トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

街歩きの楽しみ、飲食店の名前

2011年05月27日 | 日記
私たちは、さみしい時やいやされたい時に酒を飲み、美味しいものを食べたくなります。
ほっと一息のコーヒーも同じです。飲食店の名前には、そんな気持ちに応えるものがあります。
いやしを求める先は、ふるさとにいる父や母、「いなか」に帰りたくなる気持ちにつながります。
今回のテーマは、「ふるさとと街」。街の中の「いなか」をさがしてみました。

まず、ずばり「いなか家」から。

[いなか]とは、「おかやまっ子」には「備前百姓」がそれにあたります。

畑を耕す「畑人」。田んぼが一段落したら、畑で野菜を作っていましたね。

でも、ここは沖縄料理のお店で、「はるさ」といいます。

「ごえもん」は、釜ゆでにされた大泥棒よりも、田んぼを耕すお百姓さんのイメージです。

そして、お百姓さんを助けている、「かかし」の顔を連想する「へのへのもへじ」。どれもこれもなつかしい。

豆といえば、あぜ道に植えられていた枝豆につなげるのは少し無理がありますかね?川で獲っていた魚にもつながるかな??

赤とんぼは、夕方、農作業を終えて帰ってくるお父さんの姿、「十五でねえやは嫁にゆき」の「ねえや」の姿に重なります。赤とんぼのパロディ、「黒とんぼ」は夕方よりも夜、お酒のイメージですね。

「うらめし屋」は、「うらめしやー」の幽霊を連想します。幽霊には、お化けの明るさはありません。いなかには、幽霊につながる場所が結構ありましたが、都会には似合いませんね。だから、このお店の近くには、幽霊は、もちろんいません。

「なごみやけむり」。「けむり」といえば、野焼きの煙を思い出します。「なごみ」は「いやし」の場です。やっぱり「いなか」を思い出してしまいます。いなかをさがしているうちに、「街」もあるはずだと思いました。

ありました!この喫茶店は「街」。でも、緑におおわれています。「街」であってもいやされる、いなかの雰囲気があります。

街といえば、やはり洋食ですかね。シェフが迎えてくれる「MOBY」、岡山市街地に2カ所みつけました。迎えてくれるのは、同じ顔です。

「魚」の「銅屋」さん。「さかなどうや(いかが)?」と誘われている感じがします。やはり街だなあ・・・

「円円」は「まろまろ」と読むようです。「まろ」はお公家さん。高貴なお店なのでしょう、そのとおり、お店は2階にありました。

みんな、一度は経験した「恋わずらい」。都会はストレスのたまり場、愚痴をこぼしたくなるよね。「愚痴をこぼして酒を飲む」お店、いつも動向が気になる「ぐちや」。このときは、「生ビール1杯100円」の大サービスをしていました。
平成23年1月15日の日記にも書きましたが、今も元気でがんばっています。
 
「恋わずらい」や女性が原因の愚痴だったら、こぼすだけ、愚痴をこぼして、お隣へどーぞ、お隣は「おんな道場」でーす。男を鍛えよう!   「おんな道場」で!隣り合っているのがおかしくて、笑ってしまいます。
 
岡山のプロ野球人気を2分する、広島カープと阪神タイガース、(いやいや3分かもしれない、意外に多いんだよね、巨人ファン。)鳴り物にメガホンの賑やかなイメージ、阪神タイガースの「虎の巣」と広島カープの「大蔵省」。「大蔵省」は、カープの後援会事務所も兼ねています。なぜか店の裏側の方が派手なんです。PCで「大蔵省」と打つたびに「名称変更→財務省」と出てくるのも煩わしいけど、いつまでも「大蔵省」でがんばってください。もう、大蔵省はここにしかないんだから・・・。

いなかでも街でも、「よいきげん」に酔いながら、夜は更けていきます。明日も、また、いつものとこで飲みましょう!

この店の常連さんにとっては、「いつものとこで」の「いつものとこ」は、この「いつものとこ」なのです。

元気いっぱいお酒を飲んで、大いに歌ってうさを晴らし、明日も、また、しっかりがんばりましょう!


登録有形文化財のJR建部駅と岡山市建部町

2011年05月22日 | 日記
かつての備前の国と美作の国の中心都市、岡山市と津山市を結ぶJR津山線。明治31(1896)年、中国鉄道本線として開業しました。開業当時は、岡山市駅と津山駅(現在の津山口駅)間を結んでいました。間には、玉柏、野々口、金川、福渡、弓削、誕生寺、亀甲駅の7つの駅がありました。
JR岡山駅とJR津山駅を結ぶ現在のJR津山線になったのは、大正13(1923)年のことでした。数年前まで急行つやまが(もっと以前は急行砂丘が鳥取・倉吉まで)走っていましたが、今は快速ことぶき(写真)が1時間10分程度で結んでいます。
    
岡山と津山のほぼ真ん中にあるのがJR建部駅。津山線が開業して2年後の明治33(1900)年につくられました。駅舎の向かって左は入母屋の屋根、右は切妻屋根で左右非対称です。入母屋屋根の下はトイレへの通路になっています。
  
駅構内に入ります。出札口と小荷物を受け取るカウンターが一の字の形に並んでます。カウンターにある時刻表の上に、国の「登録有形文化財」の登録証明書がありました。「 33-0103号」とあり、「建部町教育委員会」が作成した木製の説明書も並んで掲示されていました。それによると、設立当初の姿をよく残しているということで、平成18(2006)年3月2日に登録されており、岡山県で最初の登録でした。黒光りしている鉄製の改札口を抜けてホームに出ます。
ちょうど岡山行きのディーゼルカーが入ってきました。10時53分発、キハ4785とキハ4869の2両編成のワンマン列車でした。一日257人が乗車する駅だといわれていますが、この列車には6人の方が乗車しました。快速列車は停車せず通過していく駅です。駅事務所は、カーテンにおおわれていて何も見えません。
 
駅のカウンターには駅スタンプが置いてありました。きれいなスタンプでした。
 
建部駅のある中田地区は、備前岡山藩に6人いた家老の、5番家老、建部池田(森寺池田)家1万4千石の陣屋町だったところです。旧陣屋や侍屋敷の東に津山往来も通り、政治経済の中心地でした。街道沿いに「市場」という地名も残っています。今は、温泉施設が整備され、岡山の奥座敷といった雰囲気を醸し出しています。
   
JR津山線は、この温泉施設のそばで旭川を渡ります。向かい側は同じ建部町の福渡地区で、建部駅から3、4分で福渡駅に着きます。一日の乗車客は266人で、快速列車も停車しています。行ったときは、ちょうど、12時08分発の快速ことぶきが入線していました。やはり、キハ47形の2両編成の列車でした。

建部駅も福渡駅も、岡山市に合併する以前は同じ御津郡建部町の同じ町内でした。しかし、福渡駅はかつては、美作の国久米郡福渡町にあり、建部駅は備前の国御津郡建部町にありました。この二つの町が合併して、昭和42(1967)年に御津郡建部町となっていました。大化改新以来の「国郡里制度」を超えた大合併をしていたのでした。
福渡は、津山往来の宿場町として、また、旭川の水運(高瀬舟)の中継地、物資の集散地として、栄えた商業の盛んな町でした。今も当時の雰囲気を伝える町並みが残っています。

今回は、車でJRの駅を訪ねました。夏のような日差しがふりそそぐ、暑い日でした。涼しげに見える旭川の豊かな流れが、印象に残りました。

岡山県にある登録有形文化財4駅、JR美袋、美作滝尾、建部、旧柵原鉄道吉ヶ原駅と、文化審議会で登録の答申がなされているJR方谷駅の計5駅、そのすべてを訪ねることができました。
 
 ★追記  方谷駅は、平成23(2011)年7月25日、国の登録有形文化財に  
     登録されました。







地下街に初夏の香り、岡山一番街

2011年05月18日 | 日記
 
通勤の途上、岡山駅の地下改札口を出たところで、
ひまわりの花を見つけました。
3月にチューリップの花が並んでいて、
一足早い春の訪れを感じてから、2ヶ月。
一足早い初夏の訪れを感じた朝でした。
  
その日は、いつもより少し早めに職場を出て、
地下街まで戻ってきました。

ひまわりの脇を歩いて、改札口に向かう人々には、
慌ただしい朝にはない開放感を感じましたが、
意外に立ち止まる人は多くなかったようです。

でも、人々は、みんな、
初夏を感じたに違いありません。
もちろん、私は十分楽しみました。
初夏の香りを味わいました。
 
よく見ると、ひまわりの下には、白いあじさいの花もありました。

「花の命は短くて・・・・」です。
3月のチューリップがすぐに撤去されたように、
おそらく今週いっぱいで終わることでしょう。
もうしばらく、初夏の香りを大事に味わい楽しみたいと思います。

JR因美線の登録有形文化財、JR美作滝尾駅

2011年05月14日 | 日記
美作の国の中心都市津山市と鳥取市を結ぶJR因美線。かつては、岡山市から鳥取市に向かうメインルートで、急行砂丘号が鳥取を経て倉吉まで結んでいましたが、今は、智頭鉄道経由の特急「スーパーいなば」を利用するのが主流となり、完全なローカル線になっています。さみしい限りです。
JR因美線は大正8(1919)年、鳥取・用瀬間に開業した因美軽便線に始まります。3年後の大正11年(1923)年には因美線と改名しました。昭和になってから津山方面からも敷設工事が始まり、昭和7(1932)年、残っていた智頭・美作河井駅間が開通し、津山・鳥取間の73.4km、全線開通となりました。現在では、津山から鳥取へ行く直通列車はなく、智頭急行線が合流する智頭までを1時間10分程度で結んでいます。
 
JR美作滝尾駅は、昭和3(1928)年に津山・美作加茂間が開通したときに開業しました。このとき建設された駅舎は「昭和初期の小規模駅舎の標準的な建物」でした。現在も、往事の姿を残しているということで、平成20(2008)年10月23日、国の「登録有形文化財」に登録されました。
登録番号は、33-0169です。私は、この日、岡山発9時44分発の津山行き快速「ことぶき」で、津山駅に向かいました。津山駅で11時35分発の因美線智頭行きの列車に乗り継ぎ、美作滝尾駅に、11時53分に着きました。そして、智頭駅から折り返して美作滝尾駅に13時42分に着く、津山行きの列車で引き返すことにしていました。
   
この日、降りたのは私一人でした。
駅のホームには木製の改札口が開業当時のままの姿で残っていました。また、三人掛けのベンチには、涼しげな座布団が、地元の人が置かれたものでしょう。改札を通って駅の案内所へ入ります。
 
木造の出札口と手荷物預かりのカウンターが並んでいます。窓枠も窓も完全に木造。ここでも、カレンダーが妙に新しく見えました。待合室のベンチの上にはやはり座布団が・・・。
 
駅を通過して外へ出ました。駅の出口も木造でした。切り妻屋根の駅舎、開業当時の姿をそのまま残しています。ガラスの窓も、ぴかぴかに磨かれていました。駅を愛する人のおかげです。
駅を出た左側に、「男はつらいよ、ロケ記念碑 平成7年10月20日」と記された石碑が建てられていました。山田洋次監督の「男はつらいよ」の最終作「寅次郎紅の花」の最初のシーン、尋ね人になっている寅次郎が載った新聞を読む駅員の前に顔を見せ、勝山までの切符を買う寅次郎の姿が撮影されたそうです。
 
かつて駅員さんがいた駅の事務室には、そのまま駅務ができるように、帽子や、行き先を書いたゴム印、計算機などが並んでいました。撮影の時にも役立ったことでしょう。それとも、撮影のために置いたものなのでしょうか。

駅のホームの先には、一面の田園風景が広がっています。少し時間があったので、その中を一回りしました。最近は、「寅さんの田んぼアート」が知られるようになりましたね。

一回りして駅に戻ってきたら、待合室に高齢の女性が座っておられました。挨拶をしてベンチに座ったら、「時計をトイレに落としてしまったけど、もうだめですよね」と、その女性から話しかけられました。駅舎の隣にあったトイレで落としたようでした。もう拾うことはできないだろうなあ、
お気の毒なことでした。「それは困られましたね、ほんとに」とお返ししました。

一日の乗車人員、56人という美作滝尾駅ですが、13時42分発の津山行きに乗ったのは、この女性と私の2人だけでした。来たときと同じ、ワンマン運転の単行列車でした。

登録有形文化財の吉ヶ原駅舎

2011年05月05日 | 日記
岡山県内に5つ(正確には登録済み4つと他の1つは登録確実)ある、「登録有形文化財」の駅舎で、唯一の私鉄駅である吉ヶ原(きちがはら)駅に行ってきました。
 
吉ヶ原駅は、昭和6(1931)年に開業した同和鉱業片上鉄道の駅です。JR和気駅を経由して、硫化鉄鉱の産地である柵原(やなはら)と積み出し港のある片上を結んでいました。吉ヶ原駅は、終点である柵原駅の一つ手前の駅でした。
    
平成3(1991)年に片上鉄道は廃止されましたが、吉ヶ原駅に、鉱山資料館とともに当時の車両が展示されることになり、平成10(1998)年11月15日に、
「柵原ふれあい鉱山公園」が開園しました。「登録有形文化財」に登録されたのは平成18(2006)年3月2日のことで、すでに多くの利用者が乗降する、「駅」としての機能はなくなっていました。しかし、駅の内部も、プラットホームの駅の表示も、史跡名勝案内板も、そのまま駅として使用できる状態で保存されています。毎月第1日曜日には、動態保存されている車両が、展示運転されています。このゴールデンウイーク中の5月4日には、特別に展示運転がなされたということです。
   
公園内には、「鉱山資料館」の建物や竪坑櫓、鉱産物を運搬した機関車や高瀬舟なども保存されています。構内を歩いていたとき、北野武監督の映画「アキレスと亀」の撮影場所の標識の近くに、吉ヶ原駅発の鉄道時刻表が残っているのに気がつきました。始発の6時から18時40分発まで1日12本の列車が運行されていて、うち2本は貨物列車だったようです。「柵原発」は、柵原駅から折り返す列車の出発時間だと思われます。
  
  
動態保存されている車両は、ディーゼル機関車(DD13551)に牽引された、ホハフ2004とホハフ2003(共に青色)、オハ351227客車(茶色)の3両編成、その隣に保存されているキハ702と鉱山資料館の近くにあるキハ312とキハ303のディーゼルカーなどです。
   
ほかには貨物車両のワム1807(赤)と左の無蓋車トラ814、車掌車のワフ102(両側デッキに改造)とトム519とその左にあるトラ840の無蓋車が展示されています。
 
この駅の駅長は猫のコトラ。駅のホームにある掲示板には「コトラ」の写真がありました。この猫駅長は、展示運転の日だけ駅で勤務しているようです。
全国に猫駅長が増えましたが、この駅は「駅長猫発祥駅」だそうです。
 
廃止された片上鉄道の線路跡は、「片鉄ロマン街道」と名付けられ、サイクリングロードになっています。写真は駅の掲示板と、吉ヶ原駅の南にある「片鉄ロマン街道」です。
 

駅の南に小さなカフェがありました。コーヒーやおにぎりは100円で、一番高いのが250円のカレーでした。きわめてお手軽なお値段です。ちょうど、近くの婦人会の皆さん7,8人のボランティアが仕込み中でした。10時前でしたが、250円でコーヒーとフライポテトをいただきました。

みんな70代。お元気です。やはり展示運転があるときはたくさんの人でにぎわうようです。売上ももちろんですが、それ以上に人が集まることがうれしい、そんな感じでした。80歳になると「迷惑をかけないように」と自主的に引退していくので、それまではがんばるとのことでした。

私は、片上鉄道の現役時には、JR和気駅から出発する車両を見送ったことはありますが、残念ながら、一度も実際に乗ったことはありませんでした。
知らないうちに廃止になっていたのです。関心があったとは言えませんでした。でも、現役のとき一度は乗って見たかった、今はそう思っています。

展示運転のある日に、婦人会の皆さんが奮闘している姿をもう一度見に来たいものだと思いながら、吉ヶ原駅を後にしました。

 
トイレを借りた菊ヶ峠ドライブイン、岡山に向かって右側の奥にディーゼルカーが1両展示されていました。塗装が片上鉄道の車両と同じなので、お聞きすると、片上鉄道の車両キハ311でした。車両の型式番号は残っていませんでしたが、片上鉄道を愛した人の記憶には、きちんと残っていました。

「奥出雲おろち号」に乗ってきました!

2011年05月01日 | 日記
JR山陰本線の宍道駅と、JR芸備線の備後落合駅を結ぶJR木次(きすき)線。JR木次線は、陰陽連絡路線の唯一の幹線であるJR伯備線よりも早く、宍道駅と木次駅間が、大正5(1916)年に、簸上(ひかみ)鉄道として開通しました。しかし、全線が開通したのは、伯備線よりも遅れて、昭和12(1937)年のことでした。
 
木次線のうち、木次・備後落合間を走っているのが、観光列車「奥出雲おろち号」です。現在では、この間を結ぶ列車は、「おろち号」を含めて、1日3往復しかありません。いつ廃止されてもおかしくない状態が続いています。全席指定席になっていますので、乗車するには、510円を支払って指定席券を購入する必要があります。この列車の魅力は、ユニークな車両とともに、出雲坂根駅の前後にある三段式のスイッチバックにあります。
 
私は、この日、12時37分にJR備後落合駅を出発する「おろち号」に乗って、JR亀嵩(かめだけ)駅まで行くことにしていました。12時17分、JR備後落合駅で待っている私たちの前に、JR木次駅からやってきた「おろち号」が入ってきました。10時04分にJR木次駅を出発して、2時間13分をかけて、備後落合までやってきた列車でした。
  
トロッコ車両のスハフ13801を先頭に、スハフ12801の客車とを、後ろから押すようにしているDE152558ディーゼル機関車の3両編成でした。オレンジ色で「おろち」を表現したヘッドマークが輝いていました。
  
トロッコ車両の内部はもちろん木造でボックス形の座席が並んでいます。

トロッコ列車は1998年4月25日に運行が開始されました。壁面には、1999年「しまね景観賞優秀賞」のプレートと賞状が掲示されています。また、10万人の乗車を達成した記念プレートも貼られていましたが、10万人目のお客さんは、外国の方だったようです。
   
トロッコ列車の次の客車には、簡易リクライニングシートが並んでいます。

さて、「奥出雲おろち号」は12時39分に、備後落合駅を出発しました。先頭はDE152558ディーゼル機関車です。今度は、しっかり牽引しています。
 
乗務員さんは三人。一人は小豆色の制服を身につけた車掌さん。ボランティアガイドの女性と男性。ただし、男性は途中から見えなくなりました。車内では、乗車日が押された乗車証明書のハガキが配られました。また、おろちのスタンプが自由に押せるようになっていました。 
 
ボランティアガイドの方の案内では、木次までに27のトンネルがあるということでしたが、トンネルに入るたびに、天井にあるおろちのイルミネーションが輝いていました。せいぜい時速40キロぐらいかな? ゆっくりとしたスピードで進み、油木駅まで12分。
 
油木駅を出ると、県境を越えて島根県に入ります。最高地点731mの三井野原駅まで12分。スキー場としても有名です。木次線には、駅ごとに「やまたのおろち伝説」にかかわる絵が描かれていますが、ここは、「高天原」でした。
  
三井野原駅から急坂を下ります。車窓には、車で下る「奥出雲おろちループ」が見えてきました。いよいよ、ハイライトの三段式スイッチバックにかかります。
 
左の写真の木立の手前に線路が見えます。列車は写真のもう一つ手前にある一段目の線路を右方に向かっていますが、その先で折り返して、隣の線路に入り、左に向かって進み、出雲坂根駅に停車します。次に、出雲坂根駅を出た列車は木立の向こう側のレールを右方向に進み、次の停車駅、八川駅に向かうのです。ただし、多くのスイッチバックでは、運転士さんが後ろの運転席へ移動して動かすのですが、この列車は、車掌さんがトロッコ車両の運転席に入り、安全確認をしておられました。これが、木次線の「三段式スイッチバック」の仕組みです。

右の写真の、左側が二段目の線路、前方右上にある赤い屋根の建物がJR出雲坂根駅、右側の線路が三段目の線路です。これを後方に進むとJR八川駅です。
   
JR三井野原駅から9分ぐらいで、JR出雲坂根駅に到着します。ホームにある案内板から、標高731mの三井野原駅から標高564mの出雲坂根駅に来たことがわかります。一段目と二段目のスイッチバックまでで、200m近く下ったのですね。この駅には、「天真名井(あめのまない)」が描かれていました。出雲坂根駅には「延命水」と呼ばれる名水が湧いています。この辺りには昔から高齢の狐や狸がたくさんいたとか、長寿を願う人々が「延命水」と名づけたということです。10分停車の間に、列車を下りて、この「延命水」を飲む人がたくさんいました。この間に、備後落合駅行きの普通列車とすれ違いましたが、後から来た普通列車の方が、先に出発して行きました。
  
三段目のスイッチバックを進んで、13分でJR八川駅。ここには「脚摩乳(あしなずち)」が描かれていました。さらに、7分で雲州そろばんの産地、JR出雲横田駅に着きました。駅の並びに雲州そろばん伝統産業会館の白い建物が見えました。この駅には、「脚摩乳」と妻の「手摩乳(てなずち)」の子、奇稲田姫(くしいなだひめ)が描かれていました。停車時間が短かったため、神社風の駅舎を見ることができなかったのが心残りです。
 
かなり高度も下がり、のどかな山村風景の中を走って、JR亀嵩(かめだけ)駅に到着しました。備後落合から1時間28分かかっていました。
亀嵩駅は、映画「砂の器」の舞台です。東北地方以外にズーズー弁をしゃべる所がある、「かめだ」とは「かめだけ」のことだった・・・・。
実際にロケをしたのは出雲八代駅だったともいわれていますが、ひなびた雰囲気の駅でした。中にそば屋さんが店を出していました。「営業中」の看板は、「駅が」ではなく「そば屋さんが」ということのようです。なにせ、無人駅でしたから・・・。

外から涼しい風が吹き込み、たくさんのトンネルの中では、大きな音がおろちの叫び声のように耳に響き、車内のイルミネーションが光り輝く、なかなかの演出がうれしい、木次線の旅でした。