トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

トンネルと鉄橋の駅、JR武田尾駅

2014年04月30日 | 日記
JR尼崎駅からJR福知山線(愛称JR宝塚線)の普通列車に乗りました。福知山線は尼崎から伊丹、宝塚、三田、篠山口、柏原(かいばら)を経て福知山に向かう、106.5kmの路線です。平成17(2005)年、尼崎・塚口間で多くの犠牲者を出した脱線事故は、今も多くの人々の記憶に残っています。

尼崎駅から30分余りで、武田尾駅に到着しました。福知山線は明治24(1891)年に尼崎駅・伊丹駅間が開通した川辺馬車鉄道に始まります。そして、国への移管を経て、明治37(1904)年に大阪・舞鶴を結ぶ鉄道が開業しました。

武田尾駅の直前にあった名塩トンネルです。名塩トンネルと駅との間には武庫川があります。宝塚駅を出た福知山線の列車は、その次の生瀬(なまぜ)駅から長いトンネルを抜けて西宮名塩駅に着き、さらに長いトンネルを抜けて武田尾駅に着きました。後部の車両に乗っていたので、下車したところは何と武庫川に架かる第2武庫川橋梁の上でした。どうやら下車したのは、私一人だったようです。

列車はすぐに次の道場(どうじょう)駅に向けて出発し、乗車していた車両も馳渡山(かけわたりやま)をくぐる第1武田尾トンネルの中に入って行きました。 生瀬・道場間が、トンネルを越える現在の路線になったのは昭和61(1986)年。 複線電化された新線が開通してからでした。それ以前の福知山線は、武庫川に沿って自然豊かな風景が続く、のどかな路線だったといわれています。

鉄橋上のホームからトンネルに入っていきます。中にも2面2線の駅が続いていました。広々とした立派な駅舎です。駅がトンネルの中におさまりきらず鉄橋上にまで広がっていったということでしょうか。ちなみに、旧線時代の駅舎は1面2線の島式のホームだったようです。

待合室の向こうにプラットホームが続いています。トンネルといっても天井がドーム状だったため広々とした印象を受けました。

トンネルの中の壁面にあったプレートです。この駅舎は、1983(昭和58)年に完成したようです。なお、武田尾駅は、明治32(1899)年、当時運行していた阪鶴鉄道の有馬口(現在の生瀬駅)~三田駅間が延伸したときに設置されました。現在の駅は昭和61(1986)年に、生瀬駅~道場駅間が新線に切り替えられたときに開業しました。

駅名標とベンチです。ホームにはゴミ一つありません。清潔な印象でした。

トンネルの出口に、ホームからの出口が設けられていました。ここから下っていきます。

1階に降りてきました。向こうの階段は西宮名塩・尼崎方面行きのホームへの道です。手前を右に行くと駅から出て行くルートになります。ホームは3階部分にありました。

1階にあった駅の改札口です。左にトイレが設置されていました。清掃の行き届いた清潔なトイレでした。なお、武田尾駅の1日の平均乗車人員は573人(2011年度)だったそうです。

改札口の、向かって右側にあった待合いのスペースです。自動販売機とベンチがありました。掲示されていた時刻表では、上りも下りも1時間に5本ずつ列車が走っています。

待合いスペースから駅の外に出て行きます。

駅の北側の広場は阪急田園バスのJR武田尾駅前バス停でした。

そのとき、次の道場方面行きの電車が到着しました。鉄橋の上にも停車しています。右側の名塩トンネルの前にある鉄橋の大部分を駅が占めています。武田尾駅は「トンネルと鉄橋の駅」と言っていいでしょう。

駅の周辺の状況が見えます。到着したときに駅のホームから撮影した写真です。武庫川の上流を撮したものです。右の道路は駅舎から続いており、福知山線が複線電化される前の線路跡につくられています。交通量はさほど多くはありませんでした。

かつての線路跡は道場駅に向かって、この先でトンネルに入っていました。トンネルの左の赤い施設は武庫川に架かる武田尾橋。武田尾温泉に続いています。

先ほどの写真の対岸は、ご近所の方のお話では「武田尾温泉に行く送迎バスが通っていた道です」とのこと。武田尾温泉は、寛永18(1641)年関ヶ原の戦いのとき豊臣方についていた、落武者の武田尾直蔵が発見したといわれる温泉です。「武庫川の清流と豊かな自然に出会える『秘湯』」なのだそうです。山麓の川沿いに4軒の温泉宿が並んでいます。ホームからは藁葺き屋根の宿、河鹿荘が見えました。

この写真は反対側のホームから撮影した武庫川の下流部分です。駅から続く左の道はかつての線路跡です。神戸市水道管の向こうの橋の左にかつての1島2線の武田尾駅がありました。そして、神戸市水道管の真下の道路に二つの線路に分かれるポイントがあったそうです。現在は、線路跡を活用したハイキングコースが整備されています。

水道管側から撮影した武田尾駅です。鮮やかな色合いの駅舎です。さて、私には信じられないことでしたが、この駅は牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」の200ある秘境駅の200位に位置づけられている「秘境駅」でした!! 牛山氏は、その根拠として「秘境度」と「雰囲気」がそれぞれ2ポイント、「列車到達難易度」「外部到達難易度」「鉄道遺産指数」各1ポイントずつの総合7ポイントをあげておられます。

武田尾駅は、1日平均乗車人員573名。 1時間に5本程度列車が走る複線・電化路線にあり、バス停も隣接しています。広々とした清潔な駅、状況的には「秘境駅」にふさわしくない駅です。しかし、「トンネルと鉄橋にある駅」というシチュエーションと、武庫川に沿う静かな雰囲気は秘境駅に共通するものを含んでいます。牛山氏が「雰囲気」に2ポイントカウントしたのもうなづけます。また、200ある中の200位という順位もなかなか味わいがあります。秘境駅の雰囲気もあるけど純粋な秘境駅でもない、そんな印象が順位にも反映されているのでしょう。近代化された中に、秘境駅の雰囲気も楽しめる魅力ある駅でした。 



JR因美線の”秘境駅”、知和駅

2014年04月24日 | 日記
牛山隆信氏が主宰する「秘境駅ランキング」に、岡山県からは4つの駅がランクインしています。すでに、JR伯備線にある方谷駅(197位・「JR方谷駅「登録有形文化財」への登録確実」2011年4月15日の日記)、布原駅(40位・「伯備線にあって伯備線の駅でない布原駅」2014年3月31日の日記)、新郷駅(139位・「鳥取県境の秘境駅、JR新郷駅を訪ねる」2014年3月25日の日記)は訪ねました。
4月中旬の一日、4つ目の秘境駅である、ランキング134位の知和(ちわ)駅を相棒とともに訪ねました。知和駅はJR因美線の、鳥取県との県境に近い中国山地の中にあります。
出発はJR津山駅。私は、この日、11時35分発の因美線の列車に乗ることにしていました。この日は平日でしたので、この列車の前に因美線の列車は3本ありました。しかし、2本は知和駅を通過し智頭駅に向かう列車で、1本は知和駅の手前の美作加茂駅止まりの列車でした。つまり、11時35分発の列車は、知和駅に停車する、この日最初の列車だったのです。
これは、津山駅の待合室に飾られていた知和駅の絵です。国鉄時代の小規模駅舎に共通するデザインの駅舎でした。ちなみに、「知和」をひっくり返した「和知(わち)駅」がJR山陰線にあります。
改札を出て、地下の通路を歩きます。因美線は1番ホームから出発します。大正7(1918)年の第41帝国議会は、大正12(1923)年に鳥取・智頭間が開通していた因美軽便線を津山まで延長させ、因美線と改称することを決議しました。ちなみに岡山・津山駅間は、これより以前の明治31(1898)年に開業していました。
1番ホームです。因美線の列車がすでに入線していました。2番ホームはJR姫新線の出発ホームです。
列車は智頭に向かうディーゼルカーの単行列車。キハ120328号車。因美線はすべてこのキハ120系の車両が使用されているそうです。ワンマン運転でした。
時刻表に書かれていた智頭までの停車駅です。知和駅まで36分ぐらいかかるようです。
定時に出発した列車が東津山駅から高野駅に向かって走っているときの写真です。線路が田んぼの中をまっすぐ走っています。地元、津山市在住の方のお話しでは、「軍が敷設したため、有無をいわせず田んぼをまっすぐ切り開いた」ということでした。
高野駅の次の駅は美作滝尾駅(2011年5月14日の日記)です。駅舎は、文化庁の登録有形文化財に登録されています。映画「フーテンの寅さん」のロケ地になったことでも知られています。
美作滝尾駅から先、列車は山のすぐ脇を走るようになります。因美線は、山陽と山陰を結ぶいわゆる”陰陽連絡路線”の一つとして、津山線と因美線を通って急行「砂丘」が、岡山駅と鳥取・倉吉駅を結んでいました。「砂丘」が廃止された翌年の平成9(1997)年からは、落石防止のため、列車は時速25kmの速度制限を受けるようになり、また、雨天時は時速15kmまで減速することになりました。これは、それを示す速度制限の標識です。
美作加茂駅から3.8kmで知和駅に着きました。1面1線、上り列車も下り列車も同じ線路を使用する棒状の駅でした。知和駅は津山駅管理の無人駅です。1本しかないホームには待合室がつくられていました。
ホームです。この日、初めて到着する駅でしたが、下車したのは私たち2人だけでした。2011年度、この駅で乗車する人は、1日平均9人だったそうです。
清掃が行き届いた清潔な待合室でした。忘れ物の傘でしょうか?
待合室の建物財産標です。昭和29(1954)年と記録されていました。
待合室の近くにあったキロポスト。鳥取駅から52kmの距離にあることを示しています。
列車は、智頭に向かって出発して行きました。次の駅は転車台が残る県境の駅、美作河井駅(2012年7月13日の日記)。知和駅から3.5kmのところにあります。その次の那岐駅は鳥取県になります。私は、この列車が智頭から折り返してくる13時26分まで、この駅にとどまることにしていました。
駅舎の方に向かって歩いていたとき、「停車場中心」の標識が見えました。現在のホームの端の方にありました。
ホームの端です。かつてのホームはもっと先まで続いていたようですね。ホームの形から、かつては線路が2本あったのではないかと思ってしまいました。
ホームから駅舎に入ります。知和駅が開設された昭和初期の姿を残しています。
ここを通過したたくさんの乗客の手でつるつるに磨かれていた木製の改札口から、駅舎に入ります。
出札口です。木組みと白壁が美しい駅舎内です。
小荷物取扱口。このカウンターも昔のままでしたが、ぴかぴかに磨き込まれています。中の事務所も覗ける状態です。
カウンターの上に置かれていた「駅ノート」。無人駅によく置かれています。管理人YHさんによれば5冊目だそうです。それまでのノートはきちんとファイルされていました。
そのとき、白い車が駅前にやってきました。「駅に用事のある人か!」と思いましたが、隣にあるトイレに向かって行かれました。私は使用しませんでしたが、相棒は「きれいなトイレだった」と言っていました。私たちの滞在中に2組の方がトイレに寄って行かれました。無人駅を訪ねる旅行者の問題はいつもトイレです。外部の方が使用するためにわざわざ立ち寄って来られる無人駅はすてきです。
駅ノートの中に「駅に着いたら、たくさんの人が集まっていて驚いた。この駅の清掃をしている人々の姿だった」(要旨)という記事を見つけました。こちらは、ホームの花壇です。地元の方が丹精されたものです。これだけきれいに維持、管理されている駅はそう多くありません。まさに”4S”(整理、整頓、清掃、清潔)の駅でした。
駅舎にあった建物財産標です。昭和6(1931)年9月30日とありました。 知和駅は、昭和6年9月12日、当時の因美南線が美作加茂駅と美作河井駅間で延伸開業した時に開業しました。現在の因美線が全通したのは、翌年の昭和7(1932)年7月1日のことでした。そして、この年、因美線と改称されました。 知和駅の駅舎は、知和駅が開業した年に建てられたもののようです。
駅舎にあった時刻表です。知和駅に停車する列車は智頭方面行き(上り)が5本、津山方面行き(下り)が6本。智頭方面に向かう上り列車は午後に停車し、津山方面行き(下り)の列車は午前中に2本出発していきます。津山市内にある職場や学校に通う人を想定した設定になっています。
駅舎の入り口です。背後に緑の中国山地の姿が見えています。
知和駅への取り付け道路です。その先にあった工場の白い建物が見えます。その手前に線路と平行する県道が左右に走っています。「秘境駅」という語感とは、やや異なる風景です。
取り付け道路と県道の交差点にあった丸い緑の物体です。よく見ると、定期バスを運行している加茂観光の時刻表でした。1日5往復、「日曜、祝日全面運休」。午後の2便は「小学校が午前中、休校の時は運行しない」と書かれています。登校する子どもたちのスクールバスのような運行です。
県道から見た知和駅舎です。満開のときはさぞかしと思わせる桜と駅舎の風景です。駅付近には民家が点在しています。
 
秘境駅ランキング134位の知和駅。牛山氏によれば「秘境度1ポイント、雰囲気4ポイント、列車到達難易度12ポイント、外部到達難易度1ポイント、鉄道遺産指数1ポイントになっています。近くを県道が走り、県道から容易に駅に行くことができます。岡山県でランクインしている他の3つの「秘境駅」と同じように、鉄道で行くのが困難なことによる「秘境駅」でした。
桜の季節を過ぎたJR知和駅。緑濃い駅周辺は、若葉の季節に入っているようでした。

たくさんの地元の人々に支えられ、きれいな状態に保たれている知和駅は幸せな駅だと思いました。「大事に維持管理されている」ランキングがあればと、心から感じた駅でした。















豪雪地帯の宿場町、今庄宿を歩きました

2014年04月08日 | 日記

兵庫県西部の中心都市である姫路市。その玄関口であるJR姫路駅から湖西線経由の新快速列車で3時間30分、日本海側のJR敦賀駅に着きます。3分で接続している北陸線の普通列車に乗り込み、20分ぐらいでJR今庄駅に着きました。

ホームにあった駅標です。支えの部分には、10cm刻みに15の区切りが示されています。すぐに積雪量をはかるものだとわかりました。

下車して、階段を上ります。階段の入り口に、ドアがありました。吹雪の時には、このドアを閉めるのでしょうね。JR今庄駅は、福井県屈指の豪雪地帯にあります。下車した人が、次々にドアのある階段を上って行きます。驚いたのは、その数が多かったことでした。

青春18きっぷを示して改札を出ると、今庄駅の待合室は、多くの乗客であふれていました。トイレの近くでは「空いている男の人の方に入ればいいのに」という、女性の恐ろしい会話も聞こえてきました。たくさんの乗客が下車しましたが、ほとんどが青春18きっぷで旅する高齢者でした。

待合室にあった、敦賀・福井間の開業100周年を記念するプレートです。

これは、今庄宿の南に、文政3(1820)年に建てられてた道標です。そこには、「左 いせ 江戸道 右 京 つるが 己可佐道」と刻まれています。「己可佐」は「わかさ(若狭)」だそうです。今庄宿は伊勢、江戸に向かう北国街道と、敦賀、若狭に向かう北陸道と出会う(分かれる)宿場町でした。また、今庄宿は江戸時代に3度の大火に見舞われ、特に、文政元(1818)年には今庄宿のほとんどが焼失するという甚大な被害を受けました。そのため、今庄宿に残る民家はこれ以後に建てられたものです。旧街道の形や屋敷割をそのまま残す、宿場町の面影を求めて、今庄の町を歩くことにしました。

駅の待合室に置いてあった今庄宿の地図をいただき、駅前に出ました。写真は、駅前にあった案内図です。図の右側が北に当たります。茶色で示されたルートで、福井方面からの宿場の入り口から南に向かって歩くことにしました。今庄から栃の木峠を通り、江戸と結ぶ北国街道は、天正6(1578)年、柴田勝家が、織田信長の居城であった安土城に向かう最短コースとして整備したことに始まります。

いただいた地図には、北の線路を渡ったところに、今庄宿常夜灯が書かれていました。今庄宿の入り口とは異なったところでしたが、行ってみることにしました。駅の前を南北に走る道を右(北)に進みました。これがその常夜灯でした。「北国街道今庄宿」と書かれていました。今庄宿は、福井藩の初代藩主結城秀康が北国街道を改修したとき、宿場町として整備されました。そして、寛永12(1635)年、幕府が参勤交代を制度化してからは、参勤交代の時の宿として福井藩など越前国の諸藩に使われるようになりました。

今庄宿の入り口に向かいます。正面に「今庄宿入り口」の案内板がありました。福井方面から西に向かってきた旅人は、湯尾(ゆのお)峠を越えて今庄宿に入ることになります。地図には、すぐ北のほうに「下木戸跡」があったと書かれていましたが、案内もなく特定することはできませんでした。

20mぐらい東に進み、道路を右折(南行)します。入り口は枡形(ますがた)になっていました。ただ、いただいた地図には「枡形」ではなく「矩折(かねおれ)」と書かれていました。「宿場全体を見通すことができない構造になっていた」そうです。

街道を右折して南に向かって、新町を進みます。今庄宿は、新町から、街道沿いに古町、仲町、観音町、上町と1kmに渡って町が続いています。ゆるやかな右カーブが始まると、両側にうだつを設けた格子づくりの家屋が続きます。間口4間(7.2m)奥行き20間(36m)ぐらいの規模の民家が一般的だったそうです。

やがて、街道は右にカーブします。ここも矩折になっています

再度左折すると、古町(こまち)に入ります。右側に瓦が展示されているうだつのある民家がありました。何かの展示館かと思いましたが、「越前瓦商会」と小さな表札がありました。

古町の中ほどにある旅館の先にある民家の前に、案内板がありました。「御札場跡、旧西尾茂左衛門家」です。御札場(おふだば)は、藩札を金銀に両替する場所でした。案内によれば、寛文4(1664)年、福井藩4代藩主、松平光通(みつみち)のとき、福井藩は幕府から、銀兌換の藩札を発行することを認められました。藩は藩札の使用を強制しましたので、藩札を金銀に両替する御札場が設けられたのです。

御札場は、最初は北村太平家がつとめていましたが、その後、北村新平家がつとめ、続いて、西尾茂左衛門家が享保15(1730)年までつとめました。ここは、その西尾茂左衛門の家があったところです。茂左衛門の後は、北村善六がつとめたそうです。

御札場跡の左斜め前にあったお宅には、「福井県認定証 ふくいの伝統的民家」と書かれた掲示がありました。

左がそのお宅です。切妻造りの2階建て、平入りでうだつをつけた、黒漆喰の壁と格子造りの民家です。これが、今庄宿の典型的な民家でした。

このお宅の前に「問屋(といや)跡 旧右衛門佐跡」の案内がありました。問屋は宿役人の長で、人馬の継ぎ立てなどの宿駅業務を担っていました。庄屋などの地方役人が兼ねていたことが多かったといわれています。また、荷主から受託した貨物を、手数料を取って売りさばいたり、荷主から貨物を買い取って売りさばいたりしていました。今庄宿では右衛門佐のほかに大野屋、谷屋も問屋をつとめていましたが、嘉永4(1851)年からは平塚屋と交代しました。

その先にあったのが京藤甚五郎家。塗り籠めの外壁が目を引く今庄町指定文化財、今庄で最も知られている商家です。文政元(1818)年の大火の後、天保11(1840)年頃に建てられたといわれています。赤みの強い越前瓦の屋根の上にうだつがのっています。厚い土壁でおおわれた土蔵づくり、燃えやすい木の部分が外へ出ないように建てられています。

2階部分には袖うだつがあります。脇本陣格の格式を誇る建物で、内部には橘曙覧(たちばなのあけみ)や岩倉具視の書が残されています。また、水戸の天狗党が上洛のとき宿泊し、造り酒屋だったこの家の酒で風呂をわかして入浴したともいわれています。

京藤家の向かいは、今庄に4軒残る造り酒屋の一つ、堀口酒造の建物があります。”鳴り瓢”(なりひさご)の銘柄で知られています。この先の斎藤歯科医院のお宅には「問屋大野屋跡」の案内が立っていました。右衛門佐、谷屋とともに問屋をつとめていた大野屋はこの地にありました。

堀口酒造の向かいは”旅籠わかさや”です。江戸時代、一般庶民が宿泊した旅籠、食料を持参し薪代を支払う木賃宿でした。ここも、京藤甚五郎家と同じ天保11(1840)年頃に建てられたといわれています。昔は、屋根は榑板(くれいた)で葺いてあり風で飛ばされないように石を載せていたといわれています。「榑板」とは、カラマツやナラ、クリなどの丸太を木目に沿って同じ厚みと長さの板に裂いて加工したもので、「榑(くれ)」ともいわれたそうです。平成22(2010)年、解体寸前だったところを保存、修理されたそうです。このあたりは仲町で多くの宿場ゆかりの建物が多くあったところです。

旧街道の右側に、桜満開の公園がありました。大庄屋、後藤覚左衛門の屋敷があったところです。後藤家は、享保3(1718)年、福井藩の本陣となりました。屋敷の間口は10間(18m)、奥行37間(67m)、建坪100坪の規模だったといわれています。今庄の標準的な家屋と比べて格段に大きいことがわかります。

明治天皇の行在所(あんざいしょ)になりましたが、後藤家はその後移住して出て行ったそうです。昭和5(1930)年、本陣跡は、今庄の田中和吉氏がこの付近一帯を整備し、公徳園という名の公園になりました。

本陣跡の手前を右(西)に入っていきます。かつての小学校の敷地内に、御茶屋馬場跡の碑が残っています。小学校は、現在、JR北陸本線より東、最初に書いた今庄宿の常夜灯があった近くに移転しています。

今庄宿には、規定により24疋の駅馬が継ぎ立てのために、常備されていました。これは、五街道である日光街道や甲州街道、奥州街道(25疋の常備)とほぼ同じレベルでしたが、ここ御茶屋馬場に駅馬が置かれていました。広さは40間四方で、周囲より高い土塁で囲まれていたそうです。ちなみに、「すべて山の中である」と険しいことで知られた木曽路(中山道)も25疋常備されていました。

旧街道に戻ります。本陣跡の向かいにあったのが、脇本陣の北村新平家跡。脇本陣は本陣に準じるもので、本陣が使用中の時に使われますが、加賀藩が利用したので「加賀本陣」とも呼ばれていました。ちなみに、北村新平は、先に屋敷跡があった西尾茂三衛門家がつとめる以前に、藩札と金銀を両替する御札場(おふだば)をつとめていました。

脇本陣の隣には昭和会館がありました。昭和5(1930)年、本陣跡を整備した田中和吉が私財を投げ打って社会教育の拠点施設として建てたものです。昭和30(1955)年からは今庄町役場として、昭和62(1987)年に改修されてからは公民館として使用されています。文化庁の登録有形文化財に登録されていました。本陣の隣は谷屋跡。今庄宿の問屋を、右衛門佐、大野屋とともに御札場をつとめていました。

さらに進み、観音町に入ります。左側に「酒造北善商店」がありました。「聖乃御代(ひじりのみよ)」で知られています。表札には「北村善六」と書かれていました。享保15(1730)年から、西尾茂三衛門代わって御札場をつとめた北村善六家の跡でした。

その先左側にあった高札場跡、高野伝六家跡です。民家の手前の駐車場に案内がありました。幕府や福井藩が、板に禁令を書いて掲示して守らせましたが、その掲示場所、高札場があったところです。直前にあった「御札場」があった谷屋にも高札場になっていました。

旧街道の雰囲気を残す町並みを、さらに南に向かって進みます。新羅神社を過ぎると上町に入ります。

旧街道の右側に、平塚屋跡がありました。問屋と脇本陣をつとめていました。嘉永4(1851)年から右衛門佐に替わって、大野屋、谷屋とともに問屋をつとめました。塀の中は更地になっていて、土蔵だけが残っていました。

上町にあった白駒(はくこま)酒造。三方を山で囲まれた今庄は、周囲の山々からの湧き水や地下水が豊富で、米どころ福井の酒米にも恵まれていました。しかも、雪で覆われる冬は気温がほぼ一定に保たれるため、酒造りには適していました。「越前糠杜氏(えちぜんぬかとうじ)」の技術とそれを支える蔵人の力で醸造が行われてきました。

裏から見た白駒酒造。奥行の長い街道筋らしい建物です。

江戸時代から伝わる甘露梅肉で有名な高野由平商店。奈良で食べられていたものが旅人によって伝えられた茶飯もよく知られています。

4軒あった「造り酒屋」の最後の一つ、畠山酒造の建物です。清酒”百貴船”で知られています。

その先で、列車が見えました。北陸本線で見慣れた”特急サンダーバード”の色ではありません。すぐに「この色は、トワイライトエクスプレスだ!」と気づいてカメラを向けました。ピントが甘くなってしまいました。ここも矩折です。右折します。

右折して進みます。このあたりは今庄宿の出口になります。いただいた地図には「上木戸跡」と書かれているところです。さらに進みます。

今庄宿を出て10分ぐらいで、文政の道標に着きます。ここはかつては三差路でした。車が向かう先は、木の芽峠を越えて京に到る道、北国街道が整備される以前の幹線である「西近江路」です。また、若狭に向かう北陸道でもありました。

ここを左折すると、栃の木峠を越えて江戸、伊勢方面に向かう北国街道で、手前が歩いてきた道で、湯尾峠を越えて福井に向かう道でした。

これは、文政3(1820)年に大黒屋由兵衛が世話役となり笏谷石(しゃくたにいし)で建てたものです。「今は、石柱が離れたところに立っているが、もともとは、現在の道標があるところにあったんだ」と、自転車で通りかかった方が教えてくださいました。

江戸時代の旅人は、一日に男性は10里、女性は8里を歩いていました。福井から今庄までは約8里の距離で、早朝に福井を出発した旅人は、その日は今庄宿に宿泊するのが普通でした。福井藩主が北国街道の宿場町として町づくりを進めた今庄宿は、越前国諸藩の参勤交代の宿場として使われました。冬は豪雪におおわれる今庄ですが、今も当時の町割りや街道筋が残る魅力ある町でした。多くの宿場町と同じで、地図を見ながら案内板に書かれたかつての様子をしのぶ旅でしたが、天候にも恵まれ楽しく歩くことができました。