トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR庭瀬駅と庭瀬城跡を訪ねる(1)

2021年05月31日 | 日記

JR庭瀬駅です。岡山市北区平野にあるJR山陽本線の駅ですが、昭和61(1986)年4月1日に改築された白壁の駅舎で知られています。

JR岡山駅から10分ぐらいで、2面2線の庭瀬駅のホームに停車しました。平日の午後でしたが、中・高校生を含めて多くの方が降車されていました。岡山駅から乗車してきた糸崎駅行きの115系4両編成の電車は、すぐに、次の中庄駅に向かって出発して行きました。降車したのは、駅舎の向かい側の2番ホームです。上家の下には多くのベンチが設置されていました。

上家の岡山駅寄りにあった駅名標です。庭瀬駅は、同じ岡山市北区にある北長瀬駅から4.7km、次の中庄(なかしょう)駅まで3.1kmのところにあります。中庄駅は倉敷市にある駅なので、庭瀬駅は山陽本線における岡山市の西端の駅ということになります。 ホームを岡山駅側に向かって歩きます。

長いホームの端に来ました。「8」と書かれた停車位置の先に、複線の線路と庭瀬東踏切が見えました。
ホームを倉敷駅方面に向かって引き返します。線路の上に跨線橋が、右側に白い駅舎の丸い屋根が見えました。 山陽本線は、明治21(1888)年に山陽鉄道によって、兵庫駅・明石駅間が開業したことに始まります。
庭瀬駅の周辺は、岡山市近郊の住宅地が広がる地域になっています。住宅の手前のホームの左側の一角は墓地になっていました。 明治24(1891)年3月18日、西に向かって延伸して来た山陽鉄道は、この日、三石駅・岡山駅間が開業しました。そして、1ヶ月後の同年4月25日には、岡山駅・倉敷駅間が開業しています。  庭瀬駅は、この時に、当時の賀陽郡庭瀬村平野の現在地に開業しました。駅の開業から、すでに130年が経過しています。
明治34(1901)年に庭瀬村が町制の施行により吉備郡庭瀬町平野に、その後、昭和12(1937)年に、都窪郡撫川町と合併し都窪郡吉備町平野になりました。そして、昭和46(1971)年に、吉備町が岡山市に編入され、岡山市平野に、平成21(2009)年、岡山市が政令指定都市となり現在の岡山市北区平野となりました。  駅名標まで戻って来ました。ホームの左側には、墓地の脇から続く自転車駐輪場の白い屋根が見えます。 

その先に、南口改札がありました。平成20(2008)年12月に新設されました。 
改札口の脇の上家の柱に「建物資産標」がありました。「鉄停 駅 旅客上家6号 昭和57年11月」と書かれています。駅舎の改築は、昭和61(1986)年に行われているため、上家の整備はその少し前になされたようです

明治39(1906)年、山陽鉄道は国有化され、明治42(1909)年の線路名称の制定によって、「山陽本線」となりました。 南口の改札口の先に、自販機、駅名標、跨線橋の上り口が見えます。その脇を抜けてさらに西に向かって歩きます

中庄駅側のホームの端まで来ました。庭瀬西踏切が見えました。

ホームの端から見た跨線橋です。階段の反対側にエレベーターの出入口が設けられていました。

跨線橋で線路を渡って駅舎側の1番ホームに降りました。すぐ左側にトイレがありました。

ベンチの先に改札口があります。
改札口を過ぎて少し進むと、「旧庭瀬駅駅舎の柱と鬼瓦」が展示してありました。いずれも、明治24(1891)年に開業したときの駅舎で使用されていたものです。ケースの中にあった説明によれば、展示されている柱は、駅の”特別待合室”で使用されていたものだそうです。昭和7(1932)年に起きた五・一五事件で銃撃され死亡した犬養毅元首相は、庭瀬駅の北にある川入地区の出身で、東京に向かう時には、この”特別待合室”で「汽車を待つ間、国政を案じ瞑想にふけっていた」(説明)そうです。

改札口から駅舎内に入ります。 庭瀬駅は、平成30(2018)年3月25日に無人駅となりました。しかし、令和元(2019)年度には、1日平均4,341人の方がこの駅から乗車されていたそうです。 ”無人駅”と聞くと「利用者が少ない駅」と思いがちですが、庭瀬駅は近くに大学もあり多くの人に利用されているようです。

改札口の脇にあった時刻表です。山陽本線だけでなく倉敷駅から分岐して伯耆大山駅間を結ぶJR伯備線の列車も停車しており、朝の通勤通学時間帯には1時間に7本の列車が停車することもあるようです。

駅舎内です。改札口の右側の光景です。乗車券の発券機やインターフォンが置かれています。

発券機の向かい側です。飲料水と菓子の自動販売機と丸い木製のベンチが置かれているだけのシンプルな待合いのスペースです。

駅舎から出ました。駅舎の左側のようすです。フレームだけが並ぶスペースがありました。その下を進みます。
花壇がありました。岡山吉備ライオンズクラブの札が貼ってありました。



花壇の前の広場から見た駅舎です。駅舎の向こうには駐車場が広がっています。

花壇の前からの跨線橋の姿です。駅周辺を歩くことにしました。
駅に接してあった庭瀬駅第一自転車駐輪場です。その前を左に向かい、線路に沿って進みます。
駐輪場の先に庭瀬西踏切がありました。県道151号(妹尾・吉備線)の踏切です。列車の通過を待つ車も見えました。
庭瀬西踏切です。「150K090M」山陽本線の起点神戸駅からの距離のようです。 県道はこの先で民家の間を抜けて、岡山市南区の妹尾地区につながっています。

庭瀬西踏切を渡ってから見えた庭瀬駅です。跨線橋とホームで見た南口の改札が見えます。

庭瀬駅(南口)と書かれています。改札には駐輪場の側から階段で上ることになります。平成20(2008)年12月に新設されてからは、駅舎の南側からの利用者は、ずいぶん便利になったようです。
南口改札口の正面です。

岡山市の西の端にある駅、庭瀬駅を訪ねて来ました。1日、4000人を超える人が乗車されている”無人駅”でした。
次回は、庭瀬東踏切から、庭瀬城跡と撫川城跡を歩くことにしています。


JR西阿知駅を訪ねる

2021年05月16日 | 日記
JR山陽本線の西阿知駅です。倉敷市西阿知町にあります。木造駅舎に設けられている左右の青いラインが印象的な駅舎です。

駅舎のある西阿知町は、西阿知、西原、西阿知新田、片島町の4つの集落からなっています。 古代には、”吉備の穴海” と呼ばれた海だったところでした。高梁川の河口付近にあり、江戸時代には、上流から運ばれてきた土砂が堆積し、干潮時には干潟が広がるようになっていました。そのため、その干潟を干拓して新田の開発が行われるようになりました。 西阿知町はこうして生まれたところでした。 
西阿知駅の開業は、大正9(1920)年5月25日。 開業当時の所在地は、岡山県浅口郡河内(こうち)村で、倉敷駅と玉島(現・新倉敷)駅の中間駅として開業しました。 

岡山駅から乗車してきた糸崎駅行きの普通列車は、20分ぐらいで、西阿知駅の1面2線の島式ホームに到着しました。平日の午前中でしたが、10人ぐらいの人とともに下車しました。列車は、やがて、次の新倉敷駅に向かって出発して行きました。上家の下に置かれたベンチと、その先の長いホームが見えました。

列車が出発した後のホームの南側です。柵の外側の側線には工事車両が停車していました。その向こうは、岡山県立水島工業高等学校の敷地になっています。 山陽本線は、兵庫県の神戸駅から山口県の下関駅までを結んでいる本線と、JR兵庫駅からJR和田岬駅までの全長1.7kmの支線(通称、「和田岬線」)からなる路線(幹線)です。 和田岬線は、明治23(1890)年に貨物支線として開業しています。

ホームの西側から見た岡山駅側の光景です。
山陽本線は、明治21(1888)年、山陽鉄道が兵庫駅・明石駅間で開業させたことに始まります。その後、西に向かって延伸し、明治34(1901)年、馬関(現・下関)駅まで開業しました。 そして、明治39(1906)年には国有化され、明治42(1909)年の国有鉄道の路線名称の制定により「山陽本線」と呼ばれるようになりました。 西阿知駅が開業したのは、この後のことでした。

ホームから見た駅舎です。駅舎からは地下道を通ってホームに上がるようになっていましたが、現在は、エレべーターでも移動ができるようになっています。 岡山駅・倉敷駅間が、山陽鉄道により開業したのは、明治24(1891)年4月25日。その後、さらに西に向かって延伸し、倉敷駅・笠岡駅(岡山県最後の駅)間が開業したのは、同じ明治24(1891)年の7月14日のことでした。西阿知駅は、大正9(1920)年の開業ですから、倉敷駅・笠岡駅間の開業から30年ほど遅れて開業したことになります。

岡山駅方面行きの列車が停車する駅舎側の1番ホームを、貨物列車が通過して行きました。ホームを岡山駅方面に向かって、さらに進みます。
ベンチが並ぶ先に自動販売機とその後ろの待合室が見えました。

待合室の裏には、駅舎とホームを結ぶ地下道から続く階段が設けられています。手前の柱に「建物資産標」が貼られていました。

それには「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家1号 大正12年2月」と、書かれていました。 西阿知駅の開業から2年半後に建てられた上家のようです。建設から、すでに100年が経過しています。
平成23(2011)年3月に使用が始まったエレベーターの出入口がありました。
さらに、岡山駅方面に向かって歩きます。長いホームが見えます。
駅名標がありました。西阿知駅は倉敷駅から4.0km、次の新倉敷駅まで5.3kmのところにあります。開業時の浅口郡河内村は、大正15(1926)年に西阿知町に改称されました。 そして、昭和28(1953)年には、西阿知町は倉敷市に編入され、現在の倉敷市西阿知町になりました。
エレベーターの跨線橋を過ぎて岡山駅方面に向かって歩きます。
岡山側のホームからの新倉敷駅側のホームのようすです。上家の中にベンチが設置されています。線路を跨ぐエレベータの跨線橋の向こうに西阿知駅の木造駅舎が見えます。

ホームのエレベーターの出入口の前に戻りました。 駅舎から地下道を利用する乗客が上り下りする階段です。  駅舎に向かうことにします。

改札口の前に出ました。
西阿知駅を訪ねてみようと思ったのは、この駅が、1年前の令和2(2020)年4月11日から、県内の鴨方駅(山陽本線)、早島駅(宇野線)とともに、無人駅になっていたからです。 西阿知駅の1日平均乗車人員は、平成30(2018)年には、3,107人だったそうです。 無人駅といえば、「利用者が少ない駅」というイメージでしたが・・・。多くの利用者がいる駅でした。

階段の正面に改札口、その左側にはトイレが設置されています。トイレ前の柱にあった「建物資産標」には「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家 2号 平成23年3月」と書かれていました。

階段の右側に設けられていたエレベーターの跨線橋です。木造駅舎には不釣り合いなほどどっしりとした印象です。出入口の近くにあった「建物資産標」にも、同じ「平成23年3月」と書かれていました。エレベーターの跨線橋を整備したとき、改札口付近一帯をまとめて整備したようです。

改札口前の地下道への入口です。地下道への通りを覆う上家の右側の柱に「建物資産標」がありました。そこには、「建物資産標 鉄停 駅 旅客上家3号 大正13年6月」と書かれていました。開業から4年ぐらい後に整備されているようです。

改札口から駅舎に入ります。駅舎の左側の部分は待合いのスペースになっています。

改札口の右側のようすです。窓口は閉鎖されており、自動券売機が設置されていました。
駅舎から駅前の駐車スペースに出ました。青地に黒の「西阿知駅」の駅名標が鮮やかです。出入口の、向かって右側の柱の脇の壁面に「建物資産標」がありました。

「建物資産標 鉄停 駅 本屋1号 大正7年7月」と書かれていました。駅舎は大正7(1918)年7月に完成したようです。 なぜ、開業が2年後の大正9(1920)年になったのかということについて、「西阿知駅は、大正7年7月に完成し、開業は2年近く後の大正9年5月25日と記録には見える。実は鉄道の開通の時に駅の設置は決まっていたが、高梁川が洪水で決壊したため取りやめになり、駅舎の建設はお預けになった」(「岡山の駅」難波数丸著)からということのようです。 当時、「高梁川は東西2本に分かれていたが、洪水対策として東高梁川を廃川とし、西高梁川を現在の流れに改修する工事が行われており、線路の位置も変わったので、駅舎は完成しておりながら、線路の付け替え工事が終わった2年後の開業になった」(同上)のだそうです。

駅舎の前は駐車スペースになっています。駅舎の新倉敷駅側に地下道がありました。 駅の周辺を歩いてみることにしました。民家の手前の屋根の下から地下道に入ります。

西阿知駅の裏(南)側の新倉敷駅方面です。線路と並行して長い駐輪場がありました。自転車がぎっしり並んでいます。
駐輪場から見えた南側の光景です。通りの右側が水島工業高校の敷地、突きあたりに見えるのは、倉敷市立倉敷第一中学校の校舎です。周辺は静かな住宅地になっていました。

駅舎前に戻ってきました。駅舎の正面の通りを高梁川方面に向かって進みます。JAの建物のある交差点の左側に、西阿知公民館がありました。

西阿知公民館です。 中に、西阿知地区の歴史に関する展示室がありました。 冒頭でも書きましたが、西阿知地区は江戸時代になってから、海の中の干潟を干拓することによって生まれました。「干拓してすぐの農地は塩分が含まれているため、塩分の含まれる土地でも育ち、土地の塩抜きもできる作物として、綿花やい草が多く栽培されていました」と「説明」には書かれていました。

特に、「西阿知地区は、い草を加工した畳表(たたみおもて)や畳縁(たたみべり)のブランド力が、全国でも高まっていた。 明治以降は西洋の技術を導入し織機が普及していった」そうです。 
写真は、公民館に展示されていた「ロール式織り込み花筵織機」。昭和22(1947)年創立の地元企業である、岡工作所が製作した花筵(はなむしろ)の織機です。
「昭和39(1964)年をピークに栽培は減少していったが、加工技術は今もこの地に広がっているという」と「説明」には書かれていました。

JR西阿知駅を訪ねて来ました。
倉敷市にある「無人駅、西阿知駅」は、利用者の少ない駅という「無人駅」のイメージを覆す、閑静な住宅地にある、多くの利用者に支えられている駅でした。