トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

金太郎ゆかりの、石畳の宿場町

2012年04月30日 | 日記
出雲の国と播磨の国姫路を結び、江戸時代には参勤交代や物資の輸送に使われた出雲街道。これまで、惣門のある土居宿、津山城下、坪井宿を少しずつ歩いてきました。
今回は、”まさかり かついだ 金太郎♪”で知られる坂田金時が没した地で、旧出雲街道の宿場町でもある勝田郡勝央町勝間田(かつまだ)を歩きました。勝央町は、勝田郡の中心という意味でつけられました。
スタートはJR勝間田駅。平成17(2005)年の岡山国体でなぎなた会場になった時の歓迎メッセージが、まだ、そのまま残っていました。
駅前を東西に走るのは、現代の出雲街道、国道179号線。それを渡って北に向かいます。
分岐している右の細い道に「勝間田小学校跡」の石碑。「自明治24.4  至明治26.10」、「昭和48年5月建之 勝央町教育委員会 勝央町学校跡地保存会」。ここに、明治期、勝間田小学校があったのです。旧街道はもう少し北にありました。
左に向かうと、石畳の旧勝間田宿。私は、先に金太郎(坂田金時の幼名)が祀られている栗柄(くりから)神社にいくため、ここは直進しました。
道路左側にある、現在の勝間田小学校が見えると、右側には勝間田高校がありました。なぎなたで、平成13(2011)年の山口国体と全国高校総体に、出場した選手の紹介が掲示してありました。この町が、国体のなぎなた会場になった理由がよくわかります。

勝央町役場を越えてさらに北に向かうと、道路は、中国縦貫道の下をくぐります。
くぐったらすぐに右折。縦貫道沿いに、山に向かって歩きます。小高い山の登りがけに、小さな神社がありました。いくらなんでもこれではないだろうと、道なりに左折して、舗装された道をさらに登りましたが、どこまで行っても、墓地と竹やぶがあるだけです。そして、ついに、「平配水池」のところで行き止まりになりました。通りがかった方にお尋ねすると、「中国道のそばに神社があったでしょう?」とのこと。
やっぱり、あの小さい神社がそうだったんですね。地元の方は、「昔は、神社に土俵があってね。そこで相撲をとっていたよ」、「中国自動車道が通ることになって狭くなったけどね」と、お話しされていました。

真新しい灯籠1対には「平成23年10月平地区会」の銘がありました。石製の手水鉢には「嘉永元申年五月氏子中」と記されていました。
静岡県小山町から贈られた”富士ざくら”です。「ウィキペディア」には次のように書かれています。小山町は、坂田金時の生まれ故郷です。金太郎こと坂田金時は、天暦10(956)年、宮中に仕えていた坂田蔵人と八重桐(彫物師十兵衛の娘)の間に、八重桐のふるさと小山町で生まれましたが、蔵人が亡くなったため、ふるさとで成長しました。足柄山で熊と相撲を取ったり、馬の稽古に、元気いっぱいの少年時代をすごしました。 天延4(976)年、足柄峠で出会った源頼光に仕え、京に上り、やがて、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに「頼光四天王」と言われました。広く知られている大江山の酒呑童子を退治したのは、永祚2(990)年のことでした。そして、寛弘8(1012)年、討伐のため筑紫の国に向かう途中、勝央町で重い熱病のため、55歳で亡くなりました。この地の人々は坂田金時を慕い、後に墓のあった丘に小さな祠を建てます。これが倶利伽羅(くりから)神社で、明治時代になってから栗柄神社と改称されました。
栗柄神社から、先ほどの石畳の道まで引き返して、旧出雲街道を歩くことにしました。この写真は、土居宿方面から勝間田宿へ入ってくる旧街道です。街道沿いの民家はほとんど建て替えられていましたが、街道の雰囲気は、今も伝わってきます。古代、この道は出雲から大和に鉄を運ぶ道でした。また、承久の変や元弘の変のとき、後醍醐天皇が隠岐へ流されたときに通った道でもありました。そして、関ヶ原の戦いの後、津山に入封した森忠政が出雲街道を整備して、寛永(1624~1643)年間に、ここに勝間田宿も置かれたといわれています。
石畳の道に入ります。勝間田宿は、「戸数72軒、人口243人」といわれ、「津山侯本陣下山六郎兵衛、雲州侯 勝山侯 木村平左衛門、問屋福本屋市右衛門・・、津山3里、土居4里・・」と書かれているそうです。(岡山文庫「出雲街道」より)

津山藩主の参勤交代時の本陣、下山家と出雲藩主や勝山藩主の本陣、木村家の本陣と脇本陣があったようです。街道の両側には水路が流れています。今では、生活用水ではありませんが・・。石畳の両側にある民家は、ほとんどが建て替えられていますが、雰囲気のある、商家や民家が残っています。
かわずやさん。のれんがかかっています。営業中です。隣には小さな川がありました。屋号は、そこにいるかえるの鳴き声からつけたのでしょうか。
かわずやさんの向かいは、和洋食の神戸亭さん。奥行きのある宿場町らしい建物でした。
喜多萬さん。にぎやかな焼鳥屋さんの雰囲気です。
コミュニティハウスとして使われている、格子づくりの民家です。
大邸宅が2軒並んでいました。手前のお宅は空き家のようでした。
2つのお宅の間の路地です。
通り過ぎて、振り返って撮影しました。本瓦葺きの屋根に、壁に平瓦を貼り付け目地に漆喰をかまぼこ状に塗り上げた、なまこ壁でつくられており、豪壮な印象を受ける邸宅でした。
中之町公園。 勝間田警察署跡の石碑もありました。
ここに、「金太郎」の像が設置されていました。冒頭の金太郎の写真は、この像を撮ったものです。
白壁の車庫のあるお宅は、正面にある黒い板に「板」と「屋」と彫られていました。
このお宅は、裏に土蔵や家屋が残っていました。

勝間田では、津山藩の本陣だった下山家の一部が残っていたものを改修保存して地域の方の交流の拠点に活用しているとのことです。
私は、建物の形から、ここが「津山侯本陣下山家」だと思い込んで帰ってきましたが、どうやら間違っているようです。よく見ると家の形が違っていました。では、下山本陣はどこなのか、次回、訪ねたときに確認し直さないといけませんね。
勝間田のシンボル的な建物、郷土美術館。明治45(1912)年勝田郡役所として建設されました。昭和17(1942)年からは、勝田地方事務所として使用され、さらに、昭和28(1953)年、勝田・英田地方事務所が統合されて旧美作町に移されるまで使用されました。
勝央町が成立した昭和29(1954)年からは勝央町役場として、昭和57(1982)年、新庁舎に移るまで使われました。
説明書のよれば、ここは、屋内井戸と土蔵とともに、「雲州侯勝山侯(本陣)木村平左衛門・・」の木村家の遺構の一部であるということです。
この先には、「勝南高等小学校跡」の石碑。「自明治19.4  至明治41.3」とありました。
滝川にかかる勝間田大橋の手前で、石畳が終わっています。ここは、「冬は土橋、夏は歩いて渡る」(「作陽誌」)といわれており、橋がない時期もあったようです。
大橋を渡ると、すぐ右に勝田神社。元禄2(1689)年、勧請した天満宮ですが、関宿藩主久世出雲守が安永(1772~1781)年中、代官所守護神として勧請した稲荷神社も合祀されています。ここから、旅人は、次の宿場である津山城下に向かっていくことになります。

かつて訪ねた旧出雲街道坪井宿は、「車で2分の宿場」と書かれていましたが、その資料には、ここは、「1分で通過できる」とありました。入り口から出口まで、約600メートルの宿場町。宿場の街道全体をおおった石畳が続く美しい町でした。


銀山の町、生野の町並み

2012年04月15日 | 日記
生野銀山跡を訪ねた日、帰りに生野の町に入りました。
生野銀山跡からJR生野駅まで約4kmと聞いていました。

いただいた、「鉱石の道ウオーキングMAP」を手に
右側の川沿いの道(国道429号線)を生野町に入りました。
最初に訪ねたのが、旧職員宿舎。

生野銀山が、明治元(1868)年官営鉱山となり、
明治29(1896)年三菱合名会社に払い下げられるまでの間、
日本人役職員のための官舎として建設されました。
写真の手前側を、山側に向かって少し進むと
入り口がありました。

現在は、整備が行われていて、
写真で見たかつての姿とは違っていました。

見学の許可を受けようと、「受付」に声をかけました。
「どのくらい時間がありますか?」
と言いながら、高齢の男性が出て来られました。
「16時25分の列車に乗りますが・・・」と私。

どうやら、世間話ではない雰囲気です。
すぐに、出てこられた高齢男性の説明が始まりました。
「ここには、かつて19棟の官舎があった」
「1億8400万円を使って復元した」
「4棟が復元され、甲7号棟は大正時代風、
甲8号棟は明治風、甲9号棟は昭和風、
甲19号棟は社宅風(三菱の所有後の建築)に復元した」

黒澤映画で知られる俳優志村喬の生家跡、
甲7号棟は、彼が生きていた時代に合わせて、
大正風に整備されているようでした。

説明は広く生野町全般に広がり、
大変参考になるいいお話でしたが、
説明はかなり長い時間になりました。

時計を見ると、15時40分を過ぎていました。

これは、動かないと大変なことになる!
大急ぎで建物の外を回りました。
説明の方もついて来られて、
説明も引き続きしてくださっていました。

あわてて、お礼を言って跳び出しました!
旧官舎跡を出て、川沿井の道(下小路通り)に入り、
急いで歩きます。
「せめて写真だけでも撮って回ろう!」

この通りに、かつての邸宅を整備して
再生された建物が並んでいます。

SUMCO生野クラブです。
旧大山師の邸宅があったところを、
三菱が迎賓館として使用していたと言います。
明治19(1886)年の建築で
「明治21(1888)年には、
有栖川宮熾仁親王のご宿泊所になった」とMAPには、
書かれていました。

江戸時代、生野銀山町は旅人の宿泊は禁止されていました。
代官所に、公事(訴訟)のためにやってくる人々のために
公事宿(郷宿)が6軒ありました。これは、
天保3(1832)年に建てられた井筒屋(旧吉川邸)です。
現在は、「生野まちづくり工房井筒屋」となっています。

井筒屋の向かいにある、銀山町ミュージアムセンター。
旧浅田邸です。
ここは、江戸時代から代々続いた地役人の邸宅です。
播但鉄道の開設に尽力した浅田貞治郎(ていじろう)は、
ここの出身です。

平成22(2010)年に、現在のように再生されました。

急いで、先に進みます。
姫宮神社に向かう橋の上から振り返ると、
川岸に沿って、トロッコ列車の線路が残っています。

橋の途中で引き返して、先に進みます。

雰囲気のある通りです。

MAPの左の大きなマークがあるところ、
生野書院に着きます。
江戸時代以来の歴史を記す史跡資料館です。
正面の門は、旧鉱山長の社宅の正門を移築したものです。

生野書院を右に折れて進みます。
生野小学校が正面に見えます。

ここは、生野代官所があったところです。
天文11(1542)年、山名祐豊が生野城を築城してから、
ずっと、この地は銀山経営の中心地でした。
その向かって右の木立の中に碑が建てられています。

「生野義挙跡」の碑。
幕末、文久3(1863)年、
勤皇志士と生野の農民が生野代官所を占拠した
「生野の変」を、現代に伝えています。

小学校の向かいにある生野マインホールの前に、
SLC57の正面部分が残っていました。
播但線で活躍していたSLです。
播但鉄道の設立に尽力した、旧浅田邸の
浅田貞治郎のことを思い出しました。

小学校の次の通りを左折して、御料所通りに入ります。
まっすぐ行くと、来迎寺にぶつかる通りです。

来迎寺から右手方向は、寺町通りで、
宗派の異なる8つの寺院が並んでいます。

銀山の労働環境は大変劣悪で、労働者は短命でしたし、
また、全国から集まってきた人のために、
様々な宗派が必要だったそうです。

生野町には国の登録文化財に指定されている邸宅が
かなりありますが、その一つの今井邸。
来迎寺の手前右手にあります。
明治中期の建築で、大山師邸の別邸でした。
白漆喰と黒い腰板が美しい建物です。


時計を見ると16時5分を過ぎていました。
いよいよ、焦り始めました。

駅に向かって帰ります。

一里塚の跡です。
播磨と但馬の境界線があった場所につくられていました。
もちろん、今では「但馬起点一里塚跡」の石碑が残るだけです。

ここで、通りがかりの方にお聞きすると、
「駅まで5分ぐらい」ということでしたので、
もう一つ、石川醤油店を見て行くことにしました。

「醤油 石川商店」の看板がありました。
この建物も、整備されていました。
もと、庄屋宅。
大正時代から醤油屋を営んでおられます。
醤油蔵は大正期の建築だそうです。

向かいの教会の建物を見て右折すると、
すぐ生野駅です。

旧日下旅館。和風の建物ではめずらしい3階建て!
国指定登録有形文化財に指定されています。
明治42(1909)年の建築。大正10(1921)年に増築され、
一部3階建てになりました。
今も、「食堂くさか」は営業されているそうです。

駅に着いたのは、16時20分。

青く塗られた跨線橋をとおって、反対側のホームに、
なんとか到着しました。
間に合いました!

生野の町は、整備がすすみすっきりとした印象でした。
機会があれば、もう一度訪ね、
邸宅巡りと寺町巡りをしながら、
ゆっくり歩いてみたいと思っています。




生野銀山跡を訪ねて

2012年04月09日 | 日記
江戸時代、佐渡の金山と並ぶ鉱山として全国に知られ、
明治になってからは、日本の近代化に貢献した、
生野銀山の跡地を訪ねました。

最寄り駅のJR生野駅に、
途中のJR寺前駅で乗り継いで、
JR姫路駅から1時間10分ぐらいで着きました。

この日の和田山行きの単行気動車は、
すごく混雑していて、降りるのも一苦労でした。
にもかかわらず、このJR生野駅で降りたのは、
私の他には、同じぐらいの年頃の男性が一人だけでした。
お話をうかがうと、大阪から来られていて、
歩いて銀山跡に行かれるとか・・。
ご一緒することにしました。

銀山跡まで、約4km。
まずは、JR生野駅から東を流れる市川に向かって歩きます。
突き当たりは生野中学校で、橋を渡った向こう側です。
橋の手前を左折して、北に向かって進みます。
この道は、鍛冶屋町通りで、旧馬車道でした。
「銀の馬車道」と、播但線の気動車に描かれていたように、
産出した鉱産物を姫路の飾磨港まで輸送する交通路でした。

口銀谷(くちがなや)の信号を右に折れて進みます。

左側に、生野銀山の旧職員官舎がありました。
黒沢映画にたくさん出演した俳優、志村喬は、
お父さんが生野鉱山の職員だったので、
ここで生まれたのだそうです。

山神橋を過ぎると、町並みが途切れ、
市川沿いの一本道になります。

三菱マテリアル生野事業所です。
明治元(1868)年、生野銀山は官営鉱山となり、
フランス人鉱山師の指導で、施設や設備の近代化を進め、
明治29(1896)年三菱合名会社に払い下げられたのです。

2人でひたすら歩きます。
男性は、前日、四国八十八カ所霊場巡りの
満願を迎えられたそうです。

奥銀谷(おくがなや)の小野大橋で市川を渡ります。
橋に刻まれている名前は「このおおはし」でした。

道は登り坂になり、登り切ったら銀山跡地です。

鉱山博物館の入り口の門です。

そこには、菊の紋章がありました。
16弁の菊の紋章、皇室の御紋です。
明治22(1889)年から、
三菱に払い下げられる明治29(1896)年まで、
宮内省御料局所管の皇室財産となっていました。
その時につくられたものなのでしょう。

菊の紋章のある門の手前に、
明神鉄道の車両が展示されていました。
通称「1円電車」です。
日本一のスズ鉱山の明延(あけのべ)と
神子畑(かみこばた)選鉱場間、6.1kmを結んで、
鉱石を運搬していました。
昭和4(1929)年に開通しました。

人も乗せましたが、運賃は当初は50銭でした。
昭和27(1952)年に1円となり、
昭和52(1977)年に、
明延鉱山の閉山によって鉄道が廃止されるまで、
1円のまま据え置かれていました。
そのため、明神鉄道は「1円電車」と呼ばれていたのです。

鉄道車両が展示されているところには、
石垣にカラミ石が使われていました。
カラミ石は、銅を精錬する過程で出た不純物を固めたものです。
生野町では建築資材として使われていました。

初めて見る鉄道、夢中で写真を撮っていると、
一緒に歩いて来た大阪の男性と、
いつの間にか離ればなれになっていました。

門を入ると、すぐ前に、レストラン・マロニエ。

鉱山職員が食べていたハヤシライスが復活していました。
昭和30年代の生野町の人口は1万人程度、
町内にあった社宅には、
都会からやってきた、鉱山につとめる人や家族が生活していて、
モダンな雰囲気が漂っていました。
社宅で、奥さんがつくった手づくりのハヤシライスに
町の人は「こんな食べ物があったのか!」と感心したそうです。

一皿、800円。 おいしかったです。

中に展示されていた銀塊。30kg以上あるのだそうです。

並んで展示されていた銀鉱石。

鉱山資料館。
生野銀山の歴史が展示されています。

近代化される以前の採掘のようすを再現した展示物です。
狭い坑内で働く人たちの姿が表現されています。

いよいよ、坑道の見学です。
900円の入場料を支払って、生野代官所の門から入ります。
ちなみに、江戸時代の代官所は、
現在、生野小学校が設置されているところに
あったと言われています。

生野銀山は、大同(806~810)年間の開坑といわれています。
中世には、但馬領主の山名祐豊が鉱山経営をしていたようです。
その後、織田信長は堺の商人、今井宗久を派遣して鉱山を経営し、
豊臣秀吉も、生野を直轄地として治めたと言われています。

江戸時代には、幕府の天領となり、
11代の奉行、40代の代官によって支配されました。
徳川家光の時に最盛期を迎えたと言われています。

金香瀬坑(かながせこう)の入り口です。

鑿(のみ)の跡もなまなましい坑道です。

生野銀山は明治になって官営鉱山になりました。
そのとき、鉱山の近代化に貢献したのは、
ジャン・フランソワ・コアニエという、
「政府のお雇い外国人」でした。
フランスのサンテチェンヌ鉱山学校を卒業した、
来日時、30代前半の若き鉱山師でした。

坑道は、900mまで入ることができました。
案内もていねいで、よくわかりました。

鉱脈が現れています。白い部分がそれです。

発破作業の説明がしてあるところです。
発破時の音量を体験できる装置も設置されていました。

前の口に鉱石を入れ、後ろのトロッコに収めるローダー。

蓄電池で動く機関車。

太閤水。
豊臣秀吉が坑内に入ったとき、
この水で、茶を点てて飲んだと言われています。
もちろん、今は「飲んではいけません」。

坑道の出口になっている滝間歩坑(たきまぶこう)。
豊富な展示物が楽しい坑道でした。

日本の近代化を支えた生野銀山、
閉山してしまいましたが、今もかつての栄光を
伝えてくれています。

JR生野駅からご一緒した方の姿を捜したのですが、
結局、見つけることができませんでした。
きちんとしたご挨拶ができないまま、
お別れしてしまったことが、残念でした。

赤穂塩で栄えた港町、坂越

2012年04月03日 | 日記
忠臣蔵で全国に知られる「播州赤穂」の兵庫県赤穂市。

赤穂市の東部、JR播州赤穂駅から列車で1駅(所要4分)、海岸風景と伝統的な町並みをもつ美しい町があります。坂越の町です。

「さこし」です。

この景観を見ようと、JR坂越駅から坂越の中心地に向けて、スタートしました。駅からの道をまっすぐ、千種川に向かいます。坂越橋西の信号の手前を左折して、上流(相生方面)に向かって歩きます。

坂越は、千種川の左岸の2つの山塊が出会う谷筋に、海に向かって広がる町です。

坂越中学校の信号で右折し、坂越橋で千種川を渡ります。かつて、坂越から相生方面に向かう人々は、坂越橋を中学校側に渡り、ここから千種川をさかのぼって行ったと言われています。

橋には、かつて千種川を行き来していた高瀬船の絵が描かれていました。

橋を渡りきった千種川左岸の道路端に、地元の関係者の手で「高瀬舟船着場跡」の碑が建てられています。

製塩が盛んになった江戸時代には、因幡街道最大の宿場町平福で高瀬船に積み替えられた製塩の燃料となる薪が、ここまで運ばれていました。明治23(1890)年に山陽鉄道有年(うね)駅が開業してからも、高瀬船による水運は続けられていました。

明治25(1892)年頃には、米、麦、小麦、木材、薪、炭、大豆などが、ここまで運ばれていました。逆に、ここから上流に向かっては魚、石炭、酒粕などの肥料、砂糖、清酒、食塩などが、運ばれていたそうです。

千種川左岸から坂越の中心地に入ります。

このあたりの民家は、ほとんど建て替えられていて、静かな住宅地という雰囲気です。南に向かって歩いて、10分ぐらいで、「JA兵庫西」の建物の方からやって来る道に合流します。

合流点の正面には、江戸時代に、赤穂藩が設置した木戸門の跡がありました。木戸門の脇の道を進むと赤穂の城下に至ります。

「右 大坂 道、 左 城下 道」そして、その裏側には、「右 み那と」の文字が。

この案内のとおり、港に向かって歩きます。この通りは、かつて、大八車が荷を満載して行き来していた、坂越大道(さこしだいどう)です。

ゆるやかに登る道を上りきって少し左にカーブするところで、伝統的な家並みが見えてきます。このあたりが、坂越のかつての姿をもっともよく残しているエリアです。

これは、奥藤酒造の醸造場です。慶長6(1601)年創業で、後に酒造業のほか、大庄屋、船手庄屋をつとめていました。回船業で財をなし、地主であるとともに、金融業、製塩業、電灯などの事業を行っていました。

酒蔵は、寛文年間(1661~1673)年の建物で、石垣で半地下式になっているようです。現在は、奥藤酒造郷土館として使われています。

清酒「忠臣蔵」、「乙女」が展示されていました。

母家は300年前の建築。「複雑な平面をもつ入母屋造り」で、西国大名の本陣としても使用されていました。

すぐ近くにある「坂越まち並み館」は、旧奥藤銀行を修復して整備したところで、坂越の町並み景観の保存のための拠点施設として使われています。

中には、旧奥藤銀行の看板が保存されています。 

江戸時代前期の寛文(1661~1673)年間に開設された西回航路の発展により、坂越の廻船業者は木綿、紙を仕入れて西国で販売し、現地で購入した米を上方に輸送していました。寛政(1789~1801)年間からは、赤穂の塩を各地の塩問屋に売って大きな利益をあげていたのです。ところが、明治時代になって、日露戦争の戦費を得るため、国は塩を専売制にしたので、経営的にたちゆかなくなったため、奥藤家は廻船業をやめ、蓄えた資金で金融業を営むようになりました。
こうして、奥藤銀行は設立されました。

大正末期に奥藤銀行坂越支店となり、兵和銀行、神戸銀行、赤佐信用金庫を経て、はりま信用金庫(現兵庫信用金庫)坂越支店となりました。赤佐信用金庫時代の看板と金庫が展示されています。

奥藤家の路地に、井戸枠が展示されていました。大道井(だいどうい)です。井戸の跡で、今も井戸は敷石の下に残っています。
井戸枠には、つるべが滑った跡も残っていました。

奥藤家を過ぎると坂越大道は、坂越湾に出ます。そこに、赤穂藩の旧坂越浦会所(村の行政機関)があります。天保3(1832)年に完成しました。

藩主の茶屋も兼ねていました。2階にあった、藩主専用の部屋、御成之間(観海楼)です

藩主の休憩用の部屋、落之間(らくのま)もついています。旧会所の正面の2階の左が観海楼。右の入り口の上に落之間がありました。枕が置かれていました。

観海楼から見える、現在の坂越湾は、埋め立てにより、海まで、ずいぶん遠くなっていましたが、その先の生島(いきしま)は、美しい姿をとどめていました。

旧坂越浦会所の並びには漁師さんの集落があります。本瓦葺き、平入りの大きな母家と土蔵をもつ立派な邸宅です。東之町です。

その一角ある大避(おおさけ)神社。参道の石段にある灯籠には、「・・丸」と刻まれており、この地の漁師さんの寄進によるものではないでしょうか?

国の天然記念物である「生島」には、大避神社の御旅所があります。

上から見た、坂越の屋並みです。こちらは、漁師町の東之町の町並みです。

そして、こちらは、坂越大道沿いの民家の屋根です。春の日差しに、邸宅の屋根が輝いていました。

その姿は、坂越の栄光の歴史を、教えてくれていました。