江戸時代、鳥取藩の城下町から志戸坂峠を越えて播磨国の姫路を結ぶ智頭往来(因幡街道)は、鳥取藩主一行の参勤交代の道でした。この道は、平安時代から畿内と因幡国を結ぶ主要な道として使われていました。町内にあった「案内」には、「大同3(808)年、道俣(みちまた)駅の駅馬を省く」という「日本後記」の記述や、、「承徳3(1099)年、因幡国守、平時範が赴任するとき、志戸坂峠で境迎(さかいむか)えの儀式を行った」という「時範記」(じはんき)の記述が、それを裏付けていると書かれていました。なお、「道俣駅」は道が分岐するところの宿場という意味で、智頭宿を表しています。
街道の名前になった智頭宿は、江戸へ向かう鳥取藩主一行の最初の宿場で「お見送り」、帰国する時の最後の宿場で「お出迎え」の宿場になっており、本陣も設けられていました。また、内陸にある美作国津山城下に、海産物を中心にした物資を運ぶ道である備前街道が、ここから分岐していました。
江戸時代から宿場町として栄えた智頭の町には、現在も、国の重要文化財に指定されている石谷家住宅など、文化財に指定された多くの建造物が、二つの街道沿いに残っています。写真は国の重要文化財に指定されている石谷家住宅です。前回(「備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭」2017年12月30日の日記・「重要文化財、登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(1)」2017年1月3日の日記)まで、石谷家住宅のほか、国指定名勝である石谷家庭園、国の登録有形文化財に登録されている智頭消防団本町屯所、中町公民館、旧塩屋出店と西洋館、米原家住宅を訪ねてきました。
写真は、備前街道沿いの米原家住宅の前から撮影した智頭往来と備前街道の合流点です。前回は、目の前の智頭往来を右(東)からここまで歩いてきました。この日は、旧智頭往来と備前街道の合流点から、写真の左(西)に向かって、宿場の出口までかつての雰囲気を残す通りを歩きました。
合流点にあった道標です。備前街道側が「南」、智頭往来の姫路方面が「東」と書かれています。
道標の前を通って、鳥取方面に向かって歩きます。宿場町の面影を残す通りです。
歩き始めてすぐ、左側に塩田屋旅館の建物が見えました。現在は、宿泊は行っていないとお聞きしました。
その向かいにあったのが杉玉工房です。智頭の町には玄関の軒先に丸い杉玉が吊るされているお宅が見られます。全国的には、酒蔵がその年の新酒ができあがったことを知らせるために、お酒の神が宿るといわれる杉玉を吊しているといわれています。智頭の町は杉の町です。国の重要文化財に指定されている石谷家も杉材で財を成したといわれています。
智頭の町が杉の町になったきっかけは、江戸時代の文化9(1812)年の鳥取城下の大火でした。その後の復興に大量の木材が必要になり、智頭では、10万本を超える大量の杉の植林が行われ、このときから、智頭は杉の町として知られるようになりました。杉玉は針金でつくった球状の芯に杉の葉を差し込み、葉を丸く刈り込んでつくるそうです。ここ杉玉工房は、その手作り体験ができる施設です。
杉玉工房の前から撮影した鳥取方面のようすです。「山あいの宿場町」といった雰囲気が伝わってきます。美しい町でした、
杉玉工房の先の旧街道の右側に、洋風の建物が見えてきました。木造2階建て、桟瓦葺き、屋根はよく見えないのですが、寄棟づくりのように見えます。大正3(1914)年、智頭が町制を施行した年に、役場として建築されました。昭和3(1928)年に現在の地に移築されたそうです。
杉玉が吊るされた玄関ポーチはありましたが、全体に装飾がほとんどありませんでした。外壁は白いペンキ塗りの下見板張りになっています。横板の下側に次の板の上部を押し込むように張り付けたつくりで、雨水などがスムーズに下に落ちるので、雪国ではよく使われているようです。町役場として使われた後は、電報電話局としても使われたそうです。現在は下町公民館として使用されているそうです。
下町公民館は、大正期の地方公共建築の形式をよく残しており「造形の規範となっている」という基準を満たすとして、平成14(2006)年6月25日、国の登録有形文化財に登録されました。公民館の次に細い路地のような通りがありました。
通りの先の山裾に、浄土真宗光専寺の鐘楼と本堂が見えていました。本堂が「ウグイス張り」になっていることでよく知られています。創建は天正18(1590)年。鳥取藩主池田家の厚い庇護を受けた寺院でした。
下町公民館の向かいに酒蔵と、大きな杉玉、「梶屋」と書かれたレストラン風の建物(直売店)がありました。諏訪酒造の建物です。創業、安政6(1859)年、旅籠を営んでいた先祖の方が造り酒屋を開業したこと(屋号は梶屋)に始まります。社名は、宿場内にある諏訪神社に由来します。昭和41(1966)年、鳥取市の八上酒造と合併して、現在の社名に変更したそうです。
「諏訪泉」「諏訪娘」が有名です。尾瀬あきら原作の漫画「夏子の酒」の原画コピーを展示したギャラリーがあるそうです。知らなかったのでスルーしてしまいました。残念です。
智頭町の観光協会でいただいた観光マップの、諏訪酒造付近を切り取ったものです。⑪が諏訪酒造。⑩は田中町通りで諏訪酒造の酒蔵の脇を通る道です。私は⑨の清水通りに興味があったので、田中通りから⑧の新町通りに入り、清水通りの入口付近をめざしました。
「清水通り」の名前から、きれいな水の水路に沿った道だと思っていましたが、細い路地のような道の両側に水路の跡と蓋掛けした水路がありました。道路の案内にしたがって、左折して清水通りに入りました。
水路に沿った通りを進みます。やがて、諏訪酒造の酒蔵の裏に出ました。カーブして進みます。
酒蔵の裏の道を歩き、田中通りに出ました。正面のお宅の前には、たくさんの杉の葉でつくられた作品が展示されていました。田中通りは水路と共に
そのまままっすぐ先に続いています。
田中通りを通って、再度智頭往来に戻り、先に進みます。やがて、清水通りが旧街道に合流し、街道の左側ある水路に沿って歩くようになりました。道路脇に立つ赤い幟(のぼり)には、「智頭町はおせっかいのまちづくりを推進しています」の文字が、幟の下には「おせっかいちゃん」のキャラクターの姿も入っていました。「おもてなし」という意味なのでしょうね。
幟の先で、もう一つの道と合流しました。先ほどのマップでは、備前街道から田中通りを渡って続いている、新町通りからの道でした。合流点に「江戸時代後期の道標(みちしるべ)」という案内のついた、石製の道標がありました。私には読むことはできませんでしたが、「右 ニイバ カモ 小中原 桑原 つ山 岡山道」 「左 本谷 足津 中原 坂根 古町 姫路道」と書かれているそうです。鳥取方面から来た人に、備前街道への近道を示している道標のようです。
これが、新町通りを通って備前街道に行く道です。ただ、不可解だったのが、観光協会でいただいたマップには「大正7年の道しるべ」と書かれていたことです。この道標以外に、もう一つ、大正7年の道標があるのでしょうか? マップにマークがあったところでは、見つけることができませんでしたが・・。帰りに、JR智頭駅前の観光協会でお尋ねしたのですが、やはりわかりませんでした。
進行方向の左側に、木工品の展示販売や木工教室がある「木の香工房」がありました。その向かい側(右)側の草むらの中に石碑がありました。「今出川幸八の碑」、「明治41年新建」と刻まれていました。近くの木製の説明には「火消し役で活躍した今出川幸八」と書かれており、火消しの頭領として活躍した人の碑だそうです。
旧街道の出口が近づいて来ました。向こうに国道53号が見えました。
手前に用瀬(もちがせ)方面に向かう旧道がありました。この道を1時間歩くと板井原(いたいばら)集落へ行くことができます。板井原集落は、鳥取県が選定した伝統的建造物群保存地区です。板井原川の谷間の標高430mのところに位置し、江戸時代には農業と炭焼き、明治時代になってからは、養蚕で栄えたところです。昭和42(1967)年、古い峠の下をくぐるトンネルが開通してから、急速に過疎化が進んだといわれています。現在も、集落内の民家は、すべて昭和40年以前の建築で、日本の山村集落の原風景を伝えています。雪の季節が過ぎたら訪ねてみようと思っています。
用瀬への交通標識があるところに書かれていた案内です。2分登っていったところにある関所跡です。残念ながら、すごい草むらの中でしたので、行くことはできませんでした。
板井原集落への分岐点を過ぎると、やがて、国道53号に合流します。
智頭往来の宿場町だった、鳥取県八頭郡智頭町は人口わずかに7301人(2748世帯・2017年11月1日現在)が居住する山あいの小さな町でした。しかし、かつての街道沿いには、国指定の重要文化財や、登録有形文化財に登録されている多くの建造物が残っていました。
次は、今回、訪ねることができなかった板井原集落をぜひ訪ねてみたいと思っています。
街道の名前になった智頭宿は、江戸へ向かう鳥取藩主一行の最初の宿場で「お見送り」、帰国する時の最後の宿場で「お出迎え」の宿場になっており、本陣も設けられていました。また、内陸にある美作国津山城下に、海産物を中心にした物資を運ぶ道である備前街道が、ここから分岐していました。
江戸時代から宿場町として栄えた智頭の町には、現在も、国の重要文化財に指定されている石谷家住宅など、文化財に指定された多くの建造物が、二つの街道沿いに残っています。写真は国の重要文化財に指定されている石谷家住宅です。前回(「備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭」2017年12月30日の日記・「重要文化財、登録有形文化財の建物が続く宿場町、智頭町(1)」2017年1月3日の日記)まで、石谷家住宅のほか、国指定名勝である石谷家庭園、国の登録有形文化財に登録されている智頭消防団本町屯所、中町公民館、旧塩屋出店と西洋館、米原家住宅を訪ねてきました。
写真は、備前街道沿いの米原家住宅の前から撮影した智頭往来と備前街道の合流点です。前回は、目の前の智頭往来を右(東)からここまで歩いてきました。この日は、旧智頭往来と備前街道の合流点から、写真の左(西)に向かって、宿場の出口までかつての雰囲気を残す通りを歩きました。
合流点にあった道標です。備前街道側が「南」、智頭往来の姫路方面が「東」と書かれています。
道標の前を通って、鳥取方面に向かって歩きます。宿場町の面影を残す通りです。
歩き始めてすぐ、左側に塩田屋旅館の建物が見えました。現在は、宿泊は行っていないとお聞きしました。
その向かいにあったのが杉玉工房です。智頭の町には玄関の軒先に丸い杉玉が吊るされているお宅が見られます。全国的には、酒蔵がその年の新酒ができあがったことを知らせるために、お酒の神が宿るといわれる杉玉を吊しているといわれています。智頭の町は杉の町です。国の重要文化財に指定されている石谷家も杉材で財を成したといわれています。
智頭の町が杉の町になったきっかけは、江戸時代の文化9(1812)年の鳥取城下の大火でした。その後の復興に大量の木材が必要になり、智頭では、10万本を超える大量の杉の植林が行われ、このときから、智頭は杉の町として知られるようになりました。杉玉は針金でつくった球状の芯に杉の葉を差し込み、葉を丸く刈り込んでつくるそうです。ここ杉玉工房は、その手作り体験ができる施設です。
杉玉工房の前から撮影した鳥取方面のようすです。「山あいの宿場町」といった雰囲気が伝わってきます。美しい町でした、
杉玉工房の先の旧街道の右側に、洋風の建物が見えてきました。木造2階建て、桟瓦葺き、屋根はよく見えないのですが、寄棟づくりのように見えます。大正3(1914)年、智頭が町制を施行した年に、役場として建築されました。昭和3(1928)年に現在の地に移築されたそうです。
杉玉が吊るされた玄関ポーチはありましたが、全体に装飾がほとんどありませんでした。外壁は白いペンキ塗りの下見板張りになっています。横板の下側に次の板の上部を押し込むように張り付けたつくりで、雨水などがスムーズに下に落ちるので、雪国ではよく使われているようです。町役場として使われた後は、電報電話局としても使われたそうです。現在は下町公民館として使用されているそうです。
下町公民館は、大正期の地方公共建築の形式をよく残しており「造形の規範となっている」という基準を満たすとして、平成14(2006)年6月25日、国の登録有形文化財に登録されました。公民館の次に細い路地のような通りがありました。
通りの先の山裾に、浄土真宗光専寺の鐘楼と本堂が見えていました。本堂が「ウグイス張り」になっていることでよく知られています。創建は天正18(1590)年。鳥取藩主池田家の厚い庇護を受けた寺院でした。
下町公民館の向かいに酒蔵と、大きな杉玉、「梶屋」と書かれたレストラン風の建物(直売店)がありました。諏訪酒造の建物です。創業、安政6(1859)年、旅籠を営んでいた先祖の方が造り酒屋を開業したこと(屋号は梶屋)に始まります。社名は、宿場内にある諏訪神社に由来します。昭和41(1966)年、鳥取市の八上酒造と合併して、現在の社名に変更したそうです。
「諏訪泉」「諏訪娘」が有名です。尾瀬あきら原作の漫画「夏子の酒」の原画コピーを展示したギャラリーがあるそうです。知らなかったのでスルーしてしまいました。残念です。
智頭町の観光協会でいただいた観光マップの、諏訪酒造付近を切り取ったものです。⑪が諏訪酒造。⑩は田中町通りで諏訪酒造の酒蔵の脇を通る道です。私は⑨の清水通りに興味があったので、田中通りから⑧の新町通りに入り、清水通りの入口付近をめざしました。
「清水通り」の名前から、きれいな水の水路に沿った道だと思っていましたが、細い路地のような道の両側に水路の跡と蓋掛けした水路がありました。道路の案内にしたがって、左折して清水通りに入りました。
水路に沿った通りを進みます。やがて、諏訪酒造の酒蔵の裏に出ました。カーブして進みます。
酒蔵の裏の道を歩き、田中通りに出ました。正面のお宅の前には、たくさんの杉の葉でつくられた作品が展示されていました。田中通りは水路と共に
そのまままっすぐ先に続いています。
田中通りを通って、再度智頭往来に戻り、先に進みます。やがて、清水通りが旧街道に合流し、街道の左側ある水路に沿って歩くようになりました。道路脇に立つ赤い幟(のぼり)には、「智頭町はおせっかいのまちづくりを推進しています」の文字が、幟の下には「おせっかいちゃん」のキャラクターの姿も入っていました。「おもてなし」という意味なのでしょうね。
幟の先で、もう一つの道と合流しました。先ほどのマップでは、備前街道から田中通りを渡って続いている、新町通りからの道でした。合流点に「江戸時代後期の道標(みちしるべ)」という案内のついた、石製の道標がありました。私には読むことはできませんでしたが、「右 ニイバ カモ 小中原 桑原 つ山 岡山道」 「左 本谷 足津 中原 坂根 古町 姫路道」と書かれているそうです。鳥取方面から来た人に、備前街道への近道を示している道標のようです。
これが、新町通りを通って備前街道に行く道です。ただ、不可解だったのが、観光協会でいただいたマップには「大正7年の道しるべ」と書かれていたことです。この道標以外に、もう一つ、大正7年の道標があるのでしょうか? マップにマークがあったところでは、見つけることができませんでしたが・・。帰りに、JR智頭駅前の観光協会でお尋ねしたのですが、やはりわかりませんでした。
進行方向の左側に、木工品の展示販売や木工教室がある「木の香工房」がありました。その向かい側(右)側の草むらの中に石碑がありました。「今出川幸八の碑」、「明治41年新建」と刻まれていました。近くの木製の説明には「火消し役で活躍した今出川幸八」と書かれており、火消しの頭領として活躍した人の碑だそうです。
旧街道の出口が近づいて来ました。向こうに国道53号が見えました。
手前に用瀬(もちがせ)方面に向かう旧道がありました。この道を1時間歩くと板井原(いたいばら)集落へ行くことができます。板井原集落は、鳥取県が選定した伝統的建造物群保存地区です。板井原川の谷間の標高430mのところに位置し、江戸時代には農業と炭焼き、明治時代になってからは、養蚕で栄えたところです。昭和42(1967)年、古い峠の下をくぐるトンネルが開通してから、急速に過疎化が進んだといわれています。現在も、集落内の民家は、すべて昭和40年以前の建築で、日本の山村集落の原風景を伝えています。雪の季節が過ぎたら訪ねてみようと思っています。
用瀬への交通標識があるところに書かれていた案内です。2分登っていったところにある関所跡です。残念ながら、すごい草むらの中でしたので、行くことはできませんでした。
板井原集落への分岐点を過ぎると、やがて、国道53号に合流します。
智頭往来の宿場町だった、鳥取県八頭郡智頭町は人口わずかに7301人(2748世帯・2017年11月1日現在)が居住する山あいの小さな町でした。しかし、かつての街道沿いには、国指定の重要文化財や、登録有形文化財に登録されている多くの建造物が残っていました。
次は、今回、訪ねることができなかった板井原集落をぜひ訪ねてみたいと思っています。