トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

バリアフリーの秘境駅、JR牟岐線の辺川駅

2015年09月21日 | 日記

緑濃き山あいにあるJR辺川(へがわ)駅です。JR徳島駅から徳島県の海岸沿いを南に向かうJR牟岐線の沿線にあります。辺川駅は、牟岐線の沿線では、牛山隆信氏が主宰されている「秘境駅ランキング」に、海水浴場が開かれている期間だけ停車する臨時駅の由比ヶ浜駅(ランキング125位)とともにランクインしており、183位に位置づけられています。1日分残っていた”青春18きっぷ”を使うためもあって、使用期限の最終日の9月10日、辺川駅をめざして岡山県のJR児島駅を出発しました。

南国ムード漂うJR徳島駅です。JR高松駅から、牟岐線の始発駅である徳島駅まで行くJR高徳線の普通列車は、早朝の6時38分発の次は10時02分発までありません。「時間を有効に使えたらなあ、辺川駅での滞在時間が短くなるなあ」と思いつつ、9時09分にJR児島駅を出発した瀬戸大橋線の”マリンライナー”で高松駅に向かいました。そして、10時02分発の徳島行きの普通列車に乗り継いでまず、徳島駅をめざしました。

徳島駅前通りです。明るい日差しが降り注ぐまさに南国の街です。徳島駅には11時55分に着きました。次の辺川駅に行く牟岐線の列車は12時43分発です。

いいお天気だったので、駅前をぶらついて、人形が迎えてくれた、駅前の商店街の食堂で徳島ラーメンを食べました。出発準備完了です。

徳島駅ホームに入線していた牟岐行きの列車です。JR四国の1563号車(1500形)です。ワンマン運転のディーゼルカー(DC)です。

車体の側面に描かれていた「エコトレイン」のマークです。JR四国の1500形車両は、排ガス中のチッ素化合物を従来より60%程度削減したエコ車両として知られています。平成18(2006)年からJRの高徳線、徳島線、牟岐線で運用されています。

14時34分、JR辺川駅に着きました。途中の日和佐駅と阿南駅での8分程度の停車もあって、徳島駅から2時間弱かかりました。辺川駅はこの列車の終点の一つ手前にある駅です。下車したのは、もちろん私一人でした。

下車してすぐ降り口のある前方から写真を撮影していたら、すぐに列車は終点めざして出発して行きました。辺川駅での滞在時間はちょうど30分。帰宅時間を考えると、乗車してきた1563号車が折り返して帰ってくる15時04分までの時間しかありませんでした。

ホームから徳島駅方面を撮影しました。ホームにあった待合室と周囲に点在する民家と稲穂の実った田んぼが見えます。

「秘境駅ランキング」では、「秘境度1ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度4P、外部到達難易度2P、鉄道遺産指数1P」の10Pと牛山氏は評価されています。JR土讃線の秘境駅だったランキング156位のJR阿波大宮駅(2014年8月27日の日記)と似た雰囲気を感じる駅でした。待合室にあった時刻表を見ると、下りの牟岐駅行きは1日12本、上り徳島駅行きの列車は1日13本あります。4Pと他の項目に比べ高く評価された「列車到達難易度」には、少し違和感がありました。

駅のホームです。待合室と駅標です。JR牟岐線は大正2(1913)年徳島・小松島間が開通しました。牟岐駅まで延伸したのは、昭和17(1942)年のことでした。ちなみに、牟岐駅の南の海部駅まで延伸したのは、昭和48(1973)年。さらに、平成4(1992)年には阿佐海岸鉄道阿佐東線(海部駅・甲浦駅間)への直通運転も始まりました。

辺川駅は、徳島県海部郡牟岐町橘にあります。JR四国は駅の所在地が駅標に書かれているので、地理がよくわかります。さて、JR辺川駅は、地元の橘地区の人々の強い要望によって、昭和17(1942)年、牟岐線が牟岐駅まで延長したときに開業しました。しかし、すでに「阿波橘」が沿線に設置されていて、「橘」の字を使うことができませんでした。そのため、隣の集落である「辺川」をとって名づけられたということです。

ホームから降ります。降り口は二つありました。一つは写真の左側にある手すりのついた階段。そして、もう一つはその右側にあったバリアフリーの通路です。びっくりしました! ”秘境駅”というと「忘れ去られた駅」みたいな印象を受けてしまいますが、ここは決して「忘れ去られている駅」ではありませんでした。秘境駅とバリアフリーの組み合わせが実に新鮮でした。思わず、秘境駅ランキングの200位のJR武田尾駅(2014年4月30日の日記)を思い出しました。バリアフリーの通路があったかなあ? すぐには思い出せませんでした。「バリアフリーの秘境駅」というコピーが浮かんで来ました。

高齢者らしく、バリアフリー通路から降りることにしました。高齢者にはありがたい設備です。

駅前広場です。意外に広いなと感じました。駅前にあった自動販売機です。

駅前広場から見たホームです。待合室の壁に駅標。その手前に電話ボックス。左にトイレが設置されていました。辺川駅の始発列車は下りが7時45分、上りが5時58分。1日の最後の列車は、下りが23時13分、上りは20時55分です。早朝から深夜まで運行されています。

自転車置き場も設置されていました。牟岐中学校のシールが貼ってある新しい自転車が1台置いてありました。

駅広場の左側にあった工場跡。牛山氏のレポートには「コンクリート建材工場」と書かれていましたが、廃業されたのでしょう。

駅前広場から右方向へ向かって、牟岐駅に向かう線路に沿って歩きます。線路を跨ぐ町道が見えました。人の姿はまったく見えません。静まりかえっているという感じでした。

町道に上りました。辺川駅方面を撮影しました。辺川駅が大きくカーブして設置されている駅だということがよくわかります。

町道を歩きます。行き交う車はほとんどありません。初めて出会った軽四が急停車しました。振り向くと、後ろから来たワンボックスカーが並んで若いお母さん風の女性がおしゃべりを始めました。でも、車の通行の支障になっているわけでもない、ほんとにのどかな風景です。前方に民家が見えました。

町道から見えた辺川駅の全景です。山並みを背景にして、緑一色の中にある白い待合室が輝いて見えました。

町道の前方の民家に入る分かれ道にあった祠です。人々の生活が確かに存在しているという証です。回りは草がきれいに刈られていました。

早稲の刈り取りが終わった後でしょうか?畦の草を刈っておられる人の姿が見えました。あっという間に、駅に戻らなければならない時間になりました。30分の滞在時間は、ほんとに短いですね。駅に引き返します。

駅前の広場の一角にあった石製のテーブルと椅子。工場の従業員の方々が憩う場だったのでしょうか? 辺川駅に帰ってきました。

急いでホームに上がりました。ホームに書かれたワンマン運転の列車の乗り口で待ちます。この日は、岡山県児島駅を9時09分に出発しました。そして、辺川駅に到着したのが14時34分。待ち時間も含めて片道で約5時間半かけて、ここまでやってきました。

牟岐駅方面です。やがて、徳島駅行きの列車がやってくるはずです。15時04分に出発するこの列車に乗って、徳島駅には17時01分着。次の高松駅方面行きは18時35分発の引田(ひけた)行きで、引田駅着が19時27分。引田駅で5分後に出る高松駅行きの列車に乗り継いで、高松駅着20時57分。そして岡山駅行きのマリンライナーで児島駅に着くのは21時42分ということになります。

お帰りなさい! 乗車してきた1563号車が帰って来ました。途中の乗り継ぎ時間を含めて6時間40分弱の長い鉄道の旅が、また始まります。

JR辺川駅は、秘境駅ランキングの183位にランクインしている秘境駅です。バリアフリーの通路が整備されていたり、早朝から深夜までかなりの本数の列車が運行されていたり、JR四国の手厚い配慮を感じる駅でもありました。周囲を山に囲まれ緑の田園が広がる辺川駅周辺は、やはり秘境駅らしい雰囲気があります。滞在していた30分間で見かけた人は、草を刈っておられた方と、車を止めて町道で話しをしておられた若いお母さん風のお二人、町道ですれ違った軽四トラックを運転されていた方の4人だけでした。牛山氏が「秘境度1P、雰囲気2P」と評価されたのも納得できました。それ以上に、農村で育った私には、ふるさとを思い出させてくれる懐かしさあふれる駅でした。


重要文化財の蒸気機関車がある加悦SL広場

2015年09月11日 | 日記

この蒸気機関車は、加悦鉄道2号(鉄道院123号)機関車です。加悦鉄道の大江山鉱山駅跡に整備された「加悦SL広場」に展示されています。平成17(2005)年、国の重要文化財に指定された蒸気機関車です。国指定重要文化財の蒸気機関車は、私の知る限りでは、平成8(1996)年に指定され、鉄道博物館に保存展示されている1号機関車(国鉄150形機関車)とこの2号機関車の二機しかありません。この日、私はこの2号機関車を会うため、「加悦SL広場」にやって来ました。

加悦鉄道2号機関車を斜め前から撮影しました。さて、丹後ちりめんを京都へ運搬することを大きな目的として、地域住民823名が出資した30万円をもとに、大正15(1926)年、丹後山田駅(現・与謝野駅)と加悦駅間、5.7kmが開通しました。その後、昭和14(1939)年に大江山で発見されたニッケル鉱の輸送を担うため、大江山鉱山駅・加悦駅間と、ニッケル鉱の精錬を行う岩滝工場(日本冶金工業大江山製造所)・丹後山田駅間の、専用鉄道を延伸させました。しかし、昭和60(1985)年、国鉄宮津線が貨物輸送を廃止したことにより経営が成り立たなくなり、廃止を余儀なくされました。

しかし、一方で、与謝野町の人々は加悦鉄道に対する愛着を持ち続けています。加悦鉄道はその思いに応えるように、昭和52(1977)年に加悦駅構内に「加悦SL広場」を開設し、加悦鉄道で活躍した蒸気機関車や木造客車などの車両の展示を始めました。そして、平成8(1996)年には、旧大江山鉱山駅の跡地に移設させます。さらに、平成15(2003)年には、与謝野町が加悦鉄道で使用された機関車やデーゼルカー、貨車など11種の車両を与謝野町指定文化財に認定しました。この写真は、その「加悦SL広場」の入口を撮影したものですが、ここから入場しました。

加悦SL広場の広い駐車場です。敷地の半分ぐらいを占めています。周囲には車両が展示されていました。正面は休憩所として使用されている南海電鉄のモハ1202号車。昭和(1933)年に製造され、平成7(1995)年まで南海電鉄貴志川線で使用されていました。南海電鉄貴志川線は、現在の和歌山電鐵貴志川線。”タマ駅長”で全国に知られるようになりました。モハ1202号車は、展示用としてここに移ってきました。

モハ1202号車の隣、”カフェトレイン蒸気屋”になっているサハ3104号車。大正14(1925)年、東急電鉄が藤永田造船所で製造した電動客車でした。付随客車に改造した後、加悦鉄道に移り、昭和47(1972)年まで使用されました。

日本最古の市電、京都市電N0.5(狭軌1形23号車)です。明治28(1895)年に、京都七条と伏見の間で、日本最初の路面電車として開通しました。

明治43(1910)年に大阪の梅鉢鉄工所で製造されました。明治・大正・昭和の66年間、ちんちん電車として京都市民に親しまれた後、昭和36(1961)年、京都市電の京都駅~北野神社間が廃止されたときに廃車となりました。ここには、展示のために移ってきました。

加悦SL広場の事務所です。旧加悦駅を再現した建物です。左に見えるディーセルカーは、与謝野町指定文化財に認定されているキハ1018号車です。

事務所内部です。出札口です。ここで、私もSL広場の入場券を、400円で購入しました。

購入した入場券です。かつての乗車券を思わせる硬券でした。加悦鉄道で働き、与謝野町の文化財に指定された、キハ1018号車など11種の車両を確認するつもりでした。

改札口から入場します。平成8(1996)年に、与謝野町指定文化財に認定された車両とは・・? 機関車は、加悦鉄道2号(鉄道院123号)など3両の蒸気機関車。ディーゼルカー(DC)は、キハユニ51号内燃動車など2両。客車は、ハブ3号など6両の木造客車です。いずれも、他所ではなかなか見ることができない、希少価値のある珍しい車両ばかりです。その中で、気になる車両は、やはり加悦鉄道2号蒸気機関車でした。先に書いたように、平成17(2005)年に、国の重要文化財に指定されている車両です。

改札口を越えて展示場に入り、振り返って事務所の方向を撮影しました。向かって右側に加悦鉄道2号蒸気機関車、左側には1261号蒸気機関車が展示されていました。

平成17(2005)年に国の重要文化財に指定された、加悦鉄道2号(鉄道院123号)蒸気機関車です。全長8.225m。明治6(1873)年6月、イギリスのロバート・スティーブンソン社で製造された蒸気機関車で、大阪ー神戸間の鉄道建設に使われました。翌、明治7(1874)年の鉄道開通後には、大阪ー神戸間の旅客列車を牽引し「陸(おか)蒸気」として人気を博しました。内閣鉄道院が鉄道を所管していた時代(明治4年~大正9年、初代総裁は後藤新平でした)に「123号」に変更されたので、「鉄道院123号」と呼ばれていました。

その後、大正4(1915)年に、鉄道院から簸上(ひのかみ)鉄道(JR木次線の前身)に払い下げられて旅客輸送に活躍した後、創業した加悦鉄道に移ってきました。加悦鉄道では2号蒸気機関車として、昭和31(1956)年まで運用され、297,800kmを走行したといわれています。

左側の蒸気機関車は、1261号(旧鉄道省形式1260形)蒸気機関車です。大正12(1923)年、簸上鉄道が日本車輌製造で新造した国産の機関車で、全長8.307mでした。昭和18(1943)年、ニッケル鉱石の輸送のため、旧鉄道省から同形の1260号機関車(昭和22=1947年、昭和電工富山工場に売却された)とともに移ってきました。

1261号蒸気機関車は、昭和20(1945)年までニッケル鉱石の輸送にあたり、その後、旅客輸送と岩滝線の貨物輸送に活躍した機関車です。昭和42(1967)年の休業までの走行距離は、565,210kmになりました。平成17(2005)年、旧加悦鉄道車両群として、与謝野町指定文化財になりました。

1261号蒸気機関車に牽引される形で展示されていた、ハブ3号形付随荷物緩急車(木造客車)です。三等客車と手荷物車が一体となった車両でした。定員24人、全長8.225mと書かれていました。明治22(1889)年、讃岐鉄道(現、高松琴平電鉄の前身)がドイツのファンデル・チーペン社から購入しました。大正11(1992)年、伊賀鉄道に払い下げられた後、昭和2(1927)年、加悦鉄道に移って来ました。そして、昭和44(1964)年に廃車となりました。

ハブ3号付随荷物緩急車の内部です。横シートの客室は三等車で定員24名でした。昭和45(1970)年の大阪万国博覧会では、クラップ17号機関車(ドイツ)に牽引される形で展示されたそうです。

この客車は、ハ4975形・ハ4995号付随客車(木造客車)です。赤いラインの入った客車で三等車として使用されました。明治26(1893)年、旧逓信省鉄道庁の新橋工場で製造された国産の車両です。昭和3(1928)年鉄道省から払い下げられ、加悦鉄道に移ってきました。昭和10(1935)年に廃車されてからは、加悦駅構内で倉庫として使用されました。

その後、ハ4995号客車の台車を使って、ハ21号客車を製造しました。ハ21号客車は、同じ形のハ20号客車(もとハ4999号車)の台車を使って復元され、加悦SL広場に展示されていました。木造で、二重屋根をもつ明治中期頃までの典型的な車両で「マッチ箱」と呼ばれ、親しまれました。

これは、ハ4995号客車の内部です。機関車の方向に向かって撮影しました。ヨーロッパのコンパートメント車両のように、座席のそばのドアを開けて乗車する客車で、非貫通車両でした。写真からは見えませんが、製造当初は、照明は天井からのつり下げランプだったそうです。この木造客車も与謝野町指定の文化財です。

これも、与謝野町指定文化財の加悦鉄道4号蒸気機関車です。全長7.798m。大正10(1921)年、河東鉄道(大正15年長野電鉄と合併)が川崎造船所兵庫工場で製造した国産蒸気機関車です。昭和9(1934)年、長野電鉄から加悦鉄道に移ってきて、昭和27(1952)年まで運用されました。昭和44(1969)年に廃車。説明には「加悦鉄道の60年の歴史で、旅客・貨物輸送に最も活躍した蒸気機関車だ」書かれていました。

整備中で車庫に入っていたハ10号付随客車です。大正15(1926)年、大阪梅鉢鉄工所で製造された木造客車です。伊賀鉄道(現、近鉄伊賀線)が発注していた車両でしたが、加悦鉄道の開業に合わせて譲渡してもらったそうです。「二重屋根(後ろから一部が見えています)をもち、客室は二等車と三等車に分かれていた」と、「説明」に書かれていましたが、実際の運用は仕切りを外して、三等車(定員73名)として使用していたそうです。全長8.225m。加悦鉄道の開業時から昭和43(1968)年まで、旅客輸送に使用され、走行距離は619.360kmに達っしたといわれています。平成6(2014)年、新造された当時の姿に復元されました。整備を終えて展示場所の早く戻ってきてほしいものです。

ワブ3号(ワブ形有蓋荷物緩急車)です。大正5(1916)年、ト2号(ト1形無蓋貨車)として、大阪梅鉢鉄工所で製造されました。昭和18(1943)年加悦機関区で、ト2号を有蓋貨車に改造してワブ3に形式変更をしました。平成9(1997)年に大修理を行っているそうです。もとは屋根のない貨車を、現在の形に改造したもののようです。

ハ21号(ハ20形付随客車)。先にまとめたハ4995号付随客車(2号蒸気機関車に牽引されて展示されていた)の台車を使って、昭和10(1935)年福知山にあった北丹鉄道機関区で製造されました。三等車、定員32人、全長7.977mの客車です。

フハ2号客車です。木造欅(けやき)張り、加悦SL広場で最も軽量の木造客車。大正5(1916)年、名古屋電車製造所で製造されました。表面の塗装がはげていて木造の地肌が見えています。

加悦SL広場の中央に展示されていた手動の転車台です。与謝野町加悦庁舎(かつての加悦駅構内)の転車台があったところに円形広場(2015年8月21日の日記)が残されていることを思い出しました。

「昭和17(1942)年、大江山鉱山から精錬を行う岩滝工場まで、鉄道によるニッケル鉱の一貫輸送体制ができあがったことに呼応して、加悦駅構内に設置された」と、与謝野町加悦庁舎にあった説明に書かれていました。「宮地鉄工所製 20米下地路式」だそうです。

キハユニ51号ディーゼルカー(DC)です。昭和11(1936)年、芸備鉄道が日本車輌株式会社で製造しました。昭和12(1937)年、芸備鉄道が国有化され、キハニ40921となり、国鉄で使用されましたが、昭和27(1952)年、山口県の舟木鉄道に移りました。昭和36(1961)年舟木鉄道が廃線となるに伴い、昭和37(1962)年、加悦鉄道に移ってきました。加悦機関区で全面改修(キハ51となる)を行い、営業運転に入り、昭和60(1985)年の廃線まで活躍しました。その後、平成5(1993)年の大修理で、荷物室、郵便室を復元し、キハユニ51となりました。

これは、事務所の一角に設置されていた「鉱山駅」です。復元されたのかどうかはっきりしませんが、駅のホームらしい雰囲気が漂っています。

鉱山駅の脇に展示されていたキハ1018号(キハ10形内燃動車)ディーゼルカーです。昭和31(1956)年、国鉄が帝国車両で製造しました。全長20.000mの大型DCで、定員は92人だそうです。加悦鉄道には、昭和55(1980年)に移ってきて、昭和60(1985)年の廃線まで活躍しました。なお、キハ10形DCは、キハ17形DCの両運転台でトイレのついていないものの型式番号になっています。駐車場から事務所を見たとき、左側に見えていたDCです。

加悦鉄道で活躍した車両が指定されている11種の与謝野町文化財の車両を見て回りました。
60年に渡って営業してきた加悦鉄道だけに、蒸気機関車の牽引による客車や貨物、DCなど珍しい車両の宝庫という印象でした。特に、国指定重要文化財の加悦鉄道2号蒸気機関車は魅力いっぱいでした。
地元の人が資金を出して開業させた加悦鉄道は、そこで活躍していた車両群の活躍の場をこれからも守っていってくれることでしょう。

加悦鉄道大江山鉱山専用線跡を走る

2015年09月05日 | 日記
前回(2015年8月23日の日記)、旧加悦(かや)鉄道の線路跡に整備されたサイクリングロードである、加悦岩滝自転車道(京都府道803号)を丹後山田駅跡から加悦駅跡まで走りました。この日はさらに、加悦駅跡から大江山鉱山駅までの2,8kmを走り、鉱山駅跡に整備されている加悦SL広場を訪ねることにしていました。

旧加悦鉄道の加悦駅です。旧駅舎を180度回転させ前後を反対にして、現在地まで移動させてきました。このブログを書いているとき、メディアでは弘前城天守閣の移動のようすが報道されていましたが、木造の建物ならではの技術で、加悦駅も同じようにしてここまで移動してきました。

旧加悦駅跡に建つ与謝野町加悦庁舎です。その前の「与謝野町加悦庁舎」と書かれた看板のあるあたりに、かつて加悦駅舎がありました。昭和17(1942)年10月、専用鉄道岩滝線が開通して、大江山鉱山からニッケルの精錬工場である岩滝工場(現、日本冶金工業大江山製造所)まで、加悦鉄道によるニッケル鉱石の一貫輸送体制ができ上がりました。それに伴い、11月に加悦鉄道の構内に転車台が設置されました。「宮地鉄工所製 二十米下路式 手同式」と書かれており、地方鉄道としては最大級のものといわれています。加悦庁舎の中には、転車台跡の丸い土地がそのまま「円形広場」として保存されており、庁舎の裏には転車台の説明標がありました。

加悦駅跡にあった転車台の説明標です。庁舎の中の黄色く見えているところが、転車台跡に残された円形広場です。この転車台は平成8(1996)年、旧大江山鉱山駅構内につくられた加悦SL広場に移され、現在もかつての姿を伝えてくれています。サイクリングロードは、ここから庁舎を左に迂回して、庁舎の向こう側に出ます。

これは、自転車道を迂回した先から転車台跡のある加悦庁舎を撮影しました。庁舎は、転車台の形に丸みを帯びていることに気がつきました。

この日のコースをスタートしました。目の前に大江山連峰を見ながら、線路跡のサイクリングロードをレンタサイクルで走ります。右にある勾配標のように、このあたりはほぼ平坦な道でした。

稲穂が見え始めた水田の中を走ります。快適なサイクリングです。

10分ぐらい単調な道が続いた後に、橋を渡ります。旧大江山鉱山専用線の滝川橋梁跡に架かる橋でした。長さ23,6mだったといわれています。

旧滝川橋梁の名残を捜していると、すぐに見つかりました。橋桁がありました。赤い塗装がなされていましたが、かつての鉄道に架かっていた橋桁ではないかと思いました。

反対の左側からも撮影しました。加悦SL広場の見学をすませた後、旧加悦駅舎の鉄道資料館のスタッフの方にこの写真を見ていただくと、「ああ、これは橋桁が残っていますね」とのことでした。旧大江山鉱山専用線の唯一の名残です。このあたりから勾配が急になりました。

進行方向の右側に駅跡標がありました。「桜内駅跡」と書かれています。駅跡標には、「加悦1,4km、大江山鉱山1,1km」と書かれていました。加悦鉄道は昭和60(1985)年に廃止されましたが、それより以前、この大江山鉱山駅に向かう専用鉄道は昭和20(1945)年に休止線となっていました。昭和23(1948)年には加悦駅と大江山鉱山駅の間は「地方鉄道」としての旅客営業免許を受けて、翌年の昭和24(1949)年から営業運転を開始する計画になっていたそうです。しかし、乗客の利用に期待がもてないということで、計画倒れで、桜内駅は、結局、一度も営業されることはありませんでした。「幻の駅」に終わった桜内駅でした。

桜内駅跡標に載っていた、ニッケル鉱を運搬する列車の写真です。昭和17(1942)年に撮影された加悦行きの列車で、牽引している蒸気機関車は1088号機だそうです。どうやら、後ろ向きに運転しているようです。説明には、幻の駅、桜内駅は「写真の後ろ側、100メートルのところに設置されることになっていた」と書かれていました。

幻の駅、桜内駅にあった勾配表です。ちょっと見にくいのですが、この駅までが10,0、この先が15,2と書かれています。ここから先は、1000mで15,2m上っていく勾配になっていることがわかります。帰りもこの道を通って帰りましたが、下り道を、一度もペダルを踏むことなく走り続けることができました。

幻の駅、桜内駅跡を出たところにあった距離標です。加悦SL広場のある大江山鉱山駅跡まで、1kmと書かれています。さほど急坂とは思わなかったのですが、自転車のペダルが少し重くなった気がしました。

大江山鉱山駅跡が近づいてきました。かなりの急坂になりました。野田川橋梁(長さ19m)跡にかかる橋を渡ります。加悦鉄道が野田川を渡るのはこれで2度目になります。前回、丹波四辻駅を過ぎたところで渡ったのを思い出しました。

橋桁が残っていないかと覗いてみましたが、橋桁も橋台も新しいものが使われていました。橋上にあった勾配表です。ここから大江山鉱山駅方面は28,0と表示されていました。さらに急坂になりました。

工場と倉庫が見えてきました。かつては、この少し先の左側に乗降プラットホームがあったようです。そして、プラットホームの先で少し右にカーブして大江山鉱山駅の鉱石積込場に入っていっておりました。一方、サイクリングロードの方はこの先で左カーブになります。

サイクリングロードの終点です。右側にあった小高い丘の上に、加悦SL広場があります。かつての大江山鉱山駅の跡、広い敷地に車両が展示されています。目の前を左右に延びる道路を、右方向に進むと加悦SL広場の入口に着きます。

100mぐらい進むと加悦SL広場の入口です。橋梁をかたどった門には2両の客車を牽引するSLの姿がありました。

前回から引き続き、旧加悦鉄道加悦駅から大江山鉱山駅までの2,5kmを走りました。大江山鉱山跡に向かう上りの道でした。加悦鉄道の跡地はきれいに整備されていてサイクリングロードとしてはすこぶる快適な道でした。反面、加悦鉄道時代の面影はほとんどなく、やや残念な気もしました。私は、この後、加悦SL広場でSLや車両の見学を楽しむことにしていました。暑い中でしたが、天気もよくて快適な旅になりました。