トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

廃止から復活した駅、JR芸備線上三田駅を訪ねる

2020年03月25日 | 日記
 JR芸備線は、広島駅から三次駅・備後落合駅を経由して、岡山県の備中神代駅を結ぶ、全長159.1kmの鉄道です。 その間を結ぶ列車は、広島駅・三次駅間、三次駅・備後落合間と、備後落合駅・備中神代間の3区間に分かれて、運行されています。

JR芸備線の上三田(かみみた)駅です。 写真で見たこの駅から、山間の駅にみられる独特の雰囲気を感じて、いつか訪ねてみたいと思っていました。 芸備線の井原市(いばらいち)駅を訪ねた日、広島駅に向かう途中で立ち寄ることにしました。

広島駅行きの2両編成の列車で、井原市駅を出て10分ぐらいで、上三田駅に着きました。 井原市駅から2つ目の駅でした。 3、4人の若い人とともに、下車しました。 乗車された方は2人おられました。 この駅の1日平均の乗車人員は、平成29(2017)年には89人おられたそうです。

盛り土の上につくられたホームは、周囲の集落より高いところにありました。 出発した列車は、正面の山の手前で左にカーブし、山の麓を広島方面に向かって進んで行きました。

こちらは、井原市駅方面です。1面1線のホームですが、貨物列車も走っていた時代の名残か、長いホームが、周囲の民家の屋根の高さにありました。

ホームから駅舎に降りて行くところにあった駅名標です。 上三田駅は、三次駅側の志和口駅から4.5km、広島駅側の中三田駅まで3.5kmのところ、安佐北区白木町大字三田にあります。 階段の先に、スレート葺きの駅舎が見えました。

階段を下ります。 盛り土の上のホームは、レール材で支えられています。 
広島駅・三次駅間の芸備線は、大正4(1915)年4月28日に、芸備鉄道として、東広島駅(現在の広島駅から640m程離れたところにありました)と志和地駅間が開業したことに始まります。 そして、その年の6月1日には、三次駅(現在の西三次駅)まで延伸開業しています。 広島駅に乗り入れを始めたのは、大正9(1920)年、そして、国有化されたのは、昭和12(1937)年7月1日のことでした。

下から見た石段です、25段ぐらいでホームに上ることができます。 
広島駅・三次駅間を走る芸備鉄道は、並行して走るバス事業との競合が続いていました。芸備鉄道では、昭和4(1929)年に、ガソリン動力併用の認可を受けて、新たにガソリンカーでの運行を始めました。 こうして、上三田駅は、翌年の昭和5(1930)年に、ガソリンカー1両分のホームで開業しました。 この駅は、駅舎のあるところの集落の名前をとって、「三田吉永駅」と命名されました。 このときの駅舎は、現在地から150mぐらい広島寄りのところにあったそうです。 その後、三田吉永駅は、昭和12(1937)年、芸備鉄道の国有化に伴い、現在の「上三田駅」と改称されました。 


上三田駅が、現在の地に移って来たのは、太平洋戦争の終戦後の昭和23(1948)年のことでした。 
写真は、ホームへ上がる階段を側面から見たものです。 大小さまざまな石がぎっしり積みあげられています。 見ていて飽かない光景です。 
先に、上三田駅が、終戦後に、この地に駅が移って来たと書きましたが、 戦前に、上三田駅は、廃止されていたのです。
日本が、太平洋戦争に突入した昭和16(1941)年、ガソリンカーが使用停止となり、蒸気機関車が牽引する列車だけが運行されることになりました。昭和16(1941)年8月10日、ガソリンカー1両分のホームしかもたない(ガソリンカー専用)駅が廃止されることになり、上三田駅など11駅が廃止されたのです。 
写真は、上三田駅の待合室前の通路です。

駅事務所前の軒下には、この駅を利用されている方々の自転車が置かれています。
太平洋戦争後、戦後の復興が進むにつれて、地元では、廃止されている上三田駅の復活を求める運動が盛り上がって行きました。その運動の高まりにより、地元で建設費を負担することで、昭和23(1948)年8月10日、現在地に上三田駅を復活させることができました。 
 
上三田駅は、昭和46(1971)年から無人駅になっています。
 駅舎内に入ります。待合室の右側には、座布団が置かれた、造り付けのベンチがあります。その上の窓があった部分は掲示スペースになっています。

出口付近に写真が掲示されていました。  「祝! 芸備線復活 JRありがとう 令和元年10月23日」と書かれた横断幕と、列車に向かって手を振る地元の人たちの喜びの表情が見えます。 平成30(2018)年の7月豪雨により、狩留家(かるが)駅と白木山(しらきやま)駅間の三篠(みささ)川に架かる橋梁が、橋脚ごと流されてしまいました。それ以後、不通になっていた芸備線が復旧し、令和元(2019)年10月23日に、全線が開通しました。写真は、それを祝う人たちの姿を伝えてくれています。
 
 向かい側には、自動券売機が設置されています。 カウンターの上には、時刻表が置かれていました。 
 
 駅舎から出ました。入口の庇を支える虎カラーの柱の右側に、建物財産標がありました。    「国鉄 建物財産標 財第1号 鉄 C停待合室 S23年3月」と書かれていました。 現存している駅舎は、地元の人たちの運動によって駅が復活したときに建設されたもののようです。 左側の柱の上には、「スレート管理標」がありました。 それには、「北側全面 平成15年5月19日」と記されていました。このとき、スレートが葺かれたのは、屋根の手前側の全面だったということのようです。 
 
 駅への取付道路です。左側には民家が、右側には「売地」と書かれた空き地がありました。 

地元の人々の建設費によって建設された上三田駅の駅舎です。 上三田駅がこの地に移って来てから、すでに71年が経過しました。 駅は無人駅となり、不要になった事務所部分には、板が打ち付けられています。 
駅舎は少しさみしい状況になっていますが、駅の復活に尽力された地元の人々にとって、いつまでも心のよりどころになる駅であってほしいと願ったものでした。
 
 

 
 

JR芸備線井原市駅を訪ねる

2020年03月24日 | 日記
第三セクターの井原鉄道の井原駅です。 岡山県の西部、井原市にある駅です。 1999(平成11)年に、井原鉄道の開業と同時に設けられました。内部は、駅とともに、デニムなど井原市の特産品の展示場や売店、飲食店などが並ぶ井原市のコミュニティホールとしても使用されています。

駅舎のデザインは、源平の戦いで知られる那須与一に因み、弓と矢を模しているそうです。 那須与一は、元暦2(1185)年、屋島の戦いで、扇の的を一矢で射落とした軍功により、井原市のエリア内にあった備中国荏原荘など5ヶ所の領地を得たことで、よく知られています。
井原駅に対し、「井原市駅」という駅があります。 JR広島駅と岡山県の備中神代駅を結ぶJR芸備線の井原市(いばらいち)駅です。 この日は、JR芸備線の井原市駅を訪ねてきました。 JR広島駅の9番乗り場から出発する、三次(みよし)駅行きの列車に乗車しました。 キハ40形とキハ47形の3両編成の列車でした。

広島駅から太田川、そして三篠(みささ)川に沿って北に進み、1時間ぐらいで、井原市駅に着きました。 進行方向の右側にある1面1線のホームに、3人ほどの方とともに降り立ちました。 この駅の1日平均乗車人員は、2017年には90人だったそうです。 井原市駅は、一つ前の志和口駅から4.0km、次の向原駅まで5.9kmのところ、広島市安佐北区白木町大字井原にあります。広島市内の最北端の駅といわれています。 井原市駅という駅名は、江戸時代から市場町として栄えていたところということで、名づけられたそうですが、かつてはいばら(茨)の生えていた野原が広がっていたところだったのでしょう。

ホームの左側の光景です。 周囲の山の麓にある集落まで広々とした農地が続いています。

ホームを広島駅方面の端まで歩いて来ました。 長いホームは、かつては貨物を取り扱っていた頃の名残だそうです。 線路の先に志路(しじ)踏切が見えます。

志路踏切から見た井原市駅方面です。 井原市駅は、大正4(1915)年4月28日に、芸備鉄道が開業したときに、当時の高田郡井原村に設置されました。 そして、昭和12(1937)年に国有化されました。 その後、昭和55(1980)年、広島市が政令指定都市に昇格したのに伴い、現在の所在地に変わっています。無人駅になったのは、昭和61(1986)年のことでした。

三次駅方面に向かって引き返します。 現在は撤去されていますが、かつて、線路が敷設されていたと思われる跡が残っており、以前は、島式ホームの1面2線で運用されていたそうです。 また、右側の駐車場になっているところでは、かつては貨物の取扱いが行われていたようです。
下車したあたりまで戻ってきました。駅舎は撤去され、その跡に小さな待合室が設置されています。

三次駅方面にさらに歩くと、駅名標が設置されていました。 長い年月、風雪に耐えて来たことがうかがえる駅名標でした。 「広」のマークは、「広島市内駅」であることを表しているそうですが、その北限の駅になっています。
ホームの三次駅方面です。ホームの先にあるのは日詰第2踏切。線路はその先で右にカーブして、次の向原駅に向かって敷設されています。このことからも、かつて1面2線のホームだったことがうかがえます。踏切の手前は民家がホームに接して並んでいます。

ホームの真ん中あたりにホームから降りる階段が設置されています。その先が、待合室になっています。 平成31(2019)年2月25日に、それまであった木造駅舎の撤去が始まりました。 「平成29(2017)年1月18日(水)の午前9時40分頃、改札口前の屋根(庇)が落下した」とのことで、老朽化による撤去ということになったそうです。

駅舎が撤去された後につくられた待合室です。間口1間半に、奥行き1間ぐらいの広さで、右側に設置されている3脚のベンチが見えました。

ベンチの上にあった地元の白木中学校区の中学生が作った「ふれあい標語」です。 平成31年度の優秀作品を紹介する掲示でした。


待合室の内部です。ベンチの向かいにあった自動券売機、運賃表と時刻表です。

待合室から見たホームです。

駅前広場にあった案内板です。神ノ倉山(かんのくらやま)を中心にした山歩きのコースを紹介しています。 井原市駅の周辺を歩いてみることにしました。
駅への取り付け道路です。家並みの向こうに標高561.5mの神ノ倉山が見えます。 旧街道との三差路を右折して進みます。
取り付け道路から見た駅方面です。 待合室がずいぶん小さく見えます。

古くから市場町の中心地として栄えた旧街道を進みます。やがて、右側に「高田鶴特約店」と書かれた看板が見えて来ました。 江戸時代に広島藩領だったこの地は、明治11(1878)年の郡区町村編成法の施行時に、高田郡が発足し、続いて、明治22(1889)年の町村制の施行時に、高田郡井原村となりました。 高田郡の地酒として多くの人に親しまれて来たブランドなのでしょう。
このお宅のすぐ先にある「井原老人集会所」の前で左折して進みます。

この町を流れる三篠川に架かる井原大橋の西詰めに出ます。 三篠川の堤防上を走る広島県道37号を渡ります。 神ノ倉山が見えます。

井原大橋の上からの三篠川です。向こう岸に、桜並木がありました。

井原大橋の東詰です。桜の木が植えられた堤防に石碑がありました。 「西暦2000年記念櫻」、 「白木町井原 原爆被爆者の会」と刻まれていました。

旧街道に戻ってきました。 さらに、その先に進んで行きます。 栄堂(えいどう)川に架かる旭橋を渡って、右に進んでいきます。

7メートルぐらいの長さの芸備線の橋梁がありました。橋桁に書かれた「塗装管理標」には、「橋梁名 旭川B 6M66」と書かれていました。 橋梁の先には、志路踏切があります。

岡山県の西部の井原市と、伯備線の清音(きよね)駅、西は広島県の福塩線の神辺(かんなべ)駅を結ぶ第三セクター鉄道の井原鉄道。 その中心駅は井原(いばら)駅です。 この日は、JR芸備線の井原市(いばらいち)駅を訪ねてきました。 井原市(いばらいち)駅の存在は前から知っていたのですが、訪ねるのが遅れ、木造駅舎はすでに撤去されていました。もっと早く訪ねていればと悔やまれました。
以前、訪ねたJR呉線の須波(すなみ)駅(「レトロな駅舎が撤去されていた JR須波駅」 2019年1月25日の日記)と、同じ体験をすることになりました。