トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR庭瀬駅から庭瀬往来を歩く

2021年06月24日 | 日記
JR庭瀬駅前にあった庭瀬の観光地図です。前回は庭瀬城跡と撫川(なつかわ)城跡を訪ねました。 今回は、庭瀬往来を歩きながら、庭瀬の町に残る歴史遺産を訪ねることにしていました。
地図に赤で示された通りが庭瀬往来です。庭瀬往来は、江戸時代に岡山藩が整備した六つの官道の一つで、岡山城下と岡山新田藩(鴨方2万5千石)の陣屋のある鴨方を結ぶ鴨方往来の一部になっています。鴨方往来は、鴨方の先の笠岡、広島県の福山までも含めて呼ばれることもあるようです。
庭瀬往来は、庭瀬近辺では、JR山陽本線の庭瀬東踏切から西に向かい、庭瀬駅前の交差点を直進し、庭瀬城跡を迂回して、北に向かうルートになっています。そして、町の西側を流れる足守川を渡って、倉敷市の下庄へとつながっています。 
JR庭瀬駅から北に向かって進みます。

庭瀬駅前から70mほど歩くと左前方にローソンがある交差点に出ます。庭瀬往来に合流しました。交差点を左折して進みます。

ローソンの駐車場を過ぎると、駐車場の手前に横断歩道があります。ここを、右折します。
庭瀬往来は、庭瀬陣屋や撫川陣屋を迂回するルートになっていました。横断歩道の脇にある「観音堂」で右折して、北に向かって進みます。

通りの両側には、住宅が広がっています。狭い通りと、虫籠窓となまこ壁のあるお宅が、旧街道の雰囲気を伝えてくれています。

岡山県道162号岡山倉敷線(旧国道2号)の手前に栄町公民館がありました。ここで左折します。

閑静な住宅地の中を西に向かって進みます。関ヶ原の戦いの後、庭瀬には戸川達安(みちやす)が2万9200石で藩主として入りました。庭瀬城跡に陣屋(居館・藩庁)を設け陣屋町を整備しました。 しかし、戸川氏は4代藩主安風が9歳で早世し、嗣子がなく改易となりました。 その後、庭瀬藩は、久世氏、松平氏の支配を経て、元禄12(1699)板倉重高が庭瀬藩2万石の藩主となり、明治維新まで、板倉家がこの地を支配することになりました。
左側にあった日蓮宗寺院の中正院を見ながら進みます。
栄町から本町に入りました。往来の右側に「誠意館」と「木門跡」の説明がありました。 「誠意館」は庭瀬藩の藩校でした。庭瀬藩主板倉家の初代、板倉重高が「学館」と呼ばれる藩校を藩邸内に創設し、儒教、和漢の歴史、詩文、筆算などを教材として、藩士の子弟の教育に使用していました。7代藩主勝資のときに「誠意館」と改称し、天保12(1841)年、8代藩主重貞のとき、誠意館を「武芸場」と「文芸場」に分けて、「文芸場」をこの本町に移したそうです。
木門は、「閂(かんぬき)のある木の門で、町の警備のため、陣屋、夜間、緊急時には閉じられた」と、「説明」に書かれていました。

往来にあった「庭瀬藩宿場施設」の説明です。中で黒い点で示されたところに木門があったようです。右側の3の黒点が「説明」のあったところになります。当時は、夜間や緊急時には、ここで庭瀬往来は閉じられていたようです。

往来の左側の更地になっている所から、大きな常夜灯が見えました。旧庭瀬港に再建された本町常夜灯です。

庭瀬往来の右側の電柱に、カーブミラーとともに「旧庭瀬港260m 庭瀬城跡130m 撫川城跡 570m」と書かれた案内がありました。ここで左折します。
左折して進みます。外壕に架かる橋の手前に「大手門」と書かれた石碑がありました。左側の石碑には「庭瀬城」と書かれています。庭瀬往来に向かって開かれていた庭瀬陣屋の大手門に続く通りでした。その先は、庭瀬城跡の内壕につながっています。

大手門の石碑があった橋の左側の光景です。庭瀬港が公園風に整備されています。手前に、荷物の積み降ろしに使用していた石段である雁木(がんぎ)が、一部復元されています。往来から見えた本町常夜灯は、この通りの先にあります。                 

旧庭瀬港にあった寛文年間(1661年~1672年)の庭瀬陣屋町の絵図です。絵図の下側にある青色の部分は足守川ですが、「この河岸には瀬戸内海を航行する船が出入りし、庭瀬藩や足守藩の年貢米の積み出し港になっていた。そこで、積み荷を海船から小舟に積み降ろし、この庭瀬港に運んでいたため、雁木や常夜灯が設けられた」と「説明」に書かれていました。 
なお、絵図の上部を、東から西に向かい南西にカーブしている赤いラインが庭瀬往来。絵図の北部から庭瀬往来をくぐって南に下る川は法万寺川。この川が東に向かっているところが旧庭瀬港です。

雁木のあるところから常夜灯に向かう途中にあった道標です。かつて、庭瀬往来沿いに設置されていたものです。右側に「おか山道」、左側に「吉備津 ゆが 倉しき 玉嶋」と刻まれています。「安政六龍舎已未年九月吉日建立」(1859年)の銘がありました。

旧庭瀬港を東に向かって進み、常夜灯の脇まで来ました。大手門方面の光景です。常夜灯は、荷物の積み降ろしに入港する船のために、1700年代につくられたそうです。  しかし、多くの船で賑わっていた庭瀬港も、明治24(1891)年に山陽鉄道が開通したことによって、しだいに賑わいを失って行きました。そして、昭和30年代には水路が埋め立てられ、常夜灯も、昭和29(1952)年の暴風雨でダメージを受け、取り壊されてしまいました。 
その後、常夜灯は、平成19(2007)年に、「当時の常夜灯の石積護岸の一部と約3m四方の基礎(地伏石)を使用して」再建されました。かつての庭瀬港の景観が復元されています。
常夜灯の手前の道を左(南)に進みます。

左側のNPOの建物の脇に、松林寺がありました。臨済宗東福寺派の寺院で、元禄15(1702)年に、庭瀬藩主板倉家の菩提寺となり現在の地に移ってきたそうです。

庭瀬往来に戻り、さらに西に向かって歩きます。右側に「麹」「ひしお もろみ 味噌 でんがくみそ」と書かれた看板が見えました。「合資会社 川野屋商店」の看板もありました。 
川野屋商店の向かい側にあった薬屋だったお宅です。 「薬」と刻まれた木の吊り下げ看板が残っていました。

その先の交差点です。旧庭瀬港に移されていた「道標」は、もとは、右側の斜めの塀の前に設置されていたそうです。道標には、手前が「おかやま道」方面を、前方が「こんひら ゆか 倉しき 玉嶋」方面を、右が「吉備津・まつ山・足もり・板久ら」方面を示すように建てられていたそうです。
海の神として信仰を集めていた金毘羅宮への参詣が全国的に流行したのは、江戸時代後期の文化・文政時代(1804年~1829年)の頃からで、由加神社との「両参り」で、庭瀬往来も多くの参詣者で賑わっていました。 ここから右に進み吉備津神社に向かう人や、吉備津神社方面から由加神社・金毘羅宮に向かう参詣客も利用した通りでした。

さらに西に向かって進みます。右側に信城寺(日蓮宗)がありました。白い土塀の上に常夜灯の上部が見えました。土塀の前には「高札場」の説明板が見えます。高札は、幕府や藩の禁令を板面に墨書きして掲示していたもので、庭瀬往来の「東西の陣屋入口付近に設けられていた」(説明)そうです。

信城寺の先には法万寺川がありました。橋の上にあった「説明」では、「総社市で高梁川から取水された農業用水が、足守川を経由して流れて来ており、庭瀬陣屋の外壕としての役割も担っていた」そうです。また、この水路は庭瀬港への水運にも利用されていました。備中南部の物資の集散地としての庭瀬の発展を支えた川でした。 川のほとりに立つのは、常夜灯の説明板でした。
法万寺川は、庭瀬と撫川を分ける境川だったそうです。この常夜灯(文化2(1805)年の銘がありました)は、もとは、説明板のあるところにあったそうですが、歩道を設けるために、法万寺川を挟んだ信城寺の境内に移設されたそうです。「最上部の宝珠の先まで地上高4m」といわれている立派な常夜灯でした。
撫川の町並みを進むと、庭瀬往来が緩やかに右にカーブします。左側のお宅の向こう側は・・・

庭瀬往来沿いの史跡の案内や歴史を紹介する通りになっていました。 案内板だけでなく、歩道に置かれた石の上にも掲示してありました。庭瀬陣屋町の成り立ち、庭瀬往来と陣屋町の賑わい、常夜灯や道標、神社・仏閣などについての説明が丁寧になされていました。

案内板にあった地図です。ここから町の西側を流れる足守川までのルートが示されています。図中の薄いグリーンの区画には、案内の石が置いてあり、「町並み歴史ギャラリー」と呼ばれています。

その一角にあった真言宗寺院の観音院です。岡山県では、「日本三大奇祭」の一つとされる岡山市にある西大寺観音院の会陽(えよう・裸祭)がよく知られていますが、この観音院でも、昭和の初めまで会陽が行われていました。
「説明」によれば、「寒行の列は、旧撫川大橋のたもとまで来て、足守川で水垢離(みずごり・水行)を取って、観音院まで引き返して来て、宝木(しんぎ)の争奪戦が行われていた」とのことでした。

その先の交差点に来ました。緑に覆われたところには・・

住吉神社と、その先に應徳寺がありました。住吉神社は「海の神 住吉神社の分社」とされ、「天保年間(1830年~1843年)、吉岡屋新助守端が大坂、住吉神社の分霊を祀り海路の守護神として社殿を建てた」(説明)と書かれていました。また、應徳寺は、寛文9(1969)年に、撫川知行所(5000石の旗本領)の戸川安宣が伽藍を修復して復興したそうです。

往来の左側に、金比羅道標(上の地図の道標E)がありました。この道標は 撫川の「應徳寺の道標」と呼ばれています。 左面には「金毘羅 ゆが 倉しき 玉島 かさ岡」と、右面には「吉備津 大阪 岡山」と、また、裏面には「安政六己未年星舎九月吉祥且建之」(1859年)と刻まれていました。
様々な地域から由加神社・金毘羅宮をめざす参詣者は、この道標から先は、ほぼ同じようなルートで進んで行きました。そのため、この道標は、「金毘羅往来の起点」といわれています。 また、金毘羅往来も岡山藩が整備した岡山六つの官道の一つとされています。

道標からさらに進みます。庭瀬往来と金毘羅往来は、この先で、左にカーブします。

カーブして進みます。庭瀬往来は、突きあたりで右折して、足守川に向かっていました。正面のお宅の前に道標(上の地図の道標D)がありました。
道標です。「右 たましま 下津井・・」と書かれています。鴨方往来の玉島方面と金毘羅往来の下津井方面が示されています。

突き当たりの手前、左側に、大橋中之町公民館がありました。公民館の敷地内に、「慶応4年」の銘のある大橋常夜灯と親柱が見えました。常夜灯の正面には「金毘羅大権現」と刻まれています。この常夜灯は、平成19(2007)年に、公民館に移設され、復元されたものです。

大正5(1916)年に、足守川に旧撫川大橋(上の地図参照)が架けられました。「長さ拾弐間(約22m)、幅七尺」の橋だったそうです。その旧撫川大橋のたもとに、それ以前からあったのが、大橋常夜灯と親柱でした。

大橋中之町公民館から、足守川の堤まで歩いて来ました。
「説明」によれば、旧撫川大橋は、昭和43(1968)年に、少し南の現在地に、架け替えられることになり、新しい「大橋」(上の地図参照)が完成しました。この時に、「旧撫川大橋の西側にあった常夜灯は撫川西地区に、東側にあった常夜灯は中撫川の須佐之男神社に移され」、解体保存がなされていました。また、親柱は、この時に、現在地の大橋中之町公民館に移設されました。 現在、公民館に残る常夜灯は、旧撫川大橋の東側にあった常夜灯で、平成19(2007)年に、須佐之男神社で保存されていたものを復元したものです。

石段を上って足守川の堤に上がりました。長い河原の向こうに対岸が見えました。このあたりに、旧撫川大橋が架かっていたのでしょう。

旧撫川大橋があったところの左(南)側に、昭和43(1968)年に架けられた「大橋」が見えました。 

庭瀬(鴨方)往来は、この先、倉敷市内の下庄、松島、中島を経て、西阿知で高梁川を渡り鴨方へとつながっていました。一方、金毘羅往来は、この先、早島、茶屋町、藤戸を経て由加神社から下津井へとつながっていました。

JR庭瀬駅と庭瀬城跡を訪ねる(2)

2021年06月08日 | 日記
JR庭瀬駅前にあった史跡案内図です。
庭瀬駅から比較的近いところに撫川城跡と庭瀬城跡が描かれています。
また、赤で示されたルートは庭瀬往来で、江戸時代に、岡山城下から西の鴨方・笠岡に向かう街道として整備されました。案内図では、庭瀬駅前の北から右(東)側の部分が途切れていますが、まっすぐ庭瀬東踏切に向かっていました。
この日は、庭瀬東踏切から、撫川城跡と庭瀬城跡を訪ねて来ました。
内濠に囲まれた庭瀬城跡です。

こちらは、撫川城跡です。現在は、「撫川城址公園」になっています。
城跡といえば、近世の城郭があったところと思いがちですが、庭瀬城も撫川城も、江戸時代にそれぞれの地を統治した大名と旗本の陣屋があったところです
スタート地点のJR山陽本線の庭瀬東踏切に来ました。 踏切の北側から南東部を撮影しました。山陽本線の起点、兵庫県の神戸駅から「149K629M」のところにあります。

庭瀬東踏切を渡って南側に来ました。歩道に「庭瀬往来」と書かれた案内板がありました。その先の掲示板の隣に「大覚大僧正」の石碑や「南無妙法蓮華経」の題目石が見えました。街道筋らしい雰囲気を感じます。

庭瀬往来は、江戸時代に、備前岡山藩が、岡山城下を中心に放射状に整備した岡山六官道の一つ、鴨方往来の一部とされています。鴨方往来は、岡山城下と鴨方を結ぶ街道といわれていますが、その先の笠岡や備後国の福山までも含めて鴨方往来と呼ぶ説もあるそうです。 西に向かう街道といえば、山陽道(西国街道)がよく知られていますが、山陽道はもっと北の内陸部を通っていたのに対し、鴨方往来は海岸に近いところを通っていたため、「備中浜街道」とも呼ばれていました。

民家との間にあった北向地蔵菩薩のお堂です。このお堂は、「平成27(2015)年に南に移されて」(説明)現在の地に祀られているそうです。   「境の神」とか「道の神」といわれる道祖神は、峠や村境、分かれ道や辻などの街道の路傍に祀られていて、村の外からやって来る疫病や悪霊を防ぐ神とされています。この北向地蔵菩薩は、そんな「道祖神の役割を果たしてきた」と「説明」には書かれていました。

「庭瀬往来」の説明板が立つ前の通りが、かつての「庭瀬往来」です。江戸時代、岡山城下町をめざす旅人は、写真の左側(踏切)から、左折してこの通りに入り、向こう側に向かって進んでいました。

庭瀬東踏切から庭瀬往来を通って庭瀬城跡に向かうことにしました。踏切を左から右へ渡るとすぐ左折して、線路に沿って進みます。庭瀬往来は、鉄道の橋梁に「折違川開渠」と書かれたところから線路を離れて進むことになります。

通りの右側、消防団の「吉備第一分団(平野)」と書かれた消防機庫の脇に、庭瀬東踏切にもあった「大覚大僧正」の石碑と題目石がありました。 ”備前法華と安芸門徒”といわれるように備前の国は法華宗(日蓮宗)の信徒の多いところです。備前の国に法華宗の教えを初めて伝えたのが大覚大僧正でした。

消防機庫の前に神社がありました。ふり返って撮影しました。

神社の拝殿の前に、「従是西備中国・・・」と刻まれた国境石がありました。下の部分は植物に覆われていて読めませんでした。 庭瀬も撫川も、備中国の村でしたが、備前と備中の境(境川)はもっと東にあり、移設されたものと思われますが、ここに置かれている経緯を、確認することはできませんでした。

庭瀬往来をさらに進みます。旧街道の雰囲気を感じながら進むと、駅前の交差点に着きました。

交差点の左側です。JR庭瀬駅の白い駅舎が見えました。

交差点の右前方にローソンがありました。通りの左側には道標がありました。道標の「庭瀬城跡・撫川城跡・庭瀬往来」と書かれている西方向に、まっすぐ進んで行きます。 

ローソンの駐車場を過ぎると、右前方に駐車場のマークと、その手前に横断歩道が見えました。
横断歩道から見た右側のようすです。すぐ脇に「観音堂」がありました。庭瀬往来は、ここで右折して、庭瀬城や撫川城を迂回するために北に向かうルートになっていました。 「説明」によれば、観音堂は、江戸時代の寛文年間(1661年~1672年)の古地図には「堂」と書かれているそうです。観音菩薩をお祀りしており道祖神の役割を果たして来たそうです。入口にある「観音堂」の揮毫は庭瀬藩士、岩月氏の末裔の方の手によるものだそうです。
庭瀬城跡へは、通りをまっすぐ進み、枡形になっているところを過ぎて進むことになります。また、撫川城跡へは、庭瀬城跡からさらに西に進み、南に迂回して進むことになります。
庭瀬往来との分岐点からまっすぐ進み、枡形になっているところに着きました。ここで右折し、すぐ先で左折して進みます。通りの右側の住宅の裏には、お寺や墓地(寺中屋敷)が広がっていました。
正面に、庭瀬城の内壕と庭瀬城跡に建つ神社が見えるようになりました。
庭瀬城は、戦国時代に備中で勢力を伸ばしていた備中松山城主、三村元親(生年不詳~天正3年6月2日=1575年7月9日没)によって、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築かれたと伝えられています 。

庭瀬城は、天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城水攻めの時、毛利側の「境目七城」の一城として、毛利氏の家臣が守っていましたが、激戦の末に秀吉軍に敗れました。その後は備前の宇喜多氏の領有となり、重臣である岡利勝が入城しました。庭瀬城は、現在の撫川城址のあたりまであったといわれており、その時に整備された「本壇(ほんだん)」は現在の撫川城跡で、庭瀬城跡は二の丸として整備されたそうです。江戸時代以前には、本丸を「本壇」と呼んでいたようです。 
壕に架かる橋を渡って庭瀬城跡に入ります。
その後、関ヶ原の戦いの後、宇喜多秀家(直家の子)は改易となり、慶長7(1602)年、宇喜多家の重臣だった戸川肥前守達安(みちやす)が、庭瀬藩主(2万9200石)としてこの地に入りました。達安は、宇喜多家で国政を任されていた重臣でしたが、宇喜多秀家の下で起きた”お家騒動”(宇喜多騒動)により、宇喜多家を辞し、徳川家康の家臣となっていました。そして、関ヶ原の戦いでの戦功が認められ、この地を治めることになりました。達安は、それまでの撫川城の二の丸(庭瀬城跡)を改修し、清山(すがやま)神社の南側に庭瀬陣屋(居館・藩庁)を設け、この地を治めました。

庭瀬城は、足守川の河口に広がる沼地に築かれました。付近の地名から「芝場城(こうげじょう)」ともいわれています。 寛永4(1627)年に庭瀬藩の初代藩主、戸川達安が没し、寛永5(1628)年に戸川正安が2代藩主に就任すると、弟(達安の第三子)の安尤(やすもと)に早島3400石、弟(達安の第4子)の安利に帯江3300石を分知しました。さらに、寛文9(1669)年に、3代藩主を継ぐ安宣の弟の安成にも、妹尾1500石を分知しました。その後、4代藩主になった安風も、延宝3(1675)年に弟の達富(みちとみ)に1000石を分知しました(撫川城址整備委員会・下東城之内町内会作成のパンフより。以下「パンフ」)。 安風は、延宝3年当時は5歳であり、分知は本人の意思ではなかったと思われますが・・。 
こうして、庭瀬藩主戸川家は、4代藩主安風の時代には、2万石の大名になっていました。

神社前には、「庭瀬城址」と刻まれた大きな石碑がありました。また、神社には「八幡宮」と「辨(弁)天宮」と書かれた額が架けられていました。
庭瀬藩の4代藩主、戸川安風は、延宝7(1679)年に9歳で没し、戸川家は嗣子がなく改易となりました。 そのため、この地は天領となり、倉敷代官所の支配を受けることになりました。
その後、戸川家では、安風から1000石を分知されていた弟の達富(みちとみ)が、4000石加増されて5000石の交替寄合(旗本)として名跡を継ぐことが、江戸幕府に認められ、撫川城跡に陣屋(撫川陣屋)を設けて治めることになりました。
「八幡宮」「辨天宮」の額がある神社の先は公園風の広場になっており、そこに、もう一社、史跡案内図に「清山(すがやま)神社」と書かれた神社がありました。戸川達安は、この地に入ったとき、清山神社の南側(現在は住宅地なっているところ)に庭瀬陣屋を設けていました。清山神社の本殿の背後に収蔵庫と思われる白い建物がありました
一方、戸川安風が早世し、嗣子がなく改易された後、天領となり倉敷代官所の支配になっていた庭瀬藩には、天和3(1683)年に久世重之が上総国関宿藩から5万石で入封し、再び庭瀬城跡に陣屋を構えました。

しかし、久世重之は、3年後の貞享3(1686)年に丹波国の亀山藩に転封となりました。その後、元禄6(1693)年に、松平信通が大和国興留藩から3万石で入封しましたが、4年後に出羽国上山藩へ転封となりました。そして、元禄12(1699)年、板倉重高が2万石で庭瀬藩主となり、上総国高滝から、庭瀬陣屋に入りました。 板倉家は、その後、明治の廃藩置県まで、庭瀬陣屋を舞台に、11代172年間にわたって、この地を治めることになりました。

板倉重昌・重矩を祭る清山神社に来ました。右側に「庭瀬城址」と書かれた石碑が見えます。 庭瀬往来にあった「町並み歴史ギャラリー」にあった神社仏閣の「説明」によれば、庭瀬藩板倉家の3代藩主の勝興が、寛政5(1793)年に板倉家中興の祖、板倉重信・重矩を祀る清山神社を建立し、歴代の遺品を収蔵しました。収蔵品は、現在、岡山市立吉備公民館に移されているそうです。神社は「東向きで、拝殿、幣殿、本殿の2棟に分けられ、本殿は宝物を保管していたので、白壁・土蔵造りにしている」(説明)そうです。 

板倉家は、徳川家譜代の大名で、清山神社に祀られている板倉重昌は、慶長14(1614)年の大阪冬の陣のとき、豊臣方との交渉にあたったことでよく知られています。また、寛永14(1637)年の島原の乱では、乱鎮圧の上使となって、嫡子、重矩とともに出陣しました。翌年、総攻撃の命令を出し、自ら板倉勢を率いて突撃したとき、銃弾があたり戦死したことでも知られています。
嫡子の板倉重矩は、その後、老中や京都所司代をつとめるなど、幕府の中枢で活躍した人でした。 

庭瀬の町の中にあった案内図の一部です。説明には「庭瀬城周辺を古地図から想定し現在の地図に重ねた図」と書かれていました。地図中にある「戸川土佐守」は庭瀬藩2代藩主の戸川正安であり、正安の時代の庭瀬陣屋を表しています。陣屋は、六つの建物からなり、南側には池のある庭園や茶室が設けられていたようです(町にあった説明より)。
しかし、陣屋があったところは、今は住宅地になっており、当時の面影を伝えるものは、「庭瀬城址」の石碑だけになっていました。

撫川城跡に向かうことにします。図の中で「清山神社」と書かれているところから西に向かい、法万寺川の先で南に迂回して進んで行きます。
上の案内図に「清山神社」と書かれている通りに出ました。
庭瀬城跡の内濠の中に「大賀ハス」の植栽がありました。庭瀬地区の北にある川入地区出身の大賀一郎氏は、昭和26(1951)年、千葉県検見川の旧東京帝大厚生農場の泥炭層から、2000年前の古代ハスの実を3粒発見し、その中の1粒の発芽に成功しました。「大賀ハス」と命名された古代ハスは、翌年の7月18日に大輪の花を咲かせたのです(説明より)。大賀ハスは、「日本三名園」一つ、岡山市の後楽園で保存植栽されていますが、ここ庭瀬城内壕でも、季節になると美しい花を咲かせています。

法万寺川は庭瀬と撫川との境界になっています。法万寺川を渡って撫川に入りました。 正面のお宅の手前のカーブミラーに「行き止まり」と書かれた看板がありました。左折して、南に迂回して進みます。

南に向かいます。突きあたりを右折して進みます。その先の突きあたりで右折すると撫川城址への入口に行くことができます。

撫川城跡の前まで来ました。撫川城にあった「撫川城址整備委員会・下東城之内町内会」が作成されたパンフによれば、「撫川城は永禄2(1559)年、毛利氏配下の備中松山城主、三村家親(生年不詳~天正3年6月2日=1575年7月9日没・三村元親の父)が備前の宇喜多直家に備えて砦を築いたのが最初」と書かれています。天正3(1575)年の三村氏が毛利氏に滅ぼされると、庭瀬城とともに毛利方の「境目七城」の一つになり、毛利氏の出城となりました。
天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城の水攻めの際には、秀吉軍との激戦になりましたが、周囲が沼地であったため、攻めあぐねた秀吉軍が攻撃をあきらめたため持ち堪えることができました。しかし、戦後は、秀吉軍に参加していた宇喜多氏の城となり、宇喜多氏はその後、20年間、城番を置いていたそうです。 
左に進み、撫川城を囲む壕を見ることにしました。

撫川城の西側から見た壕と石垣です。自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣が残っています。そのため、昭和32(1957)年、岡山県指定史跡の第1号に認定されています。この石垣は、天正14(1586)年頃から、宇喜多氏の重臣、岡利勝が、安土城の築城法を学んで築き始めたものです。 野面積みの石垣は、16世紀の戦国時代に多くつくられ、排水性に優れている一方で、すきまや出っ張りが多く、敵が登りやすいという欠点があったといわれています。

北西部の石垣です。一部が壕に向かって外にはみ出しています。
岡利勝は、その後、天正18(1590)年、秀吉からの要請により、主君の宇喜多秀家が岡山城の大改造をすることになり、その改造に着手したそうです。岡山城にも、このときに築かれた野面積みの石垣が残っています。

撫川城址公園の前に戻って来ました。撫川城跡は、東西77m、南北57m、幅15mの壕で囲まれています。沼地につくられていることから、別名「沼城」とも呼ばれています。
城址公園の入口から入ると、正面に、明治になってから祀られた三神社がありました。「竜王(水の神)」と「八幡神社(武勇の神)」、「稲荷神社(農耕の神)」をお祀りしています。 
庭瀬城跡のところでも書きましたが、戸川氏の4代目藩主安風が9歳で早世し、嗣子が無く改易となり、安風から1000石を分知されていた安風の弟達富(みちとみ)が名跡を継ぐことになったとき、撫川城跡に撫川陣屋(居館・藩庁)を設けて知行所を治めることになりました。

一方、庭瀬陣屋には、その後、元禄12(1699)年、板倉重高が2万石の大名として入り、庭瀬藩の領地を治めることになりました。
こうして、板倉家、戸川家の両家は、庭瀬城と撫川城を舞台に、それぞれの支配を、明治維新まで続けることになったのです。

撫川城跡の北西の隅です。石垣が壕に向かって張り出していたところです。櫓台があったところだそうです。 
撫川城址公園への入口にある門は、明治の時代になってから 、撫川知行所の総門が移設されたものです。
地元では、かつては、「撫川城址」を「ごほんざん」と親しみを込めて呼んでいたそうです。江戸時代以前は本丸を「御本壇」と呼んでいたため、「ごほんだん」が訛って「ごほんざん」と呼ばれたためだといわれています。

JR庭瀬駅に近いところにあった二つの城跡を訪ねて来ました。
町の中にあった「説明」によって、二つの城跡にまつわる歴史に触れることができました。