トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

倉敷美観地区を歩く  その1

2012年01月28日 | 日記
白壁の土蔵が並ぶ、倉敷美観地区。
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところです。

私にとっては、余りにも身近な地区なので、
1つ1つの建物をしっかり見ながら歩いたことは、
これまでありませんでした。

昭和3(1928)年、倉敷市が市になった記念に発行された「倉敷市新地図」です。
倉敷美観地区を再発見しようと思い、
「絵図で歩く くらしきのまち」(吉備人出版)を手に、
(絵図は、この本の付録です)
倉敷川に沿って、ゆっくり歩いてみました。

倉敷駅前から南東に下る中央通りを進み、
スクランブル交差点を左に折れて美観地区に入ります。
 
入るとすぐ左側にあるのが「倉敷物語館」です。
倉敷市の観光・文化交流の拠点として使われていますが、
かつての東大橋家(屋号「東中島屋」)の住宅を、
倉敷市が整備したところです。

東大橋家は、江戸時代の後期から経済力を高めてきた
「新禄派」の商人で、中央大通りをはさんで西側にある、
大橋家(屋号「中島屋」)の一族です。
地主・金融業を営み、倉敷鶴新田の開発にもかかわったそうです。

江戸時代の初めから大きな経済力をもち、
倉敷村の運営を担ってきた「古禄派」の商人が、
18世紀後半には没落していきます。
かれらは多くの借地借家を持ち、問屋や醸造業で財をなした、
人たちでした。

新禄派は、それにかわって財力をつけてきた新興の商人で、
村の運営をめぐって、古禄派と対立するようになります。
文政7(1824)年、新禄派は江戸幕府に訴え、
同10(1827)年に勝利します。その結果、
村民の選挙によって村役人が選任されるようになり、
新禄派の商人が運営の中心になっていきました。
東大橋家は文政11(1828)年に倉敷村年寄、
文久元(1861)年に倉敷村庄屋に就任し、村運営にも力を発揮しました。

その並びにあるのがレストラン亀遊亭です。

建物の前にある「倉敷教会旧会堂・竹中幼稚園開園の地」の碑。
明治44(1911)年、倉敷でのキリスト教の広がりに伴い、
仮会堂が建てられたところです。
江戸時代から明治まで「大黒」が祀られていた惣堂宮があったところで、
明治43(1910)年、阿智神社に合祀された後、
大正11(1922)年、附属幼稚園がここに開園しました。

仮会堂が手狭になって、大正12(1923)年旭町に移転しました。
「倉敷新地図」(昭和3年)には、「裁縫堂」と書かれていましたが、
診療所、戦後は料亭「かき増」を経て、亀遊亭になりました。

倉敷川に浮かぶ白鳥の姿が見えると、
その先に旧大原家住宅(国指定重要文化財)
そして、倉敷川にかかる今橋が見えてきます。

倉敷を代表する新禄派の大商人、明治時代になってからは、
地場の資本で設立した倉敷紡績の経営や
倉敷市のシンボルである大原美術館の設立など、
まちづくりにも大きな貢献をした大原家の住宅です。

本瓦葺き、倉敷窓、親付切子格子(倉敷格子)という、
倉敷独特の意匠を備えています。
蔵は腰に瓦を張り、目地を白漆喰で仕上げる「なまこ壁」となっています。

旧大原家住宅の敷地は、「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、
妹尾屋十之兵衛、俵屋又三郎、今蔵屋長左衛門などの屋敷が、
あったところでした。
大原家は、元禄年間(1688~1703)、
備前の国児島郡片岡村から倉敷市に移住しました(屋号「児島屋」)。
もとは原野姓でしたが、原姓に改め、
幕末に名字帯刀を許されたとき、大原と改名したと言われます。
3代目の与兵衛金基は、綿繰仲買を営んでいました。

寛永7(1795)年に住宅建築に着工し、
翌年完成したのが、写真の主屋です。

この写真は、旧大原家住宅の脇道から見た大原美術館です。

大原家は、5代目の与兵衛のとき、
倉敷村有数の豪農・豪商に成長しました。
万延元(1860)年には倉敷村年寄になり、
文久元(1861)年には庄屋に就任したそうです。
その後、壮平と改名しました。
明治になって大地主として大きな経済力を蓄え、
大原家の中興の祖と称えられているそうです。

美観地区を代表する大原美術館。
石造りに見えますが、実は鉄筋コンクリート2階建てだそうです。
洋画家児島虎次郎が収集した西洋絵画を展示するため、
大原孫三郎が建設した日本初の西洋美術館です。
設計は薬師寺主計(かずえ)。
昭和5(1930)年に公開されました。

大原孫三郎の父、大原孝四郎は、
もと、岡山藩の儒家藤田家の生まれで、藤田幸三郎と称していました。
後に、壮平の孫娘の婿養子となり、大原家を継ぎました。
明治21(1888)年倉敷紡績所を設立し初代頭取となり、
明治24(1891)年には倉敷銀行を設立しました。

大原孫三郎は、その3男として生まれました。

「富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り・・・放蕩の果てに
現在の金額で1億円のも借金をかかえ・・・
謹慎中に社会福祉家石井十次と知り合い、
社会福祉事業に興味を示すようになった」(「Wikipedia」より)

え!
最近、これに似た、富豪の跡継ぎの放蕩の話がありましたね。
しかし、かれは、その後がすごいのです!

大原孫三郎は、父が設立した倉敷紡績の社長のほか、
倉敷絹織(現クラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、
中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長も兼務しました。

一方で、石井十次との交流を通して、
先にあげた倉敷教会に通うようになり、
社会・文化事業にも熱心に取り組み始めました。
倉紡中央病院(現倉敷中央病院)、大原奨農会農業研究所(現岡山大学)、
倉敷労働科学研究所・大原社会問題研究所(現法政大学)
私立倉敷商業補修学校(県立倉敷商業高校)などを設立しました。

ちなみに、大原美術館の所蔵品を収集した児島虎次郎は、
大原孫三郎の媒酌で石井十次の娘と結婚したといわれています。

喫茶 エル・グレコ。
この建物は、大正15(1926)年に奨農土地株式会社の本社事務所として
つくられたもので、大原孫三郎の長男、大原総一郎が、
美術館の来訪者の休憩施設としてオープンさせたそうです。

やはり、蔦が生い茂った夏場の方がきれいですね。


旧大原家住宅と倉敷川に沿って並んでいるのが、
「緑御殿」の有隣荘です。
昭和3(1928)年、大原家別私邸として建築されました。
設計は大原美術館と同じ、薬師寺主計。
洋風建築と和風建築とをつないだ構成になっているそうです。

「緑御殿」といわれるもとになった緑の釉薬瓦(ゆうやくがわら)は、
泉州の谷川(たがわ)の窯で焼かれた特別製です。
六高(岡山大学)の松尾哲太郎教授が、
「有隣荘」と命名したそうです。
昭和22(1947)年昭和天皇が全国御幸されたとき、
宿泊所に指定されるなど、迎賓館としても使用されました。

倉敷川をまたいで、大原美術館と旧大原家住宅、有隣荘をつなぐ、今橋。

「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、「今橋」と書かれていて、
木の橋が描かれていますが、
「倉敷村本田小割絵図」(文久3=1863年)には
石橋になっているそうです。
この石橋を、大正15(1926)年に付け替えたのが、
現在の今橋なのだそうです。
皇太子だった昭和天皇が、倉敷を訪問された時のことでした。

橋の外観は花こう岩、内部は鉄筋コンクリート構造なのだそうです。
高欄には、児島虎次郎がデザインした竜の彫刻が残っています。

親柱の上には、菊の紋章が彫刻されています。

今橋の文字は、大原孫三郎の手になるもので、
彼の資金援助によって、豊かな装飾がなされたということです。

倉敷川沿いに多くの観光客を集める倉敷美観地区。
歩きながら、
新禄派の商人として富を蓄えた大原家の
まちづくりに対する大きな貢献を再確認することになりました。

もう一つのレトロな街、倉敷市一番街と川西町

2012年01月22日 | 日記
重要伝統的建造物群保存地区の美観地区で、全国に知られる岡山県倉敷市。倉敷川の水面に白壁の土蔵と柳並木が映る風情ある景色を求めて、多くの観光客が訪れます。

美観地区の玄関口、JR倉敷駅南口。駅舎に入っていたホテル倉敷が廃業して、駅舎のホテル部分は取り壊されることになっています。この駅の風景はやがて変わっていくことでしょう。

JR倉敷駅前に、北東から南西に向けて、岡山市から広島県福山方面に向かう国道429号線が延びています。また、美観地区に向かう中央大通りはこの国道429号線から南東に向かっています。

中央大通りの付け根から10mほど西に、国道から入る小さな路地のような街があります。倉敷一番街です。

全国に数多くある一番街のイメージと少し違っているかも知れません。路地の両側の商店の間は3mぐらい、いかにも狭いです。

多くの飲食店が並んでいます。

平日の昼前、美観地区が多くの観光客で賑わっている頃、一番街は、多くの店がまだ開店していませんでした。静かな通りです。

開店していたこのお酒屋さんには活気を感じました。飲食店街だから当然ですかね?!

一番街は、かつては、この通りにあった映画館の名前をとって、「千秋座(せんしゅうざ)通り」と呼ばれていました。映画館の廃業後は、大衆演劇の殿堂として、多くの中高年女性が訪れるところになっていました。

写真の右、建設中の家の手前が千秋座のあったところ、今は、駐車場になっています。右手は、料理旅館の建物、立派な和風建築です。この街は、地元の方が自転車で移動する生活道路のような雰囲気のある、喧噪とは無縁のレトロな商店街でした。

歩いて15分ぐらいで、一番街の出口に着きます。一番街を出ると、右から左に流れる倉敷用水にかかる橋を渡ることになります。その橋、川西橋のたもとに、石製の案内標識が立っていました。

標識には、昭和13(1938)年から昭和42(1967)年まで「平和町」となっていたことが記されています。

なお、昭和3(1928)年に倉敷市になったとき、記念に刊行された「倉敷新地図」には、一番街の通りには、「新阿知町」と書かれていました。ちなみに、「千秋座」も描かれていました。町の名や時代は変わっても、この町の雰囲気は変わらないようです。もう一つのレトロな町並みを訪ねるため、同じ道を引き返して、倉敷駅前まで戻ることにしました。

国道429号線を、福山方面に向かって南西に歩きます。約300mで、川西町交差点に着きます。交差点の下を、一番街の出口(川西橋)で出会った倉敷用水が、右から左に流れているところです。倉敷市北部の酒津から南部の新田地区へ流れる用水路です。

川西町は倉敷用水の南西にあり、町の名は江戸時代からあるそうです。用水の両側にある道に沿って下ります。用水沿いの右岸の町は、昭和3(1928)年の「倉敷新地図」では、「川西町北通」となっていました。

15分ぐらい歩いたところで、用水路の上に建てられた民家風の建物が見えました。かなり古い建物です。入り口のガラスに「川西町一丁目集会所」と書かれていました。

振り返るとすごい建物が・・。建て増しを繰り返したように見えます。1階部分を金属製の丸い金属パイプで支えて建てられているところもあります。壮観です。民家を見ながら、同じ道を引き返すことにしました。

国道429号線の手前の道を左に折れます。

川西町は、いわゆる「飲み屋街」として有名です。いまも飲食店、料理屋、旅館が集まっています。

旅館の建物が並ぶ中に、銭湯を見つけました。橘湯。ラジュウム温泉だそうです。看板の文字は木を貼り付けてつくられています。「営業は16時から」の張り紙がありました。今も現役のようです。創業が大正時代に遡る名銭湯です。

橘湯は旅館も併設していましたが、ドアは固く閉められていました。

飲み屋街の面目躍如、今も多くの酔客を集めています。

用水沿いの道の一つ西の通りに入ります。倉敷新地図では、「川西町本通」とあります。それには、このさらに西の通り(「旧川西町南通」)との間に、「遊郭」という文字が見えます。明治4(1871)年に宿場から遊郭に変わったのだそうです。昭和5(1930)年には、貸座敷が17軒あり、娼妓が113名おられたそうです。また、傘屋、洗濯屋、紺屋、菓子屋、提灯屋など職人さんが集まっていた職人町でもありました。

ここにも、懐かしい昭和の雰囲気を残す飲食店が残っています。

千本格子のついた民家も並んでいます。「御休処 旅館」と書かれていました。この通りも、川西町一丁目集会所の建物(中央の赤い屋根)に、つながっています。

一番街の出口、川西橋から、川西町を振り返りました。

右側の用水路沿いの道がかつての「川西町北通」、左の民家の間の道が「旧川西町本通」、右手の建物が川西町一丁目集会所です。

青い空の下、レトロな町が、のんびりとひなたぼっこをしているように見えました。

美観地区と違って、白壁の土蔵はありませんが、レトロな雰囲気がただよういい街でした。


町名にあこがれて、佐用町三日月を訪ねました  

2012年01月11日 | 日記
かつて、兵庫県西部に佐用郡三日月町がありました。でも、町が消えたわけではなく、町の名が消えたのです。平成17(2005)年、平成の大合併で「佐用郡佐用町三日月」になって、その魅力的な「三日月町」の名が消えてしいました。

小さな町ですが、江戸時代には、美作の国津山藩ともゆかりのある陣屋町だったのです。
「三日月」という地名は、一般的には、例えば「三日月湖」のような三日月形をした地形のところがあったことからつけられたと言われていますが、実際はどうなのか、地名の由来をお聞きしてみたいと考えていました。

青春18きっぷの期限切れを前にした日に、それを使って行ってみることにしました。

JR姫路駅の姫新線ホーム。キハ272-2とキハ127-1002のJR播磨新宮行きの2両編成のディーゼルカー(DC)でした。姫新線は、JR姫路駅と岡山県のJR新見駅を結ぶ鉄道です。直通列車はなく、JR姫路駅からJR播磨新宮駅間、JR播磨新宮駅からJR佐用駅(またはJR上月駅)間、JR佐用駅(またはJR上月駅)からJR津山駅間、JR津山駅からJR新見駅間の4区間で、区間運転をしています。

座席は右に2列、左に1列、ワンマン運転の列車でした。播磨新宮駅です。

1分で佐用駅行きのDC(キハ402019)に乗り継ぎ、JR姫路駅から、55分でJR三日月駅に着きました。現在の姫新線の三日月駅までが開通したのは、昭和9(1934)。姫路駅・余部(よべ)間が開通してから4年後のことでした。当時は、姫津(ひめつ)線と呼ばれていました。

ホームの前方に、三日月のマークが見えてきました。三日月小学校の上の、三方里山(さんぼりさん)の山裾でした。

地域交流センターを兼ねたJR三日月駅。ここにも三日月のマークがありました。

駅を出たら、正面に旧三日月町役場が目に入ってきます。ここにも、かつては三日月の町章が掲げられていたはずですが、今は佐用町の町章に代わっていました。今では、「三日月町」の痕跡はどこにも見られません。
陣屋跡に行ってみようと、山の方に向かって歩き始めました。途中で、おしゃべりをされていた女性に、陣屋への道をうかがったときに、「三日月」という名前がついた由来をお聞きしました。「わかりません。私たちが生まれたときからそうでしたから」ということでした。

ほんとにその通りですよね。江戸時代には、すでに三日月藩だったのですから・・・。

西北の山から、南の志文川(しぶみかわ)に向かって広がる扇状地状の地形の上に、陣屋町がつくられました。

平成15(2003)年には、物見矢倉(ものみやぐら)が、かつての場所に復元されました。これは、現存する、三日月陣屋の唯一の遺構だそうです。

三日月陣屋の創建の時には、建てられていなかったと言われていますが、寛政3(1791)年の古文書に「御物見」の記述があるので、1700年代後半の創建だろうと推測されているそうです。

矢倉は、文字通り、向かってくる敵に矢を射るという戦闘のために使用された建物ですが、ここの2階には床の間がつくられていて、藩を訪ねた人との対面に使用されるなど、平和な時代につくられたことを物語る建物になっていました。

この風景は、物見櫓の2階から見た三日月の陣屋町です。

下の写真は、東から撮影したもので、手前が通用御門(つうようごもん)、その左に中御門(なかごもん)、奥に物見櫓が、映っています。

織田信長に小姓として仕え、本能寺の変で18歳で討ち死にした森蘭丸(成利)。かれの弟、森忠政が、慶長8(1603)年、津山藩18万6500石を与えられました。その津山藩、3代目藩主、森長武の弟、森長俊は、岡山県勝田郡に津山新田藩(1万5000石)を与えられていました。元禄10(1697)年、津山藩4代藩主長成が死亡し、藩主の森家は改易となりました。森長俊は、ここ三日月の地に、同じ1万5000石を与えられ入封しました。
そして、かれは大庄屋井上家のあった乃井野(のいの)の地に、陣屋を建てたのでした。所在地から、「乃井野陣屋」とも言われていました。元禄13(1700)年には、ほぼ完成したそうです。

三日月藩、森家は、以後、明治維新まで9代、174年間、この地で藩主として君臨しました。
物見矢倉の管理をされていた方に、「三日月」の地名の由来をお聞きしましたが、ここでも、返ってきたお答えは、さっきの女性と同じでした。なかなか、わからないものですねえ。

陣屋跡から西の山裾には、白漆喰がはがれ、瓦が落ちそうな土塀の神社がありました。そろそろ補修が必要かなという感じはしましたが、格調高い神社の雰囲気です。鳥居をくぐって石段を上がっていくと、唐様の拝殿が残っていました。日岡八幡神社です。

社殿によれば、天喜元(1053)年、山城国に石清水八幡宮の別院として祀られたそうです。社人77人、神田11町4反を有する神社でしたが、寛永元(1624)年山焼きの火が移り全焼したそうです。当時の神主が、乃井野大庄屋井上十郎兵衛とともに尽力し、明暦2(1656)年、本殿を再建しました。

三日月藩初代藩主、森長俊はこの神社を尊崇し、拝殿、鳥居、石段、随神門を寄進したといわれています。「寛保2季(年)」と彫られた「力石」が拝殿の前に残っていました。

日岡八幡神社と陣屋跡の間の列祖神社には、三日月藩の藩校、廣業館の建物の一部が残っています。

三日月藩5代藩主、森 快温(はやあつ)の命で、寛政7(1795)年に設立されました。初代館長は、深沢君山(薫)で、文芸部、武芸部合わせて580名の生徒がいたと、「説明」に書かれていました。明治の廃藩置県でなって、この地に移転され廣業尋常小学校となりました。この建物には、「廣業校」の額が掛けられています。歩いているうちに、だんだん、この小さな陣屋町が好きになってきました。陣屋町の面影を伝えるところが他にないか、捜して見ました。

物見矢倉から南に下ったところにある大きなカーブ。

絵図の現在地を示す赤い丸印の下のカーブです。

中之町の石標のある道に残る武家屋敷の家並み。

老朽化したお宅もありましたが、絵図の大きなカーブを曲がって東に進み、2本目を右折した通りに残っていました。

三日月陣屋町は、江戸時代の町割りが現在までほとんど変わらないで、残っている希有な町で知られています。
短い滞在でしたので、「三日月」という魅力的な地名の由来は結局わからないままでしたが、復元された物見矢倉をもつ陣屋跡は、しっかり見ることができました。

山間の小さな町には不釣り合いなほど、すばらしい歴史をもつ町でした。
志文川を渡って、旧街道を旧三日月町役場(現佐用町役場三日月支所)まで歩き、ここから、JR三日月駅に向かいました。








一番街の初春

2012年01月07日 | 日記
久しぶりの出勤で、岡山駅の地下の改札口を出ました。

赤い毛氈が目に入ってきました。
ああ!   初春の飾りが見えました。

竹があるのなら、門松はどこに?

そこから少し奥にありました!
招き猫もおりました。

市内電車乗り場へ向かう通りの中央には、

お花がいっぱい並んでいました。

お店に近いところには、門松。

通路の角には、蘭と葉牡丹が・・。
出勤時間なので、お店はまだ開いていませんが、
花満開でした。

それなら、2階はどうなの? のぞいてみました。
中央改札口の中に、絵馬が飾ってありました。

乗客が、様々なメッセージを書いて吊すようになっていました。
「脱原発」に「快便!」に、
「Tくんと両思い」などの絵馬が見えました。

改札口から出たコンコースの端には、やはり門松。
お花もあでやかでいいけど、
門松も情緒があるよね!
わたしは、このように竹の切れ目が大きいのが好きなのです。

そういえば、1月2日、同窓会に出席するために歩いた一番街は、
人であふれていました。


駅がそうなら、表町はどうかな?
思いついて、表町を回ってみました。

「初売」の伝統的な垂れ幕。
さすが、岡山市内の老舗が集まる表町です。

旧栄町は、鳥居です。

そういえば、ここは、セールのとき、
よく、鳥居が飾られています。

倉敷市の旧チボリ公園の跡地には、
新しいショッピングセンターが開店していて、
岡山市民も倉敷に足が向いているとのことです。

現在の岡山市の商店街の状況を象徴しているように、
人通りが、今一つという印象でした。

金曜日の午後だったからかもしれませんが・・・。

日本一のケーブルカーが発着するケーブル坂本駅

2012年01月04日 | 日記

比叡山延暦寺の守護神、日吉神社の赤い鳥居の前から左に折れて歩くと、
やがて、比叡山高校の門前にでます。

「一隅を照らす」の看板が立っています。
暮れも押し迫った頃でしたが、
高校生が校門の坂道で、掃き掃除をしていました。
そういえば、日光東照宮の原形と言われる日吉東照宮の石段でも、
高校生が落ち葉を掃き集めていました。

滋賀院門跡に並んである宗務庁は、「一隅を照らす運動本部」でした。
宗派あげて取り組んでいる運動なのですね。
高校生も、「一隅」を立派に照らしていました。

その姿を右手に見ながら深い川沿いに登っていきます。

白い重厚なビルが、比叡山ケーブルのケーブル坂本駅です。

「比叡山鉄道、ケーブル坂本駅舎」、
文化庁の「登録有形文化財」に指定されています。

昭和2(1927)年開業のケーブルカー。
定員140名。

ケーブル坂本駅とケーブル延暦寺駅間、2,025m。
日本一の長さです。この間を、11分で結んでいます。
発車時刻は、駅の正面にも書かれているように、
毎時0分と30分でした。

標高差はすごいです。
ケーブル坂本駅は標高170m、ケーブル延暦寺駅は標高654m、
標高差、484m。
東京タワーをはるかに凌いでいます。
ちなみに、スカイツリーは、634mでしたね。

ケーブルについての説明はていねいです。
入り口脇のテレビでは、常時ケーブルカーの説明が流れていますし、
掲示板でも、こまめに情報を知ることができます。
現在の気温は、写真を撮影する直前に更新されました。
5度違うんですね。さすが、標高差484mです。

ケーブルカーの豆知識。
これは、映像でも説明されていましたが、
2つの駅間に、ケーブルを支える滑車が488個、
7カ所の橋梁と、2つのトンネルがあるそうです。

ちなみに、経営母体は京福電鉄。
今は京阪電鉄のもとにある叡山電鉄も、
確か、かつては京阪電鉄の子会社でしたよね。
嵐電に叡山電鉄、そして比叡山ケーブル、
いずれも、個性あふれる鉄道です。

ケーブルカーを管理、運営する人たちの
ケーブルカーに寄せる思いが伝わってくるような、
ほのぼのとした駅でした。