
JR徳島線の阿波川島駅です。木造駅舎ですが、改装されており、白壁が印象的なモダンな駅舎に生まれ変わっています。
この日は、阿波川島駅を訪ねるため、JR阿波池田駅に向かいました。

ホームには、徳島駅行きの1500形気動車の1501号車が出発を待っていました。1500形気動車はJR四国によって、旧国鉄気動車の更新のために製作された車両で、排気ガス中のチッ素酸化物を従来車両より60%削減した、環境に優しいクリーン車両として知られています。ワンマン運転の2両編成でしたが、後側の車両(1505号車)は「回送扱い」になっていました。どちらの車両も平成18(2006)年に新潟トランシス(旧新潟鐵工所)で製造されました。

徳島線は、JR土讃線の佃駅(三好市)からJR高徳線の佐古駅(徳島市)に到る全長67.5kmの地方交通線です。実際の運用は、JR土讃線の阿波池田駅とJR高徳線の徳島駅間で行われています。 阿波池田駅から、”四国三郎”の愛称をもつ吉野川の南岸を走ってきた列車は、阿波池田駅から1時間程度で、阿波川島駅の駅舎寄りの1番ホームに到着しました。

下車したのは私を入れて2名。列車はすぐに、次の西麻植(にしおえ)駅に向かって出発して行きました。列車が出発した後の向かいのホームには、長い待合室とベンチが見えました。

到着したホームの徳島方面の端まで来ました。徳島線は全区間単線、非電化の鉄道です。阿波川島駅を出ると、右にカーブしながら進んで行くようです。
JR徳島線は明治32(1899)年2月16日、徳島鉄道によって徳島駅~鴨島駅間が開通したことに始まります。

1番ホームから見た阿波池田方面です。白壁の駅舎の手前に駅名標、駅舎の先に、跨線橋が見えます。
明治40(1907)年、当時開業していた徳島駅~船戸駅間が国有化され、明治42(1909)年には、線名が「徳島線」と改称されました。さらに、大正2(1913)年には「徳島本線」と改称され、その後、大正3(1914)年3月、川田駅~阿波池田駅間が開通し、現在の徳島線の全線が開通することになりました。

駅名標です。阿波川島駅は、吉野川市川島町にあります。一つ前の学(がく)駅から3.5km、次の西麻植駅まで1.9kmのところにあります。
徳島本線は、その後、昭和62(1988)年、国鉄の分割民営化を経て四国旅客鉄道(JR四国)に継承され、翌年の昭和63(1989)年には、線名をもとの「徳島線」に再度改称されました。

阿波川島駅は2面3線のホームになっています。2番、3番のりばへは、跨線橋で移動することになります。跨線橋の手前の駅舎部分にはトイレがありましたが、黄褐色のドアには「使用を停止している」旨の張り紙がありました。
駅舎側の1番ホームを、阿波池田方面に向かって歩きます。

跨線橋の上から見た阿波池田駅方面です。 右側に1番線、中央が2番線、左側が3番線です。
阿波川島駅は、明治32(1899)年8月19日、徳島鉄道が鴨島駅と川島駅間で延伸開業させたときに開業しました。その後、大正3(1914)年3月25日に、「神後駅」と改称されましたが、翌年の大正4(1915)年7月1日、現在の「阿波川島駅」に改称されています。 すでに、開業から120余年の歳月が流れています。

跨線橋の上から見た川島町の光景です。駅舎の向こうの小高い丘の上に天守閣が見えました。

島式ホームに降りました。駅名標の先に待合室が見えます。ベンチが設置されているだけのシンプルなつくりになっていました。

中央に掲示されていた案内板です。国鉄時代を思い出させるような手書き風の案内板です。「穴吹 あわ池田 方面」と書かれています。

跨線橋に貼り付けてあったプレートには、「阿波川島駅こ線橋 国鉄四国総局 設計 着手 昭和59年12月18日 竣工 昭和60年3月27日」と記されていました。

跨線橋から見えた駅舎です。木造駅舎ですが、改装されていて、徳島側に駅舎への入口が見えます。

駅舎内です。 阿波川島駅は、かつては午前中のみ駅員が配置されていたそうですが、平成22(2010)年10月1日からは無人駅になっているそうです。
ホーム側から引き戸を開けて入ると、左側にカウンターと出札口がありました。右側には木製のベンチが置かれています。

ホームへの入口の手前には、自動券売機と時刻表がありました。運賃表は自動券売機の上の部分に標示してありました。

駅前広場からの駅舎です。

駅舎の右側には駐車場、その先に跨線橋が見えます。

駅舎の左側の広場には、吉野川市川島町の観光案内の説明板が設置されていました。川島町はもと麻植(おえ)郡川島町でしたが、平成16(2004)年、同じ麻植郡内の鴨島町、山川町、美郷村が合併して吉野川市となりました。当時、徳島県内で5番目の市だったそうです。市庁舎は鴨島町に置かれています。

駅舎前のようすです。
跨線橋から見えた天守閣を見に行くことにしました。駅前から真っすぐ進みます。

東西の通りに出ました。ここで右折して進みます。旧街道の雰囲気を感じる通りです。

やがて、正面に天守閣が見えるようになりました。標高37.42mの吉野川に突き出た山塊に建てられています。 現在の鉄筋5階建ての天守閣が建てられたのは、昭和56(1981)年。 勤労者福祉施設として開館しました。

その先に、川島神社の鳥居と、幟が見えました。鳥居を越えると、ゆるやかな登り坂になりました。 現在、川島城の天守閣がある所は、戦国時代から江戸時代にかけて、川島城があったところです。しかし、かつての川島城の姿を伝える史料がなかったため、天守閣の入口の掲示物には、現在の城は「架空の城である」と書かれていました。

左側に川島神社が鎮座しています。
川島城にかかわる歴史を少し・・・、
南北朝時代の建武元(1334 )年、阿波国を支配下に収めたのは細川氏でした。時代は移り、戦国時代の天文22(1553)年、細川氏は家臣の三好長慶に滅ばされます。永禄5(1562)3月、三好長慶と弟の義賢は泉州久米田(岸和田市)へ兵を進めましたが、討ち死にしてしまいました。

川島神社の右側に、川島城の模擬天守閣がありました。どっしりとした存在感のある建物です。正面の階段を上って行きます。
JR阿波川島駅から南へ1.1km、四国山地の中腹(標高120m)に上桜(うえざくら)城跡がありますが、ここは、戦国時代に勝瑞城主、三好家の侍大将、篠原長房の居城でした。しかし、讒言に遭い、三好長治(三好義賢の長子)に攻められ、篠原長房は戦死し、上桜城は落城しました。

この年、三好氏の家臣である川島兵衛進(ひょうえのしん)が、元亀3(1572)年、上桜城址の北、標高50mの丘陵上に、本丸、二の丸、三の丸を擁する川島城を築きました。しかし、重臣を失った阿波国は、天正7(1579)年に、岩倉の合戦で、土佐の長宗我部元親に制圧され、川島兵衛進は阿波国の諸将一族と共に戦死しました。

その後、阿波国に入った蜂須賀家政は、天正13(1585)年阿波国の要衝の9ヶ所に、城塁の構築を命じ、手勢300人を配置して守らせました。川島城は、その”阿波9城”の一つとなり、川島城の城番には家老職の林図書亮能勝(後の道感)が配置されました。しかし、江戸時代の寛永15(1638)年、一国一城令の発布により廃城となってしまいました。

最近行われた耐震診断の結果、川島城は、3階と4階部分が耐震基準を満たしていないことが明らかになりました。そのため、平成31(2019)年4月1日から閉館の措置が採られています。
天守閣の隣にはテニスコートが整備されていました。この日は利用されている方はおられませんでしたが、多くの働く人たちに利用されて来たことでしょう。

テニスコートの北側には、吉野川がゆったりと流れています。川島城は、吉野川に突き出した山塊に築かれていたことがわかります。
JR阿波川島駅を訪ねる旅は、模擬天守の川島城の歴史を訪ねる旅にもなりました。 早い再開を待ちたいと思います。
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