にあがった後、左側のビニールハウスの間を下ってい行きます。 自然農法、有機栽培の「よしむら農園」の農場に入ります。

よしむら農園の前の橋のたもとに道標がありました。「左 金毘羅道  右 大川道」と記されていました。立派な御影石で土台部分が改修されていました。 よしむら農園の方のお話をお聞きしてから農園の中を、さらに先に進んでいきます。

案内をしてくださっている方が「この先すごい道に入りますよ」と言われました。道はその先で竹藪の中に入りました。日差しが遮られた中を歩いて、再度土器川の土手に出て行きます。この前に、「昭和30年代に、対岸の町と組合立の中学校を設立していて、生徒は土器川の中を歩いて通っていました」という話しをされていました。

川幅が150m~350mあるといわれる、土器川。はるか先に見える対岸にセメント工場の建物が見えます。その右側に小さな地蔵堂がありました。

写真の中央部やや右に見えるのが地蔵堂です。かつて、金毘羅街道を進む旅人は、この地蔵堂を目ざして、歩いて川を渡っていったそうです。先ほどのお話では、昭和30年代の中学生もそうだったようですね。

私たちは、もちろん川渡りはしません。「川の水量の問題というより、歩けるようにするための草刈りが大変だ」そうです。その先の垂水橋を渡って対岸に着きました。

垂水橋の上から土器川の下流を撮影しました。山はもちろん、讃岐富士の飯ノ山です。渡った後、橋の西詰めから、下流に垂水地蔵の社が見えていました。この地蔵堂は茶堂跡といわれています。旅人がほっと一息つくことができた場所だったようです。ここから、土器川の上流に向かって西側の土手を上流に向かって進みます。しばらくは、ひたすら歩く、我慢の道が続きました。

途中に、また大川神社がありました。土器川下流には、多くの神社が祀られているそうです。雨の少ない香川県らしい神社です。

やがて、乙井大橋です。

乙井大橋の西詰めに、道標がありました。「右 うたづ 三り(里) 左 丸がめ 三り(里)」と掘られていました。「東高篠の道標」です。もとは交差点の反対側の信号の下にあったのが移転したそうです。

ここからは、琴平電鉄琴平線を渡って、旧高松街道を琴平に向かって歩くコースになります。

丸亀方面からの道路を左に進み、その先にある琴平電鉄の高架橋を登っていきます。

下は琴平電鉄琴平線の線路です。この先に、琴平の温泉街の建物が象頭山の麓に見えていました。

高架の中央部から階段を降ります。降りたところに「金毘羅大権現」の石碑がありました。

その先、車が停まっているところで、右に曲がります。

宇多津から来た宇多津道は、ここで高松からの金毘羅街道(高松道)に合流します。道路の右側に大きな常夜灯がありました。このあたりに、四条(しじょう)村の郷倉が設置されていました。

さらに進みます。その先に鳥居が見えました。扁額には「象頭山」と書かれているように金毘羅宮の鳥居です。鳥居の前にあった、左右の水路から先が榎内(えない)村。江戸時代、四条村は高松領でしたが、榎内村は天領、(幕府領)でした。

その先の右側にあった籏岡(はとか)神社。金毘羅参詣の旅人は、この神社で最後の休憩をとって、金比羅宮まで一気に登っていっていました。ここが高松街道の終点でした。この神社の先の交差点を左折して進んでいきます。

50mぐらいで再度右折。写真の左方向に向かって進みます。

ここ榎内は天領であったため、近辺の領主の支配を受けることがありませんでした。比較的自由に商いができたため、豪農や豪商が軒を並べていました。

今もかつての繁栄を偲ばせる商家が残っていました。

これはJR土讃線の手前の民家の脇にあった「呑象楼跡」の碑。ここは榎内領と琴平領の境にあたるところです。

「呑象」とは「西に窓を設けて、杯に象頭山の姿を浮かべて酒を飲む」という意味だそうです。江戸時代には西日を避けるため、民家は西側に窓を設けなかったようです。天領で飲んでいる時には、琴平の領主も文句は言えなかったのですね。今では西に窓をつくるのは当たり前になっていますが・・。

これはJR土讃線の手前にある水路です。ここが村境。水路の右側が榎内村、左側が琴平領の地域でした。

土讃線をわたると、整備された舗道を通って琴平の商店街に向かいます。

琴平の商店街に入りました。

商店街を抜けると一の橋を渡って金毘羅表参道に入ります。


朝の9時10分にJR宇多津駅を出発し、途中で40分程度の昼食休憩を挟んで、15時過ぎに金比羅宮の表参道に着きました。5時間以上にわたって歩き続けました。 史跡として残るのは、金比羅常夜灯と道標のみ。常夜灯と道標を訪ねて歩く旅になりました。楽しくなったのは、琴平電鉄の高架を越えてから。天領である榎内の商家の見事さに感心しながら、終点である金刀比羅宮の表参道を目指して歩きました。 五街道よりもさらに古くからあった宇多津道。割に単調な道でしたが、なかなかおもしろい道でした。