トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR方谷駅から、伯備線でJR高梁駅へ

2011年04月28日 | 日記
高梁川と国道180号線に沿って中国山地を横断し、
岡山県倉敷駅と鳥取県伯耆大山駅を結ぶJR伯備線。
 
看板列車として、特急”やくも”と、
出雲市と東京とを結ぶ寝台特急”サンライズ出雲”が走っています。
津山線・因美線に、芸備線・木次線、山口線と美祢線、
中国地方にいくつかある「陰陽連絡線」の中では、唯一の幹線です。


JR伯備線は、北からと南からの双方から工事が行われました。
伯耆大山駅と足立駅間は大正15(1926年)年に開通し、
倉敷駅から備中川面駅間が開通したのは昭和2(1927)年でした。
そして、全線が開通したのは昭和3(1928)年のことでした。
電化工事は昭和57(1982)年に完成し、電車特急の”やくも”が誕生しました。
昭和58(1983)年、井倉駅と石蟹駅間で複線化工事が完成して、
現在では、倉敷駅・高梁駅間とともに、複線化区間となっています。

JR備中川面駅。JR方谷駅から4分余りで着きます。
昭和2(1927)年開業で、一日の乗車人員102名という無人駅。
近くで目につくのは、高梁市立高梁北中学校の校舎です。
  
さらに、4分余、駅に着く手前から、
ホームにのしかかるように桜が咲いているのが見えました。
駅の、国道180号線に面した側は、桜並木になっています。
隠れた桜の名所でした。春は桜ですね。気持ちが明るくなりました。
JR木野山駅です。
一日の乗車人員67人という無人駅。
ここから10分程度のところには、
岡山県下の各地にある「きのやまさん」や「木野山様」の本家、
木野山神社が鎮座しています。
天暦9(955)年、村上天皇の時代に創建されたもので、
大山祇尊、豊玉姫命、大己貴尊が祀られています。
  
五穀豊穣、疫病退散に御利益があるということで、
明治初年に県下にコレラが大流行したとき、各地に勧請されました。

実は、この神社は、かつては徒歩で1時間かかる木野山の山頂にありました。
伯備線の開通とともに、現在の地におりてきたといわれています。
この神社も、伯備線と関係があったのですね。
満開の桜の下を歩いてお詣りしました。

私の家の近くにも「木野山様」が勧請されており、
今も、近隣住民の深い信仰を集めています。
ふっと、ふるさとを思い出しました。
 
JR木野山駅から5分で、JR備中高梁駅に着きます。
大正15(1926)年に開業した駅で、ここから南は複線区間になります。
一日の乗車人員2309人、特急やくもの停車駅です。
また、岡山方面からはここまでICOCAが使えます。
駅に隣接して、県の中北部に路線をもつ備北バスのバスセンターがありました。

ここ高梁市は、備中松山藩5万石の城下町、
幕末に老中として幕府を支えた板倉勝浄、
そして漢学者山田方谷の活躍で知られています。
 
日本城郭協会から「三大山城」として知られる備中松山城とともに、
岡山県から「石火矢ふるさと村」に指定されている武家屋敷町が残っていて、
城下町時代の面影を今に伝えています。
 
駅前に二軒の食堂が隣り合ってありました。
「なりわ屋」と「かわかみ屋」です。
高梁市で高梁川と合流する、
成羽川の流域にあった旧川上郡成羽町と川上町(いずれも現在は高梁市)は、
今もライバルのように感じるのですが、それを象徴している光景です。
(「あくまで私の個人の感想です」)


現在は、学校法人加計学園の吉備国際大学、同短期大学、
順正高等看護専門学校を中心とした学園文化都市づくりを進めています。
駅前には、「祝ご入学、ようこそ高梁へ」の、
商工会議所やまちづくり協議会などがつくったメッセージが
掲げられていました。
大学の町、映画のロケ地の町としても売り出しています。

登録有形文化財の駅 JR美袋駅

2011年04月17日 | 日記
JR方谷駅のあるJR伯備線には、すでに、国の登録有形文化財に登録されている駅があります。
 
JR美袋駅。「みなぎ」駅は、鉄道ファンの間では難読駅として知られています。総社市美袋にある、一日の乗車人員310人という無人駅です。
入り口の右側に「登録有形文化財」のプレートが誇らしげに掲げられています。
   
伯備線が開通した大正14(1925)年に築造されました。すでに、85年が経過しています。平成20(2008)年3月7日に、登録有形文化財に登録されました。木造瓦葺き、切り妻屋根の当時の小規模駅に共通する造りですが、外壁を木の板を重ねているのが特徴です。また、入り口が前に飛び出していて、この3月に「有形文化財」登録の答申が出された、JR方谷駅に似通っています。ただ、入り口の柱は木製であること、駅表示が青色であることが、方谷駅とは違っていました。
 
駅の内部の構造も、切符売り場の形状など全体の印象はそっくりでした。改札口が撤去され、代わりにICOCA対応の改札機が設置されている、ホームの雰囲気もまったく同じでした。駅表示板には、上り方面には「日羽」、下り方面には「備中広瀬」が書かれていました。その下の木製のベンチには、いったい何人の乗客が座ったのでしょうか。
  
ホームに出ると、満開の桜とのどかな里山の風景が目に入ってきました。駅舎と跨線橋の間に、下り備中高梁行きの電車が入ってきました。3両編成で、車掌さんも乗務していました。
   
この地域も、公共交通機関のバス会社が撤退し、その後を、デマンド交通(乗り合い型タクシー)が引き継いでいます。「雪舟くん」が並んでお呼びを待っていました。美袋駅前には、公共施設が並んでいます。総社市昭和出張所。総社市合併以前の「吉備郡昭和町」の役場跡です。古代「吉備の国」の名残を残した郡名も今は遠くなりました。

そして、昭和小学校と幼稚園。かつて、近辺の4つの村が合併したとき、それ以前の村名を使わないという取り決めに従って、学校名の「昭和公民学校」から「昭和町」としたといわれています。その町名のもとになった学校です。小学校の体育館の1階に、幼稚園が入っているようでした。
 
総社市立昭和中学校。私の敬愛する校長先生が勤務されている中学校です。白を基調にしているのに色あざやかな印象を受ける校舎、広々としたグランドや体育館。人がいないのではないかと思うような静寂が支配しています。校舎の中で、真剣な学びが生まれているからでしょう。
正門近くに、奇妙な形をした背の高い造形物が建っていました。校長先生にお聞きしますと、「街路灯」ということでした。さらに、「一番上が風力発電、その下に太陽発電のパネルがあって、LEDのランプで照明がなされている」と教えてくださいました。これだけでも、生徒にとってはいい勉強になります。時代を担う生徒が学ぶ学校こそ、最先端の技術を付けるべきですね。こういう話を語ることで、生徒の知的好奇心を刺激しているのではないでしょうか。

となりにあった、生徒会からのメッセージ「人権愛ことば」もすばらしいものでした。学校の雰囲気が、生徒をしっかり育てているのだと思いました。
 「思いやり、やさしい心 忘れずに
  大切に、一人一人の心の星を
       ・・・・・・・・・」

有形文化財の駅を誇りに、美袋の町は輝いています。

JR方谷駅、「登録有形文化財」への登録確実!

2011年04月15日 | 日記
岡山県倉敷駅と鳥取県伯耆大山駅を結ぶJR伯備線の、倉敷から47.4kmのところにあるJR方谷駅。備中松山藩に仕えた漢学者、山田方谷(1805~1877)に由来する「人名駅」として、全国の鉄道ファンに知られています。

平成23年3月18日に、国の文化審議会(文化財分科会)が「登録有形文化財」の新登録について、文部科学大臣に答申しました。その中に「JR伯備線の方谷駅」が入っておりました。「登録有形文化財」への登録は確実といわれています。
JR伯備線は、岡山県三大河川の一つ、高梁川に沿ってつくられています。国道180号線から高梁川を渡った東岸、切り立った山裾にJR方谷駅はあります。
JR方谷駅は、昭和3(1928)年に開業しましたが、創建当時の姿をよく残していることが今回の答申の大きな理由でした。外見は、切り妻づくりで、多くの小規模駅舎に共通するデザインですが、入り口の張り出し部分の二本の柱が石でつくられているのが特徴です。
 
1日の乗車人員、47人という無人駅です。決して広くはない駅舎には、「きっぷうりば」と荷物預かり所が当時の姿のまま残っています。カレンダーが妙に新しく見えました。
金属製の改札口を出ると大きな駅表示が掲げられています。上り方面の「備中川面」駅、下り方面の「井倉」駅が示されていました。改札口の上には、使用済み切符の回収箱がつくられておりました。
 
しかし、改札口を出ても、ホームにはいけませんでした。石垣の上の一段高い所に、線路とホームが見えていました。ホームに出るには、一度、上り方面に向かって進み、線路の下をくぐって、さらに階段を上ります。
島状のホームに出ると、引き込み線に保線車両が入っていました。オレンジの制服を身につけた倉敷保線区員が、井倉方面にある踏切付近に並んで立っておられました。「おっ!これは列車の到着か!」。しばらくして、上り岡山行き「特急やくも10号」が入ってきました。
 
「やくも10号」は通過ではなく停車でした。運転停車で、ドアは開かないままでした。一人車掌さんだけが、ホームに下りておられました。すると下り出雲市行きの「特急やくも7号」が入ってきて、こちらは停車しないでそのまま通過していきました。特急同士の豪華な行き違いでした。
帰りに駅の事務室を見ると、たくさんの絵が飾ってありました。それだけではなく、湯沸かしの道具や飲み物のカップも置いてあります。今は、地元の方の集会に使われているのでしょう。
駅前の広場の一角に、「山田方谷先生旧宅 長瀬塾跡」の碑が建っています。ここJR方谷駅は、山田方谷の住居跡なのです。備中松山藩の元締め役を退いた後、安政6(1859)年、この地に移ってきました。越後長岡藩で藩政改革を主導した河井継之助が、その年に彼を訪れています。備中松山藩の改革を進めた方谷に、教えを請うたのでしょうか。長瀬塾は、明治元年(1868)年に、山田方谷が開いた学塾でした。

JR方谷駅は、岡山県唯一の「人名駅」です。
当時の鉄道省は、人名を避け、地名である「中井」、「西方」、「長瀬」を、駅名として考えていたといいます。「方谷」の名を残したい地元の人々は、「方谷」は人名ではなく、「西方の谷のこと(地名)だ」として、(駅は、高梁市中井町西方にあります)といって、陳情を繰り返したといわれています。全国に知られる人名駅は、地元の人々の熱意で生まれたのでした。

JR方谷駅が「登録有形文化財」に登録される日が一刻も早く来てほしい、その日を心待ちにしているところです。
 
 ★ 追記 JR方谷駅は、平成23(2011)年7月25日、国の登録有形文化財に登録されました。 

若桜鉄道で若桜町を訪ねる

2011年04月09日 | 日記
「春はあけぼの」は清少納言、われわれ庶民は春は桜花です。鉄道線では、桜のつくちょっと気になる鉄道が鳥取県の若桜鉄道です。
  
鳥取県郡家駅(こうげえき)と、兵庫県境に近い八頭郡若桜町をつなぐ19.2kmの鉄道です。岡山から行くには、かつては、津山線と因美線でまっすぐ北に向かうのが一般的でした。今も、このルートでも行くことができるのですが、津山からの因美線の本数がきわめて少なく接続もよくないので、岡山駅から「特急スーパーいなば」に乗るのが一般的です。岡山からJR山陽線を東に向かい、兵庫県のJR上郡駅から智頭急行線に入り、鳥取県のJR智頭駅で因美線に合流し、三角屋根のJR郡家駅で下車しました。JR岡山駅からJR郡家駅までは1時間40分ぐらいかかりました。
 
若桜線は、かつての日本国有鉄道若桜線。昭和5(1930)年12月1日に開通しました。すでに開通から80年を超えています。「国有鉄道敷設法」では、「若桜から兵庫県八鹿付近に至る鉄道」となっていましたが、若桜から先は着工されることなく、いわゆる「盲腸線」となっていました。現在では、地元自治体等が出資する第3セクターの鉄道になっています。
  
若桜駅の魅力は、SLに、SL時代の給水塔、そして転車台が、駅構内に残っていることです。このSL、C12167は、兵庫県多可町から譲られたといわれています。
若桜駅にあるこれらの施設とともに、若桜駅、丹比駅、八東駅、安倍駅、隼駅、因幡船岡駅の各駅舎とプラットホーム、橋梁などが、平成20(2008)年、「登録有形文化財」に登録されています。このSLを動かす募金も行われています。JR郡家駅から若桜駅までを、30分で結んでいます。

鳥取県と兵庫県の県境に近い、山間の若桜町は、鳥取藩主の参勤交代に使われた若桜街道(伊勢街道)の宿場町として、そして商業の中心地として栄えました。

今も、通りの随所に当時の面影を残していますが、実は、明治時代の大火でほとんど焼失してしまい、民家のほとんどは、それ以後に建てられたものです。
 
今も残る民家から、大火の後のまちづくりの様子を知ることができます。写真は土蔵が並ぶ「蔵通り」ですが、大火の後には、火災に強い土蔵しか建てることができなかったという事情がありました。細い路地を圧倒するかのようなどっしりとした土蔵が存在感を示しています。

これは「カリヤ通り」です。通りから3メートルほど内側にずらして、通路沿いに小さい川を引いて、民家と川の間にひさしをつくった民家が残っています。「カリヤ」とは「仮屋」のことで、この庇の下の1mぐらいの道のことです。豪雪地帯の若桜町だけに、川は雪を流すのに使われたり、鯉の飼育に使われたりしていましたが、これも、大火の教訓から学んだまちづくりの工夫でした。


若桜線で行く若桜駅と若桜の町は、山間の小さな町ですが、歩くと不思議に元気の出て来る、魅力にあふれた町でした。


残念だった岩村町の旅

2011年04月06日 | 日記
「天空の城」竹田城に行ったとき、日本城郭協会から
「日本三大山城」に認定されている城があることを知りました。
それによると、三大山城とは、岡山県備中松山城、
奈良県高取城と岐阜県岩村町の岩村城でした。

岩村城は、山麓までは訪ねたことがありました。
何年か前、名古屋での仕事を終えた後、
岐阜県岩村町の太鼓櫓まで行きました。
しかし、ほんとに残念なことだったのですが、
そのときは、山頂の山城を訪ねる気持ちがまったくなかったのです。

「三大山城」の一つだということも知らなかったし、
知っていても時間がなくて、
山頂まではとても登れないと思っていました。
今も、チャンスを逸したことを悔やんでいます。
せっかく山麓の太鼓櫓まで行っていたのにと・・・・。
  
JR名古屋駅からJR中央本線の普通電車で、恵那駅まで約55分。
そこから、明智町と結ぶ第三セクターの明知鉄道に乗り換えて、
岩村町をめざしました。
  
明知鉄道の切符は、懐かしい硬券でした。
岩村駅まで470円、少し割高な印象ですが、
鉄道を維持するには仕方がないのでしょうね。
岩村駅までは所要約30分、のどかな農村風景の中を走ります。
農村景観日本一に選ばれた山村の光景です。
岩村駅では、これまた懐かしい腕木式信号機が健在でした。
駅のホームには、手動の転轍機がありました。
  
駅を下りてから、太鼓櫓をめざして歩きました。
道の両側には、「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれた、
美しい歴史の町並みが続いていまいした。
 
本通りは、江戸時代に戻ったような感じがするほど、すばらしい風景です。

織田信長の叔母ゆうにちなむ、
「女城主」のブランドで知られる岩村醸造の建物がを見つけました。
甲斐の武田氏との戦いの中で、数奇な運命に翻弄された、
美しいゆうの姿をしのびながら飲む酒なのでしょうか。
 
鉄砲鍛冶の屋敷も残っています。
また、藩の御用菓子司をつとめ、200年にわたって作り続けている、
江戸時代創業の「松浦軒」や「かめや」などの、
カステーラの店が目につきました。
傾斜のある坂道を登ると、太鼓櫓に着きます。
 
城下に時を知らせた太鼓櫓と藩校知新館の正門が、
藩主の邸宅があった広場に再建されていました。
岩村町の人々は、安易にコンクリート製で再建することを嫌い、
あくまで木造にこだわった再建をめざしています。 
こういうこだわりが、町並み保存にも表れています。
私も大賛成です。
時間がかかっても、本物に近い城や藩主の邸宅を、
つくりあげてほしいと期待しています。
この先をさらに登っていくと、「日本三大山城」である岩村城にいたります。
標高700mを超える山頂に石垣が残っているそうです。
文治元(1185)年、地頭の加藤景廉(かげかど)が築き、
以後、天正元(1573)年、甲斐の武田の軍勢によって落城するまで、
380年以上にわたって君臨していました。
慶長6(1601)年、松平家乗(いえのり)の岩村藩(2万石)となってからも、
藩主は丹羽氏、松平氏と代わりましたが、
城はそのまま明治まで残りました。

かつての藩主の邸宅につくられた旧岩村高校。
ほんとに立派な4階建ての建物で、かつてのこの町の勢いを伝えてくれています。
しかし、生徒の減少が原因でしょうね、
私が訪ねたときには、正門に「恵那南高校岩村校舎」と書かれていました。
平日でしたが、生徒の姿はまったく見えず、
門扉は開かないように固く施錠されていました。
広いグランドや体育館が立派なだけに、
寂しさも一層募ってくる、そういう感じでした。
平成22年4月からは、新たに、恵那特別支援学校が移転してきて、
息を吹き返したようです。

坂道を下り再び駅に着いた時には、少し暗くなっていました。
駅前のお店で食事をして、明知鉄道で恵那に向かいました。

機会があれば、石垣の残る岩村城跡をめざしたいと思っています。