トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

予讃線の天井川トンネル、大明神川トンネルを訪ねる

2016年07月24日 | 日記

長年気になっていた大王製紙の専用線を見た日(2016年7月15日の日記)、JR伊予三島駅から松山方面に向かう普通列車に乗りました。めざす駅はJR伊予三芳駅。伊予三芳駅が開業したのは、予讃線が伊予桜井駅まで開業した、大正12(1923)年のことでした。

伊予三島駅から、1時間15分。列車の前方に、このところ見慣れた光景が見えてきました。今治小松自動車道路の高架下を、平べったいほぼ水平に見える地形の下をくぐるトンネルの姿です。山地の多い日本にあっては、列車にはトンネルがつきものです。しかし、日本で最初につくられた鉄道トンネルは、山岳地帯ではなくJR東海道線の大阪・神戸間にあった石屋川トンネル(「日本で最初の鉄道トンネルの跡地を歩く」2016年6月19日の日記)でした。六甲山系から大阪湾に流れる天井川の下をくぐる鉄道で、明治7(1874)年に開業しました。

列車は、跨線橋のようなトンネルをくぐりました。このトンネルは大明神川トンネル。大正12(1923)年に開業した大明神川の川底をくぐる天井川トンネルでした。石屋川トンネルの開業から、約50年後に開業しました。私は、このところ、JR東海道線の芦屋川トンネル(もう一つのJR東海道線天井川トンネル跡」2016年6月3日の日記)や住吉川トンネル(「跨線橋の上に川が流れていた」2016年5月27日の日記)などの天井川の下をくぐるトンネルを訪ねて来ました。今回は、四国の予讃線にある天井川トンネルである大明神川トンネルを見るため、ここまでやってきました。

全長65m。大明神川の川幅だけのトンネルです。あっという間に、大明神川トンネルを抜けて、やがて列車は2面2線のホームをもつJR伊予三芳駅に入りました。丸い屋根の駅舎が進行方向の左側にありました。

JR観音寺駅からJR松山駅まで3時間半かけて走り抜ける普通列車は、すぐに出発して行きました。松山駅まで、まだ1時間半以上も走り続けないといけません。

駅舎の中です。すみずみまで掃除が行き届いている駅舎には、座ぶとんが置かれています。地元ボランティアの方々のご尽力があればこその駅舎です。ガラスの向こう側には、地元ボランティアに対するJR四国の社長からの感謝状が掲示されていました。

天井川トンネルに向かって出発しました。振り返って見た駅前ロータリーです。

この案内図は、駅前ロータリーからまっすぐ進んだ消防署のところにあったものです。天井川である大明神川が、案内図の下(南)から上(北)に向かって流れています。先ほどくぐって来たトンネルは、案内図の上(北)の下流側にありました。

左折して「天井川大橋」の方に向かって歩きます。道路に沿って住宅が並んでいます。

やがて、天井川大橋が見え始めると登坂になり、登り切ると天井川大橋でした。

天井川大橋の真ん中から見た大明神川です。天井川らしく、たくさんの土砂が堆積しています。川は瀬戸内海に向かってゆったりと流れていました。

大明神川を渡って、大明神川の右岸を下流(北)に向かって歩くことにしました。

天井川大橋の東詰めを左折し、川の堤につくられた道路を歩きます。川の向こうに、今治小松自動車道の高架が見えています。

視線を右に移すと、堤の下の民家が見えました。民家の屋根が道路より低いところにあります。川が土砂をたくさん堆積するため、流域の人たちは洪水を防ぐため高い堤防をつくります。しかし、川の堆積する力が強いため、洪水をふせぐためには堤防をさらに高くしないといけません。こうして、現在のような集落の姿になっていったのです。

目の前に今治小松自動車道の高架が見えました。大明神川トンネルは目の前です。

自動車道の先の大明神川です。流れが急激に下っています。おそらく、ここがトンネルの下流側(北)の端にあたる部分でしょう。

流れが急激に下っているところから見た東側、伊予三島駅方面です。まっすぐな線路が続いています。

右岸の道路から、伊予三島駅方面に向かって降りて行きます。向こうに見えるのは山中踏切です。

線路のすぐ脇から見た大明神川トンネルです。ここから見ると想像もできませんが、トンネルの上を大明神川が流れているのです。

再び、堤の上の道路に戻り、下流(北)側に向かいます。天井川大橋の一つ北に架かる六高(ろくこう)橋です。この橋を渡り、大明神川の左岸に渡ります。

六高橋から見た大明神川です。水量はありましたが、流れはさらに細くなり、写真の右側の部分だけになっています。

大明神川の左岸に渡りました。そして、道路から降りて、トンネルの西側の坑口を撮影しようと思いました。しかし、残念ながら、草が生い茂っていてうまくいきません。

再度、道路に戻り、左岸を上流(南)側から下に降りていきます。自動車道の下に、撮影できるところがありました。トンネルの西(松山)側の坑口を、やっと撮影することができました。

そのとき、松山行きの普通列車が大明神川トンネルを抜けて、伊予三芳駅に向かって通過していきました。

伊予三芳駅に向かって戻ることにしました。トンネルと伊予三芳駅の間にあった六反地(ろくたんち)踏切。脇にある器具庫には、「129K762m」と書かれていました。高松からの距離のようです。

六反地踏切の道路脇にあったお地蔵さまです。「昭和43年9月建立」と刻まれていました。手を合わせ、帰路の安全を祈って伊予三芳駅に向かいました。帰路は、JR伊予西条駅、観音寺駅、多度津駅で区間列車を乗り継いで、JR坂出駅まで、乗り継ぎ時間も含めて3時間超の旅になります。

四国にある天井川トンネルを見るため、ここまでやってきました。予想通りのトンネルで、また一つ、経験を積むことができました。いつものことですが、暴れ川の天井川と共存するために、創意工夫を繰り返しながら対策を講じ続けて来られた近隣の人たちの努力に思いをはせる、そんな旅にもなりました。
 

大王製紙の専用線を見てきました

2016年07月15日 | 日記
JR四国の幹線であるJR予讃線。何回も往復しているのですが、通過するたびに気になっていた施設がありました。

これが、その施設、大王製紙専用線です。JR予讃線のJR川之江駅とJR伊予三島駅の間にありました。予讃線は、明治22(1889)年、讃岐鉄道として丸亀駅・多度津駅間が開業したのに始まります。その後、国有化され、川之江駅までは大正5(1916)年に、伊予三島駅までは大正6(1917)年に開業しました。

伊予三島駅から、歩いて訪ねることにしました。伊予三島駅は、昭和50(1975)年に橋上駅になりました。写真は「製紙工場の煙突の見える四国初の橋上駅」と謳われた伊予三島駅の駅舎です。

伊予三島駅の南口からスタートしました。すぐに県道124号の交差点に着きます。左折して進みます。四国中央市役所や愛媛新聞社の建物を見ながら進むと、幸町(みゆきちょう)交差点で、国道11号に合流します。ここも左折して進みます。

やがて、右手にサークルKサンクスと「天然記念物下柏の大柏」が見えてきました。大きな幹をした柏の木がありました。

大柏前の交差点を左折して、「セレモニーホール柏翠」のある道を進みます。

交差点から5分ぐらい歩くと、予讃線に架かる跨線橋が見えてきました。ここに、大王製紙の専用線がありました。

跨線橋から見た、単線で電化されている予讃線の川之江駅(高松駅)方面です。この跨線橋が、専用線の東端のようです。

跨線橋から見えた、反対側の伊予三島駅方面です。予讃線の線路が続いています。その右(海)側に専用線のヤードが広がっていました。

視線を右に移しました。一番左が予讃線の線路。そこから、5本の側線がありました。2本目の側線に青色の機関車が見えます。3本目と4本目の側線には黄色の機関車が留置されているのが見えました。

一番右の線路が見にくいのですが、「大王製紙専用線」と書かれた建物の下から出てコンクリートのたたきの中に敷設されています。写真の右側の線路が5本目の側線です。まだ、施設内では大きな動きはありませんでした。

2本目の側線に留置されている入れ替え用の機関車です。

側面に「日本通運」と書かれているのがみえます。日本通運宇摩支店大王製紙専用線営業所が、実際の業務を請け負っているそうです。機関車の手前には「NO1」と書かれていました。ネット上にあった「懐かしき鉄道の記録」(kagatetukki.blog.jp/tag)によれば、NO1機関車は、「平成26(2014)年、王子製紙北王子から転属してきた。25トン車」だそうです。

手前が、3本目の側線にいた機関車。「NO2」とありました。右側は、4本目の側線にいた「NO3」機関車です。

「NO2」機関車は、運転席の後ろに5つ並ぶ窓に特徴があります。「昭和46(1969)年日車製15トン車(製造番号2973)、NO3の導入後には予備機になっている。平成26(2014)年日通色に塗装されて、きれいになった」(「「懐かしき鉄道の記録」)そうです。

4本目の側線にいたNO3機関車です。これは、NO2機関車と同型で「昭和56(1981)年製、日車製15トン車。製番3332、D15-2.平成20(2008)年頃大王製紙専用線に来て主力機として活躍した。NO1機関車が来て予備機となった」(「懐かしき鉄道の記録」)とのことです。NO3機関車は塗装が剥がれているので古い感じがしましたが、NO2機関車の方がもっと古かったのですね。もちろん、すべて、ディーゼル機関車でした。

跨線橋の下から西に向かって歩きます。専用線の西側の端にある梅の木踏切です。「76K194m」と書かれていました。高松駅からの距離のようです。

これは、梅の木踏切から見た西(伊予三島駅)側です。左が予讃線、右側が1本目の側線の続きです。予讃線から側線に入る引込線もありました。

梅の木踏切から見た専用線です。側線はカーブして5本目の側線(以下⑤と書きます)に向かっています。最初に1本目の側線(同①)が分岐、さらに①の先で、2本目の側線(②)が分岐、②から3本目の側線(③)が分岐、さらにその先で、4本目の側線(④)が分岐しています。

大王製紙の専用線を訪ねて行ったのですが、実は入れ替え作業が見えるのかどうか自信がありませんでした。唯一の手がかりが「JR貨物時刻表」にあった、3075列車の存在でした。この「時刻表」は、平成26年のもので、敬愛する友人からいただいたものでした。今も同じような時間帯で走っていてほしいと願っていたのです。

そのとき、おそらく日本通運の職員の方だと思いますが、②に泊まっていた青色のNO1機関車を始動させました。「やった!」と思いました。期待した動きが始まったのです。

きっと、貨物列車が来るはずです。予讃線の川之江方面を見ながら待ちます。ついに、EF652068電気機関車に牽引された貨物列車がやってきました。8両のコンテナ車両を牽引していますが、伊予三島駅に向かって1両目と4両目にあたる車両には、コンテナは搭載されていませんでした。この列車は、「JR貨物時刻表」によれば、高松貨物ターミナルを7時54分に出発して、ここまでやってきたようです。終着駅の伊予三島駅には、10時05分に到着することになっています。

先ほどの貨物列車が伊予三島駅から引き返して来ました。伊予三島駅で機関車を付け替えて戻って来た列車は、梅の木踏切のところの引込線から①に入ります。ちなみに電気機関車が入っていけるのは、電化されている①と②と⑤の側線だけのようです。

やがて、貨物列車は①に停車しました。手前の線路は、JR予讃線です。

②に待機していた、NO1機関車が、長いウオーミングアップを終えて動き始めました。

NO1機関車は、②から①に入ってバックします。NO1機関車の運転台は横向きなので、前後に動くのに適しています。運転士は同じ場所で前に後ろに自在に機関車を操っています。そして、停車している貨物列車の後ろ(伊予三島駅側)4両を連結し牽引して前進します。

NO1機関車が牽引する列車は、梅の木踏切を越えて停まりました。1両目と4両目にはコンテナは搭載されていません。

ここからはバック運転になります。先頭になる車両に職員が乗って、安全確認をしながら進みます。

動き始めました。左側にはたくさんのコンテナが置かれています。ゆっくりと列車はNO1機関車に押されて進みます。

NO1機関車が押すコンテナ車両は一番端の⑤に入っていきます。姿が屋根の下で見えなくなるまで押し込んでいきます。

やがて、連結を外してNO1機関車が動き始めました。

NO1機関車はそのまま進んで、梅の木踏切の上で停車しました。

そして、高松貨物ターミナルからやって来たコンテナ車両が停車している①に入って進みます。

NO1機関車は、8両の車両のうち残っていた4両を連結し、牽引して伊予三島駅側に向かって進んでいきます。

そのまま、梅の木踏切を越えて停車します。先頭になるコンテナ車両の前に職員を載せて後ろから
押し始めます。行き先はもちろん⑤。先に入った4両が待っているところです。どうやら、8両を一度に運ぶのがスペースの関係で難しいので、2回に分けて行っているということのようです。

NO1機関車は⑤で連結を解除した後、再度、動き始めました。梅の木踏切の手前まで進み、停車します。

この間、①で停車していた貨物列車をここまで牽引してきたEF652068電気機関車が動き始めました。伊予三島駅方面に向かってゆっくり進みます。定位置の②に向かうNO1機関車とすれ違いました。

EF652068機関車は梅の木踏切で停車し、今度は、⑤に向かって進みました。コンテナが止まっている前で停車しました。

貨物列車のすべてのコンテナ車両が⑤に入って作業が一段落した頃、予讃線の線路上を、松山駅に向かう特急しおかぜ5号が通過していきました。

梅の木踏切を北に渡り、大王製紙の高層住宅の間を抜けて専用線の裏(北)側に回ります。目の前に、⑤に移ったコンテナが見えました。実は、この日は、もう一か所訪ねたいところがありました。貨物列車の入れ替え作業も見学したので、次の訪問先をめざしてJR伊予三島駅に戻ることにしました。

来た道を引き返してJR伊予三島駅に着いて、びっくりしました。先ほど、大王製紙の専用線で見たEF652068が、ホームの北側にある0番線の側線に停まっていたからです。⑤のコンテナ車の前に行ったので、そのままコンテナを積み込んで出発するまで停車しているものと思い込んでいたからです。こんなことになるのなら、電気機関車を見送ってから、伊予三島駅に戻ればよかったと後悔しました。 伊予三島駅から高松貨物ターミナルへ向かう列車3074列車の出発時間は15時33分。大王製紙の専用線へ迎えに行くまでの3、4時間程度の休息を、ここでとることになります。


以前の有蓋車による輸送から、現在のコンテナ輸送に替わったのは、昭和63(1988)年のことでした。大王製紙の三島工場は、紙・板紙の生産量が年間230万トンという、日本最大の紙・パルプ一貫工場として知られています。その入れ替え作業のようすを見学することができたのはラッキーでした。訪ねてきて、ほんとうによかったです。何より、「JR貨物時刻表」に載っていた平成26年当時と、貨物列車の到着時刻が変わっていなかった幸運に感謝しました。

旧東海道石部宿を歩く

2016年07月04日 | 日記
東海道石部宿は、東海道の51番目の宿場として知られています。「京立ち、石部泊り」といわれ、京都を出発した旅人が最初に宿泊する、京都から1日の距離にある宿場町でした。

この日は、JR草津駅から草津線の電車で石部駅に向かいました。

草津駅から10分ぐらいで、めざす石部駅に到着しました。駅の近くでは資料が手に入らなかったので、とりあえず石部宿の入口の落合川橋に向かうことにしました。

石部駅前の取り付け道路をまっすぐ進み、写真の右の狭い道を進み、突き当たった道が旧東海道でした。左折して、旧東海道を東に向かって歩きました。

この日はすごく暑い日でした。ゆっくり歩いて30分、落合川橋に着きました。「これより石部宿」と書かれた看板が見えました。

石部宿の中心部に向かって、歩いてきた道を引き返しました。すぐに、「石部東」の交差点に着きました。ここに「東海道石部歴史民俗資料館」の案内がありました。かつての宿場の姿が復元された「石部宿場の里」があると聞いていたので、行って見ることにしました。石部宿に関する資料もいただけるのではないかと思ったからでした。

資料館までかなり距離があって、汗びっしょりになりながら石部中学校の近くの坂を登って、資料館の入口に着きました。事務所で350円の入場券をを購入。資料もたくさんいただきました。順路にしたがって、「石部宿場の里」に入りました。期待していたのですが、「宿場の里」はこの一角がそのすべてでした。右側が茅葺の農家の建物、左が白漆喰がまぶしい商家の建物でした。写真では見えないのですが、左側の一番奥に「安眠米倉庫」が復元されていました。

復元された一里塚の間を抜けると、目の前に東海道石部歴史民俗資料館がありました。資料館にはスタッフは一人もおられませんでした。しかし、参観するには不便はありませんでした。館内は「撮影禁止」でしたので、写真はありませんが、宿場町を再現した模型には感動してしまいました。

再び、汗びっしょりになって、石部東の交差点に帰ってきました。石部宿の中心部に向かって歩きます。旧街道はほぼ東西に走っています。資料館にあった展示資料では、旧東海道の道幅は2間(3.6m)から3間半(6.3m)ぐらいだったそうです。幅4mぐらいの旧街道の両側の民家はほとんど建て替えられていて、静かな住宅地といった雰囲気でした。

交差点から5分ぐらい、旧街道の左側に「東の見附跡」の案内が立っていました。「道路の中央付近まではみ出していた、幅3m、高さ2mの台場。見附は、番兵が通行人を見張ることから呼ばれた」と書かれていました。もちろん、今はその面影はありませんでした。

案内に添えられていた写真です。石垣のある土塁が見えます。道路の中央に張り出していて、通行人を見張っていたことがよくわかります。宿場の端に置かれていたのが見附ですから、正確にはここからが石部宿ということになるのでしょう。  

資料館にあった「石部宿町並図」を見ると、街道沿いには旅籠屋や商家だけでなく、「百姓」と書かれている家がたくさんありました。城下町とは異なり、宿場町には農家の方も居住していたのです。神社や寺院は、街道から少し奥まったところにあり、参道が通じていました。ここは吉姫神社です。女性の神様が祀られており、旧街道の先にある吉御子神社と対になっているそうです。

真宗大谷派寺院の西福寺の参道です。さて、東海道は、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6(1601)年に、江戸・京都間の人馬と情報の往来幹線として開かれました。天保14(1843)年の記録(「東海道宿村大概帳」)によれば、東西15町3間(1.6km)の石部宿には1606人(男808人 女798人)が居住しており、本陣2軒、旅籠32軒を含めて458軒の家屋がありました。

白漆喰がまぶしい豪邸がありました。その続きに「竹内酒造株式会社」のプレートが見えます。「香の泉」知られる酒造会社です。

すぐ先が、県道113号を渡る「石部中央」の交差点です。その名のとおり、石部宿の中心だったところです。

交差点の左側(南側)の手前(東側)に小さな「道の辺広場」がありました。小さな資料館といってもいいスペースで、石部宿にまつわる出来事が説明されていました。

「お半 長右衛門」には、今も歌舞伎や人形浄瑠璃で上演されている「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」のもとになった、石部宿での出来事が説明されていました。「京都の帯屋の主、長右衛門は、伊勢参りの途中、石部宿の出刃屋に宿泊しました。そこで、丁稚の長吉に言い寄られていたお半をかくまったことから二人は結ばれることになりました。しかし、長右衛門には妻がおり、悩んだお半は死を選び、長右衛門もその後を追ったということです。出刃屋は、ここから、少し西の方にあったということです。

「安眠米倉庫」は、明治13(1880)年、この地の服部善七が創設した制度で、「稲の植え付け時に食べ物のない農民に、安眠米を1農家に1俵貸し付け、収穫時に年貢として5升納める」というものでした。ちなみに、この5升は教育費として使われたそうです。安眠米倉庫は、ここから50mほど東に設置されていたということです。写真は、「石部宿場の里」に再現されていた安眠米倉庫です。

県道113号を向こう(西側)に渡ります。県道の西北の角にある電柱に「問屋場跡」の案内が掛かっていました。「問屋場」は荷駄の継立業務を担っていた役所です。石部宿では、問屋役、年寄役、帳付(ちょうづけ)、馬指(うまさし) 人足指(にんそくさし)の5人の役人が詰めていたといわれています。

石部中央の交差点の北西角にあったヤマサキデイリーストアです。問屋場はこのお宅のある場所に置かれていたそうです。

これは、石部中央の交差点から少し南に進んだところにあった井戸です。約400年前の江戸時代に掘られた井戸だと伝えられています。水道が来る前には近隣住民の命の水でした。その後、地元のロータリークラブが水質検査を実施した結果、「大腸菌は少しあったが煮沸すれば異常なし」とされたということです。

石部中央交差点から、さらに西に向かいます。チリリンという風鈴の音がきこえたので覗いてみると、風鈴が民家の軒下に吊るしてありました。このお宅には、多くの人形や手作りの風鈴が軒下に飾られていました。そのとき、ちょうど帰ってこられたご主人が「持って帰りな!」と、ビニール袋に手作りの飾りを一つ入れてくださいました。

お礼を申し上げて歩き始めたら、このお宅の隅に「三大寺本陣跡」の説明が置かれていました。江戸時代初期の、寛永5(1628)年から明治3(1870)年まで、240年に渡って営業していた本陣でした。天保13(1842)年の記録には、138坪の広さだったと書かれているそうです。膳所藩の代官の勧めによって、膳所藩直轄の本陣を拝命したようで、「文久年間街並図」では、「本陣 三大寺小右衛門」の名が書かれていました。

「いしべ宿驛」という名の休憩所です。「1階には囲炉裏と土間、2階には畳と板間がある」といただいたパンフには書かれていました。ゆっくり、休憩するのに最適の場所なのだそうです。私は休憩なしで歩き続けることにしました。

ひときわ目立つ「明治天皇聖蹟」の石碑のあるお宅が見えてきました。ここが、幕府直轄の本陣、三島本陣跡です。寛永5(1628)年に創建され、承応元(1652)年に、膳所藩主の本多俊次(としつぐ)・康将(やすまさ)の2代に渡る小島氏の顕著な奉公により、膳所藩主から本陣職を許されたそうです。 石部歴史民俗資料館にあった絵図には、明治天皇(当時16歳)の行幸のときには、小島金左衛門が、本陣役を勤めていたようです。

邸宅の前の旧街道には「石部本陣跡」の石碑が見えています。大きい方の石碑にあるように、明治天皇が行幸の際に宿泊したほか、江戸幕府13代目将軍である徳川家茂(いえもち)が上洛の際に宿泊しています。また、後に江戸幕府最後の将軍となる一橋慶喜(よしのぶ)も、上洛の時に小休止しており、幕末の歴史を飾る人々にも利用されている由緒ある本陣でした。興味深いのは、丹後宮津藩主はなぜか本陣に泊まらず、ここよりさらに江戸寄りの三雲の植木屋を常宿としていたことです。

振り返ると、間口に比べて奥行きの長い、宿場町特有の商家が見えました。

三島本陣から、5分ぐらいのところで旧街道は右折します。城下町や宿場町に多い桝形になっているのです。正面にあった「でんがく茶屋」です。天保3(1832)ごろ、歌川広重が石部宿のシンボルとして描いたところだそうです。平成14(2002)年旧石部町制百周年記念事業の一環として再現されたそうです。

でんがく茶屋の左側の道をまっすぐ進むと、先に見た吉姫神社と対になっている男性の神様を祀る吉御子神社があります。石灯籠には「京へ→ 右 東海道」と書かれています。案内に従って、ここで、右折して進みます。

10分ぐらいで、東西の道路にぶつかります。右側に「鉤(かぎ)の手道」の案内がありました。「敵がむやみに侵入しにくい構造になっている。石部宿には街道に8か所の交差点があって、宿内を見渡せない遠見遮断で防御の役割を果たしていた」そうです。左折して、再び、西に向かって歩くことになります。

左折して、西に向かって歩くと、やがて左に南に入る道がありました。でんがく茶屋の裏側にあった吉御子神社へ続く宮道です。宮道の向こうにあるお宅のあたりに、かつて、石部の一里塚がありました。

これは、復元された一里塚です。石部宿場の里から東海道石部宿歴史民俗資料館に向かう道沿いにあったものです。「5間4方の塚を道の両脇に築き、塚の上に榎を植えて目印とした」とパンフレットには書かれていましたが、ここは、右(北)側には榎、左(南)側には椋の木が植えられていたそうです。

石部西の交差点です。交差点の向こう側に公園が見えます。そこに、西の見附跡の案内がありました。説明には「見附の西側に、目見改場(めみえあらためば)が設けられていた」ようです。ここが、石部宿の西の出口(入口)でした。

これは、街道沿いの道にあった屋号の案内です。旅籠や旅館の案内を探してきたのですが、それらしいものがありませんでした。西の見附の外側ですので正確には石部宿ではないのかもしれませんが、やっと旅館の屋号を見つけました。街道沿いに1軒だけあった旅館でした。

これが、旅館の平野屋さんです。比較的新しい旅館です。

旧街道の左側にあった「西縄手」です。「縄手は、立場(たてば)から立場への道のこと。石部宿の西にあたるから西縄手。ここで、参勤交代は、宿場町に入るため、隊列を立て直し整列して入った」と、案内には書かれていました。この写真も、光線の関係で振り返って撮影しました。

西縄手のあたりには松並木があったそうです。現在の松並木はまだまだ幼い松の木でした。

京に向かう旅人は、次の52番目の宿場、草津宿をめざして、旅を続けて行くのでした。


私はすでに東海道50番目の宿場である水口宿(2013年3月28日の日記)と52番目の宿場である草津宿(2012年2月10日の日記)は歩いています。そのためもあって、その間の宿場である石部宿が気になっていました。加えて、東海道石部宿場の里がつくられていると聞いて、訪ねてみることにしました。久しぶりに、旧街道を歩くことになりました。多くの東海道や中山道の宿場町と同じように、昔の面影を残すところはほとんど見られませんでした。旧街道沿いに立っている案内や石碑をもとに江戸時代の姿を想像しながら歩く旅になりました。それでも、時間があれば宿場町をこれからも歩いてみたい。風景は変わっていても、江戸時代の人々が、確かに歩いていた道だからです。案内や石碑を見ながら、江戸時代の姿をしのぶことができるからです。