トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

平成の大遷宮とパワースポット、出雲大社を歩く

2014年02月24日 | 日記

20年ぶりの遷宮をすませ多くの観光客が押し寄せる伊勢神宮ですが、それと並んで、現在、平成の大遷宮を粛々と進めているのが、出雲大社です。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀っている神社です。国引き神話で知られる出雲の国、現在の出雲市大社町にあります。

本殿の修理のため、平成20(2008)年から仮殿に移っていた御祭神が、昨年(平成25=2013年)5月10日、修理が完了した本殿に再度遷座する、「本殿遷座祭」が静寂の中で行われ、その様子はメディアによって全国に伝えられました。現在進行している平成の大遷宮は、平成28年3月まで続くことになっています。

出雲大社は、若い人たちには「パワースポット」として人気の高いところです。静かな境内には、良縁を願ってやってくる若い人たちがあふれています。この像は大国主命(おおくにぬしのみこと)と日本海の荒波を表現しています。大国主命の像をバックに記念撮影をする若い女性の姿が絶えません。

この日は出雲大社に参拝し、国引き神話で有名な稲佐の浜を訪ねることにしていました。JR出雲市駅の方から北に向かい、白い宇迦橋(うかばし)の大鳥居が見え始めたとき、小さな橋が架かる道路の右(東)側に、案内板を見つけました。

ここは、江戸時代、この地を治めていた松江藩の支配地と、出雲大社の神領を区切る土手があったところです。長さ1333mにわたってまっすぐな土手がつくられていたと書かれています。小さな川(用水路?)に沿って延びる道は、今もまっすぐ東西に延びていました。ここから先はかつて出雲大社の神領だったところです。

道路の左側に見えた神社風の建物は道の駅大社ご縁広場吉兆館でした。宇迦橋がかかる堀川の左岸(南)に建っています。ちなみに、堀川は左(西)に向かって流れ、吉兆館の先で日本海に出て行きます。

続いて見えた出雲市役所大社支所。こちらは堀川の右岸(北)に位置しています。

宇迦橋の手前左側にあった出雲阿国(おくに)像です。歌舞伎踊りの創始者として知られる女性、生い立ちは明確ではありませんが、出雲大社の巫女だったともいわれています。この歌舞伎踊りが後に歌舞伎として大成しました。

阿国像の向かいにあった国引きのレリーフ。新しい町づくりを進めるということで、「未来を拓く」というタイトルがつけられていました。

宇迦橋で堀川を渡ります。

その先にあった、一の鳥居、宇迦橋の大鳥居です。大正4(1915)年北九州の篤志家が松280本とともに寄進したものだと、説明板には書かれていました。鉄筋コンクリート造りで、高さ23m。柱の周囲6m。中央の扁額は畳6畳分の大きさだそうです。24mの高さの本殿に配慮して23mの高さにされたようです。

ここからは「神門通り」、出雲大社の門前町になります。商店街が続いています。リニューアルされた商家が多く、町の雰囲気は一変し、若い人向きの通りになっていました。「いずもそば」や「ぜんざい」と書かれたお店が目につきました。

通りを北に向かっていきます。道路の右側の商家の間に電車が見えました。一畑電鉄の出雲大社前駅でした。一畑電鉄は島根県の県都、松江市から宍道湖の北を西に向かって走り、出雲市駅や出雲大社とをつなぐ電車です。何年か前「RailWays 49歳で運転士になった男の物語」という映画の舞台になった鉄道です。そして、この駅は、映画の中で主人公が初めて電車を運転して到着した駅でした。

出発していった南海電鉄からの転籍車両であるデハ3018の電車の隣に、オレンジ色をしたデハニ52の電車が展示してありました。中に入ることもできました。

この車両は、昭和3(1928)年に製造された一畑電鉄のオリジナル車両です。その後、電車としての装備が付け加えられました。平成6(1994)年にはお座敷列車に改装されて有名になりました。平成21(2009)年に旅客運用から外れましたが、長く一畑電車で活躍してきた最古の車輌です。

車両の形式番号に「デハニ」と「ニ」がついているように、車両の一角に荷物を置くスペースがつくられています。この車両は「荷物車」の機能も備えた貨客電車だったのです。

正面からみた出雲大社前駅です。川跡(かわと)駅と出雲大社前駅間を結ぶ一畑電鉄大社線の終着駅です。大社線が開業した昭和5(1930)年、大社神門駅として開業しました。正面上部に白いドーム天井とステンドグラスがはめ込まれている西洋風のデザインで、当時としては大変モダンな駅舎だったと思います。かつてはこの中央上部に塔があったそうです。文化庁の登録有形文化財に登録されている駅舎です。今年で84歳を迎えます。

内部です。白を基調にした美しい駅舎で、外見より広々とした印象です。84歳の駅とは思えません。

一畑電鉄は「Railway」の映画の後、1割ぐらい乗客が増えたとのことでしたが、現在では以前の水準に戻っているとか、だから、こうした努力が続けられているのですね。

神門通りはその先の東西の道(「信仰の道」という愛称がついています)でとぎれます。二の鳥居がありました。

出雲大社の二の鳥居です。勢溜(せいだまり)の大鳥居です。勢溜(せいだまり)の正面鳥居とか、木製であるため「木の鳥居」とも呼ばれます。昔は、門前に芝居小屋などが建ちにぎわっており、「この勢いがとどまる」ということから、「勢溜」と命名されたそうです。

勢溜の鳥居の先は「下り参道」と呼ばれる下りの道になります。その先は松並木が続いています。

三の鳥居である松の参道の鳥居です。鉄製であるため「鉄の鳥居」とも言われています。この先が、樹齢400年ともいわれる黒松の並木が続く「松の参道」。道は3列に分かれていますが、真ん中の道は皇族や勅使(天皇の名代)などが通る道とされ使われず、両側の道が使われました。現在では「松の根」を保護するため、中央の道を通らないようにという案内がなされています。

四の鳥居につきます。銅製であるため「銅鳥居」とも呼ばれています。江戸時代の長州藩第3代藩主毛利綱広の寄進によるものです。寛文6(1666)年につくられたもので、国の重要文化財に指定されています。毛利氏の祖先は、出雲大社の宮司である出雲国造(いずもこくそう)家と同じ「天穂日命」だと案内には書かれていました。

その手前の左側に、大国主命とうさぎの像があります。因幡の白うさぎを救った大国主命の「慈悲の御神像」と呼ばれています。

その向かいの右側がパワースポットです。日本海の荒波に向かう大国主命の大きな神像、「ムスビの御神像」と呼ばれています。「ムスビ」は「縁結び」ということでしょうか?

四の鳥居の先からは出雲大社の境内といわれています。私は、四の鳥居の手前を右折して、荒垣にそって境内の東に向かいました。

広大な敷地をもつ屋敷が建っていました。「北島国造(こくそう)家」の屋敷です。出雲大社の祭祀を司る出雲国造家は、南北朝時代に千家国造家と北島国造家に分裂して幕末まで両家が祭事を二分して行っていたそうです。明治になってからは、千家国造家が執り行うようになっているそうですが、ここはその北島国造家の屋敷です。

門前に書かれているように、「教派神道」である「出雲教」の主宰者でもあります。この屋敷は松江藩主松平定安が安政6(1859)年に奉納されたものだそうです。

これは、北島国造家の前の社家通りです。出雲大社に仕える神職が居住しているところです。京都の上賀茂神社の社家の町並みに似た光景が続いています。

四の鳥居に戻ります。出雲大社の鳥居は中央を避け、少し左右に寄って軽く一礼してから入るのが正しいのだそうです。四の鳥居をくぐります。正面左に拝殿があります。現在の拝殿は、昭和34(1959)年に竣功しました。銅板拭きの屋根をもった木曽の檜材を使用した木造建築です。高さは12.9mあるそうです。出雲大社の参拝の作法は2拝4拍手1拝です。

正面に八足門(やつあしもん)。左右にそれに続く回廊が見えます。出雲大社の本殿は、荒垣、瑞垣(みずがき)、玉垣で三重に守られているといわれますが、この回廊が瑞垣です。八足門から中へは通常は入ることができません。

写真の正面にみえるのが、回廊にある観祭廊です。

真ん中の切妻の屋根が、国宝の本殿です。本堂の千木(ちぎ)が見えます。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が祀られています。出雲大社の本殿は大社造りといわれ、掘立柱に切妻屋根、妻入り、屋根の優美な曲線に特色があります。「社伝」によれば、太古、垂仁天皇の時代に創建されたとされていますが、現在の本殿は延享7(1744)年に建立されました。高さは8丈(24m)あり、神社としては破格の大きさだそうです。天井には7つの雲の絵が描かれているそうです。

これは西側から見た本殿です。祭神の大国主大神は、本殿内の北東におられ西を向いておられるそうです。そのため、「こちら側から参拝するのが正しい」と地元のガイドの方はお話しされていました。なお、伊勢神宮の遷宮は20年ごとに新しい本殿を造って祭神がお遷りになるそうですが、出雲大社の遷宮は概ね60~70年ごとに行われ、屋根の葺き替えと千木(ちぎ)の修理などいたんだところの修理をして、再度還っていただくのだそうです。

拝殿の前の地面に宇豆柱(うづばしら)の大きさが表現されていました。平成12(2000)年の発掘により、直径3mにもなる柱が3カ所から発見されました。これは1.4mの杉の柱を3本束ねており、宝治2(1248)年建立の本殿の柱だといわれています。

これは、東側の十九社です。旧暦10月11日から17日まで、日本全国の八百万(やおよろず)の神は出雲に集まり神議(かむはかり)を行います。そのため、神無月の10月は、出雲では神在月(かみありづき)といわれます。出雲に滞在している時の宿泊場所がこの十九社だそうで、東西に1社ずつ建っています。ちなみに、神明通りでたくさん見かけた「ぜんざい」は神が滞在されている「神在(しんざい)」が出雲地方の方言であるズーズー弁のために「ぜんざい」と発音されたことから名づけられたものだそうです。

旗をもって説明されていた地元ガイドの方のお話では、「東の十九社には東日本の神々がお泊まりになり、西の十九社には西日本の神々がお泊まりになります」とのことでした。この期間は十九社の19ある扉がすべて開けられるのだそうです。写真はその扉です。

本殿の西側に広大な敷地の屋敷があります。これが、現在の出雲大社の祭祀者、千家国造家の屋敷です。北島国造家と同じように、千家国造家も、明治12(1879)年教派神道の「出雲大社教」を起こしましたが、昭和26(1951)年出雲大社と出雲大社教が一体化しました。現在、千家国造家が出雲大社の宮司として出雲大社教もあわせて主宰しています。

大きな注連縄が門前を飾っていました。

千家国造家と出雲大社の間に、大きな注連縄で飾られた神楽(かぐら)殿があります。明治12(1879)年に千家国造家が教派神道である出雲大社教を創設したとき、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに始まりました。

入り口には、「神光満殿」と書かれています。注連縄は長さ13m、周囲9m、重さは5トンもあるそうです。この注連縄の下側にお金を突き刺そうとする人が多かったため、それができないように、覆いが掛けてありました。

出雲大社をゆっくりと近くで説明をお聞きしながら歩きました。この後、国引き神話や神議(かむはかり)に参加する八百万の神が上陸する稲佐の浜を訪ねました。これまで何回かお詣りしたことがありましたが、これほどゆっくり歩いたことはありませんでした。地元ガイドの方の説明も聞こえて来て、ほんとうにいい勉強になりました。まだまだ続く「平成の大遷宮」の行方も見守っていこうと思いました。




着工から17日で開業、旧宇品線の面影を求めて

2014年02月15日 | 日記

現在のJR広島駅です。かつて、この駅から現在の広島港(宇品港)に向かう鉄道がありました。旧国鉄宇品線です。この鉄道は、明治27(1894)年8月4日、日清戦争(1894)の軍事物資の輸送のため、陸軍省の依頼を受けた山陽鉄道が敷設工事を始め、16日後の8月20日に宇品港までの5.9kmが完成しました。そして、その翌日の21日から開業した鉄道です。超がつくほどの突貫工事でした。日清戦争の開戦の時期であり緊急に整備する必要があったからでした。日露戦争からその後の太平洋戦争にいたる時代、軍事輸送路として重要な地位を占めた路線でした。一方で、山陽鉄道、芸備鉄道、国鉄と運行者は替わりましたが、一般乗客の輸送にも使用されました。しかし、役所の移転や広島電鉄との競争などによる乗客の減少によって、昭和45(1970)年には営業係数が4,049(100円の営業収入を得るために4,049円の経費がかかる)と国鉄全線の最悪となり、昭和61(1986)年に廃止になってしまいました。

以前、広島電鉄の路面電車に乗ったとき「広島港(宇品)」の行先表示を見て、宇品線の線路跡を訪ねてみたいと思っていました。 さて、写真は広島駅の1番ホームです。山陽本線を西に向かう列車が出発していきます。ホームの東(岡山側)方面の右(南)側に駐車場になっているところがありますが、ここが、かつての宇品線の線路があったところです。

広島駅の案内所で、市街地図をいただき、大まかなルートを教えていただいてからスタートしました。南口を出て左に向かいます。駅と並んで建っているフタバ図書の建物の前を進みます。

フタバ図書を過ぎたところで、建物の裏に回ります。先ほどホームから見た宇品線の線路跡の現在のようすです。宇品線は、明治30(1897)年に山陽鉄道が陸軍省から借りて一般営業を開始しましたが、明治39(1906)年に国有化されます。その後、第一次世界大戦のため軍事専用線になりますが、昭和5(1930)年、芸備鉄道が国から全線を買い受け、旅客の取扱いを再開しました。そして、昭和12(1937)年芸備鉄道が国有化され宇品線も国鉄の路線になりました。駅の新設や駅名の変更も、このような節目ごとに行われてきました。ただ、廃止されてから、かなり時間が経過していることもあり、もとの線路跡をたどることよりも、宇品線の名残を訪ねて歩く旅になりました。

その先にある愛宕踏切です。

愛宕踏切の脇にある横断陸橋から西側の広島駅方面を撮影しました。左側の舗装されたところが線路跡だそうです。

これは、愛宕の横断陸橋から見た反対(東)方向です。荒神町の跨線橋です。このあたりに、昭和5(1930)年愛宕口駅が設置されました。昭和12(1937)年には安芸愛宕駅に改称されています。広島駅から0.4kmのところにありました。

愛宕踏切から東に向かって、山陽本線の線路に沿って歩きます。天神陸橋の先から少しずつ線路から離れ、正面に見える新しい市民球場であるマツダスタジアムに向かいます。マツダスタジアムの手前のゆったりとした右カーブを道なりに進みます。

マツダスタジアムを過ぎると、やがて球場前西交差点に入ります。昭和24(1949)年からは交差点は立体交差となり、線路の下を道路がくぐる形で交差が行われていました。その先、川の手前に、昭和5(1930)年に設置された大須口駅がありました。安芸愛宕駅から0.8kmのところです。

猿猴(えんこう)川にかかる平和橋を渡ります。段原地区に入ります。

平和橋を渡ったあたりに、東段原駅があったようですが、その場所はまったくわからなくなっていました。東段原駅は大須口駅から0.2kmのところに、昭和5(1930)年に設置されました。いただいた地図では、この先、宇品線線路跡はここからまっすぐ南に進んでいました。写真の右下に、小さく公園が見えます。段原平和橋南緑地です。その右の道を南に進みました。

緑地の右の道を南に進んでいます。その先で、東西に走る道を迂回して渡り、さらにまっすぐ進みます。

段原南第四公園を過ぎてさらに進むと、マンションの前にモニュメントが見えました。ここまで来る前に、南段原駅跡をすでに通過しているはずでしたが、残念ながら場所を特定することはできませんでした。

段原南第五公園です。南段原駅の駅標と動輪と線路が飾ってありましたが、もちろんかつての駅跡ではありません。南段原駅は、昭和5(1930)年、芸備鉄道が国から宇品線を借り受け旅客営業を再開したとき「女子商前」駅として設置されました。「女子商」とは広島女子商業学校(大正14=1925年設立)のことで、ここより少し西にある段原ショッピングセンターのところにあったそうです。 駅は、昭和12(1937)年に改称されて、南段原駅になりました。東段原駅から0.4km(広島駅から1.8km)のところにありました。

マンション側からの入り口にあった子どもの像。「宇品線広場」のプレートがつけられていました。冬ですので、子どもは服を着せられマフラーで防寒していました。

ここを右に行くと、すぐ比治山通りにぶつかります。

比治山通りに面して、広島南警察署段原交番がありました。

交番の裏にあったモニュメントと大きな柳の木。「惜別 宇品線記念碑」と記されていました。

再度、比治山通りから引き返し、その一つ東の通りを進みます。比治山公園に立つ鉄塔を右に見ながら、南に向かってさらに歩きます。

やがて、左側にレンガ造りの建物が見えてきます。広島大学医学資料館です。ここから、広島大学霞キャンパス。 広島大学病院の広い敷地が広がっています。ここには、戦前、陸軍の兵器支廠がありました。この医学資料館は、兵器支廠のレンガを一部利用してつくられたといわれています。

これは、現在もこの近くに残っているレンガ造りの倉庫です。広島大学病院からさらに南に進んだ右(西)側の、現在、県立皆実(みなみ)高校や県立広島工業高校がある一画には、戦前は陸軍の被服支廠が置かれていました。このレンガづくりの倉庫は大正2(1913)年に竣功した、当時「10番庫」と呼ばれていた建物なのです。現在も皆実高校の西、出汐二丁目4番の地に堂々とした姿をとどめています。

昭和7(1932)年、芸備鉄道は広島大学病院の正門の西側に「兵器支廠前停留所」を設置しました。国有化とともに「比治山駅」と改称しましたが、やがて運行そのものが休止してしまいます。戦後になって、この地に、昭和22(1947)年「上大河(かみおおこう)駅」が設置され復活し、宇品線の廃止までこの地にありました。南段原駅から0.4km、広島駅から2.4kmのところでした。

一方、「上大河駅」は戦前にも別にありました。芸備鉄道が、ここより300m南(出汐三丁目9番の交差点の手前)に、昭和5(1930)年に設置した「被服支廠前停留所」が、昭和12(1937)年芸備鉄道が国有化されたとき「上大河駅」と改称されました。しかし、この「上大河駅」はこの広島大学病院にあった駅が「上大河駅」になった時に、廃止されてしまいました。つまり「上大河駅」という駅名は、戦前はもっと南にあった駅の名で、戦後は広島大学病院の正門近くにあった駅の名になっていったというわけです。

上大河駅のあった広島大学の霞キャンパスから南に進むと、やがて国道2号線を渡ります。

さらに、出汐三丁目9番の信号も直進します。この手前に、戦前の一時期、「上大河駅」がありました。

さらに進みます。進行方向の右側、「西旭町集会所」の建物が見えました。ここが、宇品線の「下大河(しもおおこう)駅」の跡でした。上大河駅から0.9kmのところにありました。集会所の庭に「ポッポ広場」が整備されていました。

色があせていましたが、地面にSL(蒸気機関車)の姿が描かれていました。

さらに、南に進んでいきます。道路がゆるやかな左カーブを描く右(西)側にあった翠町小学校と翠町児童館。その先の東(左)側には広島南警察署がありました。

翠町児童館の向かい(東側)に宇品線のモニュメントが残っています。信号機にレール、踏切の停止棒、手動のポイント切り替え機などが、かつての宇品線のようすを伝えてくれています。

広島南警察署の向かいに、レールは撤去されていましたが、線路跡が残っていました。永年放置されており草が生い茂っていました。

丹那駅の駅標がありました。昭和5(1930)年、芸備鉄道が「丹那停留場」を設置しました。昭和12(1937)年に国有化され丹那駅と改称しました。下大河駅から0.5km(広島駅から3.8km)の距離にありました。

駅の正確な位置はわかりませんが、広島南警察署の交差点より少し南の西側にあったといわれていますので、このあたりなのでしょうか?

これは、旧丹那駅舎の写真です。駅標に掲示されていました。1面1線で、線路の東側にホームと改札機能だけをもつ駅舎があったそうです。右方向が宇品方面になります。

線路跡の痕跡を捜しました。道路との境に境界石がありました。間違いないですね。

草に覆われた中に枕木を見つけました。やはり、ここは線路跡です。ここに来て、やっと宇品線の痕跡を見つけることができました。

線路跡を歩きます。丹那駅跡は地元の意向で「花壇と菜園」に使われています。

ランニングコースとしても整備されています。

また、パークゴルフ場としても使われています。

かつて、この通りには、枕木を立てた境界がつくられていました。現在は撤去され線路跡に積み上げられています。

線路跡の両側にある広大なマツダの工場を結んでいる輸送管の下に、下丹那駅の駅標が立っていました。下丹那駅は、昭和9(1934)年芸備鉄道によって「人絹裏停車場」として開業されました。「錦華人絹」(後の大和紡)の広島工場にちなんで命名されたそうです。昭和12(1937)年、芸備鉄道の国有化によって、下丹那と改称されました。丹那駅から0.9km(広島駅から4.7km)のところにありました。

これは、下丹那駅標に掲示されていた気動車、キハ04 106号車です。この先も、両側に広がるマツダの巨大工場を見ながら歩くことになりました。終点の宇品駅までは、1.2km。前方に見える広島県高速道路3号線の高架を見ながら歩きました。宇品駅跡は、現在、高速道路や宇品インターチェンジになっているそうです。 広島駅から5.9km、宇品線の終点です。

軍事鉄道として、超突貫工事で建設された宇品線は、旅客輸送にも使われるようになってから駅が設置されました。しかし、駅間の距離は短く、下丹那駅・宇品駅間を除いて、すべて1km未満です。路面電車の感覚で利用してもらおうと考えていたのでしょうか。線路跡や駅跡が残っていたら、ずいぶん楽しいウオーキングになったと思いますが、道路建設などで様相が変わってしまっていて、当時の線路跡をたどることさえも困難な状況でした。一番印象に残ったのは、かつての「被服支廠」のレンガ造りの倉庫が残っていたことです。現在、4棟が残っているそうですが、宇品線の痕跡がほとんどなくなっているなか、せめてこれだけは残しておいてほしいと思ったものでした。








日本で最も短い路面電車、岡山電気軌道

2014年02月09日 | 日記
広島市街地を走る日本一の路面電車、広島電鉄に乗った日(「日本一の路面電車、広島電鉄に乗る」2014年1月28日の日記)、今度は日本で一番短い路面電車が気になり始めました。中国地方で広島市に続く政令指定都市である岡山市を走る岡山電気軌道(岡電)の路面電車です。岡山市の住人である私には身近な存在です。

これは、岡山電気軌道の各電停に掲示されている路線図です。岡山電気軌道には二つの路線があります。一つは本線ともいうべき東山線(緑のラインで表示)です。岡山駅前から城下(しろじた)電停、西大寺町(さいだいじちょう)電停、中納言電停の先でカーブして、岡山市の東南にある東山電停までの3.1kmを走ります。もう一つは清輝橋(せいきばし)線(赤いラインで表示)。途中の柳川(やながわ)電停の先で右折して、清輝橋までの1.7kmを結んでいます。2路線合わせて4.8km。日本一の路面電車である広島電鉄は35.1kmですから、7分の1の規模になっています。なお、軌間は1067ミリを採用しています。

JR岡山駅東口前の南北の通りをはさんだ先に、岡山電気軌道の岡山駅前電停があります。岡山電気軌道は、明治45(1912)年に西大寺町電停まで、大正12(1923)年に現在の東山電停までが開業しました。 年間輸送人員は356万人(2011年度)で、日本一の広島電鉄の輸送人員約3700万人の10分の1程度しかありません。

JR岡山駅の一番街(地下街)から階段を上って電車乗り場に向かいます。

階段を上がるとすぐ乗り場につきます。向かって左側が清輝橋線。右側が東山線の乗り場です。

東山行きの電車が出発を待っていました。「大手まんじゅう」の広告を載せた昭和61年アルナ工機製の7601号車でした。岡山電気軌道の路面電車は、岡山駅前から東にまっすぐ延びる桃太郎大通りの中央部を走っています。保有車両は21両だそうです。

東山線に乗車しました。通勤時間を過ぎており乗客は数人でしたので、運転席方面の車内を撮影しました。もちろん、ワンマン運転です。東山線は、終点東山電停までに、西川緑道公園・柳川・城下・県庁通り・西大寺町・小橋・中納言・門田屋敷の8つの電停に停車します。東山線は5分間隔(ラッシュ時は3~4分おき)で運行しています。

乗場してから7分ぐらいで県庁通り電停に着きます。ここで、100円を払って下車します。この先は140円の区間になります。 5分間隔での運行ですので、次々に電車がやってきます。車両のチェックをすることにしました。

黒一色の車両が来ました。岡山城(烏城=うじょう)を模して「烏の濡れ羽色」の黒で塗られている愛称「くろ」、3007号車です。「くろ」を含む3000形は、昭和44(1969)年東武鉄道から移籍してきた車両です。現在3両残っているそうですが、そのうちの1両です。ちなみに、3000形の1両は東武鉄道在籍当時の塗装に復元されています。この日は、東山電停付近にある車庫で待機していました。

これは「TAMA電車」。平成21(2009)年から走っています。これは、和歌山県の和歌山・貴志間を走る和歌山電鐵貴志川線の貴志駅の駅長、「たま」のキャラクターが35匹描かれています。和歌山電鐵は元南海電鉄の路線で、岡山電気軌道が経営を引き継いでいることで知られています。7001号車は、昭和55(1980)年のアルナ工機製、元は呉市交通局の車両だったそうです。

こちらは、同じ岡山電気軌道の「TAMAバス」です。電車と一体となって街に「うるおい」を与えてくれています。バスの正面の耳が見どころです。

次にやってきたのが、7300形の7302号車。昭和58(1983)年アルナ工機製で、2両在籍しています。どちらも呉市交通局から移ってきた車両の改造車だそうです。

続いて、7901号車。この7900形は、平成元(1989)年から5両が導入されましたが、その1号車のようです。

これは、県庁通り電停と次の西大寺町電停の間で撮影した7501号車。昭和60(1985)年アルナ工機製です。

同じ場所で撮影しました。市街地循環バスの「京橋めぐりん」と並んで信号待ちをしている「TAMA電車」です。

西大寺町電停に並んだ7901号車と3007号車(くろ)です。この先で、東山線は左にカーブして、江戸時代の旧山陽道を走ることになります。

西大寺町の先のカーブを曲がる7301号車。先ほどの7302号車の兄弟車両です。

山陽道だった道路を東に向かい、京橋を渡り西中島へ、さらに中橋をわたり東中島へ入ります。写真は、旭川にかかる3つめの橋、小橋を渡り東山に向かう3007号車(くろ)です。「くろ」の裏に見えるオレンジ色の橋は新京橋、岡電の撮影スポットとして知られているところです。

撮影スポットからの岡電車両です。背景に烏城といわれる岡山城と岡山県庁、さらに背後に笠井山の姿が見えます。

小橋を渡ると中国銀行小橋支店の前にある小橋電停に着きます。西大寺町電停と小橋電停の間の距離は約600m。岡電の電停間で最長区間になっています。小橋電停には安全地帯が設置されていません。乗客は路上にある緑色のスペースで乗降します。岡電で安全地帯がないのは、次の中納言電停との2カ所だけです。

東山行きの電車は小橋を出ると、次は中納言電停に着きます。小橋電停と中納言電停の間は約100mで、岡電の中で最も電停間の距離が短い区間になっています。中納言電停も安全地帯が設置されていません。線路の左にあるのは、広栄堂武田(手前)と広栄堂本店(右側)です。どちらも岡山名物「安政3年創業 きびだんご」で知られています。旧山陽道は広栄堂本店の角で左折して北に向かっていました。岡電はここを右折します。写真は、岡山駅前に向かう7401号車。昭和59(1984)年、アルナ工機製の車両です。

中納言電停を右折すると新京橋につながる道路と合流します。そこを左折すると、江戸時代の牛窓往来に入ります。現在も岡山市西大寺地区(旧西大寺市)を経て牛窓に向かう県道です。その東山峠の手前に、岡電東山線の終点、東山電停があります。東山電停の左側にあるのが、岡山電気軌道電車事業部の事務所です。

このとき、岡山駅前から戻ってきた電車がホームに入ってきました。7002号車、TAMA電車の兄弟車両です。岡山駅前から15分ぐらいかかりました。

東山電停の先で線路は左右に分かれています。どちらも車庫に入る線路です。

右に向かう線路の先にある車庫。県庁通りの電停で見た7302号車が休憩していました。その奥に、東武鉄道時代のオレンジと淡い緑色の塗装に復元された3005号車が休んでいました。「くろ」の兄弟車両です。

これは左側の車庫にいた車両です。県庁通りで出会った7901号車でした。

東山電停に戻って来た電車はそのまま先に進み、すぐに引き返し、手前の岡山駅前行きのホームに入りました。待っていた乗客を乗せて再度岡山駅前に向けて出発していきました。

7002号車のボディに描かれていた地元TV局の広告です。ワイドショーのキャスターが描かれていました。パッケージ広告は、全国の路面電車の貴重な収入源です。路面電車が街に溶けあった風景なら、広告もまた街の顔になっています。

最後に、岡山電気軌道を代表する花形車両として、”MOMO”と”MOMO2”があります。”MOMO”は公募によって命名され、平成14(2002)年に運行を開始しました。超低床の路面電車です。最近話題の「ななつぼし」など、JR九州の多くの車両の設計をされた、岡山市出身の水戸岡鋭治氏の設計による車両です。水戸岡さんの設計らしく、内部は木をふんだんに使ったデザインで知られています。しかし、”MOMO”は、平成24(2012)年6月、右折する自動車と衝突し、重篤な損傷を負いました。長い修理期間を経て、1年後の平成25(2013)年6月に復帰しました。

写真は柳川交差点で右折している”MOMO2”です。”MOMO”の兄弟車両、”MOMO2”は、平成23(2011)年から運行しています。どちらも新潟鉄工(現新潟トランシス)で製造されました。(2012年6月6日の日記)

路線の総延長4.8kmという日本で最も短い路面電車である岡山電気軌道。その東山線の3.1kmに乗って来ました。5分おきに走る「待たずに乗れる」電車です。日本一の路面電車、広島電鉄のように多くの乗客であふれているという状況ではありませんが、手軽に乗れる市民の足として頑張っていました。