トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

岡山宿から藤井宿まで、旧山陽道を歩く

2013年10月22日 | 日記
江戸時代、京都から大坂を経て下関を結んでいた西国街道。岡山では「山陽道」と呼ばれています。山陽道からみる備中国分寺の姿は「吉備路」のポスターに使われるなど、岡山県人に親しまれている街道です。

10月20日、「旧山陽道歩く会」の「歩こう、連(つな)ごう、旧山陽道」のイベントに参加しました。岡山宿から山陽道に沿って東に向かい、次の宿場である藤井宿まで歩きました。先導は、今話題の「おかやま街歩きノオト」を出版された福田忍氏でした。参加者が雨のためか大変少なかったのがお気の毒でした。

出発は、かつての岡山城下町の西の出口、万町惣門があったところでした。線路から1ブロック西の交差点。ここには、江戸時代には、柱と柱の間 3.3mといわれた惣門と番小屋・常夜灯があったそうです。

山陽道を西に向かう旅人は、ここから、奉還町商店街を通って吉備路方面に向かっていました。

地下道でJR山陽本線の下をくぐります。明治24(1891)年、山陽線が開通してからは万町の東半分は鉄道用地になりました。写真は、地下道を出たところ、現在の岩田町の通りです。この道路は愛称「後楽園通り」、日本三大名園の一つ後楽園につながっている通りです。東に進みます。

西川を渡ります。青柳橋です。江戸時代、西川には12の橋が架かっていました。ここには、北から2つ目にあたる二ノ橋がありました。さらに東に進みます。

左側に旭文具のある交差点を右折します。南に進みます。

前方は、岡山駅前から東に延びる桃太郎大通りです。左折して柳川交差点を渡ります。

そして、岡山シンフォニーホールの西に広がる表町商店街に入ります。「アムスメール」と書かれた入り口から入ります。

表町商店街は、かつてはブロックごとに上之町、中之町、下之町など8町に分かれていました。商店街の北部(入り口付近)は福岡町と呼ばれていました。中世の「備前福岡の市」で知られる福岡は、戦国時代を通じて商業の中心地でした。福岡町には、備前福岡から移ってきた商人が居住していました。ちなみに、岡山藩では職人町や商人町は「まち」と呼ばれていましたが、この3町だけは「かみのちょう」「なかのちょう」「しものちょう」とよばれていました。

まっすぐ南に進み、旧西大寺町の時計台のところで左折します。

旧西大寺町を出ました。通ってきたアーケードを振り返って撮影しました。

旧西大寺町から京橋方面に進みます。右側にある白いビルの手前の緑色に見える切妻屋根の建物は「大手まんじゅう」の伊部屋です。「大手」という名前からもわかるように、このあたりは岡山城の大手門の前にあたるところでした。

伊部屋の左向かいに左に入る道路があります。この道が武家地である二の丸を経て大手門に続く道でした。この先の両側の一帯は江戸時代の橋本町でした。岡山城下で最も栄えた町人町でした。

京橋です。宇喜多秀家がここに架橋しました。それ以前は、もっと上流の、現在の相生橋があるあたりに架けられていたそうです。京や大坂の呉服店が多く京町と呼ばれていたので「京橋」の名がつけられたそうです。京橋の西詰めにあたるこのあたりには、瓦葺きの大門と高札場が設けられていました。(大門は、現在、市内小串の赤木家の門として使われています)。

橋のたもとには、弘化4(1847)年、架け替えされた京橋の渡り初めのときの図が描かれています。また、京橋と平行してつくられている水道管橋は、明治38(1905)年、岡山市の水道敷設の時のもので、登録有形文化財に指定されています。

京橋を渡ります。その先は西中島町です。江戸時代を通じて旅籠屋の多い地域で、旅の商人が宿泊するのはここに限るとされていました。明治時代以降、自然発生的に生じた遊興街からこの地に遊郭ができていました。昭和33(1948)年に廃止されましたが、今も雰囲気ある家並みが残っています。

西中島の東詰めです。ここには橋守(はしもり)の詰所があったそうで、橋守は欄干の掃除をしたり橋に寝ている者を追い払ったりしていたそうです。

かつて、写真の石柱の間に「栴檀木稲荷神社(せんだぎいなりじんじゃ)」がありました。土手下のお狐さまの穴に油揚げを供えて願い事をする風習があったらしいのです。この写真は3年程前に撮影したのですが、この祠はすでに撤去されていました。

西中島町からは、「長さ二拾二間半、幅3間4尺」といわれている中橋を渡り東中島町に入ります。東中島町は一部「馬方町」と呼ばれ、馬関係の町役人が常駐していたようです。写真は小橋。小橋の先(東)は小橋町です。

小橋町は、江戸初期には鍛治屋橋と呼ばれていました。江戸時代の末期には「馬問屋」があり馬継ぎを行っていたそうです。旧西大寺町の出口から平行して走っていた岡山電気軌道の電車はここで右折して行きます。カーブが始まる左側に、岡山名物の「吉備団子」で知られる広栄堂武田と広栄堂本店が並んでいます。

広栄堂本店の先を左折(東行)して進みます。この先は、江戸時代の大黒町。馬方屋敷があったことから馬方町とも呼ばれていました。

その先は、江戸時代には下片上町、その先が上片上町でした。古くは、上片上町は片上町、下片上町は伊部町と呼ばれていたそうです。備前市の片上や伊部からの移住者が住んでいました。どちらの町にも伊部焼き(備前焼)を商う店が多かったようです。今は、中納言町になっています。幕末、このあたりで焼き餅を売っていたそうです。焼き餅から「大伴家持(やかもち)」を連想し、彼が中納言であったため「中納言の焼き餅」というようになり、町の名前にもなったそうです。

建設会社のビルの手前で左折(西行)して旭川の方に歩きます。

道路とぶつかって再度左折(南行)すると、重厚な門があります。岡山藩筆頭家老伊木家の中屋敷の長屋門が残っていました。このあたりの地名は「小橋町中屋敷」。やはり、この中屋敷の影響力が残っているのですね。

再び、旧街道にもどり東に進みます。すぐに「いさおはし」の石標が見えました。旭川に注ぐ御成川にかかる勲橋です。旧名は片上橋。幕末には、長さ12間(約22m)幅3間(約5.5m)という大きな橋でした。現在、橋の下は御成川遊園地になっています。

勲橋の先から振り返って撮影しました。今は6mぐらいの橋になっています。勲橋(片上橋)の東の旭川に面したところは、県庁付近にあった伊木家の屋敷の向かいにあたり、伊木家請地屋敷(いぎけうけちやしき)が広がっていました。

そこから1ブロック進むと、県庁前から東に向かう道を渡ります。宇喜多直家の時代には、相生橋のあたりから対岸に渡るようにして、現在の県庁通りに広い道をつけて天満屋百貨店のあたりまで山陽道を引き入れていました。県庁通りからの道を越えるとすぐ右に進んでいく道路があります。この道は旧制第六高等学校(六高)の正門に続く道です。六高ができたとき切り開いてつくった道でした。現在は、六高の後を継いだ岡山県立岡山朝日高校に向かっています。この先、道路には松並木も残っていました。

その先の緩い右カーブを回ります。古京郵便局が右側に見えてきます。その手前の民家の前に石碑が見えました。小説家内田百間(ひゃっけん)の生家跡です。。

かれは、ここ古京町の造り酒屋志保屋の一人息子に生まれました。父が死んでから商売に失敗し、家屋敷は人手に渡りましたが、六高を卒業し東京帝大に進学するまで、祖母と母と3人でこの先の借家に住んでいたといわれています

その先の森下町に入ります。このあたりは昭和20(1945)年の岡山空襲の時にも焼け残ったところで、古い民家が点々と残っています。左側に、趣のある民家がありました。その向かいに案内板がありました。南に向かって立っていましたので、集団で歩いていないと見落としてしまうところでした。

岡山城下町の入り口にあった惣門跡を振り返って撮影しました。写真よりも右に、案内板がありました。惣門の内側には番所があり、午後8時頃から翌日の午前4時ぐらいまでは閉じられていたそうです。この一つ南の通りは、御堂(みどう)町と呼ばれていました。宇喜多氏が城下町の建設を始めた頃、それ以前榎の馬場にあった蓮昌寺がこの地に移ってきました。その後、小早川秀秋が入城したとき、再度田町に移ることになりましたが、地名だけは残っていたようです。

総門跡で岡山城下町を出て、大坂方面に向かう道を進みます。すぐに通りを斜めに横断して進みます。

すぐに、右側に、両備バスの岡山営業所がありました。

その手前の左側に、緩やかにカーブした道があります。後楽園と西大寺を結んでいた西大寺鉄道(「軽便鉄道=けいべんてつどう」と呼ばれていました)の線路跡です。後楽園駅を出て、路地の向こう側からこちらに向かって進んで来た西大寺行きの軽便鉄道は、両備バスの岡山営業所にあったかつての「森下駅」に入って行きました。

旧街道の右側です。軽便鉄道は、この道路の跡をゆるやかに左にカーブして、この先の車庫があるあたりにあった森下駅に入っていっていました。明治44(1911)年12月、西大寺から工事が始まり12月にはここ森下駅まで開通しました。昭和37(1962)年に廃止され、森下駅は後に両備バスの営業所になったそうです。

さらに、先に進みます。県道原尾島・番町線を横断します。旧山陽道は、右側の狭い道を進んで行きます。

その先にあった駐車場の案内には「街道筋」の名が。いかにも旧街道らしい光景です。

旧街道の右側にあった龍翔寺跡。この地域が上道郡宇野村といわれた頃、明治22(1889)年から昭和6(1931)年まで、旧宇野村役場が設置されていました。山門のみが残っており中には寺院の名残はまったく残っていませんでした。

この道は、百間川に向かって行きますが、現在は土手で行き止まりになっています。ここを、右に曲がり下流に進み、旧国道2号線と交差する手前に県営住宅がありますが、ここはかつて競馬場があったところです。この日は、ここで左に曲がり迂回して百間川を渡ります。

写真は百間川です。旧街道があったあたりを撮影しました。写真の左は百間川の東岸です。百間川は、江戸時代岡山藩によって整備された放水路で、平素はほとんど水が流れておらず、河川敷には水田が広がっていました。百間川を渡る旅人は歩いて渡っており、切り通しのようにつくられた土手の門から対岸に入っていました。大水が出た時には、門で板を使って仕切り、集落に水が入ってくるのを防いでいました。この施設を陸閘(りっこう)と呼んでいました。3,40年前、私はこの近くにあった職場で働いていましたが、当時は陸閘がまだ残っていました。

百間川の東岸です。このあたりは「二本松」と呼ばれているところです。東岸の土手上に2本の大きな松が生えていました。一里塚だったといわれており、昭和の初めまで茶屋も残っていたようです。昭和9(1934)年の室戸台風の大水で流されたといわれています。

この写真は、上の写真の交差点から右の方を撮影したものです。道路の先の右側にかつて陸閘がありました。大坂方面に向かう旧街道は手前に向かっておりました。交差点で右折して東に向かっていました。


二本松のバス停付近で右にカーブして、東に向かいます。タクシーの岡山交通旭東営業所です。ここが、軽便鉄道の藤原駅があったところです。

岡山交通旭東営業所の車庫です。線路跡に沿って車庫もゆるやかにカーブしていました。

その先で県道原・原尾島線を渡ります。ここからは、ひたすら歩く旅になりました。地元の人が「旧国道」(平行して南を走っている道が国道2号線だったときにこう呼ばれていましたが、現在は国道2号線がさらに南を走っていますので、正確には「旧旧国道」なのかもしれません)と呼ぶ旧山陽道を東に向かって歩きます。

藤原から高屋、兼基、乙多見を経て30分ほどで、右側に岡山長岡郵便局が見えてきます。その手前に道標がありました。

写真は、左(北)に折れてJR東岡山駅に向かう道です。右(南)方向に向かう道は、県道九蟠・東岡山停車場線の九蟠方面に行く道です。道標は明治38(1905)年に建てられたものです。「財田村大字東神下一厘堂吉田兼五郎」が建てたと記されていました。道標の左の面には「神戸 大坂 京 と 岡山 玉島」を案内しています。右の面には「長岡駅 西大寺観音院」を案内していました。「長岡駅」は、現在のJR東岡山駅のことです。明治44(1911)年、西大寺軽便鉄道の長岡駅が設置されました。現在の「東岡山駅」になったのは、昭和36(1961)年のことでした。

さらにさらに進んでいきます。やがて張り出してきた山の麓を歩きます。

新幹線のガードをくぐります。このあたりから、工場も住宅もとぎれて田園風景が続くようになります。

さらに歩き続けます。左に岡山市立古都小学校が見えました。さらに歩きます。

山の南麓を歩きます。12時40分頃、百間川の西岸を出発してから、約1時間30分。藤井宿の入り口にある素盞鳴(すさのお)神社に着きました。石灯籠には、天保2(1831)年の銘がありました。

幕末、尊王攘夷運動が高まる中、元治元(1864)年、幕府は長州征伐を断行します。岡山藩では、長州征伐のために西に向かう各藩の部隊が岡山城下を通過するのを防ぐため、ここから宿奥、奥矢津、牟佐を経由して旭川を渡るコースを7月15日から通過させることにしました。大坂方面から、写真の右側にやってきた部隊は神社の脇を写真の奥(北)に向かって新往来を進んでいました。

雨のせいもあってか、静かな藤井宿。しかし、家並みにはかつての雰囲気を感じることができます。しばらく進むと、左側に本陣安井家の土塀が見えました。

安井本陣は、寛永(1624~1644)年間、岡山藩主池田光政によって、藤井に在住していた安井庄兵衛の邸宅を本陣にあてて設けられました。今にも崩れそうな土塀です。小さな壕も残っていました。藤井宿は、岡山から東に向かう最初の休泊地でした。本陣は、明治になって解体されたようです。

かつて、藤井宿を示す写真にはいつもこの門が写っていましたが、今は、広い庭も更地になっていて、どなたも住んでおられないような印象でした。中には入れませんでしたが、明治天皇が立ち寄ったことを記念する石碑(犬養毅の揮毫による)が庭に残っているそうです。

少し東に進みます。旧山陽道藤井宿は賑わいを増し、元禄(1688~1704)年間、もう一つ本陣(西崎家)が設置されました。安井本陣の向かい側の東寄りにあったので、「東本陣」と呼ばれました。従来の安井本陣は、西本陣と呼ばれるようになりました。

東本陣跡があったところを東側から撮影しました。もちろん当時の建物は残っていません。藤井宿は、建物はほとんど建て替わっていましたが、家並みの雰囲気はなかなかのものでした。

さらに東に向かいます。鉄の産出に由来する鉄(くろがね)の地に入ります。四つ辻に石碑が残っていました。「安国寺経塔」と呼ばれている碑です。安国寺は南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が戦没者の供養のため全国に建てた寺院です。備前安国寺は、高師直(こうのもろなお・尊氏の側近)の家臣薬師寺公義が自分の居城を利用して設立したといわれています。その後、応仁の乱後の戦乱で、明応(1492~1501)年間に焼失しました。その後、江戸時代の初期の高僧、眠室宗安禅師が再建しました。この四つ辻を山に向かって登った中腹に、その跡地が残っています。

経塔のある四つ辻に常夜灯が残っています。天保10(1839)年3月の銘がありました。「大坂につながる唯一の道」(参加者)は、ここからさらに東に向かっていました。ここで、一応の終着点。JR上道駅に向かうことにしました。

この日は、雨の中、岡山城下町の西の入り口である万町惣門から東に向かい、最初の宿場である藤井宿まで、約14km(参加者のお話しでは16kmとも)を4時間半ぐらいかけて歩きました。岡山城下町の範囲と藤井宿を除くと、単調な道をひたすら先をめざす旅でした。江戸時代の旅も多分そうだったのだろうと思わせるような4時間半でした。






寺内町の面影を訪ねて、富田林を歩く

2013年10月15日 | 日記
PLの花火大会で知られている大阪府富田林市。ここは、寺内町の面影を今に残す町としても知られています。寺内町は、室町時代に浄土真宗などの仏教寺院や道場(御坊)を中心に形成された集落です。壕や土塁によって囲まれた集落では、信者や商工業者が集まり自治を行っていました。富田林は、興正寺別院を中心にした寺内町でした。

秋の一日、近鉄富田林駅から、寺内町の面影を色濃く残す町並みを歩きました。寺内町としては、奈良県の今井町に次いでの訪問でした。

駅前に、「楠氏遺蹟里程標」が立っており、そこまでの里程が記されています。「千早城跡へ3里32町」「赤阪城跡へ1里25町」とありました。 そうです。南河内のこのあたりは楠木正成・正行のゆかりの地として知られています。しかし、今回の寺内町とは関係がないのでスルーして先に進みます。

これは、本町公園に掲示してあった案内図です。点線の中が寺内町で、東西約400m、南北約350m。竹を植えた外周に囲まれた町は、6筋7町の町割りで、現在もそのまま残っています。南北の通りは西から、西筋、市場筋、富筋、城之門筋、亀ヶ坂筋、東筋の6筋あり、町は北から一里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺町、西林町と東林町の7町(町はすべて「ちょう」と読みます)からなっていました。駅前の観光案内所で案内チラシをいただき、本町通り(寺内町に入っての町割りでは「市場筋」)から寺内町へ向かいました。ちなみに、この案内図は、北が右になっています。右端の近鉄富田林駅から左にまっすぐ延びる道を進みます。

富田林は多くに町屋が今も残り寺内町の景観をよく残しているということで、平成9(1997)年、国の伝統的建造物群保存地区に指定されています。 本町通りの道幅4mほどの通りを進みます。寺内町の手前にも、かつての面影を残す商家が残っていました。

左側にあったモーターサイクルのお店を過ぎると寺内町入り口に着きます。正面の白い家のところで、道は少し右にずれています。これは、「あてまげ」といわれています。 見通しを妨げて外部からの侵入者を撹乱したということです。城下町にある枡形の小型のようなものですね。

正面の白い建物の角で右に曲がります。正面にPL教団の塔が見えました。

その先の右側に、登録有形文化財になっている田中邸がありました。このあたりの農家の平面構成を持つ町屋です。入母屋造り(東は隣家との関係で切妻になっています)の桟瓦(さんがわら、本瓦と平瓦を合わせた瓦)葺きです。屋根には「むくり」があります。屋根が下に向かって丸くなっている造りです。屋根は遠くから見ると真ん中がへこんで見えるので、丸みをつけて真っすぐ見えるようにしたのだそうです。河内、和泉地方にはこのむくりがよく見られるそうです。このお宅は、明治25(1892)年に建てられましたが、江戸時代以前の様式である厨子(つし)2階建てになっています。江戸時代には、武士を上から見下ろすのを許さないということで、旅籠以外は2階建てを許可されなかったからです。また、屋根の右端に本瓦が3列ほど葺かれていますが、強風に瓦が吹き飛ばされるのを防ぐ工夫だったようです。

これが以前の田中邸の姿です。今はない家門がついていました。幕末から明治時代にかけて素封家として知られた名家(明治44年の「大阪府河内和泉資産家一覧」にも掲載されている)の邸宅でした。

元の本町通り(市場筋)に戻ります。そこから、まっすぐ東に進みます。市場筋の一つ東の富筋を渡ると「じないまち交流館」があります。「寺内町の歴史や文化などの情報提供や来訪者の休憩の場所」(パンフ)になっています。富田林寺内町は、戦国時代末期の永禄年間(1558~1569)に、西本願寺派興正寺(正式には「興正法寺」)第14世証秀が、現在、市の北東から南西に流れている石川の西側にある富田の荒芝地を、この地の守護代から百貫文で購入し、周辺の4ヶ村各2名の庄屋(8人衆)に興正寺別院の建設と畑、屋敷、町割りの建設を依頼して、町づくりを始めました。そして、できあがった町を、富田林と改名して富田林寺内町が成立しました。

じないまち交流館の内部です。女性スタッフも依頼すれば説明もしてくださるようで、観光案内も充実していました。 富田林寺内町では、8人衆が年寄役として自治を行っていました。しかし、領主は守護代から三好氏、さらに織田信長と変わっていきます。 富田林寺内町では、石山合戦(石山本願寺との戦い)のとき、信長側にも本願寺側にもつかず中立を保ったため、信長から「寺内の儀、不可有別条」(別状あるべからず)の書状を得て、平穏に過ごすことができました。 豊臣秀吉の時代には、片桐且元(秀吉の家臣で茨木城主)の検地の後に、自治を認める権利を認可されていました。
 
じないまち交流館の向かいにあった手打ちそばの店。甘い物も食べられる魅力的なお店でした。 徳川の世に変わると、秀吉時代の自治権の認可を表面に出すことなく「公儀御料」(天領)とされましたが、寺内町には田がほとんどなく税負担も少なかったといわれています。

もとの市場筋まで戻り、左折して南に向かいます。石畳で舗装された道を4ブロック進みます。左側に少し道がずれる「あてまげ」にさしかかります。

そこで、右折(西行)して進みます。じないまち交流館で教えていただいた、石垣を見にいくことにしました。道はしだいに下りになります。右側の塀の下に石垣が見えてきました。富田林の寺内町は、周囲を竹藪のある土居で囲まれていました。ここは、寺内町の周囲にあたり、周囲に築いていた石垣が現在も残っているところです。

あてまげを過ぎて長い土塀に沿って進むと、寺内町の入り口から5ブロック目になります。

寺内町には案内の立派な石標が立っていました。案内にしたがって、ここで左折し東に向かいます。寺内町の邸宅で唯一、観光客に公開されている旧杉山家住宅があります。この建物は、延享4(1747)年頃に今の形に整ったようです。この杉山家は、寺内町のなかで最も古い遺構であり、昭和58(1983)年、国の重要文化財に指定されています。

杉山家は、寺内町の創立以来続く旧家です。代々杉山長左衛門を名乗り、江戸時代を通して富田林8人衆の一人として町の運営に携わってきました。貞享2(1685)年に酒造株を得て酒造業を生業としていました。

明治、大正、昭和を通じて歌人として活躍した石上露子(いそのかみつゆこ)は、本名杉山孝(たか)。明治15(1882)年、ここ杉山家の長女として生まれました。

これは、途中の本町公園にあった石上露子の歌碑です。
「みいくさに こよひ誰が死ぬ さびしみと 髪吹く風の ゆくえ見まもる」という彼女が詠んだ歌が刻まれていました。

杉山家の内部に入ってすぐの格子の間です。「親子格子(京格子)」です。寺内町の商家は居室部を田の字に並べる整形四間取りが基本になっています。農家型の平面構成です。

大床の間です。宝永年間(1704~1711)に増築された2間の大床の間。能舞台を模してつくられたそうです。

もとの市場筋に戻り、左折して南に進みます。寺内町の南の端近くで東西に延びる道と交差します。

土蔵の前から、右(西)の方向を見た写真です。左に下っていく道は、京と高野山を結ぶ旧東高野街道の入り口です。この坂は向田坂(こうださか)。 寺内町には町外から入る入り口が4つありましたが、その南からの入り口でした。ちなみに、他の3つの入り口は、一理山口、山中田坂、西口でした。

この道の東の方向です。街道を通って、南河内随一の商業都市である寺内町へやってきた人は、この道から町内に入ります。突き当たりに道標がありました。

道標に「くわへきせる ひなわ火 無用」と書かれています。「くわえきせる」はくわえたばこと同じ意味、「ひなわ火」は竹や檜の皮の繊維を縄状にして硝石をを吸収させた火種で、きせるもひなわ火も旅人の携行品でした。 わら葺きの家が密集して、水の不便な高台にあった寺内町では、こうして火事を防いでいたのですね。道標は、宝暦元(1751)年の建立だそうです。

道標から、富筋を北に進みます。すぐ両側に商家の建物が現れます。左(西)側が上野家、右(東)側が仲村家です。上野家は、厨子2階建て。その部分が黒漆喰で塗り込められていました。建物の正確な年代は明らかではありませんが、幕末ごろに整備されたものといわれています。

右の仲村家です。寺内町8人衆をつとめていました。正徳5(1715)年酒造株を取得してからは酒造業を営んでいたそうです。佐渡屋の屋号で、主人は代々徳兵衛を名乗っていました。寛政4(1792)年、江戸市場を対象にした酒造業者の理事長にあたる「河内一国江戸積み大行事」をつとめていました。幕末に長州藩士吉田松陰が滞在するなど、文人墨客が訪れる名家でした。建物は天明2~3(1782~1783)年に建てられています。この写真からは見えませんが、現在、母屋の屋根をトタンでおおっていて、老朽化による雨漏りかなと、少し心配になりました。

仲村家の角の東西の道を左折(西行)すると杉山家に至ります。東西の通りを右折して東林町に向かいます。富筋の一つ東の城之門筋に、豪壮な商家が見えました。左(北)側が橋本家、右(南)側が木口家の建物です。北の橋本家は、「別井屋」を名乗り酒造業を営んでいました。「18世紀後半に建てられたが、保存状態はいい」と、説明には書かれていました。城之門筋にはかつての商家が数多く残り、寺内町富田林を代表する通りといわれています。

木口家です。「木綿庄」の屋号で河内木綿を扱っていましたが、4代前に瀬戸物商に転じたそうです。18世紀中期の建築で、現在も、江戸末期の土蔵2棟が残っているそうです。

橋本家の角を左折し、城之門筋を北に進みます。電柱を埋めるなど整備が進められています。思わず息を飲む町並みと商家の美しさに見入ってしまいました。この先、どんな商家に出会えるか、ここからは商家を探して歩くことにしました。 左(西)側に興正寺別院の鐘楼とその先の鼓楼が見えました。観光パンフなどに必ず掲載されている、寺内町富田林を代表する景観です。

興正寺別院の表門です。表門はここ東ともう一つ西につくられています。門には「富田林御坊」の看板も掛かっています。御坊は浄土真宗の道場を表しています。この先の白く塗り込められているのが鼓楼です。創立期の遺構はすべて失われていますが、ほぼ最初の寺地を保ち、浄土真宗の道場形式の本堂としては大阪府下最古の遺構といわれています。ちなみに、本堂は寛永15(1638)年に、書院と庫裡は文化7(1810)年に、それぞれ再建されました。また、鐘楼と鼓楼も文化7(1810)年に、現在地に移し替えられたようです。

興正寺別院の城之門筋を隔てた向かい側に、妙慶寺があります。慶長3(1603)年、柳渓上人によって開かれた浄土真宗本願寺派の寺院です。表門は北側に設けられています。本堂は、享保5(1720)年の建築です。

興正寺別院の前に、「日本の道 100選」の碑があります。旧建設省によって、城之門筋が100選に選定されました。

城之門筋をさらに北へ進みます。また、雰囲気のある商家が見えました。右(東)側が田守家で、左(西)側が杉田家でした。

田守家は、屋号は「黒山屋」。寛永年間(1620~1643)に黒山村(現美原町)から移住したためこの屋号がつけられたそうです。明治中期まで、木綿屋を営んだといわれています。主屋は18世紀前半の建築で、寺内町では旧杉山家に次ぐ古い年代のもののようです。表はかなり改造されていましたが、現在では、以前の姿に復元されているそうです。

杉田家です。「樽屋善兵衛」の屋号で油屋を営んでいました。天保14(1843)年の「村方様子明細帳」に百姓代として、その名が掲載されているそうです。主屋は18世紀後期に建築されたそうです。敷地内には、油を貯蔵する土蔵が並んでいるそうです。主屋の入り口には「杉田医院」の看板が掲げられていました。

ここからは、杉田家の南の道を西に向かって歩きます。一つ西の南北の通り富筋の角に、壁に「寺内香」と書かれたお宅で右折して北に進みます。舗装した石畳の道を北に1ブロック歩きます。

右側に豪壮な屋敷を見ながら歩くようになります。南葛原家です。安政元(1854)年三治郎が、葛原家から分家したときに建設された商家です。

南会所町に入ります。右折(東行)します。右(南)側にある南葛原家、左(北)側にある本家の葛原家の間の道に入ります。

南葛原家の正門は北の本家に向き合っています。

南葛原家の3階蔵です。これも地内町の観光の目玉になっています。主屋をしのぐ高さです。

こちらは、南葛原家の向かいにある本家の葛原家。虫籠窓のまわりが黒漆喰で塗り込められています。厨子2階建ての江戸時代以前の様式です。もと、十津川の郷士。屋号は「たばこ屋」。天明元(1781)年頃、酒造業を始めたといわれています。主屋は19世紀の初め頃の再建だそうです。

東に歩いて、城之門筋の手前です。右手は南葛原家の別邸の建物です。

城之門筋への出口にあった南会所町と刻まれた敷石がありました。ここで左折(北行)します。1ブロック進み、左側に南奥谷家が見えるところで右折(東行)します。

次の亀ヶ坂筋に佐藤家があります。富筋にあった仲村家の分家です。文政3(1820)年、仲村家から出た初代藤兵衛が、仲村家の屋号である「佐渡屋」から「佐渡藤」と名乗りました。次の2代目から「佐藤」と称したそうです。紅梅酒味醂を商い、敷地内に多くの土蔵が残っているそうです。

さらに東に向かいます。赤いレンガの壁の向こうに長い塀が続いています。ここは越井家の屋敷です。1ブロックの大部分を占める大邸宅です。平尾屋庄兵衛を名乗った材木商。先祖が平尾村(現美原町)から移住しました。安政年間(1854~1860)に庄屋をつとめたといわれています。主屋は明治末期の建物です。

越井家があったのは、地内町の東北のあたりでした。そこから、西に少し引き返し、再度城之門筋に戻ります。城之門筋を右折して一ブロック歩くと富山町に着きます。左側に残るのが奥谷家。その西に、最初に訪ねた「じないまち交流館」がありました。 奥谷家は、屋号は「岩瀬屋」。河内長野の岩瀬から、18世紀頃に移住してきて、材木商を営んでいました。天保14(1843)年の「村方様子明細帳」に3代目伊右衛門の名があり、当時村役をつとめていたことがわかります。奥谷家は江戸時代末の豪壮な構えをとどめており、3代目夫婦の肖像画が残っているそうです。

奥谷家と城之門筋をはさんで東側にある東奥谷家です。奥谷家の分家で、本家の2代目岩瀬屋伊右衛門の子、伊六岩長を初代としています。現在の建物は、文政9(1826)年の建築で、敷地の北側に長大な土蔵があるそうです。

東奥谷家の南の東西の通りを東に向かい、亀ヶ坂筋を左折して、左に遊園地を見ながら北に進みます。江戸時代には、このあたりに高札場がありました。町の入り口付近に置かれた高札場でしたが、その先に一理山口がありました。寺内町に4カ所あった、外の世界を結ぶ出入り口、北の出入り口でした。

秋の一日、富田林の寺内町を歩きました。現在、寺内町には約500棟の建物があります、そのうち180棟が江戸、明治、大正、昭和初期の建築だそうです。旧杉山家以外は商家の内部を見学することはできませんでしたが、歴史ある豪壮な商家の姿は実にすばらしく、6時間近くも商家を訪ねて歩いてしまいました。 そのため、見学しようと思っていたのに見ることができなかったところもありました。旧中山道・木曽路の奈良井と妻籠、旧東海道の関と並ぶ、美しい町並みでした。 きっとまた訪ねてこよう、そう思いながら帰途につきました。












"自分手政治"で栄えた商業都市、米子を歩く

2013年10月04日 | 日記

子どもの顔のような窓をもつ土蔵です。かつて訪ねた因幡街道の宿場町、平福(2011年12月11日の日記)や山あいの陣屋町の村岡(2012年8月11日の日記)で見た土蔵の窓とよく似ている川沿いの土蔵は、ずっと私の印象に残っていました。鳥取県西部の商業都市、米子の光景です。江戸時代を通じて、米子港とそれに続く加茂川の舟運による物資の移動によって栄えた商業都市でした。また、かつて5層の天守閣と4層の小天守をもつ勇壮な米子城があった町としても知られています。

米子市の市街地を歩くと、ビルの間に米子城跡の石垣が見えてきます。米子城の本丸の跡です。江戸時代、鳥取藩の筆頭家老、荒尾氏の”自分手政治”のもとで、商業都市として栄えました。寛永9(1632)年、鳥取藩主だった池田光政が国替えで岡山に移り、代わりに岡山藩主だった池田光仲が32万2千石で鳥取に入ってきました。このとき、米子は筆頭家老の荒尾成利が、家臣に領地を分け与える地方知行(じかたちぎょう)制度により1万5千石を与えられ米子城に入りました。 それからの米子は、直接藩主の支配を受けることなく、外部との交流も比較的自由になされることになり商業がさかんになりました。これが”自分手政治”です。荒尾氏は明治維新まで11代にわたって支配を続けたため、商業都市として発展することになりました。

この日は、県の木である”大山キャラボク”が植えられたJR米子駅の駅前から、水運に使われた加茂川に沿って、米子港のあった中海へ向けて歩きました。米子市に残るかつての雰囲気を感じてきました。

これは、観光案内所でいただいた観光地図です。地図の上にある米子駅が南方にあたります。まずは、駅前から地図の左(東)に向かい、地図の左端近くを上(南)から下(北)に向かって流れる加茂川に沿って、地図の下(北)の中海まで歩きました。

地図の左(東)の上端にある並木橋から見た、加茂川の上流方面です。さらに10mぐらい進んで、地図の左端を下に走る道路を歩きます。加茂川は、鳥取、島根県境の鷲頭山(わしかしらやま)を源流とし、田園地帯を経て米子の市街地を経て、中海に入ります。全長10kmぐらいの小さな川ですが、米子の人々にはもっとも身近な川になっています。

糀町(こうじまち)です。赤い釉薬瓦で葺かれた豪邸がありました。江戸時代には、中海の米子港に寄港し碇を降ろした船から、積み荷が”上荷船”(うわにぶね)という、本船と波止場の間を行き来する喫水線の低い船によって港の倉庫に運ばれました。倉庫からは、加茂川を行き来する”浮舟”(うきふね)によって、各商店の土蔵まで運ばれていました。この糀町のあたりまで、浮舟はやってきていたということです。

表に回ると、このあたりの伝統的な民家の姿が見えました。この前の道路を交差点を渡って、地図の右(西)方面に向かって進みます。

加茂川を渡ります。

旧街道を思わせる町並みの右側に、ダラスクリエイト・ボックスと書かれた建物があります。コミュニティFM放送局が置かれているそうです。ここを右折して北に向かいます。この路地は、米子を代表する商店街である本通り商店街につながっています。

下を見ると、”ゆうちゃん”が鎮座しています。商売繁盛の神です。この通りには、これら法勝寺七福神が並んでいました。

左側にあった本町横丁名店街。この横丁をくぐります。

”法勝寺電車”と呼ばれる客車が展示されていました。かつて、米子と南部町法勝寺を結ぶ鉄道であった法勝寺鉄道で利用された、日本で現存する最古の客車です。明治20(1888)年イギリスのバーミンガムで製造された木造三等客車。外見はかなり改造されていますが、内部は横シートではなく、5区間のボックスシートだったようです。

説明に添付されていた写真です。昭和40(1965)年当時の写真です。後ろ(左側)がこの客車だそうです。ちなみに、前(右側)の電動車は、西伯小学校に展示されているそうです。

路地の一つ東にある西念寺山門前の路地です。狭い路地が郷愁を誘います。

本通り商店街の入り口で右折して東に向かい加茂川に出ます。商店街の手前の通りは、闇市(やみいち)通りです。

加茂川にたくさんの橋が架かっています。商家は加茂川に向かって建てられているため、舟運がなくなってからは、家に入るために、各家が橋を架けたためこのような光景が見られるようになったのではないでしょうか。

加茂川の岸には、お地蔵さんがいくつか祀ってありました。”咲い(わらい)地蔵”。仏教詩人、坂村真民の「念ずれば花開く」の想いが込められているそうです。私は、このお地蔵さんが一番気に入りました。

加茂川は蔵のあるお宅の先で、左にほぼ直角に曲がり西に向かって流れます。江戸時代、このあたりの加茂川は水深が深く渦を巻いていて、泳いでいた子どもがよくおぼれていたそうです。

左に曲がって進むと、すぐに、右折。本通り商店街から続く通りに入ります。加茂川はこのようにさらに西に流れています。

右側に大正期のものと思われるビルと和風のお宅がありました。この写真は振り返って撮影しました。格子に覆われうだつをもった商家風の建物です。

これは、その隣の今井郁文堂にあった看板です。表戸を通して撮影したので見づらい写真になってしまいました。謄写板の特約店の看板です。かつて、学校の先生方はガリを切って謄写版で印刷していましたね。懐かしいです。このお宅の先祖である今井兼文さんは、鳥取藩の医者をつとめていましたが、廃藩置県で禄を離れるにあたり、本屋を始めたそうです。

その向かいにあった雰囲気のあるお宅。文化庁の登録有形文化財に指定されている坂口邸です。これも振り返って撮影したものです。

その先の交差点の右側にあった”下町館かどや”。米子の古い写真が展示されていて、また、奥様が米子の歴史を話してくださったりして、大変参考になりました。この交差点を右折して東に向かいます。そばの大黒屋さんの次の通りを左折します。

南の福厳寺から北の万福寺まで、400mの間に9つの寺院が並んでいる全国的にもめずらしい光景だそうです。安国寺と妙興寺は、”自分手政治”以前、米子城主として城下町づくりを行い、その後、お家騒動で断絶した中村一忠にかかわる寺院として知られています。

安国寺です。 慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、駿府の府中(静岡)から、当時11歳の一忠が17万5千石の城主として移って来ました。若年の一忠に、徳川家康が執政(家老)としてつけた横田内膳村は、毛利氏の家臣であった吉川広家が着手していた米子城の普請を完成させました。また、加茂川を整備し、商人や職人を呼び寄せて城下町づくりを進めました。一方、村詮の勢力が強まると、中村家の譜代の家臣、安井清一郎、天野宗杷が村詮の殺害を計画し、慶長8(1603)年一忠は自ら村詮を刺殺しました。しかし、横田家一族は、屋敷に立てこもり抵抗したため、出雲富田藩の援助を受けて鎮圧しました。 安国寺は、一忠入封の時にここに移ってきたそうです。

妙興寺です。永禄7(1564)年創建。中村一忠の家老・横田村詮の肖像画と境内に墓碑があるそうです。
さて、幕府は、先のお家騒動に対し、藩主の中村一忠は「お咎め」なし、側近の安井清一郎と天野宗杷は切腹という沙汰を下しました。それから6年後の慶長14(1609)年、中村一忠が20歳で病没したとき、すでに3人の子がいましたが嗣子とは認められず、中村家はお家断絶となりました。その後、美濃黒野藩から加藤貞泰が6万石で入りましたが、元和3(1617)年、大坂夏の陣の功績により伊予大洲藩に移り、米子藩は廃藩になりました。その後は、鳥取藩の支配を受けることになりました。 元和3(1617)年、姫路藩主、池田光政が、因幡、伯耆の2国を領して鳥取藩主になってからは、家臣の池田由之が米子城主(3万2千石)となりました。

万福寺のそばの交差点を左折します。京橋のそばにあった「境往来」と道標に書かれていた道に入ります。この道はその先で京橋を渡ることになります。京橋の手前を左に向かう道に左折して入ります。

その先に鹿嶋茶舗。米子城のしゃちほこ(高さ92cm)があります。安政3(1856)年、米子城の小天守の改築時、鹿島家は分家とともに7千両を拠出しましたが、その記念にもらったものといわれています。

鹿嶋茶舗の先で、道なりに右折します。曲がってすぐ右側にあったのが「一銭屋」さん。子供の小遣いの「一銭」を屋号にしている駄菓子屋さんです。看板は、昭和25(1950)年に米子市で開かれた博覧会のときにつくられたものだそうです。

愛想のいい奥様が、店番をしておられました。

天神橋を渡って、加茂川を渡ります。広い幹線道路を左折(南行)して加茂川の上流に向かいます。西に向かっていた加茂川が、右折して北に流れを変えます。かつての米子城の外堀に合流するところです。ここから、土蔵と桜の木がマッチした、米子らしい美しい水辺の風景が始まります。

加茂川の右岸に並ぶ土蔵です。江戸時代の末期から、明治にかけてのたたずまいを今も色濃く残しているところです。子どもの顔のような、かわいい姿です。

蔵の前の光景です。かつて「浮舟」が行き来したところです。積み荷を下ろし蔵に運んだ石段が残っています。ここは、往時の荷揚場の名残です。このあたりで洗い物をしたということで「洗い場」と呼ばれています。

加茂川の左岸にあったカッパの像です。父、加茂坊、母、米子 長男、日野ポン、長女、久米子、次男、伯耆坊の一家です。加茂川に何百年もここに住んでいましたが、水が汚れたため、きれいな水の流れる日野川の上流に疎開していました。加茂川の水がきれいになったので一家で帰ってきたそうです。

午前10時と午後2時に出発する加茂川・中海遊覧船の乗り場です。

ここから、再度下流中海の方に向かって歩きます。天神橋を過ぎ京橋に向かいます。擬宝珠の欄干をもつ京橋のたもとにきました。

境往来から京橋をわたった交差点の右に後藤家があります。後藤家は、江戸時代に海運業を営み藩の米や鉄の回漕のの特権を与えられた廻船問屋でした。住宅は17世紀の建築で、主屋の屋根は、この地方唯一の本瓦葺きになっています。昭和54(1979)年からの修理で旧状に復元されたそうです。

京橋からさらに北に下ります。加茂川の右岸に趣のある蔵のある商家が残っています。”下町館かどや”には、この商家のかつての姿を移した写真が展示してありました。

その先にある橋が灘町橋。加茂川にかかる最後の橋です。この先で加茂川は中海に合流してします。中海は米子では「錦海」とも呼ばれています。「錦の布を敷いたような海だ」というのだそうです。

再度、京橋まで戻ります。この写真は境往来から後藤家方面を写したものです。後藤家を右に見ながら西に向かいます。かつての雰囲気を残す通りが続いています。

15分ぐらいで、鳥取大学の医学部の手前の交差点につきます。そのかどにあったのが「潮止めの松」。

かつての米子城が建てられていた湊山(海抜92m)の麓にある湊山公園です。まっすぐ進みます。中海の土手にあった夕日のオブジェ。童謡・唱歌の風景にふさわしい場所を選定し、こうしてオブジェをつくっているそうです。ここは、「夕日」でした。

ここから児童センターまで戻り、山の方に向かいます。10分ぐらいで内膳丸への登山口につきます。市街地を歩きながら、山頂の石垣を見ていた私は登山するつもりで来たのですが、「山頂付近でまむしの目撃情報が出ています」という張り紙にビビッてしまいました。本丸入り口から登ることにしました。

登山を断念して、鳥取大学医学部と野球場に沿って南に歩きます。このあたりは米子城の三の丸の跡です。米子城跡に向かいました。20分ぐらいで、本丸入り口の石垣が見えるところに着きました。

枡形が残っていました。枡形を左に折れ石段を登ります。

右に進むと正面に小原家の長屋門が移築されています。米子でただ一つの武家屋敷の遺構です。長屋門を入ると野球場の外野席になります。門の手前を左に登っていくと本丸です。登ろう!と思ったのですが。「蜂に注意!」の張り紙がありました。30代の頃スズメバチに刺された経験があるので、2度目が怖くて断念しました。がっかりです!

城跡から国道9号線に合流して進むと新加茂川橋にかかる深浦橋を渡ります。

これは、深浦橋から新加茂川の上流方向を撮影したものです。この橋の左岸(むかって右側)を進みます。

深浦神社を越えて10分ぐらいあるくと感應寺につきます。ここは、米子藩主、中村一忠の菩提寺です。境内に一忠と殉死した2人の家臣、安井清太郎、天野宗杷の二人の木造が安置されています。境内に墓所もあるそうです。境内の墓地を進むと一番高いところにさらに昇っていく階段がつくられていました。苔むしている石段を見て、まむしを恐れて断念しました。情けない!

さらに新加茂川沿いに進むと、新加茂川大橋に着きます。ここで右折して山の方に向かいます。かつての出雲街道をそこから20分ほど歩くと、総泉寺の門にぶつかります。ここは、慶長12(1607)年、米子城主の中村一忠が母親の供養のために創建した寺院です。池田家との関係の深い寺院です。檀家には米子城下の武士も多くいた米子第一の曹洞宗の寺院です。現在の建物は、天保13(1842)年の改修によるものです。広々とした墓地が山裾に広がる広大な寺院でした

総泉寺は、寛文2(1662)年には、伯耆国6郡の曹洞宗寺院をまとめる「僧録所」に定められました。この寺が改修されたとき、このような業績を認められて、この池田家の家紋(丸に揚羽蝶)のついた瓦を使うことを許されたといわれています。

米子は、城下町、港町で栄えた商業都市です。現在でも鳥取県第一の商業都市と呼ばれています。鳥取藩の支配を受けながらも、半独立国のような支配のもと、比較的自由に商業活動を行うことができた”自分手政治”が行われていたからでしょう。疎開していたカッパの一家も戻ってきたという水のきれいになった加茂川と、川沿いの土蔵の美しさが印象に残った旅でした。城にはまったく登れないさえない旅になってしまいましたが、米子の街を丁寧に見て歩いた、なかなか楽しい旅でした。