トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

セントレアに行ってきました

2010年11月25日 | 日記
2005(平成17)年2月17日に開港した、
中部国際空港、セントレアに行きました。
 
愛知万博の時の、華やかでにぎやかな雰囲気を思い出して
やっと行けると、大きな期待を持っていました

名古屋から名鉄の電車で駅に着いて、すぐに、
スカイロビーに飛行機を見に行きました。
ちょうど中国国際航空の旅客機が着陸しているところでした。
国際線と国内線の出発が北と南に分かれていて、
ほんとに広々としていました。


  
到着便も出発便も多くない時間のようなので、2階のロビーに降りました。

2階に降りてびっくり、
エコのために、明かりがついていないのは納得でしたが、
余りに閑散としていていたのには驚きました。

お店の方は「水曜日の午後は特にお客様が少ないので・・」と言われていましたが、
ほんとに、がっかりでした。

クリスマスのデコレーションも行われていたのですが、
人が少なく静かで、空港らしい華やかさを感じませんでした。
たくさんある地方空港と同じような雰囲気でした。
 
空港のキャラ、「なぞの旅人フー」も元気にしていましたし、
そのフレンドたちも、たくさん並んで売られていました。
 
気を取り直して、ちょうちん横丁に入りました。

江戸時代以来の日本の商家の建物群は、それなりに見て楽しいかったです。
話題を呼んだ、銭湯「風の湯」も、温泉ではないけれどまだやっていました。
 
キティちゃんのお店もありました。
うどん店も、コーヒー店も値段は手頃でした。
広いロビーにあるカフェテリアには、
小さい子どもを連れた若いお母さんや孫を連れた高齢者の姿が目につきました。
 

国際線の出発便の案内がありましたが、
夜の10時までに9便が予定されていました。

調べてみると、国際線は、週270便余りだそうで、
開港時より減便されていて、空港も赤字に転落しているそうな。
出発ロビーの免税店には、たくさんの人がいてほしいなあと
思わずにはいられませんでした。



帰りに、電車から周囲を見ると、
造成されたまま、何も建てられずに放置されている土地も見えました。

たくさんの資金をかけたにもかかわらず、
十分活用されていない、
全国で話題になっている「無駄」な空港になっているのかな?と、
失礼ながら感じてしまいました。

岡山市の地名由来碑を歩く(1) 旧橋本町

2010年11月25日 | 日記
岡山市を流れる旭川に面して、
県庁の東から南に向かって走る水の手筋。

水の手筋を京橋に向かって、
整備された遊歩道を歩いていきます。


京橋交番(写真の左上)の少し手前にある花壇の中に、
「旧橋本町」と記された地名由来碑が立っています。

「江戸時代は、旭川の水路と
山陽道の陸路を利用する多くの問屋がありました」
それには、このように刻んでありました。
ここは、豊臣秀吉に仕えた宇喜多氏の時代からの町人町でした。

碑にも書かれてあるとおり、高瀬舟の発着場でした。
ちなみに、江戸時代に岡山城下には、
「海船72隻、河船86隻あった」(「備陽記」)ようで、
これらの船は、京橋を中心とした城下の川岸を拠点にしていました。

これは、当時の町割りを記したもの(「岡山市の地名」より)ですが、
旭川の東岸から、橋本町の中央部に入って、
西大寺町で右に回り、
上之町に抜けている(赤で表示)道が山陽道です。

旭川を、幅4間(3.1m)、長さ68間(124m)の京橋で渡って、
橋本町に入りました。
橋本町側には「大門」があり、門の南に接して高札場があったようです。


この町には、嘉永7(1854)年、
男78人、女84人の162人が住んでいたようですが、
交通の要衝にあったため、その中には、
当然のことながら有力商人もたくさんいました。

江戸初期から寛政年間まで総年寄りをつとめていた、
質商の淀屋佐々木家、
中期岡山城下一の豪商といわれた、塩屋の武田一族、
享保年間以降「木屋丁子香」で知られた木屋清七郎などが有名です。
宅地の地子(税金)も、西大寺町と並んで、
岡山城下で最も高い町でした。


夕暮れに撮影したので、画面が暗くなりましたが、
この道が当時の山陽道でした。

このあたりは、明治維新後も海運業の中心として栄えたようです。
「四国へは毎日便船があり、大阪へは毎月1と6の日に船が出た」と、
いうことです。

今も、商業がさかんな地域ですが、静かな住宅地という雰囲気もあるところです。
岡山城下一の商業地区であった、かつての繁栄をしのぶのは難しいようです。

 http://www.city.okayama.jp/museum/yuraihi/index2.html




茅葺きの里、美山町

2010年11月10日 | 日記
静かな、静かな里の秋、おせどに木の実の落ちる夜は(里の秋)
茅葺き民家の里は、紅葉の季節を迎えていました。
 
雨の心配もあった天候でしたので、澄み切った青空に紅葉が映えるという景色ではありませんでしたが、山を背景にした茅葺き民家群は、期待どおりのすばらしさでした。

この地区は、伝統的建造物の保存地区なので、意識して茅葺き民家を継承しているはずです。
そのためか、今では、屋根の葺き替えができる技術者が育ってきて、あの白川郷など茅葺き民家の残るところへも、出かけていっているそうです。
 
ここは、屋根の傾斜が急な構造で、瀬戸内地域にすむ私たちが、幼い頃に慣れ親しんでいた光景とは少し違っていました。

しかし、民家の周辺で感じた農村のもつ雰囲気は、少年時代の「里の秋」とまったく同じでした。
 
紅葉は進んでいましたが、カエデの色は全体に今一つでした。集落の一番高いところにあった、晋明寺の境内の紅葉が印象に残りました。

しかし、残念ながら、あのまっ紅な色には出会えませんでした。紅くなる前に、葉っぱが落ちてしまっているような感じでした。
 
この日は、スケッチをしている人がたくさんいました。もちろん、みんなが茅葺き民家の姿を描いていました。この男性の絵に合わせて、目の前の光景の写真を撮る人の姿もありました。

交通が便利でなく、簡単に行けないところだから、こんな風景が残ったのでしょう。
でも、秋になると行ってみたくなるような里でした。

絶景かな、絶景かな!

2010年11月04日 | 日記


石川五右衛門が、この上から「絶景かな!」と大見得を切ったと言われている、南禅寺三門に登ってきました。

はるかに京都の町が見渡せます。「いい景色だね」と、門の上で会った人たちも言っていました。

しかし、この三門は、藤堂高虎が、大阪夏の陣で亡くなった藩士の供養のために、寄進したものです。
ほんとは、「絶景かな!」と、見得を切るどころではないのかもしれない。楼上には、釈迦如来や16羅漢が安置されています。

「行きはよいよい、帰りは恐い!」でした。城に行ったときに、よく感じるのですが、ここも同じでした。急な階段には、いつも下りで苦しんでいます。
 
ほんとは、紅葉が見たかったのです。だけど、かなり早すぎたなと感じました。塔頭の庭からはみ出している楓が、少し色づいていました。
 

南禅寺といえば、やっぱり方丈です。また、境内にある、「水路閣」も有名です。古代ローマの「水道橋」を連想させてくれます。

明治の人は、古刹にこういう建築物をつくることに、抵抗はなかったのでしょうか。今では、立派な産業遺産になっていますが。