トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”青春18きっぷ”のポスターの駅、JR小島駅

2014年09月30日 | 日記
四国山地に源流をもち東に向かって流れる吉野川に沿って、阿波池田駅から徳島駅に向かう鉄道があります。「よしの川ブルーライン」こと、JR徳島線です。徳島県内だけを走る全長67.5kmの鉄道です。

秋晴れの一日、阿波池田駅に向かいました。葉たばこの取引で栄えた阿波池田の街は以前歩きました(「阿波池田 うだつの町並み」2012年8月16日の日記)ので、今回はスルーして、すぐに徳島線の出発する3番ホームに向かいます。徳島線は、明治32(1899)年に徳島駅と鴨島駅間が開業した後、少しずつ延伸し、大正3(1914)年、阿波池田駅まで開業しました。土讃線より早く全線が開通しています。

10時22分発徳島行き普通列車が入線していました。2両編成でしたが、後ろの車両は「回送扱い」になっていました。ワンマン運転のディーゼルカーです。定時に、徳島に向かって出発しました。

最初の駅である佃駅まで5.1km。徳島線と土讃線が共用している区間です。佃駅の先で両線が分岐します。

この列車は徳島線の特急「剣山」です。四国最高の山の名前を冠した特急列車です。右のホームを出た特急は、そのまま直進し右側の線路に入って進んで行きました。ここで、左の線路に入り、左にカーブしながら吉野川に架かる鉄橋に向かって進んでいくのが土讃線です。

徳島線は、”四国三郎”の名をもつ「荒れ川」吉野川に沿って進んで行きます。吉野川の流域は年間降水量2200mmという全国屈指の降水量を誇ります。しかも、降るときはたっぷり降るという降り方で、大洪水を毎年のように起こしていました。江戸時代の流域の農民は、そのため、米づくりよりも藍や葉たばこなど商品作物の栽培に力を入れました。洪水が、栄養分を多く含んだ山間部の肥沃な土をもたらしてくれたからでした。江戸時代の寛政12(1800)年、徳島藩の藍は、全国最大の生産量になっていたそうです。

阿波池田駅から40分、貞光駅に着きました。「剣山登山口」と書かれていますが、貞光は、阿波池田と同じように、葉たばこの取引で財を成した商人たちの「うだつのある邸宅」が並ぶ町(「うだつのある町 徳島県脇町と貞光町」2011年3月14日の日記)で知られています。

貞光駅の次の駅に着きました。前方に三角形をした樹木が見えます。小島駅です。徳島線は全線非電化・単線の路線です。乗車してきた列車は、ここで行き違いのためしばらく停車していました。ここで下車しました。小島駅は、大正3(1914)年、川田駅・阿波池田駅間の開通の時に開業しました。今年、開業後100年を越えました。

めざす小島駅は「こじま」駅ではなく「おしま」駅でした。徳島県美馬市穴吹町にあります。ちなみに、小島駅の次は穴吹駅。「うだつの町並み」で知られる脇町は、この先の穴吹駅から吉野川を渡った対岸(吉野川左岸)にあります。藍の取引で栄えた商人が住んでいた町として知られています。

阿波池田行きの下り列車がやって来ました。1面2線の小島駅。両側に列車が並ぶ光景です。

これは、平成26年春の”青春18きっぷ”の季節に、ポスターとしてJRの各駅に掲示されていた写真です。満開の桜の下で手を振っている若い人の姿が印象的な写真です。「『ずっと友達だよ』と言うかわりにみんなで旅にでた」のコピー。「それぞれの青春をのせて」のタイトルがついたポスターの印象から、いつか訪ねてみたいと思っていました。秋晴れの天気に誘われて、この日ここまでやって来たのでした。

下車したのは私一人。上りと下りの列車が出発して行くと、静寂が訪れました。わずかに吉野川の右岸にある国道192号線を走る車の音が聞こえてくるだけでした。 しかし、この駅はいわゆる「秘境駅」ではありません。牛山隆信氏が主宰される「秘境駅ランキング」にもその名はありません。写真はホームにあった待合いのスペースです。屋根と8人分の椅子が設置されています。

阿波池田方面に行く下りの線路の脇にあったキロ表示です。徳島駅から44kmのところにあることを示しています。

同じく下りの線路に沿って植えられた桜並木。かなりの大木です。ポスターのモデルが手を振っていた桜並木です。桜の季節にはさぞかしと思わされます。

ホームの脇に白い建物がありました。ホームから見るとこの白い建物に向かって線路が続いています。かつては、車両の整備工場だったのでしょうか?

駅から出るため、跨線橋を上ります。

跨線橋の上からホームを撮影しました。青春18きっぷのポスターはこのアングルで撮影したようです。手を振る人がいないことと、桜の花がないので近くの民家がよく見えることが違っていました。

11時50分過ぎ、阿波池田からやって来た特急剣山6号です。跨線橋の上から撮影しました。キハ185系の2両編成でした。もちろん、小島駅は通過駅です。

跨線橋から下りて、駅舎の前に着きました。木造瓦葺きの駅舎です。

駅舎の跨線橋の下にあった使用済み切符の回収箱。中はよく見えませんでした。

駅舎内部です。作り付けの長いベンチと島式のベンチが設置されていました。駅舎の中には大きなゴミ缶とほうきが置いてあります。掃除も行き届いた清潔な駅舎でした。

時刻表です。1日14往復。日中は2時間に1本のうんこうという時間もありますが、通勤時間帯には本数も配慮されているようです。

運賃表です。阿波池田駅から、660円でした。

駅舎から外へ出ます。驚いたのは駅舎の回りを囲んでいた自転車の波でした。通学に利用する中学生や高校生のもののようです。

駅周辺を歩きます。吉野川の方(駅の北側)に進みます。駅から右の道を進むと5分ぐらいで吉野川の土手に着きます。正面の橋の向こうには、うだつの町並みが続く脇町があるはずです。

吉野川の手前は、国道192号線。駅からすぐですから車の音が聞こえるはずです。車の進む方向は徳島方面です。

国道から小島駅に向かいます。国道からも、駅の跨線橋が見えました。

駅の山(南)側に行くには、外へ出て左方向に向かいます。

振り返って駅を撮影しました。青い空に稔った稲の黄色が映えて本当にきれいです。正面の桜の木も元気そうでした。来年の春はまた花満開になることでしょう。

その先にあった小島西踏切。この踏切を渡ると駅の山(南)側の地域に入ります。

駅の裏側からみた小島駅です。桜の季節はもっときれいでしょうね!

駅の山(南)側です。実りの秋の山里の風景です。懐かしい農村風景が広がっています。

13時過ぎに、小島駅にやって来た下り阿波池田行きの列車です。11時にこの駅に着いてから最初に停車する列車です。この列車で引き返すことにしました。

青春18きっぷのモデルになったJR小島駅は、私の少年時代と同じ農村風景の中にありました。全国にある駅は、どこも桜の季節が似合います。ポスターの「ずっと友達だよと言うかわりに みんなで旅に出た」というコピーに惹かれてやって来た小島駅は、少年時代のたくさんの記憶を思い出させてくれました。次は、桜の季節に訪ねてみようと思っています。










荒木村重は逃げてはいない! 有岡城を歩く

2014年09月22日 | 日記
最近、仲間由紀恵さんとの結婚を発表した俳優の田中哲司さん。NHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」で、黒田官兵衛を有岡城の土牢に幽閉した荒木村重の演技が話題を呼んでいます。青春18きっぷの使用期限が迫った9月初旬の一日、荒木村重が築いた兵庫県伊丹市有岡城とゆかりの地を、相棒と一緒に歩いてきました。

JR尼崎駅で福知山線に乗り換えて、昼前にJR伊丹駅に到着しました。

駅からイオンモールに向かう陸橋上から撮影した有岡城の本丸跡です。有岡城跡は、南北朝期から戦国時代にかけて、この地を支配していた伊丹氏が築いた伊丹城があったところにあります。伊丹市の東を流れる猪名川の河岸段丘上に築かれていたようです。

これは、福知山線の三田方面を撮影しました。写真の左側が有岡城跡です。線路からは切り立った崖のように見えますが、これは、明治26(1891)年、阪鶴鉄道(福知山線の前身)の線路を敷設したときに、本丸の東半分を切り崩したことによるものです。

伊丹駅の前、下から見上げた本丸跡です。荒木村重の父義村の代から池田城主の池田氏に仕えていたといわれています。天正2(1574)年、荒木村重が伊丹城を攻撃し伊丹親興(ちかおき)を追放して伊丹城に入りました。そして、伊丹城の大改修に着手し、有岡城と改称しました。有岡城は、城だけでなく城下の侍町と町屋を、堀と土塁で囲った惣構(そうがまえ)のつくりでした。南北1.7km、東西0.8kmの規模だったそうです。

JR伊丹駅から古城橋(陸橋)を渡り本丸跡に向かいます。正面にあったフランドルの鐘です。伊丹市の姉妹都市、ベルギーのハッセルト市から平和と友好の象徴として贈られたそうです。

フランドルの鐘の脇に、藤の花がありました。有岡城に幽閉された官兵衛が、力強く咲く藤の花を見て生きる勇気を得たことにちなみ、姫路城の藤から育てた藤を植樹したものです。

陸橋を下って本丸跡に向かいます。荒木村重は摂津で石山本願寺と、播磨では羽柴秀吉とともに毛利氏とも戦っていました。天正6(1578)3月、村重らとともに毛利氏と戦っていた三木城主、別所長治が毛利方に寝返ったため、織田信長の命で村重と秀吉は播磨に入り毛利の援軍と戦いました。この戦いの最中に、荒木村重は、10月、突如信長を裏切って石山本願寺の光佐(顕如)と盟約を結びました。小寺政職(まさもと)の命で、村重のもとへ説得に行った家臣の黒田官兵衛は、村重によって有岡城に幽閉されることになりました。

本丸跡です。平成15(2003)年に発掘された後、公園風に整備されています。手前に建物の礎石跡が見えます。

二ヶ所残っていた井戸跡です。 さて、天正6(1578)年11月、織田信長が摂津に出馬し、滝川一益(かずます)、丹羽長秀らに茨木城を攻撃させました。12月には、一益や長秀は塚口に陣を敷き、有岡城に総攻撃をかけました。有岡城の支城だある中川清秀が守る茨木城と高山右近が守る高槻城は降伏。有岡城は10ヶ月間持ちこたえますが、天正7(1579)年9月、荒木村重はひそかに有岡城を脱出し、嫡子荒木村安の守る尼崎城に移りました。しかし、有岡城は10月15日総攻撃を受け落城します。村重の妻子ら700人は捕えられ、京の六条河原や尼崎七ツ松で処刑されたといわれています。

本丸跡の正面にあった有岡城の石垣跡です。急いで造ったからでしょうか。中に墓石も使われていました。この日は、土曜日で、リュックを背負った中高年のカップルの姿を本丸跡で多数お見かけしました。印刷物を手に、「NHKの大河ドラマは信長の立場で描いていますので、『荒木村重は尼崎城に逃げた』とドラマの中でいわれていましたが、そんなことはありません。籠城戦の中、何とか活路を求めようと尼崎城に移り、そこから石山本願寺や雑賀衆(さいかしゅう)の有力者に援軍の要請をし続けていたのですよ。証拠の文書も残っています。この資料に書いてありますからご覧ください」と熱心に説明される女性がいらっしゃいました。地元の歴史研究グループの方だと思われました。

本丸を囲んだ土塁跡です。有岡城は、落城後、天正8(1580)年信長から摂津国の支配を任された池田信輝の嫡子之助が城主となりました。しかし、天正11(1583)年、羽柴秀吉によって池田信輝父子は美濃に転封され、伊丹城は廃城となってしまいました。

これは、いただいた観光パンフにあった地図です。有岡城は惣構の造りで、北の岸(きし)の砦、上臈塚(じょうろうつか)砦、鵯塚(ひよどりつか)砦の3つの砦で城下を守っていました。地図のオレンジ色が惣構を、緑色が堀を表しています。この後、この3つの砦跡を訪ねることにしていました。

本丸跡を下り、駅前から西に向かって歩きます。本丸の西にあった本丸を囲う堀跡を右手に見ながら進みます。

敷石で整備された舗道を歩きます。左手に広い敷地をもつ本泉寺を見えます。観光地の雰囲気のある商店街をゆっくり進むと、前方にニトリの建物が見えてきます。

道の右側のニトリの建物の脇に石製の施設が見えました。

伊丹郷町に設けられていた大溝跡です。現在の施設は、平成16(2004)年に再元したものです。江戸時代の「寛永8(1796)年の古図にも描かれている大溝で、古図の通りに掘っていったら発見された」と説明板には書かれていました。本通りに面して並ぶ酒蔵からの排水用で酒の仕込みの時期には、ほんのりと酒の香りも漂っていたのではとも書かれていました。

これは、説明板に載せられていた発掘時の写真です。大溝跡を掘っていくとその下から有岡城の堀の跡が出てきたそうです。大溝は、有岡城の堀を埋め立てた上に築かれていたことがわかります。大溝の規模は、幅は1~1.2m、深さは1~1.5m。大溝の下の堀は、松材の丸太や廃材の板材を敷いた上に割石や川原石を積み上げていたといわれています。ちなみに、幅6m、深さ3mで、本丸周囲の内堀に次ぐ規模だったようです。

県道尼崎池田線(産業道路)と地図に書かれた通りを渡ります。酒蔵の長寿蔵の脇を進みます。その先に寺院が並んでいるのが見えました。その最初の寺院の大蓮寺の手前を右折して「岸の砦」があった猪名野神社をめざします。

敷石の敷かれた道を歩きます。ゆっくり歩いて15分ぐらいで、猪名野神社の鳥居前に着きました。

伊丹の町は江戸時代に入り、有岡城が廃城となった後、寛文元(1661)年から摂関家筆頭の近衛家の所領になりました。猪名野神社は、貞享2((1685)年、近衛基(もとひろ?読み方不明です)が本殿や玉垣を再建したといわれています。伊丹の中心部の伊丹郷の氏神として尊崇を受けてきた神社です。

酒造業で繁栄した伊丹郷の氏神らしく、寄進された灯籠が参道に並んでいます。

拝殿です。牛頭天王(ごずてんのう・素盞鳴尊・すさのうのみこと)が祀られ、江戸時代には野宮(ののみや)と呼ばれたそうです。

猪名野神社のあるところには、かつて、有岡城の岸の砦が置かれていたところです。神社の西側には当時の土塁の跡が残っています。惣構えの土塁はこのあたりまでつくられていました。

猪名野神社から、来た道を引き返しした。アイフォニックホールで左折して10分ほど歩きます。

いたみホールの先に伊丹小学校がありました。広い敷地に白亜の校舎が広がっています。堂々とした立派な小学校です。

小学校といたみホールの間の道を北に少し進みます。観光パンフの地図のオレンジ色の線はかつての惣構を示しています。地図からわかるように、小学校の脇はかつて惣構の土塁が設けられていたところです。今も当時と同じように緩いカーブの道になっています。

伊丹小学校から引き返して、再び大蓮寺の山門前に戻ります。ここから、南に向かい、上臈塚砦の跡をめざして歩きます。

伊丹シティホテルを過ぎて進むと、正面に「曹洞宗 墨染寺」と書かれている白い4階建てのビルが見えてきます。

墨染寺(ぼくせんじ)です。このあたりに、有岡城を守った砦の一つ、上臈塚砦が置かれていました。鐘楼門から中に入ります。直進すると墓地に入ります。この寺院もそうですが、伊丹の寺院はいずれも壮大な構えです

墓地の左側の奥まったところに、江戸時代の俳人上島鬼貫父子の墓がありました。その隣にあったのがこの墓石です。「女郎塚」と掘られています。信長との戦いで処刑された荒木村重に仕えて女性の慰霊のために建てられたといわれています。

その隣にあった、荒木村重の墓ともいわれる石製の九重の層塔です。

上臈塚砦跡まで来ましたので、次は鵯塚砦跡を訪ねることにしました。いただいた観光地図にしたがって、墨染寺から県道尼崎池田線に出ることにしました。

道なりに進むと5分ぐらいで県道尼崎池田線に合流します。左(南)方面に向かって歩きます。「伊丹4丁目」の信号で左折(東行)して県道を渡ります。

県道を渡るとそのまま進み、2本目の通り、伊丹保育所の手前の通りを右折(南行)して進みます。

県道から一本入っただけなのにずいぶん静かです。住宅地の雰囲気のする通りです。いただいた観光地図では茶色のラインが入っています。「旧道」と書かれています。そう、この道はかつての「大坂道」でした。

旧大坂道に沿う地域は、平成2(1990)年に「伊丹市都市形成景観道路」の指定を受け、町並みの保存が図られている地域です。雰囲気のある民家が残っています。静かで落ち着いた通りを歩きます。大坂道は伊丹郷町と大坂方面とを結ぶ幹線道路だったところです。「天正年間(1573年~1591年)から、郷町の町場を形成していた」と説明には書かれていましが、その頃から町の形成が見られたようですね。

静かな住宅地を15分ぐらい歩くと、左側に「ひよどり広場 管理者坂戸照雄」という掲示のある公園がありました。「ひよどり」という名前から、この近くに鵯塚砦があったのではないかと思いました。いただいた観光地図には「鵯塚砦」の碑は「坂戸照雄氏の所有地」にあると書かれています。

近くにあったマンションですが、おそらくこの近くに鵯塚砦があったのでしょう。

旧大坂道はこの先のJR福知山線の踏切の手前で二つに別れます。トラックが停車している道が旧尼崎道です。

旧大坂道は踏切を渡り、その後南に向かって進んでいました。

荒木村重がかつての伊丹城を大改修して築いた壮大な城であった有岡城。有岡城のゆかりの地を歩いて、鵯塚砦跡までやって来ました。本丸だけでなく、城下町も取り込んで囲った惣構の城を思いながら、きれいに整備された町をゆっくりと歩きました。当時の名残は多くありませんでしたが、雰囲気は十分味合うことができました。この後、もう一つの伊丹の象徴である「酒造り」に関わる歴史に触れるため、伊丹郷町に戻ることにしました。




車掌さんの存在感、広島電鉄宮島線

2014年09月03日 | 日記
中国地方最大の人口118万人を擁する政令指定都市である広島市。その広島市の中心市街地に8系統の路線をもつ路面電車が走っています。西広島駅から宮島口駅までの鉄道部も合わせて35.1kmの路線をもち、年間輸送人員5500万人を誇る日本一の路面電車です。鉄道事業法の適用を受ける「鉄道」にはなっていますが、現在は、中心市街地と同じ路面電車が乗り入れています。

私は、以前、5時間以上の時間をかけて、8系統の路面電車に乗ってきました(日本一の路面電車、広島電鉄に乗る」2014年1月28日の日記)が、今回はそのとき乗ることができなかった広電西広島駅と広電宮島口駅を結ぶ広島電鉄宮島線に乗ることにしていました。JR広島駅から駅前にある広電広島駅に向かいました。

600円で一日乗車券を購入しました。宮島航路を除く全路線の路面電車の乗り放題きっぷです。

駅前から乗車した3904号車。「ぐりーんらいなー」と側面に書かれている3900形の3両連接車です。1990年から製造された広電カラーの電車です。私は、この電車で宮島口駅まで直行することにしていました。ラッシュ時間を過ぎた午前11時台の路面電車でしたが、車内は乗客でいっぱいでした。人が多すぎて車内での撮影はできませんでした。世界遺産の原爆ドームに行くのでしょうか?外国人観光客も何人か乗車されていました。

広島電鉄の路面電車には、ワンマン運転の電車もありますが、連接車が走る宮島線には車掌さんが乗車されています。ここは、5000形「グリーンムーバー」の後方にある車掌さんの立ち位置です。広島駅で乗車された外国人のカップルのご主人は、車掌さんの脇を離れません。気が付いた車掌さんは「アフター、アフター」。「オー!アフター」といって、ご主人は席に戻っていかれました。運賃を支払おうとされたのですが、「下車時でいい」と理解できたようでした。

西広島駅です。「停車駅の案内をした後、「15分遅れで到着しました」。これは西広島駅で撮影した駅内の掃除をされている車掌さんです。広島電鉄の車掌さんは、みんな肩から黒い鞄をかけた姿で勤務されています。この方は精算機をホームに出したり、ゴミを集めたりお忙しくされていました。

草津駅です。車内は空いてきました。「車掌が車内を回ります。両替の方はお知らせください」。この後、何回も何回も車内を回り10円玉の必要な乗客にも丁寧に対応しておられます。「お手伝いしましょうか?」という声が聞こえたと思ったら、すぐに若いお母さんと幼い子どもがベビーカーといっしょに乗車して来られました。「お客さん、市内線から乗られた方はもう50円かかるんです。すみません。お願いできますか?」。「・・駅から何キロありますか?」。「資料がないので、はっきりしたことは申し上げられませんが、・・キロはないと思いますよ」。よく聴き取れなかったのですが、乗客からのお問い合わせの対応も・・。 車掌さんがおられることでずいぶん乗客に優しい電車になっているなと感じます。車掌さんの存在の大きさを感じる一方で、車掌さんの仕事は保育士さんに似ているとも感じました。

西広島駅から30分ちょっとぐらいで、広電宮島口駅に到着しました。車掌さんは、ここでもベビーカーを押した若いお母さんの降車のお手伝いをしておられました。広電宮島口駅は広島市の隣の廿日市市にあります。

私が乗車してきた3904号車は、すでに行き先表示を「回送」に替えています。広島駅から1時間20分かけてここまでやって来ました。広電宮島口駅のホームの柱は赤く塗られていました。宮島の厳島神社の鳥居を模しているそうです。

改札口で一日乗車券をカードリーダーに通してから駅舎に出ました。ここでも、ベビーカーを押した女性が改札を入るのに出会いました。ベビーカーにも優しい広島電鉄ですね。

これは、駅舎内にあった案内です。広電西広島駅から広電宮島口駅まで16.1kmを34分かけて走るのが標準時間のようです。また、広電西広島駅からはJR山陽本線と平行して敷設されています。途中の商工センター入り口駅でJR新井口駅と、広電五日市駅でJR五日市駅と、広電廿日市駅でJR廿日市駅に、宮内駅でJR宮内串戸駅に、広電阿品駅でJR阿品駅にそれぞれ乗り換えができるようになっています。広島駅からは67分。市中心部は信号が多くかなりの時間がかかるのはやむを得ないことですね。

駅舎から出て山側に進むとJR宮島口駅があります。広島電鉄は平行するJRに合わせて、駅名を改称しています。ここ広電宮島口駅もJR宮島口駅に合わせて、平成13(2001)年に広電宮島駅から改称しています。他にも、JR阿品駅に合わせて、田尻駅を広電阿品駅に改称している例があります。

広電宮島口駅の向かいにあるのは、広電とかかわりのある松大フェリー乗り場、右にライバルのJRフェリーの乗り場が並んでいます。

ちょうど松大フェリーが出発していきました。

こちらのJRフェリーは到着したところでした。

JRフェリー乗り場にはミストのサービスがあり少し涼しい感じがしました。両者はどちらも片道180円、往復360円で運行していました。サービスで競争するしかないようですね。

広電宮島口駅です。

駅舎の中です。正面に売店があります。右が改札口になっています。

これは駅にあった平日の時刻表です。これによると、通常は約9分間隔、毎時6本、朝のラッシュ時の7時台は最高7分間隔で13本運行しています。まさに「待たずに乗れる」電車になっています。JRに十分対抗できることでしょう。

運賃の案内です。宮島線は初乗り3kmまで120円、4~6kmが140円、7~10kmが170円、16~17kmが210円になっています。中心市街地の軌道線に入る時は50円の増額になります。広電西広島駅と広電宮島口駅間では210円。JRの方は、西広島駅とJR宮島口駅間は16.3kmで320円に設定されていますが、両駅間を20分程度で結んでいます。広島電鉄の34分よりずいぶん早いですね。でも、私は広島電鉄の210円の運賃はすごいと思います。210円で34分も電車に揺られることができるのは、鉄道好きには魅力的です。

改札口です。黄色い塗装の3908号車が出発を待っていました。こちらに来たとき乗車してきた電車の兄弟車両です。私は、ここからホームに入らず、一つ先の「競艇場前駅」まで歩くことにしました。宮島競艇の開催日だけに停車する臨時駅です。両駅間は距離にして200m。宮島線の最短区間になっています。

駅舎の外へ出て左の方に向かって進みます。途中で左折して、広島電鉄の踏切を写真の左側から右側に向かって渡ります。正面は踏切から見た広電宮島口駅です。赤い柱は遠くからでも見えました。

反対の競艇場前駅方面です。宮島線の線路は右側です。正面は出発時間を待つ駐車場につながる線路です。写真の右奥が競艇場前駅です。

競艇場前駅です。先ほど、広電宮島口駅のホームで出発を待っていた3908号車が到着していました。ホームの右側に宮島競艇場があります。

競艇場前駅に来た5008号車。1999年から2000年にかけて製造されたグリーンムーバー5000形車両です。鮮やかな緑が上品な車両です。

5008号車で西広島方面に向かって進みます。阿品東駅付近では瀬戸内海で盛んな牡蛎の養殖いかだが見えるようになります。

地御前(じごぜん)駅に着きました。養殖いかだが見えた阿品東駅からこの地御前駅間は1.5km。宮島線で駅間距離が最も長い区間になっています。駅の裏はJR山陽本線。宮島線と平行して走る区間です。

宮内駅を過ぎてトンネルを抜けると、廿日市市役所前(平良)駅に着きました。新しく建設された駅です。平成21(2009)年に平良(へら)駅から廿日市市役所前駅と改称されました。

下車して、宮内駅方面に向かって引き返します。写真は駅前のようすです。

トンネルのすぐそばに行く道がわかりません。少し手前の道から踏切にやって来ました。トンネルが正面に見えます。宮島線唯一のトンネルです。トンネルは短く出口からの光線で明るく光っているのが見えます。

宮島駅行きの3950形の電車がトンネルに入っていきました。

廿日市市役所前(平良)駅の戻ります。3952号車の乗車します。3900形をモデルチェンジして1997年、1998年に製造された車両です。"Green Liner"と書かれている緑と白のツートンカラーのこれも上品な車両です。

山陽女子大学前駅に着きました。ここまでが廿日市市にある駅で、この次の楽々園駅からは広島市佐伯区になります。

駅前にある山陽女子短期大学を核にした学校群の校門です。ここから山に向かって校舎が広がっています。

佐伯区役所前駅を過ぎ、広電五日市駅に着きました。上にあり跨線橋がJR五日市駅とつながる駅です。

進行方向の左側にあるJR五日市駅です。山陽本線の列車が停車していました。

跨線橋から見た広電とJRの線路です。JR山陽本線の下り列車がやって来ました。

跨線橋から駅前に出ました。広電五日市駅の駅舎です。

広電五日市駅の次の鈴ヶ峯女子大前駅から広島市西区入ります。商工センター入口駅に着きました。JR新井口駅への乗換駅です。広電五日市駅と同じように跨線橋でJR駅とつながります。跨線橋から見た駅舎です。

ここから平行して走る宮島街道に出て、広電の線路に沿って西広島駅方面に向かって歩きます。

新手車庫前構内踏切から見た荒手車庫です。広電に3ヶ所ある車庫の一つです。主に宮島線を走る連接車両がチェックを受けているところです。

広電五日市駅に戻り、西広島方面行きの列車で進みます。後部の運転席から荒手車庫を撮影しました。連接車が休んでいました。手前のピンク色の列車は、2両連接車で現在は定期運用から外れている2000形車両です。

古江駅に着きました。ホームにあった駅標です。

古江駅の線路と並行する道路との境は、枕木で仕切られています。国鉄時代にはよく見られた懐かしい光景です。広電宮島口方面行きのホームの前に並んでいました。

古江駅から1分ほどで広電西広島駅に着きました。市内線の路面電車の終点になる駅で、宮島線の始発駅です。実際には、市内線からの直通運転がされています。

広電宮島口方面から来る列車の到着ホームの2番線に3803号車が入ってきました。3両連接車で1887年から89年にかけて製造されました。

広電宮島方面の列車は3番ホームから出発します。

広島電鉄宮島線は広電西広島駅と広電宮島駅を結んでいる16.1kmの路線です。JR山陽本線と平行して走っています。短い駅間距離で駅を設け安価な運賃で輸送し、新しい車両も積極的に導入しています。ワンマン運転が大勢の路面電車が多い中、車掌さんとのツーマン運転で運行しながら、輸送人員日本一の地位を守り続けています。

今回、車掌さんが乗務されている電車に乗車してみて、旅客サービスの面で車掌さんの果たす役割が大きいことがよくわかりました。広島電鉄は、高齢者や子ども連れに優しい電車になっていました。