南海電鉄のみさき公園駅です。大阪府の最南端、泉南郡岬町にあります。この駅から、全長2.6kmの多奈川線が分岐しています。南海電鉄本線には本線から分岐する路線が6路線ありますが、多奈川線もその一つです。ちなみに、この6路線は、北から汐見橋線、高師浜(たかしのはま)線、空港線、多奈川線、加太線、和歌山港線です。これまで、汐見橋線(「レトロな駅舎が続く南海電鉄汐見橋線」2015年12月17日の日記)と高師浜線(「私鉄の最短路線、南海電鉄高師浜線に乗る」2015年11月27日の日記)は訪ねてきました。この日は、みさき公園駅から多奈川線の電車で、深日港(ふけこう)駅に向かいました。
この日乗車した多奈川線は、昭和19(1944)年に、潜水艦や海防艦を建造していた川崎重工業泉州工場の従業員輸送のために開業しました。写真は多奈川線の休日用の時刻表です。この日は土曜日でした。次の列車は13時15分発。通常、みさき公園駅の5番乗り場から出発している多奈川線ですが、この列車だけが、唯一4番乗り場からの出発でした。
改札を抜けて、地下道を進むと、3番乗り場と5番乗り場の案内がありました。4番乗り場の案内を見つけることができませんでしたので、このホームに上がりました。ホームの南の端に4番ホームの案内がありました。3番ホームと5番ホームの先に設置されていた、切り欠きのホームが4番ホームでした。後に、深日駅で出会った方のお話では、現在、「4番乗り場を使用する列車はこの1本だけ」とのこと。偶然でしたが、貴重な経験ができたようです。
4番ホームでは、2200系車両の2両編成、ワンマン運転の電車が待っていました。この列車は、みさき公園駅と多奈川駅の間で往復運転をしています。10人程度の人が乗車されていました。
出発しました。南海本線の線路と並行して進んで行きます。その先で、本線は大きく左折して離れて行きました。
めざす深日港駅までは2.1km。途中の深日町(ふけちょう)駅に停車した後、みさき公園駅を出発してから5分ぐらいで到着しました。電車は、すぐに、終着駅の多奈川駅に向かって出発して行きました。深日港駅は、多奈川線が開通してから4年後の昭和23(1948)年11月3日、深日港から出る淡路・四国連絡船の開設に伴って開業しました。多奈川線で唯一、開設当初から1面1線のホームになっていました。
下車したホームの先は柵で仕切られていました。その先に長い長いホームが残っています。
ホームから見た多奈川駅方面です。多奈川駅までは500m。この写真は少しズームしていますが、ホームの先に多奈川駅の1面1線のホームが見えています。
柵が設置されているところから見た深日町駅方面です。かなりの幅のあるホームです。その上にどっしりとしたホームの上屋が見えます。駅舎はその先にありました。線路の右側には、大阪府道65号(岬加太港線)が線路と並行して走っています。
ホームの上屋です。柱は補強されていましたが、太い木材を組み合わせてつくられています。深日港駅は、昭和23(1948)年、川崎重工業の泉州工場の船溜(ふなだまり)を改修して深日港が開設され、関西汽船が深日港・洲本港間に航路を開設したときに、開業しました。その後、関西汽船を引き継いだ深日海運が、大阪湾フェリーとともに、淡路島への航路を運航していました。また、徳島方面へは昭和23(1948)年から徳島フェリーが発着していました。こうして、大阪の南海電鉄難波駅から多奈川駅に向かう直通急行(淡路連絡急行「淡路号」6両編成)が運行されるようになり、大阪と淡路島・徳島間が最短ルートで結ばれることになりました。柵を設置した長いホームが残っているのは、この時代の名残です。
ホームから改札口に向かう途中の左側に残る、かつて、繁忙期に使われていた改札口(ラッチ)です。淡路島航路や四国航路を利用する乗客でにぎやかだった時代の面影を今に伝えています。現在は無人駅になっています。自動改札機を通って駅舎に出ました。
駅前広場から、自動券売機が置かれている駅舎を撮影しました。
多奈川線と平行して走る府道65号(岬加太港線)から見た深日港駅です。ホームの上屋が見えます。標識の右側には岬町役場、左側に多奈川線を越える踏切がありました。
役場前で左折します。
踏切を渡ったところから駅舎を撮影しました。この踏切は、岬町役場と深日港を結ぶ通りに設けられています。
駅舎前から深日港に向かって進みます。先ほど構内から見えた木製の改札口です。今は鎖で使用できないように固定されていました。さて、「深日港駅(ふけこうえき)」は難読駅として知られています。「深日」の地名は「南海沿線の不思議と謎」(天野太郎著 実業の日本社刊)によれば、奈良時代までさかのぼることができる由緒ある地名で、天平19(747)年、法隆寺が朝廷に提出した財産目録(「法隆寺伽藍縁起並流記資材帳」)には、「河内国日根郡鳥取郷深日」と書かれているそうです。また、「深日」を「ふけ」と読むことも奈良時代にはすでに行われていたそうで、「万葉集」の「時つ風 吹飯(ふけい)の浜に出で居つつ 贖う(あがなう)命は 君の為にそ」の「吹飯」がその例だそうです。「海岸線が湾曲した場所」を表す「ふくれる」「ふくろ」から転じたといわれています。
駅舎の隣にあった駐車場です。駐車場の後ろは、川崎重工業が神戸に移った後にできた新日本工機の工場です。多奈川駅まで続いています。駐車場の入口にあった立て看板が気になりました。「深日港~洲本港 乗船者専用駐車場」と書かれていたからです。深日港からの旅客フェリーは運航が終了してからすでに長い時間が経過しています。
道路のつきあたりに、広いスペースがありました。「ふれあい漁港」の看板の先の白い建物はトイレです。トイレの壁の手前に「深日港・洲本航路 船のりば」と「深日港観光案内所 さんぽるた」の案内がありました。そして、その先の桟橋には、高速艇が停船しています。どうやら、深日港と洲本港の間に、高速艇が就航しているようです。詳しいお話をうかがいに「深日港観光案内所 さんぽるた」に向かいました。
深日港です。土曜日でしたので、釣りを楽しむ人たちが釣り糸を垂れていました。
広場の奥の青い建物が観光案内所の「さんぽるた」でした。入口の柵には「深日港~洲本港 旅客船社会実験運行 乗船券売り場」と書かれています。
「さんぽるた」の内部です。スタッフが常駐し、たくさんの写真や説明が掲示されています。昨年度に引き続き「船旅活性化モデル地区」の事業として、大阪府泉南郡岬町と兵庫県洲本市が、平成30年7月1日から約8ヶ月間、深日港と洲本港を結ぶ旅客線の運行をするという社会実験を行っているようです。先ほど見た高速船の「インフィニティ」(49トン・恭兵船舶所属)が就航しています。
館内には、深日港を起点に就航していたフェリーの写真や、淡路島航路の歴史が展示されています。
昭和23(1948)年深日港~洲本港間で運行を始めた関西汽船は、昭和42(1967)年に「たんしゅう丸」を就航させます。しかし、昭和47(1972)年に、航路と「たんしゅう丸」を深日海運に譲渡して撤退しました。その後は、深日海運によって運行が続いていました。しかし、明石海峡大橋の開通に伴う旅客数の減少によって、平成6(1994)年に社名を「えあぽーとあわじあくあらいん」と改め、深日港から撤退し、関西国際航空を起点に洲本港と津名港を結ぶ航路を開設しました。しかし、営業は好転せず、平成10(1998)年に廃業しました。また、同じ年に、徳島フェリーも廃業しています。なお、深日海運のダイヤに合わせて運行されていた、難波駅から深日港駅をつないでいた淡路連絡急行「淡路号」は、平成5(1933)年に運行を停止しています。
これは、社会実験で運行されている深日港・洲本港間の高速船の運航時間です。運賃は大人片道1500円でした。来年の2月下旬まで、1日4往復が運行されています。一方、昭和36(1961)年から、深日港と淡路島炬口(たけのくち)港間で運行を始めた大阪湾フェリーは、その後、淡路島の津名港と深日港間で運行するようになりました。しかし、深日海運と同じように、明石海峡大橋の開通によって、平成10(1998)年に深日港から撤退し、泉佐野港に拠点を移すことになりました。こうして、昭和23(1948)年の関西汽船に始まり、半世紀にわたり続いてきた深日港の旅客船運行は終止符を打つことになりました。大阪湾フェリーはその後も運行を続けましたが、平成19(2007)年にすべての運行を終了しています。
岬町観光案内所の方におうかがいすると、徳島フェリーはこの観光案内所の裏側に発着していたそうです。
これは、深日港の入口に設置されていたトイレです。トイレの向こう側に、かつて「乗車券発売所」と書かれた3階建ての建物があったそうです。トイレとその建物の左側に淡路島航路のフェリーは発着していたそうです。
多奈川線の深日港駅を訪ねる旅は、かつての淡路島航路の面影をたどる旅になりました。
現在の深日港では、自転車の利用を促進する活動と一体になった「船旅活性化」をめざした取り組みが進んでいます。
観光案内所の「さんぽるた」をお訪ねしたとき、「関西空港から自転車でここまでやって来た」という方がいらっしゃっていました。サイクリングを愛する全国の人たちにも乗船していただけるといいなあと思いました。