白壁の土蔵が並ぶ、倉敷美観地区。
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/98/349f115d5113f0ae869203297298f80e.jpg)
私にとっては、余りにも身近な地区なので、
1つ1つの建物をしっかり見ながら歩いたことは、
これまでありませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/bb/d1774698bd9b734c2827fde366bbe34d.jpg)
昭和3(1928)年、倉敷市が市になった記念に発行された「倉敷市新地図」です。
倉敷美観地区を再発見しようと思い、
「絵図で歩く くらしきのまち」(吉備人出版)を手に、
(絵図は、この本の付録です)
倉敷川に沿って、ゆっくり歩いてみました。
倉敷駅前から南東に下る中央通りを進み、
スクランブル交差点を左に折れて美観地区に入ります。
入るとすぐ左側にあるのが「倉敷物語館」です。
倉敷市の観光・文化交流の拠点として使われていますが、
かつての東大橋家(屋号「東中島屋」)の住宅を、
倉敷市が整備したところです。
東大橋家は、江戸時代の後期から経済力を高めてきた
「新禄派」の商人で、中央大通りをはさんで西側にある、
大橋家(屋号「中島屋」)の一族です。
地主・金融業を営み、倉敷鶴新田の開発にもかかわったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/06/6bab428e18e317478e1a95faddf112ad.jpg)
江戸時代の初めから大きな経済力をもち、
倉敷村の運営を担ってきた「古禄派」の商人が、
18世紀後半には没落していきます。
かれらは多くの借地借家を持ち、問屋や醸造業で財をなした、
人たちでした。
新禄派は、それにかわって財力をつけてきた新興の商人で、
村の運営をめぐって、古禄派と対立するようになります。
文政7(1824)年、新禄派は江戸幕府に訴え、
同10(1827)年に勝利します。その結果、
村民の選挙によって村役人が選任されるようになり、
新禄派の商人が運営の中心になっていきました。
東大橋家は文政11(1828)年に倉敷村年寄、
文久元(1861)年に倉敷村庄屋に就任し、村運営にも力を発揮しました。
その並びにあるのがレストラン亀遊亭です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/a2/04ec13f7dd1f21909b66d0ab280db3d4.jpg)
建物の前にある「倉敷教会旧会堂・竹中幼稚園開園の地」の碑。
明治44(1911)年、倉敷でのキリスト教の広がりに伴い、
仮会堂が建てられたところです。
江戸時代から明治まで「大黒」が祀られていた惣堂宮があったところで、
明治43(1910)年、阿智神社に合祀された後、
大正11(1922)年、附属幼稚園がここに開園しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/60/e5bbd176d009864eaf5bcb2438215a64.jpg)
仮会堂が手狭になって、大正12(1923)年旭町に移転しました。
「倉敷新地図」(昭和3年)には、「裁縫堂」と書かれていましたが、
診療所、戦後は料亭「かき増」を経て、亀遊亭になりました。
倉敷川に浮かぶ白鳥の姿が見えると、
その先に旧大原家住宅(国指定重要文化財)
そして、倉敷川にかかる今橋が見えてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/2d/eb2bc0c802e2a5404f739a6d4f0c7f8b.jpg)
倉敷を代表する新禄派の大商人、明治時代になってからは、
地場の資本で設立した倉敷紡績の経営や
倉敷市のシンボルである大原美術館の設立など、
まちづくりにも大きな貢献をした大原家の住宅です。
本瓦葺き、倉敷窓、親付切子格子(倉敷格子)という、
倉敷独特の意匠を備えています。
蔵は腰に瓦を張り、目地を白漆喰で仕上げる「なまこ壁」となっています。
旧大原家住宅の敷地は、「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、
妹尾屋十之兵衛、俵屋又三郎、今蔵屋長左衛門などの屋敷が、
あったところでした。
大原家は、元禄年間(1688~1703)、
備前の国児島郡片岡村から倉敷市に移住しました(屋号「児島屋」)。
もとは原野姓でしたが、原姓に改め、
幕末に名字帯刀を許されたとき、大原と改名したと言われます。
3代目の与兵衛金基は、綿繰仲買を営んでいました。
寛永7(1795)年に住宅建築に着工し、
翌年完成したのが、写真の主屋です。
この写真は、旧大原家住宅の脇道から見た大原美術館です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/55/3ab836199e364dadb06fb60716fc8e98.jpg)
大原家は、5代目の与兵衛のとき、
倉敷村有数の豪農・豪商に成長しました。
万延元(1860)年には倉敷村年寄になり、
文久元(1861)年には庄屋に就任したそうです。
その後、壮平と改名しました。
明治になって大地主として大きな経済力を蓄え、
大原家の中興の祖と称えられているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/d0/afd6f5701c379a4edf9de178f857576c.jpg)
美観地区を代表する大原美術館。
石造りに見えますが、実は鉄筋コンクリート2階建てだそうです。
洋画家児島虎次郎が収集した西洋絵画を展示するため、
大原孫三郎が建設した日本初の西洋美術館です。
設計は薬師寺主計(かずえ)。
昭和5(1930)年に公開されました。
大原孫三郎の父、大原孝四郎は、
もと、岡山藩の儒家藤田家の生まれで、藤田幸三郎と称していました。
後に、壮平の孫娘の婿養子となり、大原家を継ぎました。
明治21(1888)年倉敷紡績所を設立し初代頭取となり、
明治24(1891)年には倉敷銀行を設立しました。
大原孫三郎は、その3男として生まれました。
「富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り・・・放蕩の果てに
現在の金額で1億円のも借金をかかえ・・・
謹慎中に社会福祉家石井十次と知り合い、
社会福祉事業に興味を示すようになった」(「Wikipedia」より)
え!
最近、これに似た、富豪の跡継ぎの放蕩の話がありましたね。
しかし、かれは、その後がすごいのです!
大原孫三郎は、父が設立した倉敷紡績の社長のほか、
倉敷絹織(現クラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、
中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長も兼務しました。
一方で、石井十次との交流を通して、
先にあげた倉敷教会に通うようになり、
社会・文化事業にも熱心に取り組み始めました。
倉紡中央病院(現倉敷中央病院)、大原奨農会農業研究所(現岡山大学)、
倉敷労働科学研究所・大原社会問題研究所(現法政大学)
私立倉敷商業補修学校(県立倉敷商業高校)などを設立しました。
ちなみに、大原美術館の所蔵品を収集した児島虎次郎は、
大原孫三郎の媒酌で石井十次の娘と結婚したといわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/a1/c35f3e6f63342d40731e708ba6844d71.jpg)
喫茶 エル・グレコ。
この建物は、大正15(1926)年に奨農土地株式会社の本社事務所として
つくられたもので、大原孫三郎の長男、大原総一郎が、
美術館の来訪者の休憩施設としてオープンさせたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/c3/689da71d1ba83ff3521523f7999f76dc.jpg)
やはり、蔦が生い茂った夏場の方がきれいですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/02/7e98781922f12369d5edb048286e21fd.jpg)
旧大原家住宅と倉敷川に沿って並んでいるのが、
「緑御殿」の有隣荘です。
昭和3(1928)年、大原家別私邸として建築されました。
設計は大原美術館と同じ、薬師寺主計。
洋風建築と和風建築とをつないだ構成になっているそうです。
「緑御殿」といわれるもとになった緑の釉薬瓦(ゆうやくがわら)は、
泉州の谷川(たがわ)の窯で焼かれた特別製です。
六高(岡山大学)の松尾哲太郎教授が、
「有隣荘」と命名したそうです。
昭和22(1947)年昭和天皇が全国御幸されたとき、
宿泊所に指定されるなど、迎賓館としても使用されました。
倉敷川をまたいで、大原美術館と旧大原家住宅、有隣荘をつなぐ、今橋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/26/8242c2b3d2eeb5a4d9c937399fb04e22.jpg)
「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、「今橋」と書かれていて、
木の橋が描かれていますが、
「倉敷村本田小割絵図」(文久3=1863年)には
石橋になっているそうです。
この石橋を、大正15(1926)年に付け替えたのが、
現在の今橋なのだそうです。
皇太子だった昭和天皇が、倉敷を訪問された時のことでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/dc/86b2566ed983a0f974f7d181b97603dc.jpg)
橋の外観は花こう岩、内部は鉄筋コンクリート構造なのだそうです。
高欄には、児島虎次郎がデザインした竜の彫刻が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/c2/d8b52549aa49b93120e5f0fcad390f6c.jpg)
親柱の上には、菊の紋章が彫刻されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/e7/9a90e5107a25eda1877bd12598bcdb70.jpg)
今橋の文字は、大原孫三郎の手になるもので、
彼の資金援助によって、豊かな装飾がなされたということです。
倉敷川沿いに多くの観光客を集める倉敷美観地区。
歩きながら、
新禄派の商人として富を蓄えた大原家の
まちづくりに対する大きな貢献を再確認することになりました。
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/98/349f115d5113f0ae869203297298f80e.jpg)
私にとっては、余りにも身近な地区なので、
1つ1つの建物をしっかり見ながら歩いたことは、
これまでありませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/bb/d1774698bd9b734c2827fde366bbe34d.jpg)
昭和3(1928)年、倉敷市が市になった記念に発行された「倉敷市新地図」です。
倉敷美観地区を再発見しようと思い、
「絵図で歩く くらしきのまち」(吉備人出版)を手に、
(絵図は、この本の付録です)
倉敷川に沿って、ゆっくり歩いてみました。
倉敷駅前から南東に下る中央通りを進み、
スクランブル交差点を左に折れて美観地区に入ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/0d/758f7d94c14b469f6c7d542b9652d8b3.jpg)
入るとすぐ左側にあるのが「倉敷物語館」です。
倉敷市の観光・文化交流の拠点として使われていますが、
かつての東大橋家(屋号「東中島屋」)の住宅を、
倉敷市が整備したところです。
東大橋家は、江戸時代の後期から経済力を高めてきた
「新禄派」の商人で、中央大通りをはさんで西側にある、
大橋家(屋号「中島屋」)の一族です。
地主・金融業を営み、倉敷鶴新田の開発にもかかわったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/06/6bab428e18e317478e1a95faddf112ad.jpg)
江戸時代の初めから大きな経済力をもち、
倉敷村の運営を担ってきた「古禄派」の商人が、
18世紀後半には没落していきます。
かれらは多くの借地借家を持ち、問屋や醸造業で財をなした、
人たちでした。
新禄派は、それにかわって財力をつけてきた新興の商人で、
村の運営をめぐって、古禄派と対立するようになります。
文政7(1824)年、新禄派は江戸幕府に訴え、
同10(1827)年に勝利します。その結果、
村民の選挙によって村役人が選任されるようになり、
新禄派の商人が運営の中心になっていきました。
東大橋家は文政11(1828)年に倉敷村年寄、
文久元(1861)年に倉敷村庄屋に就任し、村運営にも力を発揮しました。
その並びにあるのがレストラン亀遊亭です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/a2/04ec13f7dd1f21909b66d0ab280db3d4.jpg)
建物の前にある「倉敷教会旧会堂・竹中幼稚園開園の地」の碑。
明治44(1911)年、倉敷でのキリスト教の広がりに伴い、
仮会堂が建てられたところです。
江戸時代から明治まで「大黒」が祀られていた惣堂宮があったところで、
明治43(1910)年、阿智神社に合祀された後、
大正11(1922)年、附属幼稚園がここに開園しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/60/e5bbd176d009864eaf5bcb2438215a64.jpg)
仮会堂が手狭になって、大正12(1923)年旭町に移転しました。
「倉敷新地図」(昭和3年)には、「裁縫堂」と書かれていましたが、
診療所、戦後は料亭「かき増」を経て、亀遊亭になりました。
倉敷川に浮かぶ白鳥の姿が見えると、
その先に旧大原家住宅(国指定重要文化財)
そして、倉敷川にかかる今橋が見えてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/2d/eb2bc0c802e2a5404f739a6d4f0c7f8b.jpg)
倉敷を代表する新禄派の大商人、明治時代になってからは、
地場の資本で設立した倉敷紡績の経営や
倉敷市のシンボルである大原美術館の設立など、
まちづくりにも大きな貢献をした大原家の住宅です。
本瓦葺き、倉敷窓、親付切子格子(倉敷格子)という、
倉敷独特の意匠を備えています。
蔵は腰に瓦を張り、目地を白漆喰で仕上げる「なまこ壁」となっています。
旧大原家住宅の敷地は、「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、
妹尾屋十之兵衛、俵屋又三郎、今蔵屋長左衛門などの屋敷が、
あったところでした。
大原家は、元禄年間(1688~1703)、
備前の国児島郡片岡村から倉敷市に移住しました(屋号「児島屋」)。
もとは原野姓でしたが、原姓に改め、
幕末に名字帯刀を許されたとき、大原と改名したと言われます。
3代目の与兵衛金基は、綿繰仲買を営んでいました。
寛永7(1795)年に住宅建築に着工し、
翌年完成したのが、写真の主屋です。
この写真は、旧大原家住宅の脇道から見た大原美術館です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/55/3ab836199e364dadb06fb60716fc8e98.jpg)
大原家は、5代目の与兵衛のとき、
倉敷村有数の豪農・豪商に成長しました。
万延元(1860)年には倉敷村年寄になり、
文久元(1861)年には庄屋に就任したそうです。
その後、壮平と改名しました。
明治になって大地主として大きな経済力を蓄え、
大原家の中興の祖と称えられているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/d0/afd6f5701c379a4edf9de178f857576c.jpg)
美観地区を代表する大原美術館。
石造りに見えますが、実は鉄筋コンクリート2階建てだそうです。
洋画家児島虎次郎が収集した西洋絵画を展示するため、
大原孫三郎が建設した日本初の西洋美術館です。
設計は薬師寺主計(かずえ)。
昭和5(1930)年に公開されました。
大原孫三郎の父、大原孝四郎は、
もと、岡山藩の儒家藤田家の生まれで、藤田幸三郎と称していました。
後に、壮平の孫娘の婿養子となり、大原家を継ぎました。
明治21(1888)年倉敷紡績所を設立し初代頭取となり、
明治24(1891)年には倉敷銀行を設立しました。
大原孫三郎は、その3男として生まれました。
「富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り・・・放蕩の果てに
現在の金額で1億円のも借金をかかえ・・・
謹慎中に社会福祉家石井十次と知り合い、
社会福祉事業に興味を示すようになった」(「Wikipedia」より)
え!
最近、これに似た、富豪の跡継ぎの放蕩の話がありましたね。
しかし、かれは、その後がすごいのです!
大原孫三郎は、父が設立した倉敷紡績の社長のほか、
倉敷絹織(現クラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、
中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長も兼務しました。
一方で、石井十次との交流を通して、
先にあげた倉敷教会に通うようになり、
社会・文化事業にも熱心に取り組み始めました。
倉紡中央病院(現倉敷中央病院)、大原奨農会農業研究所(現岡山大学)、
倉敷労働科学研究所・大原社会問題研究所(現法政大学)
私立倉敷商業補修学校(県立倉敷商業高校)などを設立しました。
ちなみに、大原美術館の所蔵品を収集した児島虎次郎は、
大原孫三郎の媒酌で石井十次の娘と結婚したといわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/a1/c35f3e6f63342d40731e708ba6844d71.jpg)
喫茶 エル・グレコ。
この建物は、大正15(1926)年に奨農土地株式会社の本社事務所として
つくられたもので、大原孫三郎の長男、大原総一郎が、
美術館の来訪者の休憩施設としてオープンさせたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/c3/689da71d1ba83ff3521523f7999f76dc.jpg)
やはり、蔦が生い茂った夏場の方がきれいですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/02/7e98781922f12369d5edb048286e21fd.jpg)
旧大原家住宅と倉敷川に沿って並んでいるのが、
「緑御殿」の有隣荘です。
昭和3(1928)年、大原家別私邸として建築されました。
設計は大原美術館と同じ、薬師寺主計。
洋風建築と和風建築とをつないだ構成になっているそうです。
「緑御殿」といわれるもとになった緑の釉薬瓦(ゆうやくがわら)は、
泉州の谷川(たがわ)の窯で焼かれた特別製です。
六高(岡山大学)の松尾哲太郎教授が、
「有隣荘」と命名したそうです。
昭和22(1947)年昭和天皇が全国御幸されたとき、
宿泊所に指定されるなど、迎賓館としても使用されました。
倉敷川をまたいで、大原美術館と旧大原家住宅、有隣荘をつなぐ、今橋。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/26/8242c2b3d2eeb5a4d9c937399fb04e22.jpg)
「屋敷割絵図」(宝永7=1710年)には、「今橋」と書かれていて、
木の橋が描かれていますが、
「倉敷村本田小割絵図」(文久3=1863年)には
石橋になっているそうです。
この石橋を、大正15(1926)年に付け替えたのが、
現在の今橋なのだそうです。
皇太子だった昭和天皇が、倉敷を訪問された時のことでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/dc/86b2566ed983a0f974f7d181b97603dc.jpg)
橋の外観は花こう岩、内部は鉄筋コンクリート構造なのだそうです。
高欄には、児島虎次郎がデザインした竜の彫刻が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/c2/d8b52549aa49b93120e5f0fcad390f6c.jpg)
親柱の上には、菊の紋章が彫刻されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/e7/9a90e5107a25eda1877bd12598bcdb70.jpg)
今橋の文字は、大原孫三郎の手になるもので、
彼の資金援助によって、豊かな装飾がなされたということです。
倉敷川沿いに多くの観光客を集める倉敷美観地区。
歩きながら、
新禄派の商人として富を蓄えた大原家の
まちづくりに対する大きな貢献を再確認することになりました。