東海道とともに、江戸と京都を結ぶ”五街道”の一つ、中山道。その33番目の宿場である贄川(にえかわ)宿から43番目の馬籠(まごめ)宿の間は”木曽路”と呼ばれています。今回は、中山道の最初の宿場板橋から数えて38番目の宿場、上松宿を歩きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/4d/069522f5edd32383b36e38729ee067c0.jpg)
雨が心配でしたが、行けるところまで歩いてみようという心境でした。上松宿は、”木曽の檜”に代表される木材の集積地であり、木材を扱う商人でにぎわう町でした。JR中央本線上松駅からスタートしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/09/30c2a6f3ad5afe7e2795f534670102e0.jpg)
雨が心配でしたので、宿場の入り口から歩くことにしました。駅前からまっすぐ南に2つ目の通りまで歩き、そこで左折して、一つ江戸寄りの福島宿方面に向かって歩きます。しばらく歩くと十王橋付近に着きました。写真は、福島宿方面から、十王橋付近を写したものです。中央の植え込みの先が十王橋です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/b3/6400ff09ed319d84bd0bf6b34f5a07f0.jpg)
植え込みの中にあった「中山道上松宿入り口」の碑です。このあたりから宿場が始まっていたようです。十王橋付近には十王堂(地蔵堂)があり、そこに高札場がありました。案内板には、「十王堂に祀られていた地蔵尊が、慶応3(1867)年の大洪水で堂とともに流出したが、75年後に川の石の間から発見されここに祀られた」と書かれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/cb/7c2c3a17e2806eaf6d8907f1397908a9.jpg)
十王橋に祀られていた地蔵尊や馬頭観音などです。十王橋にかかる十王川は、もとは小野川と呼ばれていましたが、十王堂がつくられてから十王沢と呼ばれるようになり、橋も十王橋と呼ばれるようになったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/ea/cb626c65076a7be06e0027d7fbd75f51.jpg)
白いガードレールの先にある十王橋を渡って、すぐ左折します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/98/27f839f28c2a5463b69f8f5b63eae102.jpg)
左折してすぐ右折。上松宿の上町に入ります。旧中山道の宿場町です。昭和25(1950)年に上松宿は大火のため、宿場周辺が焼失してしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/d1/bd4c8a27dd535a377501ab40b0e87f75.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/78/d5b6d2a251daf7a4740d6651b265b601.jpg)
ほとんどのお宅が、玄関に”屋号”をつけておられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/43/3ad0a57a0f1e8c9cefbb94e5518ede16.jpg)
上松宿の旧中山道沿いにつくられていた観光用の道標です。道標にしたがって、まっすぐ進んで行きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/d5/7713caba2432a1a49dec2c68f57c0b8d.jpg)
上町から本町に入ります。旧街道の右前方に青い屋根のお宅が見えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/4b/970e9e87581b83c3f99acbc61b3d530e.jpg)
ここは、上松宿の脇本陣があったところです。上松宿は、天保11(1843)年には家数は362軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は35軒あり、宿場の人口は2482人でした。上松宿は、”木曽路11宿”のうち、家数は奈良井宿に次いで2番目、旅籠の数と人口はトップという大きな宿場でした。脇本陣は、宿場でもっとも大切な、人馬の継ぎ立て業務を担う問屋も兼ねていました。幕末に、13代将軍徳川家茂に嫁ぐため江戸に向かっていた皇女和宮が、文久元(1861)年11月2日に、上松宿に宿泊しました。御輿(みこし)の警護に12藩、沿道の警護に29藩が動員され、武士と人足を含めて3万人が50kmにわたって行列したといわれています。問屋業務もこのときは大変だったのではないでしょうか!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/d8/a8bb7556cc8f0a82cd5d390bea3e74fe.jpg)
脇本陣跡の向かいには歯科医院がありました。このあたりに、かつて、藤田九郎左衛門がつとめる本陣がありました。江戸幕府14代将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮は、この本陣に、文久元(1861)年11月2日に宿泊しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/b5/1cbc698b8130f311adb3d8f8111ae801.jpg)
さらに進みます。本陣跡から50mぐらいで、旧街道は枡形に入り、右折します。その角の民家の軒下近くに、一里塚跡の碑がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/c7/048afd5e436eb3e236becd9f0020c078.jpg)
「上松の一里塚」と呼ばれていたそうです。一里塚は「実際にはここから30mほどの京都に寄ったところ」にあったと、説明には書かれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/20/91596224d109ca18d20ab2badf3ff1c2.jpg)
枡形を右折して進みます。50mぐらい進むと、最初に駅から十王橋に向かって歩いた道に出ます。そこを左折します。角にあった観光道標の「上松駅方面」に向かって歩きます。このとき、心配していた雨が降り始めました。このところ、歩いているとよく雨に出会います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/bb/28de5e2af415e15afddb5cc31eeef6e1.jpg)
上松駅の方には、この先の横断歩道(広小路の交差点)を右に向かって進んで行きます。中山道は、ここからさらにまっすぐ進んでいました。左側にある旅館の田政。このお宅には、文久3(1863)年建築の蔵2棟が残っているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/20/795b923d7fd27c55b79602362cfc0dc9.jpg)
旅館田政の手前を左に、蔵を探しに入りました。これがその蔵なのでしょうか。よくわかりませんでした。雨が少しひどくなり、人通りもまったくありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/3f/68206c53de794abacf302f008798c778.jpg)
さらに進み下町に入ります。横断陸橋があるあたりが、上松宿のはずれになります。旧街道はここから通りを離れ左側の道を上っていきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/20/b6b65fbc61e032eb9f78b4939b811608.jpg)
幅2mぐらいの道が続きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/1f/6def4adb02ba2904f8409960bc47aa38.jpg)
さらに進むと正面の小高いところに道路が見えました。旧街道は、この先を右にカーブしてさらに上ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/62/7d686d17853d131653de40f4110823c9.jpg)
そのまま、先ほど見た道路に合流します。手すりに「中山道」の道標が掲げられていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/c6/cb8e14315355088cea9b631a455f28e1.jpg)
左側にあった上松小学校です。広いグランドをもった立派な校舎です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/ed/6a1937e1fbfdb3370d7ce7453d152e70.jpg)
そのまま右に進みます。しばらくすると、上松小学校の敷地に沿って進む道になります。この左側にはいくつかの碑が建てられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/47/aed1f46a010e95308183305eea4b9020.jpg)
「駒ヶ嶽 みえそめけるを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく 茂吉」 斎藤茂吉の歌碑です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/cd/80224d1974e5f6d47bebf62573c88225.jpg)
小学校のグランド近くの道路沿いにあった「上松材木役所御陣屋跡」の碑がありました。寛文3~4(1663-1664)年にかけて木曽の木材の検分を行って、その大半が伐採されていることを知った尾張藩は、木曽を藩の直轄地にし、奉行を派遣して、「木一本・首一つ」といわれる厳しい管理・統制を行いました。寛文5(1665)年から奉行が詰めた「上松材木役所」は南北65間、東西55間、敷地面積3500坪という広大な敷地にありました。役所は、旧街道の右側にあったといわれています。ちなみに、上松は、現在も木曽の檜などの木材の集積地になっていて、JR上松駅前には多くの材木が集まって来ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/7e/a18cd5ae91d19191bff1a07dc0deccea.jpg)
「上松材木役所跡」の碑の脇にあった諏訪神社の鳥居です。諏訪神社は、上松の鎮守の神を祀る神社です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/aa/385c9ac727c1f0e9f325720425809385.jpg)
石段をあがった左側に小学校の校舎がみえました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/6f/1d22b3283673db5e50682138e7a38a1b.jpg)
神社の本殿や拝殿は、小学校のグランドを横切った先にありました。参拝者はグランドを横切ってお参りしたのでしょうか。長い参道の先に本殿や拝殿がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/44/98f42060ad45ff9c5732d02f7a54db6e.jpg)
小学校を越えてさらに進むと、下り坂になります。突き当たると左に進み、その先の中沢橋を渡ります。お恥ずかしいことながら、雨が激しく降って来て、足下はびしょびしょ、くじけそうになっておりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/63/3f3a4f2774cc4b3fd0e390d282865b3c.jpg)
中沢橋を渡ってから、また上りになります。見帰の集落です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/f2/049e493eaa8683ac48e8527efb4866af.jpg)
「見帰」と記述し「みかり」と読みます。このあたりには、「木曽山中に隠居した老人が不老不死の薬をつくり名医と言われていた。この老人は山深い山中で薬をつくるため、三度この地を離れたが、三度とも帰って来た」という伝説があります。その伝説から三帰と呼ばれるようになり、その後、「見帰」に変わったそうです。上松コミュニティバスの停留所に、その名が残っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/ce/ff2f3515ee48d0f688f0a9e101ec5f83.jpg)
雨が降り続く中を、ひたすら前に進みます。20分ぐらい歩いた頃でしょうか、雨の中を工事車両が作業しているのが見えました。ここに着いた時には、雨はもう止んでいました。警備員さんは少し待つようにとのことでした。
しばらく待つと、前方右側に、越前屋がありました。寛永元(1624)年創業。松尾芭蕉も訪ねたおそばやさん。「続膝栗毛」にも登場する「寿命そば」で、街道筋でも知られるおそば屋さんでした。「続膝栗毛」には、弥次郎兵衛と喜多八が越前屋の娘に鼻の下を伸ばす様子が描かれているそうです。
「めいぶつの そばきりよりも 旅人は むすめに 鼻毛ののばしやすらむ」は、ここで読んだ狂歌だといわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/63/3492be1b465ffabcdcad3d6081ce1c88.jpg)
現在は、ここではなく、国道沿いにある店で営業されており、ご主人は、ここを自宅としておられるとのことでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/ee/f16b13ed40c95295a9fcbbbc1897d300.jpg)
越前屋の向かいにある豪壮な商家風の建物です。このあたりは、江戸時代から中山道の「立場」(たてば)だったところです。 旅人が憩う休憩所としてにぎわっていました。「たせや」と書かれた大きな看板が待っていました。
ここは、かつて民宿をされていたそうですが、最近は、そば屋になっていたようです。私が訪ねた一週間前ぐらい前に、共同で経営していたお一人が亡くなり、それ以後、お店が開かないと、お近くの方は心配しておられました。 越前屋とたせやの間の道を下っていくと国道11号線を越えて寝覚めの床に行くことができます。しかし、ここで、おしまいにしました。雨の中を歩くのは疲れます。JR上松駅に引き返すことにしました。
このところ、よく雨にたたられます。でも、越前屋まで歩くことができたのはラッキーでした。木材で栄えた「豊かな」上松宿に触れることができた旅でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/4d/069522f5edd32383b36e38729ee067c0.jpg)
雨が心配でしたが、行けるところまで歩いてみようという心境でした。上松宿は、”木曽の檜”に代表される木材の集積地であり、木材を扱う商人でにぎわう町でした。JR中央本線上松駅からスタートしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/09/30c2a6f3ad5afe7e2795f534670102e0.jpg)
雨が心配でしたので、宿場の入り口から歩くことにしました。駅前からまっすぐ南に2つ目の通りまで歩き、そこで左折して、一つ江戸寄りの福島宿方面に向かって歩きます。しばらく歩くと十王橋付近に着きました。写真は、福島宿方面から、十王橋付近を写したものです。中央の植え込みの先が十王橋です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/b3/6400ff09ed319d84bd0bf6b34f5a07f0.jpg)
植え込みの中にあった「中山道上松宿入り口」の碑です。このあたりから宿場が始まっていたようです。十王橋付近には十王堂(地蔵堂)があり、そこに高札場がありました。案内板には、「十王堂に祀られていた地蔵尊が、慶応3(1867)年の大洪水で堂とともに流出したが、75年後に川の石の間から発見されここに祀られた」と書かれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/cb/7c2c3a17e2806eaf6d8907f1397908a9.jpg)
十王橋に祀られていた地蔵尊や馬頭観音などです。十王橋にかかる十王川は、もとは小野川と呼ばれていましたが、十王堂がつくられてから十王沢と呼ばれるようになり、橋も十王橋と呼ばれるようになったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/ea/cb626c65076a7be06e0027d7fbd75f51.jpg)
白いガードレールの先にある十王橋を渡って、すぐ左折します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/98/27f839f28c2a5463b69f8f5b63eae102.jpg)
左折してすぐ右折。上松宿の上町に入ります。旧中山道の宿場町です。昭和25(1950)年に上松宿は大火のため、宿場周辺が焼失してしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/d1/bd4c8a27dd535a377501ab40b0e87f75.jpg)
大火を免れた民家がわずかに残っているのが、上町付近です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/78/d5b6d2a251daf7a4740d6651b265b601.jpg)
ほとんどのお宅が、玄関に”屋号”をつけておられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/43/3ad0a57a0f1e8c9cefbb94e5518ede16.jpg)
上松宿の旧中山道沿いにつくられていた観光用の道標です。道標にしたがって、まっすぐ進んで行きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/d5/7713caba2432a1a49dec2c68f57c0b8d.jpg)
上町から本町に入ります。旧街道の右前方に青い屋根のお宅が見えました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/4b/970e9e87581b83c3f99acbc61b3d530e.jpg)
ここは、上松宿の脇本陣があったところです。上松宿は、天保11(1843)年には家数は362軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は35軒あり、宿場の人口は2482人でした。上松宿は、”木曽路11宿”のうち、家数は奈良井宿に次いで2番目、旅籠の数と人口はトップという大きな宿場でした。脇本陣は、宿場でもっとも大切な、人馬の継ぎ立て業務を担う問屋も兼ねていました。幕末に、13代将軍徳川家茂に嫁ぐため江戸に向かっていた皇女和宮が、文久元(1861)年11月2日に、上松宿に宿泊しました。御輿(みこし)の警護に12藩、沿道の警護に29藩が動員され、武士と人足を含めて3万人が50kmにわたって行列したといわれています。問屋業務もこのときは大変だったのではないでしょうか!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/d8/a8bb7556cc8f0a82cd5d390bea3e74fe.jpg)
脇本陣跡の向かいには歯科医院がありました。このあたりに、かつて、藤田九郎左衛門がつとめる本陣がありました。江戸幕府14代将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮は、この本陣に、文久元(1861)年11月2日に宿泊しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/b5/1cbc698b8130f311adb3d8f8111ae801.jpg)
さらに進みます。本陣跡から50mぐらいで、旧街道は枡形に入り、右折します。その角の民家の軒下近くに、一里塚跡の碑がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/c7/048afd5e436eb3e236becd9f0020c078.jpg)
「上松の一里塚」と呼ばれていたそうです。一里塚は「実際にはここから30mほどの京都に寄ったところ」にあったと、説明には書かれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/20/91596224d109ca18d20ab2badf3ff1c2.jpg)
枡形を右折して進みます。50mぐらい進むと、最初に駅から十王橋に向かって歩いた道に出ます。そこを左折します。角にあった観光道標の「上松駅方面」に向かって歩きます。このとき、心配していた雨が降り始めました。このところ、歩いているとよく雨に出会います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/bb/28de5e2af415e15afddb5cc31eeef6e1.jpg)
上松駅の方には、この先の横断歩道(広小路の交差点)を右に向かって進んで行きます。中山道は、ここからさらにまっすぐ進んでいました。左側にある旅館の田政。このお宅には、文久3(1863)年建築の蔵2棟が残っているそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/20/795b923d7fd27c55b79602362cfc0dc9.jpg)
旅館田政の手前を左に、蔵を探しに入りました。これがその蔵なのでしょうか。よくわかりませんでした。雨が少しひどくなり、人通りもまったくありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/3f/68206c53de794abacf302f008798c778.jpg)
さらに進み下町に入ります。横断陸橋があるあたりが、上松宿のはずれになります。旧街道はここから通りを離れ左側の道を上っていきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/20/b6b65fbc61e032eb9f78b4939b811608.jpg)
幅2mぐらいの道が続きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/1f/6def4adb02ba2904f8409960bc47aa38.jpg)
さらに進むと正面の小高いところに道路が見えました。旧街道は、この先を右にカーブしてさらに上ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/62/7d686d17853d131653de40f4110823c9.jpg)
そのまま、先ほど見た道路に合流します。手すりに「中山道」の道標が掲げられていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/c6/cb8e14315355088cea9b631a455f28e1.jpg)
左側にあった上松小学校です。広いグランドをもった立派な校舎です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/ed/6a1937e1fbfdb3370d7ce7453d152e70.jpg)
そのまま右に進みます。しばらくすると、上松小学校の敷地に沿って進む道になります。この左側にはいくつかの碑が建てられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/47/aed1f46a010e95308183305eea4b9020.jpg)
「駒ヶ嶽 みえそめけるを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく 茂吉」 斎藤茂吉の歌碑です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/cd/80224d1974e5f6d47bebf62573c88225.jpg)
小学校のグランド近くの道路沿いにあった「上松材木役所御陣屋跡」の碑がありました。寛文3~4(1663-1664)年にかけて木曽の木材の検分を行って、その大半が伐採されていることを知った尾張藩は、木曽を藩の直轄地にし、奉行を派遣して、「木一本・首一つ」といわれる厳しい管理・統制を行いました。寛文5(1665)年から奉行が詰めた「上松材木役所」は南北65間、東西55間、敷地面積3500坪という広大な敷地にありました。役所は、旧街道の右側にあったといわれています。ちなみに、上松は、現在も木曽の檜などの木材の集積地になっていて、JR上松駅前には多くの材木が集まって来ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/7e/a18cd5ae91d19191bff1a07dc0deccea.jpg)
「上松材木役所跡」の碑の脇にあった諏訪神社の鳥居です。諏訪神社は、上松の鎮守の神を祀る神社です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/aa/385c9ac727c1f0e9f325720425809385.jpg)
石段をあがった左側に小学校の校舎がみえました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/6f/1d22b3283673db5e50682138e7a38a1b.jpg)
神社の本殿や拝殿は、小学校のグランドを横切った先にありました。参拝者はグランドを横切ってお参りしたのでしょうか。長い参道の先に本殿や拝殿がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/44/98f42060ad45ff9c5732d02f7a54db6e.jpg)
小学校を越えてさらに進むと、下り坂になります。突き当たると左に進み、その先の中沢橋を渡ります。お恥ずかしいことながら、雨が激しく降って来て、足下はびしょびしょ、くじけそうになっておりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/63/3f3a4f2774cc4b3fd0e390d282865b3c.jpg)
中沢橋を渡ってから、また上りになります。見帰の集落です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/f2/049e493eaa8683ac48e8527efb4866af.jpg)
「見帰」と記述し「みかり」と読みます。このあたりには、「木曽山中に隠居した老人が不老不死の薬をつくり名医と言われていた。この老人は山深い山中で薬をつくるため、三度この地を離れたが、三度とも帰って来た」という伝説があります。その伝説から三帰と呼ばれるようになり、その後、「見帰」に変わったそうです。上松コミュニティバスの停留所に、その名が残っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/ce/ff2f3515ee48d0f688f0a9e101ec5f83.jpg)
雨が降り続く中を、ひたすら前に進みます。20分ぐらい歩いた頃でしょうか、雨の中を工事車両が作業しているのが見えました。ここに着いた時には、雨はもう止んでいました。警備員さんは少し待つようにとのことでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/d1/0d83bb9b2730f1ec84d09282e0f9a9df.jpg)
「めいぶつの そばきりよりも 旅人は むすめに 鼻毛ののばしやすらむ」は、ここで読んだ狂歌だといわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/63/3492be1b465ffabcdcad3d6081ce1c88.jpg)
現在は、ここではなく、国道沿いにある店で営業されており、ご主人は、ここを自宅としておられるとのことでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/ee/f16b13ed40c95295a9fcbbbc1897d300.jpg)
越前屋の向かいにある豪壮な商家風の建物です。このあたりは、江戸時代から中山道の「立場」(たてば)だったところです。 旅人が憩う休憩所としてにぎわっていました。「たせや」と書かれた大きな看板が待っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/cd/20205d4415448498738b664c5017584a.jpg)
このところ、よく雨にたたられます。でも、越前屋まで歩くことができたのはラッキーでした。木材で栄えた「豊かな」上松宿に触れることができた旅でした。