トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

南海電鉄高野線の秘境駅(1) 紀伊神谷駅を訪ねる

2019年08月27日 | 日記
南海電鉄高野線の紀伊神谷(きいかみや)駅です。牛山隆信氏が主宰されている秘境駅ランキングの67位にランクインしている秘境駅です。南海電鉄高野線はなんば駅と、高野山の麓の極楽橋駅を結んでいます。極楽橋からは鋼索線で高野山に向かうことになります。この日訪ねた紀伊神谷駅は、高野線の終着駅、極楽橋駅の一つ手前にありました。
新今宮駅から乗車した橋本駅行きの急行は、50分ぐらいで橋本駅に到着しました。橋本駅のホームにあった出発案内です。「先発」は、特急列車の ”こうや号” ですが、極楽橋駅まで停車しません。「次発」の2扉車の各停で、紀伊神谷駅に向かうことにしました。

ホームにあった色鮮やかな駅名標です。「こうや花鉄道」と書かれています。これは、南海鉄道高野線の橋本駅から鋼索線の高野山駅までの愛称です。平成16(2004)年7月7日、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に指定され、紀伊半島にある「吉野、大峰、熊野三山」とともに、「高野山石道と金剛峯寺境内」も指定されました。それを受けて、南海電鉄では高野山への旅の魅力づくりのため、地域の人々とともに取り組む「こうや花鉄道プロジェクト」を展開しています。この駅名標もその一つの取り組みです。
南海電鉄は、JRと同じ軌間1067ミリの鉄道です。引込線で待機していた極楽橋駅行きの各停が入線してきました。プロジェクトの一環として「こうや花鉄道」のヘッドマークがついています。ズームカーの最新車両、2300系車両です。橋本駅から極楽橋駅間の旅客の減少に対応するため、2両編成、ワンマン運転で運行できる車両として、平成17(2005)年から営業運転が始まりました。
車両の長さ17m、2扉車の2300系車両は、2両編成4本(8両)が導入されています。4本の2両編成には、それぞれ「さくら(赤)」、「はなみずき(黄)」「しゃくなげ(緑)」「コスモス(青)」の愛称がつけられており、側面にカラーの縁取り(赤・黄・緑・青)がなされています。この日は「さくら」と「コスモス」の4両編成で、ツーマン運転での運行でした。

先頭車の「コスモス」の内部です。広い窓とクロスシートが印象的です。橋本駅・極楽橋駅間は、19.8km。橋本駅は標高92mのところにあります。途中の学文路(かむろ)駅が路線内で最も低い標高79mで、終着駅の極楽橋駅は標高535mです。かなりの山岳路線になっています。定時に出発しました。
極楽橋駅までで最も長い椎出(しいで)トンネル(399m)を抜けると、標高108mにある高野下(こうやした)駅に着きました。こうや花鉄道プロジェクトの一環として、地域の方々がつくられた「花屏風」がホームに彩りを添えていました。窓枠が写り込んでいて、見えにくいのですが・・。
橋本駅を出発してから、紀伊清水駅(87m)、学文路駅(79m)を経て高野下駅までやって来ました。高野下駅から先、車体長17mのズームカーは、レールの音をきしませながら、50パーミル(‰)の急勾配、曲線半径(R)100m以下の急カーブを、制限時速33kmで上って行くことになります。

高野下駅から猪子山トンネルと下古沢トンネルの2つのトンネルを抜けて、下古沢(しもこさわ)駅に着きました。下古沢駅は標高177m。高野下駅から70m近く上ったことになります。狭いホームのベンチの脇に「12:47 お乗り遅れなさいませんようご注意ください」の掲示がありました。行き違いのためのやや長い停車でしたので、注意を促す掲示でした。細かいお心遣いに感謝です。

行き違いの特急「こうや号」がやって来ました。
下古沢駅から、上古沢駅(標高230m)、紀伊細川駅(標高363m)を経て、めざす紀伊神谷駅に着きました。駅名標にもあるように、標高473mのところにあります。下古沢駅から296mの高度差を、16のトンネルを抜けて上ってきました。下車したのは私だけでした。

電車はすぐに出発して、すぐ目の前にあった大迫トンネルの中に入って行きました。次は、終着駅、極楽橋駅です。

大きくカーブしている島式1面2線のホームを駅舎に向かって、橋本駅方面に歩きます。ホームの上屋がありました。紀伊神谷駅は、昭和3(1928)年6月、高野山電気鉄道の終着駅「神谷駅」として開業しましたが、翌年の昭和4(1929)年には、極楽橋駅の開業により途中駅になりました。現在の駅名の「紀伊神谷駅」に改称されたのは、昭和5(1930)年のことでした。そして、昭和22(1947)年、南海電鉄紀伊神谷駅となり、現在に至っています。
上屋の中にあった駅名標です。紀伊神谷駅は、和歌山県伊都郡高野町の山深いところ、紀伊細川駅から2.4km、極楽橋まで1.5kmの地点にありました。
牛山隆信氏の評価では、「秘境度」11ポイント(以下「P」)、「雰囲気」10P、「列車到達難易度」1P、「外部到達難易度」2P、「鉄道遺産指数」6P、合計30P で秘境駅ランキングの67位(2018年)。「周囲に人家なし」、「古い駅舎」で「うっそうとした林の中にある」というコメントが添えられています。この駅の周囲の環境や雰囲気が評価され、67位の秘境駅に位置づけられたようです。
上屋の中にあるベンチです。紀伊神谷駅の1日平均乗降人員は、2017年には10人であり、南海電鉄の100駅の中で最も少ない駅になっています。ちなみに、高野下駅から下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅の6駅は、1日平均の乗降人員のワースト6位の中に名を連ねています。そのせいではないのだとは思いますが、ホームには、発車時刻表や運賃表なども全く掲示されていませんでした。
紀伊神谷駅の乗降人員は南海電鉄の100駅の中で最下位になっていますが、「無人駅」ではありませんでした。業務委託駅で、電車の発着の度に駅スタッフがホームに立って安全確保につとめておられました。橋本駅行きの電車が大きく左カーブしながら出発して行きました。
ホームの端まで来ました。構内踏切を渡って写真の右側の樹木の中にある駅舎に向かって進みます。
線路を越えた駅舎前で、ホームをふり返って撮影しました。構内踏切とホーム付近のようすです。
構内踏切から駅舎に向かって、9段の階段を下ります。樹木に覆われており、いかにも山間の駅という雰囲気です。
駅舎前の通路です。木造のどっしりとした造りの木組みが見えます。昭和3(1928)年の開業当時の建物だろうと思いました。

写真を撮っていたため、到着してからずいぶん時間が経過していました。事務所のドアを開けて駅スタッフにお詫びをしてキップを渡し、駅舎の脇の通路を出口に向かいます。駅舎の角の柱に「標高473米」と書かれた掲示がありました。灯りが無いと暗くて歩けないのではないかと感じるような通路です。
自動改札機が設置された駅舎の待合室です。正面に造りつけの木製のベンチ、上に座布団が並んでいます。右側に駅事務所に接するカウンターがあります。駅舎からの出口にはトイレが設置されていました。
駅舎の中から見た駅事務所の側です。右側に時刻表、中央に時計、左側に運賃表が掲示されています。駅周辺の案内のチラシも置かれています。時刻表を見ると、停車する列車の本数は多く、「列車到達難易度1P」という牛山の評価を裏付けるものでした。
カウンターにあった窓口です。少年時代に駅でよく見た事務所の小窓。ここからカウンター上の小皿でキップを受け取っていたのを思い出しました。ここで、帰りのキップを購入しようと思いましたが、スタッフの方は「ここではキップの販売はありません。乗車駅証明書をお渡ししますから、下車駅で精算してください」というご返事でした。

いただいた乗車駅証明書です。かつての硬券のような雰囲気がありました。新今宮駅で精算させていただきました。
駅舎に掲示されていた「近代化産業資産」の認定証です。平成21(2009)年、「こうや花鉄道」の紀伊清水駅から鋼索線の高野山駅までの9駅が、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線とともに、経済産業省の認定を受けています。
カウンターの上に置かれていた「駅ノート」と周辺のマップです。マップを1枚いただきました。

紀伊神谷駅への出入りに使われる通路です。駅前広場はありませんでした。写真の左側に車も通ることができる道路があります。
駅舎を撮影しました。切妻屋根の手前に「紀伊神谷駅」の駅名標が掲げてありました。
駅舎へ出入りする道を左折して線路の方に向かって歩きました。緩い右カーブを曲がると南海電鉄の紀伊細川1号踏切が見えてきます。
左側に、制限時速33kmの標識が見えました。南海電鉄紀伊細川1号踏切です。
踏切から駅方面を撮影しました。極楽橋駅に向かう電車は、ここから大きく右にカーブしながら、登り坂を登り、紀伊神谷駅のホームに入って行きます。踏切の警報機の右側にあるコンクリートの向こうに、引き込み線の車止めが設けられていました。
紀伊細川駅・橋本駅方面です。踏切のすぐ先に50‰の勾配標がありました。ここから右カーブの先にかけて、50パーミルの下りになっているようでした。

帰りの電車まで少し時間がありましたので、駅周辺を歩いてみることにしました。紀伊神谷駅への入口まで引き返しました。近くに、「高野町神谷地区散策マップ」と書かれた案内板がありました。駅舎内に置いてあった「マップ」と同じ内容でした。坂道を進みます。

5分ぐらいで、三差路の脇に来ました。左側に道標がありました。廃校になった白藤小学校跡地を示す方向に進みます。これまでより倍以上の急勾配の道をゆっくりと上ります。「マップ」には、白藤小学校跡地について「懐かしい木造の校舎や中庭には、ゆったりとした空気が流れています」と書かれていました。

10分ほど登ると、左側に細い坂道がありました。上っていく細い坂道が白藤小学校跡地へ向かう道のようです。白藤小学校は、明治11(1878)年に「神谷小学校」として開校しました。昭和2(1927)年のピーク時には、152人の児童が在籍していたそうです。

すぐに、体育館のような白い建物が見えました。その脇を上ります。白藤小学校は、平成9(1997)年に、学校統合のため廃校になったそうです。
坂道を上りきると右側に校舎跡がありました。校舎の玄関に、「高野町立白藤小学校」の校名標が残っていました。廃校になってからは、地元町内会の管理の下、写真スタジオとして貸し出されているそうです。

「マップ」に「ゆったりした空気が流れている」と書かれていた中庭です。この日は、写真スタジオで撮影をしておられる方の姿が見えました。

その先にあった「御成婚記念道程標」です。「至椎出 4600メートル 一里六町十間  至高野口 10120メートル 二里廿町四十六間  至高野山女人堂 4400メートル 壱里四町二十間」と書かれた大正13年5月に建立された道程標です。昭和天皇のご成婚の時期に建てられたもののようです。後日、地図で確認すると、この通りは不動坂を経て高野山女人堂に至る「高野街道京・大坂道」だったようです。ちなみに「京・大坂道不動坂」は、平成16(2004)年7月に指定された「高野山石道と金剛峯寺境内」に続いて、同年10月24日にユネスコの世界遺産に追加登録されています。

旧街道の雰囲気が残る通りになりました。

5分ぐらいで、「むすびの地蔵」への参道がありました。「弘法大師がつくられたとされる地蔵堂」で、中に「三体のお地蔵様がいます」と「マップ」には書かれていました。参道への入口にあった道標が見えます。左と右の道標には「右 京・大坂道」、中央の道標には「是ヨリ高野山女人堂江 (以下読めず)」と刻まれていました。

「秘境駅ランキング」の67位にランクインしている紀伊神谷駅を訪ねてきました。高野山への参詣道に近い山間にある、秘境駅らしい雰囲気の山間の駅でした。「秘境駅ランキング」には、他に「こうや花鉄道」にある紀伊細川駅(147位)と上古沢駅(187位)がランクインしています。
機会をみてこの二つの駅も訪ねてみようと思っています。 





堺市にある「日本一低い山」、蘇鉄山に登る

2019年08月12日 | 日記

このところ「日本一低い山」を訪ねています。日本一高い山と違って、「日本一低い山」は、各地にいくつかあるようです。そのうち、徳島市にある弁天山(「自然の山で日本一低い山、弁天山を訪ねる」2019年7月25日の日記)と香川県東かがわ市にある御山(「もうひとつの『日本一低い山』、御山を訪ねる」2019年7月31日の日記)はすでに訪ねて来ました。

 

 写真は、堺にある蘇鉄(そてつ)山の「登山認定証」で、堺市の蘇鉄山山岳会が発行しています。「認定証」にも書かれているように、蘇鉄山は、一等三角点のある山で日本一低い山とされています。


蘇鉄山の山頂です。案内板の左側に、その国土地理院の一等三角点が見えます。この日は、大阪府堺市にある蘇鉄山に登ってきました。

新今宮駅から乗車した南海本線の急行電車で8分ぐらい、堺駅に到着しました。乗車してきた電車の最後尾の車両が見えます。南海本線堺駅の1番ホームです。ホームは堺駅の3階部分にあります。駅からの出口は、2階部分に東出口と西出口の2ヶ所、ホームの和歌山寄りの端から下っていく南出口の3ヶ所ありました。


 ホームから下りて、2階部分に降りました。「祝 百舌鳥・古市古墳群 世界遺産登録」の垂れ幕を見ながら西出口に向かいます。現在の堺駅は、南海本線の高架工事を経て、昭和60(1985)年に開業しています。西出口から出ました。


西出口を出ると東西連絡通路で、正面にある「ホテル アゴーラリージェンシー堺」につながっています。


 連絡通路から見た南海本線の高架です。堺駅を出ると堅川(たてかわ)を跨いで、和歌山方面に向かって進みます。正面の道路の向こう側を、堅川が右方向に向かって流れています。


連絡通路から降りたところにあった観光地図です。めざす蘇鉄山は、地図の左側に淡いグリーンで示された大浜公園の中にあります。地図の「現在地」から堅川に出て、南海本線の高架をくぐり堅川に架かる南蛮橋を渡ります。その後、堅川に沿って下流側に向かって歩き、堺旧港から大浜公園に向かうルートで歩きました。

蘇鉄山に向かって出発します。堅川沿いに南海本線の高架に向かって歩きます。

南海本線の高架をくぐり、南蛮橋を渡ります。写真は堅川の上流部分です。橋の手前の川の両岸にレンガ造りの橋脚の跡が残っていました。写真の左側の川岸にあった「説明」には「明治36(1903)年、この橋脚の上を通って、難波駅・和歌山駅間が開通した」と書かれていました。実際に使われていた橋脚跡のようです。                 
南蛮橋から堅川の上流側を眺めている「南蛮人」の像です。写真の中央右に橋脚跡が見えます。南蛮橋を渡り右折して堅川に沿って下流方面に向かいます。

堅川の対岸にある、ホテル アゴーラリジェンシー堺の手前に、大きな石碑のある公園がありました。このあたりは、堺旧港で上陸した人々が堺の中心部に向かう通路にあたっており、多くの人で賑わっていたところだそうです。
慶応4(1868)年、無通告で上陸したフランス軍艦の兵士11名を、警護に当たっていた土佐藩士が殺傷した堺事件で、妙国寺で切腹し隣の宝珠院に葬られた11名の土佐藩士を記念した「土佐十一烈士記念の碑」と、文久3(1863)年に、この地から大和国に向かい、五条代官所などを襲撃した天誅組の上陸地を伝える「天誅組襲来上陸地蹟」と書かれた石標がありました。

堺旧港に向かって進みます。正面に国道26号の高架が見えます。高架をくぐると、その先は堺旧港です。

堺旧港です。手前に呂宋助左衛門像、対岸に龍女神像が建っています。
これから向かう大浜公園は、江戸時代末期、外国船の来航に備え、港の防備のために大砲を置いた砲台場(お台場)があったところに整備されています。砲台場は、安政2(1855)年頃から、堺旧港を挟んで南と北につくられたといわれ、北台場は龍女神像が建つ対岸の大浜北公園に、南台場は大浜公園に設けられていました。
堺旧港から府道大阪臨港線の横断歩道を渡って、大浜公園の入口にやって来ました。横断歩道から見た堺旧港方面です。

大浜公園に入ります。大浜公園は、明治12(1879)年に開園しました。堺市営の公園で最も古い歴史をもっています。明治36(1903)年大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、日本で最初の水族館が設けられました。この水族館は博覧会終了後に堺市立水族館となり、当時の最高水準の水族館として多くの観客で賑わったそうです。その後、公会堂や潮湯、海水浴場、料理旅館などもつくられ、明治から昭和初期にかけて、関西有数のリゾート地として賑わったといわれています。

大浜公園の入口にあった案内です。見えにくいのですが、蘇鉄山は地図の中央の下側にあります。写真の右に赤字で描かれた「現在地」から管理事務所の南側を南西に向かって行けば、めざす蘇鉄山に行くことができそうです。

管理事務所です。その左側を進んで行きます。堺市営水族館は、昭和9(1934)年に襲来した室戸台風による高潮で大破しましたが、昭和12(1937)年に再建されました。その後も「東洋一の水族館」として人気を博していましたが、臨海工業地帯の造成で大浜海岸が消滅するなどのダメージを受け、昭和36(1961)年に閉館しました。現在、大浜公園には、野球場、屋外プール、体育館、テニスコート、相撲場、猿飼施設などが整備されています。
5分ほどで、蘇鉄山の登り口に着きました。左側に「一等三角点のある日本一低い山 蘇鉄山登り口」と書かれた案内標識、右側に「日本一低い一等三角点」「そてつ山登り口」と書かれた石柱が見えました。登頂開始です。

蘇鉄山の登山道を登って行きます。
さて、ここで「日本一低い山」についてまとめておきます。国土地理院の地形図に載っている正式の山で、最も標高が低い山は日和山(仙台市宮城野区)で、標高3.00m。二番目に低い山が天保山(大阪市港区)で、標高4.53m。ただ、天保山には二等三角点が設置されており、「二等三角点のある山として、日本一低い山」ということになります。三番目が標高 6.10mの弁天山(徳島市)。1位の日和山と2位の天保山は盛り土をしてつくった人工的な山(築山)ですが、弁天山は自然の山です。そのため、弁天山は「自然の山として日本一低い山」とされています。

山頂に着きました。蘇鉄山山頂に設置されている一等三角点です。昭和14(1939)年にここに設置されました。それより先の明治18(1885)年に、蘇鉄山から300mほど東南にある御蔭(おかげ)山の山頂に置かれていた一等三角点が、御蔭山が削られて消滅したのに伴い、蘇鉄山に移設されたことによります。その当時、蘇鉄山の山頂からは、大阪城天守閣や生駒山、葛城山、六甲山などが展望できたそうで、三角測量に適していたところだったのでしょう。山頂にあった「説明」には、蘇鉄山と御蔭山の関係について、「蘇鉄山は、江戸時代の天保年間(1830~1834)に港と水路の浚渫(しゅんせつ)によってつくられた人工の山」で、同じように、安治川の川浚えの土砂を積み上げてつくられた天保山とは、「(同じ天保年間の誕生と言うことで)兄弟に当たる」と書かれていました。

蘇鉄山は、標高 6.97m。  国土地理院の二万五千分の一の地形図に「蘇鉄山 7.0m」と記載されている正式の山で、日本で4番目に低い山になっています。しかし、蘇鉄山は自然の山ではなく、明治12(1879)年に大浜公園が開園したとき、大阪湾を展望するのために人工的に造成された築山です。そのため、人工の山(築山)としては日本で3番目に低い山とされています。それとともに、一等三角点が設置された山としては「日本一低い山」ということになっています。
蘇鉄山という名前の通り、頂上の周囲にはソテツが植えられています。
「日本一低い山」だといわれている山の中には、国土地理院の地形図に記載されていない山も含まれています。前回訪ねた香川県東かがわ市の御山(みやま)もその一つでした。標高 3.60m。明治時代の郷土資料にも「自然の山」として記録されているそうで、地元の人々は、正式の山に認定してもらうため、国土地理院に地形図への記載を働きかけておられます。

管理事務所まで戻りました。事務所の建物の近くを右折して進みます。花菖蒲園の上を渡る橋が架かっています。ふり返って管理事務所方面を撮影しました。「日本一低い山」に関して、もう一つ気になる山があります。現状ではまだ正式の山と認められていないのですが、国土地理院が認定したときには、日和山(標高 3.00m)を抜いて、「日本で一番低い山」になるはずの山があります。秋田県の八郎潟を埋め立ててできた大潟村の人々が、歎願を続けている大潟富士です。高さは、富士山の1000分の1にあたる 3.776m、頂上が標高0mになるように造成された人工の山(築山)で、平成 7(1995)年6月3日に誕生しています。国土地理院から認められると、多くの人が関心を寄せることになるでしょう。

大浜公園は、幕末に南台場が築かれていたところに整備されました。このあたりは、南台場の南側にあたるところでした。安政2(1855)年頃から防御を担当していた彦根藩によってつくられた砲台場を、慶応 2(1866)年から始まった、より広い範囲を防御できる洋式の砲台場に改修する工事により整備されたといわれています。方形の砲台場の北・西・南側は石垣を積み、一部に堀を設けていたそうです。ここは、砲台場の南側にあたる地域で、当時の姿を伝える石垣が柵の左側に残っています。

蘇鉄山への登頂を終えこの日の目的は達成できたのですが、蘇鉄山山頂の案内板に「蘇鉄山山岳会」の名前で書かれていた「登山認定証をさしあげます 神明神社 南海本線「堺駅」南口すぐ」という記述が気になりました。神明神社を訪ねてみることにしました。

大浜公園に入る横断歩道まで戻り、そこから右に向かって歩くと、フェニックス通りに入ります。道路中央のフェミックスの並木の向こうに南海本線の高架とコンフォートホテル堺の建物が見えました。
南海本線の高架下です。通りの向こう側に”shop NANKAI 堺駅南口」の案内とその左側に「神明神社」の所在を示す白いポールがありました。白いポールの左側の通りを堺駅に向かって進みます。

5分ぐらい歩いて、神明神社の鳥居前に着きました。鳥居をくぐった先に社務社がありました。職員の方はご不在でしたが、「拝殿で50円以上のお賽銭を」と書かれていましたので、サインをして「登山証明証」を1枚頂戴し、お詣りをさせていただきました。冒頭にお示しした「登山証明証」がそのときのものです。

国土地理院の地形図に記載されている正式の山として、日本で4番目に低い蘇鉄山(標高 6.97m)に登ってきました。山頂には一等三角点が設置されており「一等三角点のある山では日本一低い山」でした。
ちなみに、「一等三角点のある日本一高い山」は南アルプスの赤石岳(標高  3,120m)で、「二等三角点のある日本一高い山」は富士山(標高 3,776m)だそうです。