トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

重要文化財、登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(2)

2018年01月13日 | 日記
江戸時代、鳥取藩の城下町から志戸坂峠を越えて播磨国の姫路を結ぶ智頭往来(因幡街道)は、鳥取藩主一行の参勤交代の道でした。この道は、平安時代から畿内と因幡国を結ぶ主要な道として使われていました。町内にあった「案内」には、「大同3(808)年、道俣(みちまた)駅の駅馬を省く」という「日本後記」の記述や、、「承徳3(1099)年、因幡国守、平時範が赴任するとき、志戸坂峠で境迎(さかいむか)えの儀式を行った」という「時範記」(じはんき)の記述が、それを裏付けていると書かれていました。なお、「道俣駅」は道が分岐するところの宿場という意味で、智頭宿を表しています。

街道の名前になった智頭宿は、江戸へ向かう鳥取藩主一行の最初の宿場で「お見送り」、帰国する時の最後の宿場で「お出迎え」の宿場になっており、本陣も設けられていました。また、内陸にある美作国津山城下に、海産物を中心にした物資を運ぶ道である備前街道が、ここから分岐していました。

江戸時代から宿場町として栄えた智頭の町には、現在も、国の重要文化財に指定されている石谷家住宅など、文化財に指定された多くの建造物が、二つの街道沿いに残っています。写真は国の重要文化財に指定されている石谷家住宅です。前回(「備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭」2017年12月30日の日記・「重要文化財、登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(1)」2017年1月3日の日記)まで、石谷家住宅のほか、国指定名勝である石谷家庭園、国の登録有形文化財に登録されている智頭消防団本町屯所、中町公民館、旧塩屋出店と西洋館、米原家住宅を訪ねてきました。

写真は、備前街道沿いの米原家住宅の前から撮影した智頭往来と備前街道の合流点です。前回は、目の前の智頭往来を右(東)からここまで歩いてきました。この日は、旧智頭往来と備前街道の合流点から、写真の左(西)に向かって、宿場の出口までかつての雰囲気を残す通りを歩きました。

合流点にあった道標です。備前街道側が「南」、智頭往来の姫路方面が「東」と書かれています。

道標の前を通って、鳥取方面に向かって歩きます。宿場町の面影を残す通りです。

歩き始めてすぐ、左側に塩田屋旅館の建物が見えました。現在は、宿泊は行っていないとお聞きしました。

その向かいにあったのが杉玉工房です。智頭の町には玄関の軒先に丸い杉玉が吊るされているお宅が見られます。全国的には、酒蔵がその年の新酒ができあがったことを知らせるために、お酒の神が宿るといわれる杉玉を吊しているといわれています。智頭の町は杉の町です。国の重要文化財に指定されている石谷家も杉材で財を成したといわれています。

智頭の町が杉の町になったきっかけは、江戸時代の文化9(1812)年の鳥取城下の大火でした。その後の復興に大量の木材が必要になり、智頭では、10万本を超える大量の杉の植林が行われ、このときから、智頭は杉の町として知られるようになりました。杉玉は針金でつくった球状の芯に杉の葉を差し込み、葉を丸く刈り込んでつくるそうです。ここ杉玉工房は、その手作り体験ができる施設です。

杉玉工房の前から撮影した鳥取方面のようすです。「山あいの宿場町」といった雰囲気が伝わってきます。美しい町でした、

杉玉工房の先の旧街道の右側に、洋風の建物が見えてきました。木造2階建て、桟瓦葺き、屋根はよく見えないのですが、寄棟づくりのように見えます。大正3(1914)年、智頭が町制を施行した年に、役場として建築されました。昭和3(1928)年に現在の地に移築されたそうです。

杉玉が吊るされた玄関ポーチはありましたが、全体に装飾がほとんどありませんでした。外壁は白いペンキ塗りの下見板張りになっています。横板の下側に次の板の上部を押し込むように張り付けたつくりで、雨水などがスムーズに下に落ちるので、雪国ではよく使われているようです。町役場として使われた後は、電報電話局としても使われたそうです。現在は下町公民館として使用されているそうです。

下町公民館は、大正期の地方公共建築の形式をよく残しており「造形の規範となっている」という基準を満たすとして、平成14(2006)年6月25日、国の登録有形文化財に登録されました。公民館の次に細い路地のような通りがありました。

通りの先の山裾に、浄土真宗光専寺の鐘楼と本堂が見えていました。本堂が「ウグイス張り」になっていることでよく知られています。創建は天正18(1590)年。鳥取藩主池田家の厚い庇護を受けた寺院でした。

下町公民館の向かいに酒蔵と、大きな杉玉、「梶屋」と書かれたレストラン風の建物(直売店)がありました。諏訪酒造の建物です。創業、安政6(1859)年、旅籠を営んでいた先祖の方が造り酒屋を開業したこと(屋号は梶屋)に始まります。社名は、宿場内にある諏訪神社に由来します。昭和41(1966)年、鳥取市の八上酒造と合併して、現在の社名に変更したそうです。

「諏訪泉」「諏訪娘」が有名です。尾瀬あきら原作の漫画「夏子の酒」の原画コピーを展示したギャラリーがあるそうです。知らなかったのでスルーしてしまいました。残念です。

智頭町の観光協会でいただいた観光マップの、諏訪酒造付近を切り取ったものです。⑪が諏訪酒造。⑩は田中町通りで諏訪酒造の酒蔵の脇を通る道です。私は⑨の清水通りに興味があったので、田中通りから⑧の新町通りに入り、清水通りの入口付近をめざしました。

「清水通り」の名前から、きれいな水の水路に沿った道だと思っていましたが、細い路地のような道の両側に水路の跡と蓋掛けした水路がありました。道路の案内にしたがって、左折して清水通りに入りました。

水路に沿った通りを進みます。やがて、諏訪酒造の酒蔵の裏に出ました。カーブして進みます。

酒蔵の裏の道を歩き、田中通りに出ました。正面のお宅の前には、たくさんの杉の葉でつくられた作品が展示されていました。田中通りは水路と共に
そのまままっすぐ先に続いています。

田中通りを通って、再度智頭往来に戻り、先に進みます。やがて、清水通りが旧街道に合流し、街道の左側ある水路に沿って歩くようになりました。道路脇に立つ赤い幟(のぼり)には、「智頭町はおせっかいのまちづくりを推進しています」の文字が、幟の下には「おせっかいちゃん」のキャラクターの姿も入っていました。「おもてなし」という意味なのでしょうね。

幟の先で、もう一つの道と合流しました。先ほどのマップでは、備前街道から田中通りを渡って続いている、新町通りからの道でした。合流点に「江戸時代後期の道標(みちしるべ)」という案内のついた、石製の道標がありました。私には読むことはできませんでしたが、「右 ニイバ カモ 小中原 桑原 つ山 岡山道」 「左 本谷 足津 中原 坂根 古町 姫路道」と書かれているそうです。鳥取方面から来た人に、備前街道への近道を示している道標のようです。

これが、新町通りを通って備前街道に行く道です。ただ、不可解だったのが、観光協会でいただいたマップには「大正7年の道しるべ」と書かれていたことです。この道標以外に、もう一つ、大正7年の道標があるのでしょうか? マップにマークがあったところでは、見つけることができませんでしたが・・。帰りに、JR智頭駅前の観光協会でお尋ねしたのですが、やはりわかりませんでした。

進行方向の左側に、木工品の展示販売や木工教室がある「木の香工房」がありました。その向かい側(右)側の草むらの中に石碑がありました。「今出川幸八の碑」、「明治41年新建」と刻まれていました。近くの木製の説明には「火消し役で活躍した今出川幸八」と書かれており、火消しの頭領として活躍した人の碑だそうです。

旧街道の出口が近づいて来ました。向こうに国道53号が見えました。

手前に用瀬(もちがせ)方面に向かう旧道がありました。この道を1時間歩くと板井原(いたいばら)集落へ行くことができます。板井原集落は、鳥取県が選定した伝統的建造物群保存地区です。板井原川の谷間の標高430mのところに位置し、江戸時代には農業と炭焼き、明治時代になってからは、養蚕で栄えたところです。昭和42(1967)年、古い峠の下をくぐるトンネルが開通してから、急速に過疎化が進んだといわれています。現在も、集落内の民家は、すべて昭和40年以前の建築で、日本の山村集落の原風景を伝えています。雪の季節が過ぎたら訪ねてみようと思っています。

用瀬への交通標識があるところに書かれていた案内です。2分登っていったところにある関所跡です。残念ながら、すごい草むらの中でしたので、行くことはできませんでした。

板井原集落への分岐点を過ぎると、やがて、国道53号に合流します。

智頭往来の宿場町だった、鳥取県八頭郡智頭町は人口わずかに7301人(2748世帯・2017年11月1日現在)が居住する山あいの小さな町でした。しかし、かつての街道沿いには、国指定の重要文化財や、登録有形文化財に登録されている多くの建造物が残っていました。
次は、今回、訪ねることができなかった板井原集落をぜひ訪ねてみたいと思っています。



重要文化財・登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(1)

2018年01月03日 | 日記
鳥取県八頭(やづ)郡智頭(ちづ)町は、因幡(いなば)街道(智頭往来)と備前街道(備前往来)が合流する宿場町として栄えました。前回は智頭町内を備前街道に沿って、二つの街道の合流点まで歩きました(「備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭」2017年12月30日の日記)。今回は、もう一つの街道、智頭往来に沿って歩くことにしました。
 
これは、JR智頭駅前にある智頭町観光協会でいただいた観光マップです。マップの上側が北方向になります。マップの一番上(北)に左右(東西)に描かれているのが智頭往来で、左側が鳥取方面です。マップの右上の智頭宿無料駐車場(「P」)からスタートすることにして、智頭駅から土師川を渡り旧備前街道を横切って、さらに東に進み、千代川と国道53号線を渡って、駐車場に着きました。

駐車場に着きました。写真は駐車場の出入口に近いところの光景です。

観光マップでは、駐車場の上(北)には智頭小学校がありました。マップにはないのですが、駐車場の右(東)には、智頭町唯一の高等学校である県立智頭農林高校が、さらにその東には智頭中学校のモダンな校舎がありました。

駐車場から智頭小学校の前の道に上り、鳥取方面を撮影しました。歩道からまっすぐに続く道が旧智頭往来です。

駐車場と小学校の間の道が旧智頭往来だと思っていましたが、観光マップには「江戸時代の道(智頭往来)」と書かれていた道がありました。現在、駐車場になっている辺りから、現在の駐車場の出口につながっている道のようです。

マップのルートにあたる「江戸時代の道」を探して見ましたが、墓地から続くこの道しか見当たりませんでした。

多くの観光客と一緒に、駐車場からの出口からまっすぐ歩いていきます。途中で右折して、上町公民館の鳥取寄りで、旧智頭往来に出る道でした。

智津往来に出ると、左折して進んでいきます。しばらくは、建て替えが終わっている新しい家並みの間を歩きます。江戸時代に、姫路城下から智頭往来を歩いて来た旅人は、飾西宿、嘴崎(はしさき)宿、千本宿、三日月宿・平福宿・大原宿・坂根宿・駒帰宿を経て、ここまで来ておりました。

旧街道の左側に、赤い釉薬瓦で葺かれた邸宅や土蔵が見えてきました。伊藤家の邸宅ですが、非公開になっていました。伊藤家の邸宅から先は、旧街道の雰囲気を残す通りになっています。

街道の右側に、智頭町出身の国米泰石(こくまいたいせき)の墓地へ続く道があります。明治時代から大正時代にかけて多くの国宝や重要文化財の修復を手がけ、全国的に知られた人でした。

これも進行方向右側にあった曹洞宗興雲寺の参道です。国米泰石が製作した弘法大師の座像があることで知られています。もとは後方にある牛臥山(うせぶせやま)の山裾にあった臨済宗の寺院でしたが、文禄2(1593)年に大洪水によって崩壊し荒廃していました。それを、寛永2(1625)年に由山(ゆうざん)大和尚が曹洞宗寺院として再興したそうです。その後、新藩主、池田光仲が鳥取に入ったとき、父忠雄(ただたか)の位牌を安置し宿泊したことで寺領が安堵され、発展してきたといわれています。

続いて、右側にあった諏訪神社の参道と鳥居です。名前の通り信州の諏訪大社の分霊を祀るために、弘安元(1278)年に建てられた神社で、江戸時代の天明2(1782)年から柱祭り(諏訪大社の御柱祭りに倣った祭り)が始まったそうです。観光マップによれば、現在も6年ごと(次回は平成34年)に、開催されることになっています。

智頭を代表する邸宅であり文化財でもある石谷家住宅です。平成21(2009)年12月8日に国の重要文化財に指定されました。江戸時代から地主、山林経営で財を成し、石谷伝四郎(1866~1923)の代には、明治28(1895)年から大正12(1923)年まで国政に携わり、政治家としても活躍しました。この石谷家住宅は、大正8(1919)年から10年の年月をかけて、大規模な改修が行われました。以前は、主屋が智頭往来に面した町屋づくりでしたが、奥に移った主屋を屋敷や土蔵、塀などで囲んだ武家屋敷風の現在の構えに変わったといわれています。

美しい書院造りの客間です。明かり取りのための障子のデザインがすばらしい美しさです。昭和16(1941)年に整備された部屋のようです。3000坪を超える敷地に、40を超える部屋をもつ大邸宅である石谷家の中で、最も美しい部屋だと感じました。たくさんの訪問客で賑わっていました。

40余あるすべての部屋から見えるという池泉式の庭園も美しく、平成20(2008)年に「石谷家庭園」は国の名勝地に登録されています。

石谷家住宅の向かい(旧街道の左側)にあった、智頭消防団本町分団屯所です。昭和16(1941)年の建築で、洋風の建物でした。木造2階建て、切り妻づくりで瓦葺きの屋根になっています。消防団の屯所らしく火の見櫓が設置されています。平成12(2000)年12月4日、国の登録有形文化財に登録されています。

智頭往来は、鳥取藩の参勤交代にも使われた街道でした。鳥取を出発したときの最初の宿として家臣がお見送りをした場、江戸から帰着するときの最後の宿でお出迎えをした場として、本陣が設けられました。いただいたマップには、本陣のあった場所が薄い青色で描かれています。消防団の屯所の先から奥に広がっていたようです。

旧街道から左に細い路地を入って行きました。奥には広い空間がありました。写真は通ってきた路地を撮影したものです。

広場を撮影しました。智頭の本陣は、他の藩と異なり、宿場の有力者の邸宅を使用するのではなく、藩の施設としてつくられ奉行所も併設されていました。屋敷の内部には藩の役人の役宅や門番の小屋、厩なども設けれていたそうです。車の向こうに「御本陣跡」の説明が設置されていました。それによると「初代藩主の池田光仲公が入国した慶安元(1648)年から、最後の文久2(1862)年の池田慶徳公までの214年間に、178往復使用された」と書かれていました。

現在、本陣跡の広場には中町公民館が置かれています。大正11(1922)年から幼稚園として使われるようになりました。それ以前は個人病院として使用されていたようです。建築年代は明確ではありませんが、大正期の建物だとされています。外観は洋風で、木造2階建て、屋根は鉄板張り(その内部は桟瓦葺き)、正面玄関の屋根は切妻、壁は白い下見板張りになっています。外観は洋風ですが、内部は和風のつくりになっているそうです。平成14(2002)年、国の登録有形文化財に登録されています。

智頭往来に戻りました。消防団屯所の先が、米原(よねはら)家住宅です。前回歩いた備前街道と智頭往来の合流点にあります。平成26(2014)年、国の登録有形文化財に登録されています。登録の対象のうち、「上門及び塀」は智頭往来に沿って建設されています。明治39(1906)年頃の建設で外見は黒漆喰塗り、近代豪商の邸宅の特徴が評価されての登録でした。前回も書きましたが、米原家住宅の建設当時の当主、米原章三は、山林地主だった米原家の長女と結婚して智頭にやって来ました。そして、山林事業の近代化をめざして八頭木材会社の経営に参加し、大正鳥取銀行の創設にも参画しました。政界にも進出し、智頭村議会議員、鳥取県議会議員を経て、貴族院議員も経験しました。さらに、、昭和5(1930)には、県東部のバス・タクシー会社を統合して日ノ丸自動車株式会社を発足させるとともに、昭和13(1938)年には、鳥取駅前に丸由百貨店(現在の鳥取大丸)を設立しました。また、その翌年には日本海新聞も創立し、智頭町だけでなく、鳥取県の政財界で活躍した人でした。

智頭往来の右側にあった道標です。米原家のそば、備前街道と智頭往来の合流点にありました。「南 飛だり(左) 鳥とり  み起(右) ひめじ 大坂」「東 飛だり つや満 飛ぜん  み起 鳥と里」 と刻まれていました。

この日は、智頭往来を、備前街道との合流点まで歩きました。ここまで、国指定重要文化財の石谷家住宅と国指定名勝の石谷家庭園、国の登録文化財である智頭消防団本町屯所と中町公民館、米原家住宅(主屋・土蔵・上門)を見てきました。それ他、前回歩いた備前街道に沿った塩屋出店(主屋・西洋館・外塀)と米原家住宅の下門と塀の6つの文化財を見てきました。総人口6,967人という小さな町の智頭は、文化財に囲まれた町といっていいぐらい魅力的な町でした。
次回は、合流点の道標から鳥取方面に向かって、智頭の町を歩こうと思っています。