トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

旧片上鉄道の線路跡を行く、周匝から柵原へ

2012年12月30日 | 日記
このところ、片上鉄道の線路跡を歩いています。
片上鉄道の跡地は、平成15(2003)年からサイクリングロード「片鉄ロマン街道」として活用されています。しかし、備前塩田駅から北にはロマン街道と線路跡が違っているところがかなりあります。 

今回は、線路跡をたどって、周匝駅跡から終点の柵原駅跡まで歩きました。

先に「片鉄ロマン街道」を歩きました。この日のスタートはコスモス街道から。

ロマン街道は、国道374号線の周匝橋で吉井川を渡ります。

この先、周匝橋を渡り終えるとすぐ左折します。

そして、左を流れる吉野川(吉井川に合流する直前の支流)の左岸の土手を上流に向かって歩き前方にある鷺橋(さぎはし)を渡ります。

吉野川にかかる鷺橋です。

鷺橋を渡ると再度左折。今度は吉野川の右岸を下流に向かって進みます。

大きく右にカーブして、ここから吉井川の左岸をさかのぼります。
周匝橋の一つ上流の飯岡(ゆうか)橋の脇を通過します。飯岡橋は、片上鉄道の吉井川第2橋梁の跡です。片上鉄道はここを北(右方向)に向かっていました。

吉井第2橋梁は自然災害で流失しましたが、平成13(2001)年に再建されました。

この先で、県道26号(主要地方道津山・柵原)線に合流します。ロマン街道は、県道の右(東)側の歩道部分を北に向かい、吉井川をさらにさかのぼって進みます。ここからは、ロマン街道は線路跡を進むことになります。


今度は、もう一度備前周匝駅に戻り、周匝駅跡から片上鉄道の線路跡をたどって進みます。

周匝駅跡があった材木店付近を振り返って写しました。朝からかかっていた一面の霧が、まだ晴れていませんでした。

駅跡からまっすぐに吉井川に向かって進みます。スーパーのティオの先で国道374号線を渡ります。
 
民家の塀のそばに片上鉄道の境界標が残っていました。上部に「片」の文字が彫られていました。

吉井川に架かる吉井川第2橋梁があったところに着きます。この橋の向こう側の出口で、ロマン街道が左右に交差していました。

飯岡橋を渡ると、すぐに、備前飯岡駅跡がありました。
吉ヶ原駅と同じように、三角屋根をもった駅舎があったそうです。

駅舎は残っていませんでしたが、ホームの跡や駅舎の跡は残っていました。

左側は下り線(柵原方面)のホームの跡でした。

左側の駅舎跡に石段が残っていました。右側のホームの手前には、「貨車を止めておくための線路があった」(ご近所の方のお話)そうです。

上りホーム(和気・片上方面)と駅舎の跡です。

駅跡の先に、線路と敷石の一部が残っていました。

ガードレールの先には飯岡郵便局があり、そこに向かってゆるやかに左にカーブしていました。線路跡は郵便局の前で県道を渡っていました。

郵便局の向かいの土木会社。線路はこの会社の中を延びていました。ご近所におられた方の「ところどころ畑や民家で断絶していますが、捜せばたどることができますよ」と言われた言葉に元気づけられ、線路跡をたどりました。

土木会社の裏です。線路跡は緩やかに左にカーブして山裾の民家付近を左に向かっていました。

山の麓の民家の裏にあった線路跡です。山に沿って吉井川方面に向かっていました。

線路跡は右の物置付近にありました。前方の墓地公園の上を県道に向かっていました。「早い時期からCTC(中央制御装置)を導入していた先進的な鉄道だった」
「1本あたり37両ぐらいの貨車を引いて1日8往復ぐらいしていたよ」。
「柵原で編成した貨車はそのまま和気から山陽本線で大阪、北九州など西日本の精錬所に送られていました」
「片上鉄道が廃止されて走らなくなったら、イノシシやシカが出没するようになった」
これらは、往事の片上鉄道を語ってくださった方のお話でした。

尾根の先端にあった橋台。今も当時の姿を伝えています。

向かいの橋台は、県道が手前に張り出したあたり、浪速精密工業の工場の脇にありました。線路は、その先、県道と並んで北に向かっていました。飯岡橋の先で県道に合流していたサイクリングロード「片鉄ロマン街道」は、ここからは線路跡を進むことになります。

道なりに1kmぐらい進みます。ロマン街道の案内図が見えました。

ここで県道と分かれて進みます。正面にキハ303のディーゼルカーの姿が見え始めました。

吉ヶ原(きちがはら)駅跡です。

DD13型ディーゼル機関車と客車。動態保存されており、毎月第一日曜日に運転されています。

文化庁の登録有形文化財に登録されている木造、鉄板葺きの駅舎でした。

吉ヶ原駅の先から柵原方面に向けて、線路が続いていました。

線路が途切れるあたりに柵原駅の駅標が立ててありました。「口」の文字が付け加えられていました。保存会の方がつくられたのでしょうか。

その先で、線路跡は途切れます。

特養老人ホーム「吉井川苑」の建物の後ろに、突如線路跡の土盛りが現われます。

その線路跡をたどります。民家と山の間でだんだん狭くなり、同時にブッシュも多くなり通行不能になりました。柵原病院の方から迂回して進みます。

エコシステムジャパンの工場の近くに、橋台が残っていました。先ほどの雑草の道が、ここで橋梁を越えていたのでしょう。

橋台の脇からエコシステムの社内に入ります。

かつての信号機やレールの一部が残っていました。

駐車場の車の下に残っていたレールの跡です。

ホームの跡も残っていました。

かつて、貨車に硫化鉄鉱を積み込んでいたところがそのまま残っていました。墓地公園で、お話しをうかがった方は、「柵原駅で貨車に硫化鉄鉱を積む仕事をしていた」とおっしゃっていました。
 
駅のすぐ横に同和鉱業柵原工業所があり、貨車に鉱石を積み込めるようになっていたそうです。このあたりで働いておられたのでしょうか。ここの硫化鉄鉱は、成分としては硫黄が49%で鉄が51%だったそうです。精錬で硫黄分を取出し硫酸系肥料の生産に使われていたそうです。積み出しに使われたところには、温泉で見られるように硫黄分がこびりついて残っていました。

ここは、片上鉄道の終点柵原駅跡でした。ここも、吉ヶ原駅と同じように、赤い三角屋根の駅舎があったそうです。職員用の跨線橋もあっといわれていますが、貨物の取り扱いが終了してからは、無人駅になっていたそうです。

線路の間に放置されていたがれき。現在の片上鉄道を象徴するような光景です。

何日もかけて、備前市の片上から久米郡美咲町の柵原までたどることができました。歩くだけでなく線路跡を見つけながら進んだ備前塩田駅から柵原駅までは、本当に楽しい時間でした。情報をくださった方、話し相手をしてくださった方に、心からお礼を申し上げます。

旧片上鉄道備前塩田駅から線路・駅跡をたどる

2012年12月25日 | 日記
このところ、片鉄ロマン街道をたどっています。
すでに、吉が原駅(平成23年5月5日の日記)と片上駅・和気駅間(平成24年11月15日の日記)、和気駅・杖立駅間(平成24年12月20日の日記)は訪ねました。

片鉄ロマン街道は、旧片上鉄道の線路跡をサイクリングロードにして、平成15(2003)年に開通しました。しかし、備前塩田駅跡からのルートは、片上鉄道の線路跡とはずいぶん違っていました。この日は、かつての線路跡と駅跡を捜して歩く旅になりました。

和気赤磐ポリテクセンター前の旧杖立(つえたて)駅からスタートしました。道なりに進みます。

国道374号線と平行していたロマン街道は、旧備前塩田駅の手前で、国道と別れて右の線路跡を進みます。

地面に「片鉄ロマン街道」の案内があります。ロマン街道は、この先、塩田コミュニティハウスのグランドの手前で再度国道374号線に合流します。

ロマン街道は、吉井川にかかる備北大橋の歩道部分を進んでいきます。

備北大橋の上にかかっていた、もうなじみになったロマン街道の案内標識です。片上から25km、ずいぶん進んでいました。

備北大橋を渡りきって赤磐市周匝(すさい)地区に入り、さらに国道374号線を下っていきます。下りきったところの右側にある赤磐市消防署の手前に、トイレと旧福田駅の駅標や付近にあった勾配標が集められていました。

もちろん、ここは片上鉄道の福田駅跡でありません。片上鉄道は、このあたりを通ってはいませんでした。 

ロマン街道は、消防署の先の土手橋で右折して吉井川の堤に出ます。

そして、吉井川の河川公園に沿って上流へと向かいます。

すばらしい眺めの中をさらに進み、コスモス街道に入り周匝地区の中心部に入ります。写真はコスモス街道の案内板です。

もう一度、塩田コミュニティハウスに戻って、今度は片上鉄道の線路跡をたどることにしました。

コニュニティハウスの右側にある入り口に、「備前塩田駅跡地」と書かれた信号機が残っていました。旧備前塩田駅は、コミュニテイハウス付近の国道寄りにあったようです。
杖立駅から、1.3kmのところでした。

コミュニテイハウスの裏(吉井川)側にスレートの倉庫がありますが、その先に未舗装の道があります。

左側に、信号機を載せていたと思われる柱が残っていました。

地面には、線路の敷石と思われる石が露出していました。線路跡に違いありません。
道は、その先で民家の間に入ります。

その先で行き止まり、ではないのですが、道が荒れていてこれ以上進めません。迂回してその先に行ってみました。

見つけました、橋脚の跡を!
片上鉄道は民家の間にあった道を吉井川に向かっていたのです。

堤防から吉井川を見ると、線路跡の延長線上(石垣の左手前)に吉井川橋梁の橋脚が残っていました。対岸の白い塔はオーコ吉井工場です。片上鉄道はオーコの北の脇を西に向かっていたことがわかります。

この写真はオーコ吉井工場の脇から見た橋脚跡です。ロマン街道のルートを通ってオーコ吉井工場まで来て、対岸から眺めた吉井川の橋脚跡です。

オーコ吉井工場から反対(西)側をみた写真です。片上鉄道はこの道を西に向かい、国道374号線の手前で、大きく右にカーブしておりました。

片上鉄道の線路跡を、右側に福田団地を見ながら進みます。ここは廃線後に、農道として整備されたところです。

近くで働いておられた方にお聞きしたら、備前福田駅は火の見櫓の先の民家のところにあったそうです。火の見櫓は国道374号線沿いの「にこにこ食堂」の裏手に当たるところでした。 備前塩田駅から1.7kmのところだったようです。

備前福田駅を過ぎると、滝山川の堤防に上がっていきます。

滝山川にかかってた橋梁はすでに撤去されていました。もう一度吉井川沿いのロマン街道に戻って、番念寺橋を渡りその対岸に戻りました。さらに、北に向かって進みます。

ねむの木クリニックを過ぎ、サン・コーポラス吉井のマンションを越えてさらに進みます。清水材木店の近くに周匝駅跡がありました。国道374号線沿いの周匝郵便局の裏側付近にあたります。ホームは1面だったようです。農道を整備したときに駅舎とレールが撤去されたそうですが、吉ヶ原駅のような三角屋根のきれいな駅舎だったそうです。

材木店の材木置き場は、かつて貨物ホームがあったところだそうです。

片上鉄道は、ここから、スーパーのティオの裏をまっすぐ吉井川に向かって延びていました。この先で国道374号線を横切り、さらに吉井川第2橋梁を渡ると、備前飯岡(ゆうか)駅が目の前にあります。

片鉄ロマン街道を、杖立駅から備前塩田駅を経て周匝駅まで歩きました。このルートの大半は片上鉄道の線路跡ではありませんでした。線路跡がたどれない一番の要因は、吉井川橋梁が撤去されていたことです。吉井川を越えるには、備北大橋を渡る以外方法がありません。 ロマン街道のルートは線路跡ではありませんでしたが、線路跡に最も近いルートだったことがわかリました。河川公園やコスモス街道は美しく、サイクリングロードとしては、絶好のコースになっていました。

一方、旧片上鉄道の線路跡の方ですが、周匝地区では農道に改修されていて当時の面影を残すところは何もありませんでした。農機具も通れる農道として、地元の人が日々の生活のために使う生活道として、地域に根付いている印象でした。

線路跡を捜して歩いた今回の小さな旅は、謎解きのおもしろささえ感じた楽しい時間になりました。次は、周匝駅から備前飯岡駅を経て吉が原駅まで歩くことにしています。

片鉄ロマン街道を和気から北に走りました

2012年12月20日 | 日記
岡山県東部の和気郡和気町を通る鉄道がありました。
北部の柵原鉱山で採掘された硫化鉄を瀬戸内海の港町片上まで運搬するために、それまで、運搬の主流だった高瀬船にかわって敷設された片上鉄道です。昭和6(1931)年に
柵原までの全線が開通しました。

JR山陽本線、和気駅の南に片上鉄道和気駅がありました。
片上鉄道は、平成3(1991)年7月、全線が廃止されましたが、線路跡は平成15(2003)年から「片鉄ロマン街道」というサイクリング・ハイキングロードになっています。
今回は、「片鉄ロマン街道を走る」ことよりも、「かつての片上鉄道の線路跡をたどる」ことが目的でした。

この日は、JR和気駅から北に片上鉄道の線路跡をたどって、柵原方面に行くことにしていました。

線路跡は、吉井川に沿って北に向かっています。和気駅からJR山陽本線をまたいで進み、吉井川の支流金剛川橋梁を渡ります。昭和48(1973)年に建設された橋梁です。
「片鉄ロマン街道」と書かれています。

ロマン街道には、線路跡にかつての片上鉄道の雄姿を伝える写真が展示されています。

これは、橋梁脇に展示されていた、多くの貨車を牽引して橋梁を渡る貨物列車の姿です。

線路跡は住宅地に向かって下っていきます。下りきったところにあった勾配標です。
16.0パーミル、1000mで16メートルの登りであることを示しています。これは、金剛川橋梁に向かって行く側(和気駅に向かう側)にありました。

橋梁を下り、その先の住宅が並ぶ地域に「本和気」の駅標が設置されていました。しかし、ここは駅舎のあったところではなく、地元の方のお話しでは駅に隣接した倉庫があったところなのだそうです。

駅標のそばに展示されていた駅舎の写真です。当時はモダンな駅舎だったのですね。

かつての本和気駅舎は、少し先の現在北川病院がある場所に設置されていたそうです。線路の両側にホームがあり対向ができたそうです。近くにあった工場からの引き込み線も敷設されていて、かなり大きな駅だったということです。片上鉄道和気駅から1.5kmのところにありました。

右手の山に「和」の文字が見えました。送り火に使われる場所でした。

住宅地を抜けると鵜飼谷橋梁を渡ります。

橋梁にロマン街道の案内標識がありました。柵原と備前までの距離が表示されています。

その先の右側に鵜飼谷交通公園があります。交通公園の前には、列車の形をした掲示板(わけ号)と昭和44年・日本車輌製の貨車(ワム1805)が展示されていました。私は、ここでレンタサイクルをお借りして北をめざすことにしていました。

手動式信号機が交通公園に残されていました。

信号機の隣にあった「和気駅」の駅標です。

レンタサイクル置き場の近くにあった「通票閉塞器」(昭和24年11月製造)です。

300円を支払い、レンタサイクルをお借りしました。出発です。
交通公園を出たところに、益原(ますばら)駅標がありました。しかし、ここは益原駅跡ではありません。レンタサイクルのお世話をしてくださったシルバー人材センターの方がいわれた「益原駅跡は桜の木があるところですよ」を目印にして、田園地帯を進みました。

その先の左側に、葉っぱを落とした桜の木があるのが見えました。写真の建物があるあたりから左奥に駅舎があったようです。駅舎の右側の片面だけがホームになっていたようです。本和気駅から、1.5km。

益原駅跡からさらに田園地帯を進みます。やがて、吉井川沿いを走る国道374号線と並走
します。遠くに、新田原井堰(いせき)が見えました。

新田原井堰です。吉井川は流量の差が大きく農業用水の不足と洪水を繰り返してきました。それを解決したのが、岡山藩に仕えていた津田永忠が約300年前につくった田原井堰でした。そして、昭和61(1987)年に国営事業で完成したのが現在の新田原井堰です。ここで、吉井川の水をせき止め水利の調節をしています。

その先は、山を切り開いてつくった線路跡を走ります。

その先の左側に、天瀬駅跡がありました。益原駅から2.9kmのところでした。現在、駅標とともに駅舎やホームも残っていました。

駅の一角に中元将人氏の写真が展示してありました。平成3(1991)年4月11日の撮影です。柵原方面から和気方面に向かって撮影したようです。桜が満開でした。

天瀬駅を出ると、すぐに、右側の「招き猫」の像が見えました。工場の入り口に鎮座しています。お客さんを迎えているのでしょうが、片上鉄道の用心棒のような猫でした。

5分ぐらいで、第一天神山トンネルをくぐります。片上・清水間の峠清水トンネル以来二つ目のトンネルでした。長さ、40.23m。電車でくぐると、ほんとにあっという間にぬけてしまったことでしょう。抜けるとすぐに、次の第二天神山トンネルに入ります。

第二天神山トンネルです。こちらはさらに短く、26.94m。チャリでもあっという間の距離でした。

第二天神山トンネルの出口はすばらしい景色でした。トンネルの上に大きな岩がそそり立つ様は、まさに水墨画の世界です。

この写真は吉井川のもっと上流から撮ったものですが、トンネルのあった天神山です。山頂に、享禄4(1531)年から天正5(1577)年までこの地に拠った武将、浦上宗景の居城である天神山城がありました。岡山県史跡。美しい山容を吉井川に映しています。

トンネルを抜けた下り坂には、天・神・山・城・跡 の大きな看板が掛かっていました。
国道374号線と合流します。天神山城が建設されたため、この地に遷座してきた天石門別神社を過ぎます。

その先でロマン街道は、国道のやや広い歩道部分を走ることになります。しかし、かつての片上鉄道は、国道とは別にその北側を走っていたようです。

右の山の中腹にある和気町立山田小学校です。この先から山田小学校の下のあたりに河本駅があったようです。天瀬駅から1.8km。

その先で、ロマン街道は国道374号線を渡ります。片上鉄道は、ここで国道と交差していたのでしょう。

渡ったところにあった休憩所のあたりは、「大舟着川市跡」。先の天神山の写真はここから撮りました。天神山が屏風のように立っています。説明がなかったのでよくわかりませんが、市があったのでしょうか。ロマン街道は、ここから国道の左(西)側を国道に沿って進みます。桜並木の道でした。

10分ぐらい走ると和気町立佐伯中学校が左側に見えてきます。

その先にあったのが備前矢田駅。河本駅からここまで2kmでした。左側のホームがそのまま残っていました。

列車の形をした掲示板(さえき号)。

駅標もありましたが、駅舎は残っていませんでした。

ここにもかつての写真が掲示されていました。それを見ると、かつては線路が3線あり、左側のホームには待合室のような建物が、右側に駅舎があったことがわかります。左側のホームには大きな松の木があったといわれています。

備前矢田駅を過ぎて、左側にかつての信号機が残っていました。

見つけることができて、ラッキーでした。線路跡ばかりに注意を向けていましたので。

その先で、再度国道374号線を渡ります。国道の右側を進みます。

山の中に入ると、赤いロマン街道の標識がありました。「備前から20km」、かなり進んで来ました。

次の駅は旧井ノ口駅でした。しかし、この駅は、部分開通していた大正12(1923)年8月まで片上鉄道の終点でした。全線が開通した昭和6(1931)年には廃止されました。そのため、地元の人でも場所がわからなくなっているようです。備前矢田駅から1.1kmのところにあったそうです。結局、位置を特定することはできませんでした。

途中で、トイレのマークを見つけました。左側のやや低いところを平行して走る国道374号線にログハウス風のトイレがありました。ちょうどいいタイミングでした。

その先に、駅のホームのように見えるところがありました。埋め込まれたプレートを見ると、「南山方架道橋」、「竣工 昭和51年7月24日」と読めました。橋の下は道路です。一瞬ここが「井ノ口駅跡?」とも思いましたが・・・。もちろん絶対に違います。

次に、苦木(にがき)駅跡が見えてきました。備前矢田駅から3.9km、旧井ノ口駅からは2.8kmだったそうです。

苦木駅跡には、線路の両側にホームが残り、左側のホームに駅標が、右側のホームに駅舎と駅標が残っていました。

左側のホームを支えているのはレールでした。他にもレールが放置してありました。

駅舎の軒下に残っていた碍子。ここに電線が入って来ていたようです。

多くの駅跡に立てられている美化を呼びかける子どもたちのポスターがここにもありました。

左側のホームから見下ろした吉井川。
ここは「河ノ瀬の石堤(こうのせのいしづつみ)」が復元されているところです。片上鉄道が開通してからは衰退しましたが、吉井川を往来していた高瀬舟の最大の難所でした。急流と大きなカーブが原因でした。上流からの急流はここで右側にカーブします。岸にぶつかって、けがをしたり、積み荷を流してしまったりする事故が後を絶ちませんでした。この地の大庄屋、佐分利勘四郎らが、明治14(1881)年から16年間をかけて、幅10m、長さ116mの船通しをつくり上げました。それが、左側をまっすぐ流れる流路でした。
船通しの石垣は、平成10(1998)年の台風により多くが流されてしまいましたが、残った石垣を参考にして復元したものです。当時の苦労がしのばれます。

苦木駅を出て8分程度で、国道に沿った和気赤磐コンポストセンターに着きます。

その玄関前に杖谷駅跡がありました。コンポストセンターができる前には民家の庭先に待合室とホームが残っていたような状況だったようです。

杖谷駅跡の碑が建ててありました。苦木駅から2kmの所にありました。

鵜飼谷交通公園から1時間45分。ロマン街道の標識にしたがって進めば、容易に片上鉄道の線路跡をたどることができました。線路跡はこの先で、吉井川を渡り赤磐市に入ります。

悲恋の寺の明暗、祇王寺と滝口寺

2012年12月10日 | 日記
”朝の祇王寺 苔の道 心変わりをした人を 責める涙が 濡らすのか 嵯峨野笹の葉 さやさやと 嵯峨野笹の葉さやさやと” たんぽぽが歌っていた「嵯峨野さやさや」(伊藤アキラ作詞、小林亜星作曲)の一節です。晩秋の鳥居本を訪ねた日、帰りに祇王寺に向かいました。

道標にしたがって進みます。

受付でいただいたパンフによれば、祇王寺は、法然上人の門弟良鎮によって創められた往生院の境内にあるようです。また、その往生院はその後荒廃し、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになったとのことです。

茅葺きのひなびた門がありました。現在、この門は外からくぐることはできなくなっています。 祇王寺は、明治初年になって廃寺になってしまい、寺内にあった墓や木像は大覚寺に保存されていました。

茅葺き寄棟づくりの本堂です。紅葉の祇王寺です。
大覚寺門跡の楠玉諦師が祇王寺の再建を計画していた明治28(1895)年に、北垣国道元京都府知事から寄付された嵯峨の別荘の一棟が、現在の祇王寺なのだそうです。

「朝の祇王寺 苔の道」と歌われたように、祇王寺は苔の庭でも知られています。でも、紅葉の季節には、一面の苔がこのように落葉によっておおわれてしまいます。

庭をめぐる竹林の道です。 現在の祇王寺は、大覚寺の塔頭で真言宗の寺院になっています。

庭を一回りして、本堂に着きました。本堂はたくさんの観客であふれていました。
祇王寺の「祇王」は平清盛の寵愛を受けた白拍子(しらびょうし)でした。白拍子とは、平安時代から室町時代にかけて演じられた、鼓を伴奏楽器とする歌舞のことで、それを舞った遊女もそう呼ばれました。彼女は、祇女という妹と母とともに過ごしていました。
そこに現われたのが、加賀の国の白拍子仏御前でした。

さて、仏御前は平清盛の館を訪ねますが、門前払いをされてしまいます。祇王は、彼女をやさしくとりなし館に呼び入れ今様を歌わせました。それを見た清盛はたちまち心を動かされ、仏御前に心を移してしまったのです。昨日までの寵愛はどこへやら、祇王は館を追い出されることになりました。

本堂の仏間に祀られた、平清盛と祇王、祇女と母の像です。撮影ははばかられたので、パンフから転載しました。  
祇王が館から出た翌年の春、平清盛から呼び出しがありました。権勢に抗しかねて清盛の前で舞を舞いましたが、「かくて都にあるならば、また憂き目を見むづらん」といって嵯峨の山里、今の祇王寺の地で世を捨て仏門に入りました。祇王21歳、祇女19歳、母45歳の時でした。

祇王と祇女、母の三人が念仏三昧の生活を送っていたとき、竹の網戸をたたく音がしました。そこには、17歳の仏御前が剃髪した姿で立っていました。祇王の不幸を思うにつけ、世の無情を感じ仏門に入ることを決意したということでした。こうして、祇王と祇女、母と仏御前の四人は、祇王寺で朝夕仏前に香華を供えて念仏三昧の生活を送ったということです。

これは、祇王寺の境内にあった祇王の墓です。左の宝筐印塔が祇王、祇女、母の墓、右の五輪塔が平清盛の供養塔だといわれています。


お隣の滝口寺に回ります。
祇王寺から出ると石段を右の方に登って行きます。

竹垣の間を進みます。滝口寺は旧往生院三宝寺でした。応仁の乱などの戦乱で衰退し、祇王寺とここ三宝寺だけが残ったといわれています。

明治維新で廃寺となってしまいますが、その後再建され、歌人の佐々木信綱が、高山樗牛の小説「滝口入道」にちなんで「滝口寺」と命名しました。「滝口入道」は、懸賞小説に応募するために著わした、彼の唯一の小説でした。

境内に、後醍醐天皇に仕えた武将、新田義貞の供養塔がありました。越前の国で戦死して京都の三条河原に晒されていた新田義貞の首を、妻の勾当内侍(こうとうのないし)が盗み出してこの地に埋葬しました。近くに、勾当内侍の供養塔もありました。

落ち葉の積った通路を登っていきます。
「滝口入道」とは、斎藤時頼、平重盛の家臣でした。平清盛の花見の宴で建礼門院付きの女官横笛の姿を見て、恋文を送るようになりました。しかし、父親からは「将来は平家一門に入る身でありながら、横笛ごときに思いを染めるのか」と叱責されてしまいます。

本堂が見えてきました。

斎藤時頼は、主君重盛の信頼に背いて恋に迷った自責の念から出家し往生院に入り「滝口入道」と名乗りました。それを知った横笛は、自分の心を打ち明けようとして往生院へ訪ねて行きました。滝口入道は彼女の涙に濡れ、やつれ果てた姿を見て哀れに思いましたが、「ここにはそういう者はおりません」と答えるのでした。

正面から見た本堂です。屋根に葦を葺いた入母屋造りの建物です。棟の部分が荒れているのが気になりました。

時頼がいないと聞いた横笛は、泣く泣く帰りましたが、途中で指を切り自分の血で歌を書いていったということです。  横笛を見送った滝口入道は、自分の住まいを見つけられたことで修行の妨げになってはと、高野山に移り、さらに修行に励もうとします。また、横笛もその後すぐ出家し法華寺で尼になりました。

本堂の裏に回って気がつきました。屋根に覆いがかけてあります。屋根が荒れて雨漏りがしているのではないでしょうか? 

本堂の中に入りました。中に「お詫び」が書かれていました。「ここの屋根は、耐用年数約16年のヨシであり、今年16年経過しますが、諸般の事情により葺替えが遅れていますことをお詫びいたします」というものでした。

その隣に、歌が二首掲示されていました。右が、横笛が出家したと聞いた滝口入道が送った歌、   「剃る迄は 恨みしかども 梓弓 真の道に入るぞ 嬉しき」
左は、その歌の横笛の返歌です。
      「剃るとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心あらねば」

本堂には、滝口入道と横笛の木像が祀られています。鎌倉後期の作で、眼が水晶(玉眼)、往生院時代の遺物です。

横笛は、この歌を送ってからまもなく法華寺で亡くなります。それを聞いた滝口入道はさらに仏道修行に励み、高野の聖といわれる高僧になったといいます。

滝口寺は、南朝の武将であった新田義貞の供養塔がある、滝口入道にちなむ悲恋の寺でした。私は、滝口寺のことは最近までよく知らなくて、滝口寺にお参りしたのは初めてでした。 多くの観光客も同じだったのでしょう、本堂にあふれんばかりの観光客が押しかけていた祇王寺に対し、私が境内で出会った観光客は3人だけでした。

耐用年数を経過した本堂の屋根に咲いていたカエデの木。
屋根の修理が遅れている「諸般の事情」とは「よもや経費の問題ではないよね」と思ってしまいました。 旧往生院の敷地に建ち明治になって復興した同じ悲恋の寺ですが、滝口寺に哀れを感じてしまいました。早く整備が進むように願っています。

嵯峨野の二つの念仏寺

2012年12月06日 | 日記
京都市の北西にある嵯峨野。京都を代表する観光地の一つです。
嵯峨野から、愛宕山の山頂に鎮座する「日伏の神」愛宕神社への参詣道が鳥居本をとおっています。その愛宕街道沿いに二つの念仏寺があります。

一つは化野念仏寺です。正式には、浄土宗の寺院、華西山東斬院念仏寺というそうです。
「あだし野」と書かれた道標が、愛宕街道からの参道の左側に立っています。

参道の右側には「あだしの念仏寺」の道標が。
「化野」は「はかない野」「むなしい野」の意。「極楽浄土に往生する願いなどを表している」のだそうです。

この日も多くの観光客が参道を登っていきました。

境内の西院の河原には、8,000体の石仏や石塔が釈迦の説法に聴き入る人になぞらえて安置されています。このような形で安置されたのは、明治中期のことといわれています。
毎年8月23、24日の地蔵盆の夕刻から、石仏や石塔の無縁仏を供養する蝋燭の火が灯されます。闇と光のおりなす光景は、浄土を表現していると伝えられています。
化野念仏寺は、この千灯供養によって全国に知られています。

紅葉が見頃の晩秋でした。境内の紅葉もたいへんきれいでした。

平安時代中頃、奥嵯峨の化野一帯は葬送の地でした。洛東の鳥辺野(とりべの、現在の清水寺付近)や洛北の蓮台野(れんだいの、千本北大路通り付近)とともに、遺骸を遺棄する風葬の場でした。
平安時代の弘仁年間(810~824)、空海が野ざらしになっていた遺骸をここに埋葬しました。念仏寺にある8,000体の石仏や石塔は、この付近一帯に葬られた人々の墓でした。見れば、厳粛な気持ちで手を合わせたくなる石仏・石塔です。
湛慶作、鎌倉彫刻の秀作とされる阿弥陀仏座像が安置されている本堂です。
正徳2(1712)年、寂道和尚が建てたものといわれています。

本堂の並びにある茅葺切妻造りの庫裡。これも寂道和尚が建てたものです。
本堂から西院の河原への入り口です。その中に入ることができましたが、写真撮影は禁止されていました。ここに掲げた写真は、周囲の通路から撮影したものです。

念仏寺から愛宕街道の鳥居本に降りる参道の光景です。見事な紅葉でした。


もう一つの念仏寺は、化野念仏寺から愛宕街道を進み、一の鳥居を越えてさらに登った、清滝トンネルの手前にありました。

愛宕(おたぎ)念仏寺です。こちらの念仏寺は、「千二百羅漢の寺」ともよばれてる天台宗の寺院です。写真はその仁王門です。
8世紀、称徳天皇(在位764~770年)によって、山城国愛宕(おたぎ)郡に愛宕寺として創建されました。現在の六波羅密時付近だったようです。その後、真言宗の東寺派の末寺になりますが、鴨川の洪水で堂宇を流出してしまいます。

愛宕山念仏寺の本堂です。
後醍醐天皇の命を受けた千観内供(せんかんないぐ 918~984年)によって、寺は天台宗の「愛宕念仏寺」として再建されました。厄除千手観音を安置する本堂は鎌倉時代中期の再建といわれ、国の重要文化財に指定されています。

地蔵堂です。
愛宕念仏寺は興廃を繰り返します。大正11(1922)年、現在地で復興をめざすが失敗、その後、昭和30(1955)年天台宗の本山から住職を命じられた西村公朝が、当時の清水寺貫主大西良慶師の支援で復興に取りかかります。本堂、地蔵堂、仁王門が整備されました。

境内には、千二百体の羅漢像が並んでいます。
これは、昭和56(1981)年から10年をかけて、参拝者が自ら羅漢像を彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」でなされたものです。

地蔵堂の近くの羅漢像です。愛嬌のあるお姿です。

奉納した一人ひとりの個性があふれた羅漢像です。ユーモラスで明るい雰囲気が漂います。

愛宕念仏寺にある石像は、訪れる人をほのぼのとした気持ちにさせてくれます。

愛宕街道沿いにある二つの念仏寺。
どちらの念仏寺にも、たくさんの石仏や石像が並んでいます。風葬の地に放置されていた無縁仏を集めて祀られた化野念仏寺と、参詣者が個性あふれる羅漢像を自ら彫って奉納して並べられた愛宕山念仏寺。この余りにも異なる石仏の由来。  
しかし、どちらの念仏寺も、多くの観光客を集める魅力的な寺院でした。




嵯峨鳥居本の町並みを歩く

2012年12月01日 | 日記
京都市街地の北西嵯峨野の、さらに北西にある嵯峨鳥居本。
ここは、国の伝統的建造物群保存地区に指定されています。私は、愛宕神社の一の鳥居があるあたりのひなびた雰囲気にふれたいとずっと思っていました。紅葉を愛でる観光客であふれる晩秋の鳥居本を、ゆっくりと歩いてきました。
鳥居本は、室町時代の末期から、農林業を、そして保津川で漁業を営む人々が集落をつくっていました。また、そのころから、愛宕山頂(標高924m)に鎮座する愛宕神社が「日伏せの神」として人々の崇敬を集めるようになっていました。

JR京都駅から山陰線で嵯峨嵐山駅に着きました。そこから、歩いて鳥居本をめざしました。

堂々たる仁王門が見えてきました。五台山清涼寺。「源氏物語」のヒーロー光源氏のモデルと言われる源融(みなもとのとおる)の別荘、棲霞観(せいかかん)があったところです。

毎年、3月15日の夜8時半、境内に据えられた3基の大松明(たいまつ)に火がつけられます。京都3大火祭りの一つ「清涼寺の大松明」で知られています。

清涼寺の東隣に、観光客が行列をつくっているお店がありました。安政年間(1854~1864)創業という嵯峨豆腐の老舗「森嘉」です。湯豆腐を食べさせるお店ではありません。豆腐を求める人の列でした。

門前の道を西に向かいます。人力車に乗って嵯峨野巡りをする観光客を見ながら進みます。
突き当たりが宝筺院(ほうきょういん)です。「小楠公菩提寺」と石標に書かれていました。
紅葉の名所で知られる宝筺院。そのとおり、すばらしい眺めでした。

紅葉の奥に、小楠公こと楠木正行(まさつら)の五輪塔と、足利幕府の2代将軍、足利義詮(よしあきら)の三層の石塔が並んで祀られています。楠木正行は南朝の中心勢力として北朝方を相手に転戦しましたが、四条畷で北朝の高師直(こうのもろなお)の軍に敗れ自刃しました。この寺を再興した黙庵周諭禅師は、生前の厚誼によりその首を境内に埋葬しました。後に。この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄にうたれ自分もその傍らに葬られることを望んだと言われています。なお、寺号の宝筺院は義詮の院号からつけられたそうです。

宝筺院の前を右折して、清涼寺との間の道を進みその先でさらに左折して西に進みます。

やがて、八体地蔵が見守る三差路に出ます。左(こちらに向かう人がいる道)に進めば祇王寺の方に向かいます。鳥居本の町並みは、右斜め前に進みます。
鳥居本の集落に入りました。入り口に「重要伝統的建造物群保存地区」の説明板がありました。8月16日の「大文字の送り火」のとき、夜の8時20分、嵯峨の曼荼羅山の「鳥居形」が最後に点灯されます。実は、これが「鳥居本」という地名のおこりなのだそうです。
これは、後に書いた嵯峨鳥居本町並み保存館に再現されていたかまどです。上に愛宕神社のお札「阿多古祀符 火廼要慎」の札が貼ってあります。

江戸時代、都市の人口密度が高まります。都市に住む人々が最も恐れたのが火災でした。「伊勢に七度(たび)、熊野に三度(たび)、愛宕さんは月参り」といわれるように、
ここから山を登り「火伏せの神」愛宕神社へ参詣する人々が増えていきました。
また、愛宕神社の門前町であった鳥居本に集まった薪炭や鮎は、街道を使って京都に送られていました。こうして、江戸時代末期から明治・大正期まで、農家や町屋のほか、街道を通る人のための茶屋も多く設けられていました。
 
郵便ポストやゴミ缶も町並みの雰囲気に合わせて、黒く塗られひっそりと置かれていました。

ゆるやかに登っていく道でしたが、しばらくは、観光客を相手に湯豆腐を食べさせるお店や地酒や小間物を商う商家風の建物が並んでいました。

繭でつくった小間物が並ぶまゆ村。

お土産の井和井。
店先に飾ってあった、ひげだるま。

左は、化野念仏寺への参道です。弘仁年間(810~824)に弘法大師空海が、鳥部野(とりべの)に野ざらしになっていた遺骸を埋葬したことに始まるお寺。現在、この付近一帯に葬られた人々の石仏や石塔が、境内の西院の河原に8,000体並んでいます。地蔵盆の夕刻の千本供養はよく知られています。

念仏寺の向かいに位置しているお宅は、曲がり家風の茅葺き屋根の建物と妻入りの建物が一体となったような建物でした。
玄関脇に駒つなぎの輪が残っていました。千本格子が普及する前の様式である目の粗い太い台格子がついていました。

「嵯峨鳥居本町並み保存館」です。明治初期の建築で観光案内所、資料館として使われています。京の商家風の建物で、京都の町屋に多い「ばったり床几」がついていました。屋根には煙出し、2階は厨子で虫籠窓がありました。1階の土間にはかまどや井戸が残っていました。

さらに登ると、農家風の茅葺き民家が残っている地域になります。上に登るほど農家風の建物が多くなります。京の町屋風のデザインが、街道の入り口から順に取り入れられてきたことがわかります。

茅葺きの農家風の建物の鮎茶屋のつたや。

「鮎の宿」のあんどんが、何ともいい雰囲気を醸し出しています。

愛宕神社の一の鳥居です。愛宕神社までは、この先 5,5kmあるそうです。

一の鳥居の先にある鮎茶屋の平野屋。苔むした茅葺き屋根が、山深い奥嵯峨の雰囲気を出しています。つたやと平野屋の2軒とも、鮎料理や名物のしんこ団子を楽しむたくさんのお客で賑わっていました。ちなみに、しんこ団子は、米粉をこねた団子をねじり上にきなこと黒砂糖をまぶしたものだそうです。愛宕山への山道をイメージした白、緑、茶の三色で出されるそうです。
これは、坂を登ってから、平野屋や一の鳥居方面を振り返って撮影したものです。
本当に美しい一画です。

この日は、JR嵯峨野駅からゆっくりと時間をかけて登ってきました。嵯峨野は若い頃からたびたび歩きましたが、鳥居本は初めてでした。京都の町屋風の町並みから、草深い農家風の建物に変わっていく様子は、なかなか見応えがありました。