トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

南海電鉄多奈川線、深日港駅を訪ねる

2018年08月27日 | 日記

南海電鉄のみさき公園駅です。大阪府の最南端、泉南郡岬町にあります。この駅から、全長2.6kmの多奈川線が分岐しています。南海電鉄本線には本線から分岐する路線が6路線ありますが、多奈川線もその一つです。ちなみに、この6路線は、北から汐見橋線、高師浜(たかしのはま)線、空港線、多奈川線、加太線、和歌山港線です。これまで、汐見橋線(「レトロな駅舎が続く南海電鉄汐見橋線」2015年12月17日の日記)と高師浜線(「私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る」2015年11月27日の日記)は訪ねてきました。この日は、みさき公園駅から多奈川線の電車で、深日港(ふけこう)駅に向かいました。

この日乗車した多奈川線は、昭和19(1944)年に、潜水艦や海防艦を建造していた川崎重工業泉州工場の従業員輸送のために開業しました。写真は多奈川線の休日用の時刻表です。この日は土曜日でした。次の列車は13時15分発。通常、みさき公園駅の5番乗り場から出発している多奈川線ですが、この列車だけが、唯一4番乗り場からの出発でした。

改札を抜けて、地下道を進むと、3番乗り場と5番乗り場の案内がありました。4番乗り場の案内を見つけることができませんでしたので、このホームに上がりました。ホームの南の端に4番ホームの案内がありました。3番ホームと5番ホームの先に設置されていた、切り欠きのホームが4番ホームでした。後に、深日駅で出会った方のお話では、現在、「4番乗り場を使用する列車はこの1本だけ」とのこと。偶然でしたが、貴重な経験ができたようです。

4番ホームでは、2200系車両の2両編成、ワンマン運転の電車が待っていました。この列車は、みさき公園駅と多奈川駅の間で往復運転をしています。10人程度の人が乗車されていました。

出発しました。南海本線の線路と並行して進んで行きます。その先で、本線は大きく左折して離れて行きました。

めざす深日港駅までは2.1km。途中の深日町(ふけちょう)駅に停車した後、みさき公園駅を出発してから5分ぐらいで到着しました。電車は、すぐに、終着駅の多奈川駅に向かって出発して行きました。深日港駅は、多奈川線が開通してから4年後の昭和23(1948)年11月3日、深日港から出る淡路・四国連絡船の開設に伴って開業しました。多奈川線で唯一、開設当初から1面1線のホームになっていました。

下車したホームの先は柵で仕切られていました。その先に長い長いホームが残っています。

ホームから見た多奈川駅方面です。多奈川駅までは500m。この写真は少しズームしていますが、ホームの先に多奈川駅の1面1線のホームが見えています。

柵が設置されているところから見た深日町駅方面です。かなりの幅のあるホームです。その上にどっしりとしたホームの上屋が見えます。駅舎はその先にありました。線路の右側には、大阪府道65号(岬加太港線)が線路と並行して走っています。

ホームの上屋です。柱は補強されていましたが、太い木材を組み合わせてつくられています。深日港駅は、昭和23(1948)年、川崎重工業の泉州工場の船溜(ふなだまり)を改修して深日港が開設され、関西汽船が深日港・洲本港間に航路を開設したときに、開業しました。その後、関西汽船を引き継いだ深日海運が、大阪湾フェリーとともに、淡路島への航路を運航していました。また、徳島方面へは昭和23(1948)年から徳島フェリーが発着していました。こうして、大阪の南海電鉄難波駅から多奈川駅に向かう直通急行(淡路連絡急行「淡路号」6両編成)が運行されるようになり、大阪と淡路島・徳島間が最短ルートで結ばれることになりました。柵を設置した長いホームが残っているのは、この時代の名残です。

ホームから改札口に向かう途中の左側に残る、かつて、繁忙期に使われていた改札口(ラッチ)です。淡路島航路や四国航路を利用する乗客でにぎやかだった時代の面影を今に伝えています。現在は無人駅になっています。自動改札機を通って駅舎に出ました。

駅前広場から、自動券売機が置かれている駅舎を撮影しました。

多奈川線と平行して走る府道65号(岬加太港線)から見た深日港駅です。ホームの上屋が見えます。標識の右側には岬町役場、左側に多奈川線を越える踏切がありました。

役場前で左折します。

踏切を渡ったところから駅舎を撮影しました。この踏切は、岬町役場と深日港を結ぶ通りに設けられています。

駅舎前から深日港に向かって進みます。先ほど構内から見えた木製の改札口です。今は鎖で使用できないように固定されていました。さて、「深日港駅(ふけこうえき)」は難読駅として知られています。「深日」の地名は「南海沿線の不思議と謎」(天野太郎著 実業の日本社刊)によれば、奈良時代までさかのぼることができる由緒ある地名で、天平19(747)年、法隆寺が朝廷に提出した財産目録(「法隆寺伽藍縁起並流記資材帳」)には、「河内国日根郡鳥取郷深日」と書かれているそうです。また、「深日」を「ふけ」と読むことも奈良時代にはすでに行われていたそうで、「万葉集」の「時つ風 吹飯(ふけい)の浜に出で居つつ 贖う(あがなう)命は 君の為にそ」の「吹飯」がその例だそうです。「海岸線が湾曲した場所」を表す「ふくれる」「ふくろ」から転じたといわれています。

駅舎の隣にあった駐車場です。駐車場の後ろは、川崎重工業が神戸に移った後にできた新日本工機の工場です。多奈川駅まで続いています。駐車場の入口にあった立て看板が気になりました。「深日港~洲本港 乗船者専用駐車場」と書かれていたからです。深日港からの旅客フェリーは運航が終了してからすでに長い時間が経過しています。

道路のつきあたりに、広いスペースがありました。「ふれあい漁港」の看板の先の白い建物はトイレです。トイレの壁の手前に「深日港・洲本航路 船のりば」と「深日港観光案内所 さんぽるた」の案内がありました。そして、その先の桟橋には、高速艇が停船しています。どうやら、深日港と洲本港の間に、高速艇が就航しているようです。詳しいお話をうかがいに「深日港観光案内所 さんぽるた」に向かいました。

深日港です。土曜日でしたので、釣りを楽しむ人たちが釣り糸を垂れていました。

広場の奥の青い建物が観光案内所の「さんぽるた」でした。入口の柵には「深日港~洲本港 旅客船社会実験運行 乗船券売り場」と書かれています。

「さんぽるた」の内部です。スタッフが常駐し、たくさんの写真や説明が掲示されています。昨年度に引き続き「船旅活性化モデル地区」の事業として、大阪府泉南郡岬町と兵庫県洲本市が、平成30年7月1日から約8ヶ月間、深日港と洲本港を結ぶ旅客線の運行をするという社会実験を行っているようです。先ほど見た高速船の「インフィニティ」(49トン・恭兵船舶所属)が就航しています。

館内には、深日港を起点に就航していたフェリーの写真や、淡路島航路の歴史が展示されています。
昭和23(1948)年深日港~洲本港間で運行を始めた関西汽船は、昭和42(1967)年に「たんしゅう丸」を就航させます。しかし、昭和47(1972)年に、航路と「たんしゅう丸」を深日海運に譲渡して撤退しました。その後は、深日海運によって運行が続いていました。しかし、明石海峡大橋の開通に伴う旅客数の減少によって、平成6(1994)年に社名を「えあぽーとあわじあくあらいん」と改め、深日港から撤退し、関西国際航空を起点に洲本港と津名港を結ぶ航路を開設しました。しかし、営業は好転せず、平成10(1998)年に廃業しました。また、同じ年に、徳島フェリーも廃業しています。なお、深日海運のダイヤに合わせて運行されていた、難波駅から深日港駅をつないでいた淡路連絡急行「淡路号」は、平成5(1933)年に運行を停止しています。

これは、社会実験で運行されている深日港・洲本港間の高速船の運航時間です。運賃は大人片道1500円でした。来年の2月下旬まで、1日4往復が運行されています。一方、昭和36(1961)年から、深日港と淡路島炬口(たけのくち)港間で運行を始めた大阪湾フェリーは、その後、淡路島の津名港と深日港間で運行するようになりました。しかし、深日海運と同じように、明石海峡大橋の開通によって、平成10(1998)年に深日港から撤退し、泉佐野港に拠点を移すことになりました。こうして、昭和23(1948)年の関西汽船に始まり、半世紀にわたり続いてきた深日港の旅客船運行は終止符を打つことになりました。大阪湾フェリーはその後も運行を続けましたが、平成19(2007)年にすべての運行を終了しています。

岬町観光案内所の方におうかがいすると、徳島フェリーはこの観光案内所の裏側に発着していたそうです。

これは、深日港の入口に設置されていたトイレです。トイレの向こう側に、かつて「乗車券発売所」と書かれた3階建ての建物があったそうです。トイレとその建物の左側に淡路島航路のフェリーは発着していたそうです。

多奈川線の深日港駅を訪ねる旅は、かつての淡路島航路の面影をたどる旅になりました。
現在の深日港では、自転車の利用を促進する活動と一体になった「船旅活性化」をめざした取り組みが進んでいます。
観光案内所の「さんぽるた」をお訪ねしたとき、「関西空港から自転車でここまでやって来た」という方がいらっしゃっていました。サイクリングを愛する全国の人たちにも乗船していただけるといいなあと思いました。






多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで

2018年08月15日 | 日記
多度津街道は、多度津(香川県仲多度郡多度津町)から金毘羅宮へ向かう参拝客が歩いた道でした。金毘羅詣りは江戸時代後期の文化文政時代(1804年~1829年)頃から流行し始めたといわれています。天保9(1838)年に多度津藩によって多度津湛甫(たんぽ・港)が整備されてからは、多度津に上陸し、多度津街道を利用する参拝客が増えていきました。これまで、3回に分けて、中土居の道標(善通寺市大麻町)(「金毘羅街道を歩く(1)多度津の町並み」2018年6月26日の日記・「多度津街道を歩く(2)善通寺に向かって」2018年7月20日の日記・「金毘羅街道を歩く(3)善通寺から中土居の道標まで」2018年8月9日の日記)まで、歩いて来ました。今回は、終点の金毘羅宮(現・金刀比羅宮)表参道まで、多度津街道を歩きました。

善通寺市立郷土館でいただいたルートマップです。マップには太線が3本書かれていますが、右側の太線は丸亀街道(丸亀からの参拝客が歩いた金毘羅街道)、真ん中の太線は多度津港に陸揚げされた魚を運搬したルート(「魚街道」などと呼ばれています)を示しています。今回は、左の太線(多度津街道)で示されたルートで、中土居から金毘羅宮の表参道へ向かいました。今回もルートマップに示された道を探す旅になりました。

前回、ホテルプラハの前にあった中土居の道標まで歩いてきました。ルートマップで示されたルートがなかなか見つからず苦労しましたので、善通寺市立郷土館の方に教えていただいてから再度挑戦し、ここまで歩いてきました。今回のスタートはここからです。手前の畦道(あぜみち)から、県道47号を横断し、ホテルプラハの前を抜けて進みました。

道なりに進むと、右側に「中土居会館」がありました。その先で、旧街道は大きく左にカーブします。

その後、前方の民家の左をまっすぐ進むと、JR土讃線の中土居南踏切に向かうことになります。旧街道は、民家の手前を右折していました。

右折しました。写真の右側にあるお宅の左側に、かつて「茶堂」がありました。参拝客が休憩したところだったようです。右側の民家の前にあった地蔵を見ながら進みます。

やがて、右側に戸建ての7軒からなる団地が見えてきました。団地の前から延びる道を左折して進みます。

左折した後、その道はJR土讃線の線路にぶつかります。以前小さい踏切があった痕跡があるのですが、向こう側を走る国道319号に渡ることができません。線路の前で左折して、JR土讃線と並行した道を通って中土居南踏切に向かいます。

中土居南踏切に着きました。踏切を渡りセブンイレブンを左に見ながら進んでいきます。セブンイレブンの次にあった運送会社の事務所を過ぎて進むと、右側にあるJR土讃線の線路の向こうに、歩いてきた金毘羅街道が見えました。

線路の向こう側まで歩いてきました。この先のルートを確認します。

ここからの金毘羅街道は、ルートマップによれば、現在、線路があるところを手前に渡り、その後、右斜めに進んでいました。この先の「香川マツダ販売」の店舗を斜めに進み、その後、国道319号に沿ったお宅の裏側を、国道とほぼ並行して、南に向かっていたようです。しかし、破線で示されたところは、現在では道が途絶えているようです。

旧街道の痕跡を確認するため、国道に沿った家並みの裏側に出ることができる道を探しながら進みます。マツダの販売店から6、7軒先の民家の間に、国道から左斜めに進む道がありました。

その道を進み、家並みの裏から多度津方面を見ると、草に覆われた道がありました。これが、かつての多度津街道の跡だと思いました。その先、金毘羅宮方面に歩いてみましたが、途中で、行き止まりになりました。無理して通れば抜けることができたのかもしれませんが・・。引き返して、国道に戻りました。

次に、左に入る道があったのは、琴参バスの岩崎バス停の先でした。そこで、左に入りました。

犬の散歩をされていた高齢の女性がいらっしゃいましたので、お尋ねしますと、「この道は昔からある道で、この先ずっと続いています。私はこの道を通ってお嫁に来ました」というお話が返ってきました。金毘羅街道の跡だと思いました。その道は、右側の倉庫風の建物の向こうにありました。

これが、女性のお話にあった旧街道です。お礼を申し上げ、広い畦道といった雰囲気の道を進んで行きます。途中から用水路が並行する通りになりました。

やがて、前方に「灸まん」と書かれた黄色い看板が見えるようになりました。「灸まん美術館」と「灸まんうどん」の裏を進んでいきます、

ブロック塀の右側は「灸まんうどん」の駐車場になっています。金毘羅街道は、ここからまっすぐ前に進んでいて、国道319号を渡ったあたりで、多度津から魚を運搬した魚街道と合流していました。正面の建物はファミレスのジョイフルです。

国道319号を渡った向こう側、ジョイフルとの境界の柵の左側に旧街道が残っていました。草に覆われていましたが、四国ガスのガスタンクの手前を左に向かっていました。しかし、残念ながら、ガスタンクの裏側からやってくるJR土讃線の線路のため、多度津街道は行き止まりになっていました。

迂回することにしました。「灸まんうどん」の駐車場から国道を渡り、ファミリーマートとの間の道を通り、国道319号から分岐した県道208号を左折します。

その先の大麻踏切で、JR土讃線を渡り、県道208号を進んでいきます。

踏切の先から、大麻神社の参道が右に延びていました。

大麻神社の参道の先の県道208号です。琴平の町につながっています。民家の間に左に入る通りがありました。その道を進みます。

左に入って進むと、道は正面にあった民家の手前で右にカーブします。そこへ、左側の線路の下から来る道が合流しています。この道こそ、先ほど行き止まりになった線路の向こうから続く道でした。

ルートマップでは、多度津街道は、この先で金倉川の右側(左岸)を上流に向かって歩くようになっていました。

金倉川に出ました。このあたりで善通寺市大麻町から仲多度郡琴平町に入ります。この道を金倉川の上流に向かって進んで行きます。

通りの左側と中央部に、ことひら温泉郷の温泉旅館、琴参閣(正面)と紅梅亭(左側)のビルが見えます。

さらに、進みます。琴平町高藪(こうやぶ)地区に入りました。金倉川の対岸に高松琴平電鉄の電車と琴平駅が見えました。
 
その先、旧街道の右側に、41基の灯籠が並んでいます。「高藪の並び灯籠」です。多度津街道最大のハイライトともいうべき遺跡です。いただいたパンフレットには「文久年間(1861年~1863年)以降、明治初期のものもある」、また、「漁村、漁船、廻船仲間などの寄進者が多い。江戸や上州、甲州などの信者が寄進されたものもある」と書かれています。
 
「大坂道中 陸尺仲間中」が寄進された灯籠もありました。「陸尺(ろくしゃく)」は籠(かご)を担ぐ仕事をされている人たちのことです。「江戸道中 日雇方仲間」と刻まれている灯籠もありました。それには「慶應元(1864)年乙丑年六月」と刻まれていました。また、灯籠の端の「石碑」の正面には「金毘羅 多度津 旧街道遺跡並大灯籠及鳥居」、裏には「この位置にありし粟島奉献の鳥居 昭和48(1973)年高灯籠に移す」(金刀比羅宮社務所)と書かれていました。

これは、高松琴平電鉄の琴平駅に隣接している高灯籠のある公園(北神苑)です。その正面入口に設置されている鳥居です。この鳥居は粟島の廻船仲間が、天明2(1782)年に寄進したもので、もともとは、多度津街道の終点に設置されていました。琴平町にある鳥居の中で最古のもので、石碑に残されていたように、昭和48(1973)年にこの地に移設されました。このことから、鳥居があった「高藪の並び灯籠」が残っているところが、多度津街道の終点ということになります。

もう一つ、多度津街道にかかわる石碑が北神苑にありました。右側の石碑には「奉献 道案内」と刻まれています。近くにあった説明には、「多度津街道の金比羅側の起点石」、「明和4(1767)年の建立」と書かれていました。左の側面には「従是多度津江 百五拾丁」と刻まれています。やはり、移設されてこの地に来たものです。

「高藪の並び灯籠」のある場所が多度津街道の終着点(起点)でしたが、参拝客は、この後も金比羅宮に向かって進んでいました。表参道までたどることにしました。琴電の琴平駅付近で、JR多度津駅から来た道を横断して写真の建物の間を進んで行きました。

10分ほどで突きあたりになります。ここで右折。 琴平町内を通る県道208号に出ます。「観光旅館 八千代」が目の前にありました。ここで、左折します。

県道208号に出て、次の交差点を右折すると表参道。この日も往事と同じように、多くの参拝客が金刀比羅宮をめざして歩いておられました。

これまで4回に分けて、多度津街道を琴平まで歩いてきました。
可能な限り、かつての多度津街道のルートを忠実にたどることをめざして歩きました。しかし、それは本当に難しいことでした。多くの人に助けていただきながら、何とか表参道までたどり着くことができました。
多度津町立資料館や善通寺市立郷土館を始め、情報をくださった地元の皆様、ありがとうございました。

多度津街道を歩く(3)善通寺から中土居の道標まで

2018年08月09日 | 日記
多度津街道は、多度津から金毘羅宮へ向かう参拝客が歩いた道です。金毘羅詣りが盛んになったのは、江戸時代後期の文化文政期(1804年~1829年)頃からだといわれています。天保9(1838)年、多度津藩によって整備された多度津湛甫(たんぽ・港)が開かれてからは、多度津に上陸し、多度津街道を利用する参拝客が増えていったそうです。これまで、2回に分けて多度津から善通寺簡易裁判所前まで歩いてきました(「多度津街道を歩く(1) 多度津の町並み」2018年6月26日の日記・「多度津街道を歩く(2) 善通寺に向かって」2018年7月20日の日記)が、今回は、善通寺市街地から大麻町の中土居の道標まで歩くことにしていました。

JR土讃線の善通寺駅です。この日も、前2回と同じように半端ない暑さの日でした。

駅前にあった市街地図です。善通寺簡易裁判所は、ここからまっすぐ進んだ先の、主要地方道善通寺大野原線(県道24号)との交差点の手前にあります。しかし、この日は街道歩きの前にどうしても見てみたいものがありました。それは、善通寺市総合会館にありました。

JR善通寺駅から、善通寺簡易裁判所に向かう駅前通りに出ると、目の前に「善通寺市総合会館」の案内がありました。左折して10分ぐらい歩くと総合会館の前に着きました。

総合会館前の道路脇に、たくさんの灯籠や道標が移設されています。その中に、二つ気になる石標がありました。写真の左から2つ目の石標には「四十町岩國塩屋大(その下は地中に埋もれていました)」と、その右2つ目の石標には「五十五丁岩国屋平田○八」(○は読めませんでした)と刻まれています。多度津町立資料館でいただいたパンフレットには「多度津街道にあった灯籠と石碑が移されている」と書かれており、多度津街道に設置されていた丁石のようです。「町」と「丁」と異なっていますが、起点推定地の多度津商工会議所付近から四十町のところ、五十五町のところに設置されていた丁石かもしれません。ちなみに、多度津街道にあてはめてみると、「四十町石」は、前回歩いた区間(「多度津街道を歩く(2)善通寺に向かって」2018年7月20日の日記)の「下吉田の道標」から琴平寄りに1町の地点に、「五十五丁石」は、善通寺グランドホテル付近にあった(多度津町立資料館でいただいた「多度津街道丁石推定地」の資料)ようです。

善通寺市立郷土館でいただいた多度津街道のルートマップです。簡易裁判所の先で途切れていた多度津街道は、四国学院大学の先の生野本町(いかのほんまち)二丁目で左折し、その先を右折して、南の熊ヶ池に向かっていたようです。

駅前から簡易裁判所に向かう通りに戻りました。正面に山が重なって見えます。正面手前の山が香色山(こうしきざん)、その後ろが我拝師山(がはいしざん)、右側が筆山(ふでのやま)です。これに、その後ろにある中山(なかやま)と火上山(ひあげやま)を加えた五つの山(「五岳」)は、その美しさから屏風ヶ浦(びょうぶがうら)と呼ばれて来ました。善通寺市にはこの五つの山からつけた「五岳」というブランドのお酒もあるそうです。

駅前通りに戻り、20分ぐらい歩いて善通寺簡易裁判所に着きました。

スタートです。簡易裁判所の県道24号の交差点を左折して、四国学院大学を過ぎて次のブロックに進みます。道路標識の先に三差路が見えました。ルートマップでは、多度津街道は三差路の手前を左折しています。

他に道がなかったので、三差路の一つ手前で左折して、用水路に沿った道を進んでいきます。

善通寺西高校のグランドを過ぎると、その先に灯籠が見えました。いただいたパンフに載っていた「落亀の灯籠」のようです。旧街道の雰囲気を感じました。右折して進みます。

呉服店の脇で、三差路から続く通りを渡り、南に向かって進みます。右側には県道47号(岡田善通寺線)がほぼ並行して南に向かっています。

すぐに、旧街道は熊ヶ池の堰堤にぶつかります。そこから、右に向かい堰堤に上って進みます。

県道47号に合流します。左折して進みます。鶴ヶ峰と磨臼山(すりうすやま)の切り通しを越えると、右側の西岡池に沿って進むことになります。

県道47号は西岡池付近で左カーブして離れて行きました。旧街道は、正面の民家の左側を進んでいました。

その先の民家を過ぎたところに、通りの左側に道標が、右側に石地蔵がありました。

左側にあった道標です。正面に「手形 金刀毘羅道」と右側面に「明治12年1月吉日」と刻まれていました。また、左側面には「周防國玖珂郡高森 施主 岩本清作」と施主の名前がありました。

右側にあった石地蔵です。地蔵の正面、白布の下に、「手形 からんみち」(右側)と「手形 こんひらみち」(左側)と刻まれています。道標にもなっているようです。 

左側の道標の案内にしたがって、ここで左折します。旧街道は、この先の「地蔵池」に向かって緩やかに上っていきます。

上りきったところに、赤いずきんを被った小さな石地蔵が祀ってありました。見た感じでは比較的新しい地蔵のようです。地蔵池の周辺は、平成16(2004)年に水辺公園として東屋や遊歩道、広場が整備されていますが、池の整備の時に建てられたものかもしれません。

眺望もよく、右には象頭山(ぞうづざん)が、左側の山の中腹には南部小学校の白い校舎が見えます。写真は地蔵池の向こうに見える象頭山です。この山の南の端に金毘羅宮が鎮座しています。

地蔵池の堰堤の道を進みます。厚い日射しが直射して、くらくらしながら歩いて行きます。

堰堤の先にあった地蔵です。こちらのお地蔵さんも赤いずきんを被っておられました。この地蔵があったから「地蔵池」と名づけられたそうです。地蔵の裏には「文化8(1811年)」と刻まれていました。左側の祠の前面には「寛政10戌(1798)年2月」と刻まれていました。

これは、善通寺市立郷土館でいただいた多度津街道のルートマップです。「地蔵池」から下り県道47号の右側を南に進んでいました。ルートマップにしたがって、堰堤の先を左折して下っていきます。

地蔵池の下の集落を抜けて県道47号の交差点付近に下ってきました。交差点の手前を右折して進みます。比較的新しい住宅が続く道を進みます。

左側を走る県道47号が見えました。県道47号の右側に、灯籠と道標が建っているのが見えました。その先で旧街道は左にカーブして下って行きます。

正面の民家の手前で道は分岐していました。左に向かうと先ほど見えた灯籠と道標がありました。

「下土居の灯籠と道標」とパンフレットに書かれていた灯籠と道標です。「金刀比羅神社」と刻まれた、背が高く角張ったたくましい灯籠です。道標には「左 こん比ら道」。 大麻山登山の案内看板が立っているところに設置されていました。気になったのが、この灯籠と道標がある場所が、県道47号に接した場所だったこと。金毘羅街道を多くの参拝客が歩いていた時代には、県道47号はなかったはずです。後に郷土館でお聞きすると「移設されている」とのことでした。もともと設置されていたところと思われる地点まで引き返します。

先ほどの分岐点の手前に戻りました。「下土居の灯籠と道標」は、写真の少し手前付近に設置されていたそうです。旧街道を進みます。旧街道はこの分岐点を右に進んでいました。

分岐点の右方向に進んで行きます。旧街道の前方に墓地と県道47号が見えました。

分岐点から並んでいた民家の一番前のお宅は、県道47号に接して建てられています。玄関の上に大きな木製の看板がありました。

「真宗 原御堂(はらみどう)」と書かれていました。江戸時代後期の日本画家で、自らの絵を経費に使って、参拝客が多いため荒廃していた金毘羅街道の修復に尽力した、大原東野(おおはらとうや)縁りの建物です。県道47号をはさんで東向かいにある墓地に石碑が残っているそうです。大原東野は、文化元(1804)年に金比羅に来て、丸亀街道(丸亀からの金毘羅街道)に近い苗田(のうだ・大麻町の東方)に住居を構えていたそうです。

原御堂の前方です。左の県道47号と並行した通り(自動車の左側)を進みます。ここからは、金毘羅街道は複雑な進路をとることになります。
その先を左折します。

左折して東に進みます。民家の手前で県道47号を渡ります。

そのまま進むと左前方に「なんぶ保育所」、その裏の「フラワーランド」の色鮮やかな建物がありました。手前を右折して進みます。

左側の川に沿って、道は県道47号に向かっています。県道47に出ると左折して橋を渡ることにします。

左折したら、進行方向右側に、ホテルプラハの建物が見えました。

左折して民家の前を進みます。右側の水田の先を右折して、畦道(あぜみち)をホテルプラハに向かって進みます。

畦道をホテルプラハの前に向かって歩きます。ホテルの前の通りの左側、塀の前に道標がありました。

県道47号から東に向かって道標を撮影しました。「中土居の道標」です。正面に「左に向けた手形 ぜんつうじ道  右に向けた手形 こんぴら道」と刻まれています。

側面(畦道から見た正面)には「たきのみや道」と刻まれていました。金毘羅宮方面は、ここからまっすぐ右(南)に進んでいたようです。県道47号を前方(東)に向かうと、「中土居踏切」でJR土讃線を渡り、滝宮方面に向かっているようです。

半端ない日射しの中を、多度津街道を善通寺から中土居の道標まで歩きました。「下土居の灯籠と道標」から「中土居の道標」の間は、複雑なルートをたどる旅になりましたが、正しいルートが見つからず苦労を重ねました。善通寺市立郷土館の方から、情報の手助けをいただきながら歩いた旅でした。本当に感謝しています。  次回は、琴平町の街道の終点までのルートをたどってみようと思っています。