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「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」です。これは京阪電鉄大津線(京津線・石山坂本線)の1日乗り放題きっぷです。この日は、このきっぷを使って石山坂本線の列車に乗って、沿線の見どころをゆっくり見て歩きました。
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スタートは、京阪電鉄石山坂本線の最南端にある石山寺駅でした。その前に、石山寺駅の名前のもとになった石山寺を訪ねることにしました。石山寺境内参道を通って、石山寺に向かいます。距離800m。聖武天皇の勅願により天平勝宝元(749)年良弁(ろうべん)僧正の開基になる由緒ある寺院。あの紫式部が「源氏物語」の構想を練った寺院として知られています。
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10分ほどで石山寺の大門前に来ました。建久元(1190)年の建築ですが。桃山時代の慶長年間(1596~1614年)に大きな修理がなされており、桃山様式の特徴を備えているそうで、国の重要文化財に指定されています。
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石山寺は硅灰岩(けいかいがん)でできた伽藍山につくられています。多宝塔が建っているその下に、硅灰岩が地表から露出しているのが見えます。この多宝塔は、日本最古のものといわれ国宝に指定されています。
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石山寺の本堂です。総檜皮葺き。平地に建つ左側の正堂と斜面に建つ礼堂(らいどう)を相の間(あいのま)で結んだ懸造(かけづくり)です。現在の正堂は永長元(1096)年の再建されたもの、礼堂は慶長7(1602)年、豊臣秀吉の側室(浅井長政の子・織田信長の姪)である淀殿によって建て替えられたものといわれています。
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幕で覆われているところが「源氏の間」。紫式部がここで「源氏物語」の構想を練ったといわれています。現在は紫式部の人形が置かれています。
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本堂の建つところから、瀬田川上流の琵琶湖方面を撮影しました。瀬田川は琵琶湖から流れ出してから大戸(だいと)川に合流するまでの約15kmの川で、最後は淀川に合流して瀬戸内海に注ぎます。
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石山寺の大門脇にある「志じみ茶屋 孤舟」。シジミを入れた釜飯の「志じみめし」で有名です。このあたりはシジミ料理のお店が並んでいます。
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大門から駐車場に向かう途中にあった「石山貝塚」の石碑。瀬田川からとれるセタシジミの層が、昭和15(1940)年に発見されました。屈葬された人骨や縄文早期の標準となる石器も発見されたそうです。大古の時代からシジミの恩恵を受けていたのですね。
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石山坂本線の石山寺駅に向かう途中にあった、瀬田川・琵琶湖リバークルーズの港です。停泊していたのは一番丸でした。
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石山寺駅の駅前広場です。京阪電鉄石山坂本線は、大正2(1913)年に石山寺・坂本間14.kmが開業しました。軌間1435ミリ。全線、複線電化区間になっています。
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ホームに入りました。赤と緑の鮮やかな2両編成の列車が出発を待っていました。600形の611号車と612号車です。600形車両は20両(10編成)が在籍しているそうです。
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ワンマン運転の電車で、次の唐橋前駅に向かいます。この先、浜大津駅まで専用軌道が続きます。目の前は唐橋前駅です。二面二線の対面式のホームになっています。唐橋前駅までは0.7kmあります。
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1、2分で唐橋前駅に着きました。石山坂本線の駅間は一部を除いて1km未満です。鉄道線ですが、路面電車のように、こまめに停車しながら進みます。
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ちょうど、反対ホームに石山寺駅行きの700形車両が入ってきました。「機関車トーマス」のラッピング電車の701号車と702号車の2両編成でした。700形車両は10両(5編成)が在籍しているそうです。
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唐橋前という駅名からもわかるように、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」の最寄り駅です。瀬田の唐橋は「近江八景」の「瀬田の夕照(せきしょう)」で知られています。現在の橋は昭和59(1984)年に建て替えられました。
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クリーム色の欄干に擬宝珠(ぎぼし)をつけた瀬田の唐橋は、二つの部分に分かれています。途中の中ノ島(瀬田川の中州)までの小橋が52m、その先が150mあるそうです。
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瀬田川の対岸には、かつての雰囲気を残す民家が残っています。ここは、京への入り口にあたるため、壬申の乱(672年)、藤原仲麻呂の乱(764年)、承久の乱(1221年)などの戦乱の舞台になったところで、「瀬田川を制するものは天下を制する」といわれて来ました。
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対岸の橋のたもとに石碑が建っています。ここは、俵藤太(たわらのとうた・藤原秀郷)のムカデ退治の舞台ともなりました。写真の左の道を瀬田川沿いに50mぐらい下ると勢多橋龍宮秀郷社(せたばしりゅうぐうひでさとしゃ)が鎮座しています。
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「龍宮」の扁額がついている秀郷社です。瀬田川には古来龍神が住むといわれ、瀬田の唐橋が社殿とされていました。近江富士と呼ばれる三上山を七曲がり半するといわれた大百足(おおムカデ)が琵琶湖の魚を食べ尽くし困っていたので、退治に乗り出した藤原秀郷の放った矢が大百足の眉間に命中し退治することができたそうです。瀬田川の龍神からお礼としてたくさんの米俵をもらったので、俵藤太と呼ばれるようになったそうです。また、俵藤太は、このときお礼にもらった鐘を三井寺に寄進します。後に、弁慶がこの鐘を奪って、比叡山まで引き摺って上がったという伝説が残っています。
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秀郷社の鳥居脇にある雲住寺の住職は、予約すればムカデ退治のお話をしてくださるそうです。
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日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭る建部大社は近江国の一宮です。瀬田の唐橋から道なりに東に進んだところにあります。古代、近江国の国衙(こくが)は瀬田に置かれており、このあたりは近江国の中心地でした。
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檜皮葺の本殿は、文久元(1861)年の再建によるものです。北条泰時と後鳥羽上皇が戦った承久の乱(1221年)により社殿が炎上するなど罹災と復興を繰り返してきました。
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唐橋前駅に引き返し、石山坂本線の電車(613号車と614号車)に乗車します。次の京阪石山駅に向かいます。途中で600形(605号車と606号車)の電車とすれ違いました。ラッピング車両が多い印象でしたが、これは緑の京阪カラーの車両でした。
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京阪石山駅に着きました。唐橋前駅から0.9km。JR石山駅と隣接しておりJRとの乗換駅になっています。
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ホームから上がったところにあった、旅姿の松尾芭蕉像です。石山坂本線の沿線の地域には、たくさんの芭蕉句碑が建てられています。
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この写真は駅を出た後、電車の最後尾から京阪石山駅方面を撮影しました。ビルの1階に設置された一面二線の駅でした。
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京阪石山駅から0.8km、粟津駅に着きました。石山坂本線のラインカラーはグリーンです。駅名表示にもグリーンが使われています。
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ホームが踏切をはさんで別れています。粟津駅から0.4kmの瓦ヶ浜駅です。駅間距離の0.4kmは、この先の膳所本町駅・錦駅間と並んで、石山坂本線の駅間最短区間になっています。
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瓦ヶ浜駅から0.5kmの中ノ庄駅。京阪石山駅から乗車してきた701号車と702号車の機関車トーマスのラッピング電車です。
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膳所本町駅に着きました。中ノ庄駅から0.5km。膳所城の本丸跡に整備された膳所城跡公園など、駅前の一帯は旧城下町のゆかりの地が数多く残っています。その跡を辿ろうと思い、ここで下車しました。
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この地図は、「現在地」と書かれた膳所城の本丸跡に掲示してあった案内板にあったものです。地図の赤い線が旧東海道です。膳所本町駅から真っ直ぐ北東に延びる道が大手門通りです。
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膳所城跡の案内図です。案内板が建っているところが本丸への入り口にあたっているようです。
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膳所本町駅から大手門通りを進むとすぐ左に、滋賀県立膳所高等学校の正門があります。高校は旧藩時代、藩校の遵義堂(じゅんぎどう)があったところに建てられています。
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右側には膳所神社の広い境内が広がっています。膳所城跡に向かって建っている正面の門は、膳所城の二の丸から本丸に入るところにあった城門が移築されているそうです。国指定の重要文化財です。
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膳所神社から大手門通りをまっすぐ進むと膳所城跡公園の入り口に着きます。かつての膳所城の本丸の入り口にあたります。その先には、東海道を抑え琵琶湖の水運を監視する役割を担った水の城、4層4階の天守閣をもつ膳所城の本丸跡。琵琶湖に突き出すように建てられていました。"瀬田の唐橋 からねぎぼし 水に浮かぶは 膳所の城”と歌われました。
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本丸を囲んでつくられている堀です。しかし、掲示されている本丸の説明図とは、位置が微妙に異なっています。
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本丸跡から来た道を引き返し、「膳所城中大手門」の碑がある通りを右折し北西に向かって進みます。この道は先ほどの地図の赤い線で示された旧東海道です。
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旧東海道の左側にあった縁心寺です。「膳所藩主の菩提寺」と書かれていました。
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さらに進むと和田神社に着きます。写真の中央の表門は膳所高校の敷地にあった藩校遵義堂の表門を移築したものだそうです。
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その先で、旧東海道は左折していました。東海道を辿る人々のために、右の電柱に案内が書かれています。
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左折して正面に見えるのが響忍寺(こうにんじ)。響忍寺に向かって、旧東海道をさらに進みます。
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響忍寺の門です。武家屋敷の長屋門に似ています。ここは膳所藩の家老であった村松八郎右衛門の屋敷があったところといわれています。旧東海道は響忍寺の前で右折します。道路にあった案内によれば、響忍寺から500mぐらいで、膳所本町駅の次の駅である錦駅があるようです。しかし、今回は石山坂本線の全線に乗るつもりでしたので、少し遠いのですが、膳所本町駅まで帰ることにしました。
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膳所本町駅のすぐ近くにあった美富士食堂です。全国から大食い自慢が集まる人気食堂です。学生にお腹いっぱい食べてほしいという気持ちから、大盛りになっていったそうです。
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膳所本町駅に帰ってきました。ホームに上がる途中で、「おでん電車」と描かれた電車(703号車と704号車)が出発していきました。”おでん電車”は冬季に運行されています。浜大津駅から坂本駅へ、そこから折り返して石山寺駅へ、そして再度折り返して浜大津駅まで1時間40分のコース。平成26(2014)年には1月16日から2月15日まで運行されました。私が乗車した日は”おでん電車”にはなっていなかったようでした。
「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」で行く旅はこれからまだまだ続きます。