トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

伊賀市で学んだ忍者の姿

2010年07月25日 | 日記
伊賀市の上野城を訪ねた日は暑さの厳しい日でした

上野城を見学した後、私は、次のターゲット、伊賀流忍者屋敷や伊賀流忍者博物館など
伊賀流忍者に会いに行きました

一緒に行った家人は、同じ伊賀流でも、伊賀流うどん・そば店に入っていきました

家人は、平素、チャリンコ便で働いており、元気いっぱいなのですが、
歩くのはにがてで、早々にクーラーの効いたところに避難したのでしょう

おかげで、私は自由の身、ゆっくり忍者について学ぶことにしました



忍者屋敷は、平屋づくりの外観に、内部は三階建て、抜け穴、落とし穴はもちろん
武者隠しやどんでん返し、仕掛け戸や隠れ梯子など、様々な仕掛けがしてありました
 
右の写真は刀隠し、てこの原理をつかって、素早く刀を取り出すことができました
また、部屋の明るさの違いを利用した隠し部屋など、
なるほどと思うことがたくさんありました

忍者の衣装は、黒色ではありません!
夜、活動するとき、黒色では輪郭が浮き出てしまうらしく、この地域の農民の着る
「クレ染め」といわれる濃紺色の野良着をきていたのだそうです
農民の服装なので怪しまれず、毒蛇や虫除けにもなり、
水をこして飲むにも都合がよかったようです

屋敷の地下の展示場を抜けると、その先に、伊賀流忍者博物館がありました

ここは、忍者の生活とその修行の様子を丁寧に説明してくれていて、
楽しく学ぶことができました


忍者は、平素は農業に従事し、薬草から薬をつくっていました
大切なしごととして火薬の製造がありました
忍者屋敷は、様々なからくりを施してありましたが、
これは火薬の製造法を盗まれないための工夫だったのです
もちろん、修行の毎日でもありました

かれらは、修行をとおして特殊な技能を身につけていました

忍者は、情報を文字に残すことはできませんでしたので、
数字などは人の体や食べ物に置き換えて覚え、連想法で記憶していました。
もっとも重要なことは、「不忘の術」(それを思い浮かべながら、
自分の体に傷をつけて記憶した)を使ったといわれます

眠りについて研究を進め、猫から時間を推定することもできました


月明かりのない日や、人の眠りが深い日を選んでしのぶと発見されにくく有利です
敵の眠りは「聞き筒」で寝息を聞いたようです

また、猫の瞳は暗いところでは大きく開いて丸くなり、明るいところでは細くなります
猫の瞳の大きさから、時間を知っていたようです

天気の予知についての知識や技術を持っていました

星がちかちかしていると雨になる、山が近くに見えると雨、日がさ、月かさは雨
なのだそうです

知らない土地で、密かに水のありかを知るには・・・・
・鳥の羽を地面に突き刺し、数時間後、羽に水滴があれば
・ケラやアリの穴があれば
・山肌を1メートル掘り下げ、大地に耳をあて鼓動を感じると
・山中の洞窟の地面に手ぬぐいなどをおき、翌日それが重くなっていたら
・谷合いでオロガモ、カキツバタがたくさん生えていれば
近くに水があるのだそうです

忍者同士の連絡に使った文字があったそうです


縄を結んで作り出した「結縄」から生まれた神代文字、
この文字を仲間同士の連絡に使ったといわれています

「忍びイロハ」といわれる、暗号文字もあったようです
「忍者のイロハ48文字」です
「木」「火」「土」「金」「水」「人」「身」を「へん」に
そして、「色」「青」「黄」「赤」「白」「黒」「紫」を「つくり」にして
つくったものです
右の写真の左上から、イ ロ ハ となります
 
これも仲間同士の連絡に使われたようです

伊賀流の忍者は、隣の甲賀流と並んで、その技量は、群を抜いて優れていました

このあたりが盆地で、古代から亡命者が多かったからです
大和朝廷の中枢で権勢を誇っていた物部氏(呪術が得意だった)や
服部氏(奇術や軽業が得意だった)たちがもっていた技術が
伝わっていたのでしょう

忍者は、乱世に生きたため武術や謀略に長けていましたが、
薬学、医学、天文学、占星術などにも通じていたのです


そういえば、この地出身のあの人も隠密だったと言われています
 
松尾芭蕉です 
写真は、彼の旅姿をイメージしてつくられた、俳聖殿です

伊賀流忍者博物館の説明板には、今は消滅してしまっていますが、
北は「加賀」(石川県)から南は「雑賀」(和歌山県)にいたる
「賀」の道があったと書かれています
山の尾根伝いに伸びる秘密の道で、情報や鉄砲、火薬などが運ばれたということです


松尾芭蕉が、伊賀流の忍者の修行を積んで
多くの知識や技術を身につけて
「賀」の道などを通って、密かに情報を集めていた思うと
楽しいことです 歴史のロマンを感じます

しかし、それにしても忍者の生活は過酷です
忍者が身につけた数々の技能は、生きぬくためにどうしても必要なものばかりでした
忍者の家に生まれた宿命を受け止めながら、彼らは毎日修行に励んでいたのでしょう

伊賀市(伊賀上野)を歩く

2010年07月21日 | 日記
忍者の里として、そして松尾芭蕉の生まれた町として全国に知られる
伊賀上野の町を歩きました

私には、上野城を訪ねることが大きな目的でした
暑い暑い夏の日でした

鶴橋駅から、鳥羽行きの近鉄特急で名張まで、名張から普通電車を乗り継いで、
伊賀神戸で下車しました



伊賀神戸駅から、伊賀鉄道で上野市駅に向かいました
伊賀鉄道の車両には、女忍者、くの一が描かれています


伊賀神戸駅から25分で上野市駅に着きました
この駅には、いたるところに忍者が隠れていました


駅から、上野城に登りました
めざすは、白亜の天守閣と、それにつながる小天守でした
 

地下道を歩き市役所前で再び地上に出たら、大木におおわれた登城路です
大木が、ぎらぎら照りつける太陽をさえぎってくれて、涼しささえ感じます


慶長13(1608)年津の城主(22万石)となった藤堂高虎(家紋、藤堂蔦)が
慶長16(1611)年から上野城の改築に着手します

徳川家康から、「大阪の豊臣氏との戦いに負ければ、大御所家康は上野城へ逃れ、
将軍秀忠は彦根城に入る」との密命を受けていたからです
そのため、堀から30メートル近い高石垣で固めたといわれています

五重の天守閣は完成目前の慶長17(1612)年、台風により崩壊してしまいます

大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したことにより、高虎は津に引きあげ、
天守閣も再建されず、城は未完成のままとなりました
しかし、上野城には、城代が置かれ、管理されていました


今は、青い空に映えて白く輝く三重の天守閣が残っています
これは、昭和10年、川崎 克氏によって再興されたものです

天守閣の中に、氏の像と、氏が市に対して寄付採納を求めた文書が保存されています

  

岐阜県の郡上八幡城と同じように、木造で再建されたため、
急傾斜の階段となっており、来場された観光客の
「恐い!」という声が、聞こえていました

内部は、郷土資料の展示場になっていました

 
上野城の南側に、崇廣堂の一部が残っています
文政4(1821)年、津藩の藩校、崇廣堂の分校が開校されました
崇廣堂の脇には、崇広中学校、県立上野高等学校、上野西小学校が並んでいます


上野高校の、明治時代の建築である「県指定の有形文化財」の校舎や正門は
今も現役で活躍しています

正門の左には、「横光利一 若き日の五年を この校に学ぶ」の碑が建てられています

また、上野西小学校は木造校舎で、贅沢といってもいいぐらいすばらしい建物でした
写真の左は、裏から見た校舎の一部です


ただ一つ、「崇広」の名を冠した中学校(写真右)も、
ベランダに木製の手すりがついていて、
「TRY  明日につながる今日にしよう」という
生徒会のスローガンが掲示してありました

教育に力を入れていることがうかがえます
さすが、崇廣堂の伝統をもつ伊賀市だと感心しました

伊賀市には鍛冶町、鉄砲町、魚町、寺町など、往事の町名がたくさん残っています
高虎がつくった城下町の姿が、今も引き継がれているのです

特に、三之町通りを歩くと、高虎の時代の町並みをしのぶことができます


本町通りの和菓子屋、桔梗屋織居の店舗、
和菓子屋さんが多い伊賀市でも、風雅な菓子で知られています


伊賀上野は、何回かきたことがあるのですが、
忘れていたところもたくさんあって、
今回、新たに学んだこともたくさんありました

ミナミをぶらぶらしました

2010年07月21日 | 日記
暑い夏の一日、大阪のミナミ、
道頓堀、千日前からなんば高島屋までをぶらぶら歩きました


大変な人の波、歩くだけでどっと疲れが出ました
そういえば、昔から、私はデパートが苦手でした
行くと、人並みに酔って、ぐったりしていました

私の行くデパートは、最近、なぜか、ゆったり歩けて、
そんなことも無くなりましたが・・・

ミナミには、たくさんのキャラクターがいて
遠来の客を迎えてくれています

これは、時間告知が役目かもしれません ぐりこ・やのお兄さん


地方にいても知っていた、かにとたこ焼き


いたるところで出会った感じがする、だるま大臣 
不法駐輪の禁止を呼びかけていました


お好み焼きの然ちゃんとラーメンの豪竜


おなじみ、ふぐのずぼらやと、ちゃぷちゃぷの道頓堀赤鬼
ちゃぷちゃぷは、お好み焼きをつゆに浮かせて食べるのだそうです


びっくりドンキーのハンバーグをサービスしています
かわいくて、おとなしそうなキャラクターでした



道頓堀でもっとも迫力があるのが、ドンキの観覧車です


道縁には、水かけえびす様のお姿も・・・・


えびす橋のえびすさんに、
重いまぐろをかかえている日本一のすしやさん
通天閣におられるはずのびりけんさんも、おでましになっていました




キャラクターではないのですが、この名を聞くと無関心ではおられなくなる
「月光仮面」!
ステーキ屋さんでした
白いマントに黒めがね、あの懐かしい姿で拳銃を持って立っていてほしかったなあ

でも、拳銃はやっぱり無理なのかなあ 

月光仮面のキャラクターがいたら
私はたぶんステーキを食べていたと思います



大阪人のバイタリティがあらわれた
色あざやかなキャラクター、
暑くて疲れたけど、たのしい一日でした

私の好きな街8 飛騨古川

2010年07月11日 | 日記
飛騨の小京都、飛騨高山は多くの観光客が訪れる観光都市です

高山から17キロ離れたところに
川沿いに白壁土蔵が並ぶ、しっとりとした感じの町があります


瀬戸川沿いの土蔵を見てみたいと思い、飛騨古川を訪ねました

暑い夏の日のことでした

高山から、高山線のディーゼルカーで古川に向かいました
15分ぐらいで着きました



駅前通りを歩いて街道とぶつかるところにあるレストランに入って、
飛騨牛のステーキランチを食べました


飛騨古川のまちづくりは、この地を領した金森長近が、
天正17(1589)年増島城を築城し、
高山を模して城下町づくりを進めたことに始まるといわれています

また、高山は高山祭りで有名です
ここ古川にも、まつり会館に屋台が設置されています


瀬戸川は用水路としてつくられた川です

澄んだきれいな水がまんまんと流れる瀬戸川には、
錦鯉がたくさん遊泳していました

川沿いの道には、子供たちのはしゃぐ声が聞こえたり
地元の人々の散歩する姿が見られたりしています

飛騨古川は、そこに住んでいる人々の暮らしそのものを見せてくれます
生活感が希薄な飛騨高山の三之町周辺とは、一線を画しているように感じます


めあての、白壁土蔵の民家は、川に沿って並んでいました
江戸時代を通じて、この川は、
武家地と商家地に分ける境界の役割を果たしておりました


古川は、明治時代の末に大火で町並みの大部分を焼失しました
しかし、再建された民家の大部分は、従来の様式を踏襲したので
城下町の面影を残すことができたと言われています


左の建物は、「蓬莱」のブランドで知られた渡辺酒造、その前に、
酒造りに携わる杜氏の像が立てられています
この一之町通りは、重厚な町屋が続いているところです



静かな町の一角に、切り絵を並べた店をみつけました
そこに並んでいた作品と実際の風景を並べてみました



古い町並みから荒城(あらき)川にかかる霞橋の手前に
本光寺の立派な伽藍がありました
その近くに、一等水準点を見つけました
「水準測量に使う」と習った覚えがありましたが、
見るのは初めてでしたので、思わず写真に撮ってしまいました
でも、この点をどう使うのかは今もよくわかりません


お聞きした話では、飛騨の匠の中でも、
古川の大工さんは建築技法が卓越しており
仕事ぶりも丁寧だと言われているそうです
そのシンボルが、軒下の雲形肘木で、肘木をみれば、
その家を建てた大工さんがわかるとも言われています

飛騨の小さな城下町は、飛騨牛に、飛騨の匠と錦鯉の町、
なんとも贅沢な町でした

現存する12の天守閣 (その2)

2010年07月03日 | 日記
前回、現存する12の天守閣のうち、国宝の4天守閣と
重要文化財の2天守閣をまとめました
今日は、残りの重要文化財の天守閣をまとめます

四国には重要文化財に指定されている天守閣が4つあります
香川県の丸亀城、愛媛県の松山城と宇和島城、高知県の高知城です


まずは、愛媛県の南部、みかんの実がいっぱいの宇和島市に残る
宇和島城です

 

文禄4(1595)年、藤堂高虎が7万石を領して入封し
慶長元(1596)年、城山にあった板島丸串城の改修に着手しました
そして、6年余の年月を費やし、宇和島城が完成しました

城主は、藤堂氏のあと富田氏を経て、元和元(1615)年、大坂冬の陣のあと
伊達秀宗(伊達政宗の長男)が10万石で城主となり
以後、明治まで伊達氏が宇和島を支配しました
当時は、城のあたりは海であり、海城といわれていました

明治になり、櫓も取り壊され、堀も埋め立てられました
今は、天守閣のほかには、長屋門のどっしりとした姿が目につく程度です

この日は、高知から、予土線をとおって宇和島に入りました
予土線の土佐大正、土佐昭和のあたりは、
トンネルから出ると濁流の渦巻く川に架かる橋を渡り、
橋を渡り終わるとまたトンネルという、ときめくような壮大な景色でした

降り続いていた雨が本格的になり、びしょ濡れになって宇和島城天守閣に着きました
そのため、レンズが水滴で曇っていたのが残念でした

ちょうど、冷凍餃子が農薬に汚染された事件が報道されたときでした
城から下った後、食堂の奥さんの薦めで
おいしい餃子を食べたことを思い出しました


松山城

 

文禄4(1595)年、松前(まさき)城に入った加藤嘉明は
関ヶ原の戦いの後、慶長7(1602)年、20万石に加増され、
標高132メートルの勝山の山頂に、松山城を築造し入城しました

しかし、寛永4(1627)年、加藤嘉明は陸奥会津に移り
蒲生忠知が入城しましたが、寛永11(1634)年、嗣子なく断絶し
寛永12(1635)年、松平定行が15万石で、松山城に入城しました

ところが、天明4(1784)年、落雷により天守閣などが焼失してしまいます
現在の松山城は、嘉永5(1852)年に再建されたものです

通常は、ペリーが日本にやってくるようになった時代に
天守閣をつくるなど考えられないことです
内部は各階に床の間と天井をつけた贅沢な造りでした
こんなぜいたくな城は、安土城と豊臣家の大坂城だけなのだそうです


高知城





四国以外の地域の重要文化財の天守閣のうち、
丸岡城は、まだ行ったことがありません
また、弘前城は学生時代に行ったことがあるのですが、
写真が残っていません

最後に、松江城



慶長4(1600)年、堀尾吉晴が関ヶ原の戦いの功で、24万石を与えられ
富田(とだ)城に入城しました
そして、慶長12(1607)年、宍道湖を望む亀田山に
松江城の築城を始め、同16(1611)年完成しました 
領国経営には、山深い富田城では不便だったのでしょう
南は大橋川と宍道湖、東から北は泥田と沼に囲まれた地でした

しかし、寛永10(1633)年、堀尾吉晴を継いだ堀尾忠晴が、嗣子なく没し、改易となりました
寛永11(1634)年、京極忠高が入城しました
その後、寛永15(1638)年、松平直政が入城してから、
松平家の城として、明治維新を迎えました

松江城は、現存の天守閣の中では、姫路城に次ぐ大きさです

松江城を囲む堀川の北側の塩見縄手は
武家屋敷など伝統的な建物が並ぶ江戸情緒あふれるところです
小泉八雲の旧宅や記念館が集まるあたりは、
多くの観光客でにぎわっています



城は、やはり下から見上げるもの
そして、遠くから眺めるものなのかもしれません
少し離れたところから見上げる城が、もっとも美しいと感じます

再建された天守閣や模擬天守閣の中にも、
美しく、形のいい、記憶に残るものがあります
でも、長年の風雪に耐えてきた現存天守閣には
それをしのぐ存在感があります