トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

再度、井笠鉄道神辺線を歩きました

2013年06月23日 | 日記

先日、旧井笠鉄道神辺線(「神辺線」と書きます)の跡地を、神辺駅跡から井原鉄道井原駅まで歩きました(2013年6月11日の日記)。しかし、振り返って、おしゃべりに夢中になったり、前方を行く人についていくことに気をとられて、きちんと見ていないところがありました。残念な思いが残っていました。最近、近くに行く機会がありましたので、再度歩いてみることにしました。

JR伯備線の清音駅から井原鉄道に乗って、「子守唄の里高屋駅」で下車しました。ここは、かつての井笠鉄道高屋駅があったところです。そこから、旧井笠鉄道の一つ西の駅だった旧両備金光駅方面に向かって歩きました。心残りを感じていた広島県と岡山県の県境を、確認したいと思っていたからです。しばらく行くと、平行して走る国道313号線沿いの「井原第一クリニック」のビルが右手に見えました。県境の確認は、道路の方がやりやすいと思い、国道313号線に出て西に向かうことにしました。

すぐに、道路の左に標識が見えました。「広島県福山市」。県境です。

その先で振り返ると、「岡山県」「井原市」、「子守歌の里 井原市」の標識が見えました。写真の右側に見えるのが井原鉄道の高架です。


二つの標識の間には、細い用水路が流れていました。この用水路が県境のようです。

用水路のそばに、県境のマークが見えました。間違いありません。

用水路をたどると、井原鉄道の高架下まで続いていました。井原鉄道は、ここで県境を越えます。
この写真は、高架下から国道に向けて撮影しました。岡山県の県境の標識は用水路のすぐ右側に建っていることがわかります。

高架下の県境の用水路には、蓋がかけてありました。かつての神辺線は、井原鉄道の高架下を走っていましたので、神辺線も、ここで県境を越えていたようです。

見落としていた一つの県境が確認できましたので、ここから井原鉄道の「子守唄の里、高屋駅」に引き返すことにしました。

「子守唄の里高屋駅」です。かつて神辺線の高屋駅があったところです。駅の北側に、「子守唄の里の碑」がありました。ここ高屋の地域に歌い継がれてきた子守唄を、当地出身の声楽家、上野耐之(うえのたいし)が、昭和3(1928)年の春分の日に、作曲家山田耕筰の前で独唱しました。

それを聞いた山田耕筰は感動し、譜面に写し「中国地方の子守唄」として発表しました。「ねんねこしゃしゃりまーせ この子のかわいさ・・・」という歌い出しの「中国地方の子守唄」が全国に広まっていく契機となりました。上野耐之は、平成13(2001)年に亡くなるまで、明治、大正、昭和、平成を通して、声楽家として活躍しました。駅の少し北に、上野耐之の生家跡が残っていました。

これは、前回いただいたパンフレットに載っていた写真ですが、高屋川橋梁を渡っている神辺線の車両を撮影したものです。二つ目の心残りは、この写真にある橋梁が特定できなかったことでした。

これは、「子守唄の里 高屋駅」にあった案内用の地図です。この地図を見てさえいれば、駅のすぐ先にあった高屋川を渡ることがわかっていたはずです。ほんとに不注意でした。

駅を出て東に高架下を進むと、すぐに高屋川にぶつかります。高架下に橋が架かっていないので左側に平行して走る国道313号線を迂回します。高屋川大橋から見た橋梁跡です。かつては、ここに橋脚が残っていたそうです。今は、何も痕跡が残っていませんでした。なぜ、歩いていたときに、高屋川を渡ったことを覚えていなかったのか、いまでも不思議に思います。

さらに東に進み、井原鉄道いずえ駅に着きます。ここは、かつての神辺線の下出部(しもいずえ)駅と出部(いずえ)駅の中間に設置されています。

いずえ駅から、井原線の高架に沿ってさらに東に進みます。右側に点々と、水揚げ用のポンプがありました。どのポンプにも「ご自由にお使いください」と書かれています。墓参用に使ってくださいというメッセージです。このあたりは、「伏流水が多く、どこを掘っても水が吹き出す」ということでした。いずえ駅から15分ぐらいで、岩山
神社に着きました。

岩山神社のそばを走るかつての神辺線の写真です。いただいた資料の中にあったものです。

こちらは、岩山神社の石段の登り口からみた井原鉄道の高架です。少し違うところもありますが、あの神辺線の列車は、岩山神社の石段付近から神辺線を撮ったもののようです。
さて、この写真は、踏切で道路を横断している神辺線の列車です。
上の踏切があったところの最近の様子を撮影した写真です。三菱車の販売店か整備工場があったところのようです。これも、いただいたパンフに載っていた写真ですが、今回は、この場所がどこか特定したかったのです。
「岩山神社を過ぎると、神辺線はゆるやかに左カーブを描いて現在の井原鉄道から離れて進んでいた」という話をお聞きしました。高架から離れ、写真の正面の民家と電柱の間の道を進みます。

そのまま進み、道なりに左折して進みます。その先に赤い看板がついたたこ焼きやさんがありました。ソフトクリームを買って食べながらお話しをうかがうと、すぐ近くに神辺線に詳しい方がおられるとのことでした。

この写真は、たこ焼きやさんの付近から、進んで来た方向を写したものです。右側の赤い縦の看板のある雑貨屋さんとそのむこうの民家との間の道を、右から道路に入って来ました。雑貨屋さんの手前右の建物が、三菱のマークこそありませんが、修理工場の跡のようです。古い写真にあった神辺線の踏切は、雑貨屋さんとその先の建物の間を右から左に渡り、左の民家の中に向かっていたようです。

たこ焼きやさんから紹介されたYさんは、すぐ近くの民家に住んでおられる方で「私は、神辺線の線路の上に住んでいます」とおっしゃっていました。正面の民家の上を線路は通っていました。

上のたこ焼き屋さんの左の道を進みます。この先を右に進みます。

右折した後は、まっすぐに進みます。

その先で、広い通りにぶつかります。神辺線は、写真の交差点から大きく緩やかに左にカーブしながら、現在の井原バスセンターに向かっていました。今では完全に市街地になっていて線路跡をたどるのは不可能です。

井原バスセンターです。神辺線の井原駅はここにありました。旧井笠鉄道の東西方向の本屋に対して、ホームが南北に1島つくられていました。かつての神辺線は、島のホームの左側の2番ホームに入っていました。また、東側にあった1番ホームには、笠岡行(井笠鉄道本線)の列車が入っていました。

現在のバスセンターは、本屋に対して南北に、バスのプラットホームがつくられていました。廃線後、バスを運行していた井笠鉄道は経営破綻して、現在は、岡山市の両備バスが路線を引き継いでいます。

今回は、前回きちんと見ていなかった、県境の確認と踏切の跡、井原駅跡を確認しました。気になっていたことがある程度明確になりました。井原バスセンターから南にまっすぐ延びる道路を進み、その突きあたりにある井原鉄道の井原駅に向かって帰途につきました。

旧井笠鉄道神辺線跡を歩く

2013年06月11日 | 日記

これは、岡山県西部を走る第3セクターの井原鉄道のディーゼルカーです。JR伯備線清音(きよね)駅から西に向かい、矢掛・井原を経由して広島県東部のJR福塩線神辺駅までの高架上を、江戸時代の西国街道(山陽道)に沿って走っています。

井原線の神辺駅です。ここは、井原線が開通する以前に、旧井笠鉄道神辺線(以下「神辺線」と書きます)の神辺駅があったところです。この日は「旧井笠鉄道神辺線の跡地を歩く」イベントに参加して、神辺駅跡から井原線井原駅までを歩くことにしていました。

JR神辺駅です。神辺線神辺駅は、JR福塩線神辺駅の東隣にありました。神辺線は神辺駅を出るとJR福塩線と並走します。

線路に沿った道がないので、迂回して、駅前を東に向かって歩きます。 さて、明治時代、岡山県西部の井原町(現井原市)は紡績業で、その西にある高屋町(現井原市高屋町)は機業で知られていました。この二つの町は神辺町や福山市との結びつきが強かったため、交通の整備が期待されていました。

通りに出ると右折します。前の分岐を左側に進みます。福山と高屋を結ぶ鉄道建設をめざして創建された両備軽便鉄道は、大正3(1914)年、福山・神辺・府中(現福塩線)間を完成させ営業を開始しました。一方で、井笠鉄道本線(笠岡・井原間)は、大正2(1913)年営業を開始していました。

しばらく歩くと、高屋川にかかる橋に向かいます。 両備軽便鉄道は、さらに大正11(1922)年神辺・高屋間(高屋線)の7.8kmを開業させます。また、井笠鉄道は、大正14(1925)年井原・高屋間4.0kmの営業を開始しました。こうして、井原と神辺の間は、井原・高屋間が井笠鉄道線、高屋・神辺間が両備軽便鉄道でつながることになりました。軌間はどちらも762ミリでした。

高屋川にかかる橋を渡ります。西には、JR福塩線と井原鉄道の鉄橋が見えます。昭和8(1933)年、国(鉄道省)は両備軽便鉄道の福山・府中間を買収します。後に1067ミリに改造され、国鉄福塩線になります。残った神辺・高屋間は新会社(神高鉄道株式会社)を設立して営業しましたが、昭和15(1940)年井笠鉄道が買収しました。こうして、神辺・高屋間の11.8kmが、井笠鉄道神辺線となりました。
これは、いただいた資料に載っていた写真を転載しました。神辺線もここを走っていました。「客車はまさにマッチ箱」と書かれていましたが、ほんとにそう感じます。写真の左にある樹木が同じ場所に見えています。
その先で、右折して井原鉄道の高架をくぐります。ここからは井原鉄道に沿って進みます。井笠鉄道は、その後、27年に渡って営業を続けますが、モータリゼーションの進展による乗客の減少のため、昭和42(1967)年神辺線は廃止されます。その路線は、平成11(1999)年1月11日、井原鉄道の開業によって復活します。

高架下に、神辺線の橋の跡がありました。かつての用水路にかかる橋の跡でした。井笠鉄道は、一日13~15往復、40~50分の運行間隔(閑散時の昼の最大間隔は1時間50分程度)で出発しており、神辺・井原間を29分ぐらいでつないでいました。

歩き始めて30分ぐらいで、井原鉄道湯野駅に着きました。この手前に、神辺線の湯野駅がありました。

お世話をしてくださっていた方にお聞きしますと、神辺線の湯野駅は白いガードロープの手前にあったようです。痕跡はまったく残っていませんでした。

写真は、湯野駅のすぐ東にあった神辺線のコンクリート橋の跡です。かつては橋の上に枕木が並んでいたとお聞きしましたが、今は何も残っていませんでした。神辺線には、このような、用水路にかかる小さな橋が多かったようです。

井笠鉄道神辺線には9駅が設置されていました。神辺・湯野・国分寺・御領・両備金光・高屋・下出部・出部・井原の9駅でした。現在の井原鉄道は、神辺線の線路跡に建設されていますが、神辺線は湯野駅と国分寺駅の間は少し南を走っていました。私たちも、湯野駅の東の橋跡から南に迂回します。神辺線の跡
はたどることができません。迂回して10分ぐらいで、右手に「美の鶴酒造」の白壁の土蔵と煙突が見えてきました。さらに進みます。

少し北に進むと、右側に神辺線の線路の路盤跡が残っていました。
反対の左側には橋脚が残っています。雑草がおおっていて以前の姿がよくわかりませんでした。

さらに進みます。

住宅地の中にある線路跡を10分ぐらい進むと、神辺線の国分寺駅跡に着きました。神辺線でホームの跡が残っているのはここだけだそうです。花こう岩の敷石の上にうすくコンクリートが流してありました。

再び、井原鉄道の高架下に出て先に進みます。10分ぐらいで、井原鉄道御領駅に着きます。この駅舎の北側に神辺線の御領駅がありました。

御領駅から先も、神辺線は井原鉄道の高架の下になっています。高架に沿って東に進みます。かつてのコンクリート橋の跡が残っていました。用水路で分断されていました。

これも、コンクリート橋跡です。

レールで補強されたコンクリート橋跡です。
御領駅から30分ぐらい歩くと、かつての両備金光駅の跡に着きました。進行方向左側に駅舎があったそうです。「両備」はかつての両備軽便鉄道の名残でついているのでしょうか?「金光」は近くに金光教の教会があったからだといわれています。

周囲を見渡すと、金光教の教会のマークが見えました。神辺線では通常ディーゼルカーに木造客車が1両をつないで運行していましたが、彼岸の中日の「ひのしり参り」のお祭りには客車を1両増結して3両で運行されていたそうです。

両備金光駅を出ます。高架下の道が続きます。高架下は駐車場や物置など様々に使われていました。ここは、町内会のごみの収集場所になっていました。

高架下を利用するときの標示。高架の橋脚に貼り付けてありました。

何気なく歩いていてはっとしました。左側のビルの屋上に「井原第一クリニック」と書いてあるのに気がついたからです。県境をいつのまにか越えて岡山県に入っていました。湯野駅のあたりで、県境をまたいで家を建てている方のお話を地元の方がしておられましたが、確認できませんでした。

また、高架に沿って進みます。両備金光から15分ぐらいで、井原鉄道「子守唄の里高屋」駅に着きました。神辺線の高屋駅もここにありました。かつて井笠鉄道が買収する以前は、神辺からここまでが両備軽便鉄道、ここから東の井原までが井笠鉄道が運行していました。 昼食になりました。

このあたりの代表的な企業タカヤ。かつて、井笠鉄道の大株主がタカヤの小会社だったようですね。ここの先代社長が集めた絵画500点を展示したのが華鴒(はなとり)美術館だそうです。神辺出身の日本画家金島桂華の作品を中心に展示しています。

「子守唄の里高屋」駅の南にあった華鴒美術館です。中に、華道上田宗箇15代家元の設計という日本庭園の華鴒園もあります。

「中国地方の子守唄の発祥の地」の碑です。

「子守唄の里高屋」駅を出てさらに高架に沿って進みます。
これはいただいた資料の中にあった写真です。残念ながら、この場所を特定することができませんでしたが、神辺線に二カ所あった比較的大きな鉄橋です。高屋・下出部間にあった鉄橋を渡る神辺線の列車です。こちらの川も高屋川と呼ばれていました。

「子守唄の里高屋」駅跡から25分ぐらいで、お世話をしてくださっている方が待っておられました。出部(いずえ)駅跡に着きました。その前に下出部(しもいずえ)駅もあったばずなのですが、気がつきませんでした。説明もありませんでしたので、位置が特定できないのでしょうか。

これは、世話をしてくださっている方が持っていた写真集ですが、そこに書かれていた駅舎です。進行方向の左側にあったようです。

こちらは、駅への道を示す道標です。旧西国街道(山陽道)からの駅に入るところにある道標でした。横にお酒のケースが並んでいます。

駅跡から、左(北)に50メートルぐらい進むと右角に建っていました。これが実際の道標です。右の道が駅に向かう道。手前が旧西国街道(山陽道)です。裏に「昭 十 七 建」と刻まれていました。昭和10(1935)年7月に建てられたもの(?)のようです。

旧西国街道(山陽道)です。ほとんど人通りがありませんでした。

出部駅を出ても、同じ高架の下を歩きます。

出部駅を出るとすぐ岩山神社の中を横切ります。

解散地点の井原鉄道の井原駅に向かいます。岩山神社では高架でしたが、いつのまにか道路上を井原鉄道が走っています。

そして、井原駅に着きました。出部駅から10分ぐらいでした。

旧井笠鉄道神辺線(ここでは「神辺線」と書きました)は、廃線になって47年目を迎えます。今回は、神辺から井原まで11,8kmを50人ぐらいの人と一緒に歩きました。残念ながら、当時の面影を残しているところはほとんどありませんでした。井笠鉄道という企業自体も、平成24(2012)年11月12日に経営破綻して現在破産手続き中です。すべてが過去のものになってしまった印象です。一緒に歩いた井原鉄道を愛する人たちのためにも、ほんのわずか残っている橋梁やホームを、今しばらくこのまま残しておいてほしいと思ったものでした。

旧倉吉線の線路跡を歩く

2013年06月04日 | 日記

現在のJR山陰本線の倉吉駅。近代的な駅舎です。かつては上井(あげい)駅と呼ばれていましたが、昭和47(1972)年に倉吉駅と改名されました。かつて、この倉吉駅から、倉吉市の中心市街地を通り、さらに南の山守(やまもり)駅を結んでいた鉄道がありました。旧国鉄倉吉線です。残念ながら、昭和60(1985)年3月31日に廃止になってしまいましたが・・・。
かつての倉吉駅のようすです。以前、倉吉淀屋の邸宅を訪ねたとき(2013年5月13日の日記)、タクシードライバーから、旧倉吉線の跡地の話をお聞きしました。そのときから一度歩いてみようと思っていました。天気予報は雨。いつ降り出してもおかしくないような天候の中を、倉吉駅に向かいました。写真は、倉吉線鉄道記念館に展示されていた、かつての倉吉駅の写真です。

JR倉吉駅の鳥取方面寄りのホームです。この南側から、かつて倉吉線が出発していました。
昭和55(1980)年の倉吉駅発の倉吉線時刻表です。1日12本、通勤・通学時間帯を中心に運行されていたようです。
かつてのホーム跡は、現在はバスターミナルになっています。倉吉線は、明治45(1912)年、倉吉市街地の打吹(うつぶき)駅(開通当時は倉吉駅)と山陰本線倉吉駅(開通当時は上井駅)を連絡する目的で倉吉軽便線として開通しました。 ついに雨が降り始めました。

雨の中を、バスターミナルから山陰本線に沿って歩きます。駅の東にある倉吉アーバンホテルを過ぎると、右カーブが始まります。道なりに進んでいきます。倉吉線は、大正11(1922)年に公布された「改正鉄道敷設法別表」で「岡山県勝山ヨリ鳥取県倉吉ニ至ル鉄道」(南勝線)と規定されていました。姫新線の中国勝山駅から温泉地の湯原、中国山地の蒜山を経由して倉吉駅に至る路線とされていました。
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駅方面から来た対向二車線の道路を渡り、パン屋さんが入居されている建物の先を進みます。倉吉線は、太平洋戦争中、蒜山高原にあった陸軍演習場までの兵員輸送のために、昭和16(1941)年に関金(せきがね)駅まで延伸、さらに、昭和33(1958)年には山守駅まで延長されました。全長20kmの鉄道でした。

用水路の樋門の先にあった白い民家の左側にある、舗装されていない道が、倉吉線の線路跡です。線路も枕木もすでに撤去されており、路盤だけが残っています。
切石が積まれている小さな橋を渡りました。雨がひどくなって来ました。さらに進みます。線路跡は舗装されており道の両端は雑草が生い茂っていました。

線路跡を進み、4車線の道路を渡ります。右側にボーリング場がありました。

さらに進みます。やがて、線路跡は堤のように1段高くなります。
よく見ると、雑草の中にバラストが残っていました。

舗装が途切れ、線路跡は緩やかなに登っているように感じます。雨はますます激しくなり、下半身はびっしょり雨にぬれ靴の中もぐちゅぐちゅ音を立てているような不快感を感じるようになりました。線路跡を進むのを断念し、平行して走る堤の下の道を進みます。

鉄橋が見えてきました。切石が積み上げられた橋台は倉吉線の面影をしっかり残していました。

橋台には、先ほどの鉄橋と同じように切石が積んでありました。

線路跡は、この後、天神川にかかる竹田鉄橋に向かって登っていきます。隣の道から見上げると、線路跡に黒く見える物体が見えました。

かつての信号機器庫でした。平行する道を登りきると天神川の土手になります。

土手道から見た線路跡です。下を走る津山街道と立体交差していた架道橋の橋台が残っていました。

その先の天神川です。かつて、ここには竹田橋梁が架かっていました。

これは、旧打吹駅跡にある倉吉線鉄道記念館にあった、かつての竹田橋梁の写真です。しかし、今は、かつての面影を残すものは何も残っていませんでした。天神川の土手には激しく風が吹いています。傘が吹き飛ばされそうになる中を、上流の竹田橋を迂回して天神川を渡りました。

向かいの土手を歩いていたとき、「上灘」の名前のついた建物(上灘荘)を見つけました。倉吉駅を出た倉吉線の最初の駅「上灘(うわなだ)駅」が近いことを感じました。風と雨にいじめられていましたが、少し元気が出てきました。竹田橋梁の着地点と思われるところまで帰って、左方向に進みます。

これまでと同じ、舗装された線路跡を進みます。ちなみに、倉吉線には、倉吉(2.4km)上灘(1.8km)打吹(2.6km)西倉吉(2.0km)小鴨(1.8km)上小鴨(4.6km)関金(3.0km)泰久寺(1.8km)山守の9駅がありました。駅の間の数字は駅間の距離を示しています。

道路を渡ってすぐに玉川にかかる橋を渡ります。

橋の左側に倉吉線の新玉川橋梁の橋台が残っていました。護岸工事をしたときに残してくださったのでしょうね。

以前に訪れたとき、タクシードライバーから「天神川からはサイクリング道として整備されている」とお聞きしていたとおり、ここから先は、サイクリングロードになっています。雨は降り続いていましたが、風はほとんど感じません。少し、歩きやすくなりました。

道なりに進むと、白い塔が見えてきました。そして、左側には白い建物があります。上灘駅跡です。白い建物はトイレ兼休憩所でした。

前に回ると、「倉吉線上灘駅跡地」の碑が建っていました。後ろは、トイレのある建物です。

かつての上灘駅の駅舎です。鉄道記念館にあった写真です。

さらに道路を渡って、次の旧打吹駅に向けて進みます。雨は降り続いていましたが、このあたりから、雰囲気がずいぶん明るくなってきました。
線路跡は彫刻が並ぶ文化的な通りになっていました。「だんらん」と名づけられた彫刻です。

近代的な雰囲気のサイクリングロードです。しかし、私には、かつての倉吉線の雰囲気とは少し違うのかな?とも感じられました。倉吉線は「最も表定速度が遅い鉄道」として知られていました。また、昭和59(1985)年まで客車と貨車をともに牽引する混合列車も走っていました。印象としては、ひなびた、素朴な鉄道という雰囲気が漂っていたようですから・・・。
車道に近い部分がサイクリングロード。内側がウオーキングロードです。

サイクリングロードとウオーキングロードに分けて、タイルも異なるものが貼られていました。快適な線路跡になっています。
国道を別れて進みます。静かな道です。天候のせいかまったく人通りがありません。真ん中に大きな岩石が置いてあります。これも彫刻でした。

交差する南北の道が岩石の間を通っています。
その先で、線路跡は行き止まりになります。旧打吹駅の跡地に着きました。左側に建てられていたのが倉吉線鉄道記念館です。中には、かつてのディーゼル機関車(DL)や倉吉線の写真や記念の品が展示してありました。

正面から見た倉吉線鉄道記念館。中には管理されている方はおられませんでした。自分で灯をつけて見学し灯を消して出て行くシステム。内部はきちんと整理されていました。マナーのいい方ばかりが見学されているのでしょう。

倉吉線鉄道記念館に展示されていた旧打吹駅の写真です。駅前から通りがまっすぐ走っています。

これが現在の通りです。前回、訪ねたときタクシードライバーに教えていただいたのですが、この正面の、かつて倉吉線で活躍したSLのC1175が静態保存されているるあたりに旧駅舎があったようです。昭和49(1974)年まで、SLが牽引する列車が運行されていたようです。

今回、機会があれば、タクシードライバーとお話ししたいと考えていました。すぐ近くの営業所には、この日、タクシーが一台も客待ちをしていませんでした。雨なのでお忙しいのでしょう。また、予定では、この日、少なくとも西倉吉駅までは、線路跡を歩こうと思っていたのですが、雨のためしんどくなりました。残念ですが、旧打吹駅までで今回は止めることにしました。時間があったので、赤瓦・白壁土蔵地区を訪ねることにしました。

倉吉線は、国鉄民営化(1987年)より前に廃止されました。比較的地味な印象だった鉄道ですが、廃止後28年目の今も、多くの市民から大事にされています。それが、何よりうれしいことでした。