トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

魚梁瀬森林鉄道に乗って来ました!

2012年03月27日 | 日記
送られて来たバスツアーのパンフレットの中に、「清流に抱かれて 国指定重要文化財 魚梁瀬森林鉄道遺産を巡る」という、企画を見つけました。

魚梁瀬(やなせ)は、ゆずをつかった製品や地元の人が出演したTVコマーシャルで知られている、高知県馬路村の北部にあります。

「日本三大美林」(諸説がある)の一つである魚梁瀬杉の運搬のために建設された魚梁瀬森林鉄道が、馬路村魚梁瀬地区の丸山公園に復元されています。

この地図は、「なはり浦の会」が作成された「登録有形文化財のある町」に掲載されていたものですが、魚梁瀬森林鉄道は、安田川沿いと奈半利(なはり)川沿いに敷設された幹線と、多くの支線とで成り立っていました。

魚梁瀬森林鉄道は明治44(1911)年に、田野ー馬路間23.4kmが完成しました。魚梁瀬まで延伸されたのが、大正4(1915)年。大正8(1919)年にはさらに延伸し、田野ー石仙(こくせん)間が開通しました。一方、奈半利川沿う鉄道は、昭和17(1942)年に奈半利ー釈迦ヶ生(しゃかがうえ)間と支線も開通し、高知県内最大の森林鉄道の全線が完成したのでした。

この日は、奈半利から奈半利川沿いに上流の魚梁瀬に向かい、帰りは、馬路から安田川沿いに下っていくコースでした。途中で、沿線に残る鉄道遺産(平成21=2009年、国の重要文化財指定)を見学し、魚梁瀬の丸山公園で復元されている魚梁瀬森林鉄道に体験乗車することになっていました。

奈半利から、地元馬路村にお住まいの方がバスに乗車されて、ガイドをしてくださいました。

最初に、見学したのは小島(こしま)橋。馬路村の下流にある人口1500人の北川村にあります。本降りになった雨の中での見学です。昭和7(1932)年に建設された鋼鉄製のトラス橋で、幅7m、長さ143m。魚梁瀬森林鉄道では最長の橋でした。

いまでは、舗装されていて軽トラックも走っているそうですが、かつては線路の下に、奈半利川の水面が見えていたそうです。この橋の上流が、「24時間の降水量が830ミリ」という日本記録をつくったときの大災害の現場です。

次に、下車して見学したのが、同じ北川村にある二股(ふたまた)橋。昭和15(1940)年に建設された無筋コンクリート造りの2連アーチ橋です。板の枠をつくり、その中にコンクリートを流し込んでつくったそうです。「二股」の名の通り、ここは2つの川が合流するところです。見えている川は支流で、橋の向こう側を橋に平行して流れる方の川が、本流の奈半利川だそうです。幅3,5m、長さ46, 5mです。橋げたには、天地1尺(約30cm)の割石が積み上げられています。「石に水を加えながら鑿(のみ)を入れていく、最後はその中に黒色火薬を入れて、ふたをして、導火線で爆発させて割ったのです」。「石の数を数えれば、橋げたの高さがわかりますよ」と、ガイドさん。

バスは、やがて、安田川をさかのぼってきた道と合流しました。さらに進むと、東川が合流する東川口を越えます。魚梁瀬ダムの展望台に着きました。完成は、昭和45(1970)年でした。これは、魚梁瀬の人々の生活を大きく変えるできごとでした。魚梁瀬の人々は、ふるさとの村がダムの水底に沈んでしまったため、現在の居住地である(そして、復元された森林鉄道も走っている)、高台の丸山地区に移転することになりました。また、モータリゼーションの発達により、県道の拡幅工事も完成し、魚梁瀬杉の運搬もトラック輸送にシフトするようになっていました。一つの時代が終わる象徴のようなダムの完成でした。

すでに、昭和33(1958)年、魚梁瀬森林鉄道は、長山ー二股間の軌道の撤去が始まり、昭和39(1964)年には、全線が廃止になってしまっていたのです。

ガイドさんは、若い日、ダムの上にステージをつくり、有名歌手のコンサートを開き、多くの村人を動員したことを、なつかしそうに語っておられました。

昼過ぎに、魚梁瀬の丸山公園着。馬路村の人口約1000人のうち、200人が住んでいます。小、中学校も公園のすぐ近くにありました。さすが、魚梁瀬と思わせるハイセンスな木造の公園の駅舎。記念の写真や復元された展示物がたくさんあり、見ていて楽しい駅舎です。

まずは、昼食です。馬路温泉駅前弁当です。曲げワッパ風の丸い弁当箱。見た目は地味な印象ですが、味もボリュームもなかなかでした。かつて、TVの弁当番組に出演したとき、まったく売れなくて、支配人が悔し涙にくれたということもあったそうです。

この方が復元された森林鉄道の運転手さん。平成元(1989)年、魚梁瀬森林鉄道を語る会が設立され、平成2,3(1990~1991)年ごろ、レールを敷設して走らせたいうことです。復元、保存活動に熱心に取り組んで来られた方です。地元の温泉旅館の方だそうです。

森林鉄道は、丸山公園の軌道を2周します。乗車券は杉の板でできていて400円です。回収されないので記念にもって帰ることができます。

手動のポイント切り替えで、軌間は762ミリの狭軌鉄道です。

この写真は、駅舎に掲示されているものを撮影したものです。お話によれば、廃線後、野村工作所(高知市)のディーゼル機関車(以下DL)、L69型チューン式DLが保存されていましたが、重さが約4トン半あり、「重いため線路の負担になる」ということで、通常は、重さ3トンの垣内鉄工所で復元した、青い塗装の谷村式サンドロッドDLが牽引しているそうです。

これが、谷村式DLです。運転手さん以外、誰も乗車していませんが、体験運転をしているところです。体験運転は、1回、1000円で、公園内の軌道を2周させることができます。時速15kmのゆったりとしたスピードで、警笛を盛んに鳴らしながら走っていました。ちなみに、現役時代の森林鉄道のスピードは時速20~30kmだったということです。木造客車の前に、トロッコ風の2両が連結されていて、それには、パイプいすが4脚ずつおかれていました。体験乗車の時には、幸い雨があがり日差しもありましたので、快適な乗り心地でした。

機関区前を通過する森林鉄道です。乗車して公園内を回っているとき、この機関区の中に野村式DLがいるのが見えました。

これは、駅舎の展示品です。かつて、掲示されていたものを復元したそうです。杉材の輸送が中心の鉄道らしく、「乗るのなら乗せてあげてもいいよ」という雰囲気を感じますね。

写真が展示されていました。当時の運賃表です。

時間が少なくて、お弁当を食べ終わったら、すぐに集合時間が来ました。残念ながら、ほとんど見学することなく出発になりました。
 
バス旅行では、必ず寄り道していくお土産屋さん訪問。馬路村のふるさとセンターです。馬路橋のたもとにあり、おなじみのキャラクターが迎えてくれました。
 
ゆず製品が中心ですね、やはり。 中にいたおばあさんのお人形が気に入りました。

これらの製品は、ふるさとセンターの川向かいにある、加工工場でつくられ、手前の発送センターから出荷されています。

馬路村を抜けて安田川沿いに走り、安田町に入ります。最後の、下車しての見学。国指定重要文化財の鉄道遺産、明神口橋です。木造橋を、昭和4(1929)年に鉄製のトラス橋に改造したもの。下はグレーティング構造になっており、川面が見えています。「祖谷のかずら橋みたい」という声も出ていましたが、怖さは全然違い快適でした。2トン以上の車両は通行止めとのこと。この橋を渡ると、すぐトンネルに入ります。トンネルの手前の部分は、「文化財に指定されるとは思っていなかったので」トンネルの内部が改造されていました。

オオムカエ隧道。 長さ37,6m。 明治44(1911)年建造です。この写真は、トンネルを反対側に抜けて、ふり返ったところです。砂岩の切石の石積みで、せり石をアーチ型に積み上げて、最後に上部中央のかなめ石を落としたつくりです。側壁の部分は、強度を増すため、城郭の石垣によくある、いわゆる算木積みになっていました。緑の服のガイドさんの右の側壁の石の表面に「Ⅲ」と彫られていました。これは下流から三つ目のトンネルを示しているそうです。

雨が降ったりやんだりの不安定なお天気でしたが、このような気候が杉の美林を育てるのに都合がよかったのでしょう。戦時色が強くなるにつれ、杉の美林はどんどん伐採されていきました。平成4(1992)年には、最盛期の10分の1になってしまったそうです。現在では、樹齢150~200年という天然林は、千本山(せんぼんやま)の保存林に残るだけになり、多くが人工林になったそうです。

平成元(1989)年ごろ、天然林の材木1本を、高知の木材市場で、試験的にセリに出したことがあったそうです。材木1本は4mに切った9玉、トータルで36mあったそうですが、セリでは、3500万円の値が出たそうです。元玉、1m50cm、梢(頂上)12cmという太さだったそうです。

高知では、裕福なお宅では、「官材」(かんざい)を使って普請をしたそうです。「官材」とは、国有林の樹齢、100~150年の天然木のこと。ガイドさんのお話で印象に残っていることを最後にまとめました。
魚梁瀬の天然林のすばらしさに感動しました。いい旅になりました。

出雲街道に沿って、津山市城西地区を歩く

2012年03月24日 | 日記
このところ、旧出雲街道を少しずつ歩いています。
雨が降り続く中を、出雲街道に沿って津山市の城西地区を歩きました。
出発はJR津山駅。
駅から今津屋橋を渡って、”ごんご通り”(鶴山通り)に入ります。
「ごんご」とは、河童のことで、吉井川に沿った作陽学園のあたりに出没し
付近の人を驚かせていたといわれています。

ルートは観光案内の掲示板に書かれています。
地図の右側の南北の通りが”ごんご通り”です。
オレンジ色のルートにそって歩きます。

以前、城東地区を歩いたときに右に向かって進んだ、
ソシオ一番街を、今回は左(西)に向かいます。
出雲方面に向かって歩くことになります。

地図では、この先で2つのルートに分かれています。
デパートの天満屋が入るアルネ津山の中を通り右折するルートと、
その手前の吉田カバン店の角を右折して二階町に入るルートです。


吉田かばん店のところを右折して二階町の通りを歩きます。

二階町は、井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場する豪商の蔵合家が
二階建ての家を建てたことに由来する町です。
写真の左のビルの間を左折します。

”Gintengai”のアーケードを右折して、銀天街に入ります。

津山藩主の大名行列の絵が飾られたところ、元魚町の手前を左折します。

二番街、そして本町三丁目と進んでいきます。

古くは元魚町が1丁目といわれていたので、
江戸時代には、ここは2丁目、3丁目と呼ばれていたそうです。
街道沿いに広がる商人町でした。
昭和になって「本町」がついて、現在の町の名前になったそうです。
アーケードがつきると奴通りに出ます。

出雲街道は、奴通りを右折して北に50mぐらい進み、
トマト銀行の手前を左折します。

坪井町。
城東地区にある勝間田町などと同じように、出身が同じ人が集まった町で、
津山市西部の旧坪井宿から移ってきた人々が住んだ町です。
昭和の雰囲気がただよう落ち着いた雰囲気の町です。

津山坪井郵便局を過ぎると、道路の舗装の色が変わります。
ここから、宮脇町に入ります。

道路の色が変わる前の電柱があるところを左に曲がると、
10mぐらいで、神社の石の鳥居が見えてきます。

徳守神社の鳥居です。
天平5(732)年に勧請された由緒ある神社でしたが、
戦国時代に焼失していたのを、
津山藩の初代藩主、森忠政が、
慶長9(1604)年に、津山城下総鎮守として造営したといわれています。
本殿、拝殿は寛文4(1664)年、
名君と称えられた2代藩主森長継が再建したものだそうです。

本殿は、入母屋式妻入りの中山造。 屋根は銅板葺き。
正面に、唐破風様の向拝(こうはい)がついています。

宮脇町が尽きる手前を右(北)に進むと、
旧中島病院の本館の建物があります。

大正8(1919)年建築の、津山最古の病院建築。
一見、鉄筋コンクリートづくりに見えますが、2階建ての木造建築です。
国の登録有形文化財に指定されています。
現在は、城西浪漫館となっています。

再び、宮脇町に戻ります。

津山信用金庫西支店の前で、道は少し左にカーブします。
その先が翁橋(おきなばし)です。
江戸時代、ここは城下町への西からの入り口で、大番所が置かれていました。
ちなみに東の入り口の大番所は、宮川大橋の西詰めにありました。
南北に流れる藺田川(いだがわ)にかかる橋で、江戸時代には、
茅野橋とか九蔵橋とよばれていたとか。
また、岡山往来の起点でもありました。

大正15(1926)年に木造の橋から、現在の鉄筋コンクリート造りに
掛け替えられたそうです。
国の登録有形文化財に指定されています。

この写真は、翁橋を渡った先を、左に藺田川に沿って
吉井川に下っていく道を写したものです。
この道に入ります。

雨が激しく、ズボンが濡れてびしょびしょになり、
カメラのレンズも曇り始めていました。
100mぐらいで、泰安寺の参道に着きます。

森家の改易後に津山藩主となった、松平家の菩提寺です。

右に参道を進むと泰安寺の本堂に着きます。
ここには、松平家初代藩主松平宣富、7代藩主松平斉孝とともに、
前藩主の森長継の第13子大吉の墓があるそうです。

泰安寺の東にあるのが、浄土宗成道寺。
慶長9(1604)年、藩主の森忠政が建立した寺院です。
明治39(1902)年、元津山藩、次に元北条県で使われていた門が
払い下げられ、山門として使われています。
山門に接している右の建物は番士(かち)がいたところです。

また、翁橋まで引き返します。
ここからは、西今町になります。

左に洋館建築が見えます。  旧土居銀行本店の建物です。
土居銀行は、明治30(1897)年、
津山市の素封家で元県議の土居通信(元県議)が設立しました。
大正9(1920)年、株式会社に変更しここに本店を建築しました。
この建物は、そのときの本店でした。
その後、作備銀行、山陽銀行と名を変え、
昭和5(1930)年に中国銀行になりました。
所有者は何回か変わりましたが、
平成4(1993)年、津山市が買い取り、平成5(1994)年から
現在の、作州民芸館として使用されています。

おひな様が飾られていました。

作州民芸館の向かいに、東海山本源寺の山門があります。
本源寺は、津山藩主森家の菩提寺です。
この先が、本源寺の長い参道です。
保育園を過ぎて、本源寺に着きます。

本源寺の本堂。立派な建物です。

御霊屋(おたまや)表門です。この先には入れませんが、
中に御霊屋がつくられています。
また、津山藩初代藩主、森忠政の座像も納められているそうです。

西今町は、古くは茅野町と言われ、
江戸時代の寛文年間(1661~1673)に津山城下町に編入されたところです。
旧街道の雰囲気が色濃く残っています。

切妻平入りの建物で2階に袖壁をつけ、
虫籠窓に出格子がついた民家が並んでいます。

西今町を過ぎると、西寺町に入ります。
白漆喰の土塀が続いています。

赤門があざやかな寿光寺。

寿光寺の次の路地にあったトイレです。
周囲の雰囲気に見事にマッチしていました。
雨に濡れ寒い日でしたので、ほんとにありがたいことでした。

鐘楼のついている山門。 愛染寺。
創建は慶長10(1605)年。
山門は正保元(1644)年に造営されました。

左側には、津山城下町最大の本堂をもつ、広い敷地の妙法寺。
本源寺、泰安寺とともに、津山三大寺院と言われています。
西寺町のエリアには、この他に、本行寺、妙勝寺、長安寺、大雄寺、福泉寺、
光巌寺、成覚寺が並んでいました。

愛染寺につづく大圓寺を過ぎると茅野町に入ります。

ここも、昭和の雰囲気を感じる町並みです。

茅野町を抜けると南東から北西に斜めに走る道とぶつかります。
旧出雲街道は、この道を右に向かっておりました。

その先、旧出雲街道は、
津山市街地の北部を西に向かう国道179号線と平行して、
院庄に向かいます。
院庄まで歩くつもりでしたが、激しい雨に負けて、ここで、
JR津山駅に引き返すことにしました。
歩き始めてから、ここまで4時間弱かかりました。
距離的には長くはなかったのですが・・・・。

三日月宿本陣を訪ねて・・

2012年03月20日 | 日記
兵庫県西北部の旧佐用郡三日月町。三日月という魅力的な地名のこの町は、平成17(2005)年に4町が合併して今は、佐用郡佐用町三日月になっています。あの、なんとなく興味を引かれる魅力的な町名は、なくってしまいました。

元禄10(1697)年、津山藩森家が嗣子なく改易されたとき、支藩の津山新田藩主森長俊が1万5千石で、この地に藩を立てました。そのとき、乃井野地区の山裾につくった陣屋が復元されて残っています。この町は、また、出雲街道の宿場町としても知られています。出雲街道は、出雲から伯耆、美作国を経て、姫路に向かう江戸時代の交通路。出雲藩やその支藩広瀬藩の参勤交代の道でもありました。出雲街道は現在の国道179号線に沿って続いていました。この日は、旧三日月宿の本陣を訪ねることにしていました。

写真の右側が国道179号線。JR三日月駅方面に向かう右側の道から乃井野地区で分かれ、三日月の町に入りました。その道を左の山の方に向かうと旧三日月の陣屋町跡。

右に向かい志文川(しぶみがわ)を渡ります。川の真ん中から田此(たこの)地区。

旧街道の面影を感じる商店街です。中央の白い建物が旧三日月町役場です。

右手に、JR三日月駅に向かう道を見ながら、旧役場を過ぎると、5分ぐらいで国道179号に再び合流します。

その手前の右側に「紀年碑」がありました。「明治23年9月17日午前8時洪水流出地盤壱町余歩家屋・・・」と、この地の洪水の記録が残されていました。再び、国道179号線を進みます。桜橋の左手奥にすごいお宅が見えました。

かつての庄屋さんのお宅なのでしょうか?長屋門風の建物の後ろに煙出しのついた主屋が見えます。広い敷地に土蔵など建造物がぎっしり。さらに南に進みます。

三日月東駐在所を示す大きな案内板がある所から、左の道に入ります。

「三日月町」のマークを見ながら進みます。すると、すぐに道は左カーブ、そして、次に右カーブ。鍵形に曲がって進みます。入り口で「この道が旧出雲街道ですよね?」とお聞きすると、「この先の織田さん宅には、因幡の殿様が泊まってたよ」。そうか、鳥取から大原宿、平福宿を経由して参勤交代の旅をする鳥取藩主も佐用からは出雲街道に入っていたのでした。めざす本陣が近づいていると感じました。

建物もほとんど建て替わっていて、静かな住宅地という雰囲気ですが、道の両端にある水路が往事の面影を伝えてくれています。今も、左側の水路には澄んだ水が流れていました。かなり、大きな宿場町です。案内にあった、三日月東駐在所を越えて、左右にゆるやかにカーブしながら進んでいきます。聞こえるのは、国道179号線を走る車の音だけです。

突然、左側に常夜灯と、その先のシートに覆われた屋敷が見えてきました。

この常夜灯は、神社の入り口にあったものでした。神社は、山裾の険しい階段を上がっていった先にありました。シートに覆われたお屋敷は広い敷地で、奥にあった白い土蔵だけは、きれいに整備されていました。主屋は屋根が抜けてしまったのでしょう。 残念です。

次に目に入ったのが、常夜灯の向かいにあった大きな白い土蔵。右奥に向かって3列並んでいました。その先には黒漆喰で仕上げられた私邸部分、豪壮な邸宅でした。

ここがめざす旧本陣でした。

本陣部分には、白漆喰で塗られた塀の間にある立派な門が残っています。ここから、宿泊・休憩する藩主が入っていったのでしょう。

主屋の鬼瓦には、「慶長3(1598)年戊戌建之 昭和63(1988)年辰年織田家当主昭和大修理」の文字があるそうです。裏を走る国道179号線までの広い広い敷地でした。

その先の左側には、塗られていたと思われる漆喰がはがれ落ちて街道沿いになまこ壁だけが残る土蔵が残っていました。主屋の方はすでに建て替えられていました。

ここを過ぎると宿場町も終わりです。写真の左の「みかづきほいくえんバスのりば」を過ぎると、道幅も細くなります。国道179号線に三たび合流した後、次の千本宿に向かって街道は続いていきます。

それにしても、「三日月」という魅力的な地名はどんな経緯でつけられたのでしょうか。地元の方におうかがいしたら、生まれたときから三日月だったから、よくわからない」というお答えが多かったのです。「鎌倉幕府の執権、北条時頼がこの地を訪問したとき、病を得て、3ヶ月間、この地に滞在したということから、三日月の地名がついた」とのこと。国指定の重要文化財である北条時頼像(全国に2体しかないもの)が、1体、近くの最明寺に残っていることも、この話を裏付けているようです。

「三日月」というお月さんからではなく、「三ヶ月間」という期間から名づけられたようですね。町中に「あの三日月マーク」がたくさんあったこともあり、当然お月さん由来と考えていましたので、少し残念でした。

でも、由来はそうでも、町の人はお月さまの三日月に親しみを持っておられると強く感じました。やはり、魅力的な町でした。

”はばタン列車”、お疲れ様!

2012年03月16日 | 日記
JRの新幹線の初代”のぞみ”300系車両が、
ラストランとなった平成24年3月16日。
在来線の定期列車でラストランを迎えた列車がありました。

乗り継ぎ時間を利用してたまたま降りたJR姫新線の播磨新宮駅で、
そのことを知りました。
すごくラッキーでした。
その列車の名は”はばタン列車”。

「ありがとう はばタン列車写真展」。
改札口の前に、四季おりおりの風景にとけ込んだ、
”はばタン列車”の写真が掲示されていました。

”はばタン列車”は、
JR姫新線の播磨新宮駅から上月駅までを、
区間運転している列車です。

この日の10時19分、上月駅からやってきた3840Dが
播磨新宮駅の3番ホームに入ってきました。

この列車は、折り返し、3833Dとして、
佐用駅に向かって出発することになっていました。

”はばタン列車”は、黄色を基調にした中に、
「のじぎく兵庫国体」のキャラクターが描かれています。

また、国体らしく、
スポーツをテーマにしたデザインもありました。
バドミントンの他に、

ラグビーにキャラクターも頑張っていました。
また、聖火ランナーのキャラクターも。

ヘッドマークは前が姫新線で、
後ろが赤とんぼをテーマにしたものでした。
赤とんぼは、「赤とんぼの里、竜野」を
イメージしているのでしょう。

キハ402091車両。

昭和56年、新潟鉄工所製です。
今年で31歳。 そんなに老朽化しているわけではありません。
しかし、乗車しておられた沿線の方は、
「3月17日からは、
日中の運行が2時間に1本程度になるのでね」と
残念そうに話しておられました。

そういえば、
すでに、上月駅ー津山間、津山ー新見間の姫新線では、
日中は、2時間に1本程度の運行形態になっています。
また、”はばタン列車”ももうすでに6年目を迎えています。

利用者が伸びず、運行本数が減らされたから?
国体をテーマにした”はばタン列車”も旬をすぎたから?
いずれにしても、
この車両の働き口がなくなってしまったのでしょう!

列車の乗車してみると、”はばタン列車”の写真が
つり下げられていました。

まっ赤に熟した柿の実を見ながら走る”はばタン列車”の写真。

メッセージも・・・・。

竜野北高校デザイン科の生徒さんが書かれた駅名の案内。
たくさんの人が、
”はばタン列車”にかかわってきたのですね。

三日月駅の待合室にも、終了を告げるポスターがありました。

16日で定期運行は終わりますが、
イベント列車としてはまだ活躍の機会があるようです。
”はばタン列車”の「えんむす日」で、
いい出会いがあるといいですね。

これからは、
現在、一部上月駅まで運行している、
高速化に対応したキハ122系の車両が
カバーするのでしょうか。

それとも、キハ40系の別塗装の車両(右)が
カバーするのでしょうか?

キハ40系車両は、全国の非電化区間を走っています。
私のふるさと、岡山県でも、津山線や吉備線の
現役車両として活躍しています。

この日は、ラストランということで、
播磨新宮駅の近くの園児も別れを告げていました。

キハ402091車両にも今後の活躍の場があればと
願いながら、
別れを惜しんだものでした。

「車で2分」の小さな宿場町、旧出雲街道坪井宿

2012年03月03日 | 日記
このところ、出雲街道を少しずつ歩いています。

先日、ネットで検索していたら、「おかやま歴史発見の旅ー『出雲街道』歴史の道」に、「車では約2分で旧宿場町を通過」と書かれている、
宿場町がありました。

旧出雲街道の旧坪井宿です。急に行ってみたくなって、小さな宿場町にかつての面影をさがしに出かけました。

JR西日本の「岡山・尾道おでかけパス」、JR西日本岡山支社管内の在来線乗り放題切符(1800円)ですが、それを使って、津山から姫新線の新見行きで約20分の坪井駅をめざしました。

JR坪井駅です。昭和61(1986)年に無人駅になり、その後、開業以来の木造駅舎も撤去され、プレハブ風の小さな駅舎になっていました。

駅から、南に約50mぐらい行けば国道181号線。旧出雲街道です。右に曲がって、次の旧久世宿方面に進みます。松江藩やその支藩の広瀬藩の参勤交代の道。慶長8(1603)年、森忠政が津山に入封してから整備された街道と宿場町でした。津山城下町からは、院庄で吉井川を渡り、旧久米郡内の領家(茶屋)、千代(せんだい)を経て、坪井宿へ入っていました。

やがて、181号線はゆるやかに右にカーブします。181号線から分かれて、そのまま、分かれ道をまっすぐ行くと、「出雲街道坪井宿」の看板がありました。その奥の、久米川を渡る大渡(おおわたり)橋を渡って、右方向に進むと旧出雲街道坪井宿です。その道を久米川に沿って歩きます。旧坪井宿は、津山城下町から3里半(14km)。参勤交代が制度化された、江戸時代前期、寛永年間(1624~43)に整備されました。

旧街道の右側、久米川沿いに坪井一里塚の跡がありました。一里塚は1里(36町、約4km)ごとにつくられ、5間(約9.1m)四方に土を盛り、
中央に松や榎木を植えていました。津山からは、領家、坪井、追分の順に、設置されていたといわれています。この地には、明治初年まで、周囲8尺(2.4m)の松があったと説明には書かれていました。

一里塚跡付近で久米川に合流する七森(ななもり)川に沿って進みます。

水切り瓦のついた民家が見えました。

このお宅を抜けて、少し行くと、道幅が7mとずいぶん広くなり、道路の左側(南側)に、七森川から引いたという水路が流れていました。この水路は、かつては街道の中央部を流れていたそうです。中央の水路の右(北)側が出雲街道で、多くの旅籠や民家が並んでいました。水路の左(南)側は地元の人が通る里道になっていました。水路をはさんで分けられているので、その形から「麦飯町」と呼ばれていたそうです。道幅はどちらも2間(約3.6m)ずつでした。現在は、この水路が左側に移されていて、4間(7.2m)が道路になっています。広いはずですね。

しばらく進むと、左側の民家の前に、「坪井の宿場」の石碑と案内板がありました。
 
上の写真の水路の左側に、案内板がありました。

案内板の右斜め前のお宅(現、林原鮮魚店)があるところに、旧坪井宿本陣が置かれていました。

その先の左側にある金毘羅宮の常夜灯。安政2(1855)年の銘がありました。これも、かつては宿場町の中央の水路のところにありました。火袋のところだけは、木でつくられていました。「上田丁」(上町) 世話人住屋助左衛門ら3人と、「下田丁」(下町)からも、3人の世話人の名が彫られていました。
 
白壁に袖壁のついた民家です。2軒並んだ手前のお宅はサッシに改造されていましたが、奥のお宅には全面に格子戸が残っていました。

この2軒は、どなたも住んでいないお宅のようでした。立派な造りのお宅でしたが、傷みが進んでいるようでした。
 
虫籠町、格子戸、なまこ壁、袖壁のなどのついた民家が、今も残っています。

街道の出口(久世宿方面)です。181号線との合流地点には、花壇がつくられていました。
 
そこには、「津山市環境衛生推進員会」の23年度最優秀団体賞を受賞したという標識がおいてありました。花壇の手前にも、「出雲街道坪井宿」の看板が立っていました。

旧坪井宿の入り口にあった「下愛宕様」の祠です。

坪井宿は明治になって2回大火を経験しました。明治14(1881)年には、36世帯80余棟が焼失しました。同じ被害が明治40(1907)年にもありました。宿場の人々は、愛宕様をお祀りして、火災や病気除けを願ったのです。

宿場の端まで、ゆっくり歩いて20分ぐらいでした。国道181号線を走るドライバーは、「坪井宿」の標識がなければ、ここに宿場があったことに気がつかないでしょう。

旧宿場町の中で、目立つ看板をつけた商店は2つの鮮魚店だけ。余りにも普通で、目立たない小さな集落です。古い民家も残っていますが、町並み保存」とかけ声をかけて残しているわけでもありません。「古くなって、普通に修理したら今の形になっただけだよ」と言われそうなぐらい、自然なのです。

車で走っていないので確かなことはわかりませんが、「車で約2分」で通り過ぎるというネットの記述は多分正しいのでしょう。
小さな宿場町でしたが、かつては、参勤交代の途中の大名も、ここで休憩したところでした。地元の人々には、かつての繁栄が誇りなのではないでしょうか。

JR姫新線は、日中は2時間に1本ぐらいの列車しかありません。「時刻表」を見ると、この時間では、坪井駅から新見駅を経て伯備線経由で岡山駅に帰る方が、津山駅に引き返して津山線で岡山に帰るより15分ぐらい早く着くのです。

「乗り放題切符」でしたので、坪井駅では、新見に向かう姫新線の列車、キハ120系の単行ワンマン列車の到着を待つことにしました。