トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

国鉄の最短路線だった小松島線の跡地を歩く(1)

2018年05月31日 | 日記

JR牟岐(むぎ)線の中田(ちゅうでん)駅です。徳島県小松島(こまつしま)市にあり、かつて、この駅と小松島駅を結ぶ鉄道がありました。全長1.9km。国鉄の最短路線として知られていた小松島線でした。しかし、国鉄の分割民営化を前に「第一次特定地方交通線」に指定され、昭和60(1985)年に廃止されてしまいました。この日は、その小松島線の線路跡を終点の小松島駅跡に向かって歩きました。

徳島駅から、JR阿南駅行きの牟岐線の普通列車(単行気動車の1007号車)に乗車して中田駅をめざしました。牟岐線は徳島駅から南下して、高知県境に近い海部(かいふ)駅とを結ぶ全長79.3kmの路線です。

徳島駅から20分ぐらい(徳島駅から9.2km)で中田駅の1番ホームに着きました。地蔵橋駅から3.2km、次の南小松島駅まで1.7kmのところにありました。中田駅も小松島市内にありますが、南小松島駅周辺が小松島市の行政や経済の中心地になっています。

中田駅は、島式、1面2線のホームになっていますが、昭和60(1985)年の小松島線の廃止までは、駅舎寄りにもう一つホームがあり2面3線のホームになっていました。JR四国には、いわゆる「1線スルー」になっている駅が多いのですが、この駅は1番ホームには阿南・海部駅方面の列車が発着し、2番ホームには徳島方面行きの列車が発着しています。写真はホームから見た徳島駅方面です。右側に側線が設けられていました。

ホームから駅舎に向かいます、遮断機のついた構内踏切の先に駅舎がありました。小松島線は、小松島港と徳島市を結ぶために、阿波国共同汽船(あわのくにきょうどうきせん)によって、大正2(1913)年に敷設されました。開業時から国鉄が借り上げ、小松島軽便線として営業していましたが、大正6(1917)年に国有化されました。そして、大正11(1922)年の軽便鉄道法の廃止を機に、徳島駅・小松島駅間が小松島線となりました。
一方、牟岐線は、阿南鉄道によって、大正5(1916)年、この中田駅を起点にして開業されました。そして、昭和11(1936)年、阿南鉄道が国有化され牟岐線となり、昭和36(1961)年の小松島線と牟岐線の起点変更によって、中田駅が小松島線の起点となりました。こうして、小松島線は小松島駅までの1.9kmの最短路線となりました。
もとは徳島駅・小松島駅間11.1kmだった路線は、起点を変更されたことによって、路線の大部分を牟岐線にとられて最短路線になったわけで、小松島線の地元の人々からからみると、「最短路線にさせられた小松島線」ということになるのでしょうね。

駅舎の左側にあった手作りの駅名標です。なぜか「みなみこまつしま」だけが二重に書かれています。中田駅は、大正5(1916)年、阿南鉄道(後の牟岐線)との接続駅として、阿波国共同汽船軽便線の地蔵橋駅・小松島駅間に開業しました。その後、昭和36(1961)年の起点変更により、国鉄小松島線の起点駅になったのです。

構内踏切から見た阿南駅方面です。正面の線路が牟岐線の列車が到着した1番ホームです。最初に見た側線が左側から合流しています。これを見て、左から来た側線がかつての小松島線の線路だったと思ったのですが、駅舎内外の点検作業をされていたJR関係者の方にお聞きしたら、「小松島線は、今の1番ホームから出発していたよ」とのことでした。ちなみに、この方は「若い頃に6年間ほど小松島線の運転士をしていた」そうです。「この先に踏切が見えますよね。あの近くで牟岐線と分岐していました。」ともおっしゃっていました。この写真では見えにくいのですが、線路が合流した先に踏切が見えました。

駅舎を出ました。目の前にあったのが、高層の集合住宅です。静かな住宅地といった雰囲気を感じました。駅舎の前を右折して牟岐線の線路に沿って歩きます。

この駅からJRを利用しておられる方が置いている自転車の間を通って進みます。中田駅の1日平均乗車人員は466人(2014年)だそうです。利用者の多くが通学の高校生のようです。

自転車の間を過ぎると、歩行者・自転車専用道路になっています。歩行者専用道路(左側)と自転車専用道路(右側)が、その間にある緑地帯で分離されていて安全に通行できる配慮がなされていました。

歩行者・自転車専用道路には、清水が流れるせせらぎも整備されていました。途中にあった石碑には「中田駅新港線街路事業 竣工 平成6年」と刻まれていました。進行方向の右側には牟岐線の線路が見えます。

小松島線と牟岐線の分岐点がこの付近にあったといわれた長手(ながて)踏切です。「9K398M」とありました。駅から約200mぐらい歩いたことになります。

長手踏切から先は小松島線の線路跡を進むことになります。右側に整備されていた休憩のスペースです。東屋風の屋根の下に石のベンチが並んでます。

休憩スペースから30mぐらい進んだ右側に、牟岐線の踏切がありました。中央の白い建物の手前です。「県前(あがたまえ)踏切 9K556M」。この間にあるお宅の人は、列車が通過する音を両側から聞いていたのでしょうね。

その先にあった距離標です。「中田駅より400M」 「日峰通りより1000M」です。 昼過ぎの時間でしたが、買い物帰りの女性の方など行き交う人も結構おられました。目の前を歩いておられるのはウオーキングをされていた高齢者の方でした。

新堀川にかかる瓠橋(ひさごばし)に来ました。瓠橋はかつては鉄橋があったところのようですが、完全に改造がなされていて、かつての面影はまったく残っていませんでした。鉄道跡地を訪ねるというよりは、ウオーキングをしているような気分になってきました。

瓠橋から200mぐらいで県道120号徳島小松島線を渡ります。

県道を渡ると歩行者・自転車専用道路が鮮やかになりました。左の赤い部分が歩行者専用道路、右側の緑の部分が自転車専用道路です。ここまで、塗装がかなり剥げていたのですが・・。 右前に、スーパーの「KyOEI(キョーエー)」が見えました。

右前方に、徳島赤十字病院が見え始めました。左側にある千歳産業の白い工場と並んで歩くようになったところに、水飲場と休憩所、トイレが並んで設けられていました。

千歳産業の並びにあった「徳島ロイヤル病院 ケアハウス ロイヤル ローズ ガーデン」の建物です。その前に残っていたのが中継信号機でした。小松島線で唯一現在まで残ってきた鉄道時代の遺産です。うっかり見過ごして通り過ぎてしまうような、周囲の風景に溶け込んでいる中継信号機でした。

白色灯が水平に点灯していれば「停止」、斜めの点灯なら「注意」、垂直に点灯していたら「進行」を示す「白色3位式の信号機」でした。もちろん、使用されているわけではありませんが、きれいに塗装されていて、現役の信号機といってもいいぐらいでした。徳島赤十字病院の建物が少しずつ近づいてきました。

県道33号小松島佐那河内線の交差点に着きました。交差点の手前に「中田駅より1200M」の標識が見えました。交差点の左方向には徳島ロイヤル病院、右側には徳島赤十字病院がありました。交差点の向かいには徳島赤十字病院の駐車場になっている広い敷地がありました。この右方向には「SL記念広場」と「たぬき広場」、そして国の合同庁舎(「小松島みなと合同庁舎」)の建物が並んでいました。この広い敷地が、小松島線の小松島駅があったところです。かつては、小松島客貨車区や徳島気動車区小松島支所などの国鉄の施設も置かれていました。現在、駅跡は小松島市が整備した「小松島ステーションパーク」になっています。駐車場の入口に機関車を模したオブジェがありました。中田駅で出会ったJRの関係者の方は、このオブジェの向こうに転車台があったといわれていました。

こちらのオブジェは、この先にある「小松島みなと合同庁舎」の脇に置かれていたものですが、「SL記念広場」や「たぬき広場」を含む「小松島ステーションパーク」の説明板になっていました。駐車場前のオブジェは破損していましたが、もとはこのようなものだったのではないでしょうか。

県道33号を渡ったところから振り返って撮影しました。歩いて来た小松島線の線路跡です。ここからは小松島駅跡を歩きます。

徳島赤十字病院の駐車場を過ぎると、車輪の形をした車止めがありました。「SL記念広場」に入ります。このあたりは、小松島線の操車場があったところだったそうです。

広場に静態保存されていたC12形蒸気機関車(SL)と50系客車です。ホームに横づけした形で展示されています。ただ、かつてのホームはこの向きではなく、これと直行する向きになっていたようです。C12形SLは、C11形SLを小型化したSLで、昭和7(1932)年から昭和22(1947)年までに製造された、洗練されたデザインで知られていたSLでした。「説明」によれば、このC12280号機は昭和11(1936)年に製造され、徳島駅から牟岐線を走っていたSLで、昭和48(1973)年に国鉄から譲り受けたといわれています。

これは、50系客車、オハフ50272です。50系客車は、昭和53(1978)年のダイヤ改正でデビューした当時新形式のローカル列車用客車。乗降口が自動化したり、車両のデッキから入る引き戸を大型化したり、通勤・通学客の輸送の改善に対応した客車でした。小松島線で使われていた頃は赤い塗装になっていたそうです。

SL記念広場の全景です。当時は操車場になっていたところだそうです。

たぬき広場です。赤い提灯をもった世界最大のたぬきがつくられています。このたぬきはジブリアニメの「平成狸合戦ぽんぽん」のモデルになった金長たぬきです。たぬきのうしろに見えるのは、たぬき広場に隣接している小松島みなと合同庁舎の建物です。

小松島みなと合同庁舎です。海上保安部、検疫所、入国管理局、税関など小松島港にかかわる政府機関が入居しています。かつての小松島駅の駅舎やホームは、この合同庁舎の建っている付近にあったといわれています。

合同庁舎の先、道路を隔てた向かい側にあったミリカホール(小松島市保健センター)付近からその先の港側を撮影しました。この先、駅舎から行き止まりの線路が港に向かって延びていたそうです。
  
国鉄の最短路線として知られていた小松島線を、JR中田駅から小松島駅まで歩きました。
きれいに整備された線路跡は、市民の生活道やウオーキングロードとして今も使用されていましたが、かつての小松島線を思い出させるものは中継信号だけだったのが、少し残念でした。
次回は、小松島駅から分岐して小松島港に設置されていた小松島港仮乗降場を訪ねることにしています。




ホームの「うちぬき」が無くなっていた! JR伊予西条駅

2018年05月21日 | 日記

四国の霊峰、石鎚山の北麓に広がる愛媛県西条市は、飲用水としても使用されている清水が、「うちぬき」と呼ばれる「自噴井」から湧き出ている「水の都」です。前回、町の中を流れる水路に沿って整備された散策路に沿って、藩政時代に陣屋が置かれていた愛媛県立西条高校まで歩いてきました(「うちぬきのある陣屋町、西条市を歩く」2018年5月9日の日記)。写真は、市役所付近にあった「うちぬき広場」です。平成7(1995)年の全国利き水大会で、この水が日本一を獲得しています。

コンクリ-ト造り3階建てのJR西条駅です。ずいぶん前のことになりますが、この駅で下車したことがありました。そのとき、ホームに「うちぬき」があったことをかすかに覚えていました。前回、「うちぬき」に沿って歩いたとき、十分確認していませんでしたので、再度、この駅を訪ねることにしました。駅舎に隣接した鉄塔は、鉄道電話の中継用に設置されて、本州との交信に使用されていました。現在は、携帯電話の基地局になっているそうです。

JR観音寺駅から乗車してきた7309号車(先頭車)と7209号車(観音寺駅側)の電車が、駅舎に近い1番ホームに到着しました。7200形の車両は、国鉄分割民営化の直前に、旧国鉄によって、2両編成(クモハ121形+クモハ120形)の19本が製造された、旧国鉄の置き土産と言ってもいい車両です。平成28(2016)年から始まった、老朽化による改造の終了後に、7200形+7300形に改番されました。

伊予西条駅は2面3線の駅になっています。この駅は予讃線の普通列車の中継点という機能も有しており、松山駅や高松駅方面に向かう普通列車の始発駅、終着駅にもなっています。そのため、この駅での入れ換え作業は1日40回を越えるともいわれています。また、早朝や深夜に発着する列車もあり、構内の引き込み線に留置されます。その列車に乗務する乗務員は、写真の左側の駅舎の3階にある宿泊施設で宿泊しているそうです。

この駅が普通列車の中継点になっていることがよくわかる3番ホームの風景です。手前の列車が、高松方面に向かう観音寺駅行き、向こう側の列車が松山駅行き。ここで、接続しています。

駅名標です。中萩駅から6.4km、次の石鎚山駅まで3.5kmのところにあります。さて、予讃線は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって丸亀駅・多度津駅間が開通したことに始まります。その後、高松駅・丸亀駅間が開通しました。しかし、経営は盤石ではなく、山陽鉄道に買収されることになりました。その後、国有化され、多度津駅から西への延伸が始まりました。伊予西条駅まで延伸・開業したのは、大正10(1921)年のことでした。開業当時の駅舎は木造だったようですが、現在の駅舎は、昭和43(1968)年に改築されたものです。

ホームを高松方面に向かって進みます。2番・3番ホームに移動する旅客のための横断用の跨線橋です。

ホームの中央に、駅スタッフが使用されている構内踏切がありました。

跨線橋の裏(高松駅寄り)にあったエレベーターです。平成29(2017)年9月に完成したバリアフリー工事で新設されました。

2番3番ホームのある島式ホームの駅名標のところにエレベーターの出入口が設置されています。以前、この駅に降りたとき、「うちぬき」を見たのはこの島式ホームだったと思いましたが、正確なところは、やはり思い出せませんでした。エレベーターの左の白い陸橋は「ぽっぽ橋」です。駅の南北を結ぶ跨線橋です。これも、バリアフリー工事が行われた平成29(2017)年に設置されたそうです。

改札を通り駅舎内に入ります。右側の駅事務所にきっぷを渡して出ました。自動改札機はまだ導入されていませんでした。

駅舎内にあった時刻表です。都市間輸送を担う「特急しおかぜ(岡山駅行き)」と「特急いしづち」が1時間に1本、地域間輸送を担う普通列車も1時間に1本程度運行されています。

駅舎内です。改札口に向かって撮影しました。左側に「みどりの窓口」その手前に自動券売機が設置されています。右側には、セブン・イレブンの店舗がありました。近年まで、改札口で操作する「行燈(あんどん)式改札案内」が使われていたそうですが、現在はLEDの行先表示に替わっていました。

駅前広場から見た駅舎の風景です。トイレの前に「噴水」がありました。「下り列車の到着時に吹き上げる」(杉崎行恭著「駅旅入門」)のだそうです。このときは吹き上げていました。

吹き上げている噴水です。駅舎に向かって左右の2ヶ所設置されていました。湧水を利用したオブジェは「水の都 西条」でよく目にする光景です。

駅舎に沿って観音寺・高松(東)方面に向かって歩きます。駅舎に隣接して「鉄道歴史パーク in SAIJO」 がありました。右の手前の「十河信二記念館」、その先の「四国鉄道文化館」、そして、鉄道文化館の向かいに「観光交流センター」が設置されています。いずれも、西条市が一体的に管理運営している施設です。四国鉄道文化館はJR四国が保管していた車両等を展示しており、十河信二記念館は地元、愛媛県立西条高校の出身で第4代国鉄総裁として新幹線の導入に尽力した十河信二氏の足跡を紹介しています。駅舎と十河信二記念館の間には、先ほどホームから見えた「ぽっぽ橋」が設置されていました。

観光交流センターです。観光案内所と西条市でつくられた物産の販売等を行っている施設です。中にうちぬきの湧水があり、飲用にも使用されていました。

「ぽっぽ橋」の階段を上ります。「ぽっぽ橋」は、四国鉄道文化館(平成19=2007年に開設した北館)の南館がオープンしたときに、2つの鉄道文化館をつなぐ通路として、旧跨線橋を撤去して、平成26(2014)年に新たに架橋された跨線橋です。駅の南北を結ぶ生活道としても使用されており、バリアフリーに配慮してエレベーターも併設されています。全長80mといわれています。

「ぽっぽ橋」の上から見た観音寺方面です。伊予西条駅は2面3線のホームといわれていますが、構内にはたくさんの引き込み線が設けられています。一番左側の線路から分岐して左に向かっている引込線は、その先の四国鉄道文化館の北館につながっています。現在、DF50形ディーゼル機関車(DF501号機)がこの線路の上に展示されています。昭和32(1957)年に製造され、最初に高松機関区に配属され、敦賀、長野、米子機関区を経た昭和42(1967)年高松に戻ってきたディーゼル機関車です。現在、唯一、動態保存されているディーゼル機関車です。正面に島式のホームが見えますが、その右の2本目の線路から引き込み線になっています。

「ぽっぽ橋」を少し進んだところから見た引き込み線です。正面に留置されている車両は、観音寺から乗車してきた7200形車両の7309号車と7209号車の2両編成です。写真の右端に煉瓦づくりの円形の給水塔が見えます。大正10(1921)年の開業以来、足下にある湧水池からポンプで汲み上げて、蒸気機関車への給水のために使用されてきた給水塔です。「現在もポンプで汲み上げ構内に供給している」(杉崎行恭著「駅旅入門」)そうです。

これは、「ぽっぽ橋」の上から撮影した給水塔です。西側から見た姿です。上部の貯水槽から地上に下る水管が見えました。

これは、伊予西条駅前を東西に走る通り(駅東通り)を右折して進み、右側にあったホテルの駐車場から予讃線の線路越しに撮影した給水塔です。これは北側から撮影した給水塔です。下に倉庫風の建物があるのがわかります。上部の貯水槽からの水管が地上までつながっているのが見えました。

これは、給水塔の南側の市営住宅から見た給水塔です。左側に点検用の梯子がついています。右側は、湧水池から汲み上げた水を上部から注入するパイプなのでしょうか? 下部はブッシュに覆われていてよくわかりませんでした。様々な角度から挑戦しましたが、残念ながら、下部にあったはずの湧水池は見つけることができませんでした。

さらに南に進んだところから見た南館につながる引き込み線です。写真の右側の建物が四国鉄道文化館の南館です。その前に展示されているのは、フリーゲージトレインのGCT01-201号車です。

フリーゲージトレインは新幹線の軌間(ゲージ)1435ミリと在来線の軌間1067ミリの異なる軌間に車輪の幅を変換して直通運転ができる電車です。四国鉄道文化館の「説明」では、「平成21(2007)年にJR九州の小倉工場で完成し、九州での試験走行を経て、平成23(2011)年からは予讃線の多度津駅~坂出駅間を試験走行した車両です。平成25(2013)年に試験走行を終えて、西条市に無償譲渡されたもの」と書かれていました。

南館前の広場から見た煉瓦づくりのカーバイト倉庫です。幼い頃、祭礼の屋台で使用されていた灯りを思い出します。炭化カルシウムの塊に水を加えると発生するアセチレンガスに火をつけると燃え出すという性質を利用して、伊予西条駅では、夜間作業の照明として使用されていました。その炭化カルシウムを保存する倉庫として使われていたそうです。大正10(1921)年の開業時に給水塔とともに建てられたとも、それより遅れてつくられたともいわれています。水をかけるとガスが発生して燃えるという性質があるため、煉瓦の上の看板には「注水厳禁」と、正面のドアには「立入禁止」「火気厳禁」と書かれた表示がありました。

この日、JR伊予西条駅を訪ねたのは、かつてホームにあったはずの「うちぬき」がどこにあったのかを確かめるのが目的でした。南館でスタッフの方におうかがいすると、「島式ホームにエレベーターを設置したとき、それまでそこにあった『うちぬき』を撤去した」とのことでした。また、「ホームの「うちぬき」を撤去した替わりに駅前に噴水をつくったというわけではなく、二つが並行して存在した時期もありました」とのことでした。伊予西条駅でバリアフリーの工事が行われたのは、平成29(2017)年でした。ホームの「うちぬき」はそのときまでこの地にあったということでした。

この日は、自分の記憶の中にあったホームの「うちぬき」を確認するため、JR伊予西条駅にやって来ました。
しかし、四国鉄道文化館に展示されていた多くの展示物を通して四国の鉄道の歴史にふれる旅になりました。
ホームに「うちぬき」がある風景も伊予西条駅にはふさわしいのではないかとも感じた旅でした。

「うちぬき」のある陣屋町、西条市を歩く

2018年05月09日 | 日記

「うちぬき」と呼ばれる「自噴井」から湧く清水が、小川やせせらぎになって街を流れ水辺の散策が楽しめる街、そして、その清水が飲用水としても使われている街があります。愛媛県の東部(東予地域)にある西条市です。写真のうちぬきは西条市総合文化会館の近くにあった飲料用のうちぬきです。

この町にある愛媛県立西条高校は、藩政時代にこの地を領した西条藩主の陣屋があったところに設置されています。藩政時代と同じように、周囲を豊かに水をたたえた堀に囲まれた環境の中にあります。

せせらぎの脇にあった「アクアトピア」の案内図です。水を意味する「アクア(Aqua)」と桃源郷を意味する「ユートピア(Utopia)」の合成語で、国土交通省が推進している親水整備事業です。西条市もこの事業によって整備を進めてきました。市街地を流れる水路は西条高校のある堀につながっているようです。気になったのは、この地図の水路が、突如地図の右側に出現しているように描かれていたことでした。この水はどこからきたのか不思議でした。この日は、地図の右側、水路が突如現れる辺りから、水辺の散策をしながら陣屋跡の堀まで歩くことにしました。

JR予讃線の伊予西条駅からスタートしました。この駅は、大正10(1921)年に開業しました。多度津駅から西に向かって延伸してきた予讃線がここまで開業したときでした。現在の駅舎は、昭和43(1968)年6月に改築されたものです。

駅前を予讃線と並行して走る駅西通り(市道西条駅前干拓地線)を松山方面に向かって歩きます。

歩道の脇に置かれていた「うちぬき」の白いモニュメントです。「平成7 8年 連年 おいしい水 日本一に選出」、「うちぬき 昭和60年1月 名水百選に認定」と書かれていました。 通りの右側にあった西条市立図書館を過ぎると、左側に西条市総合文化会館の建物が見えてきました。その先を左折して石鎚山山系が聳える方向に歩きます。冒頭の「アクアトピア」の案内図の右端の地点に向かいます。

県道西条港線の向こうの池にその場がありました。見渡してもこの池に注ぐ水路はありません。

池の向こう岸に近いところにあった井戸状の構造物です。観光交流館でいただいた「イラストマップ」には「観音水」と書かれていました。近くの駐車場の整備をしておられた方にお聞きすると「下から湧き出ているんですよ」とのこと。続いて「ここでは、飲み水には湧き出る水を使っています」とのことでした。観音水はここから流れるせせらぎの源流になっていたのです。それにしても、すごい量の湧き水でした。

県道西条港線を左に向かって歩いていくと小さな公園があり、そこに「観音水の泉」と刻まれた石碑がありました。「説明」には、県天然記念物になっているふじで知られる観音堂(禎祥寺)の近くにあったので「観音水(観音泉)」と呼ばれていると書かれていました。西条建設の白いビルが見えました。

禎祥寺観音堂に寄ることにしました。西条建設の右側の道を右カーブしたらすぐに禎祥寺でした。

禎祥寺の山門です。入口に、大きな藤棚がありました。愛媛県の天然記念物に指定されています。「観音水」は、アクアトピアのシンボルになっているだけでなく「水の都 西条」のシンボルにもなっているようです。

整備された散策の道を水路に沿って歩くことにしました。少女像のオブジェです。脇には「夕暮れて落葉明りの水辺かな」の句の石碑もありました。この先、句が書かれている背の低い石碑にたびたび出会うことになりました。

西条市総合文化会館に向かって引き返します。

総合文化会館の交差点の近くにあった「湧水モニュメント」です。西条市の資料によれば、四国の名峰石鎚山の麓のこの地域は、石鎚山からの伏流水の貯水池になっていて、日本有数の自噴地帯といわれています。自噴井は2000ヶ所、9万立方メートルに達するといわれ、場所によっては水管を差すだけで簡単に水を得ることができたそうです。打ち込めば湧水が出てくるということから「うちぬき」ということばが使われるようになりました。

総合文化会館を背景にしてつくられた「湧水モニュメント」の碑です。平成3(1991)年の旧西条市(平成の大合併以前の西条市)の調査によれば、1万9千戸のうち75%が飲料水として「うちぬき」を利用しているということでした。現在も、公共の上水道の整備はなされていないのだそうです。まさに”水の都”です。

散策の道を瀬戸内海の方に向かって、アクアトピア水系のアクアルートを歩きます。「水舞台」と名づけられた石の構造物がせせらぎの中に見えます。その先に、墓地が見えました。
 
墓地の先に大通寺の山門がありました。僧行基の開基と伝えられる真言宗御室派の寺院です。天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐の兵火で焼失したことがあったそうです。江戸時代には西条藩主松平氏の庇護を受けていた寺院です。現在の山門は、「元の西条陣屋のお庭門(中敷門)であった」と説明に書かれていました。

「ほたるの泉」と名づけられた一角です。

梛木橋(なぎのきはし)を渡ります。「説明」によれば、藩政時代にはこの近くに大きな梛木があったそうです。手前には西条市立図書館の裏口がありました。

左側にあった、切妻造りの屋根が印象的な市総合福祉センターの建物です。ここは、藩政時代「伊予柾」(いよまさ・西条奉書)の紙蔵が置かれていたところです。

福祉センターの北側の植え込みの中にあった石碑です。正面に「西条藩紙方役所 紙蔵跡」。 右側面には「西条奉書(伊予柾生産の地)」。 左側面には、「江戸時代西条藩の手すき和紙、奉書紙は伊予柾とよばれ浮世絵用として高い評価を受けていた。西条藩は良質の水に恵まれていたため、ここ古屋敷の紙すき場を直営として、和紙の専売制を布いた」と書かれていました。

新町橋の付近から振り返って撮影した市総合福祉センターです。この先、せせらぎは暗渠の流れになります。

突然、水路が顔を出しました。石製の樋が見えました。いただいた「西条水めぐりマップ」を見たら「掛樋(かけひ)」と書かれていました。そして、「水をまっすぐ流したり、堰(せき)とめて流す道を変えたり、幾通りもの使い方をします」と説明されています。流れの調節のために使用された樋でした。その先の交差点の右側の建物の手前を右折しました。

やがて、通りの左側にJA西条の事務所がありました。その向かいにあった「うちぬき」です。

その先に防球ネットが見えました。西条高校、そして、陣屋跡にやって来ました。

その手前の御殿前通りを右折します。西条高校といえば、プロ野球の読売ジャイアンツの元監督藤田元司さんを、そして、今は、阪神タイガースで活躍している秋山拓巳投手を思い出します。お二人が高校生活を送った髙校として知られています。この日は連休中の土曜日でしたが、練習中の野球部員の元気な声が聞こえていました。

西条高校の校舎が見えました。その前に堀が広がっていました。

そのまま進んで行きます。左側にあった裁判所の建物です。その向かい(道路の右側)に「うちぬき広場」がつくられていました。

「うちぬき広場」です。奥の方に水を噴出している「うちぬき」が見えました。平成7(1995)年に行われた「全国利(き)き水大会」で日本一になったのが、ここの「うちぬき」の水でした。石碑には「名水百選 うちぬき 昭和60年1月 環境庁選定」と、当時の西条市長 桑原富雄氏の手で刻まれていました。

「うちぬき広場」から引き返し、西条高校の正門側の通りを進みます。先に書きましたが、西条高校のあるところには、藩政時代、西条藩の政庁である陣屋が置かれていました。ゆったりと水を湛えた堀の対岸に、陣屋の面影を伝える北御門が見えました。北御門は陣屋の北口を護っていた門でした。西条藩は、寛永13(1636)年に、外様大名であった一柳直盛(ひとつやなぎなおもり)が、6万8千石で、伊勢神戸藩から転封されたことに始まります。しかし、当時73歳と高齢だった直盛は、西条へ赴任する途中の大坂で病没してしまいます。その遺領は3人の子が相続し、長男の一柳直重(なおしげ)が3万石で西条の地に入り、陣屋の建築に取りかかりました。陣屋は、加茂川の三角州の1万坪以上の敷地に築かれ、周囲を水堀で囲まれており、寛永17(1640)年ごろに完成したといわれています。しかし、一柳家3代目の藩主直興(なおおき)は不行跡の咎めを受け改易(御家断絶・領地没収)となり、「加賀前田家にお預け」になってしまいました。

一柳家の後、天領(幕府領)となっていた西条藩でしたが、5年後の寛文10(1670)年、御三家の一つ紀州徳川家の分家筋の松平頼純(よりずみ)が3万石で入封しました。松平家は参勤交代のない江戸定府の大名で、この後、明治維新まで10代に渡り西条藩主をつとめました。写真は西条高校の正門ですが、かつては陣屋の大手門(表門)でした。現在の正門(大手門)は、寛政(1789ー1808)年間の建築といわれ、当時のままの場所に現存しています。

西条高校の正門の前に来ました。左側の藩政時代の土塁の上に「西條藩陣屋跡」の石碑が建っています。また門柱には木製の「愛媛縣立西條高等学校」の校名標が掲げられていました。

正門の右側にも藩政時代の土塁が残っています。右側の土塁にあった「𦾔(旧)西條藩邸址」の石碑です。

正門から左方向に向かって歩くと北御門があります。近くの石碑には、「寛政年間に大手門を建て替えたとき、古い門は北側に移設されていました。その後、天保6(1835)年、松平家9代藩主松平頼学(よりさと)が初めてお国入りをしたとき(松平家は江戸定府の大名だったため)、現在の様式に変わったといわれています。明治時代以降は転々と設置場所を替えられて傷みが目立っていたため、平成25(2013)年にそれを修復したとき、この地に移されました」と説明されていました。かつては通り抜けが可能であった両側のくぐり門も、このときに固定されたそうです。

引き返します。大手門の前を今度はまっすぐ北に向かって歩きます。西条栄光保育園の脇を通って、陣屋跡から出ます。左折して、堀から流れ出てきた本陣川に架かる赤い欄干(らんかん)橋を渡って、西に向かいます。欄干橋のあるところには、藩政時代にも欄干のある橋が架けられていたそうです。

石造りの北御門橋がありました。先ほど訪ねた北御門はこのあたりに設置されていたのでしょう。

北御門橋から引き返します。堀の脇にある四番町郵便局のところには、かつて西条藩の藩校「擇善堂(たくぜんどう)」がありました。松平家8代藩主松平頼啓(よりゆき)によって、文化2(1805)年に開校しました。

観音水から水路に沿って「うちぬき」を訪ねて歩いてきましたが、ここでゴールにしました。
「水の都 西条」の豊かな水がつくる美しい風景にふれる、そして、「陣屋町西条」の歴史にふれる旅になりました。