トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

木材で栄えた、旧中山道上松宿を歩く

2013年08月28日 | 日記
東海道とともに、江戸と京都を結ぶ”五街道”の一つ、中山道。その33番目の宿場である贄川(にえかわ)宿から43番目の馬籠(まごめ)宿の間は”木曽路”と呼ばれています。今回は、中山道の最初の宿場板橋から数えて38番目の宿場、上松宿を歩きました。

雨が心配でしたが、行けるところまで歩いてみようという心境でした。上松宿は、”木曽の檜”に代表される木材の集積地であり、木材を扱う商人でにぎわう町でした。JR中央本線上松駅からスタートしました。

雨が心配でしたので、宿場の入り口から歩くことにしました。駅前からまっすぐ南に2つ目の通りまで歩き、そこで左折して、一つ江戸寄りの福島宿方面に向かって歩きます。しばらく歩くと十王橋付近に着きました。写真は、福島宿方面から、十王橋付近を写したものです。中央の植え込みの先が十王橋です。

植え込みの中にあった「中山道上松宿入り口」の碑です。このあたりから宿場が始まっていたようです。十王橋付近には十王堂(地蔵堂)があり、そこに高札場がありました。案内板には、「十王堂に祀られていた地蔵尊が、慶応3(1867)年の大洪水で堂とともに流出したが、75年後に川の石の間から発見されここに祀られた」と書かれていました。

十王橋に祀られていた地蔵尊や馬頭観音などです。十王橋にかかる十王川は、もとは小野川と呼ばれていましたが、十王堂がつくられてから十王沢と呼ばれるようになり、橋も十王橋と呼ばれるようになったそうです。

白いガードレールの先にある十王橋を渡って、すぐ左折します。

左折してすぐ右折。上松宿の上町に入ります。旧中山道の宿場町です。昭和25(1950)年に上松宿は大火のため、宿場周辺が焼失してしまいました。


大火を免れた民家がわずかに残っているのが、上町付近です。


ほとんどのお宅が、玄関に”屋号”をつけておられました。

上松宿の旧中山道沿いにつくられていた観光用の道標です。道標にしたがって、まっすぐ進んで行きます。

上町から本町に入ります。旧街道の右前方に青い屋根のお宅が見えました。

ここは、上松宿の脇本陣があったところです。上松宿は、天保11(1843)年には家数は362軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は35軒あり、宿場の人口は2482人でした。上松宿は、”木曽路11宿”のうち、家数は奈良井宿に次いで2番目、旅籠の数と人口はトップという大きな宿場でした。脇本陣は、宿場でもっとも大切な、人馬の継ぎ立て業務を担う問屋も兼ねていました。幕末に、13代将軍徳川家茂に嫁ぐため江戸に向かっていた皇女和宮が、文久元(1861)年11月2日に、上松宿に宿泊しました。御輿(みこし)の警護に12藩、沿道の警護に29藩が動員され、武士と人足を含めて3万人が50kmにわたって行列したといわれています。問屋業務もこのときは大変だったのではないでしょうか!

脇本陣跡の向かいには歯科医院がありました。このあたりに、かつて、藤田九郎左衛門がつとめる本陣がありました。江戸幕府14代将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮は、この本陣に、文久元(1861)年11月2日に宿泊しました。

さらに進みます。本陣跡から50mぐらいで、旧街道は枡形に入り、右折します。その角の民家の軒下近くに、一里塚跡の碑がありました。

「上松の一里塚」と呼ばれていたそうです。一里塚は「実際にはここから30mほどの京都に寄ったところ」にあったと、説明には書かれていました。

枡形を右折して進みます。50mぐらい進むと、最初に駅から十王橋に向かって歩いた道に出ます。そこを左折します。角にあった観光道標の「上松駅方面」に向かって歩きます。このとき、心配していた雨が降り始めました。このところ、歩いているとよく雨に出会います。

上松駅の方には、この先の横断歩道(広小路の交差点)を右に向かって進んで行きます。中山道は、ここからさらにまっすぐ進んでいました。左側にある旅館の田政。このお宅には、文久3(1863)年建築の蔵2棟が残っているそうです。

旅館田政の手前を左に、蔵を探しに入りました。これがその蔵なのでしょうか。よくわかりませんでした。雨が少しひどくなり、人通りもまったくありません。

さらに進み下町に入ります。横断陸橋があるあたりが、上松宿のはずれになります。旧街道はここから通りを離れ左側の道を上っていきます。

幅2mぐらいの道が続きます。

さらに進むと正面の小高いところに道路が見えました。旧街道は、この先を右にカーブしてさらに上ります。

そのまま、先ほど見た道路に合流します。手すりに「中山道」の道標が掲げられていました。

左側にあった上松小学校です。広いグランドをもった立派な校舎です。

そのまま右に進みます。しばらくすると、上松小学校の敷地に沿って進む道になります。この左側にはいくつかの碑が建てられています。

「駒ヶ嶽 みえそめけるを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく 茂吉」  斎藤茂吉の歌碑です。

小学校のグランド近くの道路沿いにあった「上松材木役所御陣屋跡」の碑がありました。寛文3~4(1663-1664)年にかけて木曽の木材の検分を行って、その大半が伐採されていることを知った尾張藩は、木曽を藩の直轄地にし、奉行を派遣して、「木一本・首一つ」といわれる厳しい管理・統制を行いました。寛文5(1665)年から奉行が詰めた「上松材木役所」は南北65間、東西55間、敷地面積3500坪という広大な敷地にありました。役所は、旧街道の右側にあったといわれています。ちなみに、上松は、現在も木曽の檜などの木材の集積地になっていて、JR上松駅前には多くの材木が集まって来ます。

「上松材木役所跡」の碑の脇にあった諏訪神社の鳥居です。諏訪神社は、上松の鎮守の神を祀る神社です。

石段をあがった左側に小学校の校舎がみえました。

神社の本殿や拝殿は、小学校のグランドを横切った先にありました。参拝者はグランドを横切ってお参りしたのでしょうか。長い参道の先に本殿や拝殿がありました。

小学校を越えてさらに進むと、下り坂になります。突き当たると左に進み、その先の中沢橋を渡ります。お恥ずかしいことながら、雨が激しく降って来て、足下はびしょびしょ、くじけそうになっておりました。

中沢橋を渡ってから、また上りになります。見帰の集落です。

「見帰」と記述し「みかり」と読みます。このあたりには、「木曽山中に隠居した老人が不老不死の薬をつくり名医と言われていた。この老人は山深い山中で薬をつくるため、三度この地を離れたが、三度とも帰って来た」という伝説があります。その伝説から三帰と呼ばれるようになり、その後、「見帰」に変わったそうです。上松コミュニティバスの停留所に、その名が残っていました。

雨が降り続く中を、ひたすら前に進みます。20分ぐらい歩いた頃でしょうか、雨の中を工事車両が作業しているのが見えました。ここに着いた時には、雨はもう止んでいました。警備員さんは少し待つようにとのことでした。
しばらく待つと、前方右側に、越前屋がありました。寛永元(1624)年創業。松尾芭蕉も訪ねたおそばやさん。「続膝栗毛」にも登場する「寿命そば」で、街道筋でも知られるおそば屋さんでした。「続膝栗毛」には、弥次郎兵衛と喜多八が越前屋の娘に鼻の下を伸ばす様子が描かれているそうです。
「めいぶつの そばきりよりも 旅人は むすめに 鼻毛ののばしやすらむ」は、ここで読んだ狂歌だといわれています。

現在は、ここではなく、国道沿いにある店で営業されており、ご主人は、ここを自宅としておられるとのことでした。

越前屋の向かいにある豪壮な商家風の建物です。このあたりは、江戸時代から中山道の「立場」(たてば)だったところです。 旅人が憩う休憩所としてにぎわっていました。「たせや」と書かれた大きな看板が待っていました。
ここは、かつて民宿をされていたそうですが、最近は、そば屋になっていたようです。私が訪ねた一週間前ぐらい前に、共同で経営していたお一人が亡くなり、それ以後、お店が開かないと、お近くの方は心配しておられました。 越前屋とたせやの間の道を下っていくと国道11号線を越えて寝覚めの床に行くことができます。しかし、ここで、おしまいにしました。雨の中を歩くのは疲れます。JR上松駅に引き返すことにしました。


このところ、よく雨にたたられます。でも、越前屋まで歩くことができたのはラッキーでした。木材で栄えた「豊かな」上松宿に触れることができた旅でした。




水舟が輝く宿場町、木曽路須原宿

2013年08月21日 | 日記
江戸時代、東海道とともに江戸と京都を結んでいた中山道。その最初の宿場である板橋から数えて33番目の贄川宿(にえかわしゅく)からは「木曽路」で知られる街道に入ります。その先にある43番目の宿場である馬籠宿(まごめしゅく)までの「木曽路11宿」の中には、江戸時代の雰囲気を今に伝える雰囲気のある宿場跡が残っています。私は、木曽路のメインの宿場ともいうべき奈良井(2010年6月9日の日記)や馬籠・妻籠(2010年6月19日の日記)は、すでにまとめました。それほど有名ではありませんが、須原宿(すはらしゅく)も木曽路の宿場町の雰囲気を色濃く残す宿場町の一つです。板橋宿から数えて、中山道で40番目の宿場です。夏の一日、かつての面影を求めて、須原宿跡を歩きました。

JR中央本線の須原駅から出発しました。須原駅の前を左右に走る県道265号線を右(江戸側)の方向に進みます。

10分ぐらいで、国道19号線に合流します。この写真は、国道から県道265号線方向(左側)を撮影したものです。

国道脇に宿場の案内が建っています。「左 中山道須原宿」の石標の案内に従って県道265号線を引き返します。須原宿は、江戸側に一つ手前の上松宿から、3里9町(12、67km)ありました。

「木曽のかけはし」という地酒の看板を見ながら、ゆるやかな上り坂を進んで行きます。
須原駅前にあった、大和屋さん。お店の前の看板に書かれているように須原名物「桜の花漬け」のお店として知られています。

駅前にあった、「幸田露伴と須原宿」の碑。明治22(1890)年冬、木曽路を旅して須原宿に泊まった経験をもとに、彼の出世作「風流佛」を著したと書かれていました。このあたりは、須原宿の上町と呼ばれるところです。

その先には須原宿の雰囲気のある町並みが続いていました。しかし、ここまでたどってきた道はかつての中山道ではありません。宿場の入り口にはこの道が中山道と示されていて、須原宿に向かっていく道ですが、本来の中山道ではないのです。

正しい道をたどるため、再度、先ほどやってきた国道19号線との合流点に戻ります。そこから、今度は国道19号線を先に進みます。50mぐらい進んだところに、坂を上る細い道がありました。白いガードレールのところに黒く見える標識に「中山道」と書かれています。国道19号線と別れ、左の坂を上るのが本来の中山道です。道なりに進みます。

幅2mぐらいの細い道を進みます。この道は、途中で右折して進み、最後の石段を登ると、県道265号線に合流します。

須原駅前の県道265号線を左に進むと「高札場跡」の案内板があります。法令を書いた高札が掲げられていたところです。多くの宿場町で、宿場の入り口付近に設置していました。ところで、須原宿は、江戸時代初期には、もっと右手の木曽川沿いにあったそうです。ところが、正徳5(1715)年の起きた木曽川の大洪水で、須原宿はほとんど流されて壊滅しました。復興の時に、現在の宿場跡が残る高地に移すことにしました。糸瀬山から用水路を引いて町並みを整え、現在の須原宿が形成されていったそうです。

その先の「あすなろ」というお店の前にあった、井戸型をした水汲み場です。須原宿では「清水」がいたるところから湧き出していました。3槽になった水汲み場をみて、郡上八幡の宗祇水(2010年5月25日の日記)を思い出しました。

これは、先ほど駅前で見た幸田露伴の石碑の前にあった水汲み場です。丸太をくり抜いてつくっています。この水汲み場は「水舟」と呼ばれています。この後、街道沿いにたくさんの水舟に出会うことになります。
これは、県道の分岐点の写真です。「水舟の里 須原宿」と書かれています。須原宿は「水舟の里」として知られる宿場町なのです。

旧街道はゆるやかに下っていきます。須原宿は、幕末の慶応2(1866)年の大火で、宿場の多くが焼失してしまいました。建物は建て替えられていましたが、それでも、旧街道の面影を残す町並みが続いています。写真の正面の山の中腹(民家の屋根の上あたりの高さ)を、ときどきJR中央本線の列車が通り過ぎて行きます。

その先の須原宿の本町に入って20mぐらいで、左側の民家の前に「須原宿の本陣跡 主 木村平左衛門」と書かれた案内板を見つけました。このお宅を含む場所に、かつて本陣が置かれていました。須原宿には、江戸時代の後期の天保14(1843)年には、家数が104軒あり、そのうち本陣が1軒、脇本陣1軒、旅籠が24軒あったそうです。

本陣跡の向かい(街道の右側)に西尾酒造の建物がありました。須原宿の入り口付近の県道265号線に沿って「中山道須原宿 手作りの酒 木曽のかけはし」の看板がありましたが、江戸時代から続く、地酒「木曽のかけはし」の蔵元です。ここは、江戸時代に須原宿の脇本陣をつとめていた西尾家でした。

邸宅の前に大桑村が設置した「旧脇本陣西尾家の沿革」と石製の「西尾翁紀念碑」がありました。それによると、西尾家は、大永・天文年間(1522~1554)から須原に住みついた須原屈指の旧家で木曽氏の家臣を務めるなどした後、江戸時代には尾張藩の山林取締役等の重責を担っていたそうです。慶長5(1600)年中山道の宿場ができると脇本陣・問屋・庄屋を兼ねた宿役人としてこの地域の発展に貢献したそうです。問屋は、宿場でもっとも大切な馬や人足の継立てを行う役所です。

かつての脇本陣西尾家と旧街道をはさんだ向かい側、本陣跡の案内板のあった民家の並びに、ここも、かつての本陣の敷地内にあたるようですが、「子規の歌碑」と水舟がありました。「寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出るほとの 空たにもなし」。 どこの水舟にも「ひしゃく」が置いてあります。 「どうぞお飲みください」ということなのでしょう!

この建物は、西尾邸から少し進んだところにありました。須原宿の仲町に入りました。島崎藤村の小説「ある女の生涯」の舞台になった清水医院はこのあたりにありました。現在は、清水医院の建物は愛知県犬山市の明治村に移設されているようです。清水医院には、島崎藤村の姉、園(その)も実際に入院したことがあるのだそうです。

清水医院の向かいにあった秋葉常夜灯。火伏せの神、秋葉大権現の常夜灯です。「當町中」と刻まれています。地元に住んでいた人たちが建立したものです。

そこを左に入っていくと、鹿嶋神宮仮宮があります。鹿嶋神宮は、須原宿の人々の鎮守の神様です。

ここから道は、右カーブになりますが、旧宿場町の雰囲気を残す仲町の町並みが続きます。旧街道の両端にある用水には清らかな水が豊かに流れています。

右側にかつての小学校の校門が建っています。石製で、左に「昭和二年建之」、右に「長野縣西筑摩郡大桑村立須原小学校」と書かれています。

校門から右に進んでいくと、今では小学校はなくメルヘンチックな大桑保育園の赤い屋根が見えました。再び、旧街道に戻り先に進みます。

校門の反対側(左側)にあった水舟です。この水舟は、丸太をくり抜いてつくったことがよくわかる形をしています。須原町の茶屋町に入りました。

この水舟にはコップがおいてありました。「須原宿は中山道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれました。この水舟もその面影を残す」と案内板には書かれていました。

須原宿の茶屋町に入りました。旧街道の面影を残す一画です。街道沿いにあった祠。コミュニティバスの”くわちゃんバス”の停留所にもなっています。

かつての旅籠”柏屋”です。 須原でもっとも有名な建物です。障子がサッシに替わった以外は、すべてかつての旅籠時代のまま残っているそうです。

街道からよく見えるところに、2階の屋根の庇の下につるされている「講宿」の看板。「三都講 講元大坂河内屋庄左衛門」とあります。このあたりは御嶽山信仰にかかわる講宿の看板が多いのだそうです。旅人の目印になったのでしょう。
柏屋のある一画を振り返って見ました。右側(実際には進行方向の左側)に並ぶ旅籠風の建物には「講宿」の看板がかけられていました。「中日新聞」の看板がある新聞販売店の建物には、「一新講」と「宮九講 不動院義覚行者」がかかっていました。

この先、旧街道は右側の民家の手前で右折して進んでいました。このあたりは宿場町の外れになります。まっすぐに行く道は、現在では県道265号で通り抜けができますが、江戸時代には、この先にある名刹定勝寺への参詣道で、行き止まりになっていました。「お寺小路」と呼ばれていたそうです。私は、先に定勝寺を訪ねることにしていましたので、右折しないでまっすぐ進みました。

10分ほど進むと、通りの左側にあった定勝寺の石段の下に着きました。

定勝寺は、脇本陣西尾家の説明にあった木曽氏11代親豊が開祖の寺院です。二度の洪水で流失した後、慶長3(1598)年、現在地に再建されました。緑に覆われた参道の石段を上ります。

国の重要文化財に指定されている山門から境内に入ります。左側に本堂があり、その先に庫裏があります。山門からそのまま進むと庭園にぶつかります。

これが本堂です。国指定の重要文化財です。桃山風の豪壮な建築様式をとどめています。

庫裏です。この建物も桃山様式で建てられています。国の重要文化財に指定されています。

鶴亀蓬莱庭園です。すっきりとした美しい庭園です。こんな小さな村に3件の国指定重要文化財を持つ寺院があるのです! すごい宿場町なのですね。

定勝寺に隣接した水舟の庭園です。

県道265号線を引き返します。旧中山道の枡形(ますがた)に戻ってきました。「枡形 鍵屋の辻」の案内板がありました。この枡形は「京に向けてつくられており、幕府に反乱を起こす敵を防ぐために、道路を直角に、しかも急坂にして攻めにくくしています。」とありました。

右折します。中央に小さい川が流れています。左の道が旧中山道です。最近までここに古い町並みが残っていたそうですが、すでに更地になっていました。

川沿いに急坂を下ります。旧中山道は、途中の理髪店があるところで、左折していました。

左折した後、そのまま狭い道を下ります。道なりに進んでいきます。

右側にあった駐在所を過ぎると、旧街道はゆるやかな左カーブになり、その先の民家の前で、県道265号線に合流します。合流して左に向かうと定勝寺に行きますが、旧街道は、合流点から右方向に進んで行っていました。

県道265号線を進みます。5分ぐらいで、「中山道野尻宿」の石標がありました。中山道41番目の宿場、野尻宿へ向かう旅人は、この先、左に向かって進んで行っていました。

清らかな湧き水が豊かに流れる旧中山道須原宿。ひしゃくやコップが置かれた水汲み場である水舟が、旅人の訪れを待ってくれていました。また、街道沿いの町並みは、かつての中山道の時代に誘ってくれました。木曽路11宿の一つとして、須原宿も輝いていました。


”リゾートビューふるさと”に乗ってJR姨捨駅に行きました

2013年08月17日 | 日記

青春18キップを使って、16時34分に松本駅に着きました。その日は、17:34発の篠ノ井線の普通列車でJR姨捨駅に行くことにしていました。時間があったので、駅前のホテルにチェックイン。荷物を軽くしてから、再度、松本駅に戻りました。

改札口で、17時23分発長野行きの快速列車”リゾートビューふるさと”があることに気がつきました。駅員の方にお聞きすると「指定席券があると、青春18きっぷでも乗れますよ」とのことでした。

指定席券(510円)が取れましたので、”リゾートビューふるさと”に乗ってJR姨捨駅に向かうことにしました。篠ノ井線のホームに入ってきました。”リゾートビューふるさと”は、JR東日本が、平成22(2010)年10月2日から運行している臨時快速列車です。「沿線の山々、川や湖、空や里山など日本のふるさとを思い起こさせる美しい風景と、多くの人々との出会いにつながる旅を創出する列車」をイメージして名づけられた、「ゆとりとおもてなしのリゾートトレイン」です。長野駅から篠ノ井線を通ってJR松本駅へ、そこから大糸線に入りJR南小谷(みなみおたり)駅まで走っています。1日1往復で、長野発9時4分、12時44分南小谷着。この写真は、姨捨駅で撮影した”リゾートビューふるさと”の顔です。

広々とした車内です。シートピッチも広く、座席も大きくてゆったりしています。まさに「ゆとりとおもてなしのリゾートトレイン」にふさわしい座席でした。気動車2両編成で全車指定席になっています。

運転席の近くにスタンプ台がありました。記念スタンプをつくりました。思わず「姥捨」と書いてしまいました。ずっと、この字だと思い込んでいたのです。その近くには進行方向を眺められる展望シートもつくられていました。この列車は、南小谷を15時16分に出て、松本が17時23分発。長野着は18時28分という運行になっています。

定時に出発しました。2両編成の後ろの車両の真ん中あたりの座席でした。車内には、”リゾートアテンダント”の車内放送が流れています。進行方向前方にあるモニターには、運転席から見える風景が映っていました。列車は動き出しましたが、検札がありません。指定席のチェックをどうやってするのかなと疑問でした。聞けば、指定席券に指定された席に座っていると検札はないとのことでした。ちゃんとチェックできているんですね。

リゾートアテンダントの車内販売が来て、商品の案内をして過ぎていきました。車内は3分の1ぐらいが埋まっていました。ただ、お隣の席は空いていました。

18時06分にJR姨捨駅に着きました。現在の駅舎は、”リゾートビューふるさと”が運行され始めた平成22(2010)年にリニューアルされました。木造駅舎で、折り鶴を思わせる駅舎全体の形と亀の甲の形をした窓が印象的です。国鉄時代の昭和47(1972)年から、ずっと無人駅です。

姨捨駅からの眺望です。海抜547m(ホームの案内による)から見下ろす善光寺平の光景です。JR北海道の根室本線の旧線にある狩勝(かりかち)峠とJR九州の肥薩線矢岳越え(やたけごえ)と並び、日本三大車窓の一つに数えられています。

車窓の右下には、”田毎の月”で知られる棚田が並んでいます。2000枚に及ぶといわれる棚田には稲がしっかり育っていました。

上り線のホームには、田毎の月の案内がありました。このホームのベンチは、ホームの外に向かって設置されています。列車を待っている人のためではなく、眺望を楽しむ人のために設置されていることがよくわかります。

平成22(2010)年に上りホームにつくられた、半径2,5mの円形の展望台です。

正面から見た駅舎です。黄昏どきの木造駅舎の美しい姿が見えました。私は、どちらかというとホームから見た駅舎の方が好きですが・・。


姨捨駅の駅標です。これも木製でした。書家の川村龍洲氏が揮毫したものです。このとき初めて、「姨捨」と書くことに気がつきました。お恥ずかしい限りです。


待合室です。この時間は列車を待つ人はいませんでした。ちなみに、この駅の1日平均の乗車人員は72人(2010年)だそうです。

私には、この駅で絶対に見ておきたいことがありました。スイッチバックのようすです。ここ姨捨駅は、数少ないスイッチバック式の駅なのです。この駅がスイッチバック駅になったのは、SLが運行されていたときの給水のためだったそうです。昭和45(1970)年2月にSLの運行が廃止され、不要になった給水設備は現在では撤去されています。 ちなみに、篠ノ井線は、SLの廃止から3年後の昭和48(1973)年に電化されました。

18時12分過ぎ、私が当初、乗ることにしていた、松本発17時34分の長野行き下り列車が入ってきました。スイッチバックの始まりです。列車はここから向かって右の線路に入り、姨捨駅の下りホームに向かいます。

ピンぼけ写真になってしまいましたが、列車は下り線のホームに向かって進んでいます。

下りのホームに到着しました。姨捨駅は2面2線のホームです。向かって右側は上り松本方面行きのホームです。

やがて、長野行き列車は出発していきます。運転士さんは、運転席を替わらないまま、バック運転が始まりました。列車の先頭では車掌さんがしっかり前を向いて見張りをしておられました。万が一の時は車掌さんがブレーキ操作をしてコントロールするのでしょう。写真は、真ん中の線路を向こう側に向かって走る列車を後ろから撮ったものです。

そして、列車は本線のさらに左の待避線に入ります。ここまで運転士さんはバック運転しています。停車後、列車は再び前に向かって動き出します。

長野行き列車は、向かって左の本線に入り写真の左下方向に向かって進んでいきました。

長野行き列車の後ろ姿です。写真の左上に、姨捨駅のホームがあります。篠ノ井線の特急列車は姨捨駅には停車しません。したがって、”ワイドビューしなの”などの特急列車は、本線をまっすぐ通過していきます。停車しないのでホームもいらないということなのでしょう。本線には、ホームは設置されていませんでした。
松本方面行きの普通列車は停車するために、ホームに入ります。どんなルートでスイッチバックを行うのでしょうか? 写真の左側、一番左の本線を右上に向かって来た列車は、左の待避線にまず入ります。そしてバック運転で左から2本目の線路を手前に進んで来ます。

そして、写真の右側の線路を進み、上りホームに入ります。乗降が終わると、再度前方に向かって進みます。

写真の左下にある真ん中の線路から左の本線に入り、松本方面に向かって出て行きました。

この駅を出た快速”リゾートビューふるさと”(JR東日本長野総合車両センター所属 HBーE300系車両)は、約20分後の18時28分に終点長野駅に到着します。その後、全車指定席の快速列車、”ナイトビュー姨捨”として、18時48分、長野駅を出発し再度姨捨駅に向かって走ります。折り返して、長野駅に帰ってくるのは21時00分になります。なお、”ナイトビュー姨捨”は、平成22(2010)年4月20日、長野ー姨捨間で初めて運行されました。

JR姨捨駅でのスイッチバックの様子が見たくてやって来た姨捨駅でしたが、スイッチバック自体は、かつて訪ねたJR四国土讃線の坪尻駅(「秘境の駅 JR坪尻駅に行ってきました!」2011年3月19日の日記)や新改駅(「JR土讃線、もう一つのスイッチバック、新改駅」2012年8月7日の日記)と同じやり方でした。しかし、”リゾートビューふるさと”に乗ったことや、棚田を見ることができたこと、リニューアルした姨捨駅に出会えたことなど、収穫の多い旅になりました。

赤沢自然休養林と森林鉄道

2013年08月10日 | 日記

”森林セラピー”の基地として知られている自然休養林。昭和44(1969)年に、日本で最初に「自然休養林」に指定され、同57(1982)年「第1回全国森林浴大会」がここで開催されて、「森林浴発祥の地」といわれる、赤沢自然休養林に行ってきました。

雨が今にも落ちてきそうな、あいにくの天候の中を、JR中央本線上松(あげまつ)駅に降り立ちました。駅前ロータリーから見た上松駅。手前の大きな時計台は、大木をイメージされてつくられたものです。 上松は、木材の町。また、竜宮城から戻った浦島太郎が目覚めたところといわれる寝覚めの床で知られています。

木材の町だから当然木造かと思いきや、近代的な上松駅です。

その左に隣接した観光案内所で、観光情報を教えていただき、町営バスを待ちました。

切符を買いました。ここから赤沢自然休養林まで、片道1200円。往復切符なら2000円。もちろん、私は往復切符を買いました。切符は、右にミシン目が入っていて、往復使うとしおりとして使えるような装丁になっていました。

乗車しました。乗客は、私と高齢のご夫婦、途中から乗ってこられたご夫婦の5人でした。上松から、北西方向に上ること約30分。 9時55分に、赤沢自然休養林の入り口、王滝地区に着きました。

私はバスを降りろと急な階段を走って上りました。10時に、森林鉄道(トロッコ列車)が発車することになっていたからです。

森林鉄道に着いたとき、トロッコ列車には、すでに多くの観光客が乗車していました。かつての森林鉄道が復活した、高知県の魚梁瀬森林鉄道(2012年3月27日の日記)と愛媛県別子銅山のトロッコ列車(2013 年4月7日の日記)に続く、森林鉄道の見学でした。

森林鉄道は満員の乗客を乗せて、出発していきました。 駅で働いている方は高齢の方ばかりでした。安全確保のためか、多くの乗務員の方が列車の外にしがみついて同行していました。

森林鉄道の案内板です。終点の丸山渡駅までの往復2,2km、25分の列車の旅です。8月は、9時から15時30分まで、30分間隔の運行です。定員は5両編成で100名でした。5両のトロッコ車両には、あすなろ・こうやまき・ねずこ・さわら・ひのきと、”木曽の五木”の名がつけられていました。  赤沢森林鉄道は、昭和50(1975)年5月に、最後まで残っていた上松・王滝間が廃止され、その後はトラック輸送に転換しました。しかし、昭和60(1985)年に森林鉄道記念館の王滝・丸山渡間で、観光路線として復活しました。 この年、伊勢神宮の御用材(神宮式年遷宮御杣始祭)の運搬を森林鉄道で行った姿が放映された結果、復活を望む声があがったからといわれています。

列車を見送った後は、駅に隣接している森林鉄道記念館に入りました。

かつての車両や機関車が展示されていますが、やはり、これが一番です。ボールドウインの蒸気機関車(SL)。大正5(1916)年小川森林鉄道が開通したとき、アメリカ合衆国のボールドウイン社から購入しました。昭和34(1959)年までに、42万kmを走り続けました。「軽便(けえべん)」と呼ばれ親しまれました。戦時中は、燃料の石炭が枯渇したため、木の枝を燃やして走っていました。火の粉の飛散防止のため、大きな煙突に取り替えられています。後に、SLは国産のものも使われましたが、ボールドウインのSLは、昭和35(1960)年に引退することになりました。残っていたボールドウインのSL3両のうち2両はアメリカに里帰り(動態保存中)し、1両がここで静態保存されています。

この写真が木材の輸送のためにがんばっていた頃のボールドウインのSLの姿です。煙突は、こちらがオリジナルの姿です。写真は記念館に展示されていたものです。

一番大きなディーゼル機関車(DL)です。森林鉄道は、その後蒸気機関車から熱効率のよいDLに置き換えられます。これは、F4型ボギー式機関車です。長さ6550mm、重さ10000kg、森林鉄道としては、大きなDLです。ちなみに、「ボギー式」というのは前後に運転席をもつ形式です。勾配がありカーブも多い森林鉄道には、4輪駆動のこのDLは最適でした。 

展示されていたC型展望車。昭和32(1957)年皇太子殿下(当時)が、上松・王滝間で乗車された車両だそうです。定員6名、手前に展望立席を設けています。

館外に展示されていた珍しい理髪車。昭和30(1955)年から、保健所の許可を得て森林鉄道で巡回していました。当時、理容師さんは「理髪士」と呼ばれる営林署員でした。

こんな写真が展示されていました。当時、営林署員は家族と離れ、山奥で合宿生活を送っていましたので、理髪車の巡回は、大変歓迎されたそうです。

坂を下り、駐車場に帰ります。自然休養林の中を歩くつもりでした。さて、”森林セラピー”とは「森林浴、森林レクレーションを通じた健康回復、維持・増進運動のことを意味する」(パンフレット)そうです。ここには、8コースが整備されています。

川に沿って上っていきます。私が選んだのは、森林鉄道とほぼ併走して進む「ふれあいの道」。途中で森林鉄道の走る姿を撮影しようと思っていました。森林鉄道の終点、丸山渡まで、歩いて20分程度のルートです。

樹木には殺菌効果があるそうです。パンフレットには、「樹木や草花にはアロマテラピー効果がある、空気中のチリやススも森林がシャットアウトしてくれる」と書かれていました。雨も時折落ちてくる天候でしたが、快適なウオーキングでした。

すぐに、床堰(とこせき)の跡です。小さな沢に堰をつくり水をいっぱい溜めます。次に堰を壊して、溜まった水とともに木材を、一気に下流へ運んだそうです。水をうまく利用した運搬が行われていたのですね。

休憩所もつくられていました。

その先で、折り返してきた森林鉄道とすれ違いました。

呑曇渕(どんどんふち)です。大きな渕に流れ込む水が、どんどんとリズミカルに音を立てていることから名付けられました。その向こうが森林鉄道の線路です。

最後の道川橋を渡ると、すぐに、森林鉄道の終点、丸山渡。

終点の丸山渡駅に着きました。ここで、森林鉄道の到着を待ちました。

森林鉄道が満員の乗客とともに入ってきました。機関車の転回場がないため、運転士さんは後ろ向きになって運転しています。

乗客の方々はホームに降りて一息着いておられます。その間、乗務員の方々は機関車の付け替え作業です。機関車は左側の線路を通って列車の前に回ります。列車にしがみついて乗車して来た乗務員は、作業や安全確保のための見張りに忙しそうでした。

付け替え作業終了。乗客は記念撮影中です。半数の方は、ここで下車してふれあいの道を歩いて下って行かれました。たしか、乗車券は往復800円のものだけで、片道乗車はできなかったはずです。復路は権利放棄されたのでしょうね。

機関車には、”HKW HOKURIKU WORKS NIIKGATA”と刻まれていました。

丸山渡には、本線から分岐した線路が左に向かって残っていました。

分岐線に駐車していた車両です。 ”SKW131ーSAKAI WORKS SHIBAURA TOKYO”の機関車の後ろに、タンク車や木造客車やブルーシートに覆われた貨車などが見えました。

下りきった王滝地区には食堂や森林記念館、おみやげ店、駐車場などが並んでいます。町営バスの出発まで少し時間があったので、森林資料館に入りました。赤沢自然休養林の歴史資料が展示してありました。

私が興味を惹かれたのが、御神木の切判(きりはん)でした。

説明には、このように書かれていました。

観光バスが並ぶ駐車場から町営バスは出発します。資料館に入る前に、乗車場所をお尋ねした係員さんは、町営バスが到着してから資料館を出てきた私を気遣い「バスが来ている」と教えてくださいました。私のことを覚えていてくださり声をかけてくださったのです。人生経験を積まれた方のお気遣いをありがたく思いました。

赤沢自然休養林で働く人々は、みんな私と同じような年回りの方々でした。思わず「高齢者の職場があっていいですね」と声をかけてしまいました。しかし、これは事情を知らない者の浅はかな考えでした。ここ赤沢は1100mから1500mの高地にあるため、1年の半分しか開場されていないのです。 そのため、高齢者しか雇用できない職場なのだそうです。この後、上松に戻って町の人とお話ししていたときに、初めてわかったことでした。