トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR上月駅と上月城跡

2022年01月10日 | 日記

JR姫新線の上月駅です。駅舎と佐用町特産物直売所が同じ建物に同居しています。 姫新線は、兵庫県姫路駅から北に向かい、県境を越えて、岡山県の北東部にある津山駅を経由して、岡山県北西部の新見駅を結ぶ、全長158.1kmの路線です。 上月駅は、兵庫県と岡山県の県境の兵庫県側に設けられている ”県境の駅” で、兵庫県佐用郡佐用町上月にあります。

この日は、上月駅を訪ねるため、津山駅に向かいました。
津山駅の2番ホームで出発を待っていた、佐用駅行きの姫新線の単行気動車(キハ120343)に乗車しました。 
姫新線の列車は、姫路駅・佐用駅間(一部、姫路駅・上月駅間の列車も)、佐用駅・津山駅間(一部、上月駅・津山駅間の列車も)、津山駅・新見駅間で、普通列車による区間運転が行われています。 

津山駅から東に向かって走るキハ120系の単行気動車は、最初の停車駅、東津山駅の先で、JR因美線と分岐して進むことになります。ここが、その分岐点付近で、姫新線の列車は、この先で右方向に進んで行きます。因美線の列車はまっすぐ進み、その先で左にカーブして、次の高野駅に向かって進んで行きます。

兵庫県との県境にある万能トンネルを抜けて、津山駅から50分ぐらいで、2面2線のホームをもつ上月駅に到着しました。列車は次の終点佐用駅に向かって出発して行きました。

到着した2番ホームの津山駅側の端に来ました。カーブミラーと遮断機のついた構内踏切の先に、”ホタルドーム上月体育館”が見えます。

構内踏切を渡り、向こう側の1番ホームに向かいます。
1番ホームの端に、「蛍の里、上月へようこそ」と書かれた木製の碑がありました。上月の町は、蛍の町のようです。

1番ホームを佐用駅方面に歩きます。1番ホームから見た2番ホームです。待合いスペースの上屋と、駅舎のある建物が見えます。
 姫新線は、大正12(1923)年に、津山駅から西に向かって建設され、美作追分駅までの区間が、作備線として開業したことに始まります。津山駅から東に向かっては、昭和3(1928)年に、東津山駅までが因美南線として開業したことに始まり、昭和9(1934)年11月に、美作江見駅までの区間が開業しています。

美作江見駅から佐用駅までの区間が開業したのは、昭和11(1936)年4月のことでした。このとき、美作土居駅とともに、上月駅が開業しています。上月駅を通る列車は、上り(佐用駅行き)下り(津山駅行き)ともに、ほとんどが駅舎側の2番ホームから出発して行きます。そんな事情もあるのでしょう、1番ホームは、駅名標が設置されているだけのシンプルなつくりになっています。

上月駅は、岡山県側の美作土居駅から6.7km、次の佐用駅へ5.0kmのところに設置されています。
1番ホームから見た改札口付近です。上月駅は、荷物の取り扱いが廃止になった昭和46(1971)年から無人駅になっています。なお、この駅から乗車された方は、 2019年には一日平均、37人だったそうです。
一番ホームの佐用駅側の端から見た駅の全景です。切り妻屋根と白壁がきれいです。 

下車した2番ホームに引き返し、佐用駅側にある駅舎への入り口まで来ました。透明な大きな窓の向こう側は待合室になっています。左側の通路から駅舎に入ります。
この日は、直売所が休業していましたので、人の動きもほとんどない静かな駅になっていました。

改札口に時刻表と運賃表が掲示されていました。
待合室に入りました。テーブルと長いすが置いてありました。この日は休業でしたが、特産物直売所では食事も売られておりここで食べることもできるそうです。テーブルが置かれていることで、くつろいだ雰囲気を感じることができます。 テーブルの上には「駅ノート」も置かれていました。
駅舎から駅前広場に出ました。併設されている特産物直売所です。

駅舎のある建物には「平成7年度 山村振興事業等農林漁業特別対策事業 上月町地域特産物直売所 総合交流事業促進施設」の掲示がありました。山村振興のために建てられた施設のようです。  駅舎部分もこの事業との関連で整備され、平成8(1996)年に、現在の姿に改築されています。

駅舎から出ました。駅舎の前を流れる大日山(おおびやま)川に架かる蛍橋です。「蛍の里、上月」にまつわる名前がつけられていました。正面に「佐用町役場上月支所」の庁舎が見えます。   上月は、かつては佐用郡上月町でしたが、平成17(2005)年10月1日に佐用郡の佐用町、南光町、三日月町と合併し、新しく佐用郡佐用町が誕生しました。それに伴い上月町役場の庁舎だった建物が上月支所になったようです。 

 蛍橋から見た大日山川です。 ホームから見えた上月体育館が右側に見えます。                                                                                               
駅の周りの広場の線路側にあった掲示板の一部を拡大したものです。上月歴史資料館と上月城跡が書かれています。上月城は、戦国時代、毛利元就に滅ぼされた尼子家の再興をめざしていた山中鹿介(鹿之介)が、尼子勝久を擁立して、毛利元就の子、吉川正春と小早川隆景と戦った ”上月城の戦い” で知られています。上月駅から比較的近くにあるようなので、訪ねてみることにしました。

掲示板のある駅前広場から、タクシー会社のビルの前の通りを姫新線の線路に沿って佐用駅方面に向かって歩きます。 

その先、姫新線の上月踏切で右折して、上郡町から赤穂市に向かう国道373号に合流し、南に向かって歩きます。

戦国時代、中国地方では毛利氏と尼子氏が勢力を競っていましたが、永禄9(1566)年に、毛利元就(もとなり)の侵攻を受けた尼子義久は敗北し、尼子家は滅亡しました。 

上月親子地蔵尊のお堂を左側に見ながら進みます。
尼子家の家臣だった山中鹿介(しかのすけ)は、呼びかけに応じた旧家臣たちと共に、一族の尼子勝久を擁立し、織田信長を頼って尼子家の再興をめざしていました。 天正5(1577)年、織田信長が羽柴秀吉に上月城の攻撃を命じ、秀吉は尼子勝久軍とともに、1万5千人の軍勢で上月城を包囲しました。上月城は赤松政範軍7千人と、救援に駆けつけた宇喜多直家軍3千人が守っていましたが、12月に落城し、赤松政範は自害しました。その後、秀吉の命により、尼子勝久、山中鹿介が上月城を守ることになり、上月城は尼子氏の拠点となりました。

通りの右側にあった「上月城跡」と書かれた標識にしたがって、右折して進みます。 上月城に入った尼子勝久は、一時、宇喜多直家に攻撃され撤退しましたが、後に、秀吉軍によって上月城は落城させられました。そして、上月城には、再び、尼子勝久・山中鹿介が入城することになりました。
天正6(1578)年4月、毛利軍の吉川元春・小早川隆景が3万人の軍勢を率いて上月城を包囲します。秀吉は1万人の援軍を上月城に送り応戦しましたが、膠着状態となりました。秀吉は信長に援軍を要請しましたが、信長から三木城を包囲するよう命じられ、三木城へ向かったそうです。三木城主の別所長治が毛利側に寝返ったためでした。こうして、援軍を得られないまま、7月、上月城は毛利軍の総攻撃を受け落城しました。尼子勝久は城内の家臣たちを助けることを条件に、城を明け渡し自害したといわれています。このとき、山中鹿介は人質となり、毛利輝元が居城していた備中松山城へ連行される途中、備中国の合(阿井)の渡し(岡山県高梁市)で、毛利家の家臣に謀殺されたと伝えられています。

通りの左側の民家の左奥に「上月城跡」のある山(荒神山)が見えました。この山の麓にあった「説明」には、次のように書かれていました。
「上月城は、鎌倉時代の末期(1300年代)に、上月次郎景盛(宇野播磨守入道・山田則景の子)が、太平山(樫山)に初めて築いた城と伝えられている。上月氏は、景盛の後、盛忠・義景・景満と続くが、そのいずれかのとき、本城を、谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが、現在の上月城跡で、中世の山城の様態をよく表している」。

上月城跡や上月歴史資料館に向かう通りの正面にあったお宅です。山の麓にあった「説明」には、「旧大庄屋」と書かれていました。大庄屋らしい風格のあるお宅でした。ここで左にカーブして進みます。

その先、通りの右側にあった上月歴史資料館です。戦国時代、織田軍と毛利軍の激戦地となった上月の歴史資料と、古くからこの地で作られていた和紙の「皆田紙」の製作工程や紙漉き道具が展示されているそうです。
残念ながら、この日は閉館日でした。
通りの左側、上月城への登山口の手前にあった「説明板」です。毛利氏と羽柴秀吉をめぐる動きなどの詳しい説明がなされていました。

真ん中の掲示板の案内図です。
「説明板」の先に上月城跡への登山口がありました。左側に「城跡へ380m」の標識が立っています。 右側の道は、織田信長軍と毛利軍の戦いにかかわった戦没者への慰霊碑や追悼碑に向かう道です。

地元の方がお祀りした慰霊碑や追悼碑です。中央の碑には「尼子勝久公400年遠忌追悼碑」、右の碑には「山中鹿之介追頌之碑」、左の碑には「上月城戦没者合同慰霊碑」と書かれていました。

JR姫新線の ”県境の駅” 上月駅を訪ねてきました。
特産物直売所と同居するユニークな駅の姿と、上月城にまつわる歴史に触れる旅になりました。 






JR西麻植駅と江川の湧水

2022年01月05日 | 日記
JR徳島線の西麻植(にしおえ)駅です。徳島県吉野川市鴨島町西麻植にあります。この日は、まだ下車したことのない西麻植駅を訪ねるため、徳島線の東側の起点駅、JR佐古(さこ)駅に向かいました。

徳島線は、徳島県内を東西に走る全長67.5kmの鉄道路線で、佐古駅でJR高徳線と、西の起点である佃(つくだ)駅でJR土讃線とつながっています。
実際の徳島線の運行は、佐古駅の一つ先の徳島駅と、佃駅の一つ先の阿波池田駅が起点になっています。また、阿波池田行きの列車のほか、途中駅の穴吹駅行きや阿波川島駅行きの区間運転の列車も運行されています。
佐古駅の1番ホームに徳島線の列車が到着しました。始発駅のJR徳島駅からやってきた、JR穴吹駅行きの区間運転の列車です。1500形の車両と1200形の車両の2両編成でした。
佐古駅のホームの端からの西麻植駅側の光景です。左側が徳島線の阿波池田方面に向かう線路、右側が高徳線の高松方面に向かう線路です。佐古駅では、徳島線の列車は上り(徳島駅行き)、下り(阿波池田方面行き)ともに、左側の1番ホームを使用しています。 佐古駅を出た徳島線の列車は、写真の左側の線路を通り、”四国三郎”の名のある一級河川”吉野川”の南側を、終点の阿波池田駅方面に向かって進んで行きます。
佐古駅から30分程度で、1面1線の西麻植駅のホームに到着しました。駅舎が左前方に見えました。 徳島線は、明治32(1899)年2月16日に、徳島鉄道によって、徳島駅~鴨島駅間が開業したことに始まります。西麻植駅が開業したのは、その年の10月5日のことでした。その後も延伸を続け、大正3(1914)年には、川田駅から阿波池田駅間までが開業し、現在の徳島線の区間の全線が開業しました。しかし、このとき、現在の西の起点である佃駅は、まだ誕生していませんでした。
列車は、すぐに次のJR阿波川島駅に向かって出発して行きました。2両目の1200形車両の運転席部分が見えます。
さて、佃駅ですが、昭和4(1929)年、佃信号場として、現在の地に開設されました。駅に昇格したのは、昭和25(1950)年。 土讃線の列車だけが停車する土讃線の駅としての開業でした。現在のように徳島線の列車も停車するようになったのは、昭和37(1962)年のことでした。当時は徳島本線と呼ばれていましたが、このとき、徳島本線の終点が佃駅に変更されました。
  
この間、徳島鉄道として誕生した徳島線は、明治40(1907)年に国有化され、大正2(1912)年には「徳島本線」と改称されました。 そして、国鉄分割民営化後の昭和63(1988)年に「徳島線」と改称され、平成12(2000)年からは「よしの川ブルーライン」の愛称が使われるようになりました。 西麻植駅までの徳島線は、開業からすでに120年以上が経過しています。

ホームから見た佐古駅方面です。静かな田園地帯でひときわ目立つ白い建物は、吉野川医療センターです。

列車が出発した後のホームのようすです。ホームとの境界の柵には、枕木が使用されています。JR四国の駅ではよく見かける光景です。

駅舎の手前、枕木の柵の前に立つ駅名標です。西麻植駅は佐古駅側の一つ前の鴨島駅から1.9km、次の阿波川島駅まで1.9kmのところにあり、鴨島駅と阿波川島駅の中間地点に設けられているようです。
駅舎前に来ました。駅舎から延びたホームの上屋が印象的です。
ホームの上屋の柱にはレール材が使用されていました。
駅舎前からさらに阿波池田駅方面に向かいます。ホームの先に、西麻植第2踏切がありました。徳島駅から 、「20k917m」のところにあります。
西麻植第2踏切から引き返します。駅舎との間に公園風に整備された広場がありました。「人間として生きるには、人を人として大切に」と書かれた、西麻植地区人権教育推進協議会の方がつくられた看板が設置されています。
駅舎まで引き返して来ました。無人駅の駅舎内に入ります。西麻植駅は、荷物の取り扱いが廃止された、昭和47(1972)年から無人駅になっています

ホーム側からの入り口から見た右側の駅事務所前のようすです。設置されているベンチには「徳島すぎ 徳島県木材協同組合連合会」の刻印がありました。
左側です。大きな窓の下に、ベンチが並んでいました。
ホーム側です。出入口の脇に時刻表がありました。
駅舎から出ました。出入口の上に駅名標が、入り口の右側に自動販売機が設置されています。
駅舎に向かって左側、公園風の広場に接して鳥料理のお店がありました。この日は休業されていたようでした。 駅前におられた地元の方に西麻植の見どころをお尋ねしますと、「『江川の湧水』に行ったら・・。案内板があるから迷わずに行けるよ」とのこと。 そして、お尋ねしたすべての方が、「吉野川医療センターの所には、以前、遊園地があったんだよ」と付け加えてくださいました。
「江川の湧水」を訪ねることにしました。地元の方に教えていただいたように、駅舎の前の道路を左に進み、右折して進みます。写真は右折したところから駅舎を撮影したものです。この道を後ろ方向に進みます。
右折して進むと住宅地に入ります。すぐ左側に、「700m   名水百選 冬温かく夏冷たい水が湧いている 江川湧水源」と書かれた案内板がありました。江川の湧水は、夏は摂氏10度の冷たい水が湧き、冬は摂氏20度の温かい水が湧く、水温の異常現象で知られています。昭和29(1954)年に、徳島県の天然記念物に指定されていましたが、それに加えて、昭和60(1985)年には、当時の環境庁(現・環境省)から「全国名水百選」に選定されています。
案内板の脇を左折して進みます。
やがて、左側の線路との間にある枕木の柵の向こう側に、吉野川医療センターの建物が見えるようになりました。地元の方がおっしゃっていた「吉野川遊園地」は吉野川医療センターの場所にありました。戦前は「江川遊園地」と呼ばれ、江川湧水からの水を取り込んだ美しい景観を楽しむ施設だったそうです。

その先の江川第3踏切を吉野川医療センターに向かって渡ります。渡りきったところに、「300m 江川湧水源」の案内がありました。そこを、左に向かって進みます。 太平洋戦争中に荒廃した「江川遊園地」は、戦後の昭和23(1948)年に復興しました。その後、昭和44(1969)年の四国博覧会のときに、「吉野川遊園地」となりました。四国最大の観覧車(ピッグドリーム)やジェットコースター、ゴーカート、おとぎ列車、メリーゴーラウンドなどの施設・設備や、「ちびっこ急流滑り」やフィッシングパーク(釣り堀)も整備されていたということです。
多くの人を楽しませていた吉野川遊園地でしたが、平成23(2011)年8月31日に、閉園となってしまいました。
吉野川医療センターの前で、左折して進みます。その先で、変形の交差点(四叉路)がありました。正面に「100m 江川湧水源」の案内がありました。めざす「江川の湧水」はもうすぐです。右折して進みます。
その先に、吉野川の堤防が見えました。右側のフェンスの先を、右に向かいます。

「全国名水百選」に選定されている江川湧水源の「説明」です。 江川湧水はどんな経緯で生まれたのか。 「説明」によれば、
(1)大正5(1916)年から大正7(1918)年にかけて、吉野川の分流だった江川の上流に堤防が造られ、江川は吉野川の本流と切り離されることになり、結果として吉野川の右岸の湧水になったという説
(2)水温の異常現象は、昭和30(1955)年の地下水の調査によって、江川の水は隣の川島町の城山付近で、吉野川と分離して地下水となり、夏、温かく、冬、冷たい水が、地下の砂利層を暖めたり冷やしたりしながら、半年かかって江川の湧水源付近に到達することによるものとする説
二つの説が紹介されていました。 しかし、「説明」の最後には、「いまでも定説はありません」と結んでありました。

鳥居状の構造物の下をくぐってから、左側に進みます。
少し高い所から見えた「江川の湧水」です。

江川湧水源からの湧き水は、江川となって、吉野川医療センターの前を東に向かって流れます。

その後、江川は、吉野川市(旧鴨島町)の鴨島公園や名西郡石井町を過ぎた辺りで、吉野川に合流することになります。

JR徳島線の西麻植駅と周辺の見どころを訪ねてきました。
かつては、吉野川遊園地で多くの人々に親しまれ、現在は、夏冷たく、冬温かい不思議な水が湧くことで「全国名水百選」に選定された「江川の湧き水」でも知られる魅力的な町でした。