トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

貝塚市に残る寺内町の面影を訪ねて(1)

2018年11月29日 | 日記
大阪府貝塚市は、寺内町として知られています。寺内町は、室町時代から江戸時代初期にかけて、浄土真宗などの仏教寺院や御坊(道場)を中心に形成された集落です。壕や土塁で囲まれた集落では自治が行われ、信者や商工業者が居住していました。

貝塚寺内町は、浄土真宗”願泉寺”を中心に成立、発展しました。江戸時代には、7,500人の居住者のほとんどは願泉寺の信徒だったといわれています。

これは、南海電鉄貝塚駅の観光案内所でいただいたパンフレット「願泉寺の重要文化財」にあった貝塚寺内町の地図です。この地図の北は右45度の方向にあたります。地図の薄く塗られた部分が寺内町のエリアで、地図の右(北)側を流れる北境川、左(南)側を流れる清水川、下(東)を走る南海電鉄本線、上(西)は大阪湾で囲まれていました。また、防御のために、壕とその内側に土塁を設けていました。東西550メートル、南北800メートルの広さで、以前訪ねた富田林寺内町(「寺内町の面影を訪ねて、富田林を歩く」2013年10月15日の日記)よりも小規模の寺内町でした。地図の中央を左右(南北)に走る通り(太線部)は、大坂と和歌山を結んでいた紀州街道です。中央部に枡形が設けられていました。また、地図の中央を上下(東西)に走る通りは中之町通りと呼ばれていました。現在では、この二つの通りは拡幅されていますが、それ以外の街路は、寺内町の頃とほぼ同じ形で残っているそうです。

貝塚寺内町は、願泉寺の住職であった卜半(ぼくはん)家が領主として支配していました。この日は、寺内町の宗教と政治の中心であった願泉寺を訪ねてきました。南海電鉄本線の貝塚駅の西口からスタートしました。東口には、水間鉄道の起点貝塚駅があり、水間鉄道は、水間観音駅までを15分で結んでいます(「水間鉄道水間観音駅を訪ねる」2018年9月28日の日記)。貝塚駅から南海電鉄の線路に沿って、北方向(岸和田方面)に向かって進みます。

その先にあった石柱です。「従是東西海塚領」と刻まれています。貝塚は南郡麻生郷海塚村に属していました。裏側には「明治参拾年参月」とありました。この南海電鉄に沿ったあたりが寺内町の東西の境界であることを示しています。

南海本線の蛸地蔵7号踏切の三差路を左折して、貝塚港に向かう西町海塚麻生中線(「中之町通り」通称「なかんちょ通り」と呼ばれていたそうです)に入ります。

すぐ右側に感田(かんだ)神社がありました。神社にあった「説明」によれば、「感田瓦大明神と称し、貝塚市内の産土神(うぶすなかみ)で天照大神等三柱を祭神とする。創建は明らかではないが、慶安元(1648)年社殿が再建されたとき、宗福寺の住職が祭祀を担った」ということです。感田神社には、かつて貝塚寺内町の周囲に設けられていた壕の名残があると聞いていました。

感田神社の南門です。明治22(1889)年の建立だといわれています。

南門を入りまっすぐ進むと参集殿です。その手前に、壕と説明板がありました。貝塚寺内町に壕がつくられたのは慶長18(1613)年。徳川家康によって3間幅の周壕が掘られたときでした。

説明板にあった絵図です。寺内町の最古の慶安元(1648)年の絵図です。絵図の左下隅が北にあたります。感田神社は絵図の中央の最上部(東の端)にあります。

拡大図です。中央の四角の部分が感田神社です。周囲を壕で囲まれています。感田神社の左の壕の中に★のマークが見えます。

壕は参集殿の前に残っていました。参集殿に渡る橋から撮影しました。この壕が、上の絵図の★のマークがあるところでした。壕の両岸には石垣が築かれていました。

参拝者にわかりやすいように整備をしたのでしょう、「説明」によれば、右岸と左岸で石垣の築き方が異なっているそうです。こちらは、和歌山側の石垣で、江戸時代の布積みという積み方で積み上げられています。

こちらは、大阪側の石垣です。明治時代以降の積み方である谷積みで積み上げられています。

北側にある神門から出て、振り返って撮影しました。「説明」には、「安永9(1780)年、大工種子島源右衛門によって建てられた。海の日の前日の日曜日に行われる例祭には御輿渡御(みこしとぎょ)が行われ、7台の太鼓台が担ぎ出される」と書かれていました。感田神社は長い歴史を誇る神社らしく、神門、南門、参集殿など多くの建築物が登録有形文化財に登録されています。

西町海塚麻生中線(中之町通り)に戻ります。お好み焼きの看板の先を右折して石畳の通りに入ります。左側に「貝塚寺内町」と刻まれた石柱がありました。ここは”御坊前通り”、願泉寺の前の通りです。

左側に、浄土真宗の寺院、金涼山願泉寺がありました。貝塚寺内町は、願泉寺の卜半家を中心に成立、発展しました。願泉寺の起源は、行基が建てたと伝えられる庵寺だといわれています。天文14(1545)年に根来寺から卜半斎(ぼくはんさい)了珍を招き、5年後に庵寺を貝塚御堂として再興。そして、天文24(1555)年には石山本願寺の下で寺内町として取り立てられました。しかし、天正5(1577)年、織田信長の雑賀攻めのとき、貝塚寺内町は全焼していまいます。その後、徳川家康の認可を得て、貝塚寺内町は、慶長5(1600)年、卜半家の私領となりました。そして、貝塚御坊が願泉寺という寺号になったのは、慶長12(1607)年に、西本願寺の准如から「願泉寺」の寺号を授けられたときでした。慶長15(1610)に、徳川家康から寺内町の支配を認められてからは、卜半家は、江戸時代を通して、願泉寺の住職として、また、領主として貝塚寺内町を支配することになりました。

願泉寺付近のマップです。願泉寺の本堂の裏には、現在貝塚市立北小学校がありますが、かつては、ここに、寺内町を支配した卜半家の役所が置かれていました。そこでは、「寺僧」と呼ばれた満泉寺、正福寺、泉光寺、要眼寺、真行寺(今はありません)の五ヶ寺が、願泉寺の檀家を預かるとともに、卜半家の家来として、寺内町の町政を担っていました。小学校の前の通りは”御下筋(おしたすじ)”と呼ばれていました。

願泉寺の表門と築地塀(ついじべい)です。表門は江戸時代の延宝年間(1673~81)に建立された大型の四脚門です。また、寛文11(1671)年に建てられた築地塀には、壁面の定規筋(じょうぎすじ)が5本。寺院の最高位を表しています。表門は国の重要文化財に指定されています。

願泉寺の表門にあった龍の彫刻です。元禄3(1690)年に製作されたものです。

願泉寺の境内に入ります。表門の先につくられていた3間の目隠塀です。表門から本堂や本尊が直接見えないようにするため設けられています。

国の重要文化財に指定されている願泉寺の本堂です。寛文3(1663)年貝塚寺内町や近隣の村の人々からの寄進によって再建されました。前年に起きた地震によって被害を受けたため、三ツ松村(現在の貝塚市三ツ松)出身の大工で江戸にいた岸上和泉守貞由(きしがみいずみのかみさだよし)を棟梁に、再建されたといわれています。

国の重要文化財である表門と本堂は、平成17(2005)年から5年掛けて、大規模な半解体修理(平成の大修理)を行っています。本瓦葺きの本堂の屋根には、「願泉寺」の銘の入った瓦が使われていました。

享保4(1719)年に再建された太鼓堂です。2間4方の上層の真ん中には、文字通り仏事などに使用される巨大な太鼓が備えられています。下層は3間四方で北側に出入口が設けられています。この建物も、国の重要文化財に指定されていますが、平成10(1998)年に台風の被害を受けたため、平成の大修理の前に1年間にわたって修理工事が行われました。

昭和20(1945)年8月10日の貝塚空襲で鐘楼を焼失したため、昭和23(1948)年に、貝塚市森の稲荷神社の境内にあった鐘楼(別当の青松寺のもの)を移築したそうです。江戸時代の元禄15(1702)年に建築されたものでした。中に掛かっている銅鐘は、鎌倉時代の貞応3(1224)年に鋳造され、大和国大福寺(北葛城郡広陵町)にあったもの。天正13(1585)年に水間寺を経て願泉寺に移ってきたそうです。

願泉寺から出て、御坊前通りに出ました。願泉寺の向かいにあった特留山正福寺とそれに続く寂静山満泉寺です。どちらも、寺僧として卜半家を支えた寺院でした。正福寺は天正11(1583)年この地に移転して来て、寛永7(1630)年から寺号を正福寺と改めました。浄土真宗本願寺派の寺院です。

満泉寺です。こちらも、寺僧として卜半家家の町政を担っていた寺院です。天正13(1585)年貝塚に移り、慶長18(1613)年に本願寺から寺号を与えられ満泉寺と改めました。浄土真宗大谷派の寺院です。

見えにくいのですが、満泉寺の掲示板にあったメッセージです。「あんまりがんばらないで でも へこたれないで」亡くなられた女優、樹木希林さんの言葉が掲示されていました。

御坊前通りを北に向かって歩きます。満泉寺の先にあった二位山尊光寺です。浄土真宗本願寺派の寺院です。もとは、真言宗の寺院でしたが、室町時代の明応2(1493)年に浄土真宗に改宗し、その後、天正16(1588)年にこの地に移ってきました。現在の本堂は享保8(1723)年に再建されたものです。

尊光寺の境内にあるカイヅカイブキです。境内にあった「説明」には「移転当時からの老樹である」と書かれていました。だとすると樹齢400年を超えていることになります。樹高8メートル、地上2メートルのところで大きく3枝に分かれているのが特徴だそうです。
貝塚市といえば、縄文時代人の遺跡であった貝塚から命名されたのではないかと思ってしまいますが、貝塚市の市域では、これまで貝塚の遺跡は発見されていないそうです。もともと「海塚(かいづか)」と呼ばれていたのが、天正16(1588)年に寺内町になってから「貝塚」の字が使われるようになったそうです。これは、古文書の記録から証明されているそうです。また、現在でも、寺内町を除く旧村は「海塚(うみづか)」と記述されています。なぜ、「貝塚」になったのか確証のある説はないそうです。
このカイヅカイブキの老樹を見ていると、貝塚の地名に何らかのかかわりがあるのではないかと思ってしまいます。

これは、願泉寺前から見た尊光寺の全景です。写真の手前側には、満泉寺と正福寺があります。卜半家を支えた寺僧の他の3ヶ寺はどこにあったのでしょうか。冒頭のマップには、泉光寺は東の感田神社との間に、また、要眼寺は中之町通りを隔てた南側にそれぞれ名前がありました。今はない真行寺はどこにあったのでしょうか。尊光寺の手前にある満泉寺との間にあったスペースが、かつて真行寺があったところのようです。泉光寺を訪ねることにしました。

中之町通りに出ます、感田神社に向かって引き返し、「お好み焼き」の看板がある通りに入ります。

左側にある正福寺、満泉寺の裏を抜けると、前方左に尊光寺が見えました。その手前、右側に、めざす清泰山泉光寺がありました。

御坊前通りに戻ります。尊光寺の前から通りの幅が狭くなった”御坊前通り”をさらに北に進みます。その先に東西の通り(堀之町筋)がありました。その手前に広い間口のお宅がありました。

天保3(1832)年に建設された並河家です。並河家は卜半家の家来で、代々要職を務めて来た家柄です。一見商家のような外観ですが、内部には式台のある玄関があるなど、武家の住宅になっているそうです。

その先で堀之町筋(堀之町通)にぶつかります。左折して大阪湾方面に向かって進みます。通りは途中から、利齋坂(りさいざか)と呼ばれる急な下り坂になっています。

右側にあった山田家です。このお宅は卜半家の家来をつとめていた家柄で、江戸時代末期のからは古美術商を営んでいました。主家は19世紀末ごろに建てられたもので、国の登録有形文化財に登録されています。

やがて、左側にある北小学校に沿って歩くようになりました。

”利齋坂”の途中にあった竹本(久男)家です。貝塚の特産品である黄楊(つげ)櫛の製造業を営んでいました。建物は建築年代の異なる東西の2棟からなっています。手前(東)側の建物は、江戸時代に建設された間口2間半の小規模の町屋。下(西)側の建物は昭和7(1932)年頃の建築とされています。国の登録有形文化財に登録されています。

”利齋坂”を下ったところの右側にあった利齋(りさい)家です。天正5(1577)年の織田信長の雑賀攻めの時に貝塚に移ってきたといわれ、代々「孫左衛門」を名乗り薬種問屋を営み、北之町の町年寄も務めて来ました。17世紀の建築で、貝塚で最も古い町家だといわれています。利齋家も国の登録有形文化財に登録されています。

利齋家の角で左折して”御下筋”を南に向かいます。北小学校の正門付近に来ました。正門が卜半役所の表門があった位置にあたるそうです。

玄関から校内を撮影させていただきました。正門から校内に入って校舎を抜けると卜半役所跡の石垣が残る段丘があります。先ほど下ってきた堀之内筋の急坂も段丘部分にあたります。段丘には石段が設けられ、段丘上のグランドに行くことができます。江戸時代には、この石段の上に中門があり、グランドから願泉寺の本堂の後ろまで卜半役所の建物が建ち並んでいたといわれています。


寺内町貝塚を訪ねる旅の1回目として、寺内町の支配者であった卜半家に因む地域を訪ねて来ました。
次回は、寺内町に残るかつての面影を訪ねることにしています。


桃観トンネルの入口にある”秘境駅”、JR久谷駅

2018年11月18日 | 日記

JR山陰本線の久谷(くたに)駅です。牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の151位(2018年)にランクインしています。兵庫県北西部のJR山陰線では4つの駅がランクインしています。鳥取駅側から居組(いぐみ)駅(119位)、久谷駅(115位)、餘部(あまるべ)駅(125位)、鎧(よろい)駅(159位)の4つの駅です。この中で、餘部駅は、昨年訪ねて来ました(「JR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅」2017年1月14日の日記)。

これはJR居組駅の駅舎です。建築から100年以上経過した木造駅舎の建て替えに向けた動きが始まるということで、先日訪ねてきました(「”秘境駅”の木造駅舎がなくなる!JR居組駅」2018年11月7日の日記)。

鎧駅の駅舎です。この駅も、先日訪ねて来ました。美しい風景のため、映画のロケ地としても知られている駅でした(「美しい風景とインクライン跡に会える”秘境駅”、JR鎧駅」2018年11月5日の日記)。

この日は、残っているJR久谷駅を訪ねるため、鳥取駅に向かいました。キハ47系車両の2両編成、ワンマン運転の気動車に乗車しました。

鳥取駅から1時間余、列車は進行方向右側にある1面1線のホームに入ります。久谷駅に到着しました。兵庫駅北西部の4つの秘境駅のうち、餘部駅、鎧駅は美しい海岸の風景の中にある駅でしたが、久谷駅は、居組駅と同じような雰囲気をもつ山間の駅でした。他に乗降客はおらず、すぐに、列車は、次の餘部駅をめざし、ホームの先にある桃観トンネルに向かって出発して行きました。

久谷駅は、兵庫県北西部の美方郡新温泉町久谷にあります。浜坂駅から6.1km、次の餘部駅まで4.6kmのところにあります。久谷駅は明治45(1912)年3月1日、国有鉄道山陰本線の香住(かすみ)駅・浜坂駅間が延伸開業し、京都駅と出雲今市駅(現出雲市駅)の間が全通したときに、開業しました。

到着したホームにあった待合室です。ベンチが置いてあるだけでしたが、改修されてから余り時間が経過していないような印象を受けました。

待合室に掲示されていることが多い時刻表と運賃表は、ここではホームに設置されていました。久谷駅は、他の3つの秘境駅とともに、平成24(2012)年3月17日のダイヤ改正から、一部列車が通過する駅になっています。

これは、餘部駅側から浜坂駅方向に向かって撮影したものです。下車したホームの向かいに駅舎が見えました。
現在は1面1線の棒状駅になっていますが、形状からわかるように、かつては2面2線の駅でした。駅舎寄りの1番線に餘部駅方面行きの列車が、現在使用されている2番線に浜坂方面行きの列車が停車していました。平成20(2008)年に2番線ホームは使用停止となり、1番線だけが使われるようになりました。

その後、平成24(2012)年に一部列車が通過するようになって、棒状化の工事が行われ、使用停止になっていた2番線ホームをすべての列車が使用するようになりました。現在では、使用されなくなった1番線のレールは撤去されています。
写真はホームから見た駅舎です。ドアも窓も閉鎖され、駅舎というより倉庫といった雰囲気です。現在の駅舎は、昭和57(1982)年に、開業以来の木造駅舎に替わって建てられたものです。白い駅舎とホームの上屋を支える白い柱が印象的です。 

しかし、今では、駅舎側ホームは駅名標も撤去され、駅前の広場も使用禁止になっており、駅らしいものは残っていない状況です。 これは、下車したホームの浜坂駅寄りから撮影した駅舎側のホームです。構内踏切の名残のようです。

その近くのホームの側面にあった「停車場中心193K380M」と書かれていました。現在の営業キロ(191.8km)よりやや長いのですが、京都駅からの距離を示しているようです。

久谷駅は標高51.9mの山の中腹に設置されています。到着したホームの裏にはもう一つ山塊が広がっており、集落は、二つの山塊に挟まれた谷筋に並んでいます。”秘境駅ランキング”の主宰者、牛山氏の評価では、久谷駅は秘境度2ポイント(P)、雰囲気1P、列車到達難易度9P、外部到達難易度1P、鉄道遺産指数1P(総合14P)となっています。駅が秘境駅の雰囲気をもっていること、列車で訪ねるのに困難ということによって、ランクインしているようです。

こちらは浜坂駅方面です。集落に下りていくことにしました。到着したホームから集落に向かう道は、安全への配慮からか、柵で囲まれています。

下りていく途中にあった墓地の下方に、かなりまとまった集落が見えました。

墓地からさらに下り、左折して進むと集落を抜ける通りにぶつかります。久谷地区には73世帯、人口200人(平成27年)の方が居住されています。

通りを右折して下ります。右側にあった「久谷民俗芸能伝承館」です。

その先の左側に駐在所がありました。左折して進みます。正面に赤い釉薬瓦の立派な住宅があります。

駐在所の先に「但馬久谷菖蒲綱引 重要無形民俗文化財 国指定 記念」と刻まれた石碑がありました。

駐在所付近の橋を渡って、来た道を引き返します。右に向かう道との分岐点に説明板がありました。先ほどの石碑にあった「菖蒲綱引」の説明でした。端午の節句の行事として、江戸時代に始まった「菖蒲綱引」は、屋根に上げた菖蒲よもぎを縫い込んだ三組みの綱(全長40m・直径30cm)を、大人組と子ども組に分かれて7回引き合い、大人組が勝つと豊作になるというものだそうです。「久谷民俗芸能伝承館」も菖蒲綱引にかかわる施設だと思われます。この菖蒲綱引は、「年占いや地区の発展を祈って行われ、日本海沿岸地域に分布している五月節句の綱引行事の典型例」として、平成元(1989)年に、国の「重要無形民俗文化財」に指定されています。

先ほど、駅から下りてきた道との合流点です。このあたりから緩やかな上りになりました。

その先で、国道178号に合流します。正面に久谷八幡神社がありました。応永21(1414)年から現在の地に鎮守している由緒ある神社で「久斗の庄の一の宮」ともいわれています。毎年の例祭日に奉納されるざんざか踊りで知られています。また、本殿脇にはスダジイの古木など貴重な樹木が茂っているそうです。

左側に薬師堂を見ながら坂を上っていきます。

薬師堂付近から、左側の山を見上げると、久谷駅のホームと駅舎が見えました。

国道178号は、その先で、桃観(とうかん)峠を桃観(とうかん)トンネルで抜けて豊岡方面に向かいます。道路標識付近で左折します。久谷駅に到る兵庫県道261号を進みます。

その先にあった久谷踏切です。左側の広場は駐車場。その先は、ホームにつながる道が続いています。そして、右側、餘部駅方面には桃観トンネルがありました。

桃観トンネルです。全長1992m。山陰本線で2番目に長いトンネルです。脇にあった説明には「この先の峠は、『峠を越えれば股(もも)の痛み甚だし』ということで『股(もも)うずき峠』と呼ばれていました。鉄道の建設でいい名を付けようということになり『股(もも)』から『桃見峠』となり、さらに「桃観峠」と名づけられた」と書かれていました。また、ここからは見ることはできませんが、こちら側(西側)の入口は、「馬蹄形で、建設当時の美しい石積みを残している」そうです。桃観トンネルは、明治44(1911)年のトンネル開通当時には全長1841mで、山陰本線の最長トンネルでした。しかも、ここから15.2パーミルの急勾配で標高80mまで上って桃観峠を越えることになっていました。「西側のトンネルの入口には、建設当時の鉄道院総裁、後藤新平の直筆による『萬方惟慶(すべての人がこれを慶ぶ)』と書かれた石額がついています。ちなみに、東側(向こう側)には同じ後藤新平の『惟徳罔小(この徳は小さくない)』という石額がついてい」るそうです。大変な難工事の末に開通した最長トンネルに寄せた、関係者の慶びが表れています。

しかし、運行は大変だったようです。長い急勾配のトンネルの中で、蒸気機関車に牽引された列車が止まると窒息事故につながるとして、上り勾配のトンネル入口の直前にある久谷駅では、十分な蒸気を溜めてからトンネルに挑んでいたそうです。また、全長1841mで開通したトンネルが、現在1992mになっているのは、開通後の大正7(1918)年、山陰本線の沿線で大雨が降ったとき、トンネルの東側を流れる西川が氾濫し、これが桃観トンネルに流れ込み、トンネルの西側の久谷の集落にも大きな被害を与えたため、トンネルの東口を上り勾配にして、50m余り延長して改修したためでした。

このとき、浜坂行きの普通列車がトンネルを抜けて来ました。建設当時、山陰本線の最長トンネルだった桃観トンネルは、その後、昭和8(1933)年に、山口県の須佐(すさ)駅と宇田郷(うだごう)駅間に大刈(おおかり)トンネル(全長2214.7m)が開通したため、現在では山陰本線で2番目に長いトンネルになっています。

久谷踏切を渡って進みます。線路と並行に進み、駅舎跡に向かって行く道になります。写真は、途中にあった唯一の民家です。

広い駅前広場に着きました。駅舎は物置になっていました。久谷踏切に戻りました。

久谷踏切の脇の駐車場です。そこから、現在のホームに向かう通路が設けられています。安全のためでしょう、両側に柵が設けられていました。

餘部駅に始まり、鎧駅、居組駅、そして久谷駅と、兵庫県西北部にあるJR山陰本線の”秘境駅”を訪ねて来ました。
最後に訪ねることになった久谷駅でしたが、最も印象に残ったのは、久谷駅以上に、開通当時、山陰本線の最長トンネルだった桃観トンネルでした。また、久谷地区に住む人たちが守り伝えて来た菖蒲綱引や、八幡神社のざんざか踊りなど、豊かな民俗文化も心に残りました。











北前船の係留杭が残る港、居組漁港を歩く

2018年11月12日 | 日記

波静かな漁港の一角に、石の杭が建っています。これは、江戸時代に、汐待ちのため停泊していた北前船の係留のためにつかわれた杭、係留杭(けいりゅうくい)だといわれています。

兵庫県の西北部、居組漁港を見下ろす魚見台公園から見た係留杭が残っている付近の風景です。中央部に突きだした突堤の向こうに、不動山(左)と亀山(右)が見えます。江戸時代、この二つの山、不動山と亀山の間は船溜まりなっており、二つの山の海面付近に係留杭がつくられていました。

これは、不動山の海岸にある係留杭です。波静かな海岸に残っています。
牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の119位にランクインしている、”秘境駅”JR居組駅を訪ねた日(「”秘境駅”の木造駅舎がなくなる! JR居組駅」2018年11月11日の日記)、居組駅から居組漁港に向かって歩きました。

”秘境駅”の雰囲気を色濃く残すJR居組駅です。

これは、駅舎内にあった居組集落の「見所・案内図」(以下「案内図」)です。この案内を参考にして、地図の左上の「至JR居組駅」から、居組の集落や居組漁港を歩くことにしました。

居組駅前から右に曲がって下っていきます。すぐに、大阪川にかかる居組橋を渡って、山沿いの道をまっすぐに進んで行きます。

東浜・居組道路のアンダークロスをくぐります。道は、その先で三差路になります。左側に向かって進むと、寺院がありました。

虎嶽山龍雲寺です。慶長元(1596)年に創建された曹洞宗の寺院です。山門前に掲示されていた案内板によれば、「寛政12(1800)年と明治21(1888)年の二度焼失した」そうです。

龍雲寺の本堂です。現在の本堂は「文化11(1814)年に鳥取藩主池田家の菩提寺として再建された興禅寺本堂を、焼失後の明治21(1888)年に移築したもの」(案内板)だそうです。

左側から見た本堂です。鬼瓦の下の懸魚(げぎょ)には、徳川家の家紋の「三つ葉葵」(鳥取藩主池田家が徳川家と姻戚関係にあったため)が見えます。その下の蟇股(かえるまた)には池田家の家紋「揚羽蝶」が彫刻されています。また、かつては、揚羽蝶の家紋が入った鬼瓦も屋根に敷かれていたといわれています。鳥取藩主池田家の菩提寺であったことを示しています。

山門の左側にあった石碑です。「鉄道工事遭難病没追悼碑」(裏面には「明治辛亥年三月建立」)と刻まれていました。「明治辛亥年」は明治44(1911)年、居組駅が開業したのも明治44(1911)年でした。国有鉄道山陰本線の建設工事に従事して、遭難や病気で亡くなられた人々への追悼碑でした。地元の人々の居組駅の開業に対する思いが伝わって来ます。

その先、緩い右カーブがあります。カーブの先で、居組の集落に入ります。

その先、右側に「西谷商店」の看板のあるお店、左側に黒い下見板張りの壁のお宅がありました。その前の四つ角を左折して、海の方に向かって歩きます。

左折した後、すぐに、左側のお宅に、赤いレンガ塀がありました。駅にあった「案内図」には、「明治末期、山陰本線のトンネル工事に従事した人々が、お世話になったお礼として建てたレンガ塀」だと書かれています。

レンガの表面です。案内図によれば、「長手のレンガと小口のレンガが順に積まれるフランス積み」でつくられているそうです。山陰本線の工事から、100年以上が経過した現在も頑丈にそびえています。

レンガ塀のあるお宅から、さらに先に進みます。左右の通りと交差します。まっすぐ通りを越えて進むと、居組漁港や居組サンビーチ(海水浴場)に向かいます。右は、漁港の裏を進む道になります。

左折して、県境を越えて鳥取県に向かう「七坂八峠(ななさかやとうげ)」とよばれるつづら折りの道を進みます。この先にある、居組漁港を見下ろす魚見台展望所をめざして歩きます。

つづら折りの登り坂を歩きます。大漁旗がたなびく一角がありました。幟には「八代龍王大神祭」と書かれていました。八代龍王大神を祀る龍神堂です。この日は祭礼の日だったようです。漁に携わる人々がお堂の中に集まっておられました。お堂の裏から居組漁港を眺めるつもりでしたが、樹木がじゃまをして眺望が今ひとつでした。

展望台のある魚見台公園まで上りました。

海水浴場「居組サンビーチ」の美しい風景が目に入ってきました。

「案内図」には「らくだのこぶのように浮かぶ2つの小島」と書かれています。手前から延びる突堤の先にある不動山(左)と亀山(右)です。居組漁港は、北前線の汐待ちの港として賑わってきたところです。冒頭に書いた係留杭はこの二つの山の間の海岸付近にあります。兵庫県から鳥取県にかけては、このような断層地形がよく見られます。それにしても、箱庭のように美しい風景です。上がってきた甲斐がありました。

来た道を下ります。途中で見た居組の集落です。「居組の地名は『入り組んだ土地』が由来だとも言われ、集落に入ると民家がところ狭しと軒を連ねる」と「案内図」には書かれていました。先ほどレンガの塀から来た道に戻りました。

そこから、左折して漁港の中に入ります。入口にあった「漁港修築記念碑」です。昭和45(1970)年に、それまで、遠浅の砂浜が広がる海水浴場であったところを、漁港に改修しました。

そして、石碑からまっすぐ海に向かったところの大戸の浜に、海水浴場”居組サンビーチ”が開かれました。居組の町は「夏は海水浴、冬は松葉ガニ」で知られて来ました。

居組サンビーチの近くの突堤に停泊していたイカ釣り漁船です。引き返します。

ここが、かつて海水浴場のビーチがあったところにできた漁業協同組合の作業場です。建物の後ろ側を、亀山めざして歩きます。
「案内図」には、「亀山には城跡が残っている」と書かれています。そんな雰囲気を感じる山です。

作業場の建物を越えたところから見た漁港の風景です。不動山が目の前に見えます。「案内図」によれば、「177種以上の植物が自生する」といわれ、「88体の石仏が祀られている」そうです。

海に注ぐ直前の結川(むすぶかわ)に架かる橋を渡って、亀山に向かって進みます。

海の中から設置されたレールが見えました。先日訪ねた、JR鎧駅(「美しい風景とインクラインに会える”秘境駅”JR鎧駅」2018年11月日の日記)にあった「インクラインか?」と思いました。漁船を上に乗せて引き上げる設備なのでしょうか? 

レールの向こう、亀山の麓のあたりまで連なる漁船の近くを歩いて行きます。「立入禁止」の立て札もなかったので、おじゃまにならないように歩かせていただきました。

ここは、亀山付近のようすです。杭だけでなく、平らになった桟橋のようなところもありました。北前船は、江戸時代の寛永年間(1624~1644年)から、日本海沿岸の各地から瀬戸内海を経て大坂に至る海運に就航していました。毎年、7月下旬に蝦夷地を出発し、8~10月にかけて、寄港地で商品の売買をしながら南下し、11月上旬に大坂に着いていたようです。そして、翌年の3月下旬に大坂を出帆し、4~5月に、瀬戸内海から日本海にかけて売買しながら北上し、5月下旬ころ蝦夷地に到着していたようです。

亀山の係留杭があるところから対岸の不動山方面を撮影しました。そこにも、係留杭が残っています。かつては、船溜まりとしてたくさんの北前船が汐待ちをしていました。北前船は、輸送だけをしたのではなく、経由地で商品を売ったり、仕入れたりして、売買をしながら航海を続けていました。大坂に向かう「上り荷」では、肥料になる干鰯などの海産物が主な商品になっていました。北国に向かう「下り荷」は、米、酒、砂糖、塩、たばこ、紙、ろうそくなど多種多様な商品が売買されていたそうです。

結川まで引き返してきました。ここから、居組の集落を歩きます。途中で、女性の方と出会いました。一通りお話したあと、最後に「時間は大丈夫? 駅まで送るよ」、「お腹空いてない? 昼食べていっていいよ!」。「漁村に住んでおられる方は、お互いに助け合うおつきあいだ」とお聞きしたことがあります。「こういうおつきあいを、平素からしておられるのだ。」と思いながら、お礼だけ申し上げてお別れしました。

前方で、道路が大きく右カーブします。この先には、学校再編で廃校になった居組小学校跡。そのグランド脇に、居組の人々の鎮守の神である大歳(おおとし)神社があります。ここは、カーブする手前にあった水門橋です。ここで右折して、再度、居組の集落に入ります。

5mぐらいで福周旅館。その先、左側に西垣商店という看板が掛かったお店がありました。その手前を右折して進みます。

すぐに、もう一つの赤レンガ塀のあるお宅がありました。山陰本線のトンネル工事に従事した人たちが、お世話になった地元の人々へのお礼にと建てたものでした。
  
細い路地の両側に民家が並ぶ入り組んだ通りが続いています。居組の地名のもとになった風景が広がっていました。

”秘境駅”、居組駅から、居組漁港と居組の集落を歩いてきました。居組漁港は、青い空に青い海、箱庭のような風景が広がる美しい町でした。江戸時代を通して行われた、汐待ちをする北前船の人たちとの交流を、今も残る係留杭が伝えてくれています。
また、町の人々が、山陰本線の工事に従事し犠牲になった人たちのために建てた「追悼碑」や、工事に従事した人たちが、お世話になった地元の人々のために建てた「赤レンガの塀」からは、山陰本線の建設を仲立ちとした、人々の豊かな交流のようすもしのぶことができました。













"秘境駅"の木造駅舎がなくなる! JR居組駅

2018年11月07日 | 日記
兵庫県の西北部のJR山陰本線には、牛山隆信氏が主宰する”秘境駅ランキング”にランクインしている駅が4つあります。久谷(くたに)駅と以前訪ねた餘部駅(「JR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅」2017年1月14日の日記)、前回訪ねた鎧(よろい)駅、そして、今回訪ねる居組(いぐみ)駅です。10月下旬、「居組駅が老朽化により建て替えられることになり、11月中旬には工事の準備で(駅舎に)覆いがかかることになる」という趣旨の報道がありました。

木造平屋建て、駅前に庭園がある居組駅の駅舎です。 居組駅は、明治44(1911)、国有鉄道山陰本線の浜坂駅と岩美駅間が延伸開業したときに、開業しました。駅舎は、明治44(1911)年に建設され、補修をしながら1世紀以上に渡って働き続けてきました。無くなってしまう前にぜひ見ておきたいと、この日、先に訪ねた鎧駅(「美しい風景とインクライン跡に会える”秘境駅”、JR鎧駅」2018年11月05日の日記)から居組駅に向かって出発しました。

乗車してきたキハ47系車両の2両編成、ワンマン運転の列車は、居組トンネルを抜けて居組駅の1面1線のホームに停車しました。鎧駅から、浜坂駅での「信号待ち」による10分程度の待ち時間を含めて40分程度かかりました。他には乗降客はおられず、列車は、すぐに次の東浜駅に向かって出発して行きました。

列車が去った後の東浜駅方面です。鳥取県境にある陸上(くがみ)トンネル(全長977m)が見えます。居組駅は、居組トンネルと陸上トンネルの間の、周囲を山に囲まれた狭い平地にある駅です。そして、兵庫県の山陰本線の最北西端にある駅になっています。

居組駅は、兵庫県美方郡新温泉町居組にあります。手前の諸寄(もろよせ)駅から4.4km、次の鳥取県東浜駅から3.3kmのところにありました。居組駅は、”秘境駅ランキング”の119位(2018年)にランクインしています。主宰されている牛山隆信氏は、秘境度4ポイント(P)、雰囲気5P、列車到達難易度5P、外部到達難易度3P、鉄道遺産指数2Pの総合19Pと評価されています。特に、「雰囲気5P」とされているとおり、”秘境駅”の雰囲気を強く感じる駅でした。牛山氏は、2000年頃の居組駅について、「周囲に見える人家は3軒に過ぎず、集落から細い車道を600mほど上がったところにある。だが、そんな小駅に似つかわしくない瓦葺屋根の立派な駅舎、交換設備と側線を備えた広い構内、さらに駅前には池をあしらった洒落た純日本風の箱庭が、鉄道全盛期の栄華を物語っていた」というコメントを寄せておられました。

こちらは、陸上トンネル側から見たホームです。線路の右側にスペースがあります。見えにくいのですが、かつては島式ホーム(今も残っています)の両側に線路がある、2面3線のホームになっていました。列車のすれ違いや追い越しのための停車に、また、最寄りの海水浴場に向かう乗客のための臨時列車の停車にも対応していたようです。また、2つのホームは跨線橋でつながっていました。平成20(2008)年、島式ホームと跨線橋が閉鎖され1面1線の運用になりました。そして、平成25(2013)年には、跨線橋も撤去されています。

駅舎に接するホームから見た右側のようすです。草むらの中にレールが残っていました。2線目のホームは撤去されていましたので、島式ホームの右側のレールなのかもしれません。

駅舎よりさらに先に、かつての島式ホームが残っていました。その手前のレールは撤去されています。雑草に覆われているのが残念でした。

駅舎とホームの上屋です。建設から1世紀を超えた建物です。

こちらは、諸寄駅方面のようすです。駅舎に接したホームの脇の引き込み線には、保線工事用車両が停車していました。冬場には、ここを除雪用の車両が使用しているそうです。また、昭和46(1971)年に居組駅での貨物の取扱いが終了するまでは、貨物列車が引き込み線を使用していたそうです。

引き込み線に停車していた保線工事車両です。側面に、”Plassere & Theurer (プラッサー アンド トイラー) ”と書かれていました。オーストリアの保線工事用重機のメーカーが製造した車両です。様々な機能を持つ車両が、世界の100ヶ国以上で使用されているそうです。

駅舎側です。駅舎の手前に、木造駅舎とは不釣り合いな、新しい待合室のような構造物が置かれていました。

駅舎の上屋を支えている一番手前の木製の柱です。

柱の上方に貼ってあった建物財産標です。「旅客上屋2号 明治44年3月」と記されています。

上屋や壁面だけでなく、木製の窓枠が使われた駅舎の窓とその先にある木製の改札口の一部も、往事の姿を伝えています。写真の一番右端に、柱に貼られているプレートが見えます。

貼られていたプレートがこれです。本屋の建物財産標と本屋の屋根管理表です。本屋にも「明治44年3月」と記されています。また、本屋の屋根については、平成13(2001)年に改修されたことが記されています。牛山隆信氏は、明治時代につくられた駅舎について、「一見すると同じような木造駅舎でも、昭和中期までに建てられたものと、明治・大正のそれとは造りが微妙に異なっている。明治時代の駅舎には、神社・仏閣で培った独自の文化と技術を随所に取り入れており、小さな装飾の一つ一つから、職人の意地と頑固さが伝わってくる」という感想を寄せておられます。この駅の長い長い歴史を感じることができました。

木製の改札口から駅舎に入ります。

駅舎内です。かつての駅舎でよく見かけた、つくり付けのベンチがありました。

つくり付けのベンチの反対側です。ベンチと掲示物があります。それ以外には、自動券売機など特別の設備もないシンプルな造りの駅になっていました。ただ、カウンターも残っていましたが、人の手で使い込まれテカテカ光っているものではありませんでした。

駅舎内にあった時刻表です。かつては、多くの地元の人たちが通勤・通学に使っていたようですが、平成24(2012)年3月17日のダイヤ改正からは、一部列車が通過するようになりました。現在は、早朝と12時台に各1本、夜間に2本、計4本の普通列車が居組駅を通過しています。1日平均の乗車人員は、11人(2016年)という状況です。

一番気になっていたのが、この掲示物「お知らせ」です。11月10日から、いよいよ、老朽化対策として、駅舎の建て替えに向けた動きが始まります。駅舎は鉄筋コンクリート造りになり、待合室を備え、ベンチや電子表示板が設置されるようになる予定です。

新しい駅舎が完成するまでは、駅舎の脇に置かれていた構造物が、待合室として使われるようになるそうです。

駅舎から出ます。手書きの駅名標です。これは、今後どうなるのでしょうか? どこかに残してほしいと願っている人も多いのではないでしょうか? 

駅前広場から見た居組駅です。兵庫県の北西端の山深いところという周囲の雰囲気に溶け込んでいるようにも感じます。駅舎前の両側に設けられている庭園の緑が印象的です。中には小さな池や石灯籠も(今は、水はなく、石灯籠も破損していましたが)、つくられていました。また、樹木の手入れも丁寧になされていました。
地元の人たちの要望によって、駅舎が建て替えられても、この庭園は残されることになっています。

駅前はさほど広くはないのですが、かつて、貨物用の倉庫が置かれていたのか、引き込み線の脇には広い更地が残っています。駅舎の建て替えのときに、幅広く利用されることでしょう。

駅舎に向かうただ一つの道路から、駅舎方面を撮影しました。麓の集落から坂道を上がった先に駅舎がありました。この道を反対方向に向かってまっすぐ進むと、居組漁港に行くことができます。なお、珍しい「居組」という駅名(地名)については、駅舎内の掲示物には、「『入り組んだ土地』が地名の由来ともいわれ」、少し離れた海岸沿いの「集落に入ると、民家が所狭しと軒を連ね」ていると書かれていました。

駅舎の右側の白い建物の右側のスペースには、かつて、トイレの設備がある建物がありました。今は、駅舎にトイレは設置されていませんでした。

「1世紀を超えて、多くの乗客に親しまれてきた居組駅舎が建て替えられる」というニュースを見て、その姿を見ようとやってきました。 ”秘境駅”のイメージ通りの駅であったことが、とてもうれしいことでした。
牛山氏のご指摘のように、職人の意地や技術が込められている明治時代の駅舎には、一日でも長く現役でいてほしいと、改めて思った旅でした。
長い期間、この地を見守って来た古い駅舎が無くなるのは、地元の人たちにとっても寂しいことだと思います。そんな地元の人たちの思いに応えるような駅をつくってほしいと思っています。どんな駅ができるのか、新しい駅舎が完成したら、また訪ねてみようと思っています。







美しい風景とインクライン跡に会える”秘境駅”、JR鎧駅

2018年11月05日 | 日記

リアス式海岸にある兵庫県西北部の波静かな入り江と、鎧(よろい)漁港が見えます。JR山陰本線鎧駅の海側のホームの先から見た眼下の光景です。この雰囲気からもわかるように、鎧駅は、牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の159位(2018年)にランクインしている”秘境駅”です。鳥取市に行く機会がありましたので、この日、足を延ばして訪ねて来ました。

鳥取駅から城崎温泉行きの普通列車に乗車しました。キハ47系車両の2両編成、ワンマン運転の列車でした。「鎧」という珍しい駅名は、「鎧袖(よろいのそで)と呼ばれる切り立った崖の名前に由来しており、その崖は、武士の鎧の袖に似た縞模様の海食崖(かいしょくがい)」(「海駅図鑑」清水浩史著 河出書房新社刊)だといわれています。

多くの乗客が餘部(あまるべ)駅で下車しました。餘部駅は以前訪ねました(「JR山陰線の”秘境駅”、餘部駅」2017年1月14日の日記)。急に空席が増えた列車は、赤島トンネル(173メートル)を抜けて、次の鎧駅に着きました。途中の浜坂駅での「信号待ち」による10分程度の停車時間を含めて1時間15分ぐらいかかりました。進行方向の右側、駅舎に接した1面1線のホームに降り立ちました。やがて、乗車する人もいないまま、列車は次の香住駅に向かって出発して行きました。

鎧駅は、兵庫県美方郡香美(かみ)町香住(かすみ)区鎧にあります。餘部駅から1.8km、次の香住駅まで5.4kmのところにあります。鎧駅が開業したのは、明治45(1912)年3月1日。 国有鉄道山陰本線の香住駅から浜坂駅間が、延伸開業したときでした。

ホームから見た構内のようすです。かつては2面2線のホームをもつ駅だったようですが、平成24(2012)年に1面1線のホームとなり、海側のレールも撤去されました。正面に見えるのは地下道の出入口です。海側のホームは使用されていませんが、地下道は使用されています。線路の向こうは通ってきた赤島トンネル。右側には海側のホームに上がる地下道の出入口が見えます。鎧駅は、平成13(2001)年冬に、これに近いアングルで「青春18きっぷ」のポスターになったことがありました。そのときのポスターには「なんでだろう、涙がでた」というコピーが添えられていました。

長いホームを餘部駅方面に歩いて、駅舎方面を撮影しました。ホームの右側に貨物側線のあったスペース(2線分)が残っています。その左には、下見板張りの壁のある、漁村に多くみられる民家が3棟並んでいます。

ホームから駅舎に入ります。入口に使用済み切符の回収箱がありましたが、今では、列車の中で精算が完了しますので、ほとんど使われることはないようです。

駅舎に入るとすぐ左側にトイレがありました。手入れの行き届いたきれいなトイレです。”秘境駅”に来て、きれいなトイレに出会えるとうれしくなります。

掲示してあった「鎧自治会」の方からのメッセージです。駅舎の美化にも努めてくださっています。

右側の待合室です。ベンチが置かれていました。

ベンチの間にあった「駅ノート」です。「JR山陰本線 鎧駅 らくがきノート 海の見える駅から」と表紙に書かれています。やはり、海を見下ろす風景に魅せられてやってくる人が多いようです。

待合室にあった時刻表です。平成24(2012)年のダイヤ改正によって、午後の2本の普通列車がこの駅を通過することになりました。鎧駅を訪ねるには、少し不便になりました。

駅舎から、駅前広場に出ました。

左の建物は「鎧区倉庫並自主防災資材庫」でした。駅前には、10件程度のお宅が並んでいました。

海側のホームです。ホームの壁に「停車場中心 187K020M」と書かれているのが見えました。

海側ホームの地下道の出入口から出ました。ホームからレールのある高さに下りる階段がありました。

海側のホームから見た駅舎入口付近です。白を基調にした美しい駅舎が見えました。

海側のホームの裏にあった「天然記念物 釣鐘洞門」の碑です。「西北海上三十町」にあるそうです。昭和5年3月30日の日付が刻まれていました。背景には、遙かな日本海。「海を見下ろす駅として、ドラマ『ふたりっ子』や『砂の器』のロケ地としても使われた」と、駅の待合室にあった掲示には書かれていました。続けて「入江は風よけ地となり、古くから天然の良港として栄えたそうだ」とも・・。そんな風景を眺める人のために、海に向かってベンチも設置されていました。

鎧駅は、海抜39.5mの切り立った崖の上に設置されています。
鎧漁港に下りることにしました。海側の地下道の出入口から延びる通りです。通りの左側にある倉庫風の建物の向こう側を左折して下っていきます。空が黒くなり、雨が降って来そうな天候です。

美しい入江の風景と鎧漁港を見ながら下っていきます。

道はジグザグに折れ曲がっていて、海の方向に歩く区間になりました。

突きあたりで方向転換するところ、その左側に、上に向かって延びる石製の構造物が見えました。昭和26(1951)年に建設されたインクライン(傾斜鉄道)の跡です。この上にレールを敷いて、鎧漁港に水揚げされた海産物を、ケーブルでつながれた台車で運び、鎧駅まで引き上げていたそうです。駅舎にあった掲示物には「最盛期には三日三晩、大漁のサバを積んだ貨物列車が往復していたそうだ」と書かれていました。

これは、京都市に復元されている「蹴上(けあげ)インクラインの台車」です。蹴上インクラインは、蹴上船溜まりと南禅寺船溜まりを結んでいました。勾配のある水路にレールを敷いて船ごと台車に載せて、ケーブルで引き上げていました。鎧駅のインクラインとは方式が異なっていましたが、最も広く知られているインクラインです。

こちらは、海側です。下にある入り江に直角に建てられた建物まで、石製の構造物は続いています。

高い所は雑草に覆われて見えないのですが、建物につながっていたことがわかります。

ジグザグの道を今度は反対方向に向かって下っていきます。正面に墓地がありました。駅舎にあった掲示物には「海の見える墓地は『極道の妻たち』のロケ地になった」と書かれていました。

前に漁船が見えます。鎧漁港に着きました。

浄化センターの建物を過ぎると、先ほど上から見た建物がありました。インクラインの遺構が建物から上に向かって延びており、鎧駅のホームのある高さまで続いていました。

鎧地区の集落です。入江の奥まったところに30軒ほどのお宅が並んでいます。

先ほど左折して下った倉庫風の建物まで、引き返して来ました。地下道の海側の出入口の前です。階段の左側に小さな物置のような建物があります。

これがその建物です。インクラインの終点付近です。このあたりでケーブルを引っぱっていたのではないかと思われます。海産物を降ろして、構内踏切を使って駅舎の脇の貨物側線まで運び、貨車に積み込んでいたのではないでしょうか?

インクラインの終点付近を海側から撮影しました。少し破損されていますが、かつての姿を思い起こすことができます。

この写真は、駅舎の脇の貨物側線があったスペースを撮影したものです。モータリゼーションの発達により、明治45(1912)年の開業時から半世紀を超えて行われて来た貨物輸送も、幕を閉じる時期がやって来ていました、鎧駅での貨物輸送が終わったのは、昭和45(1970)年12月15日のことでした。そして、このときから、鎧駅は、無人駅になってしまいました。


”秘境駅ランキング”の主催者である牛山隆信氏は、鎧駅を、総合13ポイントで秘境駅ランキングの159位(2018年)に位置づけておられます。その内訳は、秘境度1ポイント(P)、雰囲気3P、列車到達難易度5P、外部到達難易度3P、鉄道遺産指数1Pになっています。やはり、列車で訪問するのが難しいということにより、秘境駅にランクインしているようです。美しい海の風景と、地域の人たちの生活の歴史を伝えるインクライン跡に出会える、印象に残る駅でした。
ただ、滞在中に、地元の人たちに出会うことがなかったことが、本当に心残りでした。