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JR伯備線の根雨駅です。鳥取県日野郡日野町根雨にあります。
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根雨の町に残る旧本陣の門です。 根雨の町は、古くから、出雲の国と播磨の国を結ぶ出雲街道の宿場町として、また、様々な物資の集散地として栄えて来ました。 出雲街道は江戸時代の初期、松江藩主の参勤交代の道として、松江藩によって整備が進められ、根雨には藩主が宿泊する本陣が置かれていました。
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JR伯備線は、JR山陽本線の倉敷駅と山陰本線の伯耆大山駅を結ぶ、全長
138.4kmの路線で、山陽と山陰を結ぶいわゆる陰陽連絡線の一つです。岡山駅側の倉敷駅・備中高梁駅間と、井倉駅・石蟹駅間が複線になっている以外は単線区間になっています。
この日は、根雨駅と根雨の町並みを訪ねるため、岡山県北西部のJR新見駅から、米子駅へ向かう伯備線の列車に乗車しました。ホームに着いて驚いたのは出発を待っていたのが、ワンマン運転、単行のキハ120系気動車(しかも浜田
色)だったことです。電化区間で、特急列車も走っている幹線の伯備線で、ローカル線仕様の車両であるキハ120系気動車が待っていたからです。乗車したキハ120357号車は平成8(1996)年に新潟鉄工で製造された車両です。
車内は8割以上の乗車率でした。
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新見駅から1時間15分ぐらいで、根雨駅の2番ホームに到着しました。下車したのは、高校生を含めて7人でした。ちなみに、根雨駅の1日平均乗車人員は平成30(2018)年には436人だったそうです。
根雨駅は2面3線のホームになっています。駅舎側の1番ホームには新見行きの上り列車が発着しています。駅舎へは跨線橋で移動するようになっています。
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2番ホームから見た新見駅方面です。長いホームの先に国道181号の高架が見えます。 伯備線は、大正8(1919)年、鳥取県側の伯耆大山駅・伯耆溝口駅間が、伯備北線として開業したことに始まります。岡山県側からは、大正14(1925)年2月に、倉敷駅・宍粟駅(現在の豪渓駅)間が、伯備南線として開業したのが始まりでした。
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2番ホームの新見駅寄りから見たホームの全景です。2番ホームの上屋の下にベンチが見えました。 伯備線はその後、延進工事が続き、3年後の昭和3
(1928)年に、最後に残っていた備中川面駅・足立駅間が開業し、全線が開業しました。そして、伯備南線が伯備北線を編入し伯備線と改称して、現在に至っています。 根雨駅が開業したのは、大正11(1922)年7月30日、伯備北線の江尾(えび)駅から根雨駅までが開業したときでした。開業当時は終着駅でしたが、3ヶ月後の11月10日には黒崎駅までが開業し、途中駅になっています。
根雨駅の開業当時の住所は、鳥取県日野郡根雨町根雨でしたが、昭和34(1959)年5月1日、根雨町は日野郡内の黒崎町と合併し、新たに、日野郡日野町根雨となりました。
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伯備線は、昭和57(1982)年、全線が電化されたため、特急”やくも”が電車化され、現在も、岡山駅・出雲市駅間で1日15往復が運行されています。
しかし、出雲市駅に向かう特急”やくも”は、新見駅から伯耆大山駅までの停車駅が、生山(しょうやま)駅または根雨駅のどちらか1駅だけになっています。電化区間なのにローカル線使用のキハ120系車両が運用されているのも、やむをえないことだと思いました。
ホームにあった駅名標です。根雨駅は、新見駅側の黒坂駅から7.6km、次の武庫駅まで4.7kmのところにありました。
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2番ホームの上屋です。ベンチの向こうには待合室がありました。
上屋の手前、右側の柱に建物財産標がありました。それには、「建物財産標 鉄 旅客上家1号 昭和55年11月17日」と書かれていました。建設から40年が経過しているようです。
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1番ホームと駅舎です。赤い石州瓦と白壁の木造駅舎が、青い空と白い雲に映えて、とてもきれいでした。
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ホームの左側、3番ホームの外側の側線に、ラッセル車が待機していました。
MC-6644号車。堀川工機製の16トンラッセル車です。今年度は、もう出番はなさそうです。
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跨線橋の脇から見た米子駅方面のホームです。長いホームが続いています。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/5c/a211e093790ebea5e4fcadcef76ed252.jpg)
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跨線橋から駅舎に向かいます。風や寒さ除けが成された、明るい日射しが差し込む跨線橋です。
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上り列車が発着する1番ホームに降りました。
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1番ホームから見た向かいのホームです。ベンチと待合室、跨線橋の上り口付近にもベンチが見えます。
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真新しい改札口がありました。駅舎への入口は改札口の向こう側、使用済み切符の回収箱とicocaの精算機の間にあります。ごみ一つ無い清潔感あふれる駅舎でした。
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駅舎内です。ベンチと自動販売機が見えます。
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ホーム寄りの一角には金持(かもち)神社がお祀りしてありました。ホームから見た国道181号を4kmほど岡山県方面に向かった所にある神社だそうです。平安時代の弘仁元(810)年、出雲の神官の次男がこの地を通りかかったとき、お守りの根付の玉石が急に重くなったといい、この地に宮造りをするようにという神夢を見て宮を建てたそうです。この地域は、玉鋼(たまはがね)の産地で、原料の真砂鉄が取れる谷を多く所有し、鉄のことを金(かね)と読んでいたことから、金の採れる谷を多く持つ郷として「金持郷」と呼ばれるようになったそうです。中国山地から山陰のかけては「たたら製鉄」が盛んな所でした。
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改札口と出札窓口です。根雨駅は、米子駅管理の直営駅になっています。
日中は、駅員の方が勤務されているそうです。
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根雨駅は、大正11(1922)年7月30日に開業しました。開業から99年目を迎えています。真っ白な壁面がまぶしい駅舎です。出入口の右側にある日野高校と書かれたプランターには花が咲いていました。
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出入口の右側の上部に建物財産標がありました。大正11年7月31日と書かれています。駅舎は、駅の開業の年に建てられたもののようです。
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駅前広場の先に道路が左右に走っています。この道路に向かって「根雨 町並み散策マップ」と書かれた案内板が設置されていました。
そして、道路を渡ったその先には、日野町の行政を担う日野町役場の建物がありました。根雨小学校があったところに建てられたのでしょう。出雲街道に向かって「根雨小学校跡」の石碑が立てられていました。
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「根雨の町並散策マップ」にあった案内です。右側の赤マルが案内板のあるところです。そのすぐ左の道が江戸時代の出雲街道です。この後、出雲街道を左方向に向かって歩くことにしました。
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案内板のあるところから見た出雲街道の右側の風景です。出雲街道の根雨宿を出た旅人は、この先で日野川を渡り、次の二部宿(現・鳥取県西伯郡伯耆町)から、溝口宿(現・鳥取県西伯郡伯耆町)を通って、米子宿(鳥取県米子市)に向かって旅を続けていました。
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出雲街道を左に進み、根雨宿の中心部をめざして歩きます。日野町図書館の前を進み、カーブした先の右側に鳥取銀行根雨支店がありました。
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鳥取銀行の駐車場の先にあった案内標識です。 この道の先にある、歴史民俗資料館、本陣の門、根雨宿、日野町公舎、祇園橋などが書かれています。
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街道に沿って建つお宅の入口にあった水琴窟(すいきんくつ)です。「かめの上に水を注ぐと、1~2分後、かめの中の水面に水滴が落ち、澄んだ音色が聞こえます」と、説明に書かれていました。
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通りの左側のお店の前に「出雲街道根雨宿」と染め上げられた日よけののれんが掛けられていました。
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平入りで長い間口と庇を持つ切妻造りの民家に、袖壁(うだつ)のある邸宅が見えました。宿場町の雰囲気を残す通りになっています。
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旧街道の左側に、山陰合同銀行根雨支店の建物がありました。道路との境にあった標識には、「旧松江銀行根雨支店 県民の建物百選」と書かれています。
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通りの左側の邸宅の隅に常夜灯と祠が見えました。常夜灯には「寛政六寅年」と刻まれていました。この一角は、かつて根雨宿の本陣があったところでした。
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旧本陣の門が見えます。根雨宿の本陣跡です。現在では、本陣のあった時代を物語るものは、この門だけになっています。門は、昭和55(1980)年、日野町の有形文化財に指定されています。
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旧本陣の向かいにあった、国の登録有形文化財の日野町公舎の建物です。たたら製鉄で財を成し、鳥取県一の生産高をあげていた近藤家の分家だそうです。この建物は、「明治初年に建てられているが、漆喰塗りの壁、虫籠窓、格子づくりなど江戸時代の町屋の構造を継承した建物で、江戸時代の根雨宿の面影を伝えている」と、「説明」には書かれていました。 近藤家の本家は、お向かいで本陣役をつとめておられたそうです。
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旧本陣跡を右折して進むと、板井原川に架かる祇園橋(昭和8年竣工)を渡ります。その先に根雨神社があります。
板井原川はこの先で日野川に合流することになります。
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根雨神社の鳥居です。鳥居の柱に寄進者として、「近藤善八郎」氏や「近藤清三郎」氏の名前が刻まれていました。
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本陣跡に戻りました。旧街道をさらに進みます。
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蓋掛けをしているところが多くて見えなかったのですが、旧街道の両側には水路が設けられており、山からの澄んだ水が流れていました。
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通りの左側に残っていた水舟です。「昭和30年代に上水道が整備されるまで、山の伏流水を飲料水や生活用水として利用するため、水舟と呼ばれる水槽を設けていた。現在、残っているのは2ヶ所だけになった」と、「説明」には書かれていました。
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その先も、旧街道の雰囲気を残す家並みが続きます。
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旧街道をさらに進むと、板井原川と平行して進むようになります。
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その先で、国道181号と国道180号が合流しています。
根雨宿から、旧出雲街道で上方に向かった旅人は、板井原宿、そして、四十曲(しじゅうまがり)峠を経て、美作国の新庄宿へと向かっていました。