トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

1日平均の乗車人員1名! JR芸備線小奴可駅

2017年02月24日 | 日記

私には、仕事が一段落したとき乗ってみたくなる鉄道があります。JR芸備線です。JR備中神代(びっちゅうこうじろ)駅からJR備後落合駅を経てJR三次(みよし)駅へ。そこから、さらにJR広島駅に向かう鉄道です。実際の運用は、JR新見駅から備後落合駅まで行き、そこで、三次駅へ向かう列車に乗り継いで三次駅に向かうようになっています。写真は、JR新見駅の1番ホームです。芸備線の列車はここから出発します。新見駅から広島県に向かう列車は1日に6本運行されており、その内の3本は、広島県に入って最初の駅であるJR東城駅までの区間運転の列車です。終点のJR備後落合駅まで運行されている列車は、1日3本しかありません。

新見駅の1番ホームです。1日3本しか運行しない列車に乗りたくなって、この日も新見駅までやってきました。これまで、沿線のJR内名駅(「1日3往復の”秘境駅”JR芸備線内名駅」2014年7月7日の日記)、JR道後山駅(「JR芸備線の”秘境駅”道後山駅」2016年8月27日の日記)、JR備後落合駅(「滞在時間12分、”秘境駅”JR備後落合駅」2016年9月9日の日記)とJR布原駅(「伯備線にあって伯備線駅でない”秘境駅”2014年3月31日の日記)は訪ねたことがあります。JR布原駅は、JR備中神代駅の手前にあるため、正確には伯備線の駅なのですが、伯備線の列車は停車せず、芸備線の列車だけが停車する駅ということで、芸備線に含めました。

備後落合駅に向かう3本の列車は、新見駅を5時18分、13時01分、18時24分に出発します。停車しているのは、ワンマン運転のディーゼルカー(DC)キハ120形車両です。新見駅を出ると、布原、備中神代、坂根、市岡、矢神(やがみ)、野馳(のち)、東城、備後八幡、内名(うちな)、小奴可(おぬか)、道後山の各駅に停車して、終点の備後落合駅に着きます。「Wikipedia」によれば、「2014年の1日平均の乗車人員」は、広島県に入ると減少し、東城駅が9人、内名(うちな)駅と小奴可(おぬか)駅が1人、備後八幡駅と道後山駅は0人(1人未満)という状況でした。乗車人員が余りに少ないと、私は”秘境駅”を連想してしまいます。牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”に布原駅(36位)と内名駅(28位)、道後山駅(43位)、そして、備後落合駅(138位)はランクインインしています。その差はどこにあるのだろうかと思い、今回は、JR小奴可駅を訪ねることにしました。

新見駅から1時間余、乗車してきたキハ120334号車は、14時04分に、小奴可駅に着きました。一面の雪景色です。ホームも雪に覆われていました。ワンマン運転の運転士さんの車内放送では「備後落合から先の芸備線の列車と木次(きすき)線の列車は雪のため、運行を停止しています。タクシーによる代行運転をしております」とのことでしたので・・。備後落合駅からの折り返し列車は大丈夫だろうかと、少し心配になりました。

私を含めて2人が下車しましたが、乗車された方はいませんでした。列車はすぐに、出発していきました。1面1線のホームです。かつては2面2線のホームだったのでしょう。向こう側にホームの跡が残っていました。線路はすでに撤去されていました。

ホームには、金属製の改札口が残っています。駅舎も窓枠はサッシに変わっていましたが、昭和の木造の小規模駅舎の面影が伝わってきます。床面は、長年、雪や雨露に打たれてひび割れもしていて痛々しい状態でしたが・・。

駅名標です。小奴可駅は広島県庄原市東城町小奴可にあります。隣の内名駅からは4.6km、道後山駅へは4.2km、中国山地の奥深いところにあります。標高546.99m、JR西日本管内で5番目に高いところにある駅です。ちなみに、道後山駅は、標高611.58mのところにあり、JR西日本管内で2番目に高い駅になっています。

駅舎内です。ホームの側に向かって撮影しました。ホームへの出口の手前左側に出札口がありました。小奴可駅は発券業務のみを委託している簡易委託駅になっています。下車したときは駅のスタッフはおられませんでした。

外は晴れ渡っています。周囲の窓からは日射しがさんさんと降り注いでいます。駅舎内の待合いスペースです。なつかしい駅舎に接して作られている長いす(ベンチ?)が周囲にありました。中央にある、手前から2つ目の椅子の上にあったケースの中に、新聞記事のコピーが置かれていました。

芸備線(当時は「三神線」と呼ばれていました)が小奴可駅まで開業したときの「大阪朝日広島版」の記事でした。「東城・小奴可の難工完成」と見出しにあるように、「東城・小奴可間、14キロ540メートル・・・東城川(成羽川)に沿った山間部で難工事も多く・・・、橋梁14、トンネル3、勾配25分の1の箇所も多く、工費110万1750圓を要した」と、本文には書かれていました。難工事の末に開通した三神線の開業を喜ぶ人たちの姿が伝わってきました。記事の中のスタンプにもあるように、小奴可駅までの開業は、昭和10(1935)年6月15日のことでした。

しかし、終着駅であった期間は長くはなく、翌、昭和11(1936)年10月10日には、備後落合駅まで延伸し、途中駅になってしまいました。そして、その翌年の昭和12(1937)年、三神線は新見駅と三次駅を結ぶ芸備線の一部となり、現在の路線名に変わりました。駅舎から駅前広場に出ました。丸いポストも長年の風雪に耐えて痛んだ姿になっていましたが、今も現役でした。駅舎は「道後タクシー」の事務所になっています。駅の簡易委託を受託されたのは、このタクシー会社なのでしょうね(未確認です)。

木製の駅名標です。風雪に耐えた現在の姿です。思わず見入ってしまうような味わいのある姿になっています。

駅に隣接しているトイレです。レトロな駅舎とは対照的に、外観も内部もモダンなトイレです。しかも、掃除が行き届いていて、清潔できれいなトイレでした。

駅前のスペースです。駅に関連した業務を扱う事務所が並んでいたところのようです。この日は土曜日でしたが、人の行き来はまったくありませんでした。

左側にあった事務所の跡です。小奴可駅が貨物を取扱っていた時代には、さぞ賑やかだっただろうと感じさせてくれる、大きな看板が残っていました。

駅前で営業されていたスーパーマーケットの近江屋です。自販機で飲み物を購入するために、軽トラックに乗った人が立ち寄られたり、買い物をすまされた方が出て来られたり、利用される方も多いようでした。

駅の周辺を歩いて見ることにしました。小奴可駅に近い旧街道には古い町並が残っています。小奴可は、江戸時代から明治時代にかけて「鉄穴(かんな)流し」で採取した鉄を薪で銑鉄をつくる「たたら製鉄」によって発展した集落でした。できあがった鉄の集散地として知られた東城町につながっていた通りが東城街道で、その街道沿いに、当時の繁栄をしのばせる集落が残っています。旧街道を訪ねるため、スーパーマーケットの近江屋の前から道を下っていきます。

左側に、かつての東城街道を継承した国道314号が走っています。旧街道を拡幅するときに旧街道の東側に新しい道路を敷設したため、かつての小奴可の町並みが残されることになりました。すぐに、”ENEOS”のガソリンスタンドの前に着きました。その手前を左折して進み、国道314号を渡ってさらに歩きます。

その先で、成羽川を渡ります。川の堤には柳並木がつくられています。成羽川は中流域で高梁(たかはし)川と名前を変えて、瀬戸内海に注ぎます。高梁川は岡山県3大河川の一つで、水島コンビナートの工業用水に、倉敷市民の生活用水にも使われています。

右側にある白壁のお宅を過ぎたところ(駐車場の案内があるところ)を左右(東西)に走っている、道路幅4メートルぐらいの通りが、旧東城街道でした。この道を馬の背に乗せて東城に送られた鉄は、鉄問屋の手で、陸路や筏・川船によって成羽(現・高梁市成羽町)に運ばれました。成羽で、積み替えられてから、玉島港(備中松山藩が整備した港)に送られていました。玉島港からは、さらに大阪や高松に向けて積み出されていたそうです。旧東城街道を左折します。

これは成羽川の下流方面に沿った通りの町並みです。通りの左側に、赤い釉薬瓦が美しい、妻入りの商家風の建物が並んでいます。

こちらは、通りの右側にあった和風の建物です。かつての繁栄をしのばせる町並みが中国山地の山深いところに残っていることに、感動してしまいました。この道は、町を外れるあたりで、国道314号に合流します。建て替わっているお宅や空き地もありましたが、幅4mぐらいの通りが続いていました。

この写真は、歩いてきた旧街道を上流側にむかって撮影しました。立派な常夜灯が残っていました。銘を見ると「嘉永申9月」「野田屋六平、地主 増田屋新兵工」とありました。嘉永の申(さる)年は嘉永元(1848)年。この年、六平さんと地主の新兵えさんが寄進したもののようですね。夜を徹して歩いていた人たちにとっては、ありがたい灯りだったことでしょう。

先ほど左折したところまで戻ってきました。ここから、成羽川の上流側に向かって歩きます。旧街道は緩く上っていく道でした。

こちらは、往事の面影を残すところはあまり多くはありませんでしたが、ところどころに雰囲気のある風景が残っていました。

来た道を引き返し、ENEOSの前から小奴可駅へ向かう通りを上っていきます。乗車してきた列車が、備後落合駅から折り返し新見行きになって戻ってくるのは、14時58分です。約50分余りの滞在時間が、残りわずかになっていました。

ホームに出ました。こちらは、到着したときの新見駅方面の風景です。

「お帰り!」。乗車してきたキハ120334号車が、定時に戻ってきてくれました。これで、新見に帰ることができる。ほっとしました。1日3本しかない列車の旅はスリル満点です。1日平均乗車人員が1人という小奴可駅。この日は、他の2人の方と共に乗車しました。1日平均乗車人員の3倍でした。新見駅まで1時間余の列車の旅が、また始まります。

JR小奴可駅は、1日平均乗車人員1名(2014年)の駅ですが、”秘境駅”にランクインしている道後山駅の0人よりは多く、同じくランクインしている内名駅と布原駅の1人と並んでいます。備後落合駅は、1日平均15人が乗車しているけれども、”秘境駅”にランクインしています。牛山隆信氏が、「秘境度」「雰囲気」「列車到達難易度」「外部到達難易度」「鉄道遺産指数」の5つの指標によって評価されているからでしょう。小奴可駅は乗車人員こそ多くはありませんが、スーパーマーケットが駅前にあったり、かつて、繁栄を誇った東城街道沿いの町並みが残っていたり、秘境駅にはふさわしくない雰囲気をもっていました。JR小奴可駅を”秘境駅”と考えるには、大きな無理がある、そんな感じのする駅でした。次回、JR芸備線の列車に乗りたくなったときには、「平均乗車人員0人」の備後八幡駅を訪ねてみようと思っています。


岡山県内最古の木造駅舎、JR弓削駅

2017年02月11日 | 日記

JR津山線の弓削(ゆげ)駅舎です。JR津山線はJR岡山駅と、県北部の中心都市にあるJR津山駅を結んでいます。JR津山線は、明治31(1898)年12月21日に、中国鉄道として開業したことに始まります。JR弓削駅も、このときに設置されました。開業当時の駅舎が、現在も使用されており、「岡山県下で最古の木造駅舎」とされています。

弓削駅の正面入口です。駅舎は建設以来、補修や改修を繰り返してきましたが、「建設当初の形を保存しようとする心意気を感じる(「岡山の駅舎」河原馨著・日本文教出版株式会社)」駅になっています。昭和19(1944)年6月1日に国有化され国鉄津山線となった後、昭和62(1987)年の分割民営化によって、西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)の駅になりました。

弓削駅は、岡山県久米郡久米南町下弓削にあります。久米南町は、昭和29(1954)年に、久米郡の弓削町、誕生寺村、龍山村と神目(こうめ)村が合併して、成立しました。2,277世帯、5,016人が居住(2017年1月31日現在)しておられます。

この日は、快速”みまさかノスタルジー”で、弓削駅に着きました。5~6人の乗客が下車すると、岡山駅行きの”みまさかノスタルジー”は、次の福渡駅に向かって出発していきました。

下車してすぐ目に入って来たのが、「途中下車 させた河童(かっぱ)の 弓削の駅」と書かれた川柳ののれんでした。久米南町は、川柳と河童で町の活性化を進めています。

弓削駅は、相対式の2面2線のホームになっています。駅舎寄りの2番ホームから向こう側の1番ホームへの移動は跨線橋を利用することになります。行き違いがなければ、上り(津山方面行き)列車も下り(岡山方面行き)列車も、2番ホームを使用する、いわゆる”一線スルー”になっています。向こう側の1番ホームには、行き違いのある場合だけ、津山方面行きの上り列車が停車するようになっています。

駅舎と一体になったベンチがありました。開業当初の形を残しています。

この写真は、跨線橋の上から見た津山方面です。中央の白い建物は、久米南町庁舎です。左が1番ホーム。右の2番ホームから出発した列車がそのまま進んでいけるレールの構造になっています。また、駅舎に向かって入っていく引き込み線もつくられていました。使われることがあるのでしょうか。

この写真は、岡山駅方面を撮影したものです。駅舎寄りの2番ホームから出る列車が、まっすぐ次の神目駅に進んでいくレールの構造になっています。行き違いのない場合には、すべての列車が2番ホームを利用しているのがよく分かる構造になっていました。

閉まっていたドアを開けて、ホームから駅舎内に入ります。駅舎の左側のようすです。外観に比べて新しさを感じる駅舎内でした。駅舎内外の改修が行われているからでしょう。「弓削駅」と書かれているプレートのあるところが出札口。中に男性の駅スタッフがおられました。弓削駅は、津山駅管理の簡易委託駅になっています。近距離乗車券のみを販売するなど一部の業務だけを、法人や個人に委託しています。出札口の右側のスペースはかつて駅事務所があったところですが、現在は、岡山県立誕生寺特別支援学校がアンテナショップ「夢元(ゆげ)」を営業しています。週2回(火曜日・木曜日)の昼間だけ開店し、生徒が制作した手工芸品や農産物の販売や喫茶コーナーの営業を行っているそうです。

こちらは駅舎の右側のようすです。テーブルやいすを置いて、列車の到着を待つ人がくつろげるスぺースをつくっています。写真の左側のケースの中には、町おこしに活用している川柳の雑誌が展示されていました。

ケースの中にあった川柳関係の雑誌や句集です。近くには、投稿用の受付も設置されていました。

駅舎の外に出ました。駅舎内は寒いため、入口は締め切っていました。「岡山の駅舎」には「建物財産票」(「鉄駅 本屋 明治31年12月」)の写真が載っていましたが、長い時間をかけて探したのですが、見つけることができませんでした。入口の右側には、川柳の色紙が掲示されていました。久米南町に合併する前の弓削町は、戦後の混乱期に農村の文芸活動は誰にでも気軽に参加できるものでなければならない、そして、川柳なら紙と鉛筆さえあればどこでも手軽にできると考え、日本一の川柳の町をつくることをめざしたのです。昭和24(1949)年に弓削川柳社が発足し、その年の9月には、第1回西日本川柳大会を開催したのでした。この大会は、現在も続いています。

駅舎への出入口にあった駅名標です。

駅名標の右側には、誕生寺特別支援学校の「アンテナショップ夢元(ゆげ)」があります。この日は土曜日でしたので閉店していましたが、ガラスにたくさんの掲示物がありました。「エスプレソコーヒー 100円」に少し興味が湧きました。

弓削駅前のロータリーにあった河童のモニュメントです。駅には、久米南町のマスコットキャラクターである河童の「カッピー君」がたくさん展示されていました。カッピー君の生みの親は、地元在住の國忠敬子さん。川柳とエンゼルによる町おこしを考えていた久米南町は、シンボルマークとともに、全国に公募しました。301点の応募の中から、國忠敬子さんのキャラクターを採用しました。町のマスコットとして定着していた河童がエンジェルになって町に夢や幸福を運んでくるイメージを表現しているそうです。

トイレの前にもいました。

色違いですが、ここにもいます。駅前広場には、カッピー君の姿が到る所にありました。

駅前を津山寄りに歩いて駅舎を撮影しました。先ほど跨線橋の上から津山方面を見たとき、本線から駅舎の側のホームに引き込み線が入っていました。これがその引き込み線です。駅舎の手前には車止めが設置されていました。

これは、駅前を岡山方面に引き返したところから、駅舎を撮影した写真です。「岡山の駅舎」には「駅構内の外れに駅長の宿直していた建物があって、現在は町の集会所に使われている」という記述がありました。たまたま、列車を待っていた方がおられましたので、お聞きすると「それは駐車場になっているところだよ」とのことでした。

駅長宿直室の候補として、私が気になっている建物があります。駐車場の岡山方面寄りにある、写真の中央の白い建物(久米郡商工会久米南支所)の手前にあった黒い建物です。この建物には「下之町集会所」という看板がかかっていました。どちらなのでしょうか?訪ねる機会があれば、もう一度、確認してみたいと思っています。

JR津山線は、概ね、江戸時代の津山往来(現在の国道53号)に沿って敷設されました。JR弓削駅のある久米南町下弓削は、江戸時代には美作国久米南条郡弓削村でした。弓削村など久米南条郡の28ヶ村は、幕末まで、下総国古河藩(茨城県)の領地(飛地)でした。弓削村には古河藩が領地の管理のために設けた陣屋がありました。そのため、江戸時代を通して、津山往来の宿場町として栄えました。やや見づらいのですが、写真は、JR弓削駅に掲示されていた商店街の案内図です。地図中にある最も広い道路は国道53号。弓削駅前から国道53号を横切って北東にむかって延びる細い道が津山往来です。ZAGZAGのところで右折し、その先ですぐ左折して、まっすぐ現在の国道53号に向かっています。ZAGZAGのところは、宿場町に多く設けられていた枡形になっていました。

下弓削の町を、津山往来に沿って歩いてみようと思いました。駅前広場の出口にあった「お瀧道」の道標です。左(津山方向)に向かうように案内がありました。「下之町集会所」という建物があるように、駅付近は下弓削の「下之町」と呼ばれている地域です。

駅から旧街道に向かって歩きます。すぐに国道53号に合流します。横断陸橋で国道を渡り旧街道に入ります。

国道53号を渡った旧津山往来です。静かな通りが続きます。土曜日だからでしょうか? 人通りはほとんでありません。

旧街道の辻に道標がありました。「おたき道」とありました。駅前の「お瀧道」に続く案内でした。近くに「弓削保育園 往生 七面山お滝 泰山寺」の案内看板もありました。

通りをさらに進みます。かつては賑やかだった通りだったはずですが、町並みには空き地になったところもありました。前方の白い建物はZAGZAGです。正面の民家の前で右折します。

枡形になっています。正面のお宅の前で左折します。

その先で振り返って撮影しました。正面のお宅には「優良百貨 本 郡屋商店」と書かれています。左のお宅は本郷商店、杉本商店、近藤書店の順に手前に向かって並んでいます。

白壁の美しい近藤書店の角を右に進むと弓削小学校。近代的な校舎とは対照的に、石の校門が残っています。そして、その上には木製の校名標が架かっていました。

理容室の手前の庭園には、駅にあったと同じ「川柳のれん」がありました。「先人の 汗を河童が 語り継ぐ」。やはり、町の活性化は、川柳とカッピー君ですね。

理容室の前に掲げられていた幟(のぼり)です。「河童街道散歩道」と書かれていました。上之町に入りました。

空き地が目立ちますが、比較的新しいお宅が続いています。「母が待つ ふるさとがある 蒸(ふか)しいも」と川柳のれんがありました。

伝統的なうだつのあるお宅がありました。重厚な造りの門も印象的です。宿場町弓削の資料がないことを悔やみました。のれんの句は、「魚屋も 下駄屋もあった 弓削の町」

「河童街道散歩道」のマップがありました。街道沿いの商家の屋号が書かれていました。二葉屋さんにあったのれんには「川柳で 賑わい戻る
 宿場町」の句がありました。

国道53号への合流点が近づいて来ました。閉店されていましたが、かつての繁栄がしのばれる建物が残っていました。

国道への合流点。「活性化で再発見 川柳のれんのまち」の幟が見えました。旧街道には「よき時代 あったと孫と 旧街歩く」「松屋 懐古する 町へ暖簾の  顔がある」「のれんに賭ける 夢が大きく 町興し」という句もありました。

川柳のれんに書かれた句には、かつての繁栄をしのぶ句や、川柳での町興しへの決意や努力を詠った句が多かった印象です。かつて、津山往来の宿場町として繁栄していた頃の賑わいを、川柳とカッピー君で取り戻そうとしておられる人々の熱い思いを感じました。弓削駅の建設から2年後につくられたJR建部駅は、すでに文部科学省(文化庁)の「登録有形文化財」に登録されています。岡山県に現存する最古の木造駅舎であるJR弓削駅も、地域の活性化への力になればと感じたJR弓削駅の旅でした。







亀のいる駅、JR津山線亀甲駅

2017年02月05日 | 日記

駅舎から亀が首を出しています。個性あふれる駅舎で、全国に知られるJR亀甲(かめのこう)駅です。JR岡山駅と岡山県北部の中心都市にあるJR津山駅を結ぶJR津山線にある駅です。

”みまさかノスタルジー”です。平成28(2016)年4月2日に、岡山デスティネーションキャンペーンの一環としてデビューした観光列車です。JR岡山支社管内のディーゼルカー(DC)は赤色で塗装されていますが、これは、かつての姿を復刻した色彩になっています。現在は、快速列車”みまさかノスタルジー”として、岡山駅と津山駅の間で、1日に2往復が運行されています。

”みまさかノスタルジー”は、キハ4747とキハ471036の2両編成です。これは、津山寄りの車両キハ471036号車の内部です。窓側にあるテーブルの前に、外側に向かって座席が設置されています。両側にありましたので4席が窓に面していました。また、”みまさかノスタルジー”の窓際にあるテーブルにはかつて着いていた栓抜きも復元されています。デスティネーションキャンぺーン中には、岡山駅の(津山線が発着する)9番ホームには、瓶のコーラを買うことができる自動販売機も設置されていました。

JR津山線には、玉柏(たまがし)駅、金川(かながわ)駅、福渡(ふくわたり)駅、神目(こうめ)駅、誕生寺(たんじょうじ)駅に亀甲駅とおめでたい名前の駅が並んでいます。そのため、”みまさかノスタルジー”が生まれる前から走っていた快速列車は”ことぶき”という名前になっていました。「おめでたい」から命名されたのだそうです。この日の朝、思いついて亀甲駅を訪ねてみることにしました。岡山駅発8時44分の津山行きの各駅停車で出発しました。キハ402006号車。ワンマン運転の単行のディーゼルカーでした。県都である岡山駅から津山駅に向かう列車ですが、「上り」の列車になっています。

出発から1時間余、9時57分に亀甲駅に到着しました。亀甲駅は、久米郡美咲(みさき)町にあります。美咲町は、”平成の大合併”により、平成17(2005)年に誕生しました。合併前、久米郡には5つの町がありました。旧久米町は住民投票で津山市と合併する道を選び、旧久米南町は、旧御津郡建部町(現在は岡山市)との合併を検討していましたが、最終的には単独町制を選択し久米郡久米南町のまま継続となりました。残る旧中央町と旧旭町、旧柵原(やなはら)町は合併し、久米郡美咲町になりました。新しく町民になる人たちに公募し、選考委員会を経て、「美しく咲く」という意味をもつ「美咲町」となったのです。美咲町ホームページによれば、平成28(2016)年12月末現在、人口は14,869人の町になっています。

同じ美咲町にある小原(おばら)駅から3.6kmで、亀甲駅の駅舎の前にある1番ホームに到着しました。亀甲駅は、2面2線の駅でした。通常はこのホームに、上りも下りも停車します。2番ホームは行き違いの時だけ下り岡山方面行きの列車が停車することになっています。きっぷは、列車内の料金箱に入れて下車しました。山間部のおだやかな雰囲気の中にある駅でした。

これは、2番ホームです。跨線橋を降りたところにあった待合いのスペースです。雨をしのぐ屋根の下にベンチが4脚置かれていました。

小原駅・岡山駅方面です。1番ホームから2番ホームへは跨線橋で渡ります。

これは、2番ホームの津山駅寄りから見た駅舎です。寄棟の北側の屋根のほとんどを覆うような亀の頭が見えました。

これも2番ホームから見た亀の頭の部分です。眼の中に時計がはめ込まれています。水玉模様も見えます。なかなか愛嬌のあるデザインになっています。

2番ホームの跨線橋の登り口から見た駅舎です。屋根には亀の甲羅のような模様がついています。岡山文庫の「岡山の駅舎」(河原馨著・日本文教出版株式会社)によれば、駅舎は「鉄骨造平屋建、寄棟造りカラー鋼板横葺き」なのだそうです。

これは、跨線橋から見た小原駅・岡山駅方面です。2番ホームから出る列車はこの先で1番ホームから伸びる線路に合流し小原駅に向かって行きます。

跨線橋から見た津山方面です。1番ホームがまっすぐ津山方面に向かって延びています。1番ホームに上下線ともに入線するというのが納得できる構造になっていました。

ホームから駅舎内に入ると、すぐ「ありがとうございました」という明るい声が・・。入ってすぐ右の事務所におられた駅スタッフの女性の声でした。亀甲駅は簡易委託駅になっています。駅の業務のうち、近距離乗車券の販売など一部の業務だけを個人または法人に委託している駅です。駅舎内には大きなテーブルが置かれていました。

実は、亀甲駅に来たら絶対に見てみたいものがありました。そのため、駅舎からすぐに外に出ました。駅舎を出て右側に久米郡商工会の建物がありました。その前にあった掲示板にめざすものが書かれていました。「亀甲岩」です。「亀甲駅」の名前の由来となった岩です。さっそく訪ねることにしました。

駅への取付道路を歩きます。すぐに、左右に走る通りに出ました。正面の突きあたりの建物は美咲町の庁舎です。美咲町庁舎は、旧久米郡中央町役場だったところに置かれています。

通りの左側のようすです。昭和の雰囲気を残す商店街が続いています。JR津山線は、基本的には、江戸時代に備前の国の岡山城下と美作の国の津山城下を結ぶ津山往来を引き継いだ国道53号に並行して走っています。津山往来の街道沿いには、宿場町や在郷町の面影を残すところが数多くあります。

庁舎にあった「花と自然と笑顔のある町」の標識です。自然にあふれた町で、幸せに生きている人々の姿が浮かんできます。

旧街道に戻って、右側の津山方面に向かって歩きます。通りの左側にある白い2階建ての「ふれあい亀太郎ロビー」の建物の手前を左折し10メートルぐらい進むと「美咲町第2庁舎」に着きます。右折して進みます。

右側の歯科医院の建物の先に、岩が見えました。ありました! 「亀甲岩」です。これだけは見て帰りたかったのです。

「昔、ここで行き倒れになった巡礼の旅人がいました。哀れに思った村人は、この地に葬り、ねんごろに供養したといいます。すると、月の青い夜、巡礼者を葬ったあたりから、大きな岩が弘法大師の尊像を乗せてせり上がってきた」と伝えられています。この岩の姿が亀の姿に似ていたので、「亀甲岩」と呼ばれるようになったそうです。

駅舎に戻りました。駅舎に向かって右側に置かれていた亀の像です。

駅舎の左の「JR亀甲駅」のロゴの下にあった亀の像です。JR津山線は、明治31(1898)年に中国鉄道が開通したことに始まる鉄道です。町のシンボルである「亀甲岩」から命名された「亀甲駅」もそのときに開業しました。現在の駅舎が建設されたのは、平成7(1995)年8月でした。駅舎を亀の形に改修したり、駅の内外に様々な亀のモニュメントを設置して、特色ある駅舎に生まれ変わりました。そして、昭和62(1987)年の国鉄分割民営化により、JRの駅になりました。
 
駅舎内です。正面の右のドアの向こうは「まちかど図書館」。午前8時30分から午後6時まで利用できるようです。その左には「亀甲駅舎内 定食 MICRO」。まだ、“CLOSE”、になっていましたので、スタッフの女性にお聞きすると「お昼には開店していますよ!」とのこと。おもしろかったのは図書室の手眼の通路にあるプラスチックの容器(写真の右下の部分にある2つの白いケース)に、「生きた亀」がたくさん入っていたことです。

駅舎の中は掲示物でいっぱいです。小さな博物館という雰囲気です。

これは、駅舎内に掲示されていた、開業当時の駅舎の写真です。見えにくいのですが、駅舎の下におられる人はみんな和服を着ておられます。明治の香りがする写真です。

駅前にあった観光案内です。山里の棚田と卵が写っています。美咲町でよく知られているのは、棚田と、西日本最大の養鶏場があること、そして、卵かけごはんだそうです。特産品としては、米、なし、ぶどうだそうです。

大垪和西(おおはがにし)の棚田の写真です。JR亀甲駅から車で20分ぐらいの、標高400mのところにあり、850枚の棚田が、360度すり鉢状に広がっています。明治時代から昭和20(1945)年頃までに開かれた棚田だといわれています。旧旭町にある小山の棚田とともに、「日本棚田百選」に認定されています。ちなみに、岡山県からは、この2ヶ所以外に、隣の町、久米南町にある北庄(きたしょう)の棚田と上籾(かみもみ)棚田も「日本棚田百選」に認定されています。

卵かけごはんの案内「黄福物語」です。美咲町の棚田から収穫したごはんでつくる卵かけごはんがよく知られています。この町の出身で、明治時代に活躍したジャーナリスト、岸田吟香が愛好し全国に広めたといわれています。

駅スタッフの女性の明るい声に送られてホームに出ました。ホームにいた亀です。3匹が向かい合っていました。

JR亀甲駅は駅舎が亀の形をしていることは知っていましたが、駅舎の中や周辺の風景を見たのは初めてのことでした。駅舎内にぎっしり並んだ掲示物や数々の亀の像、まちかど図書館や定食屋さんも取り込んだ亀甲駅は、豊かな自然と産物に囲まれて生きる地元の人たちの思いが詰まった駅でした。「花と自然と笑顔のある町」に住む人たちの豊かな心を感じる駅でした。