トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
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JR西阿知駅を訪ねる

2021年05月16日 | 日記
JR山陽本線の西阿知駅です。倉敷市西阿知町にあります。木造駅舎に設けられている左右の青いラインが印象的な駅舎です。

駅舎のある西阿知町は、西阿知、西原、西阿知新田、片島町の4つの集落からなっています。 古代には、”吉備の穴海” と呼ばれた海だったところでした。高梁川の河口付近にあり、江戸時代には、上流から運ばれてきた土砂が堆積し、干潮時には干潟が広がるようになっていました。そのため、その干潟を干拓して新田の開発が行われるようになりました。 西阿知町はこうして生まれたところでした。 
西阿知駅の開業は、大正9(1920)年5月25日。 開業当時の所在地は、岡山県浅口郡河内(こうち)村で、倉敷駅と玉島(現・新倉敷)駅の中間駅として開業しました。 

岡山駅から乗車してきた糸崎駅行きの普通列車は、20分ぐらいで、西阿知駅の1面2線の島式ホームに到着しました。平日の午前中でしたが、10人ぐらいの人とともに下車しました。列車は、やがて、次の新倉敷駅に向かって出発して行きました。上家の下に置かれたベンチと、その先の長いホームが見えました。

列車が出発した後のホームの南側です。柵の外側の側線には工事車両が停車していました。その向こうは、岡山県立水島工業高等学校の敷地になっています。 山陽本線は、兵庫県の神戸駅から山口県の下関駅までを結んでいる本線と、JR兵庫駅からJR和田岬駅までの全長1.7kmの支線(通称、「和田岬線」)からなる路線(幹線)です。 和田岬線は、明治23(1890)年に貨物支線として開業しています。

ホームの西側から見た岡山駅側の光景です。
山陽本線は、明治21(1888)年、山陽鉄道が兵庫駅・明石駅間で開業させたことに始まります。その後、西に向かって延伸し、明治34(1901)年、馬関(現・下関)駅まで開業しました。 そして、明治39(1906)年には国有化され、明治42(1909)年の国有鉄道の路線名称の制定により「山陽本線」と呼ばれるようになりました。 西阿知駅が開業したのは、この後のことでした。

ホームから見た駅舎です。駅舎からは地下道を通ってホームに上がるようになっていましたが、現在は、エレべーターでも移動ができるようになっています。 岡山駅・倉敷駅間が、山陽鉄道により開業したのは、明治24(1891)年4月25日。その後、さらに西に向かって延伸し、倉敷駅・笠岡駅(岡山県最後の駅)間が開業したのは、同じ明治24(1891)年の7月14日のことでした。西阿知駅は、大正9(1920)年の開業ですから、倉敷駅・笠岡駅間の開業から30年ほど遅れて開業したことになります。

岡山駅方面行きの列車が停車する駅舎側の1番ホームを、貨物列車が通過して行きました。ホームを岡山駅方面に向かって、さらに進みます。
ベンチが並ぶ先に自動販売機とその後ろの待合室が見えました。

待合室の裏には、駅舎とホームを結ぶ地下道から続く階段が設けられています。手前の柱に「建物資産標」が貼られていました。

それには「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家1号 大正12年2月」と、書かれていました。 西阿知駅の開業から2年半後に建てられた上家のようです。建設から、すでに100年が経過しています。
平成23(2011)年3月に使用が始まったエレベーターの出入口がありました。
さらに、岡山駅方面に向かって歩きます。長いホームが見えます。
駅名標がありました。西阿知駅は倉敷駅から4.0km、次の新倉敷駅まで5.3kmのところにあります。開業時の浅口郡河内村は、大正15(1926)年に西阿知町に改称されました。 そして、昭和28(1953)年には、西阿知町は倉敷市に編入され、現在の倉敷市西阿知町になりました。
エレベーターの跨線橋を過ぎて岡山駅方面に向かって歩きます。
岡山側のホームからの新倉敷駅側のホームのようすです。上家の中にベンチが設置されています。線路を跨ぐエレベータの跨線橋の向こうに西阿知駅の木造駅舎が見えます。

ホームのエレベーターの出入口の前に戻りました。 駅舎から地下道を利用する乗客が上り下りする階段です。  駅舎に向かうことにします。

改札口の前に出ました。
西阿知駅を訪ねてみようと思ったのは、この駅が、1年前の令和2(2020)年4月11日から、県内の鴨方駅(山陽本線)、早島駅(宇野線)とともに、無人駅になっていたからです。 西阿知駅の1日平均乗車人員は、平成30(2018)年には、3,107人だったそうです。 無人駅といえば、「利用者が少ない駅」というイメージでしたが・・・。多くの利用者がいる駅でした。

階段の正面に改札口、その左側にはトイレが設置されています。トイレ前の柱にあった「建物資産標」には「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家 2号 平成23年3月」と書かれていました。

階段の右側に設けられていたエレベーターの跨線橋です。木造駅舎には不釣り合いなほどどっしりとした印象です。出入口の近くにあった「建物資産標」にも、同じ「平成23年3月」と書かれていました。エレベーターの跨線橋を整備したとき、改札口付近一帯をまとめて整備したようです。

改札口前の地下道への入口です。地下道への通りを覆う上家の右側の柱に「建物資産標」がありました。そこには、「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家3号 大正13年6月」と書かれていました。開業から4年ぐらい後に整備されているようです。

改札口から駅舎に入ります。駅舎の左側の部分は待合いのスペースになっています。

改札口の右側のようすです。窓口は閉鎖されており、自動券売機が設置されていました。
駅舎から駅前の駐車スペースに出ました。青地に黒の「西阿知駅」の駅名標が鮮やかです。出入口の、向かって右側の柱の脇の壁面に「建物資産標」がありました。

「建物資産標 鉄停 駅 本屋1号 大正7年7月」と書かれていました。駅舎は大正7(1918)年7月に完成したようです。 なぜ、開業が2年後の大正9(1920)年になったのかということについて、「西阿知駅は、大正7年7月に完成し、開業は2年近く後の大正9年5月25日と記録には見える。実は鉄道の開通の時に駅の設置は決まっていたが、高梁川が洪水で決壊したため取りやめになり、駅舎の建設はお預けになった」(「岡山の駅」難波数丸著)からということのようです。 当時、「高梁川は東西2本に分かれていたが、洪水対策として東高梁川を廃川とし、西高梁川を現在の流れに改修する工事が行われており、線路の位置も変わったので、駅舎は完成しておりながら、線路の付け替え工事が終わった2年後の開業になった」(同上)のだそうです。

駅舎の前は駐車スペースになっています。駅舎の新倉敷駅側に地下道がありました。 駅の周辺を歩いてみることにしました。民家の手前の屋根の下から地下道に入ります。

西阿知駅の裏(南)側の新倉敷駅方面です。線路と並行して長い駐輪場がありました。自転車がぎっしり並んでいます。
駐輪場から見えた南側の光景です。通りの右側が水島工業高校の敷地、突きあたりに見えるのは、倉敷市立倉敷第一中学校の校舎です。周辺は静かな住宅地になっていました。

駅舎前に戻ってきました。駅舎の正面の通りを高梁川方面に向かって進みます。JAの建物のある交差点の左側に、西阿知公民館がありました。

西阿知公民館です。 中に、西阿知地区の歴史に関する展示室がありました。 冒頭でも書きましたが、西阿知地区は江戸時代になってから、海の中の干潟を干拓することによって生まれました。「干拓してすぐの農地は塩分が含まれているため、塩分の含まれる土地でも育ち、土地の塩抜きもできる作物として、綿花やい草が多く栽培されていました」と「説明」には書かれていました。

特に、「西阿知地区は、い草を加工した畳表(たたみおもて)や畳縁(たたみべり)のブランド力が、全国でも高まっていた。 明治以降は西洋の技術を導入し織機が普及していった」そうです。 
写真は、公民館に展示されていた「ロール式織り込み花筵織機」。昭和22(1947)年創立の地元企業である、岡工作所が製作した花筵(はなむしろ)の織機です。
「昭和39(1964)年をピークに栽培は減少していったが、加工技術は今もこの地に広がっているという」と「説明」には書かれていました。

JR西阿知駅を訪ねて来ました。
倉敷市にある「無人駅、西阿知駅」は、利用者の少ない駅という「無人駅」のイメージを覆す、閑静な住宅地にある、多くの利用者に支えられている駅でした。























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