トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

金刀比羅宮まで3里、丸亀街道を歩く

2013年12月30日 | 日記
江戸時代中期以降盛んになった金毘羅参詣に、四国の各地から多くの人が金毘羅宮をめざしました。それに伴い、高松街道、阿波街道、伊予街道、多度津街道などが整備されていきました。その中で、最も多くの参詣の人々が往来し、メインルートともいわれたのが丸亀街道でした。丸亀港から金毘羅宮まで3里(12km)。平成6(1994)年、丸亀市の「金毘羅街道景観整備事業」によって、歩きやすく整備されていると聞いていました。現在は「金刀比羅宮」と表記していますが、ここではそれ以前の「金毘羅宮」を使用します。
 
情報をいただくためにうかがった駅の観光案内所でパンフレットをいただきました。12kmならゆっくり歩いても4時間程度あれば到着する、それなら歩くことができるだろうと、旧丸亀街道をたどって金毘羅宮まで歩くことにしました。
 

観光案内所でいただいたパンフレットをもって、駅から北の瀬戸内海方面に向かいました。パンフレットによれば、丸亀街道の起点は二つありました。一つは、京極船魂(きょうごくふなたま)神社付近でした。讃岐浜街道に架かっている京極大橋の橋脚の付近にあります。
さて、延享元(1744)年に、大坂と丸亀を結ぶ定期船が就航し、参詣の人が飛躍的に増えました。そのため、従来の河口を利用した船入(ふないり・湊)が手狭になったため、文化3(1806)年にこの付近に福島湛甫(ふくしまたんぽ)を建設しました。

見づらいのですが、文政11(1828)年ごろの地図が遊歩道のガードに掲示してありました。「現在地」が現在の船魂神社付近です。その左の長方形の部分が福島湛甫(現在は埋め立てられてありません)です。現在、京極船魂神社があるところは、福島湛甫の南岸にあたっています。右に「船魂社」が見えます。当時の京極船魂神社は、現在地より少し南に鎮座していたようですね。

もう一つの起点は、ここ太助灯籠です。天保3(1832)年に新堀湛甫(しんぼりたんぽ・2013年12月24日の日記)ができてからは、ここからスタートする人が多くなりました。その道はいくつかありましたが、私は、太助灯籠から南に進み通町(とおりちょう)に入り、すぐ右折して進む道を行くことにしました。

JR予讃線のガード下をくぐり、通町商店街に入ります。

商店街に入ってすぐ、かどやさんの手前を右折して、西に向かいます。

左側に、スペース114(香川県の最大の地方銀行、114銀行の丸亀支店本町出張所)がありました。

その次が富屋町商店街。丸亀湊の京極船魂神社から南下してきた参詣の人々とはここで合流します。さらに西に向かい、丸亀駅前から南に向かう京極通りを渡ります。

京極通の次の小さな路地、左の駐車場の先を左折して南に向かいます。上に示したパンフでは、行き止まりの道に見えますが、正確にはこの先も道路が続いています。左折した先は、寺院が並ぶ寺町の一角になります。実は、私がこのルートを選んだのは、この先の寺院の中に、興味を引かれたところがあったからです。

左折して南に進むとすぐ右にあった法音寺。「井上通女」の墓が残っています。井上通女は丸亀藩京極家2代目藩主、京極高豊の母の下で仕えるため江戸に向かいました。その途中の新居(あらい)の関所で「女」と書かれていた道中手形を持っていたのに振り袖を着ていたため(この場合は「小女」と書かれていなければならなかったのです)、通行手形の不備ということで、足止めにされたことで知られています。「入り鉄砲に出女」の厳しい取り締まりを示すエピソードとして有名です。(「新居関所に行ってきました」2013年5月21日の日記)。井上通所は、江戸時代を代表する女流作家、歌人です。地図で「法音寺」の名を見つけたときから訪ねてみたいと思っていました。

さらに南に進むと、右側に灯籠が見えてきます。写真の右奥に寿覚院の山門が見えます。「左 金毘羅道」「本宮百五十八丁」と刻まれた道標を兼ねた灯籠がありました。

この先のようすを示したパンフの地図です。この先からは、道標や金毘羅灯籠、距離の「丁」を示す「丁石」をたどる旅になります。

その先の交通量の多い県道(旧国道11号線)の向かいに、道標があります。明治13(1880)年、南条町の有志が建立した道標です。正面に「すく こんひら」、東面に「左 こんひら道」、南面に「右 かわくち」と刻まれています。「川口」は丸亀湊を表しています。もともと、10m南の交差点に設置されていて、南条町道標として親しまれていました。道路の改修などで転々とした後、平成6(1994)年の「街道景観整備事業」により、この地に移されてきました。「すく こんひら」と示されたように、右の通りをまっすぐ南に進みます。

30m進むと、また道標があります。「すぐ こんひら道」と「田宮坊太郎の墓所」を刻んでいます。田宮坊太郎は仇討ち話ですが、史実ではないといわれています。この手前の道を進み突き当たりの左にある玄要寺の一角に、丸亀藩6代藩主京極高朗(たかあきら)の墓所が設けられていました。京極家7代の藩主のうちで、丸亀に墓所があるのはこの高朗だけだそうです。

その先で、ゆるやかに右に左にカーブします。かつて、枡形があったところではないかと思います。左側にあった南条町の石灯籠。明和元(1764)年、農人町と南条町(現中府五丁目)の講中によって、この地に建立されたものだそうです。石灯籠の前の道路がベージュ色の自然石で舗装されています。この色に従って進めば、金毘羅街道を進むことができます。さらに、南に進みます。

その先、三叉路の左にあった道標。「西 ぜんつうじことひら道」「北 汽車海岸へんろ道」「南 このさきだいせん阿波街道」と刻まれています。大正3(1914)年、鷄鳴軒という散髪屋さんが建てた道標です。阿波へ向かう人々のために、ここからまっすぐ行く新しい道を教えたものです。この前を右折します。

道路にあった「こんぴら湊 まるがめ街道」のマークです。

ベージュ色に塗られています。このまま道なりに進みます。途中にあった三叉路では左方向に向かって進みます。

道路の正面に見えた文化5(1808)年建立の「百四十丁石灯籠」です。左は、四国八十八カ所巡礼の道標です。

「金毘羅大権現」と刻まれた百四十丁灯籠です。見てすぐ気づきますが、もともと道標だったものに火袋を乗せて灯籠にしたものです。

正面にある鳥居の手前右側にあった「従是金毘羅町口江百五拾丁」の石碑。金毘羅街道の起点を示す「起点石」といわれています。明和4(1767)年に建立されたもので、もとは、川口(丸亀湊)にあったものです。この地は、大正14(1925)年頃まで駕籠かきの詰所があったところといわれています。ちなみに、金毘羅側からの起点石は、高灯籠のある北神苑に残っています。

中府(なかぶ)の大鳥居です。光線の関係で、振り返って撮影しました。金毘羅宮の一の鳥居です。明治4(1871)年に大坂の泉(州)大鳥郡堺、長赤間関、奥北郡野邊地と地元の丸亀の人々によって建立されたそうです。高さ22尺(6.7m)、柱の間は15尺(4.5m)あるそうです。昭和18(1943)年に地震で倒壊しましたが、金刀比羅宮が修復したそうです。

大鳥居の先、右にローソンのある交差点を渡ります。その先に丸亀城西高校の入り口。その先に「中府三軒家の三つ角」と呼ばれている交差点があります。そこに、「平成の丁石」である「五丁」の石碑が建っていました。金毘羅街道はその手前を左折していました。県道33号線を渡ってさらに東に向かいます。

そして、城西コミュニティの前の道路を右折して、県道204号に入り、再度南に向かって歩きます。

交通量の多い道路、家の切れ目から讃岐富士、飯ノ山を右に見ながら進みます。単調な道になりました。

道路の分岐点に設置されている「平成の丁石」。「二十丁石」です。ここから、金毘羅街道は右の道に入ります。

その裏のヘアーサロンの前にあった、柞原(くはら)の常夜灯。文久3(1863)年に金毘羅大権現へ奉納するために建てられた常夜灯ですが、「右 こんぴら道」と台座に彫られていて、道標も兼ねてつくられたもののようです。その先で、国道11号線を横断します。金毘羅宮に向かってひたすら歩く旅。心境としては、パンフレットに掲げられている灯籠や道標、丁石を見つけることが目的の旅のようになってきました。まるで、スタンプラリーです。左側にあった三船病院の脇を過ぎました。右にあった田村池の水はほとんでありませんでした。

右側に、正面寺の自然石灯籠を見つけました。コーポの建物の駐車場の中でした。万延元(1860)年、村中安全を祈ってつくられたという灯籠です。

高松自動車道の下をくぐります。

その先は二つの道の分岐点です。その中心に一里屋の灯籠と丁石が立っていました。灯籠は、明治7(1874)年に地元の住民によってつくられたようです。中台(火袋の下)は6角形で方位が十二支で示されています。「東 高松 西いよ こんそうじ せんつうじ」、「南 金毘羅」、「北 丸亀」と刻まれています。丁石には「是より鳥居まで百丁」。埋もれていたのを復活させたものだそうです。灯籠と丁石を左に見ながら先に進みます。スタンプラリーのような旅は、まだまだ続きます。

郡家(ぐんげ)に入りました。金毘羅街道には、今日の四国八十八カ所の参詣でみられる「お接待」とよく似た接待がありました。参詣の人々が休憩する場が街道の郡家(ぐんげ)、与北(よぎた)、公文(くもん)に設置されており、お茶などの接待が行われていました。この付近に郡家の茶堂がありました。

道路の左に神社の入り口に見られるような石橋が見えました。左には皇子神社。右には神野神社がありました。

左の皇子神社の参道にあった「両宮の石灯籠」です。この先に見えた讃岐富士がきれいでした。嘉永7(1854)年、地元の方が八幡様(神野神社)と金毘羅様の両宮に奉献したもののようです。

神野神社の前に戻ります。「すぐ こんひら道」とある、金毘羅灯籠でした。

ここに郡家の茶堂があったと書かれていましたが、捜しても捜してもその跡がわかりません。あきらめて先に進もうとしたとき、何げなくのぞいた先に、「賽祷碑」(さいとうひ)がありました。パンフの説明によれば「肥後の美作九平治一族が、八幡様と金毘羅様の神恩に報いるため、雨傘千本を献じて感謝の意を表し、国家安全・商運吉祥を祈ることを記したもの」と書かれています。ここが、郡家の茶堂の跡でした。この先で、交通量の多い道路と合流します。さらに先をめざします。

交通量の多い道をひたすら前に歩きます。たくさんの車が、わざわざ中央に寄って走ってくださいます。運転者から見ると、私はずいぶん迷惑な歩行者だと思われていることでしょう。左側にローソンの広い駐車場がありました。駐車場と道路のガードロープの間に隠れるように、「五十丁」の丁石が建っていました。50丁は、金毘羅街道に3分の1の距離です。しかし、この位置ではないそうです。道路工事のたびに移されたようで、もともとの場所はわかっていないそうです。

先をめざします。右側にあった篭池(かごいけ)にも水はほとんどありませんでした。やがて道路は緩やかに右カーブします。「琴平8km」の青い標識があります。金毘羅街道はそのまままっすぐ進みます。

田んぼの中の道になりました。交通量が少ないので落ち着けます。与北(よぎた)町に入りました。道路の右側に灯籠があるのに気がつきました。「角下組(すみしもぐみ)の石灯籠」でした。寛政7(1795)年9月の建立。その前に「七十丁」の丁石が、灯籠に守られるように建っていました。

角下組の灯籠から少し進むと、右側に黒住教の教会所があります。ここが、金毘羅街道のほぼ中央にあった与北の茶堂跡です。東西4間、南北5間、内部は土間でした。十一面観音を祀っていましたが、現在は、丸亀市内の宝光寺に安置されています。


ひときわ目立つ大きな石灯籠です。金毘羅街道の中で最も大きい灯籠です。火袋は6面。中台も6面あり、1面に1文字ずつ「金毘羅大権現」と彫られています。昭和21(1946)年の南海地震で倒壊しましたが、昭和42(1967)年復元されたそうです。

かつての茶堂の名残が比較的よく残っています。当時の石橋です。

手洗石です。これも当時の名残です。

馬乗石。馬に乗る時に使用した石だそうです。「備中 早嶌嶋屋仙次郎」と彫られていました。「備中の国早島」は、私にとっては隣町といっていいところです。ごく近いところに、嶋屋さんという屋号の店があったのですね。「寛政7(1795)年9月吉祥日」と刻まれていました。

その先の田んぼのあぜ道のようなところに建っていた「角上組(すみかみぐみ)の石灯籠」です。角下組の石灯籠と一対になっているそうです。同じ、寛政7(1795)年の建立です。

ここから、また、ひたすら歩きます。

与北町のはずれで道が二つに分かれていました。その分かれ道に建っていた「山下の道標」です。後ろの畑のビニールがぴかぴか光っていました。  「 右 金刀比羅道  左 大川剣道  すぐ 丸亀 」とありました。明治11(1878)年と彫られていました。右側には、平成の丁石「九十丁」が建っています。平成の丁石があるところは、間違いやすいところです。地図をしっかり見て、右の方に向かって進みました。

そのまま進むと、県道200号を渡ります。まんのう町公文に入ります。次は公文の茶堂跡がありそうです。

県道を越えて左カーブの先に、山神酒店さんがあります。その先に川の樋がありました。

酒店さんの次はうどんやさん。その間にある樋の手前を金毘羅街道は右折して山裾を南に向かっていました。

うどんやさんの裏の畑に、かつて、公文の茶堂があったそうです。

茶堂があった畑の右側を進みます。

山裾を進むと、富隈(とみくま)神社がありました。

富隈神社の境内に、百十九丁の石標が移設されているのに気がつきました。周囲を捜すと他にもあって、九十二丁石、九十七丁石、百三丁石、百六丁石、百十七丁石の6つの丁石が見つかりました。距離を考えると、比較的近いところに設置されていた丁石のようです。道路工事などで移動させたときに、ここにもって来たのでしょうね。

田んぼの中の道を進み、県道47号を越えた先に、「百十丁」の平成の丁石がありました。丸亀湊から金刀比羅宮まで150丁ですから、残るは40丁です。3km余りになりました。でも、灯籠や丁石を捜しながら進む、スタンプラリーのような旅はまだまだ続きます。

黙々と歩き続け、次に出会ったのが、「金」のマークがついた自然石の灯籠と、その前にあった百二十四丁石でした。道路の左の民家の前の用水路の近くにありました。 百二十四丁石は、もともとこの地にあったものです。残り25丁のところまで来ていました。少し元気が出てきました。

パンフにあった地図も、いよいよ最後のページになりました。頑張って最後まで歩き通そうと思いました。

琴平町苗田(のうだ)地区に入りました。道路の右側の民家の生け垣の中に、白い案内板がありました。江戸時代、このあたりは苗田村でした。周辺の榎井(えない)村、五条村、五毛村とともに幕府領(天領)となり、ここ苗田村に代官所が置かれました。初代の代官には守屋与三兵衛が任命されました。天領からあがる年貢は満濃池(まんのういけ)の改修や用水路の整備に使われていたと、白い案内板には書かれていました。

ここまで、ほぼまっすぐ南下してきた金毘羅街道も、いよいよ金毘羅宮に向かって進むことになります。香川三菱農機の会社の前で右折します。

その先の右側のあぜ道にあったのが、藤の棚跡と京都の後藤八郎兵衛が寄進したといわれている「百三十一丁」の石碑です。奈良出身の放浪の画家、大原東野が丹精した藤棚があったところでした。残るは二十丁です。

道なりに進み、左の民家の先で左折します。

左折したところにあった若宮神社。境内にある石井神社の石碑が大きいため、石井神社かと思いましたが・・・。

若宮神社の先の小さな四つ角を右折します。

そこから、金毘羅宮方面を見ると、温泉旅館の間に高灯籠が見えました。さすが高灯籠です。歩いてくる旅人の目印になったことでしょう。


この道は西に向かって延びていました。県道319号の向こう側にある琴平バスをめざして歩きます。

琴平バスの会社の脇で県道を渡ります。さらに西に向かいます。その先に、鳥居が見えて来ました。

横瀬の石鳥居です。扁額には「丸に金の字」の金毘羅宮のマークが掲げられています。柱には、奉献した方でしょうか?備前児島、野崎武吉郎、鎌田弥太郎 佐藤文太郎などの名前が刻まれています。野崎武吉郎は、塩田王といわれた児島の豪農、野崎家の方で貴族院議員もつとめた人です。鳥居の右側の柱の下に、「百三十五丁」の平成の丁石がありました。金比羅宮まで、あと15丁です。

金毘羅街道は、その先で、JR土讃線の下をくぐります。そして、すぐ左折します。

今度は、琴平電鉄琴平線の踏切を渡ります。

踏切の左で、琴平電鉄はJR土讃線の下をくぐって榎内駅から高松方面に向かっていきます。

踏切からすぐ先に地蔵堂と石灯籠が並んでありました。石灯籠は「横瀬の石灯籠」と呼ばれています。ここから、道なりに進むと大西病院の前を通って左に曲がります。目の前に、高灯籠が見えてきました。


丸亀からの金比羅街道は、高灯籠のある北神苑の東側の道を通って金比羅宮に向かっておりました。

北神苑にある高灯籠です。万延元(1860)年に完成しました。高さ27m。丸亀の沖を通る船からも見えるような高さにつくったということです。以前影した写真です。

金毘羅街道にゆかりのものが残っていました。高灯籠の左にある藤棚です。百三十一丁の丁石の隣にあった大原東野の住居跡にあった藤棚でした。 明治30(1897)年頃に、ここに移されたということです。

中府(なかぶ)の大鳥居の近くに、丸亀湊からの起点石「百五拾丁」の石がありましたが、こちらは金比羅宮側の起点石です。同じように「百五拾丁」と刻まれていました。

丸亀湊からやってきた参詣の人々は、北神苑の東側の道をこのまま進み、高松街道からの参詣の人々とともに一の橋を渡って参道を登って行きました。 丸亀からの150里(12km)の徒歩の旅の終点でした。

JR土讃線の琴平駅に着いたのは、もう暗くなっていました。最初、4時間ぐらいあれば着くだろうと金毘羅宮に向けて歩き始めましたが、なかなか目標が見つからず、多くの時間がかかってしまいました。特に、曲がるところがわからず、琴平電鉄の榎井駅まで行ってしまったことは、終点に近づいていたところでしたので、時間のロスにがっかりしてしまいました。JR琴平駅に到着したのは午後5時近くになっていました。これという見どころもないまま歩くのはなかなか厳しいことでしたが、小さな道標や丁石の存在に元気をもらいながら歩いた旅でした。




金毘羅街道の上陸地、丸亀の新堀湛甫

2013年12月24日 | 日記
JR丸亀駅に降り立ち、人通りの少ない北口に出ました。

さほど広くない駅前広場に、常夜灯が立っています。駅の入り口から見えるところに、「金毘羅街道」と刻まれていました。江戸時代から、伊勢参りと並ぶ多くの参詣者で賑わった金毘羅参り。旅人を運ぶ金毘羅船から降りて上陸するのが、丸亀の港でした。四国の各地から金毘羅大権現をめざして、たくさんの人が旅を続けましたが、その中でも丸亀に上陸する旅人が最も多かったといわれています。丸亀は「門前みなと」として栄えました。なお、こんぴらさんは、現在では「金刀比羅宮」と呼ばれていますが、江戸時代には「金毘羅大権現」と呼ばれていました。ここでは「金毘羅大権現」と記します。

丸亀駅北口の広場から、東に向かってJR予讃線に沿って歩きます。100mぐらい歩くと、右側に、予讃線の高架の下から通町(とおりちょう)の商店街が見えました。ここを、左折して海の方(手前)に向かって歩きます。

10分ぐらいで、丸亀港に着きました。右側の三吉旅館を過ぎると視野が広がります。讃岐浜街道に架かる青い京極大橋の手前に、大きな青銅製の灯籠が見えました。

道路の左側、三吉旅館の向かいにあったのが、みなと公園。そこに、「こんぴら丸」がありました。江戸時代、大坂から参詣者を運んだ定期船でした。

でも、これは、復元された展示品ではなく、子供のための遊具でした。船に滑り台がついていました。

こんぴら丸の向こうにあった、一対の常夜灯です。天明8(1788)年、「岡山古手屋中」が寄進した常夜灯で、もともと3基あったそうです。明治24(1891)年に、丸亀から金毘羅大権現に向かう丸亀街道の中府(なかぶ)に移されていましたが、平成元(1989)年にみなと公園に帰ってきました。残る1基は、善通寺市の金倉寺に移されているそうです。

みなと公園の中のオブジェ。金毘羅船が描かれています。江戸時代中期から盛んになった金毘羅参り、一定のお金を出し合い「くじ」に当たった人から金毘羅参りに行く「金毘羅講」が各地につくられました。延享元(1744)年、江戸・京・大坂からの参詣者を運ぶため、定期便、「こんぴら丸」が就航しました。大坂、淀川河口から神戸(魚津)、室津、牛窓、下津井を経由して丸亀に向かう4泊5日の船旅でした。

丸亀港の船溜まりです。新堀湛甫(しんぼりたんぽ)です。天保3(1832)年、丸亀藩は、金毘羅参詣の人を増やすため、幕府の許可を得て、東西80間(145,44m)、南北40間(72,72m)、入口15間(27,27m)の湛甫を完成させました。この地の金毘羅宿の柏屋団次らが江戸に向かい、江戸や周辺の国で「金毘羅千人講」を募り、1357人が出し合った資金で建設しました。時の丸亀藩主は丸亀藩の京極家、5代目藩主京極高朗(たかあきら)、40年にわたり藩主として君臨し、丸亀藩発展の基礎をつくったことで知られています。

ちなみに京極家は播磨国竜野から転封し、明治維新まで7代、210年余り丸亀を治めました。7人の藩主のうち、唯一、高朗だけが丸亀市内に墓所が置かれています。南条町の玄要寺にある高朗の墓所です。

新堀湛甫にあった「太助灯籠」です。高さ5,3m、青銅製の灯籠です。天保5(1834)年につくられました。台座に「江戸講中」と彫られていますが、常夜灯千人講を募り、4000人近い人々が浄財を寄付してつくられました。 胴体部分に「奉納 金八拾両 江戸本所相生町二丁目 塩原太助」と刻まれています。寄進した1381名の名が彫られていますが、一番多くの金額を寄付した塩原太助の名を取って「太助灯籠」と呼ばれています。また、「石工 當所 中村屋半左衛門 藤原清品」と刻まれていました。

太助灯籠のところが、金毘羅街道の起点です。丸亀からの金毘羅街道の途中、中府の大鳥居のところに、「従是金毘羅町口江百五拾丁」と彫られた案内石(「起点石」と呼ばれています)が立っていますが、もともとは、起点であるこの太助灯籠の付近にあったものだといわれています。

この新堀湛甫と灯籠の事業は20年もかかった大工事でしたが、莫大な資金は、江戸幕府の老中や豪商などを動かして確保し、藩の財政にはまったく影響を与えなかったといわれています。そのために尽力したのが、丸亀藩江戸留守居役、瀬山登でした。かれは、天明4(1789)年に丸亀藩主の家に生まれ、小姓、大目付、勘定奉行、物頭を経て江戸留守居役になりました。幕府や豪商らとの折衝にあたりました。当時、丸亀藩には江戸屋敷には酒が飲める家臣がいなかったため、接待はもっぱら彼の仕事だったそうです。

現在、太助灯籠のそばに瀬山登の像が建てられています。大事業の功労者でした。かれは、また、江戸藩邸の隣にあった中津藩から団扇(うちわ)の作り方を学んでいます。それを丸亀藩の名産に育て上げました。金毘羅参詣の旅人がそれを土産として持ち帰り、その名声は全国に広がっていきました。丸亀では、丸亀藩の繁栄の立役者として、瀬山登の功績は高く評価されています。

江戸時代を通じて、丸亀港は早朝から夜まで、荷揚げ人足や金毘羅参りの一行で賑わっていました。ここから、金毘羅大権現まで150丁(3里=約12km)ありました。金毘羅大権現をめざす人々は、距離を示す「丁石」や灯籠(常夜灯)を頼りに、旅を続けていきました。








中学生がつくったJR大杉駅

2013年12月17日 | 日記
香川県多度津駅でJR予讃線と別れ、高知方面に向かうJR土讃線。

その沿線に、樹齢3000年といわれる「日本一の大杉」がどっしりと根を下ろしています。高知県長岡郡大豊町杉にある「杉の大杉」です。入り口におられた地元の方にお聞きすると、「屋久島の縄文杉は樹齢2500年、こちらは3000年。根元の大きさと樹齢から日本一といわれていますが、高さでは和歌山県の杉に少し負けています」とのことでした。

説明によれば、「延喜2(912)年、杉本太郎なるものがこの巨木のもとに貴船大明神とともに祇園牛頭大王(ぎおんごずだいおう)の尊像を鎮祀した」という伝説があるそうです。その頃からすでに大木だったということです。

裏から見た大杉です。この大杉は北大杉(写真の左側)と南大杉と呼ばれる2株の大杉からなっていて、この2株は根元で合着しているそうです。 北大杉は根元の周囲が約16,5m、樹高約57m、南大杉は根元の周囲約20m、樹高約60m。昭和27(1952)年国の特別天然記念物に指定されています。

「杉の大杉」の近くに、あの国民的大歌手、美空ひばりの歌碑が立っていました。「なぜ、美空ひばりがここに・・」と思いましたが、9歳の美空ひばりは大杉付近でバスの転落事故に遭遇し、九死に一生を得たそうです。そのとき、彼女はこの大杉に「日本一の歌手になれるように」祈願したそうです。「川の流れのように」「龍馬残影」「悲しき口笛」の3曲が、歌碑から流れていました。

鉄橋上にある「秘境駅」JR土佐北川駅を訪ねた日(2013年12月2日の日記)、帰りに、阿波池田行きの普通列車で一つ多度津駅寄りにあるJR大杉駅に降り立ちました。駅名は、「日本一の大杉」からつけられたそうです。

ホームにあった手作りの案内柱。この町のシンボルの大杉と美空ひばりを紹介しています。柱の下に、「大杉中学校 平成17年度卒業生」と小さく書かれていました。

駅舎に向かう途中で見た資材運搬用のトラックです。線路上と道路上を自由に走れそうですね。

ホーム側から見た大杉駅舎です。杉材を使用したことで知られた以前の駅舎は、平成16(2004)年に火災のため焼失してしまいました。三角屋根の建物が二つ並んだ、現在のモダンなデザインの木造駅舎は、平成17(2005)年に完成しました。

ホームから駅舎に入ります。すぐ、左に出札口があります。その奥には、販売コーナーがありましたが、「写真はご遠慮ください」とのことでした。 さて、この駅舎の再建に大きな役割を果たしたのが、大豊町立大杉中学校(当時)の生徒たちでした。駅舎のデザインも生徒の立案だったといわれています。

ホームから駅舎に入って右側の部分にあった図書コーナーです。

線路側にあった、語らいや打ち合わせにも使えるコーナーです。駅舎は、大豊町の人たちのつどいの広場としての機能も持った「とまレール大杉」として再建されました。 この時は、誰も使っておられませんでした。

中にあった「みんなでつくった大杉駅!」の記念写真。充実感に満ちた大杉中学校の生徒たちの顔が並んでいました。彼らは、大杉駅再建プロジェクトチームの一員として、駅舎のデザインの立案のほか、内装・外装のお手伝いやインテリアの作成にかかわったそうです。ホームにあった案内柱に卒業生の名があったこともうなづけます。

駅から外に出ました。正面から見た大杉駅舎です。向かって右側が駅と商店の機能を持ったコーナー、左側がつどいの広場があるコーナーになっています。新駅舎の落成式も中学生のアイデアを生かして行われました。平成17(2005)年3月12日、落成式は、駅に到着した列車から降り、新駅を駆け抜けた生徒たちが踊った”よさこい鳴子おどり”から始まったそうです。中学生のアイデアを生かした「中学生のパワーがみなぎるすばらしい式典だった」(大豊町立大杉中学校「大杉駅再建日記」)ということです。

駅の正面にあった「とまレール大杉」「大杉駅」のオブジェです。頑張った中学生のパワーが伝わってきます。当時の3年生はもう社会人のはずですね。

JR土讃線は、大歩危や小歩危など吉野川の険しい谷筋をぬって走るため、土砂崩れや地滑りなどの自然災害による被害に悩まされて来ました。この大杉駅と土佐北川駅間もそのような区間の一つでした。この区間は、大杉トンネル(昭和48=1973年)と大豊トンネル(昭和61=1986年)という2つの大きなトンネルをつくり、谷筋を走るルートから離れることで、自然災害を避けることができるようになりました。

大杉駅から土佐北川駅方面に向かう線路の先に大杉トンネルの入り口が見えますが、そこが、それ以前のルートとの分岐点でした。地元の方にお聞きすると、かつての線路跡がまだ残っているということでしたので、時間のある限り行ってみようと思いました。

線路に沿って、土佐北川駅方面に向かって進みます。

途中、かつて使用された枕木がたくさん積み上げられていました。

大杉駅から20分ぐらい歩くと、大杉トンネルの入り口に来ます。大杉トンネルの右側に、かつての線路跡が残っていました。右側の線路跡を進みます。

少し先に進んだところで振り返って撮影しました。かつての線路跡だとわかります。

境界を示す石柱や石垣の列も残っていました。

さらに先に進みます。線路跡はやがて道路になり、右側の民家の前を南に向かっていました。ここまで来ると、もう鉄道の名残はほとんど残っていませんでした。

民家の先に大杉中央病院がありました。これも振り返って撮影しました。ここまで、道路の向こう側から手前に向かって歩いてきました。

大杉中央病院の先に学校が見えました。大豊町立大豊町中学校です。ここは、かつて、大杉駅を再建した大豊町立大杉中学校があったところです。大杉中学校は、JR大杉駅舎が落成してから4年後の平成21(2009)年、大豊町立大豊中学校と統合して大豊町立大豊町中学校となりました。しかし、校舎は、以前の大杉中学校の校舎をそのまま使用しています。

中学校から線路跡の道路に戻り先に進みます。日曜日でしたので、生徒の数はほんの少しだけでした。グランドを過ぎると、穴内(あなない)川を渡ります。かつての橋梁跡です。

橋の上からは、穴内川の対岸にある「日本一の大杉」の看板が見えました。

写真の左下の看板のあるところから、右の方に登っていく道を進むと「日本一の大杉」に行くことができます。

橋梁の跡を渡りきって撮影しました。左側が大杉駅方面です。おなじみの鉄橋の橋桁がそのまま残っていました。まぎれもなくかつての橋梁跡でした。

橋を渡りきると、線路跡は国道32号線の旧線に合流します。旧国道に沿って左側にある会社や大豊町森林組合の建物を見ながら進みます。旧国道は対向二車線の広さで続いています。国道ですから一車線ということはないはずです。会社や森林組合が並んでいるところがかつての線路跡だと確信しました。

一つ上の写真にある、森林組合の出口の門扉の先に、下に降りていく道がありました。これが線路跡です。道なりに進みます。

小さい川に架かる橋梁の跡です。さらに進みます。

その先にあった穴内川に架かる橋梁跡です。これは第3穴内川橋梁の跡です。立派な鉄道遺産です。

橋梁跡の右側の端が通路になっていました。橋桁の上に切石が並べてあり通行ができるようになっていました。

少し歩いて見ました。足を着くたびに、「ごと! ごと!」と重苦しい音がして、石が微妙に動きます。川の土手に沿って道がありましたので、そこから橋桁の写真を撮影しました。通路の下はがっちり支えられており通行は可能なようです。

橋梁跡の通路の中央を過ぎると、穴内川の流れの真上に来ました。私の恐怖心は最高潮に達しました。高所恐怖症の身ではもう限界です。誰かと一緒でないと動けません。その先にある線路跡を撮影した後、引き返すことにしました。 「あーあ、情けない!」 大杉駅に戻る途中で出会った方にお聞きしますと、「穴内川の向こう側に田畑があるから農業をしている人が通っているんじゃないかな?」とのことでした。でも、歩くことができる橋でも、高所恐怖症が渡りきることはなかなか難しいことでした。
旧橋梁の先の風景は、かつての土讃線の線路跡の雰囲気をよく残していました。

JR大杉駅は、中学生のパワーで再建されました。立派な駅舎が当時の熱気を伝えています。JR土讃線の旧線跡も鉄道の名残はほとんどありませんでしたが、かつてのルートをたどることはできました。かつての道を探して歩くことが好きな私には、土讃線の旧線を歩いたことは、何より楽しいことでした。



鉄橋上にある「秘境駅」、JR土佐北川駅

2013年12月02日 | 日記
秘境駅訪問家の牛山隆信氏が作成した秘境駅ランキング。JR土讃線からは3駅が選定されています。すでに、ランキング7位の徳島県坪尻駅(「秘境の駅、JR坪尻駅に行ってきました!」2011年3月19日の日記)、同24位の高知県新改(しんがい)駅(「JR土讃線、もう一つのスイッチバック、新改駅」2012年8月7日の日記)は訪ねました。どちらも「スイッチバック駅」で知られる山あいの駅でした。 今回は、土讃線三つ目の160位の秘境駅、JR土佐北川駅を訪ねました。ちなみに、牛山氏がランキングの根拠としたポイント数は、坪尻駅は86ポイント、新改駅は67ポイント、そして、今回訪ねた土佐北川駅は15ポイントでした。

阿波池田駅から須崎行きの普通列車で土讃線(香川県多度津駅起点)を南に向かいました。景勝地の大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)を通り、たくさんのトンネルを抜けて、約1時間10分後、土佐北川駅に着きました。下車すると、たちまち厳しい寒さに襲われました。

トラス式の橋梁の中に土佐北川駅はありました。ホームは島式の1面2線でした。写真は多度津駅方面の光景です。正面に大豊(おおとよ)トンネルが、右側に下を流れる吉野川の支流、穴内(あなない)川が見えました。

南側から撮影した土佐北川駅の姿です。全国でもめずらしい橋上に設置された駅でした。土佐北川駅は昭和35(1960)年に開業しましたが、鉄橋の上につくられたのは昭和61(1986)年3月3日のことでした。ちなみに、橋上の駅としては、他に、伊予鉄道横河原線の石手川公園駅(「伊予鉄道の”鉄橋上の駅、石手川公園駅」2015年4月8日の日記)、東大島駅(東京都営地下鉄新宿線)、武庫川駅(阪神電鉄「鉄橋上の駅、阪神電鉄武庫川駅」2015年12月28日の日記)がよく知られています。私の知る限りでは、JRでは福知山線にある西宮名塩駅、一部橋上にはみ出している武田尾駅(「トンネルと鉄橋の駅、JR武田尾駅」2014年4月24日の日記)も橋上の駅として知られています。

土讃線はもともと大歩危・小歩危などのある、険しい谷間を縫って走っていました。そのため、土砂崩れや地滑りなどの自然災害によって大きな被害を受けて来ました。 多度津方面の隣の駅である大杉駅と土佐北川駅の間は、大杉トンネル(昭和48=1973年開通)と大豊トンネル(昭和61=1986年開通)という大きなトンネル(実際にはその間にもう一つあります)を設置し、ルートを変更することによって、自然災害から土讃線を守ってきました。土佐北川駅は、大豊トンネルの完成した年に、橋上に移されたようです。 

周辺のようすを見ることにしました。駅から離れ、近くを走る国道32号線に出ました。写真は、そこから大杉駅方面の国道を撮影したものです。飼犬が元気よく吠える声を聞きながら、ここから手前の方、土佐北川駅に向かって歩くことにしました。

先ほど橋上から見えていた大豊トンネルが右上にありました。

国道32号線は、土讃線の下をくぐります。下から見た光景です。右が阿波池田方面行き、左が高知方面行きの線路です。

右側にあった食堂風の建物です。駅の周辺にはこのお宅を含めて3軒の民家がありました。

左側を流れる穴内川です。写真の左の方へ流れています。その先で吉野川に合流します。

国道32号線をさらに高知方面に向かいます。10分ぐらいで「JR土佐北川駅」の標識が見えました。

標識のところにあった北川口橋を渡ります。穴内川にかかっています。この橋の右側にもう一本旧橋が残っています。

北川口橋を渡りきると土讃線の線路の下に着きます。左へ向かうと土佐北川駅です。広場にあった公衆電話。その前にあった掲示では、この駅周辺の住所は高知県長岡郡大豊町久寿軒(くすのき)だそうです。駅(鉄橋)に向かって歩きます。正面右側の建物はトイレです。

トイレ前です。川沿いの道をさらに進みます。

その先に駅標がありました。そこで通路は二つに分岐します。

一つはまっすぐに階段を上り、川を渡る通路に向かう道です。その階段を少し登ってみました。

穴内川の上流方面が見えました。

もう一つは右折して駅のホームに向かう道です。ここで右に折れて駅に向かいます。突き当たりは待合室です。

プレハブ建築のような雰囲気ですが、椅子や時刻表、料金表やポスターなど駅にある情報はそろっていました。ただ、煙草の吸い殻や缶コーヒーのプルトップが放置されていたのが残念でした。

待合室の手前を左折して階段を上がるとホームです。ホームの入り口付近には、屋根がついていました。

ホームの右側に描かれていた乗車口の案内です。

階段の近くにあった「使用済み切符の回収箱」。かなり長い期間置かれているようですね。

「土佐北川」の駅名表示。「D33」はこの駅の駅番号です。

駅名表示です。高知方面の次の駅は、角茂谷(かくもだに)駅で、2.2kmの距離です。多度津方面の大杉駅までは6.1km、大豊トンネルと大杉トンネルを抜けていきます。

高知方面行きの線路の脇にあった「93キロポスト」。土佐北川駅が土讃線の起点、多度津駅から93kmの距離にあることを示しています。

ホームに残っていた足跡。コンクリートが固まる前に踏みつけたのでしょう。踏みつけた人は今もこのように残っていることを知っているのでしょうか?

トラスに取り付けられていました。このトラス橋は昭和59(1984)年にできたのでしょうね。駅は昭和61(1986)年にできたそうです。

ホームの右側のトラスの間から見えた風力発電の風車です。到着したときには見えませんでしたが、駅に吹いていた冷たい風から、風力発電機を設置していることはよく理解できました。
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ホームの先端です。下はグレーチングです。

グレーチングの下には、穴内川の川原石が見えました。足がすくみました! あわてて、ホームに帰りました。

土佐北川駅の滞在中に通過した列車です。特急”しまんと5号”、高松発高知行きです。

11時過ぎに通過した特急”南風3号”、岡山発中村行きです。

そして、12時過ぎに通過した岡山発高知行きの特急”南風5号”でした。

再び「土佐北川駅」と書かれた駅表示まで戻ります。穴内川を渡る通路を進みます。

この駅は、あくまでも橋なのです。この橋を渡って対岸に行く人が利用しています。

通路から見たホームです。高さがわかりますね。

通路を歩いているときに通過した特急”南風12号”、宿毛発岡山行きです。

待合室にあった時刻表です。停車する列車は、下りの高知方面行きが1日9本。多度津方面行きが1日8本だけです。多度津方面行きの列車は、8時1分の阿波池田行きの後は12時2分まで一本もありません。その後は15時12分発でインターバルが3時間あります。「秘境駅」といわれる土佐北川駅ですが、牛山氏はその根拠になる5項目のうち「列車到達難易度」に8ポイント、「鉄道遺産指数」に4ポイントを与えています。しかし、他の「秘境度」や「雰囲気」、「車到達難易度」はたったの1ポイントしか与えていません。周囲を歩いてみましたが、すぐそばを国道32号線が走っていて住民の生活にはほとんど支障はなく、「秘境」という印象は受けませんでした。鉄道駅でありながら「列車到達難易度」が高い、鉄道駅としては「秘境」という印象でした。また、「雰囲気」が1ポイントというのも頷けました。その点で、坪尻駅や新改駅とは大きく違っていました。

初冬の一日、寒さにふるえながら駅の周囲を歩き町の雰囲気も味わいました。「秘境駅」であろうとなかろうと、山里のおだやかな雰囲気を残す、ほんとうにいい駅でした。