トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR四国最高地点の駅、繁藤駅を訪ねる

2017年01月27日 | 日記

屋根や壁の三角形の装飾が美しいJR繁藤(しげとう)駅の駅舎です。高知県香美市土佐山田町にあります。海抜347.7mのところに設置されており、JR四国の最高地点の駅として知られています。

こちらも三角形の屋根が印象的なJR阿波池田駅の駅舎です。JR岡山駅を出発してから、瀬戸大橋を渡り、坂出駅、多度津駅、琴平駅で普通列車に乗り継いでここまでやってきました。高知駅方面に向かう普通列車は2時間後に出発します。高校野球で全国的な人気を誇った池田高校がある三好市池田町は、訪ねたことがありました(「阿波池田、うだつの町並み」2012年8月16日の日記)。

阿波池田駅1番ホームで出発を待つ高知駅行きの普通列車です。2時間待っていたので、やっと乗ることができてほっとしました。11時57分、出発しました。

乗車したJR四国のディーぜルカー(DC)の1000形、1025号車の内部です。ワンマン運転の単行DCでした。車内のプレートには「平成2年 新潟鉄工」と書かれていました。JR阿波池田駅からの土讃線は、名勝大歩危・小歩危の渓流に沿って進み、たくさんのトンネルを抜けて走ります。私がJR土讃線の列車に初めて乗ったのは小学生の時でした。乗車したのは、蒸気機関車(SL)に牽引された普通列車でした。SLの煙を防ぐため窓を閉め切っており、暑いのでかなり退屈していました。「トンネルの数でも数えたら」と同行していた叔母に言われて、「正」の時でトンネルの数を記録したことがありました。

JR繁藤駅は、JR角茂谷(かくもだに)駅から2.1kmのところにあります。阿波池田駅から1時間20分弱でJR繁藤駅に到着しました。運転士さんに、青春18きっぷを示して下車しました。繁藤駅の駅名標です。次の駅である新改(しんがい)駅は、スイッチバックの駅(「JR土讃線、もう一つのスイッチバック、新改駅」2012年8月7日の日記)として、土讃線では坪尻駅(「『秘境の駅』、JR坪尻駅に行ってきました!」2011年3月19日の日記)とともによく知られています。どちらも、牛山隆信氏が主宰されている「秘境駅ランキング」にランクインしている”秘境駅”でもあります。

「7分ほど停車します」と運転士さんが車内放送をされていました。1025号車は、しばしの休憩に入りました。

これは、JR繁藤駅の駅舎に掲示されていた「10分以上停車する列車の案内」です。この駅には、もっと長い時間停車する列車もあるようです。さて、JR土讃線は、讃岐鉄道として、明治22(1889)年に多度津駅と琴平駅間が開業したことに始まります。高知方面からは、大正13(1924)年に、高知線として、高知駅より西部の須崎(すさき)駅と日下(くさか)駅間が開通したのが始まりでした。その後、両側からの工事が進み、JR繁藤駅は、昭和5(1930)年に、「天坪(あまつぼ)駅」として開業しました。土佐山田駅・角茂谷駅間が開通したときのことでした。

繁藤駅付近は旧名の「天坪(雨の坪)」からもわかるように、雨が非常に多いところです。この日はそんなことを忘れるぐらい、晴れ渡ったいいお天気でした。ホームから見た高知駅方面のようすです。駅舎は前方の跨線橋を渡った右側にあります。山地にある駅ですが、広々とした印象を受けます。
 
こちらは、反対側の阿波池田方面のようすです。樹木が刈り取られた山が見えました。それを見て、昭和47(1972)年7月に起きた集中豪雨の影響で、繁藤駅前の山が地滑りで崩壊し、死者60名を出す大災害を起こした「繁藤災害」を思い出しました。このとき、繁藤駅に停車中だった高松駅行きの4両編成の普通列車も巻き込まれ、牽引していたDF5045号機と1両目の車両が駅前の穴内(あなない)川に埋没、2両目は残った基盤に宙づりとなりました。土讃線の復旧に23日を要した大災害でした。

繁藤駅は2面3線のホームになっています。左側に、土讃線と平行して走る国道32号線が見えました。

跨線橋の上り口です。山深いところですから、夜は暗いのでしょう、白い構造物の屋根の下側に蛍光灯が設置されていました。

跨線橋の下から見た高知駅方面です。跨線橋の降り口の先に繁藤駅舎がありました。

島式のホームから見た駅舎です。木製のベンチが見えます。

跨線橋の上から見たホームです。乗ってきた1025号車は、まだ、停車しています。

跨線橋を下りきると、駅舎です。白を基調にした清潔感あふれる駅舎です。

駅舎前のホームから見た跨線橋と島式ホームです。

こちらは、駅舎前のホームから見た高知駅方面です。手入れの行き届いた庭園がありました。

このとき、乗車してきた高知駅行きの普通列車が、次の新改駅に向かって出発していきました。うっかり対向(追い越し?)した列車を確認するのを忘れてしまいました。次のJR新改駅まで、6.3kmです。

「高知線の歌」(中山登喜男作詞 岡村浩補作 昭和7年7月制定)がホームに掲示されていました。歌詞には、繁藤駅の旧駅名になった「天坪村」の名が使われています。天坪村は、現在の土佐山田町から大豊町に広がっていた村で、昭和30(1955)年までこう呼ばれていました。駅名が「天坪」から「繁藤」に変わったのは、昭和38(1963)年のことでした。また、歌詞にもある「マンガン礦」を輸送していた石原満俺(マンガン)鉄道がここまで通じていました。マンガンは、鉄の強度を増す性質があり、鉄砲や砲弾等の製造には欠かせないものだったそうです。昭和10(1935)年前後には、月産2,360トンの世界記録を達成したといわれています。石原満俺鉄道は昭和7(1932)年に運行を始めました。

香美市の穴内(あなない)鉱山や南国市の黒滝鉱山でマンガン鉱の採掘が始まったのは、昭和3(1928)年。石原満俺鉄道は、それを、天坪駅(繁藤駅)まで輸送していました。昭和29(1954)年の穴内(あなない)ダムの建設工事が始まり、昭和38(1963)年の竣工までに撤去されてしまったといわれています。この写真は駅舎の前のホームから、高知方面を撮影したものです。石原満俺鉄道は、土讃線の線路の先の広い空き地の付近に軌道跡があったそうですが・・。

駅舎内にあった時刻表です。繁藤駅には、特急列車との行き違いや追い越しのために長く停車する列車がありますが、特急列車はもちろん停まりません。時刻表からもわかるように、阿波池田駅方面行きが1日7本、高知駅方面行きが1日8本の普通列車が運行されています。

待合室のような駅舎を出て国道32号に出ました。こちらは阿波池田方面です。訪ねたのは歳末だったからでしょうか、集落には、雨戸が閉まった状態のお宅が目につきました。晴れ渡った青空がまぶしい繁藤駅付近です。

こちらは、高知方面です。石原満俺鉄道は、繁藤駅付近では、土讃線の左側を土讃線に沿って走っていたそうです。

国道32号の歩道から見た土讃線です。駅構内から単線の土讃線になるところです。林の手前の建物はガソリンスタンドです。

ガソリンスタンド付近から見た土讃線の線路です。その向こう側に杉の木が聳えています。土讃線より少し高く、石原満俺鉄道の築堤かなとも思いましたが・・。

ガソリンスタンドの先にあった加茂神社です。境内に入ります。

加茂神社の本殿前からの土讃線です。ここで、穴内川を橋梁で渡るルートになっています。石原満俺鉄道も土讃線よりも左側で穴内川を渡っていたようです。

加茂神社の先には、カラフルな建物の香美市役所繁藤出張所がありました。このあたりが繁藤地区の中心地ということになるのでしょうね。

JR四国の最高地点の駅、JR繁藤駅を訪ねてきました。広々とした駅構内。高さよりも広さを感じる駅でした。「高知線の歌」にある「蕨(わらび)狩りゆく角茂谷、穴内(あなない)川の清らかに」流れる山里でした。「高知線の歌」は昭和7(1932)年に作られました。「高知線の歌」で「高知線」と呼ばれていた須崎駅・多度津駅間の鉄道が、土讃線と名前を変えたのは昭和10(1935)年のことでした。



JR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅

2017年01月14日 | 日記

JR山陰本線の餘部(あまるべ)駅の駅名標です。餘部駅は、牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の133位にランクインしている”秘境駅”です。兵庫県の北西部の鳥取県境に近い地域にあります。餘部駅の両隣の鎧駅(よろいえき・170位)と久谷駅(くたにえき・162位)も、秘境駅の200位以内にランクインしています。青春18きっぷの最後の機会となった日曜日、JR餘部駅を訪ねました。

姫路駅で少し寄り道してしてしまい、予定していた播但線の列車に乗り遅れたため、JR豊岡駅で、13時02分発の浜坂駅行きの山陰本線の普通列車に乗り継ぎました。3両編成の先頭車両は、キハ402007号車。「天空の城」「竹田城跡」のラッピング車両、観光列車”竹田城号”でした。この日は普通列車での運用でした。

キハ402007号車の内部です。播但線で運用する場合の竹田城跡側に、外に向かって3人掛けの座席が並んでいます。ほぼ満員の状態で出発しました。

JR餘部駅の手前で渡った”2代目の余部(あまるべ)橋梁”です。写真の方向が豊岡方面、橋を手前に渡った先がJR餘部駅です。”余部橋梁”といえば、どうしても思い出すことがあります。昭和61(1986)年12月28日(日曜日)の13時15分頃、余部鉄橋を渡っていた回送中の団体臨時列車”みやび”の転落事故のことです。日本海からの突風にあおられ、牽引していたディーゼル機関車と客車の台車の一部を残して7両の車両が転落しました。懸命の復旧工事により、事故から3日後の12月31日(水曜日)午後3時頃に復旧し開通させたそうです。

回送列車の車掌1名と橋梁下の食品加工工場の12名の従業員のうちの5名の方がお亡くなり、客車内におられた日本食堂のスタッフ1名と、加工工場の5名の方、計6名の方が重傷を負うという大事故でした。当時、橋梁から列車が転落したというありえない事故にショックを受けたことを思い出します。事故現場は50mに渡ってレールが曲がり、枕木もずたずたになっていたそうです。写真は、海側から見た”2代目余部橋梁”です。海側に”初代余部橋梁”の橋脚の一部が再現されています。

JR餘部駅には、13時59分に到着しました。当初の予定より1時間15分ほど遅くなってしまいましたが・・。外国人観光客も含めて、20名ほどの乗客が下車されました。さて、JR餘部駅は、兵庫県美方郡香美町香住区余部にあります。昭和34(1959)年、国鉄山陰本線の鎧(よろい)駅と久谷(くたに)駅間が延伸開業したときに開業しました。駅の設置を求める地元の人たちの熱心な要請活動によるものでした。地名から命名すると「余部駅」になるはずでしたが、駅名は「餘部駅」と表記されています。これは、同じJR山陰本線にある「JR余部(よべ)駅」との重複を回避するためだったといわれています。「JR余部駅」は、「JR餘部駅」に先立つ昭和5(1930)年に、開業していたからです。

浜坂行き普通列車は、すぐに出発していきました。この日は、餘部駅発14時34分の普通列車(乗車してきた普通列車の折り返し便)で、帰ることにしていました。25分の滞在時間しかありません。姫路駅で乗り継ぎに失敗したことを、また、後悔してしまいました。

急いで、JR餘部駅を見て歩くことにしました。浜坂駅寄りから見たホームです。1面1線の棒状駅で、山(南)側に線路が敷かれています。
これは、転落事故から24年後の平成22(2010)年、”2代目の余部橋梁”ができあがったときに、付け替えられたことによります。それ以前は、ホームの海(北)側に線路が敷かれていました。写真の線路の先に”2代目の余部橋梁”があります。ホームの左側の白い建物はトイレです。

トイレの向こうにあった待合室です。冬には強風が吹く餘部駅周辺ですが、これなら風を十分防ぐことができます。この日はおだやかな天候でしたので待合室に避難する必要はありませんでしたが・・。

待合室の内部です。正面に二つのベンチ、その間に、多くの”秘境駅”に置かれている”駅ノート”が積まれていました。ちなみに、この”秘境駅”の1日平均の乗車人員は、2013年には57人だったそうです。

待合室の先にあった「空の駅」の石碑です。ホームの海(北)側にかつての山陰本線の線路を再現し、展望台を整備しています。それが「空の駅」。現在の線路は、写真の線路のさらに右側に敷かれています。

ホームを豊岡方面に向かって進みます。駅名標がある付近に、かつての橋梁の鋼材でつくられたベンチが置いてありました。

ホームが途切れるところから「空の駅」に向かう道が分岐しています。「空の駅」に向かいます。

「ここより先は空の駅です」という案内にしたがって進みます。左側には山陰本線の旧線が残っています。

旧線の線路が途切れ、線路跡がコンクリートになると「空の駅」の入口です。「空の駅」は、橋梁と線路が付け替えられた平成22(2010)年から供用が開始されています。門を入って、さらに進んでいきます。

「空の駅」は、”初代余部橋梁”の上に整備されています。作り付けのベンチと、コンクリートの床の上に描かれた線路がありました。下部は橋脚4基と橋台2基で支えられています。現在は、秒速30mまで通行ができることになっているそうです。下には、余部の集落と湾入した海。おだやかな天候でしたので、冬の日本海とは思えないような青い海が見えました。

「空の駅」には、通路から下を覗くことができる設備もついていました。

「空の駅」の突き当たりから見た、橋梁の下のようすです。民家の屋根が見えました。

行き止まりになった「空の駅」の先。線路が途切れたところで、”初代余部橋梁”の橋脚も途切れています。

現在の山陰本線の豊岡方面です。”2代目の余部橋梁”はスマートな印象を残す橋梁です。エクストラドーズド形式のPC(プレストレスト・コンクリート製)の橋だそうです。

「空の駅」から旧線跡を歩いて待合室の手前に戻ります。

そこから、集落に降りていく道を歩きます。

橋梁の下をくぐって線路の山(南)側に進む途中の写真です。手前の赤い橋脚が”初代余部橋梁”のものです。”初代の余部橋梁”は明治45(1912)年3月1日に開通しました。鋼製のトレッスル橋で、全長310.59m、下を流れる長谷川の川床からレールの面までの高さは、41.45mあったそうです。また、橋脚は全部で11基、23連の橋桁がついていたそうです。上は「空の駅」になっています。以前の位置から山(南)側に7m程度寄ったところに、建てられているそうです。

線路の山(南)側に渡り、今度は坂道を上って行きます。こちら側は”2代目の余部橋梁”です。長さは309mで、標高43.9mのところに架かっているそうです。

新しい山陰本線は、ホームの右(山)側の付け替えられました。トンネルの手前で大きくS字にカーブして、トンネルの中に入っていきます。

”秘境駅ランキング”の133位にランクインしている餘部駅は、主宰する牛山氏の評価では、秘境度1ポイント(P)、雰囲気1P、列車到達難易度4P、外部到達難易度10P、鉄道資産指数2Pの合計、18Pを獲得しています。外部到達難易度のポイントが突出して高い評価にになっています。鉄道は普通列車しか停車しませんが、日中は1~2時間に1本程度列車が停車しています。餘部駅は列車で訪ねるには、比較的訪ねやすい”秘境駅”になっていました。

豊岡行きの列車が到着する時間が近づいて来ました。残念ながら、転落事故のとき加工工場があった地上面に降りていく時間がなくなりました。ホームに戻ります。すぐに、JR山陰本線、播但線、山陽本線を経由する6時間の普通列車の旅が、また始まります。



   

構造体だけになったトンネルがある町

2017年01月06日 | 日記

「みなでのらんけ」と呼びかけている阿佐海岸鉄道のASA301号車です。保有車両が2台という、第3セクター鉄道の阿佐海岸鉄道の車両です。1年ぐらい前に、高知県最東端の駅、阿佐海岸鉄道の甲浦(かんのうら)駅を訪ねた日(「所有車両は2両だけ、阿佐海岸鉄道に乗る」
2015年10月12日の日記)、途中のJR海部(かいふ)駅の手前で気になるものを見つけました。

これが、ずっと気になっていた、JR海部駅の手前にあった町内(まちうち)トンネルです。トンネルを覆っていたはずの山が無くなっており、わずかに樹木が生えているだけのトンネルです。青春18きっぷの季節でしたので、久しぶりに訪ねてみることにしました。

片道は特急列車を利用することにして、9時51分に徳島駅を出発する牟岐線の”むろと1号”で牟岐駅に向かいました。キハ185ー23号車(普通車自由席一部指定席)とキハ185ー20号車(普通車自由席)の2両編成でした。

JR牟岐駅で、普通列車に乗り継ぎます。到着したときにはJR海部駅行きの普通列車が待っていました。1232号車。ワンマン運転の単行気動車でした。

JR海部駅に到着しました。昭和48(1973)年の国鉄時代に、四国初の高架駅として開業した駅です。当時は終着駅だったそうです。向かって右側が乗車してきたJR車両の1232号車。しばらくすると、左側のホームには、阿佐海岸鉄道のASA301号車が到着して、次の甲浦駅行き列車になって出発を待っています。阿佐海岸鉄道の駅が開業したのは、平成4(1992)年のことでした。

JRの待合室です。運賃は電車の中で精算するようになっています。海部駅は、徳島県海部郡海陽町奥浦字一宇谷にあります。元の海部町でしたが、平成18(2006)年旧海南町と海部町、宍喰町が”平成の大合併”により合併し、海陽町が発足しました。

阿佐海岸鉄道のホームへは、高架上の構内踏切を渡っていくことになっています。

こちらは、阿佐海岸鉄道の駅名標です。ポップ体の字体です。海部川に生息するオオウナギとホタルのイラストが添えられています。早朝の列車は、JR牟岐駅と阿佐海岸鉄道の甲浦駅間を直通しているので、JR阿波海南駅も表示されています。

JR牟岐駅方面に町内トンネルが見えました。さっそく、行ってみることにしました。

JR側の待合室の裏にある階段を下ります。ホームは3階ぐらいの高さにあるようです。

駅舎です。1階の屋根のある建物は、かつて「海部町観光案内所」がありました。平成27(2015)年から交流施設「あまづの社(もり)」になっています。海陽町児童青少年を支援する会が運営されているそうです。この日は閉鎖されていました。

駅から、JR牟岐線と平行して走る国道55号に出ます。やってきたJR牟岐駅方面に向かって引き返します。空の青さがまぶしいぐらいの暖かい日射しの下を歩きます。

駅から歩いて10分ぐらいで、海部川に架かる海部大橋に着きました。「鞆浦の町並みと法華寺 1.1km」という案内もありました。古くから、海部川の上流地域は木材の山地として知られていました。切り出された木材は、筏に組んで、海部川を使って鞆浦港まで運ばれ、そこから兵庫の港(神戸港)に送られていたそうです。室町時代(「兵庫北関入船納帳」1445年)には、兵庫北関を通過する阿波産の木材の半数が、海部と隣町の宍喰(ししくい)からのものだったといわれています。それ以上に、私にとっては、幼い時から何回も訪ねた広島県福山市の「鞆の浦」と同じ名前のところがあることが驚きでした。福山市の鞆の浦は勇壮な「鯛網」で知られています。

海部川は、阿南地域では最も大きい川だといわれています。川口付近のようすです。案内にあった鞆浦は、写真の右側にありました。

めざす町内トンネルはすでに越えて来ていましたので、国道55号を少し引き返して、JR牟岐線の高架をくぐる道との分岐点まで戻ります。

トンネルの上を覆っているブッシュの下に、JR牟岐駅側からのトンネルの入口が見えました。やや見えずらいのですが・・。尖塔をもつマンションがトンネルと同じレベルで建っています。

高架をくぐってすぐ左折して、牟岐線に沿って伸びる坂道を上っていきます。上り切って、マンションのそばにいけば、トンネルのJR海部駅側の入口が見えると思っていたのですが・・。簡単ではありませんでした。目の前のブッシュをかき分けて進むことになりました。

ブッシュの隙間から撮影した、町内トンネルの海部駅側からの入口です。「町内トンネル 全長44m 徳島起点79K139m71」と白いプレートには書かれていました。ここ以上に間近で、町内トンネルを見ることができるところはないと思いました。

JR海部駅の近くにあった観光案内図です。海部大橋の案内看板にあった「鞆浦」は、駅からまっすぐ海の方に向かった先にありました。「鞆浦海岸」「鞆浦港」「鞆浦漁港」の地名が並んでいます。

「鞆浦」という地名に惹かれて、「鞆浦」に行ってみたくなりました。国道55号を引き返して、JR海部駅の前の交差点まで戻り、左折します。

小さな川に沿った道を進みます。左側に町並みがあります。正面の白いビルの先で左に折れます。

車が一台やっと通れるぐらいの通りの両側に、町並みが広がっています。民家の住所には「海部郡海陽町奥浦字町内」と書かれていました。あの構造物だけのトンネル、町内トンネルは字名である「町内」から命名されたのではないでしょうか?

町内地区からもと来た道に戻り、さらに南に進みます。突き当たりの民家のそばに道標が健っていました。

これがその道標です。「愛宕山」と書かれた右に向かって進んでいくと、「鞆浦」の懐かしい町並みがある地区になります。

鞆浦港です。青い海と空、白い船がまぶしい、美しい港です。港を中心に発展した町。「海部大橋」のところで書いたように、上流で伐採された木材の輸出港として発展してきました。「鞆」は、左手首の内側につけて、矢を放ったときに弓の弦が腕に当たらないようする武具のこと。この地域の地形が「鞆」の形に似ていたことから、「鞆浦」と名づけられたそうです。

これが、鞆浦の町並みです。確かに、三方を山に囲まれ、平地は海に面したわずかな面積だけというこの地域は、福山市の鞆の浦とよく似ています。歴史を経た建物には、大正期から昭和初期に建てられたものが多く、本瓦葺き、間口の広い平入り、千本格子のついた民家になっています。また、2階の窓に装飾的な手摺りのある家が多いともいわれています。

通りに入ってすぐの右側に、祠が祀られている巨石が建っていました。案内によれば、「鞆浦大岩宝永碑(旧暦の宝永4年10月4日の地震)」と「鞆浦大岩慶長碑(旧暦の慶長9年12月16日の津波)」だそうです。正面に「南無阿弥陀仏」と刻まれています。「この二つの碑は、四国において判明している地震の文字を刻した最古の碑である」と書かれているように、災害の状況を記録し後生に伝えているものです。

通りは法華寺の門前まで続いています。海部大橋の案内の「鞆浦の集落と法華寺」らしい通りでした。建て替えられているお宅もたくさんありましたが、かつての雰囲気が十分伝わってきました。この点でも、福山市の鞆の浦のもつ雰囲気とよく似ていました。

日蓮宗法華寺です。この地に住んでおられる人たちの深い信仰心を感じます。法華寺の門前町のような雰囲気を感じる通りでした。

JR海部駅のホームに帰ってきました。町内トンネルです。トンネルとマンションの間が、ブッシュに覆われたところでした。昭和48(1973)年から使われ始めた町内トンネルは、もともと山をくぐるトンネルでした。供用開始から3年後の昭和51(1976)年に、現在のような姿になりました。そして、現在まで、構造体だけのユニークな姿で働き続けています。構造体を撤去してしまっても、機能的には問題はなさそうですが・・。

これは、トンネルの左側のようすです。左側の山の尾根が、マンションの手前につながっているように見えます。

これは、トンネルの右側のようすです。現在、ショッピングセンターが建てられているところで山が削られています。供用が開始された頃の町内トンネルは、トンネルの両側につながっていた尾根をくぐるためにつくられました。しかし、その後、住宅開発のために山が切り崩されてこのような姿になっていったようです。

気になっていたトンネルを訪ねてきました。トンネル以外に、海部大橋と「鞆浦の集落と法華寺」も訪ねることができました。この町の人たちに、町内トンネルをこのユニークな姿のまま、いつまでも存続させてほしいと願わずにはおられませんでした。

帰路は青春18きっぷによる普通列車の旅でした。徳島県最南端のJR海部駅から、JR牟岐線、JR高徳線そしてJR瀬戸大橋線で岡山駅まで、5時間40分ほどの普通列車の旅が続きました。