トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

橋梁上の”秘境駅”、JR保津峡駅から、トロッコ保津峡駅へ

2016年12月29日 | 日記

鉄道につきもののトンネルと橋梁と駅。これらが一緒にある駅に興味があって、これまで、ときどき、橋梁の上にある駅を訪ねてきました。JR土讃線の土佐北川駅(「鉄橋上にある秘境駅JR土佐北川駅」2013年12月2日の日記)、JR福知山線の武田尾駅(「トンネルと鉄橋の駅JR武田尾駅」2014年4月30日の日記)、愛媛県松山市を走る私鉄・伊予鉄道の石手川公園駅(「伊予鉄道の鉄橋上の駅 石手川公園駅」2015年4月1日の日記)、阪神電鉄の武庫川駅(「鉄橋上の駅 阪神電鉄武庫川駅」2015年12月28日の日記)、石屋川駅(「石屋川の上にある駅」2016年1月30日の日記)、香櫨園駅(「夙川の上にお立ち台がある駅」2016年2月5日の日記)、芦屋駅(「芦屋川の上にある駅」2016年2月19日の日記)、そして大石駅(「まだありました!阪神電鉄の橋上の駅」2016年3月21日の日記)。これら8ヶ所の駅は、すでに訪ねました。今回、久しぶりに、橋梁上の駅であるJR嵯峨野線(山陰本線)保津峡駅を訪ねることにしたのです。

JR嵯峨野線の起点、京都駅です。この日訪ねることにしていたJR保津峡駅は、牛山隆信氏が主催する”秘境駅ランキングの165位(トータル13ポイント)にランクインしている”秘境駅”です。牛山氏は、秘境度4ポイント(P)、雰囲気2P、列車到達難易度1P、外部到達難易度4P、鉄道遺産指数2Pと評価しておられます。京都駅から14.3km、20分で到達できる、京都市と亀岡市の境界にある駅です。「トロッコ列車」の案内が見えました。

JR園部駅行きの嵯峨野線の列車に乗るため、JR京都駅32番ホームに向かいます。この日は日曜日、4両編成の車両でしたが、沿線にある嵯峨野・嵐山方面に向かう行楽客で混雑していました。列車は、定時に出発しました。嵯峨野線という愛称が使用され始めたのは、昭和63(1988)年に「路線愛称」が制定されてから。国鉄の分割民営化(1987年)でJR西日本になった翌年のことでした。

嵯峨嵐山駅を過ぎると、列車の正面にトンネルが二つ並んでいます。左側がかつての山陰本線の、右側が現在の嵯峨野線の大倉山トンネルです。列車は右側の大倉山トンネルを越えて進みました。かつての山陰本線は、ここから保津川沿いに進んでいました。現在では、トンネルを抜けて、まっすぐ亀岡方面に向かうルートになっています。

JR保津峡駅の2番ホームに到着しました。すでに、多くの乗客は途中駅で下車しており、車内は空席が目立つようになっていました。一つ前の駅、嵯峨嵐山駅から大倉山トンネルを越えた後、第1保津川橋梁を渡り、次に第1保津トンネルを抜けてここまで来ました。下車したのは、私のほかには、高齢の女性グループ4人だけでした。

列車は、すぐに、次の馬堀駅に向かって出発し、目の前のトンネルの中に消えて行きました。

JR保津峡駅は、嵐山に向かって流れる保津川(桂川)に架かる第2保津川橋梁の上にある駅です。写真はホームから見た保津川の上流方面です。急流の保津川の流れの岸(正面)に、かつての山陰本線の線路跡が見えました。この線路跡は、現在、嵯峨野観光鉄道嵯峨野線のトロッコ列車の路線になっています。右奥の方がトロッコ亀岡駅方面、左手前方面がトロッコ保津峡駅方面です。

2面2線のJR保津峡駅は橋梁上の駅であるとともに、二つのトンネルに挟まれた駅でもあります。こちらが、京都側の第1保津トンネルです。ホームの両側にある待合いのスペースも見えます。このあたりまでが、保津川の流れの上にあります。

こちらが、先ほど列車が消えていった第2保津トンネルです。JR保津峡駅は、第1・第2保津トンネルに挟まれた、保津川の上にある駅なのです。かつて、訪ねた橋梁上に設けられた駅の中では、”秘境駅”(秘境駅ランキング200位)であるJR武田尾駅と似た雰囲気を感じる駅でした。複線化工事に伴い、武庫川に沿った旧福知山線をトンネルと橋梁で直線のルートにつけ替え、駅はトンネルと武庫川にかかる第二武庫川橋梁の上に設けられた武田尾駅。旧線跡は一部ハイキングコースとして整備され、市民に利用されていることなど、保津峡駅と経緯や雰囲気がそっくりでした。

ホームの周囲は緑一色です。1番ホーム(嵯峨嵐山・京都方面行きホーム)の向こうに、防災工事が行われた跡と、道路のガードレールが見えています。古くからの道という感じがしました。

JR保津川駅の駅舎は1番ホームの外側にありました。ホームから駅舎へ向かう通路は、第2保津トンネルの入口付近にあります。階段を下り、左折してJR嵯峨野線の下をくぐります。さて、山陰本線保津峡駅は、昭和4(1929)年、松尾山信号場が設置されたことに始まります。昭和11(1936)年4月15日に格上げされ「保津峡駅」として開業しました。当時の駅舎は、現在の嵯峨野観光鉄道嵯峨野線のトロッコ保津峡駅付近にあったそうです。

JR嵯峨野線の線路の下をくぐります。平成元(1989)年に山陰本線の複線化工事が終わり、現在のJR嵯峨野線の新しいルートになったとき、保津峡駅も現在地に移転しました。現在の駅舎が完成したのは、平成2(1990)年のことでした。

地上部分に向かいます。階段の先に駅舎がありました。

駅舎に出ました。乗車券の回収装置のない自動改札機がありました。亀岡駅管理の無人駅だそうですが、委託駅のような高齢の駅員さんがおられました。”青春18きっぷ”を示して外へ出ました。

駅舎内です。保津峡駅の1日の平均乗車人員は345名(2014年)だそうです。コンパクトにまとまった、清潔な駅でした。改札口の向こうに1番ホームに上る階段が見えます。

保津峡駅の駅舎です。木の香りがするようなモダンな駅舎です。後ろのスペースはトイレになっています。

これは、駅前に掲示されていた案内図です。ピンク色の部分がJR保津峡駅。左右の破線は、JR嵯峨野線のトンネル部分。破線の左が第2保津トンネル、右が第1保津トンネル。黄色の部分は京都府道、京都・日吉美山線で、右上の方向が鳥居本・嵯峨野方面で、地図の上方に”ゆずの里”として知られる水尾(みずお)の集落があります。府道から保津峡駅に向かう白色の部分が、駅への取り付け道路(全長230m)で、保津峡駅が設置された時に新設された通りです。水色の部分は保津川で、地図の下部から右に向かって流れています。地図の上部から水尾川が流れてきて、保津川に合流しています。

駅前の広場から見た保津川の流れと保津峡駅です。流れの上に、山陰本線の線路跡(現・嵯峨野観光鉄道嵯峨野線)が見えています。春には、桜の花が美しい路線になっています。その先にある、嵯峨野観光鉄道嵯峨野線の「トロッコ保津峡駅」に行ってみたくなりました。

駅から、地図の白い部分を進みます。がっしりとした重量感のある橋梁が見えました。保津峡橋。幅が7m、長さが54mあるそうです。下には水尾川が流れています。水尾川はこの橋を抜けた後、保津川に合流します。

保津峡橋を渡りきり、振り返って撮影しました。保津峡橋は、日本ではめずらしいラーメン構造でつくられています。橋の袂にあった説明によれば、「ラーメン構造は、橋桁と橋脚が一体となった構造で、昭和11(1936)年、ベルギーのフィランディール教授によって提案された」構造であり、重量感のある構造美に特色があるのだそうです。確かにどっしりとした重厚な造りだと感じます。

保津峡橋を渡ったところが京都府道への合流点です。橋からまっすぐ進むと柚の里水尾への道。右折して進むと鳥居本・嵯峨野方面に向かいます。トロッコ保津峡駅への案内も道標の中にあり、「800m、徒歩15分」と書かれていました。手元の資料には「二つの駅は直線距離では500mであるが、道路を歩くと1,100m」とありました。

トロッコ保津峡駅方面に進むことにしました。光線の関係で、やむなく振り返って撮影しました。

JR保津峡駅に着いた京都行きの列車です。橋梁上の駅と列車、そして保津川。山深い里らしい美しい光景です。右手に深い谷を見ながら、サイクリングの人たちやウオーキングの人たちとすれ違いながら進んで行きます。

山道を5分ぐらい進むと、JR保津峡駅の1番ホームから見えた防災工事の跡付近に来ました。小さいトンネルがありました。入口には、「平安乾域」とありました。出口には「鵜飼隧道」。鵜飼トンネルでした。

トンネルの中にあった案内標識です。新旧二つの保津峡駅への道案内でした。

トンネルを抜けて5分ぐらいで、右手に白い橋が見えてきました。その先に、トロッコ保津峡駅が見えています。

府道から降りて、鵜飼橋を渡ってトロッコ保津峡駅へ向かいます。鵜飼隧道に鵜飼橋、昔、このあたりは鵜飼いが盛んだったのでしょうね。橋の入口にはかつての茶店が残っていました。

鵜飼橋の上から見た保津川の下流側です。周囲の木々を写した緑の水面が見えました。保津川の右岸には、旧山陰本線の跨線橋が見えました。

橋を渡りきって、右の待合室に向けて上ります。

待合室にあった時刻表です。嵯峨野観光鉄道嵯峨野線の嵯峨嵐山方面行きは、毎時46分発のようです。乗車する人は、トロッコ列車の中でチケットを購入するよう書かれていました。

ホームです。信楽(しがらき)の狸が並んでいます。中央の大きな3匹の狸の隣で寝転んでいる狸も含めて、全部で18体。クリスマス前でしたので、赤い帽子を被っていました。

駅標です。木製の重厚な印象でした。山陰本線の旧保津峡駅は、平成3(1991)年4月27日に「トロッコ保津峡駅」として再び開業しました。新しい保津峡駅が開業した翌年のことでした。

やってきました。嵯峨野観光鉄道嵯峨野線のトロッコ列車です。私は、以前乗車したことがあります(「大混雑のトロッコ列車、嵯峨野鉄道」2011年12月3日の日記)。この日は、見送るだけにしました。DE1104号機関車に牽引された、SK300-1・ SK100-1・ SK100-11・ SK100-2・ SK200-1の5両編成でした。「JR西日本から転籍した機関車と、無蓋貨車トキ25000を改造した客車」だと、牛山隆信氏は書かれていました。

機関車の側面にあった「嵯峨野」のプレートです。機関車の先頭部分にもプレートがついていました。

5両編成の列車でしたが、これは機関車の次に連結されていた客車の先頭車両(SK300-1 ザリッチ)です。撮影していたとき、窓の向こう側から女性の外国人旅行客が手を振ってくださいました

ホームには、もう一人訪問客がおられましたが、その方も撮影だけだったようです。列車は、すぐに出発していきました。跨線橋を越えたトロッコ列車は、その先にあるトンネルに入って行きました。一緒にいた方もいつの間にかおられなくなりました。私も、JR保津峡駅に戻ることにしました。

元来た道をゆっくり歩いて、JR保津峡駅に戻ってきました。今度は、駅のホームからトロッコ列車の姿を見ることにしました。折り返しのトロッコ亀岡駅行きの列車には間に合いませんでしたが、次のトロッコ嵯峨駅行きの列車は、見ることができました。ちょうど、撮影しやすいところで一時停車してもらえるのがありがたかったです。

保津峡といえば、”保津川下り”です。明治28(1885)年、観光船による川下りが始まったそうです。最近、若い人に人気があるのが ”ラフティング”。トロッコ列車を待っているときに川を下っていきました。観光船ではなく、ラフト(ゴムボート)で下るのがラフティングです。4人で操りながら下っていく若い人の姿が見えました。

橋梁上の”秘境駅”、JR保津峡駅は、JR武田尾駅と似ている駅でした。”秘境駅”という視点から見ても、牛山氏は「秘境度」と「雰囲気」、「外部到達難易度」を比較的高く評価しておられます。多くの”秘境駅”が「列車到達難易度」のポイントが高いことから考えると、上り下り合わせて1時間に8本の列車がやってくるJR保津峡駅は、異色とも言っていい”秘境駅”でした。この点でも、JR武田尾駅とも共通する”秘境駅”でした。

久しぶりの橋梁上の”秘境駅”の訪問でした。新駅が開業したため、不要になった旧駅が、トロッコ列車の駅として使用されていて、たくさんの観光客を集めているのも嬉しいことでした。

船町渡船から木津川渡船へ、大阪渡船に乗る

2016年12月11日 | 日記

千歳の渡船で大正内港を渡り、大正区北恩加島二丁目から大正区鶴町四丁目に渡った後(「甚兵衛渡しから千歳の渡しへ」2016年11月25日の日記)、船町の渡しに向かいました。千歳の渡しを降りて進み、道なりに左折して鶴町小学校を右手に見ながら南に向かって進みます。

セブンイレブンのある「鶴町二丁目」の交差点を左折。すぐに「船町渡船場」の標識が見えました。右折して進みます。江戸時代に「天下の台所」と呼ばれ、全国から物資が集まっていた大坂には、たくさんの船が航行していました。そんな「水の都」大坂には、船を運航し、庶民の通行のための民営の渡船が代々引き継がれていました。明治40(1907)からは淀川筋の29路線が大阪市営事業として運行されるようになり、昭和7(1932)年からは、ほとんどの渡船が大阪市営渡船となっています。

そのまま、南に向かって進むと、突き当たりに船町渡船場があるはずです。今も8路線が大阪市営渡船として、ほとんどの航路が、大阪市建設局西部方面管理事務所の管理の下に運行が続けられています。船町渡船場に着きました。

「船町」の名前は、「万葉集」の「あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人をとめらが 乗れる船見ゆ」(巻6-1063)から、生まれたそうです。階段を上って桟橋に向かいます。対岸の船町一丁目にある桟橋が目の前に見えました。手前の鶴町一丁目の桟橋には「しおかぜ」と「さざなみ」が停まっていました。停船している位置から考えると、この日は「しおかぜ」が就航しているようです。

対岸まで75m。8路線のうちで最も短い路線になっています。昭和20年代から30年代には、川幅が狭いため、対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて、人や自転車が通行していたそうです。明治30(1897)年から昭和3(1928)年まで行われた大阪湾修築工事が完成し、埋立地として、船町、鶴町、福町が造成されたのに合わせ、木津川と尻無川を結ぶために、昭和4(1929)年に開業したといわれています。昭和初期、鶴町には大阪市電鶴町車庫や外資系の自動車工場があり、船町には木津川飛行場(伊丹の前身)や造船所があったといわれています。

桟橋の岸壁に書かれていた船町渡船場の案内です。このデザインはすべての渡船場に書かれていました。

待合室の内部です。木目が美しい造りになっています。室内は掲示物であふれていました。小上がりがつくられていて、くつろぎの空間になっています。正面に時刻表が掲示されていました。日中は毎時00分、20分、40分の20分毎の運行になっています。

桟橋に向かって下ります。15時00分発に乗船しようと思っていましたが、待合室にいたのは、私一人だけでした。

やはり、「しおかぜ」が運行されるようです。手元の資料によれば、「船町渡船には『ふなづる』と『八坂丸』が就航している」と書かれていましたが・・。ちなみに「『しおかぜ』は千本松渡船に、『さざなみ』は落合下渡船に就航している」と、資料にはありました。

『しおかぜ』に乗船しました。客室から見た『さざなみ』の船体です。『しおかぜも』も『さざなみ』も、上流(東)側に向かって停船しています。平成27(2015)年度に、船町渡船を利用した人は1日平均で193人だそうです。

結局、乗船したのは、結局私一人でした。乗船を待っていた乗務員の方が出入口を閉じて出発です。両岸が狭いので、これまでの天保山渡船、甚兵衛渡船、千歳渡船はS字形の運行で対岸に接岸していましたが、この渡船は左側から乗船して左側から降りるO字形で運行されています。対岸では下流(西)側に向かって停船することになるようです。

乗客1人の「貸し切り」状態で、出発しました。木津川運河の上流方面の写真です。対岸にある工業地帯の煙突が見えました。現在では、川の水が浄化されて、「10月から4月にかけて飛来してきた渡り鳥が、魚をついばむ様子が見られるようになっている」と資料には書かれていました。確認はできませんでしたが・・。

下船してから、対岸にあった船町一丁目の桟橋を撮影しました。折り返して鶴町一丁目の桟橋に帰る『しおかぜ』には、3人の乗客が乗車されています。下流(西)側に向かって停船しています。

桟橋から岸壁を渡って、桟橋から別れて外へ出ました。振り返って対岸の渡船場を撮影しました。私は、ここから、次の木津川渡船場をめざして進みます。中山製鋼所の広い敷地の手前を左折して、工場の敷地に沿って東に向かって進みます。

中船町のバス停付近で、右側前方に新木津川大橋の巨大なループ橋が見えて来ました。木津川を往来する貨物船の運航に配慮して、海面までの高さの高い、このようなループ橋が架橋されたそうです。その手前を右折して、南に向かって進むと木津川渡船場に行けるはずです。

乗り場の案内がありました。新木津川大橋に沿って、さらに進みます。

午後3時半近くになって、太陽の影が長くなってきました。正面にあるスロープ状の橋が渡洗船場の入口のようです。

到着しました。木津川渡船場です。船町2丁目にあります。スロープを上って行きます。事務所と乗務員の控え室もありました。

岸壁を超えて渡船場に入りました。降りきると待合いのスペースになるようです。

待合いのスペースです。ベンチは置かれていましたが、ここでも、待っておられる人はいませんでした。

松丸が桟橋に停船していました。出発時間に少し時間があるため、乗務員の方の姿も見えません。かつて、木津川には、昭和30(1955)年から昭和49(1974)年まで、カーフェリー松丸(134トン)が就航していました。昭和48(1973)年に木津川上流に千本松大橋が開通したため、これ以後、人と自転車のみを輸送する渡船に替わったそうです。

松丸の前には第2松丸が停泊しています。木津川渡船はこの2隻が就航しています。いずれも、「カーフェリー松丸」の名前を継承しているようです。

待合いのスペースにあった時刻表です。日中は45分毎に運行されています。

待合いのスペースから見た木津川の上流部分です。停船している貨物船や航行している船舶など、船舶の往来もかなり頻繁に行われています。

桟橋から見た対岸の平林北一丁目方面です。対岸の桟橋は、松丸の向こうの新木津川大橋の下にありました。

対岸までは238m。船町渡船のところで書いたように、大阪市営渡船場は、ほとんどが大阪市建設局の管理下にありますが、その中で、木津川渡船が、唯一大阪市港湾局管理の渡船でした。掲示されていた説明によれば、「大正区戦災復興事業により、同区内にあった木材関連の施設が、住之江区(当時は住吉区でした)の千林地区へ移転することになり、そこへ通勤する人たちのために運行されるようになった」ということです。制服が他の渡船と異なっていると資料には書かれていました。

乗船が始まりました。待合いから桟橋に向かいます。その途中にあった浮き輪状の案内です。これまでの渡船場にあったかどうか定かではありませんが、「大阪市港湾局 木津川渡船」と書かれていました。唯一の港湾局管理ということで、つくられたのでしょうか?

乗船します。自転車の方二人とご一緒でした。直前に到着された方でした。

松丸の客室のスペースです。木津川渡船の1日平均の利用者は、平成27年度には195人だったそうです。

出発しました。そのまま上流に向かって進み、右にカーブして木津川を渡ります。対岸近くになって、再度、右にカーブして下流に向かい大きく左カーブして対岸に着岸しました。ここもS字状に進んで対岸に着きました。

平林北二丁目側の桟橋で下船しました。こちらはかなり広い待合いのスペースが確保されていました。

木津川運河を渡る船町渡船と、木津川を渡る木津川渡船に乗。りました。これで、大阪市営渡船の8ヶ所の渡船のうち、5ヶ所の渡船に乗船したことになります。次の機会に残る3ヶ所の渡船に挑戦しようと思っています。