トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”倉敷藤花戦” 公開対局を観戦しました!

2012年11月24日 | 日記

白壁の町、倉敷。柳並木と白壁の商家が続く”倉敷美観地区”は、この日も多くの観光客を集めていました。

美観地区の一画に倉敷市芸文館があります。

この日は、将棋の女流公式タイトル戦である”第20期大山名人杯倉敷藤花戦”の公開対局が行われることになっていました。里見香奈倉敷藤花に、矢内理絵子女流四段が挑戦している3番勝負の第2局です。

将棋は自分では指しません。というか、こういうイベントに参加する人のような棋力はありません。ただ、プロ棋士の勝敗や人となりには興味があります。スポーツを楽しむ感覚で将棋を観ています。

ロビーに入ると、大山康晴十五世名人の業績や書が掲示されていました。
勝利者を当てる投票がありましたので、私は「里見倉敷藤花」と書きました。

大山十五世名人の「忍」です。
大山十五世名人は、生涯獲得タイトル数は通算80期で、最近十九世名人の資格をもつ羽生善治三冠に追い抜かれるまで史上一位を保っていました。また、日本将棋連盟会長もつとめられた将棋界の至宝ともいうべき方でした。

公開対局の会場です。嵐の前の静けさです。しかし、実際には、午前10時から、館内の「藤花荘」ですでに戦いは始まっていました。

この日は、800人を越える方が観戦に来られていました。司会の方のお話では「出雲から里見藤花の応援に来られた方も多かった」ようです。

これが、大山名人杯。重さ15kgだそうです。
「”倉敷藤花戦”は、岡山県倉敷市が生んだ不世出の棋士、故大山康晴十五世名人の名を冠し、倉敷市の市花である「藤」を棋戦名とした、倉敷発の女流公式タイトル戦」です。(パンフの伊東香織倉敷市長の「ごあいさつ」から)

里見倉敷藤花(右)は、女流名人、女流王位、女流王将の4冠を所持している実力ナンバーワンの女流棋士です。現在は、日本将棋連盟の棋士養成機関「奨励会」に入会し、男性とも対局しながら将棋の腕を磨いています。今年の1月に「女流」のつかない初段に昇格しています。四段になれば、プロ棋士として公式戦に参加することができます。

挑戦者の矢内女流四段は、今年度ここまで13勝5敗、7割を越える勝率を誇る実力者です。Eテレ(教育テレビ)で放映している将棋の「NHK杯選手権」の「手が見える」司会者として人気を集めている方です。矢内女流四段もかつて奨励会で厳しい修行に明け暮れていました。 この日は、着物に袴姿での対局でした。

開会式は、主催者の伊東香織倉敷市長のあいさつで始まりました。

紹介された棋士の皆さんです。左から、大盤解説の有吉道夫九段、立会人の谷川治恵女流五段(日本将棋連盟理事)、聞き手の中村桃子女流一級と記録の奨励会員です。他に、関根紀代子女流棋士会長も来られていました。

先手は、挑戦者矢内女流四段です。初手から棋譜どおりに駒を動かして現在の局面を再現します。立ち会いの谷川治恵女流五段の「それでは始めてください」の指示で、対局が開始されました。大盤の駒を動かすのは、日本将棋連盟倉敷市役所支部のお二人です。
同時に、別室のアイシアターでは、有吉九段の大盤解説も始まりました。
下側が先手矢内女流四段です。 持ち時間各2時間。

15時を過ぎて、両者とも持ち時間を使い切り1分将棋となりました。秒読みの中、矢内女流四段の攻めを余裕をもってしのいだ里見倉敷藤花は、86手目の6九馬から寄せに入ります。

そして、6九馬から12手目の8八角をみて矢内女流四段が投了し、98手で里見倉敷藤花の勝ちになりました。15時31分のことでした。感想戦での有吉九段の解説では、中盤に矢内女流四段に緩い手があり終盤にはかなりの差がついていたそうです。
これで里見倉敷藤花は第1局に続き第2局も制し、倉敷藤花戦5連覇を達成しました。
表彰式です。
関根紀代子女流棋士会長から表彰状を受け取る里見倉敷藤花。
通算5期で与えられる永世称号の”クイーン”を、最短の5年で獲得したことになります。

伊東市長からは大山名人杯が授与されました。記念撮影が終わるまでじっと持ち続けていた15kgの大山名人杯は、かなり重かったのではないでしょうか。

勝利者インタビューにも「お世話になった方々のおかげです」と落ち着いた態度で答えていました。”クイーン”の称号が与えられるということについても、「今初めて知りました」。  淡々と応対する姿が印象的でした。  

敗れた矢内女流四段はうつむきがちで、不本意な将棋に悔いを残しているように感じました。ほんとに残念でしたね。

表彰式の後は、景品が当たる抽選会。「里見倉敷藤花」と答えた人が対象の景品は、出演した棋士の色紙や将棋連盟のタオルなど。投票した人全員が対象の景品は、将棋盤と将棋の駒でした。 これまで一度も当たったことのないくじ運の悪い私は、もちろん全部はずれ!  ただ、今年は少しうれしかったのです。 将棋盤の当選番号は414番の方でしたが、私は41Xでした。当たるはずはないとあきらめていましたが、初めて、当選に近いところまで肉薄しました。「1番違いでも、はずれははずれ」です。わかっていましたが、少し満足でした。

それにしても、里見倉敷藤花はほんとに強かった!  
奨励会で男性にまじって切磋琢磨している結果だと思います。初めての女性棋士(四段昇段)が誕生するとしたらこの人ではないかと思わせる、強い女流棋士でした。


旧片上鉄道の和気・片上間を歩きました!

2012年11月15日 | 日記
JR赤穂線開業50周年記念、第4回片鉄ロマン街道ウオーキング大会に参加しました。
この日は、JR山陽本線和気駅の南にあった旧片上鉄道和気駅からのスタートでした。

JR和気駅に着きました。旧片上鉄道和気駅は反対の南側にありました。

旧片上鉄道和気駅跡。すでに多くの参加者が集まっていて、駅の北にある城山を見ながら、出発を待っておられました。

片上鉄道は、柵原鉱山で産出された硫化鉄鉱を片上港まで輸送する目的で建設されました。柵原・片上間の全線が開通したのは、昭和6(1931)年のことでした。以来、硫化鉄鉱の輸送だけでなく、沿線住民の輸送にも貢献してきました。この日歩くことになっている和気・片上間はそれに先立って、大正12(1923)年に開通していました。

10時35分に片上に向かって出発しました。ウオーキングを楽しむ人の長い列ができていました。

その後、片上鉄道は円高などによる鉱石産出量の減少のためトラックでの輸送に転換しました。鉄道経営に行き詰まり、平成3(1991)年全線が廃止されました。片上鉄道の跡地はそのまま保存され、平成15(2003)年からサイクリングロード、「片鉄ロマン街道」として整備されました。現在も、当時の線路跡がそのまま残されていて、サイクリングやウオーキングの専用道として多くの人々に親しまれています。

歩き始めて30分。山陽自動車道の高架下をくぐります。

ロマン街道には標識も整備されていて、安心して歩くことができました。

11時16分、中山駅跡に着きました。サイクリングロードの左側にある舗装された広場が中山駅跡です。和気駅から2.9kmの距離です。

収穫を待つ沿線の稲穂。美しい田園地帯の中を歩いて行きます。近くにある中山サーキットからの爆音を聞きながら進みます。道は少しずつ登りになっていきます。

中山駅跡から約20分。清水駅跡に着きました。中山駅跡から1.6kmのところです。
トイレの前に長い列ができていました。ホームでは、多くの参加者が休憩中でした。食事をしたり水分の補給をしたり・・・。ホーム跡の石垣がそのまま残っていました。

駅標もありました。

さらに登ります。

和気駅と片上駅間唯一のトンネルに入ります。峠清水トンネルです。

中は綺麗に整備されています。 左右の岩盤はコンクリートで固められ、照明も点灯していました。

トンネルの中で、和気町から備前市に入りました。

トンネルを出ると、下り坂になります。大きな左カーブを曲がります。

12時6分、サイクリングターミナルに着きました。トイレを開放していました。ここも長い列ができていました。

サイクリングターミナルの正面です。「片鉄ロマン街道」の大きな看板がありました。

列車の窓を模した掲示板です。

さらに下ります。5分ぐらいで勾配標が見えました。28.6パーミル、1000mで28.6m下ることを表しています。片上鉄道最大の急勾配の区間です。
さらに下ります。

片上の町に近づいてきました。新幹線の下をくぐります。
さらに、右側にある片上小学校、続いて備前緑陽高校を過ぎます。

国道2号線とJR赤穂線が並走している下をくぐります。

12時30分に下りきって、片上の福原商店街の交差点に着きました。

この日のルートは、ここから旧西国往来(山陽道)にそって、西に2.5kmほど進んだところにあるJR伊部駅に向かうことになっていました。しかし、参加された方はそれぞれのペースで歩いておられたし、最終到達時間までまだ2時間以上ありましたので、片上鉄道の先のルートをたどってみることにしました。

立ち入りが禁止されていましたが、見れば、片上鉄道はゆるい右カーブを描いて延びていました。

その先も線路跡はそのまま残っておりました。

そして、川を渡ります。橋は、残念ながら残っていませんでした。

川の向こうには、エディオンの建物が建てられていました。

エディオンの向かいには、広い駐車場をもつマックスバリューがこちら向きに建てられており、さらにその裏には岡山セラミックスセンターの建物があります。この広大な敷地に、かつて、片上鉄道の操車場がありました。柵原の硫化鉄鉱は、岡山セラミックスセンターのさらに先にある品川白煉瓦の前にあった積出港から運ばれて行きました。

この写真は、片上鉄道の片上駅前にあったロータリーです。片上駅はこのロータリー向かい、マックスバリューの駐車場になっているところにありました。今も、すぐそばに備前バスや宇野バスの乗り場や待合室があり、今も、「駅前」の役割を果たしているようです。 和気駅からここまで、8.6kmありました。

参加者にくださった「片上史跡めぐりマップ」には、操車場跡地は「0キロポスト」や「部品取り用に保存されているディーゼル機関車」(DD13‐552)が残っていると書かれていました。建物や駐車場がつくられていて、マップの説明と合いません。地元の方にお聞きすると、「エディオンやマックスバリューが建てられる前のことじゃないか?今は、ないんじゃないかな?」とのこと。念のため、操車場跡地の隅から隅まで捜してみましたが、結局見つけることができませんでした。

旧片上鉄道の和気駅と片上駅の間には、これといって大きな見所はありませんでした。しかし、鉄道跡地はきちんと整備されていて安心して歩けるサイクリングロードになっていました。
次は、和気駅から北の柵原に向かってサイクリングで走ってみようと思っています。




矢作橋まで、二十七曲がりを歩きました!

2012年11月11日 | 日記
旧東海道岡崎宿を歩いています。ここまで、大平一里塚から伝馬通りを経て、板屋町まで歩いてきました。今日は、板屋町から矢作橋までをまとめます。

板屋町を南に進んでいると左側に「板屋町角」の石標を見つけました。旧街道はここを右折して西に向かっていました。

南北に走る国道248号線の先に、愛知縦貫鉄道の高架が見えています。この道をさらに進みます。

国道248号線を横断します。先に「これより八帖町突き当たり角まで 400m た」の道標がありました。

その隣に、もう一つ、「松葉総門跡」の石碑がありました。松葉総門は、城下町の西の出入口に建てられていました。東の籠田総門とともに、藩主水野忠善によって、承応3(1654)年に建てられました。道標にしたがって、このまま直進します。

歩き終わった後、岡崎公園駅まで帰って気がついたのですが、「松葉総門跡」の碑は、愛知縦貫鉄道中岡崎駅の前に建てられていました。

松葉通りの道路標識が見えました。松葉通りに沿って、さらに西に向かいます。

愛知縦貫鉄道の高架下をくぐります。くぐったとき、ちょうど、すぐ近くの中岡崎駅から出た列車が通過して行きました。

「二十七曲り れ」の道標です。その下に「八帖村」の石標がありました。ここから、「松葉通り」は「八帖往還通り」に名前が変わります。

八帖往還通りをさらに西に進みます。

岡崎城から八丁(八町)のところにあるから名付けられたという「八丁味噌」の醸造場がある通りに入ります。大豆そのものを麹化して、塩と水だけを加えて熟成する豆味噌で、三河から尾張地方に独特のものです。三河武士が兵糧として持ち歩いたり、江戸時代には、矢作川の水運により江戸にも運ばれていたといわれています。

左に、まるや(太田家)。 太田家は、元禄9(1696)年創業と言われていましたが、平成10(1998)年に、「創業660年」と認定されたそうです。1337年に、開祖弥治右衛門が味噌づくりを始めたということです。

右に、カクキュウ(早川家)の醸造場です。こちらも、正保2(1645)年創業という老舗です。

カクキュウの醸造場の脇を右折(北行)すると「八丁蔵通り」に入ります。国道1号線まで続いています。
旧街道は、さらに西に進みます。突き当りを右折(東行)するのが、旧東海道です。

突き当りにあった道標です。昭和61(1986)年に再建されたもののようです。「左 江戸 右 西京」とありました。

右折(東行)して進むと、右側のカクキュウの醸造場の手前に、光圓寺の本堂と鐘楼が見えました。

さらに、「八帖往還通り」の石標を左に見ながら進み、ゆるやかな坂を登りきると国道1号線に合流します。左(西)に向かうと矢作橋です。「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」といわれたように、下を流れる矢作川の水運は、岡崎藩に大きな恩恵をもたらしました。

矢作橋は旧東海道で最も長い橋でした。天保8(1837)年には長さが160間(約288m)あるといわれていました。天保13(1842)年には長さ108間(約194m)という記録もあるそうです。 当時は、現在の橋より下流に架かっていたようです。

また、矢作橋は、蜂須賀小六と日吉丸(豊臣秀吉)が出会った橋として知られています。
日吉丸は矢作橋の上に寝ていたとき、野武士の首領蜂須賀小六に、頭を踏みつけられました。日吉丸が「謝れ!」と小六をにらみつけたのを見て、小六は日吉丸を家来にしたといいます。彼の肝力を高く買ったからだといわれています。(「太閤記」)

しかし、この話はいくつかの点で史実と異なっています。矢作川に最初に橋が架かったのは慶長6(1601)年頃のことだそうで、すでに、秀吉は亡くなった後でした。また、実際には、蜂須賀小六の方が豊臣秀吉の家来になっています。話を面白くするためにこういう筋書きにしたのでしょうか。 
矢作橋の西詰に、蜂須賀小六と日吉丸との「出会いの像」があったということでしたが、現在の橋には見つけることができませんでした。古い方の橋を撤去する工事が進行中でしたので、支障のないように撤去されていたのでしょうか。

「東海道五十三次」の岡崎宿です。矢作橋の上を大名行列が岡崎宿に向かっています。遠くに岡崎城の天守閣が描かれています。

現在でも城は見えるのでしょうか? そう思って、振り返ってみると、ビルの間から、今も岡崎城天守閣を見ることができました。

旧東海道は矢作川を渡った後、右折(北行)し、その先を左折(西行)して、次の池鯉鮒宿に向かっていました。

やっと、矢作橋まで歩き終わりました。私が歩いたコースでは、二十七も曲がっていません。少し足りようです。それに、途中で道を間違えたのではないかと思うところもあって、達成感は今一つです。しかし、早朝から10時間かかって歩き続けたということには、ある程度満足しています。ただ、歩いてみて「二十七曲がり」は、名の通り二十七曲がっているのか、「二十七曲がり」の起点と終点はどこなのか、正しいルートはどうなのか、
疑問点がいくつか出て来ました。
「二十七曲がり」の正しいルートや数え方をご存知の方に、ご教授をお願いしたいものです。

総門通りから、二十七曲がりを歩く

2012年11月07日 | 日記
旧東海道岡崎宿を歩いています。
大平一里塚から岡崎宿に入り、宿場の中心である伝馬通りから総門通りまで歩いて来ました。

これは、旧街道沿いに置かれていた二十七曲がりの案内板ですが、図の右にある「伝馬町界隈」と書かれたあたりから再スタートしました。昭和20年(1945)年の空襲で災禍を受けて復活した都市であるため、見所といってもそれほどあるわけではなく、道標や石標をもとに二十七曲がりをたどる旅になりました。

総門通りにあった道標です。「次の 籠田総門碑まで 170m へ」と書かれています。「へ」の道標の先に「きらみち」と書かれた道標がみえます。「西 京いせ道 東 京みち」と書かれており、明治2(1869)年の建立でした。「吉良道」は、岡崎宿の一つ江戸寄りの藤川宿から、東北方向に別れて、西尾・吉良方面に出る街道です。伝馬通りから総門通りに向かう道の先の六地蔵坂を南に向かっていました。 
総門通りを、西に向かって歩きます。

旧岡崎銀行本店の建物が右側に見えてきました。大正6(1917)年にルネサンス式、赤れんがと花崗岩で建てられました。色鮮やかで気品があり、しばし見とれてしまいました。昭和25(1950)年に岡崎商工会議所として使用されるため改造されたそうです。現在は、岡崎信用金庫資料館として使われています。
資料館の向かい(総門通りの南側の歩道)は、「御馳走屋敷」があったところです。伝馬通りにあった「岡崎伝馬歴史プロムナード」の「お茶壷道中」で、家老が一行をもてなしていたと書かれていたところです。

岡崎康生郵便局の先で交差する南北道路の中央に緑地帯があります。進路の右側に東総門跡の碑がみえました。「籠田総門跡」と書かれています。緑地帯を右折(北行)して次の通り(伝馬通りの延長部分にあたる道)の脇に「田中吉政」の像がつくられていました。

天正18(1590)年、豊臣秀次が尾張に移った後、田中吉政が5万7千石を与えられ岡崎城に入り城下町づくりを始めます。かれは、関ヶ原の戦いでの軍功を認められ、筑後1国を与えられ32万5千石で柳川に移りました。その後、本多氏の支配を経て、正保2(1645)年、水野忠善が5万石で岡崎城に入りました。この「籠田総門」を置いたのは、承応3(17654)年で、西の総門である「松葉総門」も同じ年に作られました。東総門は万治元(1658)年と寛文10(1670)年の二度、大火で焼失しましたが、その都度建て替えられたそうです。東から岡崎城下に来る旅人を取り締まっていました。

その先は籠田公園。昼下がりに小学生が先生と一緒にお弁当を食べていました。

公園の東にあるトイレの前にあった「籠田総門角常夜灯」です。寛政10(1798)年、石工の七左衛門がつくったもので、総門付近にあったものです。

籠田公園を抜けて、その北の連尺通りへの入口にある路面に道案内がありました。

「籠田町より連尺町角」の碑も見つけました。連尺は物を背負う道具のことでそこから宿場で物を運ぶ人のことも指すようになりました。宿場町に多い地名です。
左折(西行)して、連尺通りを西に向かって進みます。

本町通りの交差点を過ぎたところで、右側に「これより 次の材木町口角まで 80m と」の道標がありました。向かい側(連尺通りの南側)の歩道に「藩学校跡」の碑がありました。

「と」の道標の先に、「対面所前角」の碑が立っています。対面所は、岡山藩にもありましたが、岡崎藩主の客と会うための施設があったところなのでしょう。
その手前を右折(北行)して80m歩きます。

正面の民家の前に「材木町木戸前」の碑が見えました。そして、その左手前に道標がありました。「これより 次の材木町角まで100m ち」と書かれています。ここから左に折れて進みます。

左折した後、西に向かって進みます。
すぐ目に入る「町なかジャズスペース」の手前の交差点に、「これより 次の材木町角まで 150m り」と書かれた道標がありました。右側にあるTOWAマンションの先の交差点を右折(北行)します。

150m先の右側にあるファミリーマートを左折します。木まち通りに入ります。「これより 次の柿田橋角まで 350m ぬ」の道標を見ながら西に進みます。

柿田橋に近くなると、右側に伝統的な民家が並ぶ地域に入ります。ずっとビルが立ち並ぶ中を歩いてきましたので、とても新鮮でした。

その中で、ひときわ目立つ商家がありました。連子格子の重厚な商家で、江戸時代の面影を残す看板がありました。

看板には「唐弓弦」とかかれていました。「唐弓弦」は「とうゆみづる」と読み、江戸時代に綿を打つために使われた道具でした。江戸中期から、矢作川沿いの農村で綿作がさかんになり、三河木綿はこの地域の特産品として知られていました。

「唐弓弦」の民家を過ぎるとすぐ柿田橋になります。
橋の手前の左側に「これより 次の三清橋角まで 190m る」の道標がありました。左折して伊賀川沿いを南に進みます。

二十七曲がりの案内図によると、旧東海道は、伊賀川の対岸まで行って左折して南下しながら、もう一度伊賀川のこちら側まで戻ってくるルートだったようです。
川沿いの桜の木の下に、「材木町より下肴町角」の石標も見えました。

この通りは、桜並木になっていました。春には桜吹雪の中を歩くことになりそうです。

交差点の向こう側に、広々とした敷地をもつ”Libra”(図書館交流プラザ)がありました。見えませんでしたが、その向こう(後ろ)に岡崎城があるはずです。

その手前に、「下肴町より田町角」の石碑がありました。石碑を右手に見ながら正面の通りを渡ってから右折(西行)し伊賀川を渡ります。

「これより 次の田町北角まで 45m を」の道標がありました。

45m先にあった「わ 二十七曲り」の道案内です。案内通りに左折(南行)します。

静かな住宅地です。田町という名前ですので、もとは田が広がっていた所なのでしょう。

その先に、「ゆ」という文字を見つけました。近くに行くとドアに「男」と「女」と書かれているのに気がつきました。銭湯の跡でした。でも、ずいぶん前に廃業されたような印象でした。

その向かいには、小児科医院と書かれたお宅がありました。まだ、診療されているのでしょうか。

通りの突きあたりは国道1号線。手前に「田町角」の石碑がありました。

歩いている時には、何とも思わなかったのですが、まとめていて気になったことがあります。「わ 二十七曲がり」の道標があった所からここまでのルートは、自分が歩いた道で正しかったのかということです。案内図には、国道1号線まで斜めの道でつながっています(田町と書かれた部分です)が、私が歩いたのは1号線とまっすぐつながる道だったからです。今は大変気になっています。今後、もう一度歩く機会があれば、確認してみたいと思っています。

緑地帯があるため、1号線をまっすぐ横断することはできません。右(西)方向にある横断陸橋で1号線を渡った後、左(東)側に降りました。

国道1号線を戻って最初の右(南)に行く通りに「板屋町入口」という石標がありました。

右折して南に進みます。商店の前に「東海道」と「二十七曲り か」の道標が見えました。さらに南下します。

少し行った左側に、新田白山神社の裏参道があります。

新田白山神社の本殿です。旧東海道からの参道は、本殿の裏側に続いていました。

板屋町は、理容室から先は道幅が狭くなります。板屋町は、以前遊郭があったところともお聞きしました。木造のお宅が続く、旧街道らしい落ち着いた雰囲気の町でした。

旧街道の左側の電柱のところに「板屋町角」と書かれた石標がありました。旧東海道は、ここで、右に曲がっていたようです。

総門通りから、連尺通り、木まち通りを経て田町から板屋町通りまで、旧東海道二十七曲がりをたどって来ました。この日は、早朝から歩き続けていたため、板屋町に来た時にはもうかなり疲れていました。こうし、て二十七曲がりをまとめている今も、かなり疲れています。 まとめの作業も、今日はここまでにします。この後のルート、松葉町から八帖町、そして矢作橋にいたる道は、後日にまたということにします。 

伝馬通りから、二十七曲がりを歩く

2012年11月04日 | 日記
旧岡崎宿に入り、二十七曲がりの碑から旧街道沿いに歩いています。

両町公民館に保存されている秋葉灯篭を見ながら進み、ガソリンスタンドの手前を左折して、岡崎宿の中心であった伝馬通りに入ります。

「これより 伝馬通1丁目角まで 660m に」
左折すると、すぐ二十七曲がりの道標がありました。

岡崎宿は、天保14(1843)年には、東西36町51間、約4kmありました。 若宮通り、伝馬町通り、連尺通り、木まち通り、松葉通りを通って、矢作橋から次の池鯉鮒宿に向かっていました。中でも、伝馬町の街並みは東海道五十三次の中でも一番長かったといわれてい
ます。

しばらく進むと、中央部分が緑地帯になっている通りを横切りました。太陽緑道です。
右(北)側の緑地帯の先に、浄土真宗大谷派三河別院の本堂が見えました。この通り(旧街道の1つ北側の通り)には、多くの寺院が並んでいました。

車の往来も多い賑やかな伝馬通りは、岡崎市きっての商業の中心地です。

通りには商店街の方がつくった旗がたなびいていました。、「東海道岡崎宿伝馬通りにようこそ」!

反対側の通りには、”伝馬通り”の標識が。

通りには、”伝馬通り”のモニュメント。

うなぎの乙川屋。 乙川(おとかわ)は、岡崎城の北を区切り、守りを固める外堀の役割を担っています。うなぎもたくさんいたのでしょうね!

眼科医院の看板に隠れるように立っていた常夜灯です。岡崎市内に残る最も大きな常夜灯だそうです。

「伝馬」の交差点の向こう側に、”備前屋藤右衛門”の白い大きなビルが見えました。天明2年創業という老舗の菓子店です。銘菓「あわ雪」。岡崎宿の東の地域に多くあった茶屋で売られていた、豆腐にあんをかけて食べるあんかけ豆腐に由来しています。

この交差点を左折して行くと、乙川を越えて名鉄東岡崎駅の正面に行くことができます。

”備前屋藤右衛門”の周囲に、たくさんの歴史の資料がありました。

備前屋の東側に立っている道標です。「左 信州道」「右 江戸道」「左 京みち」と刻まれていました。この道標は、脇本陣の杉山家にあったものの複製だと説明には書かれています。もともとは、さらに北にある、東海道から足助(あすけ)街道に向かう道を示しているのだそうです。みかげ石で造られていました。

「駒牽朱印」の複製です。備前屋の壁に記されていました。幕府の公用で旅をするものはこの「朱印状証文」によって、各宿場での人足や馬の継立て、本陣の宿泊が優先的に行われたということです。

備前屋の壁面に、文政9(1826)年の「伝馬町家順間口書」が描かれていました。文字通り、町家の配置と間口の広さが書かれていました。白い部分に備前屋藤右衛門、その右5軒目に本陣中根甚太郎の名前が書かれています。

岡崎宿は、天保14(1843)年には、3本陣と3脇本陣、旅籠が112軒あり、6494人(男3081人 女3413人)が居住していました。本陣は、正徳3(1713年)頃には中根甚太郎本陣と浜島久右衛門本陣の2軒でしたが、後に、中根甚太郎本陣、服部小八郎本陣、大津屋勘助本陣の3軒になりました。脇本陣は、鍵屋定七、山本丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒であったといわれています。

備前屋の北の斜め向かいに花屋を営むお宅がありますが、そこには、かつて岡崎東本陣がありました。備前屋の道路をはさんだ東隣には脇本陣桔梗屋がありました。

備前屋からさらに西に向かって進みます。

そこからは、”岡崎伝馬歴史プロムナード”になります。
伝馬通りの両側に石彫りの石造物が20基ほど並んでいて、観光案内や歴史案内をしてくれています。

私が気に入ったのは朝鮮通信使のこの石像でしたが、説明が興味深かったのは「お茶壺道中」でした。私たち岡山県人には、まったく縁のないできごとだったので・・・。

お茶壷道中は、宝永9(1632)年から、宇治茶を将軍に献上するために、毎年江戸・京都間を往復しました。宿場では100人の人足を出す規定になっていました。しかし、多いときには、お茶壷奉行など100人以上の行列となり、宿場の大きな負担になったようです。岡崎藩では一行がご馳走屋敷で休憩した際、家老が出向いて丁重にもてなしていたということです。

伝馬通りでは、多くの建物が建て替えられており、かつての雰囲気を伝えるものはほとんどありませんでした。しかし、ここでほっとするような、心なごむ一画に出会いました。

店の看板に「紙」という文字が残る商家(廃業?)と永田精肉店が並んでいます。永田精肉店の正面には「岡崎市都市景観環境賞」(1990年)のプレートが貼られていました。伝馬通りでは唯一の雰囲気のある一画でした。

永田精肉店の通りをはさんだ向かいにあった大黒屋。大きな白い看板にはなつかしさいっぱいでした。

さらに進みます。

伝馬通1丁目の交差点の手前に、二十七曲がりの道標が建っています。

「これより次の六地蔵下り口まで 60m ほ」の道標がありました。
この信号を左折し始めると、もう一つ石碑を見つけました。「西本陣跡地」。コンビニになっているところに岡崎宿西本陣があったそうです。

また、この道標のある一画には大津屋本陣があったようです。
ここで、旧街道は伝馬通りから別れて左に折れます。南に60m進むと、総門通り(伝馬通りの一つ南寄りの通り)にぶつかります。そこを右折して西へ向かいます。すぐ道標が見えました。

「次の籠田総門碑まで 170m へ」と書かれていました。

旧岡崎宿の伝馬の中心地、伝馬通りをゆっくりと歩きました。岡崎宿二十七曲がりを歩く旅は、まだ緒についたばかりです。この先の東総門跡から、本格的に、二十七曲がりに挑戦することになります。