トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

湖都古都・おおつ1dayきっぷで行く(1)膳所本町へ

2014年12月31日 | 日記

「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」です。これは京阪電鉄大津線(京津線・石山坂本線)の1日乗り放題きっぷです。この日は、このきっぷを使って石山坂本線の列車に乗って、沿線の見どころをゆっくり見て歩きました。

スタートは、京阪電鉄石山坂本線の最南端にある石山寺駅でした。その前に、石山寺駅の名前のもとになった石山寺を訪ねることにしました。石山寺境内参道を通って、石山寺に向かいます。距離800m。聖武天皇の勅願により天平勝宝元(749)年良弁(ろうべん)僧正の開基になる由緒ある寺院。あの紫式部が「源氏物語」の構想を練った寺院として知られています。

10分ほどで石山寺の大門前に来ました。建久元(1190)年の建築ですが。桃山時代の慶長年間(1596~1614年)に大きな修理がなされており、桃山様式の特徴を備えているそうで、国の重要文化財に指定されています。

石山寺は硅灰岩(けいかいがん)でできた伽藍山につくられています。多宝塔が建っているその下に、硅灰岩が地表から露出しているのが見えます。この多宝塔は、日本最古のものといわれ国宝に指定されています。

石山寺の本堂です。総檜皮葺き。平地に建つ左側の正堂と斜面に建つ礼堂(らいどう)を相の間(あいのま)で結んだ懸造(かけづくり)です。現在の正堂は永長元(1096)年の再建されたもの、礼堂は慶長7(1602)年、豊臣秀吉の側室(浅井長政の子・織田信長の姪)である淀殿によって建て替えられたものといわれています。

幕で覆われているところが「源氏の間」。紫式部がここで「源氏物語」の構想を練ったといわれています。現在は紫式部の人形が置かれています。

本堂の建つところから、瀬田川上流の琵琶湖方面を撮影しました。瀬田川は琵琶湖から流れ出してから大戸(だいと)川に合流するまでの約15kmの川で、最後は淀川に合流して瀬戸内海に注ぎます。

石山寺の大門脇にある「志じみ茶屋 孤舟」。シジミを入れた釜飯の「志じみめし」で有名です。このあたりはシジミ料理のお店が並んでいます。

大門から駐車場に向かう途中にあった「石山貝塚」の石碑。瀬田川からとれるセタシジミの層が、昭和15(1940)年に発見されました。屈葬された人骨や縄文早期の標準となる石器も発見されたそうです。大古の時代からシジミの恩恵を受けていたのですね。

石山坂本線の石山寺駅に向かう途中にあった、瀬田川・琵琶湖リバークルーズの港です。停泊していたのは一番丸でした。

石山寺駅の駅前広場です。京阪電鉄石山坂本線は、大正2(1913)年に石山寺・坂本間14.kmが開業しました。軌間1435ミリ。全線、複線電化区間になっています。

ホームに入りました。赤と緑の鮮やかな2両編成の列車が出発を待っていました。600形の611号車と612号車です。600形車両は20両(10編成)が在籍しているそうです。

ワンマン運転の電車で、次の唐橋前駅に向かいます。この先、浜大津駅まで専用軌道が続きます。目の前は唐橋前駅です。二面二線の対面式のホームになっています。唐橋前駅までは0.7kmあります。

1、2分で唐橋前駅に着きました。石山坂本線の駅間は一部を除いて1km未満です。鉄道線ですが、路面電車のように、こまめに停車しながら進みます。

ちょうど、反対ホームに石山寺駅行きの700形車両が入ってきました。「機関車トーマス」のラッピング電車の701号車と702号車の2両編成でした。700形車両は10両(5編成)が在籍しているそうです。

唐橋前という駅名からもわかるように、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」の最寄り駅です。瀬田の唐橋は「近江八景」の「瀬田の夕照(せきしょう)」で知られています。現在の橋は昭和59(1984)年に建て替えられました。

クリーム色の欄干に擬宝珠(ぎぼし)をつけた瀬田の唐橋は、二つの部分に分かれています。途中の中ノ島(瀬田川の中州)までの小橋が52m、その先が150mあるそうです。

瀬田川の対岸には、かつての雰囲気を残す民家が残っています。ここは、京への入り口にあたるため、壬申の乱(672年)、藤原仲麻呂の乱(764年)、承久の乱(1221年)などの戦乱の舞台になったところで、「瀬田川を制するものは天下を制する」といわれて来ました。

対岸の橋のたもとに石碑が建っています。ここは、俵藤太(たわらのとうた・藤原秀郷)のムカデ退治の舞台ともなりました。写真の左の道を瀬田川沿いに50mぐらい下ると勢多橋龍宮秀郷社(せたばしりゅうぐうひでさとしゃ)が鎮座しています。

「龍宮」の扁額がついている秀郷社です。瀬田川には古来龍神が住むといわれ、瀬田の唐橋が社殿とされていました。近江富士と呼ばれる三上山を七曲がり半するといわれた大百足(おおムカデ)が琵琶湖の魚を食べ尽くし困っていたので、退治に乗り出した藤原秀郷の放った矢が大百足の眉間に命中し退治することができたそうです。瀬田川の龍神からお礼としてたくさんの米俵をもらったので、俵藤太と呼ばれるようになったそうです。また、俵藤太は、このときお礼にもらった鐘を三井寺に寄進します。後に、弁慶がこの鐘を奪って、比叡山まで引き摺って上がったという伝説が残っています。

秀郷社の鳥居脇にある雲住寺の住職は、予約すればムカデ退治のお話をしてくださるそうです。

日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭る建部大社は近江国の一宮です。瀬田の唐橋から道なりに東に進んだところにあります。古代、近江国の国衙(こくが)は瀬田に置かれており、このあたりは近江国の中心地でした。

檜皮葺の本殿は、文久元(1861)年の再建によるものです。北条泰時と後鳥羽上皇が戦った承久の乱(1221年)により社殿が炎上するなど罹災と復興を繰り返してきました。

唐橋前駅に引き返し、石山坂本線の電車(613号車と614号車)に乗車します。次の京阪石山駅に向かいます。途中で600形(605号車と606号車)の電車とすれ違いました。ラッピング車両が多い印象でしたが、これは緑の京阪カラーの車両でした。

京阪石山駅に着きました。唐橋前駅から0.9km。JR石山駅と隣接しておりJRとの乗換駅になっています。

ホームから上がったところにあった、旅姿の松尾芭蕉像です。石山坂本線の沿線の地域には、たくさんの芭蕉句碑が建てられています。

この写真は駅を出た後、電車の最後尾から京阪石山駅方面を撮影しました。ビルの1階に設置された一面二線の駅でした。

京阪石山駅から0.8km、粟津駅に着きました。石山坂本線のラインカラーはグリーンです。駅名表示にもグリーンが使われています。

ホームが踏切をはさんで別れています。粟津駅から0.4kmの瓦ヶ浜駅です。駅間距離の0.4kmは、この先の膳所本町駅・錦駅間と並んで、石山坂本線の駅間最短区間になっています。

瓦ヶ浜駅から0.5kmの中ノ庄駅。京阪石山駅から乗車してきた701号車と702号車の機関車トーマスのラッピング電車です。

膳所本町駅に着きました。中ノ庄駅から0.5km。膳所城の本丸跡に整備された膳所城跡公園など、駅前の一帯は旧城下町のゆかりの地が数多く残っています。その跡を辿ろうと思い、ここで下車しました。

この地図は、「現在地」と書かれた膳所城の本丸跡に掲示してあった案内板にあったものです。地図の赤い線が旧東海道です。膳所本町駅から真っ直ぐ北東に延びる道が大手門通りです。

膳所城跡の案内図です。案内板が建っているところが本丸への入り口にあたっているようです。

膳所本町駅から大手門通りを進むとすぐ左に、滋賀県立膳所高等学校の正門があります。高校は旧藩時代、藩校の遵義堂(じゅんぎどう)があったところに建てられています。

右側には膳所神社の広い境内が広がっています。膳所城跡に向かって建っている正面の門は、膳所城の二の丸から本丸に入るところにあった城門が移築されているそうです。国指定の重要文化財です。

膳所神社から大手門通りをまっすぐ進むと膳所城跡公園の入り口に着きます。かつての膳所城の本丸の入り口にあたります。その先には、東海道を抑え琵琶湖の水運を監視する役割を担った水の城、4層4階の天守閣をもつ膳所城の本丸跡。琵琶湖に突き出すように建てられていました。"瀬田の唐橋 からねぎぼし 水に浮かぶは 膳所の城”と歌われました。

本丸を囲んでつくられている堀です。しかし、掲示されている本丸の説明図とは、位置が微妙に異なっています。

本丸跡から来た道を引き返し、「膳所城中大手門」の碑がある通りを右折し北西に向かって進みます。この道は先ほどの地図の赤い線で示された旧東海道です。

旧東海道の左側にあった縁心寺です。「膳所藩主の菩提寺」と書かれていました。

さらに進むと和田神社に着きます。写真の中央の表門は膳所高校の敷地にあった藩校遵義堂の表門を移築したものだそうです。

その先で、旧東海道は左折していました。東海道を辿る人々のために、右の電柱に案内が書かれています。

左折して正面に見えるのが響忍寺(こうにんじ)。響忍寺に向かって、旧東海道をさらに進みます。

響忍寺の門です。武家屋敷の長屋門に似ています。ここは膳所藩の家老であった村松八郎右衛門の屋敷があったところといわれています。旧東海道は響忍寺の前で右折します。道路にあった案内によれば、響忍寺から500mぐらいで、膳所本町駅の次の駅である錦駅があるようです。しかし、今回は石山坂本線の全線に乗るつもりでしたので、少し遠いのですが、膳所本町駅まで帰ることにしました。

膳所本町駅のすぐ近くにあった美富士食堂です。全国から大食い自慢が集まる人気食堂です。学生にお腹いっぱい食べてほしいという気持ちから、大盛りになっていったそうです。

膳所本町駅に帰ってきました。ホームに上がる途中で、「おでん電車」と描かれた電車(703号車と704号車)が出発していきました。”おでん電車”は冬季に運行されています。浜大津駅から坂本駅へ、そこから折り返して石山寺駅へ、そして再度折り返して浜大津駅まで1時間40分のコース。平成26(2014)年には1月16日から2月15日まで運行されました。私が乗車した日は”おでん電車”にはなっていなかったようでした。 

「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」で行く旅はこれからまだまだ続きます。

京阪電鉄京津線をたどる(2)浜大津駅へ

2014年12月15日 | 日記
京阪電鉄京津線(以下「京津線」と書きます)は大正元(1912)年京津三条(けいしんさんじょう)駅・浜大津駅間が開業しました。そして、平成9(1997)年に京津三条駅・御陵(みささぎ)駅間は廃止され、京都市営地下鉄東西線(以下「東西線」と書きます)になりました。前回、京津三条駅跡から御陵駅まで歩いてきましたので、今回は、御陵駅から京津線をたどることにしました。

これは、御陵駅跡の公園にあった地図ですが、「現在地」と書かれたところが御陵駅跡です。ここまで、オレンジ色の点線にしたがって右下から左上に向かって歩いてきました。現在の東西線の御陵駅は、少し引き返したところにつくられています。京津線の日ノ岡駅と御陵駅を統合して新しい御陵駅をつくったため、日ノ岡駅の方に200mぐらい移されたということです。

東西線の御陵駅です。京津線はこの駅で東西線と別れ浜大津方面に向かいます。私はここで、京津線の1日乗り放題切符(「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」)を購入するつもりでした。地下1階に設置されていた券売機では見つかりません。駅員さんにお聞きしますと「次の京阪山科駅で買ってください」とのこと。仕方がないので、1区間のキップを買って改札をくぐりました。

さらにホームに下ります。地下2階部分は東西線の蹴上・京都市役所方面行きのホームでした。地下3階が、東西線の六地蔵方面行きと京津線の浜大津方面行きの乗り場です。全面安全扉が設置されていてまったく線路が見えません。4番ホームが京津線、隣の3番ホームが東西線の乗り場でした。

御陵駅から、京阪山科・四宮・追分・大谷・上栄町駅を経由して終点の浜大津駅までの7.5km。直行すれば16分ぐらいです。2~3分ごとに停車していく感じです。京津線に乗車しました。ちなみに、京津線は浜大津駅に向かう列車が上りになるそうです。

乗車して、すぐ地上に出ます。この写真は、同じところを、帰りに地下へ入るときに撮影したものです。

御陵駅からの1.5kmを2分ほどで走り、京阪山科駅に到着しました。駅前は、衆議院選挙の立候補者の演説会が開かれており人でいっぱいでした。

こちらは、JR山科駅です。京津線の裏にあり、JRへの乗換口になっています。

ここで、「湖都古都・おおつ1dayきっぷ」を500円で購入しました。「改札機は使えないので、駅員に見せてください」とのこと、すぐに、改札口を入りました。

ホームに入ると、京津線の800形車両が並んでいました。手前が浜大津行き。向こうが蹴上方面行きです。京阪電鉄には800形車両が32両(8編成)在籍しているそうです。

次の浜大津行きの列車に乗って、次の四宮駅で下車します。京阪山科駅から0.6km。京津線の駅間の最短区間です。京津線の駅名表示は列車と同じデザインでした。

駅前に出ました。大きな駅舎です。

この駅には「駅事務所」がありました。トイレをお借りするために通路を通ったときに、事務室内では新たに勤務に就く乗務員さんが点検を受けていました。向かいのホームには浜大津方面行きの回送車両が停車していました。ここで、乗務員の交代をするのですね。

浜大津方面行きのホームの向こう側には、たくさんの引き込み線がありました。四宮駅は京津線の車両基地でした。

浜大津方面行きのホームの下に、キロポストを見つけました。「5K810M00」。現在の御陵駅からの距離を示しています。

再度乗車して、すぐに「府県境界」の標識が見えました。滋賀県に入りました。追分駅の北口です。南口は京津線と並走する国道1号線をくぐった南側にありました。

京津線の各駅に掲示してあった赤穂義士まつりのポスターです。赤穂だけではなく、山科でもやっているのですね。山科は大石内蔵助が隠棲していたところですよね。

国道1号と並走して上り坂を1.6km上り、大谷駅に着きました。大谷駅では、蹴上方面行きの列車が停車中でした。

蹴上方面行きの800形車両が出発したホームにあったベンチが気になりました。左脚より右脚の方が長くなっています。坂道に対して水平になるようにつくられているようです。この駅には駅員さんがおられませんでした。

大谷駅から外へ出ました。駅前を左右に走る道は江戸時代の東海道です。右角に「右 三条道 左 伏見 奈良道」と刻まれている道標がありました。

蝉丸神社前の東海道です。旧街道の面影が残る町並みです。この先の逢坂峠に向かって上っていきます。

蝉丸神社です。蝉丸は平安時代中期の歌人。音曲・芸能の始祖として信仰された方です。「あれやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」の百人一首にも採られた歌で知られている盲目の琵琶法師でした。

右側にある”かねよ”。明治5(1872)年創業のうなぎ料理の老舗です。平日でしたが、ちょうど昼食時間帯のため、この日も駐車場には多くの車が停まっていました。「きんし丼」でも知られています。

これが「きんし丼」のイメージです。浜大津駅にあった”かねよ”の広告看板に描かれていたものです。うなぎの上にきんし卵が乗っています。

旧街道が国道1号線と合流するところにあった「逢坂山の関」の碑と常夜灯です。京を守る三つの関所(鈴鹿、不破、逢坂)として、弘仁元(810)年以来、重要な役割を果たしてきました。

逢坂の関はどこに置かれていたのか確定されておらず、逢坂峠を越えた大津側の安養寺付近との説もあるようです。

旧東海道の下にある京津線の逢坂トンネルです。京津線唯一のトンネルです。浜大津方面行きの800形車両がトンネルに入っていきました。

大谷駅から再度乗車するとすぐ逢坂山トンネルを抜けます。全長250m。その後は急カーブを繰り返しながら下っていきます。逢坂峠への道は60パーミルの急勾配でした。

大谷駅から京津線の駅間最長区間、1.7kmを下って上栄町駅に着きました。ホームは片面だけ?と思いましたが・・・。

下り線のホームは、踏切を過ぎた先に設置されていました。

一人で勤務されていた駅員さんに切符を見せて外に出ました。この1.7kmの区間には見ておきたいところがたくさんあったからです。上りと下りのホームの間にあった踏切を渡り、並んで走る国道161号に出ました。大谷駅まで並走してきた国道1号は途中で分岐しています。

国道161号に出ると、道路の向こうに旧東海道「大津宿本陣跡」の碑がありました。

国道161号を越えてきた逢坂峠に向かってさかのぼります。国道の下にあったJR東海道線の逢坂山のトンネル、「上関寺トンネル」です。レンガづくりの美しいトンネルでした。このトンネルは京都方面に向かう列車が使用しています。

トンネルを眺めているとき、京津線の下り列車がやって来ました。上関寺トンネルの上を走っています。背景には寺院。京津線の撮影スポットととして有名なところです。

さらにさかのぼると右側に蝉丸神社が見えました。大谷駅付近にあったと同じ蝉丸神社。音曲と芸能の神として信仰を集めています。鳥居と国道の間には京津線の線路がありました。

列車が来るのを待って撮影しました。

蝉丸神社の本殿です。大谷駅付近の神社の本殿と同じつくりですが、檜皮葺きの屋根がずれ落ちるなど、少し荒れていました。

ここは、国道1号を京津線が平面交差で横断しているところです。ここを4両編成の列車が横断する風景は壮観でしょうね。

安養寺です。このあたりに逢坂の関が置かれたという説もあります。

安養寺の先で、京津線と国道1号が並走しながら、名神高速道路の高架下をくぐることになります。

名神高速の高架下です。写真は、帰りに京津線の先頭車両から撮影しました。雄大、壮大な光景です。

上栄町駅に戻ってきました。大谷駅から坂道の急カーブを走っていたときから、線路にミストがかかっているように思うところがありました。駅員さんにお聞きしますと「カーブが多く車輪がレールにふれるときに『きしむ』ので、水をかけています」とのことでした。やって来た下り列車の前のレールにも水をかけていました。

上栄町駅を出て浜大津駅に向かいます。出発すると、すぐに専用軌道が終わり、国道161号に合流し、その中央部分を走ることになります。

京津線の列車は、時速30~35kmぐらいのゆったりとしたスピードで、道路の信号にしたがって停止しながら進んでいきます。

右折して進むと、その先に京津線の終点、浜大津駅がありました。

御陵駅から京津線の電車を乗り降りしながら、浜大津駅まで、7.5kmを走って来ました。逢坂の関など逢坂峠にかかわる多くの史跡にも恵まれた楽しい路線でした。





京阪電鉄京津線をたどる(1)御陵駅をめざして

2014年12月12日 | 日記

コバルトブルーの車体に黄色のラインがさわやかな京阪電鉄京津線(以下「京津線(けいしんせん)」と書きます)の800形車両です。先頭と最後尾がクロスシート、中の2両は横シートの4両編成で運行しています。京津線は、大正元(1912)年、京津三条駅と浜大津駅間、11.2kmが開業しました。軌間1435ミリ。平成9(1997)年には、京津三条駅から御陵(みささぎ)駅までが廃止され、京都市営地下鉄東西線となりました。現在は、京都市営地下鉄東西線にも乗り入れています。

この日は、京津三条駅跡から浜大津駅まで、京津線の線路に沿って歩くことにしていました。写真は、現在の京阪三条駅です。三条通から少し奥まったところに建てられています。かつての京津三条駅は京阪線の駅と一体の駅だったそうです。写真の左に進み、タクシードライバーにお聞きすると「かつての京津三条駅の入り口は、高山彦九郎の像のあたりだった」とのことでした。

これは、三条通りに面して跪く高山彦九郎の像です。このあたりに入り口があったのでしょう。

この写真は、タクシー乗り場の前にある駐車場です。このあたりに京津線のホームがあったそうです。京津線はここから三条通りに向かって進んでいました。

ドライバーのお話では、「ホームの近くには、昔は墓地があったんだよ」とのことでした。池田屋事件の「殉難志士墓所跡」の碑が建っていました。

三条通です。京津三条駅跡から90度近い右カーブで三条通に入り、旧東海道を走っていました。

東大路通の交差点です。右側に京都中央信用金庫、左側に滋賀銀行のそれぞれ東山支店が向かい合っています。この交差点の手前に、東山三条駅がありました。2面2線の路面電車風のホームがあったようです。昭和30(1955)年には、一日当たりの乗降客が5,877人ほどだったそうです。

その先、白川橋で白川の清流を渡ります。人が立っておられるところに「是よりひだり ぎおん きょうみち」と刻まれた白川橋道標が建っていました。

三条神宮道交差点です。ここから左に折れると平安神宮の大鳥居が、目の前に見えます。

その先の蹴上(けあげ)駅跡をめざして三条通をさらに東に向かいます。かつての東海道の姿をしのばせる商家の家並みが残っています。

その先の右側にあった、ウエスティンミヤコホテル。この先で大きな右カーブになりますが、その手前に、かつて蹴上駅がありました。左側には、日本で最初に建設された蹴上発電所。正面の堤には桜並木、桜の季節にはさぞかしと思わせる光景です。

ミヤコホテルの前あたりに、かつて蹴上駅があったようです。近くの中高校生がたくさん利用していたようで、昭和30(1955)年の、一日平均の乗降客は5,795人でした。

正面の堤はインクラインの跡です。明治時代になって開削された琵琶湖疎水を通って南禅寺の船溜(ふなだまり)に着いた船を、船ごと台車に乗せて乗降させたインクライン(傾斜鉄道)の展示がされています。

ミヤコホテルを過ぎ、大きく右にカーブして、次の九条山駅跡をめざして、日ノ岡峠に向かって坂道を進みます。

道路の右側にある歩道部分がかつての専用軌道の跡でした。

峠を越えて下り坂になります。近くでバスを待っておられた方にお聞きしますと「九条山のバス停があるあたりが駅跡ですよ」とのこと、とすると、このあたりに九条山駅跡があったはずです。

京津線の線路跡に小さな公園がありました。江戸時代には、物資の運搬のための馬車や牛車などは使用禁止になっていましたが、例外として、江戸、駿府、仙台の市街地と東海道の大津・京都間は、使用が認められていました。江戸時代の文化2(1805)年、大津と京都間には年間1万5千の牛車が通っていたといわれています。この写真は、市営地下鉄の開通のときに、三条通にあった車石を展示した公園です。

これが車石です。大津・京都間には、逢坂峠と日ノ岡峠の二つの峠があり、雨が降るとぬかるんで牛車の通行は困難でした。そのため、大津・京都間の東海道は、車輪の轍(わだち)のところだけ、花崗岩で舗装して動きやすくしていました。敷き詰められていた花崗岩が「車石」と呼ばれていました。中央のへこんだ部分は、轍の跡だそうです(加工されていたのかもしれません)。車石は明治9(1876)年、東海道の道路改修の時まで使用されていたそうです。鉄道線路の起源は、ギリシャ・ローマ時代に道路の石畳にできた馬車の轍が起源とされていますが、江戸時代の東海道にも線路を連想させる道があったのですね。

日ノ岡駅跡です。畳屋さんのお店の前の道路の中央にありました。日ノ岡駅は専用軌道が終わって再び併用軌道になったところにあったといわれています。ここは右折する車が多かったので、待合室が道路の脇に設置されており、電車が来ると移動して乗車していたそうです。

その先の左右に京都市営地下鉄の御陵(みささぎ)駅がありました。かつての京津線の御陵駅より、200mほど手前(蹴上方面)につくられているそうです。

やがて、右側に公園が見えました。入り口に「陵ヶ岡みどりの径」の碑がありました。

ここは、京津線の御陵駅跡でした。

駅跡の一画に御陵駅の駅名にかかわる碑が建っていました。「天智天皇山科御陵」の碑です。

陵ヶ岡みどりの径は京津線の線路跡です。紅葉の名残が残っていました。路面を見ると、線路の枕木がところどころに埋め込んでありました。犬の散歩をされている方、幼子と遊んでいる方などくつろぎの空間になっていました。

道路への合流地点です。冠木門が設けられていました。

道路の斜め向かいが、天智天皇山科御陵の参道入り口です。名残の紅葉を見ることができました。

天智天皇といえば大津宮と漏刻(水時計)。その大津宮跡に鎮座している近江神宮の境内には、初めて漏刻(水時計)を設置した天智天皇を記念して、時計館宝物館が建てられています。御陵の近くには、日時計が設置してありました。

陵ヶ岡みどりの径の先の光景です。

ここまで、京津線の線路跡を歩いてきました。京津線は、京津三条駅・御陵駅間は廃止され、京都市営地下鉄東西線になっています。御陵駅から浜大津駅間は今も京津線です。京津線は写真の中央にあるセブンイレブンの先で地下から地上に出ることになります。そして、JR東海道線の下をくぐって京阪山科駅に向かっていきます。

ここから、地下鉄御陵駅に引き返し、京津線を浜大津駅に向けて進むことにしました。