トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

南海電鉄、もう一つの登録有形文化財の駅、諏訪ノ森駅

2017年11月17日 | 日記

南海電鉄諏訪ノ森(すわのもり)駅の西駅舎です。木造平屋建ての洋風建築です。前回訪ねた南海電鉄浜寺公園駅とともに、平成10(1999)年に国の登録文化財に登録されました。同じ木造駅舎ですが、浜寺公園駅が堂々とした構えの駅舎だったのに対し、面積48㎡という小振りの駅舎になっています。浜寺公園駅を訪ねた日(「高架工事中の私鉄最古の駅 南海電鉄浜寺公園駅」平成29年11月11日の日記)、一つ難波駅寄りにある諏訪ノ森駅も訪ねて来ました。

諏訪ノ森駅は浜寺公園駅から1.0kmのところ、難波方面の石津川駅まで1.1kmのところにあります。

難波駅行きの「普通車」(南海電鉄では普通列車を「普通車」と呼んでいます)が、2番ホームに到着しました。難波駅方面に向かう上り列車のホームになっています。諏訪ノ森駅は、上りと下り(和歌山駅方面に向かう)のホームがそれぞれ独立した構造になっています。向こう側の下り列車用の1番ホームは、ここからは見ることができません。難波駅方面に60メートルほど行ったところに設置されているのです。しかし、諏訪ノ森駅が、明治40(1907)年、南海鉄道北浜寺(きたはまでら)駅として開業したときには、対面式のホームをもつ駅でした。駅名であった「浜寺」は、南北朝時代、会津出身の僧侶、三光国師(さんこうこくし)が建立した大雄寺を、「浜の寺」と呼んだことによります。大きな寺院で、現在の浜寺公園はこの大雄寺の跡につくられているといわれています。

西駅舎は、2番ホームの難波駅方面の端に設置されています。ホームに隣設したトイレの前から西駅舎に向かいます。日射しで見えにくいのですが、東駅舎が右前方に見えました。さて、北浜寺駅として開業した駅は、翌年の明治41(1908)年、「諏訪ノ森駅」と改称されました。この駅の近くに、旧船尾村の村社である諏訪神社があったため、地元の要望により改称されたそうです。

現在の西駅舎が開業したのは、大正8(1919)年6月10日のことでした。このとき、駅舎を約60メートル、和歌山駅方面に移動させ、現在地に建設されたのでした。このときは、対面式のホームになっていました。写真は、2番ホームから見た浜寺公園駅方面のようすです。

西駅舎につながる上屋です。左側にバリアフリーの通路が右側に階段があります。降りたところに自動改札機がありました。

改札を通り駅舎内の待合いのスペースに掲げられていたプレートです。上が”登録有形文化財”、下が、”近畿の駅 百選”のプレートです。”近畿の駅 百選”は、平成12(2000)年から平成15(2003)年の4年間に、国土交通省近畿運輸局管内にある特徴のある駅を公募し、毎年25駅づつ選定したもので、浜寺公園駅が平成12(2000)年に、諏訪ノ森駅が平成15(2003)年に、選考委員会の審議を経て選定されました。

西駅舎への出入口の上の明かり取り窓には、5枚のステンドグラスがはめられています。広いとは言えない駅舎ですが、高さはかなりあります。
 
白砂青松の浜寺の浜辺と淡路島が描かれているそうです。右側の絵から順に、横に並べました。
 
こちらが淡路島の風景なのでしょう。海岸に木造船の後部が描かれています。駅付近にあったという旧船尾村らしい風景だと思いました。

開業時から120年近く経過しているとは思えないような美しさで、今も訪れる人を楽しませてくれています。

こちらは、ホーム側の明かり取りの窓です。ステンドグラスがあったところと同じようなデザインです。

これは、その反対側。2人掛けの造り付けの木製のベンチがつくられていました。ベンチの両端にある飾り柱がユニークです。

入口から見た駅舎の内部です。自動改札機と自動券売機が見えます。右側に、造り付けのベンチに座って電車を待つ人の足が見えています。この方はかなり長い間、ここに座っておいででした。自動券売機の向こうは駅事務所。駅員さんも勤務しておられました。券売機の下のデザインや天井から吊り下がっているランプシェードも、駅舎にマッチしています。ホームに上る階段も見えます。

駅舎の全景です。広さからいえば、乗客が10人も駅舎に入れば動きがとれなくなりそうです。それでも、東駅舎よりも、少し広いそうです。

駅舎外から西駅舎を撮影しました。歴史を感じさせる外観です。入口の上部の5枚の窓のところがステンドグラスになっています。駅舎の外の掲示物には「大正ロマンを象徴した外観と入口のステンドグラスが特徴的です」と書かれていました。

駅舎の前には、石津川8号踏切がありました。

踏切の手前は連続立体交差(高架化)事業の工事現場です。平成40(2028)年の完成をめざして工事が続けられています。

石津川8号踏切を渡ってから、西駅舎方面を撮影しました。駅舎の向かいには、ジャスコ諏訪ノ森店がありましたが、閉店してイオン諏訪ノ森ショッピングセンターに代わっています。壁面には「KOHWA」(イオングループの食品スーパー)の看板がありました。

石津川8号踏切の先は、”諏訪ノ森本通商店街”です。かつては、賑やかな商店街だったのだではないかと思いました。

踏切を渡ってすぐ左折します。先ほどまでいた諏訪ノ森駅の西駅舎が見えます。

正面に諏訪ノ森駅の東駅舎が見えました。昭和41(1966)年、和歌山方面行きの下りホームと東駅舎が、もとの場所から約60メートル難波駅寄りに移転して建設されました。このときから、現在の独立したホームと駅舎となりました。上り(西)駅のホームは拡幅できたのですが、下り(東)駅は拡幅する余地がなく、移設するしか方法がなかったからでした。

東駅舎の内部です。自動改札機と自動券売機が設置された現代の駅舎です。ただ、待合のスペースがなく、ホームに上がって上屋の下のベンチで列車を待つようになっていました。

堂々とした豪華な駅だった浜寺公園駅に比べ、同じように、登録有形文化財、”近畿の駅 百選”である諏訪ノ森駅は、構えも小さく地味な印象を受ける駅でした。しかし、駅舎のステンドグラスや造り付けのベンチや飾り柱は「大正ロマン」を今に伝えています。訪ねる価値のある、いい駅でした。

高架工事中の私鉄最古の駅、南海電鉄浜寺公園駅

2017年11月11日 | 日記

南海電鉄浜寺公園駅の現在の姿です。現在も使用されている私鉄の駅舎の中で、最も古いとされています。明治40(1907)年8月20日に、現在の「浜寺公園駅」と改称された時に建て替えられた、2代目駅舎です。それまでは「浜寺駅」と呼ばれており、明治30(1897)年10月1日に、南海鉄道(当時)が、堺駅と佐野(現在の和泉佐野)駅間を開業させたときに開業しました。

写真の浜寺公園駅は、明治時代から大正時代にかけて、日本銀行本店、日本銀行京都支店、中央停車場(東京駅)や大阪市中央公会堂(中之島公会堂)などの国の重要文化財に指定されている多くの建築物で知られる建築家、辰野金吾の設計によるものです。洋風の木造駅舎で、柱、梁、筋違(すじかい)などをそのまま外部に移し、その間に石材、れんが、土、壁などを入れたいわゆる”ハーフ・ティンバー工法”と呼ばれる様式です。1450年頃から100年ぐらいの期間、イギリスで流行した工法だそうです。なお、浜寺公園駅は、辰野が設計した駅舎の中で、最初に手がけたものだったそうです。現在、駅舎周辺は、南海本線の連続立体交差(高架化)工事が進行しています。工事終了後、この駅舎は、高架化に伴って新造される新駅舎の正面に移築されることになっています。

浜寺公園駅は平成10(1998)年、登録有形文化財に登録されました。また、平成12(2000)年には”第1回近畿の駅百選”に選定され、平成14(2002)年には都市景観賞(まち部門)を受賞している、花形駅として広く知られています。現在は、木造駅舎の右前方に設置された仮駅で、営業されていますが、計画では、平成40(2028)年3月末に、高架駅として開業することになっています。写真は、手前のマンションの向こう側に設置されている仮駅と浜寺公園駅の姿です。

浜寺公園駅の前には、白砂青松で知られた浜寺公園が広がっています。江戸時代に、地元5ヶ村の村人によって防潮のために植えられた松林が、この地を治めていた田安家によって、明治になって新田開発のために伐採されていきました。その伐採は、明治6(1873)年、松林の消滅を惜しんだ大久保利通の尽力で停止され、その年の12月に日本で最初の公立公園として開園したのが浜寺公園でした。今も、広々とした敷地に松林の姿を見ることができます。

浜寺公園周辺は、大正から昭和の初めにかけて別荘地として開発され、浜寺海水浴場も開かれ、レジャースポットとして発展しました。訪問客の足としての役割を担ったのが阪堺電軌阪堺線でした。南海電鉄浜寺公園駅から浜寺公園に向かって歩くと、浜寺公園の入口の信号交差点の右側に、阪堺電軌阪堺線の終点、浜寺駅前停留場がありました。

多くの観光客に愛されたのが「松露だんご」でした。浜寺公園駅前の通りが様変わりしている中、今も阪堺電軌の浜寺駅前停留場の向かいにありました。

阪堺電軌の浜寺駅前停留場では、電車が出発を待っていました。新型車両1001形車です。平成25(2013)年8月25日にデビューした新型車両です。まず目を奪われるのは、正面の傾斜した全面ガラスです。平成29(2017)年に「グッドデザイン賞」を受賞した車両です。「先頭部をスラント(傾斜)させて、プラットホームから見た圧迫感をなくしたデザインと、堺市の町並みに溶け込むカラーリングが評価された」そうです。

阪堺電軌にはカラフルな車両が揃っています(「あべのハルカスとカラフルな阪堺電車」2014年1月16日の日記)。どんな電車が来るのかと到着する車両を待ちます。青い電車が見えました。すると、1001形の電車が出発して行き、少し先ですれ違いました。左が1001形車両、右がやって来た607号車です。

引き返して、南海浜寺公園駅に戻ります。仮駅の改札口です。駅員の方が勤務されていました。改札口の右側に駅事務所、正面にトイレがあります。入ってから左に向かって進むとホームへの階段があります。

改札を入ったすぐ右側には、時刻表、運賃表が掲示され、自動券売機が設置されていました。

同じ所に掲示されていたJR連絡運賃の掲示です。南海電車からJR環状線に乗り換えて、JRの各駅に向かう運賃が示してありました。

写真の右側からホームに出ました。難波方面に行く電車が停車する、改修中の3番ホームです。かつての改札口も、このあたりにありました。

駅名標です。諏訪ノ森駅から1.0km、羽衣駅へ0.7kmのところにあります。浜寺公園はこの両駅の間に広がっています。また、1日平均乗車人員は4,246人(2015年度)で、南海全線で、57番目の駅だそうです。

木造駅舎のある部分を超えたところのホームの状況です。線路の先は和歌山方面です。

難波方面行きのホームです。ホームの先が切り欠きになっています。線路は、右側から2番線、3番線、4番線になっています。4番線は、3番線から切り欠き部分に入っていくような構造になっています。4番線のある4番ホームから発車する列車の発時刻を見ると、朝と夕方に集中しており、日中にこのホームから出て行く列車はありませんでした。

ベンチの前から難波方面を撮影しました。和歌山方面行きのホームは難波方面りにつくられています。難波方面から来た下車客は、ホームから下って、手前からもう一つ右側にある線路(1番線)を渡って、写真の右端にある改札口に向かう構造になっています。

難波方面側の線路とホームの状況です。浜寺公園駅のホームは2面4線になっています。1番線は右側のホームの先から2番線に合流しています。両端の1番線と4番線は、優等列車の待避線として使用されていて、日中は、2番線と3番線が主に使用されています。

ホームから階段を下りて、向かい側の和歌山方面行きのホームに上がりました。難波方面行きのホームの上に、洋風木造駅舎の屋根が見えます。手前に3番ホームの切り欠き部分が見えています。

和歌山方面行きのホームです。こちらは1番ホームです。ホームのほぼ中央部にあった木造の待合室です。これも、開業時の面影を色濃く残しています。
 
待合室の内部です。木造の仕切りのついたベンチ、天井の格子と天窓のデザイン。
 
腰板とドアの取っ手、取っ手は長年遣い込んだことがわかります。

ドアの下にはレールがありません。ドアは吊り下げ式になっていました。

1番ホームを改札口の方に向かって歩きます。その先に、改札口に向かう構内踏切があります。

1番ホームから構内踏切を歩いて改札口へ向かいます。踏切には遮断機がついていました。

和歌山方面側の駅舎です。自動改札機、自動券売機も設置されています。こちらの駅舎には、駅員さんはいらっしゃいませんでした。駅舎の後方には自転車の駐輪場がありました。そこには、職員の方が勤務されていました。

浜寺公園駅を訪ねました。東京駅とともに辰野金吾の設計による駅舎であり、国の登録有形文化財にも登録されています。現在、高架化工事の進行中であり、近くで見ることはできませんでした。物足りない、消化不良みたいな旅になってしまいました。

次に、駅舎としての機能を回復するのは、平成40(2028)年。11年も先のことです。改修工事の終わった暁には、ハーフティンバー様式のむき出しになった柱、梁、筋違などの特色ある駅舎の姿を、もう一度見に来ようと思った、浜寺公園の旅でした。






訪問客を待つピンク色の駅、智頭鉄道恋山形駅

2017年11月03日 | 日記

中国山地の山間(やまあい)に、すべての構造物がピンク色に塗装され、ハートマークに溢れている駅があります。智頭(ちず)急行株式会社(以下「智頭急行」といいます)智頭線の恋山形(こいやまがた)駅です。写真は駅を見下ろす丘から見たその恋山形駅の全景です。平素は、どちらかといえば、山間にひっそりと建っている駅に魅力を感じているのですが、今回は、山間にある明るい駅を訪ねてきました。

JR岡山駅から早朝に出発する、ディーゼル特急”スーパーいなば”に乗車しました。この列車は、自由席1両(キハ1871502号車)と指定席1両(キハ187502号車)の2両編成で、岡山駅からJR山陽本線を大阪方面に向かいます。そして、兵庫県に入って最初の駅であるJR上郡(かみごおり)駅で、第三セクター鉄道である智頭急行智頭線に入って智頭駅に、その後、JR因美線を通ってJR鳥取駅に向かって進みます。この智頭急行と因美線を通って鳥取駅に向かうルートは、江戸時代、鳥取藩が参勤交代のときに通ったルートでもありました。これから訪ねる恋山形駅は、途中の鳥取県八頭郡智頭町大内にあります。上郡駅で、運転士と車掌がそれぞれ反対側に移動して、”スーパーいなば”は、ここまでと反対方向に向かって走ることになります。

智頭急行は、平成6(1994)年12月3日に開業した新しい鉄道で、最近の鉄道らしく、”スーパーいなば”も高架上に設けられた線路を、時速120kmで疾走しています。しかし、恋山形駅には特急列車は停車しません。そのため、大原駅で、智頭駅行きのディーゼルカーの普通列車(HOT3507号車)に乗り継ぎました。この車両は、智頭急行が保有する車両で、形式記号の”HOT”は、英語の”hot”と沿線の兵庫県、岡山県、鳥取県の頭文字を取ってつけられているそうです。

岡山駅を出発してから約1時間20分、杉の大木の前にピンク色をしたホームが見えてきました。恋山形駅です。列車は、そのまままっすぐ進み、右側の2番ホームに停車しました。2面2線の駅でしたが、2番ホームに接した線路がまっすぐ智頭方面に向かっており、通過する特急列車もこちら側の線路を疾走しています。反対側の1番ホームは、行き違いがあるときだけに使用されているようです。

下車した2番ホームです。待合スペースの壁には、ピンク色の壁面に赤いハートのマークが踊っています。ホームの標識もハートの形です。ピンク色が目立つホームですが、これは白色でした。

恋山形駅は、平成6(1994)年の智頭急行の開業時に設置されました。当初は「因幡山形駅」と命名する予定だったそうですが、たくさんの方に来てほしいという意味で「来い山形」、そこから「恋山形駅」にと変わっていったそうです。その後、平成25(2013)年6月に、駅の活性化をめざす「恋えきプロジェクト」の一環として、待合スペースなど地上施設をリニューアルして、ピンクに塗り替えたそうです。ここの駅名標示も白色でした。

大きなハート型の駅名標示です。ローマ字のほか、中国語(繁体字)とハングルの表示もありました。やまさと(山郷)駅から2.8km、次のちず(智頭)駅まで6.1kmのところにあります。ちなみに、「智頭」のかな表記は、会社名と駅名は「ちず」、地名(町名)は「ちづ」を使用しているそうです。

向かいの1番ホームの待合いのスペースです。2番ホームと同じようなつくりです。さて、智頭急行智頭線は、明治25(1892)年に始まった鉄道敷設運動に始まります。明治時代につくられた鉄道敷設法には「兵庫県姫路から鳥取県鳥取に至る鉄道」が定められていましたが、その後、山陰への鉄道は和田山から建設されることになり、姫路からの敷設は白紙になってしまいます。大正11(1922)年に改正された鉄道敷設法では「兵庫県上郡から佐用を経て鳥取県智頭に至る鉄道」が規定されました。しかし、太平洋線戦争によって実現にはいたりませんでした。

ホームからの出口は、大原駅側にある階段を下り、構内踏切を渡った先の1番ホームの脇にあります。恋山形駅はメディアでもよく採り上げられているためか、訪ねる人も比較的多い駅です。しかし、列車でこの駅まで来られる人は多くはないようです。この日も、駅前の広場に若いカップルが来られていて、写真を撮影しておられましたが、車で出発して行かれました。さて、戦前から始まっていた智頭線の敷設を求める運動は、戦後も続けられ、昭和41(1966)年に運輸大臣(当時)から上郡・智頭間の「工事実施計画」の認可を受け、昭和41(1966)年に着工しました。しかし、順調には進まず、昭和55(1980)年に成立した国鉄再建法によって、進んでいた工事は中止となってしまいました。残された道は、地方自治体による第三セクター方式による開業だけでした。昭和58(1983)年に就任した西尾邑次鳥取県知事によって第三セクターによる建設への道筋がつき、同年6月に工事が再開されました。こうした地元の人々の熱意と粘り強い努力によって開業したのが、智頭急行智頭線でした。

踏切の中央部分から見た智頭駅方面です。まさに、ピンク色の駅だと感じます。青い空、緑の杉林、ピンクの駅施設。見て楽しい駅になっていました。

こちらは1番ホームです。階段の手すり、フェンス、ホームの上屋、柱、壁面も、ホームミラーもゴミ箱も、すべてピンク色でした。階段を利用して1番ホームに上がると、たくさんのハート形の絵馬が吊り下げられている一角がありました。

正面の「恋」と書かれたハート形の上に鐘があります。「恋がかなう鐘」だそうです。大きなハートマークの「恋」の字の上に、赤色のハートの部分が見えます。願い事を書いた絵馬をその赤い部分にはめてから、「恋がかなう鐘」をならしてお祈りをした後、絵馬を吊り下げると願いがかなうそうです。「早朝や夕方以降と、列車が到着しているときは、ご遠慮ください」とのこと。「恋がかなう鐘」は、この駅がピンクの塗装でリニューアルされた翌年の、平成26(2014)年3月15日に設置されたそうです。ハートマークの下の扉の中には「恋山形ノート」が置かれています。「思いを残してほしい」という願いから置かれているもののようです。

1番ホームにいたとき、6両編成の特急列車”スーパーはくと”が通過していきました。「はくと」は「白兎」です。東海道本線から智頭急行に入るルートで、京都駅と鳥取駅・倉吉駅間を結んでいます。智頭急行が所有するHOT7000系車両で運行されています。JR西日本の鳥取鉄道部西鳥取車両支部に常駐し車輌の管理がなされているそうです。智頭急行は「第三セクターの優等生」と称賛されるほど、経営が順調であることで知られています。好調な経営を支えているのが、この”スーパーはくと”なのだそうです。

待合いスペースに書かれていた「鉄道むすめ」の”宮本えりお”です。智頭急行の”スーパーはくと”の車掌で、上郡駅から鳥取・倉吉駅間に乗務しています。「落ち着いた性格、ていねいな対応が好印象。利き手は両手で、学生時代には剣道部に所属していたそうです。趣味は天体観測で、さじアストロパークや西はりま天文台にもよく通っているそうです。「みやもとえりお」という名前は、智頭急行の宮本武蔵駅と、上郡駅の反対読み(きえりおごみか)から名づけられたといわれています。

1番ホームの脇から駅前広場に出るところにあった「恋ポスト」です。平成28(2016)年に設置されました。このポストは智頭急行が設置したものです。そのため、週一回、毎月曜日だけに回収され、地元の山形郵便局に届けられます。そこで、ハート型をした風景印で消印をつけることになっています。「切手を貼るのを忘れないように」と書かれていました。

広場の塀につくられていたハートのマーク。この駅に到着したとき、若いカップルが「インスタ映え」するようなポーズで、何回も何回も撮影をされていたところです。

1番ホームの待合いスペースの裏側にあたるところです。「恋がかなう駅 恋山形駅」の掲示と、その先に大きなハートのマークがありました。

ハートのマークの前方の地面に、ハート形のマークが描かれています。そこに足を置いて、こちら向きに立って・・・

その前にあった、構造物の上にカメラをおいて、セルフタイマーで撮影ができます。一人旅の人も記念撮影をすることができるようになっていました。

1番ホームの裏の道を下っていきます。線路の法面(のりめん)には、芝桜が植えてありました。春先には、おそらく、ピンクの花が咲いてピンク色の駅に色を添えることになるのでしょう。

駅への取り付け道路の入口から、幅1メートルのピンクに塗装された道がつくられています。平成29(2017)年4月1日に設置された「恋ロード」です。法面につくられていた芝桜のハートマークも見えます。

日本には、「恋」の字がつく駅は、恋山形駅以外に3ヶ所あります。JR北海道室蘭本線の「母恋(ぼこい)駅」、三陸鉄道南リアス線の「恋し浜(こいしはま)駅」、西武鉄道国分寺線の「恋ヶ窪(こいがくぼ)駅」です。「恋えきプロジェクト」は、「この4駅が連携して地域の活性化を図ることを目的として」行っている活動です。ここ恋山形駅が行っている駅施設のピンク塗装、「恋がかなう鐘」、「恋ポスト」と「恋ロード」などは、この「恋えきプロジェクト」の一環として行われているものでした。

恋山形駅の楽しみ方も掲示されていました。 「①ハート絵馬はお持ちですか?  ②絵馬に願いごとは書きましたか?  ③絵馬をハートのモニュメントにはめましょう  ④恋山ノートにコメントしましょう ⑤写真スポットで写真を撮りましょう  ⑥ホームのベンチでゆっくりお過ごしください」と書かれていました。

ピンク色の駅、恋山形駅は、JR上郡駅とJR鳥取駅を結ぶ第三セクターの智頭急行の駅で、中国山地の奥深いところにあります。
智頭急行は総延長56.1kmの鉄道ですが、京都駅と鳥取駅・倉吉駅を結ぶ”スーパーはくと”と、岡山駅と鳥取駅を結ぶ”スーパーいなば”の運行により、第三セクターの優等生といわれるぐらい好調な経営で知られています。しかし、普通列車の利用は快調とはいえず、特色ある駅をつくることによって活性化を図っています。恋山形駅も、「恋」をテーマにした新しい駅づくりに努力しています。
恋山形駅は、「恋がかなう鐘」「恋ポスト」「恋ロード」と、次々に新しい企画を打ち出していています。次はどんな企画が出てくるのか楽しみでもあります。せめて、この駅だけでも、列車で訪ねる人が増えていけば・・と願いながら、歩いた旅でした。