トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

一畑電鉄広瀬線の跡地をたどる

2014年06月25日 | 日記

戦国時代に山陰地方に勢力を張った尼子氏。その居城が月山富田城(がっさんとだじょう)で、標高197mの月山の山頂にありました。麓の町、広瀬はその城下町として山陰有数の繁栄を享受していました。現在は安来市広瀬町(旧能義郡広瀬町)にあります。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、浜松城主だった堀尾吉晴が出雲、隠岐の2国、23万5千石でこの地に入り出雲富田藩を立藩しました。やがて、堀尾吉晴は松江城の築城に着手しました。難攻不落の堅城として知られた月山富田城も鉄砲の時代には不向きになっていたのです。築城から5年後の慶長16(1611)年、堀尾吉晴は松江城に移り統治を始めました。月山富田城の城下町として繁栄を誇った広瀬は、松江に繁栄を取って替わられることになりました。しかし、堀尾氏は、寛永10(1633)年3代忠晴に嗣子がなく改易になってしまいます。堀尾氏に替わって、若狭国小浜藩から入部してきた京極氏も、寛永14(1637)年に嗣子がなく改易になりました。なお、堀尾氏によって築城された松江城は、今日でも現存する天守閣を有する12城の一つであり、国の重要文化財(ブログ当時・現在は「日本で5番目の国宝」)に指定されています。

寛永15(1638)年、結城秀康(徳川家康の子、越前松平家の祖)の三男である松平直政が、松江藩主(18万6千石)として入部しました。親藩の越前松平氏は、これ後明治維新まで10代にわたって出雲地方を治めることになりました。また、直政の二男の近栄(ちかよし)は、寛文6(1666)年、直政から3万石(能義郡内34ヶ村と飯石郡内24ヶ村)を分与され、広瀬に藩邸を築き広瀬藩を立藩しました。広瀬藩も、明治維新まで10代にわたって広瀬の地を治めました。写真は、広瀬藩の藩邸跡を示す石碑です。

広瀬小学校の校舎とグランドの間の道を山の方に進むと、藩邸の門の奥に広瀬町社会福祉センターの建物があります。藩邸跡に建てられています。江戸時代を通して、藩邸は邸宅と裏の御山を合わせて10万平方メートルという広大な敷地だったといわれています。

現在も当時の石垣が残っています。ここには、かつて安来高校広瀬分校の校舎が建っていました。

これは、広瀬小学校の校門の脇の庭園です。「鈴木家老庭園跡」の石碑がありました。家老は、藩主のおそば近くに仕える重臣であり、藩邸のすぐ前に敷地を与えられていたようです。

こうして、広瀬の町は陣屋町として、また、さまざまな物資の集散地として、政治や経済の中心として発展を続けてきました。これは、現在の広瀬の町並みです。雰囲気のある町並みが残っています。広瀬の町は、明治9(1876)年の大火で壊滅的な被害を受けました。そのため、現在広瀬に残る建物はそれ以後に建設されたものだといわれています。

”月山”のブランドで知られる吉田酒造です。

安来市が運行している生活バス。200円の均一運賃で、市内の各地を結んでいます。

生活バスのバスセンターの待合室です。そこに、かすかに、かつての一畑電鉄広瀬線の名残が残っていました。

上は「出雲広瀬駅」。下は「一畑電気鉄道株式会社」と読めます。ここに移築したのでしょうか? かつて、広瀬の町と現在のJR荒島駅を結んでいた一畑電鉄広瀬線の出雲広瀬駅の駅舎のように見えます。しかし、一畑電鉄広瀬線は、一畑電鉄が敷設した鉄道ではありません。どちらかといえば、この鉄道の廃止への筋道をつけたのが、一畑電鉄だったように思えます。この日広瀬を訪ねたのは、一畑電鉄の広瀬線の歴史を訪ねて、その跡地をたどってみようと思ったからでした。

JR荒島駅からスタートしました。江戸時代、松江藩の支藩として一定の繁栄を続けてきた広瀬町でしたが、繁栄の中心を松江に奪われ、明治になって開業された山陰本線も遠く離れた県都松江を通ることになってしまいました。広瀬の人たちはかつての繁栄を取り戻すため、山陰本線と広瀬をつなぐ鉄道の敷設を計画しました。大正14(1925)年広瀬鉄道株式会社を立ち上げ、昭和3(1928)年に荒島~広瀬間の8.3kmを、単線でしたが電化して開業しました。

JR荒島駅の1番ホームから米子(東)方面を撮影しました。広瀬鉄道の電車はこのホームに切り込むように発着していたそうです。

駅からその先にある勝部踏切に向けて、右の草むらのところを走っていたそうです。荒島駅前を線路と平行して走る道を左方向に進み、森脇医院の次の小さな交差点を左折し線路の方に向かいます。

この写真は、山陰本線をわたる勝部踏切から荒島駅方面を撮影しました。線路は目の前のお宅と山陰本線の間にありました。なお、広瀬鉄道は電動車3両、付随車2両、荷物車2両、貨車5両の木造車両を所有しており、2~4両連結し、1日16往復していたそうです。貨物の取り扱いも行っていて、広瀬からは米や木材や木炭、梨などを出荷し、瓦やセメント、石炭などが入荷していたそうです。開業から数年間は、利用者も多かったそうです。

勝部踏切から東(米子方面)を撮影しました。黄色のお宅の前を、広瀬鉄道の電車が進んでいました。駅は、荒島駅の先に、仲仙寺、西赤江、西中津、田頼、小原、飯梨、植田、鷺の湯、鷺の湯温泉前、温泉前、出雲広瀬駅の12駅が設置されていました。ちなみに、荒島駅と出雲広瀬間を25分で結んでいました。

踏切付近を過ぎた電車は、緩く右にカーブしながら進んでいました。現在はスクラップ置き場になっていますが、線路跡をたどることはできます。昭和19(1944)年、戦時の国策により伯陽電鉄(現日ノ丸自動車、米子から南に路線をもっていた)と合併して山陽中央鉄道広瀬線になりました。戦後に独立しましたが、昭和29(1954)年、経営難から一畑電鉄に吸収され、一畑電鉄広瀬線となりました。

さらに進みます。しかし、経営不振で施設の老朽化に対応できず、一畑電鉄広瀬線になって6年目の昭和35(1960)年に廃止となりました。開業から32年間の営業でした。廃止からすでに50年以上が経過しています。

トラックが停車していましたが、脇を抜けて進みます。

トラックを過ぎると、左側の後ろから来る島根県道180号に合流します。

この写真は県道180号から、来た道を振り返って撮影しました。山陰本線をまたぐ跨線橋から下っていました。県道180号の左の小さな通りが線路跡です。これ以後は、広瀬線は「一畑電鉄広瀬線」と記述することにします。

交差点にあるヤンマーディーゼルのお店を抜けて、ここから県道を南に向けて進みます。一畑電鉄広瀬線が廃止されるとき、広瀬地区の住民は「並進する県道180号の整備を進める」という県の斡旋を受け入れて、廃止に同意しています。そのため、線路跡は整備された県道の中に吸収されることになりました。

山陰自動車道の高架下をくぐります。県道の路側帯は狭く、対向車は幅を取って走ってくださいましたが、やや危険を感じることもありました。最初の駅、仲仙寺駅が近づいて来ました。

県道180号の西に、並行して走る旧道があります。民家の右(裏)の電柱脇の通りです。この先で、県道180号に合流します。なお、線路跡は県道の左(東)側に組み込まれているそうです。

合流点で荒島方面を撮影しました。右側が県道180号、左から合流するのが旧道です。この合流点に生活バスの仲仙寺バス停がありましたが、このバス停付近が、仲仙寺(ちゅうせんじ)駅があったところです。後ろの建物は安来市立第三中学校の校舎です。荒島駅から1.5kmのところにありました。

駅名のもとになった仲仙寺が、旧道の左にありました。

仲仙寺駅跡からは、線路跡は道路の右(西)側に組み込まれているそうです。道路の右側に歩道が設けられており対向車を気にしないで歩けるようになりました。前方に見える山が県道に張り出しているところに、次の西赤江(にしあかえ)駅跡がありました。

道路の左にあった案内看板です。有名な近代日本画を展示している足立美術館と備前焼の展示で知られる加納美術館が案内にありました。

仲仙寺駅跡から700m、西赤江駅跡に着きました。現在は生活バスの西赤江バス停です。バス停の北(手前)側に駅があったそうです。田園地帯が続くところにありかつての雰囲気を残していました。

次の西中津(にしなかつ)駅跡です。振り返って駅舎跡を撮影しました。かつての駅舎を連想するような建物でしたが、もちろん当時の駅舎ではありません。西赤江駅から500mのところです。

西中津公会堂でした。選果場も兼ねた建物です。

私が訪ねたとき、この地出身の高校生がインターハイに出場することをお祝いする垂れ幕がかかっていました。

田園地帯が続きます。10分ぐらいで田頼(たより)バス停です。かつての田頼駅はローソンのある交差点付近にあったそうです。西中津駅から700mのところにあったそうです。

西中津駅跡から600m。10分ぐらいで西松井バス停に着きます。振り返って撮影しました。かつての小原(おはら)駅跡です。この先からは歩道がなくなり、狭い路側帯を歩くことになります。

900mで飯梨(いいなし)駅跡、現在の飯梨バス停に着きます。飯梨駅は、列車交換ができる唯一の駅でした。

進行方向右手の民家の手前の建物はかつての駅舎をそのまま使用しています。

民家の1階部分、かつての駅舎です。写真の右側の窓の部分が駅舎の面影をよく伝えています。窓の向こうに駅員さんが立っていそうな雰囲気です。鉄道関連で残っている唯一の建物です。

飯梨駅跡から800mでJA飯梨代理所前バス停に着きます。ここに植田(うえだ)駅がありました。

植田駅跡から600m。鷺の湯駅跡に着きました。現在の植田バス停です。これも振り返って、荒島方面を撮影しました。

ここから県道180号は左にカーブしながら坂を上って行きます。上り切ると正面に足立美術館の広い駐車場と安来節演芸館の建物が見えます。しかし、一畑電鉄広瀬線は鷺の湯駅からまっすぐ進んでいました。

鷺の湯駅跡から県道を離れ、かつての線路跡を探して歩きます。県道の一つ右(西)の道を、正面の山の左方をめざして歩きます。

この写真はその道のあたりを撮影しました。オレンジ色の釉薬瓦の民家が並んでいます。田植えが終わったばかりの農村風景を見ながら、南(右から左)に向かって歩きます。

やがて、道は、並木の続く道に合流します。この並木に沿った道がかつての線路跡でした。

これは、県道から見た線路跡の光景です。萬松院という寺院の前を線路は横切って進んでいました。

萬松院の先の線路跡です。この先にあった切り通しを電車は進んでいました。しかし、途中から道は荒れていて進むことができません。

県道に戻り、生活バスの鷺の湯温泉足立美術館前バス停まで歩きます。荒島方面に向かって撮影しました。バス停の待合室の向こう側の更地に、かつて鷺の湯温泉前駅がありました。鷺の湯駅から300mのところに鷺の湯温泉駅跡があったそうです。写真の山の右側を一畑電鉄広瀬線の電車が走っていました。

一畑電鉄広瀬線の電車は写真のバス停付近を横切り、鉄橋で胴貫川を渡っていました。写真の中央は胴貫川の向かいにあった橋脚です。三つあった橋脚の一番南側のものだったそうです。一畑電鉄広瀬線の数少ない遺構です。

鷺の温泉への入り口の橋を渡って、足立美術館の横の通りを歩いて、橋脚のそばに行きました。これがすぐ前から見た橋脚です。写真からは見えませんが、中央の松の木のすぐ左後方に、鷺の湯温泉足立美術館前バス停の待合室が見えていました。

緑濃い道が続いています。鷺の湯温泉前駅跡から200mぐらいのところに次の「温泉前駅」跡(まぎらわしいですね)があるはずです。しかし、痕跡を見つけることができないまま道路に出てしまいました。場所を特定することができませんでした。この道路(足立美術館の隣の通り)を先に進みます。

足立美術館を過ぎた線路跡は、終点の出雲広瀬駅に向かっています。出雲広瀬駅に向かって、線路跡の路盤が残っていました。温泉前駅から終点の出雲広瀬駅までは1.5kmあったそうです。

一畑電鉄広瀬線の終点、出雲広瀬駅をめざして歩きます。春にはさぞかし美しいと思われる桜の並木を見ながら歩きます。平行して走る県道180号の沿線の雰囲気が町に近づいていると感じられるようになりました。

線路跡の道が県道と交差します。線路跡はこの少し右のあたりをまっすぐ延びていたようです。

おそらくこの通りのあたりを進んでいたのではないでしょうか。前方の赤い屋根は市営住宅ですが、その向こうに出雲広瀬駅がありました。

出雲広瀬駅跡に建っていた地元の方の集会所です。周囲は安来市立市民病院(旧広瀬町立広瀬病院)の職員駐車場として使われていました。かつての駅前通りから撮影しました。

広瀬の町の繁栄を取り戻すために建設された一畑電鉄広瀬線でしたが、廃止からすでに50年以上が経過しています。かつての線路跡を取り込んだ県道180号に残る駅跡を確認して歩く旅になりました。当時の面影を残すところは数えるほどしか残っていませんでした。また、当時の様子を知る人もきわめて少なくなっていて、50年の年月を感じてしまいました。ただ一つ、萬松院の前を横切る当時の線路跡を通ったときは、歩いて来てよかったと思ったものでした。

井原駅から県境へ、旧山陽道を歩く

2014年06月16日 | 日記
江戸時代、京と九州・太宰府とを結んだ西国往来。参勤交代の大名や様々な物資の運搬に使われました。岡山県の人たちには、山陽道の方がなじみがあります。前回歩いた岡山宿から藤井宿まで(2013年10月22日の日記)に続き、今回は、岡山県西部の井原鉄道井原駅から広島県境まで、旧山陽道を歩きました。

今回のイベントのスタート地点、第3セクターの井原鉄道の井原駅です。岡山駅からJR伯備線の電車で清音駅へ、井原鉄道に乗り換えてここまでやって来ました。今回のイベントのスタート地点です。30人ぐらいの参加者と、県境までの約6kmを歩くことにしていました。

旧山陽道に向かいます。前方右にあるアクティブライフ井原(改修中のため施設のほとんどがカバーで覆われています)の手前を左右(東西)に延びる道が旧山陽道です。

井原駅前から北に延びる、駅前通りを進み2つ目の交差点で左折します。

左折して10分ほど歩くと、「上出部町東桜木」の信号に着きます。ここからは、旧街道の面影を残す幅4mぐらいの道が続くようになります。

さらに5分ぐらいで、やや広いところに出ます。

写真の中央にヤマザキパンの看板を掛けたお店が見えます。そのお店とその左の倉庫風の建物の間は、廃止された井笠鉄道の神辺線の踏切があったところです。以前神辺線の線路跡に沿って歩いたことがあります(2013年6月11日と2013年6月23日の日記)が、神辺方面からやってきた列車は左の塀のある民家を、大きな左カーブを描いて井原駅(現井原バスセンター)に向かっていました。

今回は旧山陽道を進みますので、写真の右前の狭い道をまっすぐに進んで行きます。

5分ほど歩くと、左側に岩山神社の鳥居と金毘羅灯籠がありました。井笠鉄道神辺線は鳥居の奥を右(西)から左(東)に向かって走っていました。

旧街道の雰囲気を残す通りには、白漆喰に本瓦葺き、なまこ壁に虫籠窓の伝統的な民家が点在していました。

旧街道の脇にあった「いづへ駅」の道標が残っていました。ここから100mぐらい入ったところにある井笠鉄道神辺線出部(いずえ)駅を知らせる道標でした。裏には「昭十七建」と書かれていました。昭和17(1942)年に建てられたもののようです。

雰囲気のある家並が続きます。青い空に民家と緑の樹木が映えてきれいです。

出部駅の道標から10分ほどで、一里塚の跡に着きました。上出部と下出部の境界にあるそうです。道路の右側の民家の前に石碑がつくられていました。「旧山陽道一里塚跡 下出部ふる里会 平成4年5月吉日」と刻まれていました。いただいた資料には「国道の両側に存す。南側の分は塚のみを残す。明治初年頃迄は榎木の枯れ木を存した由なるも今はなし(岡山県通史)」「北側には昭和24年まで松1株があったが、交通の妨げになったので伐採した(井原市史)」と書かれていました。かつては、一里塚の前に六地蔵があったそうですが、今は姿が見えませんでした。

一里塚跡から5分ぐらいで、出雲神社の鳥居が見えました。鳥居の先の山の麓に、銅板葺きの本殿が見えました。鳥居は正徳6(1716)年の建立です。

一里塚から3分ぐらいで荒神社の脇を通ります。境内の手水鉢のそばに、地上70cmぐらいの下出部の里程標が建っていました。明治14(1882)年岡山県が設置したものです。ここは、岡山市の京橋に近い橋本町の道路元標からちょうど13里の地点を示しています。いただいた資料によれば「同年同規模の道標から推定すると60cmほどが地中に埋まっている」とのこと。もとは130cmぐらいの高さだったようです。

美しい旧街道の風景の中をさらに歩きます。右前方に織物会社の倉庫が見えました。

倉庫の先にあった金比羅灯籠。舟形の土台の上に設置されていました。地元では「舟灯籠」といわれて親しまれているそうです。

すぐ前の田んぼのそばに、高さ2.5mの大きな題目石、「南無妙法蓮華経」と法華宗の題目が刻まれています。宝暦11(1761)年の建立だそうです。

しばらく井原鉄道の高架に沿って歩いてきましたが、題目石の先が分岐点です。そばにお堂が見えました。

「薬師如来」と刻まれた石像がおさめられていました。薬師堂です。

山陽道はここで大きく右に曲がっていました。大曲跡です。大曲とは、慶長8(1603)年に刊行された「日葡辞書」には、「街道に2ヶ所、大きな直角の曲がりがあるところ」と書かれているそうです。

薬師堂の脇にあった「山陽道大曲跡」の案内板にあった絵図です。原本は天保9(1838)年につくられたものですが、その中にこの大曲が描かれています。実は、徒歩の旅であった江戸時代には単調な旅に変化を与えるため一里塚をつくっていました。大曲もそれと同じ目的で山陽道につくられていたそうです。参勤交代の旅を続ける殿様はこの大曲で駕籠を止めて前後の行列を見ていたそうです。

右に大きくカーブして進みます。この先で国道313号を渡ります。横断歩道がないので、迂回しないといけませんが・・・。 313号線を横断した後、山陽道は住宅のために寸断されていました。

国道313号を横断して初めて交差する通りです。写真には迂回して313号線を横断した参加者が歩いている様子が写っています。ここで、左折して進みます。

左折してから5分ぐらいで、左の道端に「旧山陽道備中大橋跡」の石碑がありました。お世話をしてくださっていた方のお話では、「昔はこのあたりは沼が広がっていて、歩きにくいので橋を架けていた」とのことでした。

備中大橋跡から10分ぐらいで旧高屋村(現・井原市高屋)との村境の家後屋地区に入ります。川の手前で、左側から川に沿って来る道路と合流して、高屋川にかかる後月橋を渡ります。合流点には常夜灯が残っていました。旧街道は高屋川に向かって上っていきます。

村境にある六地蔵です。旧街道を歩く旅人は、ここで道中の安全を祈願して旅を続けていました。

後月橋を渡ります。左側にあった法泉院です。いただいた資料によると、江戸時代には、高屋川は「川広6間石橋」(「中国行程記」)と書かれており、後月橋は石橋だったようです。

高屋川に沿って右に向かう県道103号の脇に、文化14(1817)年の灯籠がありました。

旧高屋村に入ります。高屋村は宿場町として栄えました。なまこ壁の商家が続く家並みにかつての面影をしのぶことができます。いただいた資料には「人家二百軒ばかり、商家茶屋あり、宿屋もあれどよからず」(「筑紫紀行」)、また、「幕府領。備後国上下陣屋支配で高屋宿目代、三皷善次郎と庄屋、山下藤右衛門、岡本勢平、高木菊蔵、原田伝次郎、吉田喜十郎ら5名で治めている」(「備中村鑑」)と書かれていました。

左側に高屋郵便局を見ながら進むと、右側に上野耐之(うえのたいし)の生家跡がありました。この地方に古くから伝わる「ねんねこしゃっしゃりまーせ」の子守唄を山田耕筰の前で披露し、「中国地方の子守唄」として全国に広めたことで知られる声楽家です。いただいた資料に「高屋宿本陣上野愛兵衛 脇本陣 久保木治平」(「後月郡誌」)と書かれていましたが、この「本陣上野家」は、かつて声楽家上野耐之の実家跡にあったそうです。

生家跡に掲示されていた案内板です。明治・大正・昭和・平成と4つの時代を声楽一筋に生きた上野耐之を伝えています。

その先の右側の民家に接してあった高山寺の道標です。江戸時代中期に建立されたといわれています。高山寺はここから北へ2kmの山中にある真言宗の名刹です。ここまで1町ごとに石仏が建っているそうです。

その先で、来た道を振り返って撮影しました。雰囲気のある通りです。

民家にあった「中国地方の子守唄」の歌詞です。井原市は昭和61(1986)年から,上野耐之に因んだ「日本の子守唄フェスティバル」を開催しています。

商家の面影を残すお宅です。

「子守唄の散歩道」とある通りを進むと、県境に到着します。

県境にあった道標です。災害のため、平成17(2005)年2月に建て替えられた大きな道標です。もともとの道標は大正8(1919)年につくられたといわれています。街道の手前には「七日市駅へ 壱里拾壱町拾参間」、右側には「広島縣距 広島県細工町元標 参拾里貳拾八間参尺九寸  岡山縣距 岡山縣橋本町元標 拾参里貳拾七町参拾六間」と、両県の道路元標までの距離が記されています。 

山陽道はここで国境を越え、備中国から次の備後国に入り、神辺宿(現広島県福山市)に向かって延びています。

井原駅から旧高屋宿までの6kmを歩きました。とりたてて大きな見どころといってはありませんでしたが、歩いている視線の先に、多くの歴史的遺産が残っていました。街道歩きの楽しみは、そんなかつての面影をしのべるところです。 機会があれば、残るルートも歩いてみたいと思いました。


土佐電鉄、後免線を行く

2014年06月08日 | 日記
全国で路面電車を運行している電鉄会社の中で、広島電鉄に次いで、2番目に長い路線をもつ土佐電鉄。
すでに乗った伊野線(「全国第2位の路面電車、土佐電鉄に乗る」2014年5月27日の日記)に続いて、この日ははりまや橋から南国市の後免町に向かう後免線に乗りました。はりまや橋を挟んで西と東に延びるこの二つの路線は東西線と呼ばれ、電車は相互に行き来しています。
伊野線からはりまや橋方面に戻った後、さらに、後免線の終点である後免町電停に向かいました。

これははりまや橋電停にあった後免線の平日の時刻表です。終点まで行く後免町行きと途中の領石通電停行き、文殊通電停行きがあります。これを見ると、それぞれ、2.5:2.5:5ぐらいの割合で運行されているようです。はりまや橋から後免町まで10.9km、全線が複線で、終点と起点を含めて33の電停があります。

後免線の終点である後免町電停に着きました。コンビニに隣接しバス乗り場も手前にありました。駅舎は、土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線の「後免町」駅の前にありました。

これは、土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線の後免町駅です。土佐電鉄の後免町電停から歩いて1分ぐらいの距離です。ごめん・なはり線は、徳島県を走っている牟岐線と結び、阿波と土佐をつなぐ鉄道をめざして敷設されました。

漫画家のやなせたかしさんの父親は後免町付近の出身で、駅には、やなせさんの「ありがとう駅」の碑が建っています。

土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線は、平成14(2002)年、全線高架で開通しました。かつて、後免・安芸間には、昭和5(1930)年に開通した土佐電鉄安芸線が走っており、昭和30(1955)年からは、路面電車から安芸線に直接乗り入れていました。しかし、土佐電鉄安芸線は、昭和49(1974)年に廃止され、その28年後に、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線(後免駅・奈半利駅間42.7km)が開通したのです。当初計画されていた、土佐と阿波を結ぶ鉄道にはなりませんでしたが・・・。

後免町電停から引き返します。後免東町電停に向けて専用軌道の右側の通路を歩きます。路面電車とは思えないような立派なレールが続きます。

後免東町電停から、道路と合流し併用軌道になります。その直前にある後免東町電停です。後免町方面を振り返って撮影しました。

やがて、後免中町電停。写真は、後免町に向かう電車を撮影しました。

バリアフリーに改修されていました。ホームのコンクリートも真新しい、改修されたばかりという印象です。

後免西町電停の手前で車道が減少し、道路の半分を土佐電鉄が占めるようになります。高知方面に向かう車輌は電停の手前で、線路を横断して進むことになります。電車がやってきました。終点の後免町に停車していた628号車です。乗車しました。

車内にあった628号車の履歴書です。600形は土佐電鉄の主力車輌で、30両が所属しているということです。安芸線にも乗り入れていた車両です。

東工業前電停の次の住吉通電停で下車します。

道路の半分を軌道部分が占める住吉通電停付近。はりまや橋方面に向かうバス停は電停のホームを利用してつくられています。バス停の標識も路面電車のホームの上に設置されています。

線路に沿って次の篠原駅方面に向かって道路と線路の間にある狭い路側帯を歩きます。後ろから車がどんどん追い越して行くので、歩くのにかなり勇気が必要です。100mぐらい進んだところにある踏切で左折します。踏切の脇に小さな鉄橋がありました。

用水路の上にレールを載せ、その上に枕木を置き、枕木の上にレールを載せた鉄橋です。線路を渡った後、そのまま民家の間を30mぐらい進み、右折して田んぼの中の道に入ります。

住吉通電停と次の篠原電停の間のこの道は、土佐電鉄車両の撮影スポットとして、知られています。

住吉通電停方面から警笛が聞こえてきました。カメラを構えて待ちます。はりまや橋方面(写真の右から左)に進む613号車です。

つづいて、篠原電停方面から接近する電車のゴーゴーという音が響いて、後免町方面(写真の左から右)へ進む618号車がやって来ました。全面広告の車輌です。

住吉通電停に戻ってきました。土佐電鉄の「技術課電気係」と書かれた車輌が停まっており係員の方が計器のチェックをされていました。

篠原電停の次の小篭通(こごめどおり)電停のすぐ先で、高知市と南国市の境を渡ります。前方の左側にあるのが小篭通電停。ここは南国市、次の長崎電停は高知市になります。

高知市に入りました。長崎電停です。振り返って後免町方面に向かって撮影しました。このあたりは後免方面に行く乗客の安全地帯がありません。道路上のグリーンのスペースで乗降することになります。車内では「ノーガード路線なので」と通行する車への注意を喚起していました。

清和学園前電停で下車しました。一つ手前の一条橋電停と清和学園前電停の駅間はたったの63m。土佐電鉄の中で、駅間距離が最も短いところです。写真で見ると、橋の向こう側という感じです。

写真は、清和学園前電停から一条橋電停に停車している車両を撮影したものです。歩いていくのが普通の距離ですよね。この両駅間だけに乗車する方は、まずおられないと思いますが・・。 

撮影する角度が悪く見づらいのですが、これは、車内に掲示されている土佐電鉄の運賃表です。この路線では、介良(けら)通り~はりまや橋~曙町東町間は市内均一運賃、200円ということになっていますが、ここは均一区間外になっているので、キロ数に応じて運賃が対応する区間になるのでしょう。それなら、1区120円ということになるのかもしれません?

平成15(2003)年、河川改修に伴う線路の付け替え工事によってこの地に移転してきた領石通(りょうせきどおり)電停です。はりまや橋方面から来た電車の中には、この電停が終点になる電車が3割弱あります。さらに東に向かう乗客は運転士さんから乗換券をもらって乗り継ぐことになります。

はりまや橋方面から来た605号車が、乗客を降ろした後そのまま電停を過ぎて停車します。

鏡川橋に向かう101号車の通過を待って、隣のホームに移り、乗客を乗せて出発していきました。なお、101号車は「ハートラム」という愛称をもっています。土佐電鉄初の超低床車両。平成14(2002)年アルナ工機製で、1編成3両が在籍しています。

領石通電停から介良通(けらどおり)電停の間は、駅の安全地帯がありません。電停の案内に続いて「ノーガード路線ですので」と、乗客の注意喚起を呼びかけていました。写真は東新木電停付近の様子です。

文殊通電停に着きました。はりまや橋方面から東(後免町方面)に向かう電車の5割ぐらいが、この電停が終点になり、折り返して行きます。このときやって来たアンパンマンの603号車は、領石通電停と同じように乗客を降ろした後そのまま進み、隣のホームに入り、乗客を乗せて出発していきました。

文殊通りを出てから、高須電停、県立美術館前電停(平成5=1993年に設置された新しい電停)を経て、西高須電停で下車しました。そして、はりまや橋方面に向かって歩きます。

懐かしい、道路と軌道を仕切る枕木を利用した垣です。昭和の時代には、ホームの後ろに普通に見られた風景でしたが、最近は余り見られなくなっています。

電車に平行した道路を緩やかに上っていきます。上りきると葛島橋東詰(かづらしまばしひがしづめ)電停です。

後免線でもっとも存在感のあった国分川橋梁。平成14(2002)年に橋の付け替え工事で完成した鉄橋です。この橋を渡った先は、左右に3車線ずつある道路の中央部の軌道上をゆうゆうと走っていきます。

宝永町電停です。明治41(1908)年、堀詰電停とこの駅にあった下知電停間が開通しました。後免線で最も早く開業したところです。後免線が全線開業したのは、大正14(1925)年のことでした。

めざしていたはりまや橋電停を過ぎて、伊野線に入り、さらに西に進みます。

土佐電鉄で最初に開業したのは、堀詰電停・グランド通(以前の乗出電停)間で、明治41(1908)年のことでした。これが、現在の堀詰電停です。

大橋通電停から次の高知城前電停の間は、芝生の軌道になっています。

高知城前電停です。下車して、右折(北行)して高知城に向かって歩きました。

10分ぐらいで高知城追手門の枡形に着きます。

追手門に入っていく通りの突き当たりの石垣に刻印が残っていました。「国宝」という石碑がありますが、現行の文化財保護法の下では「重要文化財」になっています。

枡形の石垣に残っていた「ケ」の刻印です。他に「エ」と「シ」の刻印も残っていました。

高知城天守閣です。全国に現存する12の天守閣の一つに数えられています。

高知城前電停に戻ったときに停車していた101号車。領石通電停でも出会いました。隣は朝倉行きの608号車です。ここからは徒歩で、線路に沿ってさらに西に向かいます

土佐電鉄で最初に開業した電停のグランド通電停を過ぎると、次は枡形電停です。宿場町や城下町が好きな私は「ますがた」と聞くと行ってみたくなります。枡形の電停には701号車が到着していました。

市内に掲示してあったかつての高知市街地の地図に、「枡形」がありました。現在は交差点になっていますが、かつては鍵型に曲がるための広場になっていたようです。

こちらは現在の「升形商店街」の入り口です。交差点になっています。電停と異なる「升形」と表記されていました。

この日は、土佐電鉄の後免町電停から高知市街地の中心部まで、後免線の沿線を訪ねました。高知県のJRには電化区間がありません。電車を走らせているのは土佐電鉄だけです。昭和30年代までに製造された200形、600形、700形などの車輌が現在も主力車輌として走っています。古い車輌の維持・管理と再生の技術が成
せる術なのでしょうね。超低床車輌である100形ハートラムやバリアフリーの電停をつくる一方で、話題づくりのために外国電車を走らせるなど、新しい工夫もなされています。経営面の厳しさを克服しいつまでも走り続けてほしいものです。