JR芸備線は、広島駅から三次駅・備後落合駅を経由して、岡山県の備中神代駅を結ぶ、全長159.1kmの鉄道です。 その間を結ぶ列車は、広島駅・三次駅間、三次駅・備後落合間と、備後落合駅・備中神代間の3区間に分かれて、運行されています。
JR芸備線の上三田(かみみた)駅です。 写真で見たこの駅から、山間の駅にみられる独特の雰囲気を感じて、いつか訪ねてみたいと思っていました。 芸備線の井原市(いばらいち)駅を訪ねた日、広島駅に向かう途中で立ち寄ることにしました。
広島駅行きの2両編成の列車で、井原市駅を出て10分ぐらいで、上三田駅に着きました。 井原市駅から2つ目の駅でした。 3、4人の若い人とともに、下車しました。 乗車された方は2人おられました。 この駅の1日平均の乗車人員は、平成29(2017)年には89人おられたそうです。
盛り土の上につくられたホームは、周囲の集落より高いところにありました。 出発した列車は、正面の山の手前で左にカーブし、山の麓を広島方面に向かって進んで行きました。
こちらは、井原市駅方面です。1面1線のホームですが、貨物列車も走っていた時代の名残か、長いホームが、周囲の民家の屋根の高さにありました。
ホームから駅舎に降りて行くところにあった駅名標です。 上三田駅は、三次駅側の志和口駅から4.5km、広島駅側の中三田駅まで3.5kmのところ、安佐北区白木町大字三田にあります。 階段の先に、スレート葺きの駅舎が見えました。
階段を下ります。 盛り土の上のホームは、レール材で支えられています。
広島駅・三次駅間の芸備線は、大正4(1915)年4月28日に、芸備鉄道として、東広島駅(現在の広島駅から640m程離れたところにありました)と志和地駅間が開業したことに始まります。 そして、その年の6月1日には、三次駅(現在の西三次駅)まで延伸開業しています。 広島駅に乗り入れを始めたのは、大正9(1920)年、そして、国有化されたのは、昭和12(1937)年7月1日のことでした。
下から見た石段です、25段ぐらいでホームに上ることができます。
広島駅・三次駅間を走る芸備鉄道は、並行して走るバス事業との競合が続いていました。芸備鉄道では、昭和4(1929)年に、ガソリン動力併用の認可を受けて、新たにガソリンカーでの運行を始めました。 こうして、上三田駅は、翌年の昭和5(1930)年に、ガソリンカー1両分のホームで開業しました。 この駅は、駅舎のあるところの集落の名前をとって、「三田吉永駅」と命名されました。 このときの駅舎は、現在地から150mぐらい広島寄りのところにあったそうです。 その後、三田吉永駅は、昭和12(1937)年、芸備鉄道の国有化に伴い、現在の「上三田駅」と改称されました。
上三田駅が、現在の地に移って来たのは、太平洋戦争の終戦後の昭和23(1948)年のことでした。
写真は、ホームへ上がる階段を側面から見たものです。 大小さまざまな石がぎっしり積みあげられています。 見ていて飽かない光景です。
先に、上三田駅が、終戦後に、この地に駅が移って来たと書きましたが、 戦前に、上三田駅は、廃止されていたのです。
日本が、太平洋戦争に突入した昭和16(1941)年、ガソリンカーが使用停止となり、蒸気機関車が牽引する列車だけが運行されることになりました。昭和16(1941)年8月10日、ガソリンカー1両分のホームしかもたない(ガソリンカー専用)駅が廃止されることになり、上三田駅など11駅が廃止されたのです。
写真は、上三田駅の待合室前の通路です。
駅事務所前の軒下には、この駅を利用されている方々の自転車が置かれています。
太平洋戦争後、戦後の復興が進むにつれて、地元では、廃止されている上三田駅の復活を求める運動が盛り上がって行きました。その運動の高まりにより、地元で建設費を負担することで、昭和23(1948)年8月10日、現在地に上三田駅を復活させることができました。
上三田駅は、昭和46(1971)年から無人駅になっています。
駅舎内に入ります。待合室の右側には、座布団が置かれた、造り付けのベンチがあります。その上の窓があった部分は掲示スペースになっています。
出口付近に写真が掲示されていました。 「祝! 芸備線復活 JRありがとう 令和元年10月23日」と書かれた横断幕と、列車に向かって手を振る地元の人たちの喜びの表情が見えます。 平成30(2018)年の7月豪雨により、狩留家(かるが)駅と白木山(しらきやま)駅間の三篠(みささ)川に架かる橋梁が、橋脚ごと流されてしまいました。それ以後、不通になっていた芸備線が復旧し、令和元(2019)年10月23日に、全線が開通しました。写真は、それを祝う人たちの姿を伝えてくれています。
向かい側には、自動券売機が設置されています。 カウンターの上には、時刻表が置かれていました。
駅舎から出ました。入口の庇を支える虎カラーの柱の右側に、建物財産標がありました。 「国鉄 建物財産標 財第1号 鉄 C停待合室 S23年3月」と書かれていました。 現存している駅舎は、地元の人たちの運動によって駅が復活したときに建設されたもののようです。 左側の柱の上には、「スレート管理標」がありました。 それには、「北側全面 平成15年5月19日」と記されていました。このとき、スレートが葺かれたのは、屋根の手前側の全面だったということのようです。
駅への取付道路です。左側には民家が、右側には「売地」と書かれた空き地がありました。
地元の人々の建設費によって建設された上三田駅の駅舎です。 上三田駅がこの地に移って来てから、すでに71年が経過しました。 駅は無人駅となり、不要になった事務所部分には、板が打ち付けられています。
駅舎は少しさみしい状況になっていますが、駅の復活に尽力された地元の人々にとって、いつまでも心のよりどころになる駅であってほしいと願ったものでした。