トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

日本最古の現役木造校舎はいま・・・

2011年01月26日 | 日記

江戸時代から戦前にかけて銅山の町として、そしてべんがらの産地として栄えた吹屋地区。岡山県の西北部の500メートルを越える吉備高原上に、壮大な広兼邸や、べんがら格子に覆われた民家が建ち並び、その当時の繁栄ぶりを今に伝えています。

岡山県の「ふるさと村」に指定されていて、山あいの小さな集落には、いつも多くの観光客が訪れています。

この地に生きた人々が、地域の未来をかけてつくりあげた小学校は、当時としては、実に豪華な建物でした。

岡山県高梁市立吹屋小学校は、100年を越える時間、常に小学生とともに歩んできた、日本最古の校舎が、今も使われています。石段の上に立つどっしりとした建物は、明治42(1900)年に完成した本館校舎です。岡山県の重要文化財に指定されています。お聞きしますと、今年度の児童数は7人、校長と教諭・養護教諭3名、用務員の計5名が、教育にあたっているそうです。残念ながら、この学校は、児童数が今後も増加する見込みがないため、平成23年度末で閉校されることになっています。

隣接していた吹屋中学校は、すでに廃校となり、「ラ・フォーレ吹屋」に建て替えられて宿泊施設になっていますが、こちらは、どのような形で、引き継がれていくのでしょうか。
ここまでがんばってきただけに、朽ち果てることなく、大事に保存していってほしい。現役で使われているうちに「その後」を決めておいてほしいと願うばかりです。










岡山市の地名由来碑を歩く(5) 旧万町 勘解由橋跡

2011年01月19日 | 日記
これまで、西川に沿って、
旧岡山城下町の十二ノ橋から五ノ橋まで歩いて来ました。
五ノ橋は、桃太郎大通りの西にかかる野殿橋でした。
今回は、桃太郎大通りから北の、
「四ノ橋」から「一ノ橋」まで歩きました。

次の絵図の右が北になります。
そこには、4本の橋が描かれています。

岡山城下町の「四ノ橋」は、
岡山駅前商店街(中筋)のアーケードを出たところにある、
「駅前橋」のところに架かっていました。

写真の白いビルは「岡ビル」です。
その北に続くのが、野田屋町公園。

「岡ビル」と野田屋町公園の間の通りが西川を渡るところにあるのが、
上西川橋です。岡山城下町の「三ノ橋」はここに架かっていました。
現在の岡ビル百貨店のあるところには、
岡山藩の家老の下屋敷がありました。
「文久城下町絵図」には、西川の東と西の両側に、
「池田隼人下屋敷」と記されています。
ここは、通称「刑部屋敷」とよばれていました。
「三ノ橋」は、この東西の下屋敷をむすんでいました。

また、この池田隼人下屋敷の北の並び、
現在の野田屋町公園のあたりには、
「池田出羽下屋敷」があったことが、「城下町絵図」に描かれています。
この家老は天城(あまき。現在の倉敷市藤戸町天城)を領有していたため、
「天城屋敷」(あまきやしき)と呼ばれていました。

明治になってからは、「天城屋敷納涼園」(明治43年)がつくられたり、
岡山県初の常設映画館である「世界館」(明治44年)がつくられたり、
大正2年(1913年)には、劇場の「天城座」がつくられたりして、
歓楽街としてにぎわったところでした。

さて、
池田出羽下屋敷(天城様)の北側には町人町がありました。
西川の東側には富田町、西側には岩田町がありました。


いずれも、城下町の広がりに伴って、できあがった町人町です。
それを結んでいるたが「二ノ橋」でした。
現在は、青柳橋が架かっています。
ここは、後楽園に向かう道であるため、
「後楽園通り」という愛称で呼ばれています。
この通りは、江戸時代の前半からは西国往来(山陽道)が通っていました。
岡山から西に向かう旅人は、この橋を渡って進んでいきました。

上の写真は、「二ノ橋」から西の方向を写したものです。

正面に左右に広がる新幹線の高架下の少し左に、
「旧万町」の地名由来碑が立っています。
岩田町に続く町人町でした。
万町の西には総門と常夜灯があったといわれ、
岡山城下町の西の出口でした。

旧万町は、現在、町の東半分が鉄道の線路に変わっています。

再び、「二ノ橋」に戻り、北に進んで行きますと、
すぐに国道53号線の跨線橋のたもとに出ます。
その跨線橋の下に、かつての「一ノ橋」が眠っているといわれています。

岡山城下町の「一ノ橋」は「勘解由橋」と呼ばれていました。
「岡山市の地名」は、「江戸中期以降、西川の東岸に、
池田勘解由の下屋敷があったためついた名前」だと説明しています。

地名由来碑は、跨線橋を北に越えた東側にある、
現在の南方公園に立っています。

江戸時代の西川は、岡山城下町の西を画する施設であったため、
壊れたり埋まったりしないように、
ゴミを投げ捨てたり、洗濯したり石を投げ込んだりすることは、
固く禁じられていたようです。

岡山城下町時代の西川に架かっていた「十二ノ橋」から
「一ノ橋」までを、南から北に向かって歩いてみました。
距離的には2.5kmぐらいのようですが、江戸時代には、
みんな、こうして歩いて往来していたのでしょうね。









お店の「顔」、気になる「看板」  

2011年01月15日 | 日記
街を歩いて楽しいのが、お店を眺めること。それぞれのお店がお客さんを引きつけようと、様々な工夫を凝らしています。

これまで、比較的地味だった「政令指定都市」岡山市のお店はどうでしょうか。お店の顔である「広告」や「看板」を見て歩きました。

まずは、岡山市街地のワンコイン(100円)バスの先鞭を告げた宇野バスからのメッセージと、表町商店街の呼びかけから・・・。


博物館や公会堂もありました。「餃子拉麺博物館」に「城下公会堂」。一見公的施設の雰囲気です。


専門性というと、こんなお店も・・・。

懐かしい「豆炭」、まだ元気です。 と言っても、ここは「豆炭」を売っているお店ではなく、居酒屋です。

市街地の駐車場は激しい安値競争をしていますが・・、

これが、一番大きい横断幕でした。

次のお店に、お客さんはどんな気持ちで入っていくのでしょうか。

「ぐちをこぼして酒を飲もう」という「ぐちや」は傑作ですね。

お店の名前が楽しいのは、

「がってん八兵衛」には、入り口にたくさんの招き猫が並んでいます。「のんき坊」は「うどん」に加えて、最近「ハイボール酒場」が加わりました。

焼き肉屋の「けむり家」さん。映画館の雰囲気です。「俺は待ってるぜ」、石原裕次郎も待っています。

ほのぼのとしたメッセージは、石原裕次郎の看板の右側にありました。

一般に、焼き肉屋さんや焼鳥屋さんなど、肉食系の看板は、原色を多くつかっていて、迫力十分です。「だるま」は、大阪ミナミの「だるま大臣」を連想しましたが、ここにはおられませんでした。


色合いはおとなしいですが、まだまだありました。


少し、大人の雰囲気のお店かもしれません。中世の文化を連想します。


人が集まる店をめざしているのでしょうか。


岡山市のすべての看板を見たわけではありませんので、独断と偏見でまとめました。
いずれも、お店の皆さんの意気込みが伝わってきて、なかなかおもしろい時間でした。

神戸市五色塚古墳を初めて見ました!

2011年01月10日 | 日記
兵庫県最大の巨大前方後円墳、五色塚古墳。この古墳は、築成当時の姿に復元していることで知られています。歴史の教科書にも載っていて、名前はよく知ってはいたのですが、実際に見るのは初めてでした。

山陽電鉄の霞ヶ丘駅の北側の道を、線路に沿って垂水方面に歩いて15分、前方部の西側に着きました。前方部の葺石と高い後円部が目に入ってきます。事務所で、見学を申し込み、パンフレットをもらってから入りました。

三段に築成された前方部から上がっていきました。その階段の両側で、葺石の葺き方が違っていました。右の写真の手前(後円部側)の様子が下の左の写真、向こう側が下の右の写真です。
 
手前側は、写真の左側のように葺石が並んでいました。通常、「復元」というとこのような形になりますね。崩れないようにコンクリートで固めて整然とした並べ方です。一方、階段の向こう側(前方部の前側)、やや黒っぽく見える部分は、葺石が残っているところをそのまま残し、残っていないところには落ちていた石を葺き直して、築造当時に戻しているようです。
もとは、三段築成の中段と上段には大きな石を葺き、下段には、5~10cmぐらいの小さな石を葺いていたそうです。そのまま復元すると、「下段は石が小さくて崩れやすいので、石を葺いた後を土で覆い、その上から芝を植えて復元した」と、説明には書かれていました。

階段を上りきると広いテラスになっています。墳丘の全長は194m、後円部の高さ18mという広さを実感できます

左側には、後円部に登っていく階段がまっすぐつくられていました。かなりの高さに感じました。振り返ると、前方部の先端がずいぶん先に見えます。またまた、広さを実感しました。

学生時代に考古学のサークルに入っていた家人も、うきうきしていました。考えてみれば、築成当時が実感できる古墳はほとんどありませんから。


後円部の頭頂部に上がってみると、三段築成と葺石の状況がよくわかります。右手(西)の方には、円墳の小壺古墳(陪塚?不明です)が見下ろせます。直径67m、高さ9m、立派な円墳ですが、この古墳の広さに比べたら、やはり見劣りしてしまいます。

後円部に上がってすぐ目に入るのが、埴輪列です。ひれ付きの円筒埴輪と朝顔形埴輪が10メートルに18本の割で並べられ、頭頂部を囲むように立てられています。埴輪は、陶器ではなく合成樹脂だそうですが、古墳全体で2200本使用したということです。後円部は、死者(権力者)を埋葬したところ、前方部は、祭祀(埋葬儀礼)をしたところだといわれています。また、一般的に、支配していた地域を見下ろすところに、古墳を造営したともいわれています。

後円部の頭頂部から前方部を見るとき、圧倒的な広さはさらに迫力を増します。そして、そのさらに先に広がる瀬戸内海の沖まで見渡せます。

古墳がつくられたのは、4世紀の末から5世紀の初頭だそうです。大和朝廷の日本統一が4世紀の後半ということですから、後円部に埋葬された支配者は、この海と深い関わりをもつ、そして、大和朝廷とも関係のある地方の有力者だったのでしょう。

この地は、そういう支配者の威厳を示すのに最適の場所だったのだと感じました。



この古墳には、空堀がついていました。そして、空堀の中には方形のマウンドがいくつか残っていました。写真の右は、前方部と後円部の付け根あたりに残っているマウンドです。一辺20m、高さ2mですが、盛り土でつくられていて、埴輪も立てられていたようです。
埋葬施設はないようですが、なんらかの意図をもってつくられたもののようです。

文化庁と神戸市は、この古墳を10年かけて復元保存したそうです。この古墳をつくった人たちは、いったい何年かかってつくりあげたのでしょうか。

人間のもつ、はかりしれない可能性について考えさせられました。


「宮水井戸」のある町に、ちょっとだけ行ってきました  

2011年01月07日 | 日記
阪神西宮駅から南に歩いて10分ぐらい、国道43号線を越えると、
お酒(日本酒)の名前の入った看板が、次々に目にはいってきます。



これらは、お酒づくりに使う井戸水を汲み上げるところです。
立ち入り禁止になっていましたから想像するしかないのですが、
おそらく建物の中はポンプ場になっているのでしょう。

このあたりは、灘地方と呼ばれ酒づくりの盛んなところです。
最近はあまり目や耳にしなくなったのですが、かつては
「灘五郷」(今津郷、西宮郷、魚崎郷、御影郷、西郷)の一つとして知られていました。


一般に、お酒は秋になると味が落ちるのが普通でした。
しかし、江戸時代末期の天保11(1840)年、灘地方で酒造りを営んでいた、
山邑太左右衛門(後の白鶴酒造)は、この西宮地域の水で仕込んだお酒は、
秋になると味が一段と芳醇になる(「秋晴れ」という)ことに気がつきました。
それ以来、各地の酒造家は、この水を使うようになったということです。

そのため、「西宮の水」を酒造家に売る「水屋」という商売も起こったといいます。
「宮水」は「西宮の水」から転じたもので、今でも
久保町、鞍掛町、石在町、東町の500m四方の地域の井戸から
各酒造会社は、汲み上げているそうです。
久保町に、「宮水発祥の地」の碑があり、公園風に整備されていました。

西宮(旧西宮郷)には、「日本盛」「灘自慢」「喜一」「白鷹」「白鹿」「灘一」「島美人」
などの多くの酒造会社があります。
どの会社も、こうして井戸から水をくみ出し、酒づくりに使っているのでしょうね。
最近は、偽表示問題がときどき話題になりますが、
こうして、「宮水井戸」と書かれた大きな看板を目にすると、
お酒に対する信用も増して来て、がんばっているな!と共感してしまいます。

市内には「酒蔵通り」と名付けられた通りもあります。


「白鷹」と「日本盛」が見えました。

最近は、酒造会社が経営するレストランや記念館等が増えていますが、
ここにも、「白鷹禄水苑」と「白鹿クラシック」がありました。
「日本盛」もあるようですが、行く時間がありませんでした。残念!

正月明けでしたので「白鹿クラシック」と「酒造館」、「資料館」は閉館でしたが、
「白鷹禄水苑」は開いていました。

中に、「白鷹」のお酒が飲めるショットバーがあると書いてありましたが、
私がいった時間は「終わりました」になっていました。
少し買い物をしましたが、禄水苑の限定品「味吟醸」500mlと、
高山産の赤かぶ漬けの相性が絶品でした。
さすが、「赤かぶ検事」が大好物だっただけありますね。


「白鹿クラシック」の近くに、
「日本人の手で建造され日本人が住んだ」最初の洋館、
辰馬喜十郎邸が残っています。

短い時間だったので、十分見えていませんが、
一緒にいった家人もけっこう楽しんでおりました。





蔭凉寺の「水墓」の話

2011年01月02日 | 日記
岡山市の西川筋と新京橋から西に向かう旧2号線が出会う、瓦橋の交差点の近くに、蔭凉寺という寺があります。
境内にある「水墓」は縁結びに御利益があるとして、若い女性の信仰を集めています。

その水墓は、参道の突き当たりにある石像の三重の塔です。

延宝元(1673)年11月27日、岡山藩士水野定之進は、朋輩の安宅彦一朗を切ったことで、蔭凉寺で切腹しました(説明によれば、享年22歳だったようです)。水野家の従僕七助は、主人定之進の菩提を弔うため、この寺の一隅に住んで、当時の庶民の飲料水であった西川の水を濾して、城下で売って歩いたそうです。

こうして少しづつ蓄えたお金で、主人の七回忌にこの三重の供養塔を建立したといわれています。

 君ゆへに 身を黒々と染めなして
       朝夕声をからす鳴くなり  

説明には「七助の狂句」と書かれています。カラスの黒と「真っ黒になって働いた」と「カラス」と「声をからす」を掛けていて、狂句らしい作品ですが、自分のことを誇るような句を、七助は自分で作ったのでしょうか?どうも、彼の生き方からすると、違うような気がしてなりません。

後年、岡山藩主池田綱政は七助の行いをたたえ、出身地(現赤磐市山陽町馬屋)にちなむ、「馬屋三右衛門」の姓を与えたといわれています。


この蔭凉寺は、「寛永9年、当時の岡山藩主池田忠雄の師である江山和尚隠栖の寺として、忠雄が建立した寺院です」。
(ご指摘により訂正させていただきました。)

江戸時代には、西川にかかる八ノ橋から九ノ橋まで、100メートル近い敷地を持っていました。

お恥ずかしいことですが、長年岡山市に住んでいたのに、この話をまったく知りませんでした。町を歩いていると、こういう収穫が時々あって得した気分になります。



岡山市の地名由来碑を歩く(4) 旧瓦町 旧下田町 旧桶屋町

2011年01月01日 | 日記
岡山市街地を南北に流れる西川には、江戸時代、
一ノ橋から十二ノ橋まで、12の橋が架けられていました。

平成3年に岡山市が設置した、
「岡山城下町の地名由来碑」をたどりながら、
西川の流れをさかのぼって、南から北に歩きました。

今回は、新京橋から西に向かう旧2号線が、
西川をまたぐところにかけられた九ノ橋、
瓦橋からスタートして、桃太郎大通りまでを歩きました。

   
現在の瓦橋は、当然ですが、江戸時代よりも
ずいぶん広くなっています。
瓦橋という名を探しましたが、なかなか見つからず、
やっと信号機のそばに見つけました。


橋の名の由来は、瓦町から付けられたようです。
江戸時代、九ノ橋の東側は瓦町となっていて、
「かわらし」の次郎左右衛門、左兵衛、清右衛門らが
住んでいたということです。

岡山市が設置した「旧瓦町」の地名由来碑は、
旧2号線の北側、西川よりも東の歩道の、
花壇の中に設置されています。


絵図からは、九ノ橋の両側には木戸があったことがわかります。
また、九ノ橋の西は、「庭瀬口」まで
足軽屋敷が並んでいたこともわかります。
岡山城の外堀にかかる大雲寺町口門から西に向かって九ノ橋に来た庭瀬往来は、
庭瀬口で岡山城下町を出て、庭瀬から倉敷、鴨方に向かっていました。

また、北から流れてきた西川は、九ノ橋のところで、
まっすぐ南に流れる枝川を分流して、
西川自身は南東方面に向かって流れていきます。

枝川沿いは、西川から続く緑道公園として、整備されています。


九ノ橋を左に見、八ノ橋をめざして北に向かいます。
江戸時代には、西川沿いの西側の道が
まっすぐ南北につながっていましたが、
緑道公園が整備された現代では、
東側の方が、歩きやすくなっています。

すぐに、蔭凉寺の山門が東側に見えて来ます。
寛永9(1632)年、池田光政が鳥取から移って来たとき、
いっしょに岡山にやってきた寺です。
絵図では、九ノ橋から八ノ橋までの広大な寺域を持っていました。

蔭凉寺を過ぎると、橋の手前左側に、
三叉(三俣)川の取り入れ口が見えてきます。
絵図では、三叉川は「野田川」と書かれています。
ここから、西に流れ、城下町の西部の村を潤す農業用水でした。

その先が、薬研堀橋、江戸時代の八ノ橋です。
蔭凉寺の境内に、薬研堀橋のかつての標柱が残っています。

薬研堀橋の写真の奥には、下田町公園が見えています。
この中に、「旧下田町」の地名由来碑が建っています。
このあたりは、かつて農地であったところを、
侍町に替えたことから田町と名付けられたところです。
中級武士の屋敷が続いていました。

七ノ橋は、あくら通りの出石橋です。
   
七ノ橋の東側は、西田町、その東は、東田町、
下級武士の屋敷や足軽屋敷でした。

橋の対岸の下石井公園の前には、
「西川筋」の地名由来碑が建っています。

六ノ橋は、県庁通り(平和橋)の一つ南に架かっている、
幸(さいわい)橋です。 

上の絵図では、東側の道からまっすぐつながっていましたが、
現在は、少し鍵形にまがって橋に行くようになっています。

五ノ橋は、野殿橋です。 

八ノ橋からずっと侍町が続いていましたが、
この橋の手前から野殿町(現・平和町)の町人町になります。
江戸時代の前期までは、西国往来(山陽道)は、
東の上ノ町方面からこの橋を通って西に抜けていて、
野殿口(市役所筋に面したみずほ銀行のあたり)から
城下町を出ていっていました。
そして、津高郡野殿村を経て笹ヶ瀬川にかかる野殿橋をわたって、
備中の国に向かっていました。  
町名は野殿村へ行く道ということから命名され、橋の名もそれに
ちなんでいるようです。

絵図を見ると、野殿口までは武家地が並んでいました。

野殿町の北は桶屋町、現在の平和町です。
野殿橋のすぐ北の、西川の東岸に、旧桶屋町の地名由来碑が建っています。
町人町で小早川秀秋の時代に成立した町といわれています。

平和町まで来れば、すぐに西川交番です。
桃太郎大通りに着きました。

<参考>
 「絵図で歩く岡山城下町」 「岡山市の地名」
http://www.city.okayama.jp/museum/yuraihi/index2.html